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戦艦大和とは
戦艦「大和」は、呉海軍工廠(広島県)で造られた。日本の工業技術の粋をあつめて建造された世界最大・最新鋭の戦艦で、主砲9門(3連装砲塔3基、前部2後部1)は45口径46センチ砲というとてつもなく大きいものであった。
戦艦大和は、起工から4年の歳月をかけて完成した。しかし、実際に呉軍港に浮かんだ時すでに太平洋戦争は始まっており、時代もまた航空母艦(艦載機-飛行機)の時代に移っていた。巨艦大砲主義は過去のものとなってしまっていたのである。戦艦大和は”遅れてきたヒーロー”であった。
大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)、2005年(平成17年)4月23日open
戦艦大和の1/10模型など展示、ミュージアムの活動が、世界の恒久平和のために役立つものであることを切に願う
戦艦大和・世界最大最新鋭の戦艦
戦艦大和の建造過程
1934年(昭和9年)、設計
1937年(昭和12年)、起工(11月4日)
1940年(昭和15年)、進水(8月8日)
1941年(昭和16年)、竣工(12月16日)
航行試験(高知県宿毛湾沖)、10月19日、20日
20日には、全速17.4ノットを記録(風速20m、高波あり)
1945年(昭和20年)、撃沈(4月7日)、除籍(8月31日)
戦艦大和の概要
全長、263m(東京駅、277m)
最大幅、38.9m
最高、40.0m(海面から)
深さ、10.86m
排水量、公試=6万9千百トン、満載=7万2千8百9トン
全速力、27.0ノット(15万馬力)、タービン4基(ボイラー12基)
重油量、6千百トン(16ノットで7200海里航送可能)
スクリュー、直径5m(3枚翼、左右舷に2基づつ合計4基)
兵器の装備等(水上特攻時)
<主砲>45口径46サンチ(センチ)砲、9門
3連装砲塔3基(前部2、後部1)
主砲弾 1460kg/個、最大射程41,400m
(砲身長21m、砲口径46cm-18インチ)
<副砲>55口径15.5センチ砲、6門(3連装砲塔2基)
<高角砲>40口径12.7センチ砲、24門(連装12基)
<機銃>25ミリ156挺(3連装50基、単装6基)、13ミリ4挺(連装2基)
先進の防御システム
舷側、最大幅410mmの鋼鉄製
防水区画、1147個
注排水システム、片側に穴があいた場合、反対側に注水してバランスをとる
電探(電波深信儀、レーダー)、2号1型、2号2型、1号3型、E27(逆探)
レーダーの開発では欧米に遅れをとった
巨大測距儀(光学器械)
基線長15mの対空砲火用距離計で、人間の目を頼りに運用された
探照塔(夜間照明用)、4基(直径1.5m)
なお、戦艦「大和」の建造費1億3780万円(当時の国家予算40億円の約3%)は、「東海道新幹線」全線の建設費(1964年、昭和39年開業)にほぼ匹敵すると言われている。
戦艦大和行動年表
1942年(昭和17年)6月5日-7日
ミッドウェー海戦、日本4空母、艦載機285機を失う
1944年(昭和19年)6月19-20日
マリアナ沖海戦、日本3空母、艦載機400余機を失う(日本海軍戦力の大半)
1944年(昭和19年)10月23-26日
レイテ沖海戦、戦艦「武蔵」などを失う(日本海軍の滅亡)
「大和」が連合艦隊旗艦として外洋に出たのは、ミッドウェー海戦の時が初めてであった。その後、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦では自らも大砲を発射して戦うが、その能力をフルに発揮できたとは言い難く、味方の被害は甚大であった。
沖縄特攻作戦(水上特攻)
沖縄特攻作戦の目的は、連合艦隊の残存艦艇のすべてを投入して沖縄の海岸に突入し、座礁させてでも要害と化して砲弾が尽きるまで撃ちつづける、というものであった。
出撃時の連合艦隊司令長官の訓電は次のとおりである。(一部略)
ここに特に海上特攻隊を編成し壮烈無比の突入作戦を命じたるは、帝國海軍力を此の一戦に結集し、光輝ある帝國海軍海上部隊の伝統を発揚すると共に、其の栄光を後昆に伝えんとするに外ならず
1945年(昭和20年)
1月1日、戦艦大和、第二艦隊第一戦隊に編入
3月19日、広島湾で米艦上機と交戦
3月25日13時23分、「天一号作戦・警戒」発令
南西諸島方面の米軍来襲に対する秘匿作戦
3月25日~28日、呉港にて交代で自由上陸許可
3月26日10時52分、連合艦隊GF電令作第581号
第一遊撃部隊は出撃準備完成後、内海西部にて待機
同日11時02分、「天一号作戦」発動
3月28日、戦艦大和、呉出港、広島湾兜島(甲島)へ移動
3月29日、三田尻沖(周防灘)にて警戒泊
3月30日、一日中待機
3月31日、日帰り出港
4月1日、アメリカ軍、沖縄本島中部嘉手納海岸に上陸
(6月23日、組織的戦闘終結-沖縄慰霊の日)
4月2日、または3日
艦内の可燃物、すべて、陸揚げせよ
4月4日9時18分、GF電令作第601号
航空総攻撃「菊水作戦」の実施決定
同時に、「大和」以下残存主要艦艇の敵上陸海岸突入を決定
4月5日13時59分、GF電令作第603号(極秘電報)
海上特攻隊として沖縄突入を目途とし出撃準備を完成すべし(一部略)
同日15時、海上特攻正式下命
同15時15分、総員集合、前甲板!
艦長有賀幸作大佐(戦死により中将)が連合艦隊司令長官の訓電を読み上げる。なお、3000名以上の全将兵 (当直配備員を除く)が整列しても、大和の前甲板すべてを埋め尽くすことはなかったという。
特攻大和艦隊出撃
4月6日、05時00分、三田尻から徳山湾沖へ転錨、出撃準備
同日、16時45分、出撃!
第二艦隊司令長官 伊藤整一中将(戦死により大将)坐乗
第一遊撃部隊:旗艦=戦艦「大和」、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦8
「冬月」、「涼月」、「朝霜」、「初霜」、「霞」、「磯風」、「浜風」、「雪風」
(飛行機の護衛なし)
第二艦隊(第一遊撃部隊)、司令長官・伊藤整一中将
戦艦「大和」(第二艦隊旗艦)、艦長・有賀幸作大佐
第二水雷戦隊、司令官・古村啓蔵少将
軽巡洋艦「矢矧」(第二水雷戦隊旗艦)、艦長・原為一大佐
第十七駆逐隊、司令官・新谷喜一大佐
駆逐艦「磯風」(第十七駆逐隊旗艦)、艦長・前田実穂中佐
駆逐艦「濱風」、艦長・前川万衛中佐
駆逐艦「雪風」、艦長・寺内正道中佐
第二十一駆逐隊、司令官・小滝久雄中佐
駆逐艦「朝霜」(第二十一駆逐隊旗艦)、艦長・杉原与四郎中佐
駆逐艦「霞」、艦長・松本正平中佐
駆逐艦「初霜」、艦長・酒匂雅三中佐
第四十一駆逐隊、司令官・吉田正義大佐
駆逐艦「冬月」(第四十一駆逐隊旗艦)、艦長・山名寛雄中佐
駆逐艦「涼月」、艦長・平山敏夫中佐
戦艦大和の最期・4月7日
5時20分、日の出前の「開聞岳」を望む
6時00分、日の出、薩摩半島坊の岬沖(北緯31度、東経129度51分)
当日の戦闘の詳細について、まずは主として「軍艦大和戦闘詳報」(日本側資料)によりまとめる。
軍艦大和戦闘詳報(軍極秘大和機密第一号の六)
作成日、昭和20年04月20日、提出日、05月09日
激闘の中で、全長263mもの大艦のどこで何がいつ起こったのか、時系列で並べて正確に理解し整理することはほとんど不可能であった。この戦闘詳報については、米側資料 (別ファイル)による修正が必須である。
戦艦大和の最期(米側資料による戦闘詳報、別ファイル)、重要!!
参考:艦艇類別標準(旧日本海軍)によれば、戦艦大和は日本海軍の軍艦籍に属しており、これに従えば、正式呼称は「軍艦大和」となる。
軍艦(戦艦、巡洋艦、航空母艦、水上機母艦、潜水母艦、施設艦、練習戦艦、練習巡洋艦)、駆逐艦、潜水艦、海防艦、輸送艦、砲艦、水雷艦、掃海艇、駆潜艇、施設艇、哨戒艇。
12時15分、対空戦闘、配置につけ!
12時35分、撃ち方はじめ!
12時41分、後檣附近に中型爆弾2命中
12時45分、左舷前部に魚雷1命中
13時37分、左舷中部に魚雷3命中
13時44分、左舷中央部に魚雷2命中
傾斜20度、注排水システムを作動し水平を保つ
14時02分、左舷中央部に中型爆弾3命中
14時07分、右舷中央部に魚雷1命中
14時12分、左舷中部及び後部に魚雷2命中
〇(零)度に定針実速12ノット、傾斜は左へ6度
14時17分、左舷中部に魚雷1命中
傾斜急激に増加
14時20分、総員最上甲板!(作戦命令中止、総員退避)
傾斜は左へ20度
14時23分、横転沈没、直後に二度の大爆発(前後部砲塔誘爆)
大きな黒煙をあげつつ船体は真っ二つになって海底に沈む
その黒煙は二千mの高さに達し、枕崎市(鹿児島県)からも見えたという
戦い終わって
昭和55年(1980年)7月
昭和56年(1981年)4月
戦艦大和会が戦後はじめて大和の沈没位置確認を試み、下記位置に眠ることを確認する。
東シナ海長崎県福江市男女群島南176km
北緯30度43分、東経128度04分
水深345m
総員3332名(生存者269名、戦死者3063名)
なお、「海上特攻隊戦闘詳報」415ページでは、生存者数276名に加筆修正
戦艦「大和」他、巡洋艦「矢矧」沈没、駆逐艦4隻沈没、3隻損傷
戦死者総数、4044名(資料により異同あり)
米国側出撃機、390機の内
撃墜10機、帰還後使用不能として破棄5機、洋上に不時着喪失5機、その他被弾30機
人的損害は、戦死14名、負傷4名のみ
(この項は古い記述のまま、再検討の余地あり)
参考図書
戦艦大和ノ最期、吉田満著、講談社(1981年版)
戦艦大和の最後、坪井平次著、光人社(1999年新版)
戦艦「大和」開発物語、松本喜太郎他、光人社(2003年)
戦艦大和、平間洋一編、講談社(2003年)
真相・戦艦大和ノ最期、原勝洋著、KKベストセラーズ(2003年)
特攻大和艦隊-帝国海軍の栄光をかけた十隻の明暗-
安部三郎著、霞出版社(1994年)
「戦艦大和誕生(上)(下)」前間孝則著、講談社(1997年)
「戦艦大和からの生還」武藤武士著、自費出版センター(1988年)
「戦艦大和 最後の乗組員の遺言」 八杉康夫著、ワック(2005年)
参考資料:
栗原俊雄「戦艦大和」岩波新書(新赤版)1088、2007年
-生還者たちの証言から-
費用は、艦政本部が一九三六年にまとめた試算によると、一億三七八〇万円。実際にいくらかかったかは関係資料が焼却されたため不明だが、この試算をもとにすれば、当時の国家予算(一般会計歳出)の六%にあたる。現代の国家予算をもとにすれば四兆円以上である。P.006
基準排水量(戦時態勢を念頭に、乗員を乗せ兵装、弾薬、食糧、真水などを定量積んだ状態。ボイラーで蒸気発生に使う予備缶水と燃料は対象外)六万五千トン。P.006
その他(未整理)
91式46センチ砲弾
外径、458mm
全長、1.953m
重量、1,460kg
炸薬、33.85kg
46センチ砲
口径、46センチ
膅長、45口径
最大仰角、プラス45度、マイナス5度
初速、780m/秒
発射速度、約40秒
最大射程、41,400m
砲身重量、160トン(1門)
砲塔重量、2,774トン(1基)
前楯甲鈑、650mm
連合艦隊司令部、GF(連合艦隊司令部)
神奈川県横浜・日吉の地下壕
大和・作戦行動航程の集計、約13,000海里
各艇の兵装、P147
大和建造日数1503日
主砲九四式40サンチ(?)砲塔3基9門
副砲、その他、P113
2006/05/18、中国新聞にみる「戦艦大和」、1件追加
2005/12/23、最後の出撃直前の行動日時、一部訂正追加
2005/08/16、このページからのリンクファイル(孫ファイル)
現代に生きる「戦艦大和」の技術、新設
2005/07/03、”ミュージアムショップやまと”様からリンク依頼
2004/01/01、戦艦大和の最期(米側資料による戦闘詳報)別ファイルへ分離
1999/10/10、初出