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愛知大学山岳部薬師岳遭難事件

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愛知大学山岳部薬師岳遭難事件

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2003.03.15(土)初出

愛知大学山岳部薬師岳遭難事件とは

愛知大学山岳部13人のパーティは、1963年(昭和38)1月正月登山として薬師岳(富山県)頂上を目指した。しかし、後に ”サンパチ豪雪” と名付けられた豪雪吹雪の中で山頂を目前にして登頂断念、下山途中ルートを誤り13人全員が遭難死した。この時、パーティの中に地図とコンパス(磁石)を携行している者は誰一人いなかったという。

学生時代の私は山歩きをしていた

学生時代の私は山歩きをしていた。剣山(徳島県)をホームグラウンドにしており、剣山だけで十数回登った経験がある。夏には北アルプスに3年連続で通い、最後の年(3年生の時)には、立山・剱岳から薬師岳へ縦走した。1968年(昭和43)のことである。その薬師岳では、5年前の冬に愛知大学山岳部パーティー13人全員が遭難死するという事件が起きていた。

1963年(昭和38)の冬は、”サンパチ豪雪”と名付けられた程のすさまじい降雪が北陸から山陰を襲った。新潟平野部出身の妻も、当時2階から出入りした記憶があるという。そうした中で薬師岳遭難事件が起こった。

愛知大学パーティ登頂断念す

愛知大学パーティは、1963年(昭和38)1月2日、頂上まであとわずか300m(時間にして20分くらい)を残して薬師岳登頂を断念した。そして下山途中で、正しいルートから90度ずれている東南尾根に入りこんでしまった。

遭難の原因は豪雪吹雪にあったのではない。進むべき方角を取り違え、それに気づかず下り続けたことにある。彼らは地図とコンパス(磁石)を携行していなかった。決定的遭難原因を自ら作り出してしまったことになる。

愛知大パーティーの登山計画によれば、12月25日に名古屋を出発、折立、太郎小屋付近、薬師平とキャンプを進め、元日に登頂して13日帰校の予定だった。しかし彼らは下山してこない。1月14日になり、愛知大学当局から富山県警に捜索願いが出された。

翌15日から吹雪をついて捜索活動が開始され、報道合戦も過熱化した。もし、愛知大パーティが太郎小屋に避難してさえいれば、とりあえず生命に別状はないだろう。もしも小屋にいないとなれば・・・・・。こうして太郎小屋が最大の焦点となった。

本多勝一記者と藤木高嶺写真部員(ともに朝日新聞社)の活躍

藤木高嶺写真部員(朝日新聞社)は、18日午後、小型ヘリで捜索隊を飛び越え、有峰ダムの北陸電力折立発電所に着いた。そして翌日から雪のなかをスキーで太郎小屋を目差して進んだ(ガイドの志鷹敬三さん同行)。

一方、同じく朝日新聞の「本多勝一」記者は、天候の晴れ間をついて大型ヘリコプターを太郎小屋まで直接飛ばすタイミングを狙っていた。

藤木は、途中で「愛知大生、食糧残したまま」「折立の飯場に、藤木写真部員確認」という特ダネをものにしながら、22日昼前に三角点到着、雪洞を掘る。あと1日で太郎小屋という位置である。

雪洞を掘り終わったちょうどその時、ハンディに入ってきた音声は、「太郎小屋に人影なし・・・・、太郎小屋に人影なし・・・・」。本多(鳥光資久カメラマン同行)が大型ジェットヘリ(シコルスキーS62)で小屋に強行着陸して捜索、その結果を受けて上空で旋回する朝日新聞本社機「朝風」から大阪本社へ第一報を伝える声であった。

号外?「来た、見た、いなかった-太郎小屋に人影なし」

藤木高嶺、雪洞の中でがんばる

さて、記事送信の段になって太郎小屋と富山支局との連絡が取れない。近くの山がじゃまをして電波障害を起こしているようである。それに気づいた藤木は、雪洞の中で中継役を努める決意をする。

こうして出来あがった当日(22日)夕刊の大見出し
「愛知大生、全員が絶望」「太郎小屋に姿なし、本社記者、ヘリで強行着陸」

その後6日間、藤木は自らも「テント、雪に埋没、第1キャンプを発見」などの特ダネをものにしながら雪洞の中でがんばり、太郎小屋と富山支局の交信を中継するアンテナ役をはたした。なお、いくら外が寒くても雪洞の中は零度以下になることはなく、ローソク1本で1度は暖まるという。

25日、先行捜索隊9人が太郎小屋に到着、翌26日には、県警と大学の合同捜索本部は「27日で捜索を打ち切る」と決めた。捜索隊が現場に到着するまで10日程かかっていた。隊員の疲労は激しく食料も残り少ない。先行した”朝日”の捜索で全員絶望はほぼ確実である。こうした状況での早い決断であったと思われる。

遺体発見はその二か月後のことである。まだ雪深い3月の捜索はこれまた異例のことであろう。

後に、本多・藤木のコンビでカナダ・イニュイ取材を行う

さて、「本多勝一」と藤木高嶺(当時31歳と36歳)はこの時が初対面であった。そして、この年のカナダ・イニュイ取材(カナダ・エスキモー、51回連載)を始めとする極限の民族3部作、さらにそれに続くベトナム取材でコンビを組むことになる。

キーワード:
本多勝一&薬師岳
藤木高嶺&薬師岳

参考資料

  • 本多勝一著「新版・山を考える」朝日文庫(1998年)新版第3刷
  • 藤木高嶺著「極限の山 幻の民」立風書房(1977年)
  • 藤木高嶺著「チャレンジ精神を育てよう」くもん出版(1987年)
  • 愛知大学山岳部薬師岳遭難誌編集委員会編「薬師」1968年9月(非売品)
  • 太郎小屋:
    戦前に「太郎兵衛平小屋」として建てられる
    1955年に「太郎小屋」として再建(初代は損壊・消失)
    1965年に「太郎平小屋」の看板を掲げる(筆は田部重治氏)
    このため現在は、通称「太郎平小屋」で通っている

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