本多勝一:愛知大学山岳部薬師岳遭難事件から南京大虐殺まで

本多勝一(元朝日新聞編集委員)について

本多勝一(元朝日新聞編集委員、現『週刊金曜日』編集委員)と言えば、元“朝日”の看板記者であり、1968年(昭和43年)には、ベトナムに関する報道が認められて “ボーン国際記者賞” を受賞している。
彼に触発されてジャーナリストになった後輩も多いと聞く。
(なお、肩書などは本ページ初出時のまま)

学生時代の私は、徳島市内の下宿先で“朝日新聞”をとっていた。
その朝日で、1967年(昭和42)の半年間にわたってベトナム・ルポ「戦争と民衆」(6部構成)が連載された。
反響は非常に大きく、後に『戦場の村:ベトナム―戦争と民衆』朝日新聞社(1969年)として単行本になっている。

その当時から、彼は私にとって気になる存在であり続けている。

本多勝一(ほんだ・かついち)

本多勝一の経歴を以下の資料からまとめてみた。

  • 「本多勝一年譜」(下記、晩聲社版末尾資料)
  • 「本多勝一が朝日新聞に発表した主な新聞記事一覧」
    (下記、山と渓谷社版末尾資料)
  • 「体験的本多勝一論」(下記、日新報道版全文)
  • 1931年11月(昭和6)、長野県下伊那郡(信州伊那谷)生まれ
  • 1954年3月(昭和29、22歳)、千葉大学薬学部卒業(薬剤師)
    同年4月、京都大学教養部入学、山岳部に入部
  • 1956年4月(昭和31)、京都大学農林生物学科応用植物学教室(専門課程)
  • 1958年10月(昭和33年、26歳)、朝日新聞社入社
  • 1963年1月(昭和38、31歳)、「愛知大学山岳部薬師岳遭難事件」(13人全員死亡)
    同年5月~6月、カナダ・イニュイ取材(カナダ・エスキモー、51回連載)
  • 1967年(昭和42、35歳)、南ベトナム取材(戦争と民衆、98回連載)
  • 1968年(昭和43年、36歳)、北ベトナム取材(北爆の下、19回連載は翌1969年1月)
  • 1969年3月(昭和44、37歳)、ボーン国際記者賞受賞
  • 1991年(平成3、60歳)、朝日新聞社を定年退職(朝日新聞社社友となる)

注)本多のボーン国際記者賞受賞は、社団法人日本新聞協会Web(Pressnet) “過去の受賞者リスト” によれば、昭和43年(1968年)となっている。
なお、 彼の生年月日(上記)は戸籍上のものだという。
本多自身の語った生年月日が幾つもあり、また、著書奥付の生年月日も複数存在している。

本多勝一、藤木高嶺と海外取材でコンビを組む

本多勝一(東京本社社会部)と藤木高嶺(大阪本社写真部)は、愛知大学山岳部薬師岳遭難事件(1963年1月)の時初めて顔を合わせた。
そして、その時の活躍が認められ、二人してカナダ・イニュイ(カナダ・エスキモー)取材に旅立っていった(1963年5月~6月)。

その後も二人は1年ごとに、ニューギニア高地人(1964年1月~2月)、アラビア遊牧民(1965年5月~7月)の取材を行った。
そして、それらの新聞連載記事を基に単行本も発行された。

なお、二人のコンビは、この次に行われた南ベトナムの取材まで続いた。
この間の関連書籍は、以下のとおりである。

  • 本多勝一・文、藤木高嶺・写真『カナダ・エスキモー』朝日新聞社(1963年)
  • 本多勝一・文、藤木高嶺・写真『ニューギニア高地人』朝日新聞社(1964年)
  • 本多勝一・文、藤木高嶺・写真『アラビア遊牧民』朝日新聞社(1966年)
  • 本多勝一『極限の民族 : カナダ・エスキモー,ニューギニア高地人,アラビア遊牧民』朝日新聞社(1967年)
  • 藤木高嶺『極限の民族―写真集 ニューギニア高地人,カナダ・エスキモー,アラビア遊牧民』朝日新聞社(1968年)
  • 藤木高嶺『藤木高嶺カメラマンの解放戦線潜入記』朝日新聞社(1968年)
  • 本多勝一『戦場の村:ベトナム―戦争と民衆』朝日新聞社(1969年)

上記のように、「極限の民族3部作」(カナダ・エスキモー、ニューギニア高地人、そしてアラビア遊牧民)の初版は、それぞれ単行本として、いずれも朝日新聞社から発行されている。
著者は全て、本多勝一・文、藤木高嶺・写真(共著)である。

ところで、その後、これらが「極限の民族3部作」として一冊にまとめて出版された時には、著者・本多勝一となっている。
そこに藤木高嶺の名前はなく、写真も全て本多のものが使用されている。
それに対して、藤木の写真は、別途「極限の民族―写真集」として、同じく朝日新聞社から出版されている。

そして、その次の南ベトナムの取材では、最初から藤木、本多がそれぞれ別々の書籍を出版している。
なお、出版社はこれまでどおり朝日新聞社である。

さらにその後、「極限の民族3部作」は、それぞれ単行本として講談社文庫、さらには朝日文庫と次々に収載されていった。
その過程で、著者はいずれも本多勝一だけとなり藤木高嶺の名前は消え去っている。

写真も本多のものに差し替えられたものと思われるが、私はそれらを意識して手に取ったことがないので分からない。

いずれにしても、初版発行から60年近くが経過した現在、「極限の民族3部作」のそれぞれの単行本初版が本多・藤木の共著であったことを知る人はほとんどいないかもしれない。

本多勝一「冒険と日本人-冒険的な現象に対する日本人の社会的反応について-」の記載場所変遷などについて

本多の著作の中に、『冒険と日本人』(実業之日本社)がある。
冒頭には、同名の論文「冒険と日本人」(副題:冒険的な現象に対する日本人の社会的反応について)という一文が掲載されている。

その論文で彼は、「堀江謙一」の「太平洋ひとりぼっち」成功に対する日本の新聞の反響分析から書き始めている(1965年3月記)。

初出は、『今西錦司博士還暦記念論文集』第三巻「人間」(中央公論社、1966年)であり、副題の“冒険的な ~”は、同論文集では“Adventurousな~”となっており、論文名そのものとして使用されていたものである。

ところで、私の手元にある『冒険と日本人』(実業之日本社)は、1978年3月20日発行(第二版第一刷)のものである。
その”あとがき”によると、本書は最初、二見書房から1968年に刊行された。
その時の構成は、第二版冒頭にも収載されている冒険に関する数編の論文やインタビューなどに加えて、冒険とはあまり関係のない文章が多く含まれていた。

初版本(二見書房版)はその後絶版となり、1972年に実業之日本社から改めて初版本として刊行された。
その時、冒険に関するものを5編加えた上に、そのほかの対談なども収録したため大部のものになった。
そこで第二版では、ほかの書籍(雑文集)も含めて取捨・選択をした結果、純粋に冒険に関係のあるものだけを集めた単行本とした、ということである。

本多勝一の文章は、頻繁に書換えられている

本多勝一は今までに多くの文章やインタビューをものにしてきている。
著作も多い。
その彼の著作では、取捨・選択、分解・吸収が頻繁に繰り返されているようである。
彼自身、そうした機会に発表当時のものに多少手を加える場合もある、としている。

したがって、版ごとの異同については注意が必要であろう。

本多勝一と「南京大虐殺」

『中国の日本軍』の写真説明はすべて中国側の調査・証言に基づくものです。・・・『中国の日本軍』の写真が、『アサヒグラフ』に別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では初めてです。確かに「誤用」のようです。
(「週刊新潮」2014年9月25日号より)

上記のように、本多の著作をめぐっては、様々な方面から賛否両論繰り広げられている。
私には、中国側の通訳を通じた証言の取材のみで、果たしてどこまで真相に迫れるものか、未だ判断できずにいる。

しかしながら、南京において日本軍による行過ぎた暴力行為が多発していたことは間違いない。
そしてその情報は、昭和天皇の元にも届いていた。

例えば、NHK WEB特集「昭和天皇「拝謁記」の衝撃」(2019年9月17日18時04分)によれば、「拝謁記」の中に次のような記述があるという。

「支那事変で南京でひどい事が行ハれてるといふ事をひくい其筋でないものからウス/\(うす)聞いてはゐた」。

なお、「拝謁記」とは、初代宮内庁長官・田島道治が昭和天皇との対話を詳細に書き残したメモ書きである。

NHK WEB特集では、「拝謁記」について「昭和天皇が戦争への後悔を繰り返し語り、深い悔恨と反省の気持ちを表明したいと強く希望していたことが分かった。昭和天皇の生々しい肉声が記された超一級の資料」としている。

最近では、清水潔著『「南京事件」を調査せよ』文春文庫(2016年)がある。

『陣中日記』(旧日本軍兵士の日記帳)を基にしたNNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」(日本テレビ・2015年10月4日放送)の後に、さらに現地での裏取り調査を重ねた力作である。

いずれにしても、「その時、南京で何があったのか、あるいはなかったのか」、日本は国際社会に向けてきちんと説明すべきである。

千葉大学薬学部から京都大学農林生物学科へ

本多勝一は千葉大学薬学部卒である。

私の記憶では、本多の実家が雑貨店をやっており、そこに薬局を併設するため薬学部に行けと父親に命令されたためという。(現在出典確認できず)
本多は薬剤師免許取得後、自分の希望に沿って京都大学に再入学する。
遺伝学に興味を持っており、遺伝学教室のある(京大)農林生物学科に行くためだった。

本多の著作を見れば、確かに今西錦司をはじめ、いわゆる京都学派の学者から多くを学んだようである。

ところで、本多の経歴を、私の手元にある本多勝一著『リーダーは何をしていたのか』朝日文庫(1997年7月初版)の第3刷(2000年3月25日)の奥付で確認すると、「1931年信州・伊那谷生まれ。京都大学農林生物学科から朝日新聞社入社」(以下略)となっている。

そこには、京都大学卒業とは書かれていないが、私には京大卒の真偽は判断できない。
しかしながら、本多勝一は千葉大学薬学部を卒業した後、京都大学に入学している。
つまり、4年生大学をきちんと卒業した薬剤師であることは疑いようがない。

注)資格確認検索(厚生労働省)によれば、「薬剤師・本多勝一(昭和29年)」が登録されている。
注)「家が薬局をしていたので、親父の命令で「店を継げ」と言われていた」ため薬剤師になったという。
ITmediaビジネスONLINE「元朝日新聞の本多勝一が語る、2つの戦争と記者の覚悟(前編) (1/3)」
https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/0912/22/news013.html(2020/06/21確認)
上記、私の曖昧な記憶とは少し食い違っている。

堀江謙一と石原慎太郎、本物のヨットマンはどっち

最後に、堀江謙一は私が最も尊敬する海洋冒険家の一人である。
「冒険と日本人」には、何度もマスコミでたたかれてきた堀江を擁護する本多のインタビュー記事が幾つか載っている。

石原慎太郎(東京都知事)は、堀江謙一の単独無寄港世界一周(1974年)という偉業を完全否定した。
小型ヨットであの日数では不可能だと言い切ったのである。
どこかの島影に隠れていて頃合をみて姿を現した、というような表現をしていたはずである。
本多はこのことを捉えて石原批判をしている。
この点に関して言えば、私は本多勝一派である。

参考資料

  • 本多勝一著『冒険と日本人』実業之日本社、1978年(第二版第一刷)
  • 岡崎洋三著『本多勝一の研究』晩聲社、1990年(初版第一刷)
  • 岡崎洋三著『本多勝一の探検と冒険』山と渓谷社、2000年(初版第一刷)
  • 殿岡昭郎著『体験的本多勝一論』日新報道、2003年(初版第一刷)
  • 週刊プレイボーイ、1975年11月25日号、堀江の世界一周記録はインチキ?
  • 北村稔著『「南京事件」の探究』文春新書、2001年
  • 清水潔著『「南京事件」を調査せよ』文春文庫、2017年(アマゾンKindle版)

2003/03/09(日)初出

山本明正(やまもと・あきまさ)

1970年3月(昭和45)徳島大学薬学部卒(薬剤師)
1970年4月(昭和45)塩野義製薬株式会社入社
2012年1月(平成24)定年後再雇用満期4年で退職
2012年2月(平成24)保険薬局薬剤師(フルタイム)
2021年5月(令和3)現在、保険薬局薬剤師(パートタイム)