以下、用字用語には再考の余地が有ります。
信夫と音
直良信夫(なおら・のぶお)
明治35年(1902年)1月1日生まれ(戸籍上は10日)
大分県海部郡臼杵町(現臼杵市)、旧姓村本
明石人骨(明石原人)の発見者
直良音(なおら・おと)
明治24年(1891年)11月14日生まれ
島根県簸川郡今市町(現出雲市)、信夫より10歳の年上であった
大正14年6月、両者の婚姻届提出
数奇な運命によって両者は結ばれる。信夫は苦労の末、敗戦直前43歳で早稲田大学講師、55歳で学位取得、58歳で教授に就任した。そうした信夫の特に戦前時代を経済的に支え続けたのは教師の音である。音は、常に信夫の都合を最優先させ、そのために必要ならば、自分の勤務先を変えてまでして信夫に尽くした。
最初の上京
明治41年4月、信夫、小学校入学(6歳)
大正3年3月、臼杵男子尋常高等小学校卒業(12歳)
大正4年3月、臼杵男子尋常高等小学校高等科1年終了(13歳)
伯母(父方)と養子縁組をして東京に出る、高等科2年に編入学
大正5年3月、高等科2年終了と同時に伯母の家を去る(14歳)
臼杵市の活版所に丁稚奉公、早稲田中学講義録(通信講座)購読開始
半年ばかりで活版所を辞め、家の手伝いで畑仕事をしながら勉学に励む
そこに、若い女教師から声を掛けられる
「いつも関心ですね。しっかり勉強して、偉い人になりなさい」
後の夫人、直良音であった
臼杵町立実科高等女学校教師(大正5年4月~大正6年12月20日)
しばらくして、大分市内の本屋に住み込みで勤めるが、直ぐに辞める
その後、臼杵の商業学校の用務員となるも長くは続かなかった
さらに、鉄道の火夫の試験には合格しなかった
二度目の上京
大正6年、真夏の暑い日、東京の高等小学校時代の担任を頼って上京
先生の家に居候をしながら、鉄道院上野保線事務所給仕の仕事に就く
続いて、早稲田工手学校夜間部(早稲田大学付属)入学を決める(15歳)
しかし、過労にて体調を崩し、学校は辞めざるを得なくなる
先生夫婦の介護のおかげでまもなく健康を取り戻す
大正7年4月、岩倉鉄道学校(昼夜二部制)の工業化学科(新設)入学(16歳)
同時に、間借り生活を始めて独立し、二年間ひたすら勉強に励む
大正9年4月、農商務省臨時窒素研究所就職(18歳)
考古学に目覚める
研究所近くの貝塚で、土器、石器、貝殻などを採集するようになる。その中で特に、薄手式土器と厚手式土器を比較して、組成や焼き上げ温度の違い等を化学的手法で分析してデータを蓄積していった。そして、厚手土器は薄手土器よりも古い時代のものと結論付ける。
しかしながら、仕事、発掘そして研究と、無理がたたって結核に侵されてしまう
大正12年2月3日、そうした中で、文字通り命をかけた処女論文(四百字詰原稿用紙50枚ほど)を完成させ、発表する機会に恵まれる(21歳)
論文掲載の労をとってくれたのは、喜田貞吉・京都帝国大学教授-文献史学であった。喜田はしばしば上京して学会講演などを行っていた。信夫はそうした会に顔を出すうちに、自分の研究テーマについて喜田に語り、データを見た喜田から貴重な研究だと励まされ、論文完成に向けて病をおして努力したのである。
「目黒の上高地に於ける先史人類遺跡及び文化の化学的考察」上・下
掲載誌は、「社会史研究」(喜田貞吉主宰)の大正12年7月号、8月号であった。考古学という人文科学の分野に、化学的分析という自然科学の手法を取り入れた革新的な研究は少なからずの学者の注目を集めた。しかし、病は待ってはくれない。
直良音との再会
1923年(大正12年)8月31日夜、東京駅から郷里の臼杵へ向かう(21歳)
再上京してから丸6年、病のため全てをなげうっての帰省であった
9月1日朝、信夫は姫路駅で下車した。直良音先生が兵庫県立姫路高等女学校で教えているのを思い出したのである。音先生からしばらく滞在するよう要請され留まることになり、手厚い看護を受ける。
さて、音と再会したちょうどその日の正午前、9月1日午前11時58分、関東大震災が東京・横浜など関東地方南部を襲った。震源は相模湾でマグニチュード7.9。死者行方不明者14万2000余人、家屋の全半壊25万4000戸余、焼失戸数44万7000戸余とされている。実は信夫は結婚を約束した女性を東京に残してきていた。しかし、大震災の混乱の中で結局その消息をつかむことはできなかった。
音は、翌年大正13年3月31日付けで姫路高等女学校を退職、その年の9月29日付けで市立明石高等女学校に赴任している。その間、事情があって信夫といっしょに一時別府にいたことがあるようだ。
明石に居を構えたのは信夫の健康と遺跡発掘の便を考えてのことだろう。近くには大歳山遺跡という縄文時代の魅力的な遺跡があった。信夫が自宅の玄関先に「直良石器時代文化研究所」という看板を掲げたのは、大正14年初夏の頃であった。
明石人骨の発見
信夫はそのうち、明石の西海岸に洪積世の地層が露出していることを発見する。その地層は、高さ10m~15mほどの断崖となって、海岸線の長さ約10kmにわたって播磨灘に落ち込んでいた。ここならば、旧石器時代の遺物を発見できるかもしれない。信夫はこの場所に日参するようになる。昭和2年11月26日、旧象の臼歯の破片とメノウの石器と思われるものを発見する。
1931年(昭和6年)4月18日、化石人骨を発見する(29歳)
人骨は、昨夜の暴風で崩れたと思われる崩壊土(タルス)に八分どおり埋もれていた。その地層を確認すると、礫や小砂をまじえた砂質粘土層(ネズミ色)で、崖の最下部に露出している1mほどの厚さの青粘土層の上に不整合にのっていた。
人骨は確かに化石化しており、洪積世人類の化石の可能性は高かった。ただし、崩れていない崖のなかに完全に埋まった状態で掘り当てたものでなかったことが惜しまれる。
専門家の鑑定を得るために、東京・京都の何人かの学者に手紙を発送する
4月23日付、松村瞭博士(東京帝国大学人類学教室主任)人骨を拝借したい
5月3日、大阪朝日新聞、三、四十万年前の人体の骨盤現る
5月2日付(5日到着)、松村瞭博士手紙。骨は人骨であり、化石化の程度や色からみて太古のものである。
5月10日、京都帝国大学人類学教室の学者や学生、10名ほど直良家訪問。ただし当然ながら人骨は直良の手元になく、だれも実際に手に取ってみることはできなかった。ところで、信夫はまず最初に東京帝大に連絡したのかもしれない。東京帝大人類学教室に事務所をおく「人類学雑誌」に、それまで6編の論文を掲載してもらったという関係にあった。
6月6日、松村瞭博士、西八木海岸の現場に立つ。ただし何の意見もなし。その後、博士から人骨が送り返されてきた。添えられていた手紙には、化石人骨かどうか断定はできない、という主旨のことが書いてあった。それは、以前の手紙からは考えられないほど、実に曖昧な態度に変化していた。師の小金井良精博士からの圧力があったとされている。
人骨が発見されてまもなく、信夫が以前に投稿していた論文(日本最初の旧石器に関する論文)が「人類学雑誌」の5月号、6月号と前後に分けて掲載された。これに対して、鳥居龍蔵(国学院大学教授)から、これは自然石であり、旧石器時代の石器とは認められない、と完全否定されてしまう。
鳥居はこの石器を実際に自分で手にとって観察したわけではない。当時まだ学生だった樋口清之(のち国学院大学教授)が見てきた意見と写真だけで判断したものだという。人類学雑誌は 上記のように東京帝大系の雑誌で、当時の編集委員の一人であった松村瞭と鳥居龍蔵との間にはある事件をめぐって確執があったという。
さらに、京都帝國大学の関係者からは「詐欺師」呼ばわりされた。東京帝大に先を越されたことに対する主意返しであろう。信夫は完全に落ち込んでしまう。 教室という後ろ盾がなければ何もできないのだろうか。学閥間、学者間の功名心争いに翻弄される無学歴な自分が悲しかった。
三度目の上京
昭和7年10月、音は二人の子供を連れて上京、私立跡見高等女学校就職
11月初め信夫上京(30歳)
昭和8年春から江古田に落ち着く(新築2階建て借家)
徳永重康博士(早稲田大学)の研究助手(無給)となる
瀬戸内海で発見されたナウマンゾウやシカなど大量の獣骨化石の整理
「獣類化石研究室」の看板を掲げる
満蒙学術調査団(第1次、第2次)に徳永博士について参加
昭和12年春、江古田植物化石層の発見
日本の洪積世と沖積世を区切る指標となる地層である
昭和13年、早稲田大学付属高等工学校の夜学会計事務(有給)
約1年後、早稲田大学理工学部採鉱冶金学教室の図書係(大学職員)
昭和15年2月、徳永博士急逝、信夫はそのまま大学に残ることになる
昭和19年4月、はじめて教壇に立つ(講師待遇、辞令なし)
昭和20年4月、早稲田大学講師(正式辞令)、信夫43歳
信夫は姫路にいるころから徳永博士に文通でしばしば教えを受けていた。また、明石人骨出土の折には、現地調査にみえた博士を西八木海岸に案内したこともあったのである。
明石人骨炎上
1945年(昭和20年)5月25日、午後10時過ぎからのB29編隊による大空襲で、江古田の家も早稲田大学の「獣類化石研究室」も全てが焼き払われた。信夫は、学問研究に必要な標本や文献・資料そして書きためていた原稿などのほとんど全てを失った。
庭に埋めてあった大切な人骨もいくら探しても見つからなかった。焼夷弾の熱で溶けてしまったのだろうか。
敗戦前後、音は30年にわたる教員生活に終止符を打つ(53~54歳)。しかもその後は病気がちとなったため(約20年間)、戦後の混乱の中で、信夫は病弱な妻を抱えて生活を支えるために必死で働いた。
「明石原人」の誕生
昭和22年1月、東大理学部人類学教室の当時大学院生、渡部仁(後に東京大学教授)が信夫を訪ねてくる。長谷部言人(はせべ・ことんど)名誉教授の使いであった。
「明石人骨」と表書きのある写真袋(写真4枚在中)が見つかった
この写真に写っている腰骨の石膏模型も見つかった
この骨(洪積世のものと推定)を研究して論文を発表したい
ついてはご了解を得たい
信夫の手元には一枚の写真すら残っていない
計測資料もメモも何もないのである
自分の手で研究して発表する手立ては何もない
承諾する以外に道はなかった
昭和23年7月、ニッポナントロプス・アカシエンシス(明石原人)誕生
「明石市附近西八木最新世前期堆積出土人類腰骨(石膏型)の原始性に就いて」、人類学雑誌第60巻第1号、長谷部言人
直良自身は人骨を旧人(20万年前ころ)と見ていたが、長谷部博士は原人級(50万年以上前)と推定した。そして、学名の後につける発見者の姓を「ハセベ」とした。
昭和23年10月20日、明石市西八木海岸発掘調査(信夫46歳)
長谷部言人博士を長とし、東京大学人類学教室を中心とした大々的なもの
信夫には事前に何の連絡もなく、後にオブザーバーとして参加を許される
かつての発見場所の崖は、波の浸食で崩壊して数メートルも沖合いになっていた。しかも調査団の掘っているのは、腰骨発見場所から80mも西よりである。
信夫はこれまで人骨出土地点を明記したことはなかった
発見直後に明石を訪れた学者はメンバーの中にはいなかった
発見者の信夫に質問はなかった
したがって、正確な出土地点すら特定せずに発掘をしたことになる
結局たいした収穫はなく、明石人骨は再び「幻の骨」となってしまった。
昭和25年7月25日、葛生原人発見(栃木県安蘇郡葛生町)、信夫48歳
博士号取得
1956年(昭和31年)6月、「日本農業発達史」さ・え・ら書房刊、同書によって
昭和32年7月、早稲田大学文学博士号(信夫55歳)
昭和35年春、理工学部採鉱冶金学科教授(講師の身分から一挙に就任)
昭和40年5月5日、音逝く。享年73歳、結婚生活42年。
昭和41年12月、信夫、音のいとこの春江と再婚
昭和47年1月21日、最終講義
昭和47年3月31日付、定年退職(信夫70歳)
昭和48年10月31日、出雲市転居(41年間の東京暮らしに別れを告げる)
昭和60年11月1日、明石市文化功労賞、生涯唯一の褒章
1985年(昭和60年)11月2日、信夫逝く、享年83歳。
「明石原人」は旧人
1982年(昭和57年)11月2日、朝日新聞夕刊1面
明石「原人」はいなかった。研究の詳細は、「科学朝日」12月号に発表
遠藤萬理(ばんり)東大理学部助教授(人類学)
馬場悠男(ひさお)独協医科大学講師(解剖学)
明石人骨の石膏模型を使って純粋に統計学的な処理を行った
もっとも古い人類である猿人を始め、原人や旧人、あるいは現代人と比較検討した結果、「明石原人」はせいぜい一万年前の人類であるとの結論に達した。
これを聞いて、信夫はその後いっさいの研究活動を放棄する
これに対して、明石人骨は「化石化」していたという観点からいくつかの反論が試みられた。しかし、現物はすでになく、化石化しているはずがないとする学者たちのなかで、人骨を直接手にとって観察できたものはいない。こうなれば、もう一度掘ってみる以外にない。国立歴史民俗博物館(団長・春成秀爾)による発掘調査が行われた。
1985年(昭和60年)3月1日~20日、再度の西八木海岸発掘調査
翌年3月29日、発掘調査に関する研究発表会
1987年(昭和62年)調査報告書発行
「明石市西八木海岸の発掘調査」(国立歴史民俗博物館研究報告第13集)
春成秀爾編(執筆者34名)、B5判304ページ(写真図版39)
明石人骨が出たとされる地層-河成砂礫層(Ⅴ層)から、人間によって加工されたとおもわれる板状の木材片(樹種ハリグワ)が出土 した。その他、石器が一つ見つかっている(一般人が発掘前に崖から抜き取ったもの)。この三角形の小さな剥片(碧玉製)は、今のところ日本最古の石器の一つである可能性が高い。
西八木層Ⅴ層は春成によれば、約6万~7万年前、最終氷期前葉の寒冷期から温暖期にかけての堆積物とされている。ただし、十数万年~7,8万年前とする意見もあり結論は出ていない。
長谷部言人の考え(更新世前期、約100万年前)
直良信夫の考え(更新世中期、数十万年前)
ところで、またしても信夫はこの発掘に参加することはできなかった。高齢であった。熱発していた。代わりに孫娘が3日間ほど発掘に加わる。そして8か月後、明石市文化功労賞 (生涯唯一の褒章)を受賞(長女代理)した翌日逝去。
「明石人骨」は新人(現代人)のものか
白崎昭一郎は、次のようないくつかの疑問点をあげて、「明石人」問題はまだ解決していない、と主張している。すなわち、
明石人骨は明らかに化石化していた。しかし、石膏模型ではそのことは永遠にわからない。遠藤・馬場が研究に使用したレプリカは、欠損部を相当補って復元したものである。そのことが解析結果に影響を与えていないだろうか。さらに、明石人骨は女性の可能性がある。それにもかかわらず、男性として他の標本と比較検討されている。その他、
多変量解析そのものの手法に問題はないのか
猿人、原人、旧人、新人の変異の幅に連続性はあるのか
標本の数は十分なのか、等々である。
ところで、最近の学説として、
新人は旧人を経ずにアフリカで原人から直接進化(十数万年前)して世界各地にひろがった 、という説が有力である。すなわち、旧人は原人から枝分かれして絶滅した人類であり新人の祖先ではない、というのである。そして、
ホモ・サピエンス(新人)の出現は、西アジアでは10万年前までさかのぼる
ネアンデルタール人(旧人)が、ヨーロッパでは2万数千年前まで生きていた
とされる。
この説に従えば、明石人が新人であった可能性を否定することは出来ない。もしそうであるならば、明石人骨が新人のような新しい特徴を持っていたとしても何ら不思議ではない。
現代人に近い特徴を持つというだけで、例えば一万年前以降の新しい骨と決め付ける訳にはいかなくなってきたのである。明石人骨=現代人のもの、と最初に主張した馬場は最近(1998年)になって、明石人骨は5万年前だってありうる、としている。
ただし、日本と大陸との間に陸橋が存在したのは、過去3回のみであり、しかもそれぞれの期間は非常に短かったとされている。
第1回目: 約63万年前(更新世中期初め)原人の時代
第2回目: 約43万年前(更新世中期中頃)北京原人の時代
これ以降、日本列島が西・南方面で大陸につながった時期はないとされる
第3回目: 約3万年前(更新世後期後半、後期旧石器時代)
北海道とシベリアがつながった時期がある。ホモ・サピエンス(現生人類である新人)の時代、具体的にはクロマニヨン人の時代である 。なお、3~4万年前、南方から黒潮に乗って(舟で)やってきた人々がいたことも間違いない。
最後にまとめるならば、明石人骨をめぐる謎は未だ尽きない、というよりも、永遠の謎として残った、というべきであろうか。末期の病床で、信夫は熱にうなされながらしきりに繰り返したという。「私は百万年前の落ち武者で、道に迷って困っております。私の行先を教えて下さい」。信夫と共に当Web管理人も「見果てぬ夢」を追い続けてみたい。