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坊がつる讃歌

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坊がつる讃歌

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2005/06/26、平治岳の呼び方について等(後段に大幅追加)
2005/06/13、「みんなのうた」初登場年訂正
2005/06/11、初出

坊がつる讃歌

坊がつる讃歌とは

芹洋子が歌って大ヒットした「坊がつる<讃>歌」は、私の愛唱歌の一つである。

この歌は元々、「坊がツル」(美しい高層湿原)とそれを取り巻く九重連山を愛する山男によって、「坊がつる<賛>歌」として作られ(昭和27年)、地元で歌い継がれていた。その歌を、NHK「みんなのうた」で芹洋子が歌うことによって(昭和53年6月~7月)、全国的に広まったのである。

なお、NHK「みんなのうた」では、歌詞の一部を一般向きに手直したうえで、元は9番まであったものを4番までの歌として放送された。また、曲名は最初替え歌の <賛歌>だったのが<讃歌>とされた。それ以後、芹洋子の「坊がつる<讃>歌」として定着している。

法華院温泉山荘(坊がツル)でリリースされたCD「九重山歌」(2002年)には、昭和27年にできた「坊がつる<賛>歌」の元歌そのもの(1番~9番まで)が収録されているという。

芹洋子

芹洋子は東大阪市出身。1960年、CMソングを中心に活動開始。この年から3年間NHKテレビ「歌はともだち」でレギュラーをつとめる。1976年「四季の歌」、1978年には「坊がつる讃歌」が大ヒット、同年大晦日には、第29回紅白歌合戦に初出場して同曲を歌う。また、1981年の訪中以来、彼女の歌は中国でも愛好され同国各地でのコンサートも好評を得ている。

坊がつる賛歌の元歌は、広島高師山岳部の部歌「山男の歌」である

地元で歌い継がれていた「坊がつる<賛>歌」には元歌があった。広島高師山岳部の部歌「山男の歌」である。<広島高等師範学校 山岳部第一歌 山男>すなわち「広島高師 山男の歌」(昭和15年8月)をベースに作られたのだった。

元歌の作詞・作曲者は長いこと不明であったが、芹洋子の歌の大ヒットがきっかけとなり、昭和53年9月ころまでには、作詞者そして作曲者が相次いで判明した。

坊がつる讃歌
作詞:神尾明正、補作:松本征夫、作曲:竹山仙史、唄:芹洋子

坊がツルは、九重連山にかこまれた高層湿原である

坊がツルは、九重連山(大分県)に囲まれた標高約1220~30m台の盆地で、中央部には筑後川の源流、鳴子川が流れ、九州では珍しい高層湿原となっている。かつて天台宗の霊場(九重山法華院白水寺)として栄え、明治の神仏分離令後も本坊弘蔵坊があったところから、「坊がつる」と呼ばれるようになったという。ここで「つる」とは、水流のある平坦地をさす言葉である。

参考:高層湿原とは環境用語の一つ。泥炭が多量に蓄積されて周囲よりも高くなったために地下水では涵養されず、雨水のみで維持されている貧栄養な湿原を指す。なお、湿原とは、低温、過湿のために枯死したミズゴケが分解されず泥炭となり、水を含んで過湿となった場所をいう。(EICネット、環境用語参照)

九重連山の主な山々

九重連山の主な山々:東・大船山(たいせんざん)、東北東・黒岳(最高峰は高塚山)、北東・平治岳(ひいじだけ)、西・三俣山(みまたやま)、南西・久住山(くじゅうさん)など。

なお、二万五千分1地形図では、平治岳に"ひいじ"と振り仮名表記がされている。しかし、地元では"ひじ"が正しいとされているのだろうか。坊がつる賛歌9番に、「平治に厚き雲は来ぬ」という歌詞がある。そこで、いくつかインターネットで検索すると、"ひじ"もあれば"ひいじ"もある状態で頭が混乱・・・

2005年06月26日(日)追記:
大分市在住の山好きの方からメールあり。地元では平治(岳)のことを、意識的に「ひーじ」または「ひいじ」と呼ぶようにしているとのこと。(詳細は後段にて)

坊がつる賛歌誕生

九州大学の学生による替え歌(歌詞のみ)

1952年(昭和27年)8月、九州大学の学生3人が、坊がツルにある山小屋「あせび小屋」(しんつくし山岳会所有)の小屋番として滞在していた。ある時期、悪天候続きで宿泊客もとだえたため、退屈しのぎに替え歌を作って遊んだ。

替え歌のいくつかは、当時流行していたヤットン節を元にしたものだった。その他に「坊がつる賛歌」という歌も作った。これにも元歌があり、広島高師山岳部の部歌「山男の歌」をベースに使った。そして、いずれの歌にも、九重連山の山名をふんだんに織り込んで楽しんだ。

歌を作った学生3人の名前は、松本征夫、梅木秀徳、そして草野一人という。3人のうち「山男の歌」を知っていたのは梅木秀徳であり、広島高師の葱花(ぎぼう)勲から教わったという。ただし、両者の関係は不明である。また、3人のうち、松本征夫だけが、日本音楽著作権協会のデータベースで、"補作者"として登録されている。その理由は分からない。

さてこれらの歌は、「しんつくし山岳会会報」(12月発行)に発表され、翌年には「山と渓谷」誌上でも紹介された。そしてそれらは、「山行ヤットン節」として会員の間で歌われた。しかし、「坊がつる賛歌」はメロディが分からなかったので歌われることはなかった。

譜面発表からNHK「みんなのうた」まで

1954年(昭和29年)、野田広一郎(しんつくし山岳会会員)が「坊がつる賛歌」の本歌を捜し当て、譜面とともに発表した。ここに至って、またたく間に九州の山男や山女たちの間で歌われ始めた。しかし、この段階でも全国的に知られることはなかった。

1977年(昭和52年)夏、阿蘇山麓で野外コンサートが開かれ、歌手の芹洋子も参加していた。彼女のテントに遊びにきた若者が、ギター片手に「坊がつる賛歌」を歌い、芹にコンサートで歌うことをすすめる。

そしてその翌年、1978年(昭和53年6月~7月)にNHK「みんなのうた」で芹洋子が歌って大ヒットした結果、芹洋子の「坊がつる讃歌」として全国的に広まったのである。

本歌の作詞、作曲者判明する

芹洋子が最初にみた「坊がつる賛歌」の譜面には、作詞者として、3人の名前(松本征夫、梅木秀徳、草野一人)のみが記され、作曲者は不明となっていた。NHK「みんなのうた」の大ヒットがきっかけとなり、本歌の作詞、作曲者捜しが始まった。

広島大学に残されていた資料から、「山岳部第一歌・山男(昭和15年8月完成)」“作詞:神尾明生、作曲:竹山仙史、編曲:芦立寛”の名前までは分かった。しかし、それ以上のことは、原爆で古い資料が焼失しており不明だった。

1978年(昭和53年)、杉山浩(栃木県)という人が、昭和15年ごろ、広島高師の地質鉱物学研究室の助手補に「神尾(かんお)」という人物がいたことを偶然知る。そして、彼こそ作詞者の「神尾明生」であることが分かった。ただし、神尾は作曲者については知らなかった。

昭和53年7月9日付、読売新聞
週刊平凡1978.06.29号、p143-145
ルーツ探訪
NHK「みんなのうた」で大反響
坊がつる讃歌』に40年間の秘められた人間ドラマが!

なお、神尾のフルネームは、「神尾明正、かんお・あきまさ」である。明生が明正の誤植なのか、あるいはペンネームだったのか、資料ではそこまでは分からない。彼は、調査当時すでに千葉大学名誉教授であり、“園生貝塚(そんのうかいづか、千葉県)に関する文献”に数多く登場している(1952年~1996 年)。彼の学位論文のテーマそのものが園生貝塚だったようである。

作詞者が分かってから、さらに二か月後、今度は作曲者が判明した。編曲者:芦立寛の実姉の夫にあたる人物である。本名を武山信治(判明当時、宇都宮大学名誉教授)といい、資料にある作曲:竹山仙史とは、武山の書道の雅号を使用したものであった。

昭和15年の6月ころ、芦立寛から、“いい詩があるからメロディーを”という依頼の手紙を受け取り、一晩で作ったものだという。なお、竹山仙史というペンネームを使ったのは、この時一回限りだった。

以上、主として、二木紘三Webサイト>>MIDI歌声喫茶>>坊がつる讃歌、を参考にまとめた。二木紘三さんは、"川原弘さん、および坊がつるにある法華院温泉山荘の主人・弘蔵岳久さんからの情報に基づいて構成したものである"、ということを書いている。そして弘蔵岳久さん自身も、この件に関して情報を発信している。法華院温泉山荘>>法華院 EXPRESS vol.013、2002/11/発行「坊がつる讃歌」特集

平治(岳)は何て読むんだろう

2005年06月24日(金)一通のメールを受け取る。

大分市内在住の山好きの方からで、地元では平治(岳)のことを、意識的に「ひーじ」または「ひいじ」と呼ぶようにしているとのこと。参考文献を添付したくわしい解説付きのメールをいただいた。

この方とは、3年ほど前にも2~3回メールのやり取りをしたことがある。最初のキッカケは、私のHPに掲載していた私の知人(広島県出身)の記事を、全く偶然にWeb上でご覧になったことによる。

彼とは実は大学時代の親友だという。という訳で、彼の近況に関する若干の情報交換を行った。そして、大分で山に関するHPを作っているとのことで、その時、我がHPをリンクしていただいた。

その方から、この度またしてもメールをいただくことになった。今回も全く偶然に、「坊がつる讃歌」(団塊の世代一代記)Akimasa.Netを見て、平治(岳)の読み方がわからなくて困っている私に助け舟を出していただいたのだ。

作詞者の一人、梅木秀徳氏のことなど

聞けば、この方は、「坊がつる賛歌」の作詞者3名の内のお一人、梅木秀徳氏(現在71歳)と直接お話のできる立場にあるという。梅木氏はお元気でまだまだ現役だそうだ。「坊がつる賛歌」のこと、平治岳のことなど、新しい知見がでてくることがあるかもしれない。楽しみである。

しんつくし山岳会編刊「九重山」(1961年、昭和36年)冒頭
加藤数功”山名と地名のおこり”に以下のような文章があるという。

平治(ひーぢ)岳:この山はもともとカリマタ山と言うのが本名ですが、名前が悪いので、この山の東側に‘ヒーヂの野’という所があるのでそれを頂上にうつし、それに漢字を充てたものだと故弘蔵孟夫氏が説明しておられました。

加藤数功氏(故人)
九州山岳第二号、昭和13(1938)年発行、朋文堂
「九重山と久住山の問題」、「九州山岳の高度標について」
など、九重連峰の山名の由来等を精力的に研究

弘蔵孟夫氏(故人)
法華院24代、明治年間に山宿(法華院温泉山荘)を創業する。山荘はその後、弘蔵祐夫、岳久と受け継がれている。(宿として3代目、お寺としては26代目)

梅木秀徳氏(昭和8年10月生、現在71歳)
「坊がつる賛歌」の作詞者3名の内のお一人。
「大分の山-大分県主要山岳丘陵一覧-」(1987年、自費出版・非売品)
加藤数功氏を師と仰ぎ、大分の山に関して山名の由来や呼び方などを数十年にわたり調査する。上記書籍はその成果である。同書中で、平治岳:「ヒイジ岳、別名・古名:狩又山」としている。

コー・イ・モンディ峰(ヒンズークシュ山域)初登頂40年記念日(大分ヒマラヤ研究会)

2005年07月03日(日)は、大分ヒマラヤ研究会によるコー・イ・モンディ峰(ヒンズークシュ山域)初登頂40年目の記念の日であり、同日記念祝賀会が開かれることになっている。

この遠征隊は、大分県から初めてヒマラヤに送り出された遠征隊である。大分ヒマラヤ研究会(会長・加藤数功氏)の成果であり、この時の遠征隊員の一人が梅木秀徳氏であった。

なお、遠征先をヒンズークシュ山域としたのは、当時ネパールが渡航禁止になったため変更したものという。「コー・イ・モンディ峰登山報告書1965」大分ヒマラヤ遠征委員会(1966年刊)

大分ヒマラヤ研究会が母体となって、後に「大分登高会」という山岳会が発足する。メールの方は、以前「大分登高会」に所属して、登山の技術を磨いた時期があったようだ。現在は、”おゆぴにすと「山のいで湯愛好会」”に属して、主として大分の山を楽しんでいるという。

「今年の九重連峰のミヤマキリシマは格別見事な咲きっぷりでした。とりわけ、平治岳山頂一帯は形容しがたいほど見事なものでした」。いただいたメールの一文である。その最新山行記(2005年06月04日)には、‘ヒーヂの野’に関する考察もある。

広島(広島高師)と大分(坊がつる)を結ぶ不思議なご縁

全くの偶然から、同じ方から別々の案件で、数年を隔ててメールをいただいた。広島高師(広島)と坊がつる(大分)を結ぶ何か強いつながりがあるのだろうか。不思議なご縁である。

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