東京オリンピック男子マラソン

10月10日は国民の祝日(体育の日)である。昭和39年(1964年)第18回オリンピック東京大会開催を記念して、開会式の日が選ばれたものである。10月10日は晴れる確率が非常に高いいわゆる特異日のため、この日をオリンピック開会式と決めたのだそうである。ねらいはぴたりと当たり、開会式当日は前日までの雨はうそのように晴れあがり日本晴れとなった。こうしてアジア初の五輪はスタートした。

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第18回オリンピック東京大会

1位、アベベ(エチオピア)、2時間12分11秒2
世界最高、オリンピック最高
2位、ヒートリー(イギリス)、2時間16分19秒2
3位、円谷幸吉(日本)、2時間16分22秒8
     
日本人選手3名:
円谷幸吉(コーチ、畠野洋夫)自衛隊
君原健二(コーチ、高橋進)八幡製鉄
寺沢徹 (コーチ、村社講平)倉敷レーヨン
     
第17回ローマ大会、アベベ優勝
第18回東京大会 、アベベ2連覇(円谷3位、君原8位)
第19回メキシコ大会、マモ優勝(君原2位)
(アベベ途中棄権、しかしエチオピア3連覇)
第20回ミュンヘン大会、マモ3位(君原5位)
(エチオピア4回連続国旗掲揚)

アベベ・ビキラ(あべべ・びきら)エチオピア

175cm、65kg

昭和7年(1932年)8月7日生まれ
生地はショア州・デュノバのジョル村
昭和26年(1951年)アジスアベバに出て(19歳)
ハイレ・セラシエ皇帝の親衛隊員となる
昭和31年(1956年)結婚(24歳)
この年エチオピアは初めてオリンピック参加(メルボルン大会)
このオリンピックにマラソン史上初の2連覇をかけたチェコスロバキアの”人間機関車”ザトペックは6位と敗れ去った。
昭和32年(1957年)2月、ローマ大会の陸上強化選手に選ばれる(24歳)
コーチのオンニ・ニスカネン(スウェーデン人)の指導始まる

昭和35年(1960年)ローマオリンピック(28歳)

9月10日午後5時半
カンピドリオ丘スタート → アッピア旧街道(シーザーの道)→コンスタンティーノ凱旋門ゴール、2時間15分16秒2(世界最高)、はだしの英雄となる。

はだしで走ったのは、たまたま今まではいていたランニング・シューズがすり切れて、ローマではぴったりのものが見つからなかったからにすぎない。もちろん子供のころからはだしで走り回っていたそうであるから、はだしの方がむしろ走りやすかったのかもしれない。

昭和39年(1964年)東京オリンピック(32歳)

10月21日午後1時
国立競技場スタート → 甲州街道折り返し → 国立競技場ゴール。20km地点で早くも独走態勢に入り、そのままゴール。史上初の五輪マラソン2連覇達成。
2時間12分11秒2(世界最高、オリンピック最高)。3週間前の盲腸手術の影響をまったく感じさせなかった(ダーク・グリーンのランニングシャツ、エンジのパンツ、シューズは真っ白でドイツ製)。

世界で初めてのテレビによるマラソンコース完全中継は、延々とたった一人のアベベを映すことになってしまった。中継カメラは1台しかなかったのである。しかし私たちは少しも飽きることがなかった。

- 背を立て黙々と走る”はだしの英雄”アベベには、聖者の風格があった -
私の一番好きなアベベの写真に付いているキャプションである。ここにその写真をぜひとも掲載したい。しかし、著作権その他の問題をクリアーするすべを私は知らない。われらすべて勝者(東京オリンピック写真集)、講談社(1965年)P.044より。

昭和43年(1968年)メキシコオリンピック(36歳)

10月20日
16km地点で棄権。五輪マラソン3連覇は成らなかった。
しかし、同僚のマモ優勝。

その年の7月、練習中に転倒して左ヒザの筋肉を痛め、走り込み不足であったことが大きな原因であろう。年齢的にもマラソン・ランナーとしての最盛期はすぎていたといえるかもしれない。

昭和44年(1969年)自動車事故(36歳)
3月23日夜、フォルクスワーゲンを運転中、自損事故をおこし下半身不随となる(第7頚椎のずれ)。
昭和44年(1969年)パラリンピック(36歳)
7月、ストーク・マンデビル病院で開かれたパラリンピックで、洋弓と車イス競争に出場。事故から4か月後のことであった。その後、ノルウェーの身障者スポーツ大会でイヌぞりレースで優勝、するなどしている。
昭和48年(1973年)10月25日、死去(41歳)
脳出血が原因ではないかといわれている。

なお、アベベは戦後まもなくのころ一度日本に来たことがあるらしい。朝鮮戦争出兵途中に(エチオピアの親衛隊兵士として?)横浜港に立ち寄ったことがあるというのだ。このとき実際に日本の土を踏んだのかどうかは定かではない。

円谷幸吉(つぶらや・こうきち)

円谷はアベベに続いて2位で競技場に戻ってきた。その15m後に選手が一人迫っている。円谷は振り向かない。意識がもうろうとしていて気がつかなかったのである。スタンドを埋め尽くした大観衆から悲鳴があがる。テレビの前の私も興奮した。しかし、第3コーナーから第4コーナーにかけてついに抜き去られ3位でゴールした。163cm、55kg。

円谷は責任感の強い男である。「メキシコ・オリンピックではもっと上を目指す」ことを心に誓う。しかし、精神的にも肉体的にも、次のオリンピックを狙うだけの完璧な条件はついに得ることができなかった。

コーチとは引き離され、上官には結婚を反対され、椎間板ヘルニアの手術までした。それでも彼は走り続けた。精いっぱいの努力をしたのである。しかし、皆の期待に答えられないことを悟ったとき彼は自らの命を絶った。

メキシコ・オリンピックの年明け早々、自衛隊体育学校の宿舎内のことであった。まさに「オリンピックに奪われた命」といえるであろう。<父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒、お許し下さい>。

そのメキシコオリンピックで、君原健二は銀メダルを獲得する。それは「円谷のために走る」という君原の強い決意の結果でもあった。円谷幸吉メモリアルマラソン(須賀川市、毎年11月の第二日曜日)は平成10年で第16回を数えている。君原は円谷の墓参を兼ねて毎年参加している。

昭和15年(1940年)5月13日
福島県須賀川町(現在の須賀川市)に生まれる。
君原健二とは同学年である。
昭和22年(1947年)4月、須賀川町立第一小学校入学
昭和28年(1953年)4月、須賀川町立第一中学校入学
昭和31年(1956年)4月、福島県立須賀川高校入学
昭和32年(1957年)(高校2年)
4月、自主的に陸上(ロード)練習を始める。
関係者に注目され、正式な陸上競技部員となる。

昭和33年(1958年)(高校3年)

8月8日、第11回全国高校陸上競技対抗選手権大会(インターハイ)出場。山口県下関市営陸上競技場、トラック5000m予選落ち。しかし、全国大会出場は須賀川高校陸上競技部始まって以来の快挙である。
9月、第13回富山国体、高校生の部5000m出場予選落ち
11月、第8回青森~東京間駅伝競走(あおとう)出場、
福島県選手22名の一員。
昭和34年(1959年)19歳
3月28日、陸上自衛隊入隊。半年間の新隊員教育終了後、郡山陸上自衛隊で自主トレーニングを開始(このころ陸上競技部は存在しない)。
昭和35年(1960年)20歳
10月25日、熊本国体、青年の部5000m5位入賞。
この後、郡山自衛隊陸上競技部が正式発足する。
昭和36年(1961年)21歳
10月、第16回国民体育大会秋田大会、5000m
1位、伊藤勝悦選手(秋田)14分49秒2
2位、円谷幸吉(14分54秒8)
3位、君原健二
(円谷、君原はじめてそろって表彰台に上がる)
昭和37年(1962年)22歳
4月27日、自衛隊体育学校特別体育過程入校(埼玉県・朝霞)
畠野洋夫コーチから初めて正しいトレーニング法を教わる。
10月の日本選手権の成績により、オリンピック強化選手に選ばれる。(5000m、10,000m1位)
12月20日、陸上10傑(日本陸連発表)5000m1位
昭和38年(1963年)23歳、東京オリンピック前年
7月23日~9月20日、ニュージーランド遠征(君原健二などのマラソン組)に加わる。その目的の一つは、世界のスピードマラソンについていける選手の養成、具体的には円谷のマラソン転向の可能性を密かに探るためのものであった。

円谷はトレーニングの結果、2万m世界新記録、1万m日本新記録を出すなど、急激な成長をとげて一躍注目を浴びるようになる。そして、オリンピックでの10000m出場とマラソン挑戦が決定する。しかし、この時点で、円谷はまだ一度もマラソンを走ったことはなかった。

昭和39年(1964年)24歳、東京オリンピックの年

3月20日、マラソン初挑戦(第12回中日名古屋マラソン)で5位入賞、記録2時間23分31秒0 でオリンピック最終選考会出場資格(2時間35分以内)獲得
4月12日、第19回毎日マラソン(オリンピック最終選考会)
国立競技場から調布市飛田給折り返し(東京オリンピックと同じコース)
1位君原、2位円谷、3位寺沢、結果通りこの3名がオリンピック代表となる(円谷は一月2回のフルマラソンをこなして、半年後の本番に臨んだことになる)

10月14日、東京オリンピック10000m決勝、6位入賞
ベルリン・オリンピック以来のトラック競技入賞であった
10月21日、東京オリンピックマラソン、3位
ベルリン・オリンピック以来実に28年ぶりの日章旗である

昭和43年(1968年)27歳、メキシコオリンピックの年

1月9日、陸上自衛隊朝霞駐屯地の自室で自ら命を絶っているのが発見される。

君原健二(きみはら・けんじ)

東京オリンピックでは期待されながらも8位に終わる。八幡に帰って5日後に退部届を提出、マラソンから遠ざかる。しかし、2~3のやむを得ないレース(特にチームレース)にはしぶしぶ出場していたようである。オリンピック年明け早々の中国駅伝(昭和40年1月)にも出場している。

私は、この年の中国駅伝に佐伯陸協(郡市の部)Bチームで出場した。区間こそ違え君原さんと同じ駅伝を走ったことになる。高校2年生の時のことである。

彼は昭和41年(1966年)3月3日、25歳になる直前で結婚した。結婚の意志を固める前後から、再起に向けて動き始めている。

昭和16年(1941年)3月20日、福岡県北九州市小倉北区生まれ
昭和34年(1959年)3月、戸畑中央高卒業後八幡製鉄入社
昭和37年(1962年)12月2日、第16回朝日国際マラソン
21歳で初マラソン、日本最高記録で3位入賞
昭和39年(1964年)10月21日(23歳)
第18回オリンピック大会(東京)8位
昭和43年(1968年)10月20日(27歳)
第19回オリンピック大会(メキシコシティー)2位
昭和47年(1972年)10月10日(31歳)
第20回オリンピック大会(ミュンヘン)5位
昭和48年(1973年)4月6日(32歳)
第10回国際古典マラソン(アテネ)を最後に第一線から退く

オリンピックマラソン3回連続出場
出場したマラソン35回すべて完走
(自己最高 2時間13分25秒8)
優勝13回(ボストンマラソン、アジア大会、別府大分毎日など)
2位8回、3位5回、4位1回、5位2回、7位3回、8位1回
11位、13位各1回づつ。

平成3年(1991年)新日本製鉄(株)退社(50歳)
平成4年(1992年)九州女子短期大学教授就任(51歳)

織田幹雄とマラソン

織田幹雄は東京オリンピック開催決定後、五輪選手強化指導本部長になった。組織強化のため、途中から織田以外の2人のオリンピック三段跳び金メダリストをメンバーに加えている。そして本番では、日本陸上競技選手団総監督を勤めた。

オリンピック三段跳び日本人三連覇
織田幹雄、陸連強化本部長
第9回アムステルダム大会( 昭和3年、1928年)
南部忠平、陸連強化副本部長
第10回ロサンゼルス大会(昭和7年、1932年)
田島直人、陸連強化委員長
第11回ベルリン大会(昭和11年、1936年)

円谷幸吉のマラソン出場を企画・実行、そして成功させたのは実は織田である。円谷がゴールした瞬間、感極まった織田は誰はばかることなく号泣したという。織田は、オリンピックのような大舞台で日ごろの実力をいかんなく発揮するには、技術力30%、精神力70%と説く。精神力なくしては勝てない。自身の豊富な練習量・競技実績からでてくる確信に満ちた言葉である。織田は他人の技術力、精神力を見る確かな目を持っていた。

織田たちの時代は学生スポーツ全盛の時代であった。彼らの偉いところはすべてのことを自分たちの力で運用している点にある。織田にコーチはいない。あらゆる書籍(もちろん洋書を含む)を読破、自分自身で考え実行していったのである。

なお、織田は、中国駅伝(第1回大会、昭和6年(1931年)2月11日)創設にあたって、箱根駅伝を踏まえてコースや距離など色々アドバイスしたという。「広島へ恩返しをしたい」という気持ちが強かったのである。早稲田卒業後、朝日新聞入社が決まるまでしばらく広島に帰っていたときのことである。

織田幹雄(おだ・みきお)

アムステルダム・オリンピック三段跳び金メダリスト
(日本史上初のオリンピック金メダルである)
オリンピック3回連続出場
日本陸上競技連盟名誉会長(日本陸上育ての親)
なお、三段跳び(和名)の命名者はほかならぬ織田自身である

織田の金メダル獲得第一号の栄誉をたたえて、国立競技場のフィールドに立つ織田ポールの高さは、そのときの優勝記録15m21cmとなっている。また、出身校・海田小学校(広島県)の国旗掲揚台のメインポールの高さも15m21cmである。

明治38年(1905年)3月30日
広島県安芸郡海田市町(かいたいち)生まれ
現・安芸郡海田町稲荷町

大正7年(1918年)
海田小学校の前身である鼓浦尋常高等小学校を卒業
広島一中入学、サッカー部に入る(当時の一中は、サッカーが全国で1、2位を争うほど強かった)
大正9年(1920年)広島一中3年生
第7回オリンピック・アントワープ大会(1920年)の十種競技選手、野口源三郎さんの講習会に選ばれて参加する。そのころ短距離走のみならず長距離走でもクラスで1、2位を争うほど強くなっていたのである。記録会の走り高跳びで野口にほめられ急に興味を示すようになる。
大正10年(1921年)広島一中4年生
新設された「徒歩部」(陸上競技部のこと)に入り、走り高跳びを中心とした練習をする。

大正11年(1922年)広島一中5年生、17歳
11月、第6回極東選手権大会(翌年5月、大阪開催)の第一次予選会(広島)
走り高跳び(1m73、日本新)従来の日本新記録、1m69
走り幅跳び(6m39、日本新)公認日本記録 6m38、未公認6m54
三段跳び(13m38)日本記録 13m45に、あと7cm
本大会では、走り幅跳び,三段跳び優勝

大正12年(1923年)広島高等師範附属臨時教員養成所(英文科)入学、18歳
各種の競技会では、跳躍3種目だけでなく棒高跳びや短距離走もこなした。

大正13年(1924年)高師臨教2年生、19歳
第8回オリンピック・パリ大会、跳躍種目でただ一人の代表(40日の船旅)
7月7日、走り高跳び予選落ち
7月9日、三段跳び(14m35、日本新)日本陸上史上初の入賞(6位)

大正14年(1925年)教員養成所を中退し早稲田入学、20歳
跳躍3種目を中心に十種競技、短距離走などあらゆる競技に参加、活躍する。十種競技:100m、400m、1500m、110m障害、棒高跳び,走り高跳び、走り幅跳び、砲丸投げ、円盤投げ、やり投げ。

昭和3年(1928年)早稲田大学商学部1年生、23歳
第9回オリンピック・アムステルダム大会(シベリア鉄道でモスクワまで2週間)
7月29日、走り高跳び予選落ち(木村一夫6位入賞)
7月30日、人見絹枝、女子100m決勝進出ならず。(世界記録も作ったことあり)
7月31日、走り幅跳び予選落ち
8月2日、午前、三段跳び予選通過、午後、人見絹枝、女子800m2位
そのあと、三段跳び優勝(15m21)、南部忠平4位
日本史上初のオリンピック金メダル(生涯最良の日)

昭和6年(1931年)大学卒業後、朝日新聞大阪本社入社(運動部記者となる)
仕事の傍ら、オリンピック2連覇をめざし、三段跳び専門の練習をする。なお当時のスポーツ界は学生中心であり、社会人の競技会はほとんどなかったので、浪速クラブをつくりオリンピック準備競技会などを行った。
10月27日、神宮大会、三段跳び(15m58)日本人初の陸上世界新記録。1時間も経たないうちに、南部忠平、走り幅跳び(7m98)世界新記録達成

昭和7年(1932年)27歳
第10回ロサンゼルス・オリンピック大会(7月30日~8月14日)コーチ,主将兼選手として出場
3月5日、台湾にて指導講習中、三段跳びの踏み切り板上で脚を負傷する。本大会は予選落ち、南部忠平優勝(15m72、世界新記録)。その後けがは回復せず、競技者として第一線を退く。11月結婚。朝日の運動部記者として部長職まで努めた後定年退職。

昭和42年(1967年)第1回織田記念陸上(広島)開催
平成10年(1998年)12月2日、神奈川県藤沢市にて他界(93歳)

昭和27年、第15回オリンピック・ヘルシンキ大会陸上チーム監督
昭和39年、第18回オリンピック・東京大会陸上チーム総監督
昭和40年、早稲田大学教授就任
昭和51年、IOCからオリンピック功労賞受賞
昭和60年、東京都名誉都民
昭和61年、海田町名誉町民
昭和63年、文化功労者受賞
平成元年、日本陸上競技連盟名誉会長
平成6年、海田町、織田幹雄スポーツ振興基金設立(織田氏の寄付による)
平成10年、神奈川県藤沢市にて他界

1999/10/11初出

山本明正(やまもと あきまさ)

1970年3月(昭和45)徳島大学薬学部卒(薬剤師)
1970年4月(昭和45)塩野義製薬株式会社入社
2012年1月(平成24)定年後再雇用満期4年で退職
2012年2月(平成24)保険薬局薬剤師(フルタイム)
2023年4月(令和5)現在、保険薬局薬剤師(パートタイム)