以下、用字用語には再考の余地が有ります。
2004/04/11、最終稿完成
2004/02/25、春成著作(7冊目)追加、本文追加訂正
2004/02/24、設楽編著(6冊目)追加、本文追加訂正
2004/02/16、白崎著作(5冊目)追加、本文追加訂正
2004/01/12、初出(参考文献4冊に基づく)
学術用語の変遷:
更新世(最新世)Pleistocene ← 洪積世Diluvium
約180万年前~1万年前
ヨーロッパがしばしば氷河に覆われた時期
完新世Holocene ← 冲積世(のちに沖積世)Alluvium
約1万年前以降
現在と同じ動植物・景観になる
下記文章中では表記が混乱しています。
このページの目次です
明石原人とは
明石原人とは、直良信夫(なおら・のぶお)が昭和6年(1931年)4月18日に明石市西八木海岸で採集した化石人骨(腰骨の一部、左側の寛骨)に付けられた名前である。
命名者は東京大学理学部人類学教室の長谷部言人(はせべ・ことんど)名誉教授で、長谷部は<戦後>になって人骨の石膏模型(現物は空襲で焼失)を研究して、原人級の古い化石と判断したのである。
直良信夫著「学問への情熱」 佼成出版社(1981年)
岩波書店、同時代ライブラリー(247)1995年刊再録
ある考古学者のすばらしき人生(アマゾンレビュー)
ある考古学者のすばらしき人生(アマゾンレビュー、akiamsa21、2005/09/23)
考古学者・直良信夫(なおら・のぶお)は苦学の人であった。音(おと)夫人との運命的な出会いをバネに、最後は早稲田大学教授にまでなったその真摯な生き方は、人々に大きな感動を与えてくれる。その信夫の「学問への情熱」を支え続けたのが、後に明石原人と呼ばれるようになる一片の化石人骨発見であったことは間違いない。
信夫は当時(1931年、昭和6年)明石で病気療養中のアマチュア考古学者にすぎなかった。彼の発見した人骨(腰骨の一部、左側の寛骨)に明石原人と命名したのは、東京大学理学部人類学教室の長谷部言人(はせべ・ことんど)名誉教授だ。長谷部は<戦後>になって人骨の石膏模型(現物は空襲で焼失)を研究して、原人級の古い化石と判断したのだ。
この人骨は確かに化石化していた。実物を手にとって研究することのできた信夫自身は、少なくとも<旧人>クラスのものと考えていた。しかし最近の研究では、旧人はおろか縄文時代以降の<新人>に属するとする説まででてきている。そこで、この人骨は最近では「明石人骨」と表記されている。中学歴史教科書でも採用されることはないようである。
信夫の主張が学会の主流となることはなかった。そして、明石人骨という永遠の謎を残したまま、彼は黄泉の国へ旅立ってしまった。
直良信夫、明石人骨を発見する
明石人骨の発見者・直良信夫(当時29歳)は、明石で病気療養をしていたアマチュア考古学者であり 、21歳の時すでに一流雑誌に考古学の処女論文を発表した経歴を持っていた。そして、人骨発見当時までに表した論文・報告の類は80編以上におよんでいた。
信夫は当時、自宅の玄関先に「直良石器時代文化研究所」(大正14年4月開設-23歳の時)という看板を掲げて、近隣の遺跡等の発掘を行っていた。そして私家製の研究報告書まで発行していた。
信夫が特に力を入れていたのは大歳山遺跡で、彼はこの遺跡を研究したくて明石に居を構えたようだ。つまり、一家の生活を支える立場にあった夫人 (女学校教師)の方が、信夫の意向に合わせて勤め先に市立明石高等女学校を選んだと考えられる。
1926年(大正15年)1月、24歳
播磨国明石郡垂水村山田大歳山遺跡の研究
(直良石器時代文化研究所所報第一輯)
B4版、本文58ページ、図版19ページ
コンニャク版印刷(私家本、限定30部)
人骨は明らかに化石化していた
さて、信夫が明石人骨を発見したとき、崩壊土(タルス)に埋もれた状態になっていた。つまり、崩れていない崖のなかに完全に埋まった状態で掘り当てたものではなかったのだ。信夫のメモには人骨発見時の状況について、「骨には青土がついていた。人骨の出土層は、下部の青粘土層に接している砂礫層だった」と書かれている。
信夫は、この推定出土層に加えて、人骨が明らかに化石化していたことから、この人骨を<旧人>(数十万年前)のものと考えた。つまり、信夫自身が<原人>級 (百万年前)というような古いものと考えていた訳ではない。いずれにしても、発見当時に詳細な報告がなされなかったことは悔やまれる。
詐欺師呼ばわりされる
さて、当時の学会では旧人とする考えすら全く受け入れられなかった。現地の発掘調査を試みようとする学者は誰もいない。逆に信夫のことを「詐欺師」呼ばわりする者さえでてくる始末であった。
東京大空襲で化石を消失する
信夫には学歴がなく自分の立場を強く主張する後ろ盾は何もなかった。人骨について発表する場はどこにもない。傷ついた信夫は、思い切って東京へ出て考古学者への道をめざす。しかし大切に保管していた人骨は、東京大空襲(昭和20年)で焼失してしまう。信夫は計測資料もメモもその他一切の研究資料も同時に全て失ってしまった。
明石原人誕生(東大・長谷部言人が命名する)
ところが実はこの人骨の石膏模型が東大理学部人類学教室に残されていたのである。信夫は人骨発見直後、同教室の松村瞭博士に鑑定のため人骨を一時預けたことがある。その際に博士は人骨の写真を撮り、そして石膏模型を密かに作成したらしい。明石原人とは、戦後この石膏模型を見つけ出して研究した同教室の長谷部言人が命名した名前である。すでに人骨発見から17年が経過していた。
現地再発掘調査の成果なし
長谷部言人らはさっそく現地発掘調査も行ったが成果はでなかった。その後、この石膏模型を用いて研究した学者のなかには、人骨はせいぜい1万年前までのものという結論を出すグループも現れてきた。その研究手法は、人骨が化石化していたかどうかには全くとらわれることなく、石膏模型の各部を計測したデータを純粋に統計学的手法を用いて解析したものである。
信夫は人骨の発見とほぼ同時期に「旧石器」も発見しているが、残念ながらそれらは現在の学問水準からすればただの自然石でしかない。しかし、「明石人骨」については、実際にそれを手にとってみたことのある人々は、確かに<化石化していた>と証言しており、依然として疑問が残る。
再々発掘調査(国立歴史民俗博物館、団長・春成秀爾)でも成果なし
明石原人はいたのかいなかったのか、再々発掘調査が国立歴史民俗博物館(団長・春成秀爾)によって行われた。その結果、人骨が出たとされる層を確認することができた。しかし、新たな人骨や石器は発見されず最終的な結論を出すまでには至らなかった。
この地層の年代については、参加した多くの研究者(地質学、植物学、年代学等)の見解が、約6~7万年前という立場と、十数万年~7,8万年前という立場の二つに分かれており結論はでていない。
なお、この地層から人間によって加工されたと思われる板状の木材片が発見された。また、発掘直前に一般の人が、同じ地層(崖)から石器を一つ抜き取っていた。太古の昔、この附近で「明石人」が暮らしていたことは間違いない。
明石人骨は縄文時代以降のもの?
さて、信夫の発見した「明石人骨」そのものについては、人類学会の大勢はいくら古くても縄文時代以降としているのに対して、今でも反対説が唱えられている。人骨が明らかに化石化していたという事実は重い。「明石人」問題は未だ解決してはいない。
永遠の謎に包まれたままである
しかしながら、学問研究で使用する資料は、きちんとした発掘調査によって得られたものだけに限るべきである、とする春成の意見は傾聴に値する。偶然採取した資料の、しかも複製品が残っているだけでは、いつまでたっても議論は空回りするだけで前には進まない。こうして明石人骨は永遠の謎に包まれることとなった。
参考資料
明石原人の発見-聞き書き・直良信夫伝-
高橋徹著、朝日新聞社(1977年)
学問への情熱-「明石原人」発見から五十年-
直良信夫著、佼成出版社(1981年)
「明石原人」とは何であったか
春成秀爾著、NHKブックス(1994年)
見果てぬ夢「明石原人」-考古学者直良信夫の生涯-
直良三樹子著、時事通信社(1995年)
「明石人」と直良信夫-「明石人」問題はまだ解決していない-
白崎昭一郎著、雄山閣(2004年)
揺らぐ考古学の常識-前・中期旧石器捏造問題と弥生開始年代-
設楽博己編、吉川弘文館(2004年)
考古学者はどう生きたか-考古学と社会-
春成秀爾著、学生社(2003年)
明石原人の発見
高橋が直良から聞き取りして書いたものである。
学問への情熱
本書の著者は直良信夫となっている。しかし、ほんとうはフリーライターの渡部誠が直良からまず聞き取りを行い、さらに高橋徹(「明石原人の発見」朝日新聞社1977年刊の著者)が直良から聞き取りをしたときの録音や、春成秀爾(「「明石原人」とは何であったか」NHKブックス1994年刊の著者)が提供した資料に基づいて下書きしたものに、春成が手を入れ最終的に直良が修正したものである。
「明石原人」とは何であったか
上記2冊の本に対して、升水美恵子(直良長女)、直良博人(直良長男)の証言を元に修正を加えた箇所がある。
「明石原人」問題は、明石人骨発見から50年以上の年月を経過して、ようやく一応の結論をみたようである、としている。
見果てぬ夢「明石原人」
直良長女による作品である。直良自身の思い違いなど細かい点で上記書籍の内容に修正を加えた箇所がある。
「明石人」と直良信夫
考古学・人類学・古生物学の分野に大きな業績を残した「最後の博物学者」直良信夫83年の苦闘の生涯を綴る(帯より)。
著者は医師である。明石人骨そのものや統計処理の仕方について、医師として科学者としての眼からするどい批判を加えている。また、直良信夫履歴についても精査しなおして矛盾点を解決している。
直良信夫略年譜、「明石原人の発見」巻末
直良信夫著作論文目録、「学問への情熱」巻末