江戸時代

江戸のお殿様(池田家)

投稿日:2018年5月26日 更新日:

池田輝政(恒興二男、播磨姫路藩)

  • 関ヶ原の役(1600年)の戦功により、池田輝政(てるまさ、池田勝入斎信輝(恒興)の二男)が、播磨一国52万石で姫路城に入る。また、恒興三男の長吉(ながよし、輝政の弟)が、因幡国岩井・邑美・八上郡6万石で鳥取藩を立藩する。
  • 輝政は、徳川家康の二女督姫(とくひめ)を迎え入れ(1594年)、忠継(ただつぐ)、忠雄(ただお)、輝澄(てるずみ)、政綱(まさつな)、そして輝興(てるおき)が生まれている。いずれも輝政嫡男の利隆(としたか)にとっては異母弟ということになる。

輝政長男利隆(播磨姫路藩)

播磨姫路⇒因幡鳥取⇒備前岡山

利隆長男光政(輝政の孫)
光政の弟(利隆二男)、恒元(備前児島藩)、備前児島⇒播磨山崎(3代で断絶)
光政二男(岡山新田藩・鴨方、かもがた)
光政三男(岡山新田藩・生坂、おうさか)

  • 輝政急死(1613年)に伴い、姫路藩は嫡男利隆(池田宗家)が継ぐ。
  • 利隆死去(1616年)に伴い、姫路藩は嫡男光政(みつまさ)が継ぐ。しかしながら、幼少(8歳)を理由に、翌1617年に播磨姫路藩から因幡鳥取藩へ転封となる。(因幡鳥取藩主は備中松山藩主へ)
  • 備前岡山藩の池田光仲(みつなか、光政の従兄、共に輝政の孫)は、1632年、わずか3歳で家督を継ぐことになった。この時、再び藩主の幼少を理由に国替えが行われた。
    幼い光仲が因幡鳥取藩主となり、入れ替わりに池田宗家の光政が備前岡山藩主となったのである。
    こうして、池田宗家(光政系)が岡山藩、家康の血を引く池田家(光仲系)が鳥取藩に落ち着くこととなり、その支配は幕末まで続いた。なお鳥取池田藩の石高は宗家の岡山池田藩よりも高く破格の扱いを受けている。
  • 岡山池田藩3代藩主の光政は、1948年に弟の恒元(つねもと、輝政の孫)を藩祖とする児島藩を支藩として立藩している。しかし、わずか1年で廃藩(領地は岡山藩に還付)となる。理由は、藩祖・恒元が播磨山崎藩へ転封となったためである。そしてその後、恒元から数えて3代目が夭折したため断絶している。

輝政二男忠継(備前岡山藩)

  • 家康の外孫にあたる忠継は、小早川秀秋(無嗣断絶)の後を受けて岡山藩にわずか5歳で封じられた(1603年)。
  • 輝政急死(1613年)に伴い、利隆(輝政嫡男)の異母弟(輝政二男)である忠継(岡山池田藩主)に、播磨国西部の佐用・宍粟・赤穂三郡内のうち13万石が分与された。
  • 忠継(輝政二男)急逝後、次弟忠雄(輝政三男)が洲本藩から移り岡山藩を継ぐ。
    またこの時、利隆から忠継に分与されていた播磨領が、忠継や忠雄の弟三人に分け与えられて立藩した。播磨山崎宍栗藩(輝政四男・輝澄)、播磨赤穂藩(輝政五男・政綱)そして播磨作用藩(輝政六男・輝興)である。

輝政三男忠雄(淡路洲本藩)

淡路洲本⇒備前岡山⇒因幡鳥取

忠雄長男光仲(輝政の孫)
光仲二男(鳥取東館新田藩・鹿奴、しかの)
光仲三男(鳥取西館新田藩・若桜、わかさ)

  • 輝政急死(1613年)に伴い、利隆(輝政嫡男)の異母弟である忠雄(輝政三男)は、姫路藩の属領となっていた洲本藩を再度立藩する。
  • 次兄忠継(輝政二男)が早世(1615年)したため、忠雄(輝政三男)が洲本藩から移り岡山藩を継ぐ。
    これに伴い洲本藩は廃藩、一時収公された。そして同年、阿波徳島藩主に与えられ、その後、徳島藩家老稲田氏が淡路城代兼仕置職として居住した。
  • 備前岡山藩の池田光仲(みつなか、忠雄の嫡男)は、1632年、わずか3歳で家督を継ぐことになった。この時、幼少を理由に国替えが行われた。幼い光仲が因幡鳥取藩主となり、入れ替わりに池田宗家の光政(光仲の従兄、共に輝政の孫)が備前岡山藩主となった。

輝政四男輝澄(播磨山崎宍栗藩)

輝政四男の輝澄は、忠継(岡山藩主)や忠雄(洲本藩主)と同じく徳川家康の外孫(母は二女督姫)である。つまり、輝政嫡男の利隆(池田宗家)の異母弟にあたる。

忠継(輝政二男)急逝後、利隆(輝政嫡男)から忠継に分与されていた播磨領の一部を与えられて、五男政綱(播磨赤穂藩)や六男輝興(播磨佐用藩)と共に立藩。

池田輝澄(山崎藩主)は、同時に立藩した輝興(佐用藩主)の赤穂藩転封に伴い廃藩となった佐用藩を吸収した。そして、池田騒動(新旧家臣団の対立)に巻き込まれて改易(1640年)された。

その間に、岡山池田家は次兄忠雄が継いだ後、その子光仲のとき因幡鳥取藩に転封となっている。輝澄は改易後、甥である鳥取藩主・池田光仲預かりとなり、鳥取藩内の鹿野において堪忍料1万石を与えられた。

輝澄の後は子の政直が継ぎ、輝澄の死後に播磨福本藩(1万石)を立藩する(鳥取藩の支藩的立場)。しかし、政直は嗣子なく没したため、弟二人に所領を分割、それぞれ交代寄合及び旗本(ともに1万石以下)となる。そして、幕末に再び福本藩立藩(1万石余)。

なお、輝澄改易後の山崎藩は、松平(松井)氏が領有した後に一時天領となる。その後すぐ、池田恒元(光政の弟)が備前児島藩(岡山池田藩の支藩)から入る。しかし、恒元から数えて3代目で嗣子なく除封、以降本多氏が領有。

輝政五男政綱(播磨赤穂藩)

輝政五男の政綱は、忠継(岡山藩主)や忠雄(洲本藩主)と同じく徳川家康の外孫(母は二女督姫)である。つまり、輝政嫡男の利隆(池田宗家)の異母弟にあたる。

忠継(輝政二男)急逝後、利隆(輝政嫡男)から忠継に分与されていた播磨領の一部を与えられて、四男輝澄(播磨山崎宍栗藩)や六男輝興(播磨佐用藩)と共に立藩。

池田政綱(赤穂藩主)には嗣子なく一時除封となる。その後、同時に立藩した輝興(佐用藩主)が遺領を継承して赤穂藩主となる。ところが、輝興突然の乱心にて所領没収、宗家(甥の岡山藩主・池田光政)お預けとなる。

赤穂には、その後浅野氏が代わって入り、後の「忠臣蔵」へとつながることとなる。

輝政六男輝興(播磨佐用藩)

輝政六男の輝興は、輝政二男の忠継(岡山藩主)や三男の忠雄(洲本藩主)と同じく徳川家康の外孫(母は二女督姫)である。つまり、輝政嫡男の利隆(池田宗家)の異母弟にあたる。

忠継(輝政二男)急逝後、利隆(輝政嫡男)から忠継に分与されていた播磨領の一部を与えられて、四男輝澄(播磨山崎宍栗藩)や五男政綱(播磨赤穂藩)と共に立藩。

同時に立藩した池田政綱(赤穂藩主)には嗣子なく一時除封となる。その後、輝興(佐用藩主)が遺領を継承して赤穂藩主となる。ここで佐用藩は廃藩となり、輝政四男の輝澄(山崎藩主)が作用藩を吸収した。⇒ 赤穂藩主、山崎藩主の項へ

池田長吉(恒興三男、因幡鳥取藩)

因幡鳥取⇒備中松山

  • 関ヶ原の役(1600年)の戦功により、池田長吉(ながよし、池田勝入斎信輝(恒興)の三男)が、因幡国岩井・邑美・八上郡6万石で鳥取藩を立藩する。(池田輝政の弟)
  • 池田宗家の播磨姫路藩から因幡鳥取藩への転封(1617年)に伴い、因幡鳥取藩の池田長幸(長吉の長男、2代藩主)が備中松山藩を立藩して移るが、長吉から数えて3代で廃絶。備中松山藩そのものは他家の支配にて幕末まで存続。

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