直良信夫・苦学の考古学者

以下、用字用語には再考の余地が有ります。

信夫と音

直良信夫(なおら・のぶお)
明治35年(1902年)1月1日生まれ(戸籍上は10日)
大分県海部郡臼杵町(現臼杵市)、旧姓村本
明石人骨(明石原人)の発見者

直良音(なおら・おと)
明治24年(1891年)11月14日生まれ
島根県簸川郡今市町(現出雲市)、信夫より10歳の年上であった
大正14年6月、両者の婚姻届提出

数奇な運命によって両者は結ばれる。信夫は苦労の末、敗戦直前43歳で早稲田大学講師、55歳で学位取得、58歳で教授に就任した。そうした信夫の特に戦前時代を経済的に支え続けたのは教師の音である。音は、常に信夫の都合を最優先させ、そのために必要ならば、自分の勤務先を変えてまでして信夫に尽くした。

最初の上京

明治41年4月、信夫、小学校入学(6歳)
大正3年3月、臼杵男子尋常高等小学校卒業(12歳)
大正4年3月、臼杵男子尋常高等小学校高等科1年終了(13歳)
伯母(父方)と養子縁組をして東京に出る、高等科2年に編入学
大正5年3月、高等科2年終了と同時に伯母の家を去る(14歳)

臼杵市の活版所に丁稚奉公、早稲田中学講義録(通信講座)購読開始
半年ばかりで活版所を辞め、家の手伝いで畑仕事をしながら勉学に励む
そこに、若い女教師から声を掛けられる
「いつも関心ですね。しっかり勉強して、偉い人になりなさい」
後の夫人、直良音であった
臼杵町立実科高等女学校教師(大正5年4月~大正6年12月20日)
しばらくして、大分市内の本屋に住み込みで勤めるが、直ぐに辞める
その後、臼杵の商業学校の用務員となるも長くは続かなかった
さらに、鉄道の火夫の試験には合格しなかった

二度目の上京

大正6年、真夏の暑い日、東京の高等小学校時代の担任を頼って上京
先生の家に居候をしながら、鉄道院上野保線事務所給仕の仕事に就く
続いて、早稲田工手学校夜間部(早稲田大学付属)入学を決める(15歳)
しかし、過労にて体調を崩し、学校は辞めざるを得なくなる
先生夫婦の介護のおかげでまもなく健康を取り戻す

大正7年4月、岩倉鉄道学校(昼夜二部制)の工業化学科(新設)入学(16歳)
同時に、間借り生活を始めて独立し、二年間ひたすら勉強に励む
大正9年4月、農商務省臨時窒素研究所就職(18歳)

考古学に目覚める

研究所近くの貝塚で、土器、石器、貝殻などを採集するようになる。その中で特に、薄手式土器と厚手式土器を比較して、組成や焼き上げ温度の違い等を化学的手法で分析してデータを蓄積していった。そして、厚手土器は薄手土器よりも古い時代のものと結論付ける。

しかしながら、仕事、発掘そして研究と、無理がたたって結核に侵されてしまう
大正12年2月3日、そうした中で、文字通り命をかけた処女論文(四百字詰原稿用紙50枚ほど)を完成させ、発表する機会に恵まれる(21歳)

論文掲載の労をとってくれたのは、喜田貞吉・京都帝国大学教授-文献史学であった。喜田はしばしば上京して学会講演などを行っていた。信夫はそうした会に顔を出すうちに、自分の研究テーマについて喜田に語り、データを見た喜田から貴重な研究だと励まされ、論文完成に向けて病をおして努力したのである。

「目黒の上高地に於ける先史人類遺跡及び文化の化学的考察」上・下
掲載誌は、「社会史研究」(喜田貞吉主宰)の大正12年7月号、8月号であった。考古学という人文科学の分野に、化学的分析という自然科学の手法を取り入れた革新的な研究は少なからずの学者の注目を集めた。しかし、病は待ってはくれない。

直良音との再会

1923年(大正12年)8月31日夜、東京駅から郷里の臼杵へ向かう(21歳)
再上京してから丸6年、病のため全てをなげうっての帰省であった
9月1日朝、信夫は姫路駅で下車した。直良音先生が兵庫県立姫路高等女学校で教えているのを思い出したのである。音先生からしばらく滞在するよう要請され留まることになり、手厚い看護を受ける。

さて、音と再会したちょうどその日の正午前、9月1日午前11時58分、関東大震災が東京・横浜など関東地方南部を襲った。震源は相模湾でマグニチュード7.9。死者行方不明者14万2000余人、家屋の全半壊25万4000戸余、焼失戸数44万7000戸余とされている。実は信夫は結婚を約束した女性を東京に残してきていた。しかし、大震災の混乱の中で結局その消息をつかむことはできなかった。

音は、翌年大正13年3月31日付けで姫路高等女学校を退職、その年の9月29日付けで市立明石高等女学校に赴任している。その間、事情があって信夫といっしょに一時別府にいたことがあるようだ。

明石に居を構えたのは信夫の健康と遺跡発掘の便を考えてのことだろう。近くには大歳山遺跡という縄文時代の魅力的な遺跡があった。信夫が自宅の玄関先に「直良石器時代文化研究所」という看板を掲げたのは、大正14年初夏の頃であった。

明石人骨の発見

信夫はそのうち、明石の西海岸に洪積世の地層が露出していることを発見する。その地層は、高さ10m~15mほどの断崖となって、海岸線の長さ約10kmにわたって播磨灘に落ち込んでいた。ここならば、旧石器時代の遺物を発見できるかもしれない。信夫はこの場所に日参するようになる。昭和2年11月26日、旧象の臼歯の破片とメノウの石器と思われるものを発見する。

1931年(昭和6年)4月18日、化石人骨を発見する(29歳)
人骨は、昨夜の暴風で崩れたと思われる崩壊土(タルス)に八分どおり埋もれていた。その地層を確認すると、礫や小砂をまじえた砂質粘土層(ネズミ色)で、崖の最下部に露出している1mほどの厚さの青粘土層の上に不整合にのっていた。

人骨は確かに化石化しており、洪積世人類の化石の可能性は高かった。ただし、崩れていない崖のなかに完全に埋まった状態で掘り当てたものでなかったことが惜しまれる。

専門家の鑑定を得るために、東京・京都の何人かの学者に手紙を発送する
4月23日付、松村瞭博士(東京帝国大学人類学教室主任)人骨を拝借したい
5月3日、大阪朝日新聞、三、四十万年前の人体の骨盤現る
5月2日付(5日到着)、松村瞭博士手紙。骨は人骨であり、化石化の程度や色からみて太古のものである。

5月10日、京都帝国大学人類学教室の学者や学生、10名ほど直良家訪問。ただし当然ながら人骨は直良の手元になく、だれも実際に手に取ってみることはできなかった。ところで、信夫はまず最初に東京帝大に連絡したのかもしれない。東京帝大人類学教室に事務所をおく「人類学雑誌」に、それまで6編の論文を掲載してもらったという関係にあった。

6月6日、松村瞭博士、西八木海岸の現場に立つ。ただし何の意見もなし。その後、博士から人骨が送り返されてきた。添えられていた手紙には、化石人骨かどうか断定はできない、という主旨のことが書いてあった。それは、以前の手紙からは考えられないほど、実に曖昧な態度に変化していた。師の小金井良精博士からの圧力があったとされている。

人骨が発見されてまもなく、信夫が以前に投稿していた論文(日本最初の旧石器に関する論文)が「人類学雑誌」の5月号、6月号と前後に分けて掲載された。これに対して、鳥居龍蔵(国学院大学教授)から、これは自然石であり、旧石器時代の石器とは認められない、と完全否定されてしまう。

鳥居はこの石器を実際に自分で手にとって観察したわけではない。当時まだ学生だった樋口清之(のち国学院大学教授)が見てきた意見と写真だけで判断したものだという。人類学雑誌は 上記のように東京帝大系の雑誌で、当時の編集委員の一人であった松村瞭と鳥居龍蔵との間にはある事件をめぐって確執があったという。

さらに、京都帝國大学の関係者からは「詐欺師」呼ばわりされた。東京帝大に先を越されたことに対する主意返しであろう。信夫は完全に落ち込んでしまう。 教室という後ろ盾がなければ何もできないのだろうか。学閥間、学者間の功名心争いに翻弄される無学歴な自分が悲しかった。

三度目の上京

昭和7年10月、音は二人の子供を連れて上京、私立跡見高等女学校就職
11月初め信夫上京(30歳)
昭和8年春から江古田に落ち着く(新築2階建て借家)

徳永重康博士(早稲田大学)の研究助手(無給)となる
瀬戸内海で発見されたナウマンゾウやシカなど大量の獣骨化石の整理
「獣類化石研究室」の看板を掲げる
満蒙学術調査団(第1次、第2次)に徳永博士について参加
昭和12年春、江古田植物化石層の発見
日本の洪積世と沖積世を区切る指標となる地層である
昭和13年、早稲田大学付属高等工学校の夜学会計事務(有給)
約1年後、早稲田大学理工学部採鉱冶金学教室の図書係(大学職員)
昭和15年2月、徳永博士急逝、信夫はそのまま大学に残ることになる
昭和19年4月、はじめて教壇に立つ(講師待遇、辞令なし)
昭和20年4月、早稲田大学講師(正式辞令)、信夫43歳

信夫は姫路にいるころから徳永博士に文通でしばしば教えを受けていた。また、明石人骨出土の折には、現地調査にみえた博士を西八木海岸に案内したこともあったのである。

明石人骨炎上

1945年(昭和20年)5月25日、午後10時過ぎからのB29編隊による大空襲で、江古田の家も早稲田大学の「獣類化石研究室」も全てが焼き払われた。信夫は、学問研究に必要な標本や文献・資料そして書きためていた原稿などのほとんど全てを失った。

庭に埋めてあった大切な人骨もいくら探しても見つからなかった。焼夷弾の熱で溶けてしまったのだろうか。

敗戦前後、音は30年にわたる教員生活に終止符を打つ(53~54歳)。しかもその後は病気がちとなったため(約20年間)、戦後の混乱の中で、信夫は病弱な妻を抱えて生活を支えるために必死で働いた。

「明石原人」の誕生

昭和22年1月、東大理学部人類学教室の当時大学院生、渡部仁(後に東京大学教授)が信夫を訪ねてくる。長谷部言人(はせべ・ことんど)名誉教授の使いであった。

「明石人骨」と表書きのある写真袋(写真4枚在中)が見つかった
この写真に写っている腰骨の石膏模型も見つかった
この骨(洪積世のものと推定)を研究して論文を発表したい
ついてはご了解を得たい

信夫の手元には一枚の写真すら残っていない
計測資料もメモも何もないのである
自分の手で研究して発表する手立ては何もない
承諾する以外に道はなかった

昭和23年7月、ニッポナントロプス・アカシエンシス(明石原人)誕生
「明石市附近西八木最新世前期堆積出土人類腰骨(石膏型)の原始性に就いて」、人類学雑誌第60巻第1号、長谷部言人
直良自身は人骨を旧人(20万年前ころ)と見ていたが、長谷部博士は原人級(50万年以上前)と推定した。そして、学名の後につける発見者の姓を「ハセベ」とした。

昭和23年10月20日、明石市西八木海岸発掘調査(信夫46歳)
長谷部言人博士を長とし、東京大学人類学教室を中心とした大々的なもの
信夫には事前に何の連絡もなく、後にオブザーバーとして参加を許される
かつての発見場所の崖は、波の浸食で崩壊して数メートルも沖合いになっていた。しかも調査団の掘っているのは、腰骨発見場所から80mも西よりである。

信夫はこれまで人骨出土地点を明記したことはなかった
発見直後に明石を訪れた学者はメンバーの中にはいなかった
発見者の信夫に質問はなかった
したがって、正確な出土地点すら特定せずに発掘をしたことになる

結局たいした収穫はなく、明石人骨は再び「幻の骨」となってしまった。

昭和25年7月25日、葛生原人発見(栃木県安蘇郡葛生町)、信夫48歳

博士号取得

1956年(昭和31年)6月、「日本農業発達史」さ・え・ら書房刊、同書によって
昭和32年7月、早稲田大学文学博士号(信夫55歳)
昭和35年春、理工学部採鉱冶金学科教授(講師の身分から一挙に就任)
昭和40年5月5日、音逝く。享年73歳、結婚生活42年。
昭和41年12月、信夫、音のいとこの春江と再婚
昭和47年1月21日、最終講義
昭和47年3月31日付、定年退職(信夫70歳)
昭和48年10月31日、出雲市転居(41年間の東京暮らしに別れを告げる)
昭和60年11月1日、明石市文化功労賞、生涯唯一の褒章
1985年(昭和60年)11月2日、信夫逝く、享年83歳。

「明石原人」は旧人

1982年(昭和57年)11月2日、朝日新聞夕刊1面
明石「原人」はいなかった。研究の詳細は、「科学朝日」12月号に発表
遠藤萬理(ばんり)東大理学部助教授(人類学)
馬場悠男(ひさお)独協医科大学講師(解剖学)
明石人骨の石膏模型を使って純粋に統計学的な処理を行った
もっとも古い人類である猿人を始め、原人や旧人、あるいは現代人と比較検討した結果、「明石原人」はせいぜい一万年前の人類であるとの結論に達した。
これを聞いて、信夫はその後いっさいの研究活動を放棄する

これに対して、明石人骨は「化石化」していたという観点からいくつかの反論が試みられた。しかし、現物はすでになく、化石化しているはずがないとする学者たちのなかで、人骨を直接手にとって観察できたものはいない。こうなれば、もう一度掘ってみる以外にない。国立歴史民俗博物館(団長・春成秀爾)による発掘調査が行われた。

1985年(昭和60年)3月1日~20日、再度の西八木海岸発掘調査
翌年3月29日、発掘調査に関する研究発表会
1987年(昭和62年)調査報告書発行
「明石市西八木海岸の発掘調査」(国立歴史民俗博物館研究報告第13集)
春成秀爾編(執筆者34名)、B5判304ページ(写真図版39)

明石人骨が出たとされる地層-河成砂礫層(Ⅴ層)から、人間によって加工されたとおもわれる板状の木材片(樹種ハリグワ)が出土 した。その他、石器が一つ見つかっている(一般人が発掘前に崖から抜き取ったもの)。この三角形の小さな剥片(碧玉製)は、今のところ日本最古の石器の一つである可能性が高い。

西八木層Ⅴ層は春成によれば、約6万~7万年前、最終氷期前葉の寒冷期から温暖期にかけての堆積物とされている。ただし、十数万年~7,8万年前とする意見もあり結論は出ていない。

長谷部言人の考え(更新世前期、約100万年前)
直良信夫の考え(更新世中期、数十万年前)

ところで、またしても信夫はこの発掘に参加することはできなかった。高齢であった。熱発していた。代わりに孫娘が3日間ほど発掘に加わる。そして8か月後、明石市文化功労賞 (生涯唯一の褒章)を受賞(長女代理)した翌日逝去。

「明石人骨」は新人(現代人)のものか

白崎昭一郎は、次のようないくつかの疑問点をあげて、「明石人」問題はまだ解決していない、と主張している。すなわち、

明石人骨は明らかに化石化していた。しかし、石膏模型ではそのことは永遠にわからない。遠藤・馬場が研究に使用したレプリカは、欠損部を相当補って復元したものである。そのことが解析結果に影響を与えていないだろうか。さらに、明石人骨は女性の可能性がある。それにもかかわらず、男性として他の標本と比較検討されている。その他、
多変量解析そのものの手法に問題はないのか
猿人、原人、旧人、新人の変異の幅に連続性はあるのか
標本の数は十分なのか、等々である。

ところで、最近の学説として、
新人は旧人を経ずにアフリカで原人から直接進化(十数万年前)して世界各地にひろがった 、という説が有力である。すなわち、旧人は原人から枝分かれして絶滅した人類であり新人の祖先ではない、というのである。そして、

ホモ・サピエンス(新人)の出現は、西アジアでは10万年前までさかのぼる
ネアンデルタール人(旧人)が、ヨーロッパでは2万数千年前まで生きていた
とされる。

この説に従えば、明石人が新人であった可能性を否定することは出来ない。もしそうであるならば、明石人骨が新人のような新しい特徴を持っていたとしても何ら不思議ではない。

現代人に近い特徴を持つというだけで、例えば一万年前以降の新しい骨と決め付ける訳にはいかなくなってきたのである。明石人骨=現代人のもの、と最初に主張した馬場は最近(1998年)になって、明石人骨は5万年前だってありうる、としている。

ただし、日本と大陸との間に陸橋が存在したのは、過去3回のみであり、しかもそれぞれの期間は非常に短かったとされている。

第1回目: 約63万年前(更新世中期初め)原人の時代
第2回目: 約43万年前(更新世中期中頃)北京原人の時代
これ以降、日本列島が西・南方面で大陸につながった時期はないとされる

第3回目: 約3万年前(更新世後期後半、後期旧石器時代)
北海道とシベリアがつながった時期がある。ホモ・サピエンス(現生人類である新人)の時代、具体的にはクロマニヨン人の時代である 。なお、3~4万年前、南方から黒潮に乗って(舟で)やってきた人々がいたことも間違いない。

最後にまとめるならば、明石人骨をめぐる謎は未だ尽きない、というよりも、永遠の謎として残った、というべきであろうか。末期の病床で、信夫は熱にうなされながらしきりに繰り返したという。「私は百万年前の落ち武者で、道に迷って困っております。私の行先を教えて下さい」。信夫と共に当Web管理人も「見果てぬ夢」を追い続けてみたい。

旅する巨人・宮本常一

このページでは、下記書籍を参考にしています。


『宮本常一著作集25「村里を行く」』(1977年)未来社

はじめに

宮本常一は、明治40年(1907年)8月1日、山口県東和町長崎(周防大島)生まれ。昭和10年、10年余りの教壇生活(大阪)に別れをつげ、渋沢敬三(東京)開設のアチック・ミューゼアム研究所員となる。「土と共に」は、その第一回目の旅である。旅行当時32歳。

  • 周防大島文化交流センター
  • 宮本常一情報サイト 周防大島郷土大学
  • 「大正昭和くらしの博物誌 ─ 民族学の父・渋沢敬三とアチック・ミューゼアム」/国立民族学博物館(みんぱく)

宮本常一「村里を行く」

宮本常一著作集25「村里を行く」(1977年)未来社の中の「土と共に」(pp.141-231)の旅では、松江から下って西中国山地に入り、細見谷(広島県)から広島・島根県境尾根を越えて、広見谷(島根県)に抜けている。

「土と共に」は昭和14年11月14日から、12月中旬までのおよそ一ヵ月ほどの旅の前半の記事であるが、私にはじつに印象の深い旅であった。(未来社版追記p.244より)

本書(Web作者注「村里を行く」)が最初に発行されたのは昭和18年12月20日であった。発行所は三国書房で、女性叢書の一冊としてであった。(未来社版追記p.232より)

なお、再刊にあたって、旧仮名を新仮名に改められている。

以下、カッコ内以外はすべて未来社版からの引用、ただし漢数字を算用数字に置き換えた箇所あり。

「土と共に」の旅行日程

  • 昭和14年10月4日夜、私は原稿を持って東京をたった。
    (Web作者注:確かに10月となっている。ただし、未来社版追記p.244によれば、「土と共に」の旅は11月14日から12月中旬である(上記参照)。なおここで原稿とは、田中梅治翁の「粒々辛苦」(下記参照)のことであり、田中梅治翁に会うことがこの旅の最大の目的であった)
  • 石見に入る前に島根半島を歩いてみたいと思って、17日朝、松江で汽車を下りた。(大芦村にて泊まる)
  • 翌18日はよい天気である。(恵曇村片句に泊まる)
  • 片句での二日間、私は山本先生から数々の話を聞いた。
  • 11月20日の朝、未だ夜のあけきらぬ頃に、私は宿の人に別れをつげて片句をたった。
    江角へ出てそこから七時に松江へ行くバスに乗る。
    松江で大社行きの汽車に乗って、今市で乗り換え江津へ向う。
    江津で三江線に乗り換え川平で下車した。
    (長谷村清見の分教場に森脇氏を訪ねる)
    森脇氏は病気で長らく休んでおられるという。私はそこで跡市村のお宅まで歩くことにした。
    その夜は一時が来、二時が来るまで森脇氏にさわりはいないかと思うほど話し続けた。
  • (11月21日)午後1時のバスで跡市をたち都濃津へ出る。
    都濃津から江津まで歩く。
    江津へ出てまた三江線に乗る。
    出羽(いずは)の町で下車した。
    田中梅治翁の家までは近い。
  • 22日は煙るような雨である。
    前夜は夜の三時まで興じあうたのであるがその夜もまた一時まで話がつづいた。
  • (11月23日)広島県大朝町のしるべをたずねて歩きだした。
  • 大朝について四日目、すなわち11月26日の夕方、こわれた時計をなおしに町まで出た。
  • 11月28日朝、八幡行きのバスに乗る。(終点からさらに樽床まで行き、後藤吾妻氏宅に泊まる)
  • 翌11月29日は昼すぎまで後藤氏から話をきいた。(三段峡から横川に至る)・・・その夜半から吹雪になって、夜があけるとまた一面の真白である。
  • (11月30日、「雪の峠」を越えて「三葛の宿」(石見国)へ至る。
    横川から奥、古屋敷、二軒小屋などをすぎて行く。
    匹見上村の紙祖へ出たのは三時を少しまわっていた。
    (三蔓にて宿をとる)
    詳細については、下記、私の山行記(2009年06月20日)からリンクあり
  • 12月1日、いよいよ今日は周防国へ入るのである。
    (山口県山代地方の高根村向峠にある斎藤家に泊まる)
  • (12月2日、同地の美島家に泊まる)
  • (12月3日)、三日の朝、向峠を辞した。
  • 12月4日、私は故郷の土を踏んだ。

松村久著「六時閉店-地方出版の眼-」マツノ書店

松村久著「六時閉店-地方出版の眼-」マツノ書店(1989年)という本がある。その中に、”宮本常一先生の思い出(1981年記)”p.105-108という項があり、そこには、民俗学者宮本常一のすさましい仕事ぶりが描かれている。

山口県・豊北町の古老の記憶画200枚以上について、たった2日間、本人をみっちり取材した上で、数週間後にはそれぞれの画毎にきっちり200語の解説文を編集して送ってきたという。「明治大正長州北浦風俗絵巻」1975年である。

これが地元の研究家であれば、たった1枚の絵の解説を書くために、本人の元に何回も通わなければならなかったのだそうである。

ところで、マツノ書店とは、山口県周南市(旧・徳山市)にある古本屋兼業の出版社で、山口県の歴史・民俗学関係の本だけを、DM(ダイレクト・メール)で直販している書店である。1974年(昭和49)から出版活動を開始、1988年(昭和63)には、出版100点記念として「毛利十一代史」(全10巻)を復刻している。

私の山行記(宮本常一関連)

-[[2009年11月15日]]
十方山林道からマゴクロウ谷を登り、横川越(ボーギのキビレ)に達する
-[[2009年10月03日]]
十方山林道を車で行く
田中幾太郎さんと匹見往還(マゴクロウ谷)
-[[2009年06月20日]]
十方山林道~マゴクロウ谷~横川越(ボーギのキビレ)敗退
宮本常一、横川(安芸国)から「雪の峠」を越えて「三葛の宿」(石見国)へ至る
宮本常一著作集25『村里を行く』「土と共に」”雪の峠”p.210-2から引用
-[[2005年01月22日]]
文殊山~嘉納山~嵩山
宮本常一展(周防大島文化交流センター)見学

2009/10/07初出

吉野ヶ里遺跡

吉野ヶ里遺跡とは

吉野ヶ里遺跡は、北部九州・佐賀県の丘陵上(神埼郡神埼町、三田川町及び東脊振村)にあり、全国でも最大規模の環壕集落遺跡として知られている。遺跡は弥生時代をとおして存在しており、「ムラ」から「クニ」への変遷の跡をたどることができる非常に貴重な遺跡である。

吉野ヶ里遺跡は、1991年(平成3年)5月28日に国の特別史跡に指定された。そして、国営公園(吉野ヶ里歴史公園)として、周辺の佐賀県営公園とともに、一体的な都市公園として計画・整備されている(総面積約117ヘクタール)。

吉野ケ里歴史公園では、「弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)」の吉野ヶ里を想定して復元整備を行っている。魏志倭人伝のいう「クニ」を想定しているといってよいだろう。V字型環壕はもちろんのこと、弥生時代では最大規模とされる大型建物跡の復元(木造三層二階建ての”主祭殿”)などを見ることができる。

プロジェクトX~挑戦者たち~(NHK)

プロジェクトX~挑戦者たち~
アンコール「王が眠る、神秘の遺跡」
~父と息子・執念の吉野ヶ里~
12月07日(火)21:15~22:00放送(2004年)

2週連続して「プロジェクトX~挑戦者たち~」を見た。番組終了後インターネットで調べたところ、第76回(2002年01月15日)放送分に新撮影を加えて再構成したものだという。

1986年(昭和61年)、吉野ヶ里で巨大工業団地建設計画に伴う「開発調査」が開始された。開発調査とは、建設区域に遺跡があるかどうか調査することを、文化財保護法によって義務付けたものであり、調査は工事をする側の責任において行う必要がある。という訳で、佐賀県庁文化課では吉野ヶ里発掘プロジェクトを立ち上げ、リーダーを含めて6名のメンバーで調査を開始した。

吉野ヶ里は、昔から畑を耕せば土器がでてくるというような土地であった。しかし、そこが古代の王国跡だとは誰も思ってはいなかった。そうした中でただ一人、七田忠志(地元神崎高校の社会科教師)だけは違っていた。生涯をかけて(1981年、昭和56年没)独力で発掘調査を続けたのだ。その息子が吉野ヶ里発掘プロジェクトのリーダーとなった七田忠昭である。

発掘は順調に進んだ。忠昭は父の夢みた王国が具体的な姿を現してくるのを素直に喜んだ。ただし、この調査は「開発調査」だ。発掘が終わり次第遺跡は壊されてしまい、二度と再び人々の目に触れることはない。現に、発掘現場周辺ではブルドーザーが準備活動を始めていた。調査を終了した地点から、順次工業団地建設に向けて整地するためである。

発掘を進めるうちに忠昭は確信するようになっていた。この遺跡は絶対に壊してはならない。そこで、あらゆる手立てを尽くして遺跡を破壊から守ろうとした。そして、最終的に吉野ヶ里遺跡が永久保存されるきっかけとなったのは、佐賀県知事・香月熊雄の判断であった。

吉野ヶ里遺跡は、北部九州・佐賀県の脊振山系から舌状に延びた丘陵上(神埼郡神埼町、三田川町及び東脊振村)にあり、全国でも最大規模の環壕集落遺跡として知られている。遺跡は弥生時代を通して存在しており、「ムラ」から「クニ」への変遷の跡をたどることができる非常に貴重な遺跡である。

吉野ヶ里遺跡は、1991年(平成3)5月28日に国の特別史跡に指定された。さらに、平成4年10月27日の閣議決定により、国営公園(吉野ヶ里歴史公園、面積54ヘクタール)として国土交通省によって整備されることになった。

また、本公園の周囲は、国営公園と一体となった遺跡の環境保全、及び歴史公園としての機能の充実をはかるため、県営公園(約63ヘクタール)として佐賀県によって整備が進められている。すなわち吉野ヶ里遺跡は、その周囲も含めて総面積約117ヘクタールの区域が、一体的な都市公園として計画・整備(継続中)されているのである。

さて、吉野ヶ里遺跡では、弥生時代前期においてすでに環壕を持った集落が出現しており、「ムラ」から「クニ」へ発展する兆しをみせている。中期には、丘陵を一周する大規模な外環壕が形成され、後期に至って、環壕がさらに2か所の内郭(北と南)をもつようになった。

北内郭と名づけられたゾーンは、二重の壕と城柵(土塁と柵)で囲まれており、複数の大型建物跡が発見された。このうち弥生時代では最大規模とされる大型建物跡は、祭祀場であったと考えられており、木造三層二階建ての”主祭殿”として復元されている。

吉野ヶ里遺跡は、弥生時代後期に環壕集落の形態を最も整え最盛期を迎えたものと考えられている。そこで、吉野ケ里歴史公園では「弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)」の吉野ヶ里を想定して復元整備を行っている。魏志倭人伝のいう「クニ」を想定しているといってよいだろう。

明石原人の謎

以下、用字用語には再考の余地が有ります。

2004/04/11、最終稿完成
2004/02/25、春成著作(7冊目)追加、本文追加訂正
2004/02/24、設楽編著(6冊目)追加、本文追加訂正
2004/02/16、白崎著作(5冊目)追加、本文追加訂正
2004/01/12、初出(参考文献4冊に基づく)

学術用語の変遷:

更新世(最新世)Pleistocene ← 洪積世Diluvium
約180万年前~1万年前
ヨーロッパがしばしば氷河に覆われた時期

完新世Holocene ← 冲積世(のちに沖積世)Alluvium
約1万年前以降
現在と同じ動植物・景観になる

下記文章中では表記が混乱しています。

明石原人とは

明石原人とは、直良信夫(なおら・のぶお)が昭和6年(1931年)4月18日に明石市西八木海岸で採集した化石人骨(腰骨の一部、左側の寛骨)に付けられた名前である。

命名者は東京大学理学部人類学教室の長谷部言人(はせべ・ことんど)名誉教授で、長谷部は<戦後>になって人骨の石膏模型(現物は空襲で焼失)を研究して、原人級の古い化石と判断したのである。

直良信夫著「学問への情熱」 佼成出版社(1981年)

岩波書店、同時代ライブラリー(247)1995年刊再録

ある考古学者のすばらしき人生(アマゾンレビュー)

ある考古学者のすばらしき人生(アマゾンレビュー、akiamsa21、2005/09/23)
考古学者・直良信夫(なおら・のぶお)は苦学の人であった。音(おと)夫人との運命的な出会いをバネに、最後は早稲田大学教授にまでなったその真摯な生き方は、人々に大きな感動を与えてくれる。その信夫の「学問への情熱」を支え続けたのが、後に明石原人と呼ばれるようになる一片の化石人骨発見であったことは間違いない。

信夫は当時(1931年、昭和6年)明石で病気療養中のアマチュア考古学者にすぎなかった。彼の発見した人骨(腰骨の一部、左側の寛骨)に明石原人と命名したのは、東京大学理学部人類学教室の長谷部言人(はせべ・ことんど)名誉教授だ。長谷部は<戦後>になって人骨の石膏模型(現物は空襲で焼失)を研究して、原人級の古い化石と判断したのだ。

この人骨は確かに化石化していた。実物を手にとって研究することのできた信夫自身は、少なくとも<旧人>クラスのものと考えていた。しかし最近の研究では、旧人はおろか縄文時代以降の<新人>に属するとする説まででてきている。そこで、この人骨は最近では「明石人骨」と表記されている。中学歴史教科書でも採用されることはないようである。

信夫の主張が学会の主流となることはなかった。そして、明石人骨という永遠の謎を残したまま、彼は黄泉の国へ旅立ってしまった。

直良信夫、明石人骨を発見する

明石人骨の発見者・直良信夫(当時29歳)は、明石で病気療養をしていたアマチュア考古学者であり 、21歳の時すでに一流雑誌に考古学の処女論文を発表した経歴を持っていた。そして、人骨発見当時までに表した論文・報告の類は80編以上におよんでいた。

信夫は当時、自宅の玄関先に「直良石器時代文化研究所」(大正14年4月開設-23歳の時)という看板を掲げて、近隣の遺跡等の発掘を行っていた。そして私家製の研究報告書まで発行していた。

信夫が特に力を入れていたのは大歳山遺跡で、彼はこの遺跡を研究したくて明石に居を構えたようだ。つまり、一家の生活を支える立場にあった夫人 (女学校教師)の方が、信夫の意向に合わせて勤め先に市立明石高等女学校を選んだと考えられる。

1926年(大正15年)1月、24歳
播磨国明石郡垂水村山田大歳山遺跡の研究
(直良石器時代文化研究所所報第一輯)
B4版、本文58ページ、図版19ページ
コンニャク版印刷(私家本、限定30部)

人骨は明らかに化石化していた

さて、信夫が明石人骨を発見したとき、崩壊土(タルス)に埋もれた状態になっていた。つまり、崩れていない崖のなかに完全に埋まった状態で掘り当てたものではなかったのだ。信夫のメモには人骨発見時の状況について、「骨には青土がついていた。人骨の出土層は、下部の青粘土層に接している砂礫層だった」と書かれている。

信夫は、この推定出土層に加えて、人骨が明らかに化石化していたことから、この人骨を<旧人>(数十万年前)のものと考えた。つまり、信夫自身が<原人>級 (百万年前)というような古いものと考えていた訳ではない。いずれにしても、発見当時に詳細な報告がなされなかったことは悔やまれる。

詐欺師呼ばわりされる

さて、当時の学会では旧人とする考えすら全く受け入れられなかった。現地の発掘調査を試みようとする学者は誰もいない。逆に信夫のことを「詐欺師」呼ばわりする者さえでてくる始末であった。

東京大空襲で化石を消失する

信夫には学歴がなく自分の立場を強く主張する後ろ盾は何もなかった。人骨について発表する場はどこにもない。傷ついた信夫は、思い切って東京へ出て考古学者への道をめざす。しかし大切に保管していた人骨は、東京大空襲(昭和20年)で焼失してしまう。信夫は計測資料もメモもその他一切の研究資料も同時に全て失ってしまった。

明石原人誕生(東大・長谷部言人が命名する)

ところが実はこの人骨の石膏模型が東大理学部人類学教室に残されていたのである。信夫は人骨発見直後、同教室の松村瞭博士に鑑定のため人骨を一時預けたことがある。その際に博士は人骨の写真を撮り、そして石膏模型を密かに作成したらしい。明石原人とは、戦後この石膏模型を見つけ出して研究した同教室の長谷部言人が命名した名前である。すでに人骨発見から17年が経過していた。

現地再発掘調査の成果なし

長谷部言人らはさっそく現地発掘調査も行ったが成果はでなかった。その後、この石膏模型を用いて研究した学者のなかには、人骨はせいぜい1万年前までのものという結論を出すグループも現れてきた。その研究手法は、人骨が化石化していたかどうかには全くとらわれることなく、石膏模型の各部を計測したデータを純粋に統計学的手法を用いて解析したものである。

信夫は人骨の発見とほぼ同時期に「旧石器」も発見しているが、残念ながらそれらは現在の学問水準からすればただの自然石でしかない。しかし、「明石人骨」については、実際にそれを手にとってみたことのある人々は、確かに<化石化していた>と証言しており、依然として疑問が残る。

再々発掘調査(国立歴史民俗博物館、団長・春成秀爾)でも成果なし

明石原人はいたのかいなかったのか、再々発掘調査が国立歴史民俗博物館(団長・春成秀爾)によって行われた。その結果、人骨が出たとされる層を確認することができた。しかし、新たな人骨や石器は発見されず最終的な結論を出すまでには至らなかった。

この地層の年代については、参加した多くの研究者(地質学、植物学、年代学等)の見解が、約6~7万年前という立場と、十数万年~7,8万年前という立場の二つに分かれており結論はでていない。

なお、この地層から人間によって加工されたと思われる板状の木材片が発見された。また、発掘直前に一般の人が、同じ地層(崖)から石器を一つ抜き取っていた。太古の昔、この附近で「明石人」が暮らしていたことは間違いない。

明石人骨は縄文時代以降のもの?

さて、信夫の発見した「明石人骨」そのものについては、人類学会の大勢はいくら古くても縄文時代以降としているのに対して、今でも反対説が唱えられている。人骨が明らかに化石化していたという事実は重い。「明石人」問題は未だ解決してはいない。

永遠の謎に包まれたままである

しかしながら、学問研究で使用する資料は、きちんとした発掘調査によって得られたものだけに限るべきである、とする春成の意見は傾聴に値する。偶然採取した資料の、しかも複製品が残っているだけでは、いつまでたっても議論は空回りするだけで前には進まない。こうして明石人骨は永遠の謎に包まれることとなった。

参考資料

明石原人の発見-聞き書き・直良信夫伝-
高橋徹著、朝日新聞社(1977年)
学問への情熱-「明石原人」発見から五十年-
直良信夫著、佼成出版社(1981年)
「明石原人」とは何であったか
春成秀爾著、NHKブックス(1994年)
見果てぬ夢「明石原人」-考古学者直良信夫の生涯-
直良三樹子著、時事通信社(1995年)
「明石人」と直良信夫-「明石人」問題はまだ解決していない-
白崎昭一郎著、雄山閣(2004年)
揺らぐ考古学の常識-前・中期旧石器捏造問題と弥生開始年代-
設楽博己編、吉川弘文館(2004年)
考古学者はどう生きたか-考古学と社会-
春成秀爾著、学生社(2003年)
明石原人の発見
高橋が直良から聞き取りして書いたものである。
学問への情熱
本書の著者は直良信夫となっている。しかし、ほんとうはフリーライターの渡部誠が直良からまず聞き取りを行い、さらに高橋徹(「明石原人の発見」朝日新聞社1977年刊の著者)が直良から聞き取りをしたときの録音や、春成秀爾(「「明石原人」とは何であったか」NHKブックス1994年刊の著者)が提供した資料に基づいて下書きしたものに、春成が手を入れ最終的に直良が修正したものである。

「明石原人」とは何であったか
上記2冊の本に対して、升水美恵子(直良長女)、直良博人(直良長男)の証言を元に修正を加えた箇所がある。

「明石原人」問題は、明石人骨発見から50年以上の年月を経過して、ようやく一応の結論をみたようである、としている。

見果てぬ夢「明石原人」
直良長女による作品である。直良自身の思い違いなど細かい点で上記書籍の内容に修正を加えた箇所がある。

「明石人」と直良信夫
考古学・人類学・古生物学の分野に大きな業績を残した「最後の博物学者」直良信夫83年の苦闘の生涯を綴る(帯より)。

著者は医師である。明石人骨そのものや統計処理の仕方について、医師として科学者としての眼からするどい批判を加えている。また、直良信夫履歴についても精査しなおして矛盾点を解決している。

直良信夫略年譜、「明石原人の発見」巻末
直良信夫著作論文目録、「学問への情熱」巻末

照葉樹林文化

照葉樹林帯とは

東アジアの植生分布は、長江(揚子江)流域を基点として、三つに大別できる。すなわち、常緑広葉樹林帯(南側)、落葉広葉樹林帯(北側)、および乾燥地帯(西側)の三つである。

そのうち、常緑広葉樹林帯(暖温帯)のことを特に<照葉樹林帯>と称している。この地域が、アラカシで代表されるような照葉樹林(常緑のカシ類のほか、シイ、タブ、クス、ツバキなどのように葉の表面に光沢のある常緑樹)でおおわれているからであり、モンスーンの影響を受けて豊かな森林を形成している。

照葉樹林文化「論」によれば、この照葉樹林帯の核心部分で成立した独自の農耕文化およびそれに付随する種々の文化要素が、中心部からはるか離れた極東の島である日本列島(南西部)にまで伝播しており、その結果、照葉樹林帯全域にわたって数多くの共通する文化要素が分布する、としている。一種の壮大な作業仮説である。

照葉樹林帯を通って、古くから日本列島にはいくつかの農耕文化がもたらされた。イモ類の半栽培や水さらしの技術(縄文前期)、雑穀・根栽型の焼畑および陸稲、そして水田稲作(縄文晩期後半)である。またこれらと共に一連の文化要素がセットでもたらされた。

照葉樹林帯とナラ林帯

日本には、照葉樹林帯という<南>からの道に加えて、環日本海に広がるナラ林を基盤とするナラ林文化という<北>からの道がある。縄文時代は一貫して東日本のナラ林帯の方が、西日本の照葉樹林帯よりも優位に立っていたことは間違いない。縄文時代の成立と発展におけるナラ林文化の影響を無視することはできないだろう。

日本の民族文化(基層文化)の形成を考えるときには、

縄文時代の始まり(ナラ林文化の関与)
照葉樹林文化の進出と展開(雑穀・根栽型焼畑農耕)
水田稲作の受け入れ(縄文時代晩期後半)
国家体制の確立(古墳時代)とそれらに伴う文化要素の影響度、について検討する必要がある。
水田稲作をもって初めて日本の基層文化とみなす考え方では片手落ちであろう。

照葉樹林帯(常緑広葉樹林帯)の範囲は、ネパール・ヒマラヤの中腹(高度1500~2500m)から、ブータンやアッサムの山地、ミャンマー(ビルマ)北部を中心とする東南アジア北部の山地、さらに中国の雲南・貴州の高地をへて江南の山地に至る。そして長江流域を含んでその南側から台湾高地、南西諸島さらに朝鮮半島南端部から西日本一帯(および本州中部から関東地方の太平洋岸)まで延びている。

落葉広葉樹林帯のことは特に<ナラ林帯>とよんでいる。それら森林帯が主としてコナラ亜属で構成されているからである。ここでブナ林帯とよばないのは、東アジアの大陸側にブナがほとんど分布していないからであるという。

ナラ林帯はさらに<暖温帯>落葉広葉樹林帯と<温帯>落葉広葉樹林帯の二つに分けて考えた方がよい。

暖温帯落葉広葉樹林帯は、淮河から遼東半島に至るいわゆる華北一帯(北側に北京がある)で、中心には黄河が流れており、”リョウトウナラ”の分布域である。リョウトウナラは乾燥にやや強く温暖な地域に適する樹木である。

温帯落葉広葉樹林帯は、東北日本およびユーラシア大陸の日本海側(ハルピン、瀋陽、朝鮮半島のピョンヤン、ソウルより東側)に広がっている。

大陸側での構成種は、モンゴリナラ(日本のミズナラによく似る)をはじめ、シナノキ、カバノキ、ニレ、カエデなどで、温帯落葉樹林の指標となるブナは優先種とはなっていない。その理由は、乾燥度が高い、正確にいえば大陸度が高いためとされる。これに対して東北日本では、ブナ、ミズナラ、コナラ、クリなどが主体となる。

なお、それらナラ林帯の東側(沿海州)から北側(アムール川の下流域)までを含めて、自然景観からすると広い意味でのナラ林帯と考えることができる という。

結局、ナラ林帯の範囲は、環日本海地域(朝鮮半島中・北部、中国東北部、ロシア沿海州、アムール川下流域、サハリン、北海道、東北日本)に加えて華北一帯ということになる。

日本文化の東と西

日本列島の植生は、中部地方を境として西日本(照葉樹林帯、暖温帯)と東日本(ナラ林帯、温帯)で異なり、両者はそれぞれユーラシア大陸の南と北に連なっている 。

このような南北のルートを通して、それぞれの文化要素が時代を超えて何回も日本列島に流れ込んできた結果、日本列島内の西と東では特性の異なる文化要素が分布することになったのである。

例えば、方言や味覚の違いなどはわかりやすいものの一つであろう。こうした違いは細石刃文化(旧石器時代、縄文時代直前)の時代にはやくも現れており、縄文、弥生、そして古墳時代から現代まで続いている。

なお東西を二分するような違いがより鮮明になるのは縄文時代晩期であり、その当時の日本列島は、突帯文文化圏(西日本)と亀ヶ岡文化圏(東日本)に大別することができる。そして、その境界線は中部地方であり植生の違いと一致している。

縄文文化(東日本)はナラ林文化

日本の民族文化(基層文化)の形成を考えるとき、まず第一の画期となるのは縄文文化の成立である。縄文文化には、北方系の特色(深鉢式に縄目文を持つ土器など)が色濃くみられることから、東北アジアのナラ林帯に成立したナラ林文化の影響が東日本にも及んだ可能性が考えられる。

縄文時代は東日本の時代である。人口密度でみると圧倒的に東日本の方が高いのである。例えば縄文中期における100平方キロメートル当たりの人口は、関東地方300人、中部地方260人に対して、近畿地方8人、中国地方4人だという(小山修三教授、国立民族学博物館)。また縄文遺跡の8割は東に分布するともいう(山内清男氏)。

その理由として、ナラ林帯の方が照葉樹林帯よりも食糧資源が豊富であることがあげられる。狩猟採集社会では自然の恵み豊かな方が有利となる。

縄文時代の主要食糧であるクルミ、トチ、ナラ、クリの実などは、圧倒的にナラ林帯に多い。ここで、脂質に富むクルミが多いことは重要な要素である。サケ・マスなどの動物性たんぱく質とともにバランスのよい食事をとることができる。東日本の縄文人は、「成熟せる食糧採集民」であった。

照葉樹林文化の進出(プレ農耕段階)

気候の温暖化に伴い、日本列島の西部に照葉樹林文化(採集段階)が進出してきた。第二の画期である。時期は縄文時代前期ころとされている。

そこでは、すでにウルシ(鳥浜貝塚)が利用されており、縄文時代晩期には本州最北端(亀ヶ岡遺跡など)に達した。また、クズ、ワラビ、サトイモ、 ヤマノイモ、ヒガンバナ、ウバユリなどイモ類の半栽培が行われた。これら半栽培植物の多くはアジア大陸の照葉樹林帯が起源と考えられている。その他、ヒョウタン、エゴマ、リョクトウ、シソなどの小規模な栽培(インド、アフリカのサバンナ地帯起源)が行われた。

西日本では非常に多くの打製石器が出土している。ドングリ、トチなど堅果類の実や野生のイモ類を水でさらし、澱粉を濃縮して利用していたものと思われる。いずれにしても、西日本では狩猟や漁撈も行ったであろうが、植物への依存度が大きい生活様式をとっていた可能性が高い。

縄文焼畑農耕(雑穀・根栽型)

照葉樹林文化のクライマックスを支えた最も重要な生業は焼畑農耕である。そしてそれは山と森を生活の舞台とした文化であった。

日本各地の山村では、かつてアワ、ヒエ、ソバなどの雑穀や豆類、サトイモなどのイモ類を主作物とする「雑穀・根栽型」の焼畑がひろく営まれていた。その時期は昭和35年(1960年)ころまでで、範囲は九州、四国あるいは中部の山地に及んでいた。

日本における焼畑の技術、構成作物の特色、あるいは畑作儀礼の特徴などをくわしく調べると、アジア大陸の照葉樹林帯のそれと一致する点が少なくないことが分かってきた。

焼畑とともに関連する文化が一つのセットになって大陸から伝わってきたことが分かる。時期は水田稲作農耕が展開するかなり前のことで、こうして縄文農耕が始まった。

飲み茶の慣行
ウルシを用いる漆器製作
マユから絹を作る技法
麹を用いるツブ酒の醸造
味噌、納豆など大豆の発酵食品
コンニャクの食用慣行
モチ種の穀物の開発と利用、およびその儀礼的使用
共通の神話、説話(オオゲツヒメ型神話、洪水神話、羽衣伝説その他)
歌垣、山上他界、サトイモの儀礼的使用、八月十五夜
儀礼的狩猟、粟の新嘗その他の習俗、など

ここで特に注目に値するのは、日本列島に隣接した地域(長江中流域の江南山地や台湾山地など)では、陸稲が焼畑の主作物から欠落している例が多いことである。 同様の傾向は、西日本各地の山地における焼畑(昭和35年頃まで存在)でもみられたという。

陸稲を含まない古いタイプの照葉樹林焼畑農耕が存在した可能性がある。ならば陸稲が日本列島に入ってきた時期はいつか。そしてそれはどの様な場所で栽培されたのか。たとえば、川の河川敷や湖の湖畔のような土地を火入れによって開墾していたのであろうか。 今後の研究成果に期待したい。

なお、農耕が始まったからといって人口支持力がそれほど向上したわけではない。縄文時代を通して人口密度は圧倒的に東日本の方が高い状態が最後まで続いたのである。

水田稲作の始まり

イネは他のイネ科作物に比べて、味よく穀粒が大きく調理しやすいなど多くの利点をもっている。このようなイネが照葉樹林帯の中で選択され、水田稲作に生業の基盤をおく「稲作文化」として分離・独立していった。

日本に水田稲作が伝わるのは縄文時代晩期後半であり、そのルートとしては、大陸から直接の場合に加えて朝鮮半島南部経由の2つが考えられている。このとき、当然ながら水田稲作に伴う新しい文化要素が大陸からもたらされた。第三の画期である。

しかしながら、日本の水田稲作文化(弥生文化)は、日常的生活文化の多くを縄文文化の伝統から引き継いだとみることができる。ただし、この場合の縄文文化とは、照葉樹林焼畑農耕の影響を受けていた西日本の縄文文化のことをいう。共に照葉樹林文化の中から発生した文化であり違和感がなかったのであろう

焼畑農耕の諸特色に加えて
ナレズシづくりの慣行
鵜飼の習俗
正月の来訪神
焼米の製作と利用
高床家屋
その他の文化的特色が加わる

このとき照葉樹林帯の外から受け入れた文化要素としては、どちらかといえば非日常的で象徴性の高いものが多いといえよう。例えば、鏡や武器類(銅剣・銅矛・銅戈など)、ガラス製品(玉や管玉)、支石墓(ドルメンの一種)や卜骨(鹿の骨などを焼く骨占い)などである。

このようにして成立した弥生文化は、「稲作文化」のセットとして全国に拡大してゆくことになる。ただしその浸透速度は従来考えられていたほどではなく、見渡す限りの水田が日本全国に展開するのは近世以降という説もでている。

弥生時代の始まりは500年さかのぼる可能性がある?

放射性炭素(C14 )年代測定法を用いた最近の研究成果によって、弥生時代の始まりが500年もさかのぼる可能性がでてきた。2003年5月に国立民俗歴史博物館から発表されたもので、各方面で大反響を巻き起こしている。

参考資料

日本文化の基層を探る-ナラ林文化と照葉樹林文化-
佐々木高明著、NHKブックス1993年
照葉樹林文化の成立と現在、田畑久夫著、古今書院2003年
国立民俗歴史博物館HP
図2-1、東アジアの植生とナラ林文化・照葉樹林文化の領域、P.053
図6-11、東アジアにおけるナラ林の分布、P.216

2004/02/20、追加訂正
2003/08/13、初出

稲のきた道

稲はどこから来たのか

春、田植えによって水田に整然と植えられたイネの苗は、夏になって青々と育ち、やがて収穫を前にして黄金色の稲穂を垂れる。平地では見渡す限りの水田が広がり、山間部では天まで届きそうな棚田が折り重なる。これぞ現代日本人が稲作に対して持つイメージの典型であろう。

しかしながら、こうした見渡す限りの水田風景が日本中に広がるのは、おおざっぱに言えば江戸時代に入ってからということになるかもしれない、という。水田を維持管理するということは大事業であり、灌漑用の水路やため池そして肥料などの条件が整ってくるのは近世以降と考えられるからである。

ところで、日本列島には少なくとも今のイネに直接つながるような野生のイネは存在しなかったとされている。イネはやはり南方の植物である。ならばイネは、いつ、誰が、どこからどのようにして日本に運んできたのであろうか。“稲はどこから来たのか”、興味の尽きないテーマである。

世界の栽培イネ(サティバとグラベリマ)

世界で現在栽培されているイネには二つの種類がある。オリザ・サティバ(Oryza sativa)とオリザ・グラベリマ(Oryza glaberrima)である。ただし、グラベリマはアフリカ西海岸付近だけで栽培されているものであり、全世界で広く栽培されているイネはサティバ一種のみである。

サティバの品種(インディカとジャポニカ)

サティバはさらに、インディカとジャポニカという二つの品種のグループに大別される(加藤茂苞しげとも博士・九州大学、1928年)。

寺地徹(現・京都産業大学)の葉緑体DNAを使った研究(1988年、当時京都大学学生)によれば、栽培イネはもちろんのこと、野生イネにもインディカ型母系とジャポニカ型母系が存在するという。pSINE(動き回る遺伝子の一種)の研究(大坪栄一・久子夫妻など)によれば、インディカの系統とジャポニカの系統ははっきり分かれて分布している。

すなわち、インディカとジャポニカとは祖先を異にするグループであり、栽培イネには二つの祖先があったと考えることができる(二元説有利)。なお、インディカとジャポニカを区別する方法として、フェノール反応(Ph)、プラス(インディカ)、マイナス(ジャポニカ)なども用いられる。

ジャポニカを細分類する(熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカ)

ジャポニカはさらに、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカに細分化される(岡彦一博士、国立遺伝学研究所)。岡博士は多くのイネ品種を観察するうちに二つの区別を直感的に感じ取ったもののようである。

中村郁郎(1997年、千葉大学)によれば、葉緑体DNA(PS-ID部分)分析によって、インディカとジャポニカの判別はすぐにできる。また、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの区別も場合によっては完璧にできる。このようなPS-IDのタイプなどを組み合わせて葉緑体DNAからみたイネの系統樹を作ることができる。

さらに、核DNAを電気泳動にかけてできるバンドによって、熱帯・温帯の両ジャポニカの区別がかなりの確率(80~90%)でできるとされている(佐藤洋一郎)。ただし、二つのジャポニカの間には自然交配によってどちらともつかない品種もできており、この方法によってそれ以上精度を上げることは難しいようである。

稲作は縄文時代に始まった

風張(かざはり)遺跡(青森県八戸市)から米粒が7つ発見され(1989年?)、年代測定の結果は毎日新聞(1992年8月30日朝刊)などで報道された。「青森で日本最古のコメ、3000年前の遺跡から、伝播定説より500年早く」。こうして日本列島における縄文稲作の存在が現実のものとなった。

最近の研究によって、 日本でのイネの栽培は縄文時代から始まったことが確実視されている。その本格的な栽培開始時期については、西日本では6000年前 (縄文時代前期から中期頃)、東日本ではそれよりかなり遅れて3000年前(縄文時代後期頃)とされており、東西で大きな開きがある。

縄文稲作はどこから来たか(新・海上の道)

縄文のイネ(陸稲)は<熱帯ジャポニカ>である。 熱帯ジャポニカは、縄文時代のいつの日にか南西諸島を経由して、すなわち「海上の道」(柳田國男)を通って日本列島にやってきたと考えられる。

その根拠は、在来品種の研究によると、熱帯ジャポニカの形質や熱帯ジャポニカに固有と思われる幾つかの遺伝子が南西諸島のものに多いからである。ただし渡来元については、台湾・フィリピン、インドシナ半島、あるいは長江下流域など、今は特定するに至らない。

なお、ここで在来品種とは、国などの機関による品種改良が始まる前に各地にあった古い品種で、それぞれの土地の風土によく適応していると考えられている。日本でいえば 、江戸時代末から明治にかけての時代のものである。

南西諸島の稲作(オーストロネシア型農耕)

日本列島に至る南からの道を考えるとき、一番南に位置する南西諸島の役割は非常に重要となる。

南西諸島は、自然や歴史あるいは民俗文化的要素から、三つの地域に分けて考えると分かりやすい。すなわち、北部圏(種子島・屋久島及びトカラ列島など)、中部圏(奄美諸島・沖縄諸島など)、そして南部圏(宮古諸島・八重山諸島など) の三つである。そして、これら文化圏の諸特質の違いを詳細に研究することによって、文化の流れを復元する試みが続けられている。

ところで、沖縄の伝統的農耕では畑作農耕の方が水田稲作農耕よりも比重が高かったと考えられる。その畑作農耕の主作物はアワであり、ムギや豆類とともにサトイモ、ヤマノイモなどのイモ類も重要な役割を荷っていた。その起源は、南島系の根栽農耕文化に求めることができる。すなわち、根栽=雑穀型の文化である。

南西諸島で行われてきた水田稲作の特徴は、「踏耕」(蹄耕)と冬作にある。ブル型のイネ(熱帯ジャポニカ)を主作物とするこのような農耕は、オーストロネシア農耕と呼ばれ、これまた東南アジアの島嶼部を中心とする南方的な要素を持ったものである。

踏耕とは、大型家畜(水牛・牛または馬)を数頭から十数頭ほど苗代あるいは本田に追い込んで水を張った田面を踏み付けさせ、水田の耕耘、除草、床締め(漏水を防ぐ)などを行う作業のことをいう。

冬作とは、例えばイネを秋冬に播種して、春夏に刈り取る栽培形態をいい、冬でも一定以上の気温と降水量が見込まれる冬雨型地域で可能となる。ここで夏場の栽培を避けるのは、夏の降水量が台風など不安定な要素に左右されるなどの理由が考えられる。

踏耕(オーストロネシア型農耕)の分布範囲は、東南アジア島嶼部(スラウェシ、ボルネオそしてスマトラなどのインドネシアの島々からマレー半島沿岸)を中心として、西はスリランカ、マダガスカル、東は小スンダ列島、東北はフィリピン・台湾から南西諸島にかけて広がっており、冬雨型の気候地域とよく一致している。

なお、八重山諸島の在来イネの中には、ブルとよく似た特性を示すにもかかわらず、フェノール反応がプラスを示すものが存在している。そして、その分布範囲は、台湾山地、海南島、ハルマヘラ島、スラウェシ島、そして小スンダ列島の島々など、東南アジアの熱帯島嶼部から日本本土の陸稲の中にも認められるという(渡部忠世)。

これらはより古い時代の栽培種であり、特徴として、水田でも畑地でも栽培しうる「水陸未分化」型の「陸稲」としての性質を持っていることがあげられる。

縄文稲作は焼畑農耕?

縄文稲作は焼畑によっていた可能性が高く、農耕遺跡は発見されにくいだろうと考えられる。インドシナでの焼畑の研究結果によると、焼畑は3年くらい使用すると放置される。また、焼畑を営む人々は農具というものをほとんど使わないという。

農具が乏しく、永続的に耕地として利用していない土地を発掘しても、農耕の跡を発見することは難しい。まして、縄文“水田”といったような“稲作”の遺構が見つかる可能性はまずあり得ない。

焼畑では、森を伐採して火入れを行い畑を開く。木や草を焼いてできた灰は肥料となり雑草の種子も死滅している。こうして焼畑1年目の生産性は驚くほど高くなる。インドシナの焼畑では日本での平均の5割もの収穫(玄米に直して)があるという。逆に、肥料や農薬を含め投下されるエネルギーははるかに小さい。それだけ効率がよいということになる。

畑を開いて2年目、3年目になると、雑草が生い茂り栄養分も不足してくる。病原菌や害虫も戻ってきて収量は目にみえて減少していく。魅力の乏しくなった土地は休耕にして一旦山の神様に返す。輪廻の思想である。

イネの痕跡を調べる

プラントオパール分析とは

イネ科の植物は土中の珪酸を吸収して葉の葉脈に平行して存在する機動細胞に蓄積する。プラントオパールとは、そうした珪酸体(ガラス成分)が地中から掘り出されたものをいい、植物の種類ごとに特徴的な構造をしている。

したがって、イネ・プラントオパールが発見されれば、そこにはイネが存在した可能性が非常に高いということになる。ただし、プラントオパールは非常に小さい(50ミクロン以下)ため、なんらかの原因によって汚染される可能性が否定できないため注意が必要である。

縄文時代の遺跡におけるイネ・プラントオパールの検出例は30例に及び(外山秀一さん、皇學館大学)、主に西日本の各地に広く分布している。縄文時代の前期以降、西日本の各地で稲作が行われていたことを示す証拠である。

1999年4月19日、日本最古(6400年前)のイネ細胞化石が発見された。朝寝鼻貝塚(あさねばな、岡山市内)でイネ・プラントオパールが発見されたのである(岡山理科大学・小林博昭さん、ノートルダム清心女子大学・高橋護さん)。

南溝手遺跡(みなみみぞて、岡山県総社市)では、縄文土器(縄文時代後期)のかけらの中からプラントオパールを検出することに成功した(宮崎大学・藤原宏志さん)。汚染されてまぎれこんだプラントオパールではないということを証明するにはここまでしなければいけない。まさに執念そのものである。

吉備地方を中心に縄文稲作の痕跡が数多く見つかっている。この地方での研究が進んでいるということもあろうが、いずれにしても遺跡の立地は山間部というよりは平野部にあるようだ。こうした傾向は全国的にいえることでもある。

日本列島に隣接した地域(長江中流域の江南山地や台湾山地など)では、陸稲が焼畑の主作物から欠落している例が多い。 同様の傾向は、西日本各地の山地における焼畑(昭和35年頃まで存在)でも見られたという。

古いタイプの焼畑農耕には陸稲を含んでいなかった可能性がある。ならば陸稲が日本列島に入ってきた時期はいつか。そしてそれはどのような場所で栽培されたのか。例えば、河川敷や湖畔のような土地を火入れによって開墾していたのであろうか。プラントオパール分析を含めて今後の研究成果が楽しみである。

花粉分析とは

花粉はプラントオパールと違って多くの植物種に存在しており、スポロポレニンという非常に丈夫な成分を含む外膜に覆われている。このため、湿原や湖底堆積物中に数万年、時には数百万年以上にもわたって化石として残ることができる。

花粉分析とは、このような化石花粉の組成変化を経時的に調べることによって、過去から現在に至る植生の変遷と気候の変化、あるいは人類による植生の撹乱などの手掛かりを得ることをいう。

花粉分析の結果からみると、縄文時代に広範囲にわたって長期間イネだけに占拠され続けた場所は認められないという。

弥生稲作はどこから来たか

弥生のイネ(水稲)は<温帯ジャポニカ>である。そして最近、“稲作の長江起源説”が唱えられている。考古学や育種・遺伝学の成果を踏まえてのことである。ここで稲作の起源が長江にあるかどうかは別として、日本列島や朝鮮半島に伝わった水田稲作の原型が、長江流域において形成されたことはほぼ間違いない。

DNA上のSSR領域多型について、日本列島、朝鮮半島そして中国大陸の温帯ジャポニカ在来品種250種を検討した結果、例えば、RM1というSSR領域に存在する8つのタイプ(a~h)について、中国大陸にはa~hの全てが存在することが分かった。朝鮮半島には、7つのタイプ(bを除く)が存在している。そして日本列島の在来品種の多くはaとb( その他若干のcタイプ)であった。

日本列島に最初にもたらされた固体数があまり多くなかったため、7つ8つある多型のうち一つまたは二つの型しかもたらされなかったと考えてよいだろう。(びん首効果-ボトルネック効果)

朝鮮半島に存在しないbタイプは、朝鮮半島を経由せず中国大陸から直接日本列島にもたらされたと考えられる。もう一つのaタイプは、朝鮮半島では半数以上を占めているが、中国大陸ではその割合があまり高くないので、朝鮮半島経由でもたらされた可能性が高い。

従来からこの二つの経路をめぐって、考古学者や農学者が入り乱れて学説の対立が続いていたが、二つの経路とも可能性があるということになる。特に朝鮮半島南部においては、弥生文化の原型とされる要素(石器や青銅器あるいは貯蔵穴など)をすべて有する酷似した遺跡が発見されており、その直接的つながりは深いと考えられる。

弥生時代とは水田稲作だけの時代か

畦や水路を伴った水田稲作は縄文晩期後半に北九州で始まった。しかし、現代の日本人がイメージするような水田を維持することは、実は並大抵のことではない。

水稲の栽培には水の管理が必須である。十分な水を確保するために、灌漑用の水路やため池などを必要とする。これらは個々の耕作者が個別に対応できるような問題ではない。大掛かりな土木工事を含む管理体制が前提となる。

また、イネだけが生存する生態系を長期に持続させるためには、常に雑草を取り払い肥料をやり続けなければいけない。そうしないと収穫を上げ続けることはできないのだ。

縄文の要素はなかなか消えなかった

水田と共にやってきた弥生のイネ(水稲)が、熱帯ジャポニカという縄文以来のイネを完全に排除するまでには長い年月がかかっている。少なくとも弥生時代は、熱帯・温帯ジャポニカ並存の時代であった。

弥生時代の全期間を通して熱帯ジャポニカが全体の約4割も占め続けていた。その割合には、弥生時代の始まりと終りの時期で差はない。また、列島の各地域による差もないのである。(2001年春現在、調べた種子の数120個中、熱帯ジャポニカ50個)

花粉分析の結果から、河内平野全体が水田という環境(弥生時代全般)には無かったと考えられる(池島・福万寺遺跡、大阪府)。雑草種子の量を調べることによって、古墳時代の大規模水田で稲作に使用された部分と耕作が放棄された部分が交錯している可能性が示唆されている(曲金北遺跡・まがりかねきた、静岡市)

曲金北遺跡(古墳時代)の広さ約5ヘクタール。3~4畳半程の小区画が連続した形状をしている。そのうち100の小区画を調べたところ、水田はたった22区画で休耕田が多く含まれていたことが判明した。また栽培稲は、水稲2割、陸稲4割であった。せっかくの水田で焼畑と変わらない雑駁農耕を行っていたことになる。これは全国の弥生遺跡に共通する特徴である。

日本に見渡す限りの水田が登場する時期はいつ?

縄文・弥生の稲作は肥料や農薬を使わない自然農法である。焼畑稲作では種まき後ほとんど人手をかけることはないだろうが、水田稲作では草取りは必須の作業であり過酷な農作業となる。焼畑稲作でそこそこの収穫があるならば、あえて水田稲作で苦労する必要はないかもしれない。費用対効果の問題である。

水田を維持管理するということは大事業であり、灌漑用の水路やため池そして肥料などの条件が整ってくるのは近世以降と考えられる。見渡す限りの水田風景が日本中に広がるのは、おおざっぱに言えば江戸時代に入ってからということになるだろうか 。

(付録)弥生時代の始まりは500年さかのぼる可能性がある?

放射性炭素(C14)年代測定法を用いた最近の研究成果によって、弥生時代の始まりが500年もさかのぼる可能性がでてきた。2003年5月に国立民俗歴史博物館から発表されたもので、各方面で大反響を巻き起こしている。

参考資料

・海上の道、柳田國男著、筑摩書房1962年など
・栽培植物と農耕の起源、中尾佐助著、岩波新書1966年
・稲作以前、佐々木高明著、NHKブックス1971年
・稲の道、渡部 忠世著、NHKブックス1977年
・環境考古学事始、安田 喜憲著、NHKブックス1980年
・日本文化の基層を探る-ナラ林文化と照葉樹林文化-
佐々木高明著、NHKブックス1993年
・稲の日本史、佐藤洋一郎著、角川選書2002年
・イネの文明、佐藤洋一郎著、PHP新書2003年
・国立民俗歴史博物館HP
・南からの日本文化(上)-新・海上の道-
佐々木高明著、NHKブックス2003年

放射性炭素(C14)年代測定法

放射性炭素を使って年代を測定する
2003/07/27、初出

自然界の炭素原子には、3種類が存在する

自然界の炭素原子(元素記号C、原子番号6)には、同位体が存在する。すなわち、炭素12(陽子6個、中性子6個)、炭素13(陽子6、中性子7)、そして炭素14(陽子6、中性子8)の3種類である。

ここで同位体(Isotope、アイソトープ)とは、同じ原子番号を持つ元素の原子(つまり同じ数の陽子あるいは電子を持つ原子)でありながら、原子核の中性子数が異なるもの(すなわち質量数が異なるもの)をいう。

なお同位体同士は、互いの化学的性質は非常に似通っている。
(質量数=陽子+中性子)

炭素14(C14):元素記号C、原子番号6、陽子6個、中性子8個
窒素14(N14):元素記号N、原子番号7、陽子・中性子とも7個づつ

放射性炭素(C14)年代測定法とは

放射性炭素(C14)年代測定法とは、自然界に極微量含まれる放射性同位体の炭素14が、β(ベータ)線とよばれる放射線を出しながら、一定の割合で減少(半減期5730年)していく性質を利用して、生物が死滅してからの経過時間(すなわち死滅した年代)を測定しようとするものである。

自然界の炭素原子には、安定同位体の炭素12(構成比99%)と炭素13(構成比1%)、および放射性同位体の炭素14(極微量)の3種類の同位体が存在している。

炭素14は炭素12や炭素13と比べて非常に不安定であり、大気圏上層で宇宙線の作用によって窒素14(N14)から生成される一方で、放射性崩壊(壊変)によってベータ線とよばれる放射線を出しながら、再び窒素14に戻っていく。

このように、大気中での炭素14の生成量と減少量はほぼバランスが取れているので、自然界における炭素14の量(炭素12に対する炭素14の割合)は、二酸化炭素(CO2)の形で長期間にわたってほぼ一定とみなされている。そして、このCO2内の炭素14は、植物による光合成、あるいは食物連鎖によって動植物の体内にも取り込まれてゆく。

これら生物(厳密には細胞ごと)が死滅すると、生体内(細胞内)に含まれていた炭素14の量は約5730年ごとに半減してゆき、死滅後に補充されることはない。つまり、生物の死後は、時間の経過とともに一定量の炭素14が減少してゆく。放射性炭素(C14)年代測定法は、この減少割合を尺度として年代測定をしようという方法である。

近年、測定精度が飛躍的に向上している

放射性炭素年代測定法の測定精度は、近年飛躍的に向上しており、その理由として以下のような点があげられる。

1)分析器そのものの改良
2)年代によって異なる大気中C14濃度のバラツキ補正表の整備
3)世界に百近くある測定機関の精度評価試験実施、など

分析器そのものの改良

放射性炭素年代測定法は、最近ではAMS法(加速器質量分析法:Accelerator Mass Spectrometry)が主流となっている。AMS法は、炭素原子をイオン化して加速し、極微量(炭素原子1兆個に1個の割合)含まれる炭素14原子を、一つ一つ直接数えることによって濃度を測定する方法である。

AMS法では、必要とされる炭素試料は1ミリグラム以下でよく、精度(誤差)は0.3-0.5%と非常に高く、測定結果が出るまで30分から1時間ですむ。また、測定限界は6万年までと長くなっている。

AMS法と従来法(ベータ線計測法)を比べると、ここ10年ほどで誤差は約1/3になっている。例えば、一万年前のサンプルで誤差20~40年程度まで向上しているという。

これに対して、従来法(ベータ線計測法)は、炭素14が壊変するときに放射されるベータ線を検知する方法である。試料はグラム単位で必要とされ、しかも1グラムの試料があっても炭素14は4~5秒に1個位しか壊れないので、計測には時間がかかる。なお、測定限界は3~4万年である。

年代によって異なる大気中C14濃度のバラツキ補正表の整備

ところで、大気中の炭素14濃度は、過去から現在に至るまで一定で変化しなかったわけではない。地球磁場や太陽の黒点活動の影響、あるいは核実験の影響などによって、年代ごとに炭素14の濃度は微妙に変動していることが分かっている。

したがって、炭素14の残存量から割り出した「炭素14年代」を、そのまま実際の年代(「歴年代」)に当てはめるわけにはいかず、何らかの補正が必要となってくる。

補正のための基礎試料としてよく利用されるのが、年輪年代のわかった樹木年輪の炭素14年代を測定する方法である。ここで使用される樹木は、今までは、日本列島から遠く離れた北米や欧州産の樹木であったが、最近では、日本産の樹木の年輪年代も測定することによって、地球規模でデータベースの整合性が計られている。

弥生時代の始まりは500年さかのぼる可能性がある?

こうしたC14年代測定法を用いた研究成果によって、弥生時代の始まりが500年もさかのぼる可能性がでてきた。2003年5月に国立民俗歴史博物館から発表されたもので、各方面で大反響を巻き起こしている。

以下、国立民俗歴史博物館HPより(2003年7月27日現在)
九州北部の弥生時代早期から弥生時代前期にかけての土器(夜臼Ⅱ式土器・板付Ⅰ式土器)に付着していた炭化物(コゲ、スス)などの年代を、炭素14年代測定法(AMS法)によって計測したところ、紀元前約900~800年ごろに集中する年代となった。

考古学的に、同時期と考えられている遺跡の水田跡に付属する水路に打ち込まれていた木杭2点の年代もほぼ同じ年代を示した。

これらの年代の整合性を確かめるために、前後する時期の試料、同時期の韓国や東北地方の試料の年代を測定した結果、以下のことがわかった。

1)韓国の、この時代に併行するとされる突帯文土器期と松菊里期の年代について整合する年代が得られた。
2)考古学的に、この時期と前後する土器の型式をもつ土器の試料の年代値と考古学的編年の間にはよい相関が得られた。
3)遺跡における遺物の共伴から、同時代とされる東北地方の縄文晩期の土器の年代と強い一致が得られた。

以上のように、夜臼Ⅱ式土器・板付Ⅰ式土器を使用していた時代は紀元前9~8世紀ごろ、すなわち日本列島の住人が本格的に水田稲作を始めた年代(夜臼Ⅰ式)は、紀元前10世紀までさかのぼる可能性も含めて考えるべきであることが明らかとなった。

この研究結果は、科学研究費補助金・基盤研究(A)(1)「縄文時代・弥生時代の高精度年代体系の構築」(2001-2003年度、代表:今村峯雄、課題番号13308009)の成果の一部として、2003年5月に国立民俗歴史博物館から発表された。

以上、国立民俗歴史博物館HPによる

東アジア情勢のなかにおける弥生時代(および縄文時代)の位置づけ

弥生時代(および縄文時代)の時代区分は、従来からの膨大な研究成果によって土器型式で日本全土が地域別・年代別に細分化されている。これらにC14年代測定法によって精密な実年代が与えられることの影響ははかりしれない。

一番大きな問題は、東アジア情勢のなかにおける弥生時代(および縄文時代)の位置づけである。上記研究成果を当てはめるならば、弥生時代が始まる時期は今まで戦国時代(中国)のことと想定されてきたが、殷(商)の滅亡、西周の成立のころ、ということになる。また、弥生前期の始まりは、西周の滅亡、春秋の初めのころとなる。さらに中国・日本等における青銅器、鉄器の使用開始時期の整合性など検討課題も多い。

参考文献:
国立民俗歴史博物館HP

縄文丸木舟

縄文丸木舟とは

縄文時代の丸木舟が日本各地の遺跡で発見されている。それを縄文丸木舟といっている。日本人の祖先は、そのような舟で大陸と直接交流していたのであろうか。日本人はどこから来たのか、日本人のルーツはどこまでさかのぼれるのか。興味のつきないテーマである。

縄文丸木舟で帆柱跡があるものはまだ見つかっていない。したがって、今のところすべて櫂(かい)を使ったペーロン方式で移動したと考えられている。

しかし、黒曜石、ヒスイ、琥珀、天然アスファルトや貝殻など、産地を特定できる交易品の流通経路の詳細な研究によって、縄文人のおどろくべき移動能力が実証されつつある。縄文人は、黒潮や親潮、あるいは対馬海流、そしてそれらの反転流をたくみに利用して移動する海の民でもあった。

東京・武蔵野台地の旧石器遺跡(約3万2千年前頃)から、伊豆諸島・神津島産の黒曜石を使った石器類が発見されている。しかし、神津島と伊豆半島との間には、幅30km(海深200m)以上の海が横たわっている。

渡航具(筏、丸木舟)はまだ見つかっていないが、旧石器時代人がすでに舟を利用して行き来していたことは間違いない。最近では、後期・旧石器時代人が南方から黒潮に乗ってやってきて縄文人の祖先となった、とする説が出ている。

夏の日本海は波穏やかで快適な南風が吹いている

新入社員時代の4年余を私は新潟で過ごした。そこでヨット(ディンギー)を習って日本海でも少し乗ったことがある。夏の日本海は穏やかな南風が陸から吹いており、波はなくヨットには快適な環境にある。

日本海側には砂丘が多い。それが入り組んだ地形を作ればすぐれた港になる。それに、なんといっても大陸に近いのは日本海側である。こうした環境に舟さえあれば、それにもし帆を張ることができたなら、夏の日本海を行き来することは可能と判断して良い。縄文時代の表玄関は日本海側であった。

縄文時代の丸木舟のほとんどが日本海側から発見されている。その数は50艘の単位であるという。その中で、縄文前期のものとしては長崎・伊木力 (いきりき)遺跡や福井・鳥浜貝塚(三方湖)のものなど6例が報告されている。

その内最古の丸木舟については資料によって判断が分かれる。鳥浜貝塚 (約6300年前)としたものがあるかと思えば、伊木力遺跡(縄文前期)としたものもある。

日本各地の縄文丸木舟

三方町縄文博物館HP
三方町内では鳥浜貝塚から2艘、ユリ遺跡から4艘の合計6艘の丸木舟が出土しています。これらの丸木舟は6300年前の縄文時代前期から2800年前の晩期のもので製作年代に幅が見られます。

伊木力遺跡出土丸木舟
海辺に近い湿地で発見された(船底部だけ)
現存長6.5m(推定全長7m以上)、厚さ2.5~5.5㎝、最大幅76㎝
両舷側、舳先、艫(船尾)は失われていた
センダンの木を使用

京都府舞鶴市・浦入遺跡(うらにゅう)
1998年(平成10年)2月4日に、約5300年前の縄文時代前期地層から大型の丸木舟が出土した。全長推定約8mのうち、約4.6m部分が出土、巾約80cm、深さ約20cm、舟底の厚さ5cmであった。

直径二mの杉を割り、焼け石で焦がしながら石斧でくり抜いた様子がしっかりと残っており、分厚く巾の広い構造から外洋に使われたもの(最古級)と判断されている。なお遺跡周辺からは、桟橋の杭の跡、錨として使った大石なども発見されており、当時の船着場跡と考えられる。

島根大学構内遺跡第1次調査(1994年)
縄文前期(約7000~6000年前頃)の泥炭層から、長さ約6m(幅約60cm、厚さ約2~3cm)のスギ板材が出土した。大きさ、形などから、丸木舟(最古級)として使われた可能性がある。さらに第3次調査(1996年)では、カイ2本とヤス柄が、傷ひとつない、全く完全な状態で出土した。これも縄文前期頃のものと考えられている。

縄文時代の年代区分(日本考古学会)

1万3000年前から、草創期
1万年前から、早期
6000年前から、前期
5000年前から、中期
4000年前から、後期
3000年前から、晩期
2300年前から(北九州)、弥生時代
2200年前から(東日本)、弥生時代

三方町縄文博物館における時代区分

これらの年代区分は地域・学説等によって若干異なっている。例えば、三方町縄文博物館HPの説明は次のとおりである。

三方町縄文博物館における縄文時代各時期の年代表示は、三方湖のボーリング調査で検出された年縞年代や年輪年代で得られた最新のデーターをもとに補正した(下記)数値で表示しています。

草創期、14000~11800年前
早期、11800~7000年前
前期、7000~5700年前
中期、5700~4500年前
後期、4500~3200年前
晩期、3200~2300年前

弥生時代の始まりは500年さかのぼる可能性がある?

放射性炭素(C14)年代測定法を用いた最近の研究成果によって、弥生時代の始まりが500年もさかのぼる可能性がでてきた。2003年5月に国立民俗歴史博物館から発表されたもので、各方面で大反響を巻き起こしている。

参考資料

「海を渡った縄文人」-縄文時代の交流と交易-
橋口尚武編著、小学館(1999年)

旧石器発掘ねつ造(捏造)/20世紀最後の大スクープ

日本にも旧石器時代が存在することは、相沢忠洋さんによる岩宿遺跡の発見によって初めて証明された。後年、その歴史的な石器を震える手で直接確かめた「熱烈な考古学ファン」がいた。その彼の調査によって、日本の旧石器時代は、約4万年前から何と70万年前までもさかのぼっていった。しかし、そこにはとんでもない仕掛けがあった。

旧石器発掘捏造(ねつ造)事件とは

20世紀最後の大スクープ

「旧石器発掘ねつ造(捏造)」
2000年11月05日(日)毎日新聞の第一面スクープである。

宮城・上高森遺跡70万年前と発表
調査団の藤村氏自ら埋める「魔がさした」

という記事と共に、藤村新一氏(東北旧石器文化研究所副理事長、50歳)が石器を埋める現場をとらえたビデオカメラの映像を載せている。

藤村新一氏が、70万年前の地層の中に適当な石器を前もって埋め込んでおき、後でそれを自ら掘り出して「発見した」と発表していたと言うのである。

つまりは自作自演である。20世紀最後の大スクープと言ってよいであろう。

果たして関わったのは彼一人だけなのか?

旧石器時代の研究は、20世紀終盤になって東北地方で大きく発展した。日本人のルーツはどこまでさかのぼることができるのか。多くの人々の関心が東北地方に集まった。

まず、宮城県大崎市の座散乱木(ざざらぎ)遺跡で発見された旧石器が、1981年に約4万年前のものと報告されて以来、20年足らずの間に70万年前までさかのぼっていったのである。

そして、これらの発掘の現場には常に藤村氏の姿があった。今となっては、それらの多くが氏の自作自演(自分で石器を埋めて自分で掘り当てた)であった可能性が非常に高くなっている。

何故次々と教科書に採用され続けていたのか

直ちに教科書の書換えが始まった。

しかしよく考えてみれば、もともと藤村氏らの研究成果が、次々と教科書に採用され続けたこと自体が異常だった。

氏らの研究ではきちんとした研究報告書は作成されていない。石器の型式の比較研究はほとんどなされていない。ただ単にそれ相当と思われる地層から石器が出たというレベルの話にすぎない。

前期 (及び中期)旧石器時代を対象とした考古学のレベルは、その程度のものだったのだろうか。

藤村自身は単なるアマチュアに過ぎなかった。系統だった科学的な発掘調査を行う能力は持っていなかった。それに対して、彼が関わった一連の発掘調査を指揮した専門家(学者)は一体何をしていたのであろうか。

そのほか多くの専門家の意見として、発掘調査の常識からすれば、20年間もねつ造を見抜けなかったはずは無いとしている。

それでは意図的に見逃していたのか。もしそうだとすればその目的は何だったのか。真実が明かされる日が来ることを切に願う。

相沢忠洋さんによる「岩宿の発見」(1946年ごろ)

関東ローム層(赤土)の中に旧石器を発見

相沢忠洋(あいざわ・ただひろ)という在野の研究者がいた。相沢さんによる岩宿遺跡の発見(1946年ごろ)は、日本にも旧石器時代(後期)が存在することを証明した「戦後の考古学史上最大の発見」と評されている。(住所:現・群馬県みどり市)

相沢さんは、赤城山麓の切り通しの崖で、関東ローム層(赤土)の中に旧石器を発見した。これに対して、縄文土器が出るのは、関東ローム層(赤土)の上の地層である。

その当時の考古学界の常識として、日本に旧石器時代はなかったと考えられていた。したがって、遺跡調査で関東ローム層(赤土)まで掘り進めば、その下にはもう何も無いとして調査は終了していたのである。

考古学ファン・藤村さん、岩宿の旧石器を見て感動

1975年(昭和50)、その歴史的な石器を相沢さんから直接自分の手の上に置いて見せてもらった「熱烈な考古学ファン」、それが藤村新一氏(当時25歳前後)であった。「手を震わせ、石器を食い入るように見つめていた ― 相沢さんの妻千恵子さんの話」という。こうして藤村氏も在野の研究者の一人となっていった。

日本の考古学はこのような在野の研究者によって陰で支えられている面が大きい。

しかし、彼らが後世に名を残すチャンスはほとんどない。たとえ貴重な発見をしたとしても、学会で認められないことにはどうしようもない。学会で認められるためには、学会の権威によるお墨付きが必要となるが、その過程で業績の横取りということも起こり得る。相沢さんの岩宿遺跡でも同様のことが起こっている。

明治大学助教授・故杉原荘介氏は、相沢さんを岩宿遺跡の発見者として扱わなかった。これに反発して明大を去り東北大学に移ったのが、当時、明大大学院生だった芹沢長介・東北大学名誉教授である。藤村氏が師と仰いできた学者である。運命の皮肉を感ぜずにはいられない。

在野の顔に泥を塗られた、相沢忠洋氏(岩宿の発見)の妻千恵子さん談

それはさておき、相沢忠洋さんの妻千恵子さんは藤村氏について語っている。

在野の顔に泥を塗られた。「やはり在野はダメ」だという学者の声が聞こえてくる。
・・・悔しくてやりきれません。

藤村前副理事長は在野の考古学研究者を対象にした第1回相沢忠洋賞の受賞者だったが、11月7日に返上した。同様に第4回受賞者の東北旧石器文化研究所も賞を返上した。

事件の影響は教科書の書き換えにとどまらず、博物館やインターネットの世界にも及び、お膝元の考古学協会も対応に追われた。藤村氏が発掘に関与した遺跡を有する自治体でも混乱が続いている。

2004/02/28、新規追加

前・中期旧石器問題調査研究特別委員会編
「前・中期旧石器問題の検証」日本考古学協会(2003年5月24日)

藤村氏がかかわった遺跡は186箇所
本物は一つもなくすべて捏造
旧石器遺跡のリストから末梢

注:「前・中期旧石器問題調査研究特別委員会最終報告」が発表されている。
口頭発表全文(2004年5月22日)を載せたものである。(2018/09/04確認)
archaeology.jp/about/paleolithic_hoax/final-report/

「はじめて出会う日本考古学」安田喜憲編、有斐閣アルマ(1999年)

事件の影響で絶版になった本がある。確かに絶版にしたというお知らせが出版社のホームページ上にあり、書籍リストにも絶版となっていたはずだが,
今日現在その文章はどこにも見当たらない。書籍紹介をみればさりげなく在庫の有無として”無”となっているだけである。

出版社に問い合わせたところやはり絶版とのこと。絶版のお知らせについては、いつまでも表示しておくのもどうかと思い削除したということである。いずれにしても、国際的に通用すると思われる若手執筆者を国籍を問わず登用して〈21世紀、国際化時代の日本考古学発展の一助たらん〉とした本書が世間の目から遠ざけられるのはいかにも残念なことである。

絶版措置はもったいない(アマゾンレビュー)

絶版措置はもったいない(アマゾンレビュー、akimasa21、2005/09/23)
編者による”まえがき”によれば、本書の著者(編者1名以外の10名)として、国際的に活躍している若手研究者を起用したとしている。21世紀国際化時代の日本考古学を担う人材の登用である。本書は、そのようにして選ばれた著者が、それぞれ自分で項目を立てて最新の研究成果を披露した11人11章(編者分を含む)で構成されており、日本考古学の新展開を展望できる仕組みを提供している。

”まえがき”には、次のようなことも書いてある。「日本の考古学が、ともすれば日本人の考古学者にしか通用しない概念や方法論に沈溺し、日本のいやもっと小さな地方の考古学の世界に閉じ込もってはいないだろうかという危惧をいつも感じている・・・」。

毎日新聞社旧石器遺跡取材班による「発掘捏造」毎日新聞社(2001年刊)によって、その危惧は現実のものとなった。旧石器発掘ねつ造が発覚し、2000年11月4日に当事者はその事実を認めた。

本書第6章「旧石器考古学の新視点」の扉写真のキャプションは、“60万年前の原人が残した宮城県上高森遺跡の石器埋納遺構2(東北旧石器文化研究所提供)”となっている。本文でもそれら遺跡について言及している。

本書は現在さりげなく品切れとなっている。出版社としては、絶版処置としているはずだ。実にもったいない。私は本書P.80の中で、土器(浅鉢と深鉢)の色調および厚さの地理的勾配(等高線のように表示される)が、地域と時代によってダイナミックに変化している図をみて驚いたものだ。考古学はやはり科学なのだ。事件後も本書の価値に変わりはない。

旧石器時代の日本列島

日本と大陸との間の陸橋の存在(過去3回のみ)

第一回目
約63万年前(更新世中期初め)
中国南部動物群(トウヨウゾウ、マチカネワニなど)の渡来
原人もそれを追って渡ってきたか?

第二回目
約43万年前(更新世中期中頃)
中国北部動物群(北京・周口店動物群)の渡来
ナウマンゾウ、オオツノジカ、カトウキヨマサジカ(ニホンジカの祖先)、
ヒグマ、オオカミ、キツネ、タヌキ、ニホンザルなど
北京原人の時代である
それ以降、日本列島が西・南方面で大陸につながった時期はないとされる。

第三回目
約3万年前(更新世後期後半、後期旧石器時代)
北海道とシベリアがつながった時期がある
ホモ・サピエンス(現生人類である新人)の時代、具体的には
クロマニヨン人の時代である
なお、新人の起源はアフリカで、その出現は十数万年にさかのぼるとする説が有力である

旧石器群を出土した主な古い遺跡

沖縄県山下町第一洞穴
3万2千年より古く、人骨の化石といっしょに石器3点出土
礫器を主体とする石器文化の存在

立切遺跡(たちきり、鹿児島県種子島)
約3万年前の旧石器時代の生活跡
一定期間定着して生活した様子が4点セットで出土した
・石斧や食物の加工用に使われたと思われるすり石、たたき石、台石
・調理場跡とみられる礫(れき)群
・たき火や料理をした跡の焼土
・木の実などの貯蔵穴と思われる土坑

宮崎県後牟田遺跡
約3~4万年前
人類の生活の痕跡(礫群・敲石・台石などのセット)がまとまって検出された

熊本県血気ヶ峯遺跡
熊本県曲野遺跡
台形様石器と局部磨製石斧の組み合わせ完成

東京都西之台B遺跡や中山谷遺跡
約3万5千年前、関東地方で最も古いと考えられる
礫器と不定形剥片石器の組み合わせ

岩手県金取遺跡
Ⅳ層(約3万8千~8万年前)、Ⅲ層(約3万6千年前)
礫器と不定形剥片石器の組み合わせ

後期・旧石器時代人は黒潮に乗ってやってきた

立切遺跡(種子島)、東京都西之台B遺跡や中山谷遺跡(東京都)等で出土した石器群は、礫器、大型幅広剥片石器、錐状石器、クサビ形石器、磨石、敲石などの「重量石器」を特徴としている。そして同様な旧石器群が、ベトナム、香港、台湾島などにも分布することが知られている。黒潮圏の考古学(ホームページ)より

礫器は石蒸し料理に使うもので、たくさんの石をまとめて使った後は礫群として痕跡を残す。石蒸し料理という南方系の文化を携えた人々が黒潮に乗ってやってきたと考えられる。縄文人の祖先たちであろう。縄文人は基本的に南方系の形質が強いとされている。(縄文文化は北方系とする学説もあるようで、Web作者としては、きちんと理解はできていない)

東京・武蔵野台地の旧石器遺跡(約3万2千年前頃)から、伊豆諸島・神津島産の黒曜石を使用した石器類が発見されている。しかし、神津島と伊豆半島との間には、幅30km(海深200m)以上の海が横たわっている。渡航具(筏、丸木舟)はまだ見つかっていない。しかし、旧石器時代人がすでに舟を利用して行き来していたことは間違いない。

なお、神津島と神津島産黒曜石を出土した遺跡との距離は、最も離れたところで約180kmある。神津島産黒曜石の品質が良く人気が高かったことに加えて、遠隔地まで運ぶ流通ルートや組織が確立していたものと考えられる。

参考資料

発掘捏造
毎日新聞旧石器遺跡取材班、毎日新聞社(2001年)

「岩宿」の発見-幻の旧石器を求めて-
相沢忠洋著、講談社文庫(1973年)

明石原人の発見-聞き書き・直良信夫伝-
高橋徹著、朝日新聞社(1977年)

学問への情熱-「明石原人」発見から五十年-
直良信夫著、佼成出版社(1981年)

見果てぬ夢「明石原人」-考古学者直良信夫の生涯-
直良三樹子著、時事通信社(1995年)

森本六爾(「二粒の籾」改題)-弥生文化の発見史-
藤森栄一著、河出書房新社(1973年)

考古学の殉教者-森本六爾の人と学績-
浅田芳朗著、柏書房(1982年)

揺らぐ考古学の常識―前・中期旧石器捏造問題と弥生開始年代―
設楽博己編、吉川弘文館(2004年)

黒潮圏の考古学/小田静夫
Web及び書籍

2005/12/24、アマゾンレビュー転載
2004/02/29、追加(旧石器時代の日本列島)
2003/05/02、初出

朝ドラ「あすか」 ― 和菓子と考古学

和菓子と考古学

NHK朝の連続テレビ小説「あすか」が終了した(1999年10月4日~2000年4月1日放映)。女性和菓子職人が主人公の物語である。彼女は京都の老舗の和菓子屋の孫娘であるが、訳あって奈良県明日香村で生まれ育った。物語は、和菓子という洗練された京文化と、古い都ながら自然豊かな明日香村との対比に加え、様々な要素を絡めて盛り上がりハッピーエンドを迎えた。

「あすか」は、私が久しぶりに見た朝ドラであった。面白かった。京都の伝統文化とは何か。古いものをしっかり継承しつつ、新しいものを取り込む大胆な試みを常に続けること、そうした伝統そのものを言うのであろうか。そこから外れようとしたとき”いけず”をされるのだろうか。京都の老舗和菓子店を中心にした話は本当に面白かった。(BS2の再放送、土曜日のお昼前にその週の月~土の6回分を連続放映)

発掘調査費を個人負担する場合があるのか?

主人公の夫は明日香村の幼なじみで「ハカセ」と呼ばれた考古学少年であった。考古学もまたこの物語の大切な要素の一つである。その考古学に関することで当番組の内容に不適切な部分があるとして、文化庁がクレームを付けNHKが釈明に出向くということがあったらしい。

発掘調査費用の「原因者負担」に関する問題である。主人公「あすか」の両親が”のれん分け”して出店しようとした奈良市の建設予定地で遺跡が発見され、多額の発掘調査費用を負担しなければならなくなった。このときの費用(3000万円?)を捻出するための借金で出店は断念、そして本体の経営にも無理がかかるようになっていった.....

文化庁の言い分は次のとおりである。確かに、発掘調査費用の負担については、従来から「原因者負担」ということで、発掘調査の原因となったところに費用を負担してもらっている。しかし一方で、個人並びに零細業者には発掘調査費用の負担を求めないという特例(国・地方自治体による経費補助制度)を設けている。ドラマとはいえ実態とかけ離れた内容で多くの視聴者に誤解を与えかねない、ということのようであった。

ケースバイ・ケースで対応する、ということであろうが、きちんとした基準にのっとって恣意的にならないよう運用されているのであれば幸いである。

NHK朝の連続テレビ小説

NHK朝の連続テレビ小説は、毎朝8時15分~30分の15分間放映されている。第一回は1961年4月(昭和36)に始まった。それから14回(14年間)までは1作毎に1年を通して放映されたが、第15回からは半年毎、年2回となっている(例外として、「おしん」、「君の名は」1年1作)。

私が少しでも意識して見たシリーズといえば、1965年(昭和40)「おはなはん」(樫山文枝、高橋幸治)、1966年(昭和41)「たまゆら」(笠智衆、亀井光代)であろうか。高校から大学にかけての頃である。今、リストを見返して、題名、主役名からワンシーンを思い出すシリーズもあるけれども、何も分からないものも多い。朝8時15分からの放映でターゲットが主婦層であってみればサラリーマンの私には無理からぬことである。

初出:2000.04.01(土)