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日本海海戦

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日本海海戦

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2004/05/01(土)、大幅追加
2000/05/07(日)、初出

日本海海戦とは

日本海海戦とは、日露戦争中の日本・連合艦隊とロシア・バルチック艦隊との両艦隊決戦をいう。連合艦隊はこの近代最初の大海戦に完勝した。そしてその勝利は世界中を驚かすとともに、日露戦争の帰趨を決するものとなったのである。

海戦は"対馬海峡"の沖ノ島北方で始まった。連合艦隊司令長官・東郷平八郎海軍大将は、敵艦隊が対馬海峡を通過するという正確な情報を入手することができた。そして、その情報に的確に対応することができた。連合艦隊が日本海海戦に勝利することができた最大の要因はここにある。

バルチック艦隊はどこを通ってウラジオストックをめざすか

1905年(明治38年)5月下旬
いよいよバルチック艦隊がすぐそこまでやってきた!!!
朝鮮半島にあって連合艦隊司令部は決断を迫られていた

はたしてバルチック艦隊はどこを通ってウラジオストックをめざすか?
最短距離の対馬海峡か、あるいは太平洋を迂回して津軽海峡から日本海に入るか、はたまた宗谷海峡まで大回りするか?

バルチック艦隊のロシア本国出撃時点から、日本側は可能な限りの監視体制をとっていた。ところが最後の最後で、フィリピンのバシー海峡通過後の艦隊の行方を見失ってしまった。やはり北方へ向かったのであろうか。

実はこの時すでに、連合艦隊では北進の「密封命令」が交付(5月24日)され、開封(実行)される寸前になっていた。東郷自身は、「敵艦隊は津軽海峡を通過する」と読んでいたのである。

もしその命令が実行されていたならば、がら空きの対馬海峡を"敵"艦隊は悠然と通過してウラジオストックへ入港できたであろう。そうなれば、日露戦争の結果すら変わっていた可能性がある。

しかし、5月25日に三笠艦上で開かれた軍議において、少数派による必死の進言があり、今しばらく朝鮮半島に留まることとなる。「27日午後までお待ち願えれば万全」、少数派の第二艦隊司令官・嶋村速雄少将は答えている。

"対馬海峡"を通過すること間違いなし

5月26日、「バルチック艦隊は最短距離の"対馬海峡"を通過すること間違いなし」とする情報が届く。続いて翌27日、"敵艦見ゆ"との警報に接し、連合艦隊は直ちに出動した。決戦場は"沖の島附近"となるだろう。

いよいよその時である。北北東に向かう敵艦隊に対して、連合艦隊は、その前方から南南東に向かって近づいていた。敵の旗艦スワロフとの距離8000米になった時、 連合艦隊は、旗艦三笠を先頭にして<左>へUターン(取舵一杯)、敵艦隊の北側に回りこんだ。

敵前大回頭、世にいう東郷ターンである。これは、敵と併航しながら戦おう(併航戦・へいこうせん)とするための作戦であり、決して敵の頭を押さえ込む形の「丁字戦法」ではない。

いずれにせよ、回頭開始直後はバルチック艦隊にとっては砲撃の絶好のチャンスであった。しかし、弾は当たらなかった。やがて連合艦隊の猛攻が始まり、勝負は最初の30分間でほぼ決着した。

兵の熟練度が違っていたのが最大の原因とされている。その後の夜戦も含めた翌日にかけての第10合戦までで、バルチック艦隊は壊滅した。

注:資料によっては戦闘経過等の時刻に多少の食い違いがみられる。

2004/05/01(土)追加

「丁字戦法」は使われなかった!

示唆に富んだ興味深い本が出版された。

日本海海戦 かく勝てり」半藤一利・戸高一成著、PHP研究所(2004年)
東郷平八郎の肉声、「連合艦隊解散の辞」朗読CD付き

本書は次のように述べている。すなわち、

日本海海戦では「丁字戦法」は使われなかった。それは当日荒天のため幻に終わった"連繋機雷"投下という機密作戦をひた隠すために創作されたものである。今年は日露開戦ちょうど100年目、驚愕の事実をここで明らかにする。

立場を超えて読むべき基本図書といえる。

丁字戦法とは

丁字戦法とは、一直線に突き進んでくる敵艦隊の頭を抑えるように、その前方を横縦隊となって横切る形をとることをいう。この戦法の利点として、敵の艦隊は前方の砲しか戦闘に参加できないのに対して、味方の艦隊は前後にあるすべての砲が発射可能になる、とされていた。

連合艦隊が「丁字戦法」を初めて実戦で使用したのは、黄海海戦(明治37年8月10日、旅順沖)の時である。ロシア太平洋艦隊に対して、練りに練った見事な「丁字戦法」をとり、そして見事に逃げられてしまった。

「丁字戦法」は、戦闘意欲旺盛な敵が決戦を挑んでこないかぎり成立しない戦法だったのだ。この時の敵艦隊は戦意がまるでなく、一列になって進む連合艦隊の最後尾を、いとも簡単にすり抜けて逃げ出してしまった。

逃げる気になれば簡単に逃げることが出来る。「丁字戦法」の弱点が見事に露呈した。これでは今後の作戦には使えない。直ちに「丁字戦法」の練り直しが始まった。最終的に決定した「対バルチック艦隊戦策」(明治38年5月17日作成、19日配布)では、「丁字戦法」の影はほとんど残っていなかった。

東郷ターン(敵前大回頭)の意味

明治38年(1904年)5月27日14時05分、いよいよ決戦の時来る。

北北東に向かう敵艦隊に対して、連合艦隊は、その前方から南南東に向かって近づいた。敵の旗艦スワロフとの距離8000米になった時、旗艦三笠の艦上で、加藤友三郎連合艦隊参謀長は大声で命じた。「艦長、<取舵>一杯ッ」。東郷平八郎連合艦隊司令長官は無言で会心の笑みを浮かべつつ頷く。すべて作戦どおりである。

敵前で<左>へUターンして、敵と併航しながら戦おう(併航戦・へいこうせん)というのである。決して敵の頭を押さえ込む形の「丁字戦法」ではない。なおこの時、連合艦隊は 北北東に向かう敵艦隊の北側についたので、使用するのは右舷砲ということになる。

天気晴朗なれども波高し

実はこの時、「丁字戦法」に取って代わるべき重要な極秘作戦が用意されていた。決戦前に水雷艇隊を出撃させ、敵艦隊前方に連繋機雷を敷設しようという奇襲作戦である。しかし当日は低気圧通過後でまだ波が高かった。300トンクラスの水雷艇には耐えられないかもしれない。

当日朝、連合艦隊司令部から軍令部に向けて次の電報が発信された。

敵艦見ゆとの警報に接し聯合艦隊は直ちに出動、之を撃滅せんとす(暗号)
本日天気晴朗<なれども>波高し(平文)
平文は、主席参謀・秋山真之中佐が付け加えたものである。

その心は、荒天で連繋機雷作戦は多分できませんよ、と軍令部に暗に知らせるためであったのだろうか。秋山参謀は苦悩していた。平文とはいえ深い意味が込められていたのかもしれない。

午前10時頃、東郷長官はそれまで艦隊についてきていた水雷艇を退避させた。こうして連繋機雷作戦は幻に終わり、太平洋戦争惨敗に至るまで軍機として取り扱われることになる。

なお、暗号部分を一字一句正確に翻訳すれば、次のようになるという。
敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃沈滅せんとす。

東郷元帥詳伝(伝記)

大正10年、小笠原長生によって東郷元帥の伝記が刊行された。小笠原は日露戦争中は軍令部参謀であり、後に軍令部の戦史編纂に関係した。東郷元帥の私設副官ともいうべき人物である。

この伝記のなかで東郷元帥は神になった。東郷ターン(敵前大回頭)は神話となり、真の秘密である連繋機雷作戦は完全に抹殺された。日本海海戦はこの本によって創り上げられた壮大なドラマだといえるだろう。

公刊戦史全4巻(海軍軍令部)には、「丁字戦法」を黄海海戦で実施したと書いてあるが、日本海海戦においては一言も言及していない。また、同海戦の合戦図を見れば、「丁字戦法」が使われなかったことは明白である。

勝って兜の緒を締めよ

日本海海戦において、日本人将兵はそれぞれの持ち場に応じた存分の働きをした。そして思いもかけないようなパーフェクトな勝利を得た。こうしてバルチック艦隊を壊滅せしめた日本海軍は得意の絶頂期を迎えることになる。

日露戦争自体は、アメリカの仲裁によって、日本が勝ったという形式で講和が成立した。いってみれば"やっとこさ得た勝利"である。これを完勝に見せかけた罪と罰は大きい。失敗はすべてなかったことにされた。戦訓を生かす組織を作り上げることができず、結局太平洋戦争によって日本海軍は壊滅した。

東郷平八郎は、12月21日連合艦隊の解散にあたって、「連合艦隊解散の辞」を読み上げた。そこで彼は”天佑神助”を強調し、そして最後に述べている。"古人曰く勝て兜の緒を締めよと"。分かっていたのである。

極秘明治三七・八年海戦史、海軍軍令部編纂、防衛研究所図書館蔵
事実に基づく海戦史(全150巻)であり一切の脚色を否定した内容となっている。戦前は極秘の取り扱いを受け、戦後奇跡的に一組残っているのが発見された。しかし、戦後においてもその内容は十分に検討されているとは言い難い。

2004/04/30(金)まで掲載していた文章は以下の通りである。

丁字戦法(東郷ターン)について、一般的に理解されていると思われる内容をまとめたものである。ひとつの基本的な立場を示していると考えるので掲載を継続する。なお、数値や細かい事実関係については、必要に応じて随時修正を加えていくつもりである。

連合艦隊司令長官東郷平八郎海軍大将は、日露開戦時、海軍大臣・山本権兵衛(薩摩藩出身)の推挙により就任した。少年のときに薩英戦争に参加して以来、幕末の動乱期を薩摩藩の軍艦「春日」に乗り込んで各地を転戦し、また日清戦争にも参加するなど、数多くの海戦を実体験している。

バルチック艦隊とは、バルト海にあったロシアの主力艦隊のことをいう。日露戦争の主戦場は中国大陸(満州)である。ロシア皇帝ニコライ二世は、日本軍の補給路を断つべく、戦場からはるか離れたバルチック艦隊に、日本海のウラジオストック入港をめざして地球をほぼ半周する程の大遠征を命じた。

バルチック艦隊の戦闘能力は合計約15万トン、対する連合艦隊は約21万7000トンに達していた。バルチック艦隊の長征でよごれた艦体、疲れて訓練不足の乗員に対して、整備された艦体に休養十分でよく訓練され士気高い連合艦隊乗員と、客観的にみて連合艦隊優位の状況にあったと考えてよいであろう。あとは決戦の時をいかにとらえるかにかかっている。

この海戦に関して重要なポイントが二つある。

1) バルチック艦隊の通過コースを的確に予測し迎撃

バルチック艦隊はどこを通ってウラジオストック入港を目指すか? 連合艦隊司令部は朝鮮半島にあって重大な決断を迫られていた。ひとり東郷だけが泰然と動かず「対馬を通る」と確信していた、といわれているが、はたしてどうか。

実は、東郷は連合艦隊を朝鮮半島から津軽海峡へ向けて北進させる命令をすでに用意していた。敵艦隊は津軽海峡を通過する、と読んでいたことになる。もしその命令が実行されていたならば、がら空きの対馬海峡を”敵”艦隊は悠然と通過してウラジオストックへ入港できたであろう。そうなれば、日露戦争の結果すら変わっていた可能性がある。

<なにも情報がない以上もうしばらく留まるべき>(次の情報を得てから決断しても遅くはない)との部下(少数派)の進言を入れて作戦を留保、その場に踏みとどまった東郷の指揮官としての総合力の勝利である。たった一日の辛抱が勝敗を決した。

2) 「誰もが予測しなかった」緒戦における敵前大回頭

世界の海戦史上”奇跡”といわれる丁字戦法は、海戦に臨んでから東郷が決行を決断した、とされる。そして、その創案者は、主席参謀・秋山真之(さねゆき)中佐とするのが通説だが、はたしてどうか。

丁字戦法は日露戦争前に東郷によってすでに採用されていた。そして開戦と同時に実戦で何度か試みていずれも失敗、その経験を踏まえて再検討を行い本番に臨んだ。すなわち、東郷の頭の中には最初から丁字戦法しかなかったのである。なお、丁字戦法の実際の生みの親は、のちの第一艦隊兼連合艦隊司令長官・山屋他人である可能性が高い。

自ら事前準備、再検討を加える研究熱心さ、そして今この時の決断、ここでも東郷の指揮官としての資質の高さ、経験の豊富さがうかがえる。

丁字戦法とは、
縦一列に並んで進んでくる敵艦隊に対して、ちょうど「丁(てい)」の字と同じような形となって敵の先頭艦を圧迫し、火力集中が可能なキール線の正横方向の舷側砲を加えて、全力で十字砲火を浴びせる戦術である。

この丁字戦法(海外文献ではT字)は、海外でも「トウゴウターン」と呼ばれて有名になり、世界の海戦史上における”奇跡”として名を残している。こうして東郷平八郎は日本海軍の”神”になった。

日本海海戦における連合艦隊の完勝は、大砲の威力が海戦の勝敗を決する最大の要素であることを教えた。世界はいわゆる大艦巨砲主義の時代に入っていき、東郷は日本における推進派(艦隊派)のシンボルとなった。そして、戦艦「大和」起工の3年半前の1934年(昭和9年)に亡くなった。戦艦「大和」は太平洋戦争が始まってから完成したが、戦争中ほとんど働き場所を得ないまま沖縄の海に没した。

日本海軍の中では、時代は日本海海戦当時のまま時計が止まっていたのかもしれない。東郷平八郎にも時代の変化に合わせたグランドデザインは描くことができなかったのである。

1904年(明治37年)

2月10日、日本、ロシアに宣戦布告(日露戦争)
10月15日、バルチック艦隊、軍港リバウから出撃

1905年(明治38年)

5月24日、北進の「密封命令」交付

この時点で連合艦隊司令部は、バルチック艦隊は津軽海峡を通るとして、命令あり次第全艦がいつでも北進できるよう「密封命令」を交付していた。この命令は、遅くとも翌25日午後には開封、即命令実行の手筈になっていたと考えられる。

5月25日午前、三笠艦上で軍議(約1時間)

第二艦隊参謀長・藤井較一(こういち)大佐、第二戦隊司令官・島村速雄(はやお)少将の必死の進言により、翌26日正午までその場に留まることとなる 。
(出席者は、各艦隊司令官および各参謀長である。秋山真之作戦参謀ですら出席は許されなかった。)

5月26日0時05分、上海から大本営あて情報が入る

前日夕刻、バルチック艦隊の石炭輸送船等が上海港外の港に入港した。 石炭輸送船を分離したということは、今後の補給はしない、すなわち距離のある北方航路はとらないということだ。「対馬海峡」通過の可能性大ということを示す情報である。この情報は26日夜明け東郷に届き、北進中止、その場にて待機と なる。

5月27日04時50分、仮装巡洋艦「信濃丸」、確認電報

敵、第二艦隊見ゆ

5月27日06時21分、日本の連合艦隊司令部より電報発信

敵艦見ゆとの警報に接し聯合艦隊は直ちに出動、之を撃滅せんとす(暗号)
本日天気晴朗なれども波高し(平文)
平文は、主席参謀・秋山真之中佐が付け加えたものである。

13時55分、旗艦「三笠」のマストに<Z信号旗>翻る

皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ。
沖ノ島北方、敵距離1万2000m

14時05分、三笠、左へ敵前大回頭(丁字戦法)
距離8000m(14時20分、大回頭終了)

14時08分、ロシア側旗艦が第一弾を「三笠」に向けて発砲
距離7000m

14時10分、「三笠」攻撃開始
距離6000m

勝敗は戦闘開始から30~40分で決した。その後さらに、夜戦も含めて翌日にかけて第10合戦まで行い、バルチック艦隊に壊滅的な打撃を与えた。

東郷平八郎海軍大将・連合艦隊司令長官(年齢制限のため兵学校入学せず)
山本権兵衛海軍大臣(海兵2期)
島村速雄(はやお)少将・第二戦隊司令官(海兵7期)のち元帥
藤井較一(こういち)大佐・第二艦隊参謀長(海兵7期)のち大将
秋山真之(さねゆき)中佐・主席参謀(海兵17期)のち中将

山屋他人(海兵12期)のち大将
山本五十六(海兵32期)のち元帥

参考:野村實(みのる)著「日本海海戦の真実」講談社現代新書1999年

2002/12/14
13日に盗用抗議、翌14日該当ページの削除対応をしていただきました
なお、その後で管理人様より二度目のメールをいただきました
「しばらくの間、私のWEBページ全てを閉鎖し反省いたします」

2002/06/14
参考文献出版元名記載ミス訂正
(福岡在住の方よりご指摘)

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