東京オリンピック(聖火リレー)

聖火リレー

私は、聖火リレーに二度参加したことがある。熊本国体(中1)と東京オリンピック(高2)である。どちらの場合も、実際に聖火トーチを持ったわけではない。主役の後ろで旗か何かを持って走る伴走だった。

熊本国体の時には、事前に練習をした記憶がない。いきなり授業中の教室から連れて行かれて参加した、そんな感じだ。中学生時代は、駅伝の試走とか競技会のために、授業のある日に丸一日校外へ出かけることがよくあった。のんびりした時代だったのである(たまに勉強が遅れることもあったが)。

東京オリンピックの聖火リレーの時には、事前に何回か練習をした。設定スピードは確か5分/kmくらいのペースではなかったかと思う。陸上競技部以外のクラブからも参加者がいて、一緒に練習すると何人かが遅れ気味になったりした。我々は3分/kmは楽に切れる力を持っていたので、それが5分ならば楽勝であった。

東京オリンピック聖火リレー

1区間1~2km
正走者1、副走者2、随走者20、計23名
高校中学生年齢層の男女から選ばれた(約10万人参加)

8月21日オリンピアの遺跡ヘラ神殿跡(ギリシャ・アテネ)で太陽光線を凹面鏡に受けて聖火がともされる。その後特別機でアジアの各地をリレーされ(アテネ、イスタンブール、ベイルート、テヘラン、ラホール、ニューデリー、ラングーン、バンコク、クアラルンプール、マニラ、香港、台北)そして沖縄入りする。

沖縄島内リレーの後、9月5日鹿児島に空輸、その後各コースに分散しながら、最終的には4コースで日本全国46都道府県をへて東京で再び集火された。

坂井義則(さかい・よしのり)

東京オリンピック聖火最終ランナーは、広島県出身の坂井義則さんである。私の郷土の2学年先輩で、私が高1のとき彼は高3だった。その彼を私は広島県営陸上競技場でまじかに見たことがある。

たぶん、1600mリレー(400m×4人)のときのことだ(800mリレーではないと思う)。彼は100、200、400m専門、私は高校ではトラックは800mをやっていたが、1600mリレーにも出場していたのである。私の先輩が、あれが三次(みよし)高校の坂井さんだと教えてくれた。身長は私(173cm)よりかなり高く肩幅があってなかなかの男前であった。

オリンピック開会式当日、聖火トーチを持ってメーンスタジアムのトラックを半周した彼は、練習の時より少しスローペースであったというが、ゆったりと落ち着いたストライド走法で美しかった。そして聖火台への163段をいっきにかけあがっていった。

  • 昭和20年(1945年)8月6日生まれ
    広島に原爆(原子爆弾)が投下されてからわずか1時間半後、広島から100km余北の中国山脈のふところの町、三次(みよし)市で生まれる。
    三次中学2年のとき陸上競技を始める。
    三次高校3年のときの広島県大会では、100m、200m、400m、800mリレーで優勝を独占。
  • 昭和39年(1964年)
    4月、早稲田大学教育学部入学(18歳)
    東京オリンピック聖火最終ランナーに選ばれその練習に専念する
    10月10日、無事大役を果たす(19歳)
  • 昭和41年(1966年)
    バンコクアジア大会400m銀メダル
  • 昭和43年(1968年)
    大学卒業後、フジテレビ入社
    競技生活に別れを告げる

参考資料

  • 東京オリンピック1964/歴史公文書探究サイト『ぶん蔵』 BUNZO

2013/12/17改編

世界陸上競技選手権大会

男子400m障害

第8回世界陸上(カナダ・エドモントン)

2001年8月10日、第8回「世界陸上」競技選手権大会(カナダ・エドモントン)で、為末大(ためすえ・だい)選手が男子400mハードルで銅メダルを獲得した。トラック種目における日本男子陸上界でのメダル獲得は、五輪、世界選手権を通じて初めてである。為末選手は、準決勝で48秒10の日本新記録をマークした。決勝ではそれをさらに上回る47秒89でゴール、日本人初、アジアでも2人目の47秒台突入と共に、3位入賞という快挙を成し遂げた。(法政大学4年)

第10回世界陸上(フィンランド・ヘルシンキ)

2005年8月09日、第10回世界陸上(フィンランド・ヘルシンキ)で、為末大(ためすえ・だい)選手が、男子400m障害決勝で3位(48秒10)となった。第8回カナダ・エドモントン大会3位(同種目)に続く二大会ぶり自身2個目の銅メダルである。陸上の男子短距離・障害種目で日本人選手が、二度メダルを獲得するのは、五輪・世界選手権を通じて初の快挙である。

為末大(TAMESUE,Dai):侍(サムライ)ハードラーの異名を持つ。大学卒業後、実業団の大阪ガスに入社するが2003年に退社、APF:アジアパートナーシップファンド(Asia Partnership fund)に所属して、プロ的に活動している。つまり、スポンサーの支援を受け、大会の賞金で競技を続けている。世界選手権の前も欧州のレースを転戦していたという。なお、APFは、東南アジアを中心に投資を展開する企業とのこと。

為末大(ためすえ・だい)

1978年(昭和53年)5月3日生、広島市佐伯区の五日市小・中学校から、同じく広島市内の皆実(みなみ)高校を経て法政大学へ進学。170cm、67kg、世界一小さなハードラー。

中学3年、全国中学大会で100m、200mの2冠に輝く。
高校3年、400m世界ジュニア選手権4位(日本短距離界初)、400mハードル広島国体(少年男子A)優勝:記録49秒09(高校生で初めて50秒を切る)、400mもジュニア記録で制す。

大学(法政大)入学後はスランプに苦しむが、3年生になって400mハードルで学生記録を更新(48秒47)、シドニー五輪(2000年)に出場した。しかし、予選で9台目のハードルに足を引っかけて転倒、予選落ち。

中国新聞2001.10.05(金)スポーツ欄、「そこを聞かせて」のコーナー
インタビューに答えて、次は”アテネ五輪で世界新V”。彼は我が五日市中学校陸上部の後輩ということになる。今後のさらなる活躍が大いに楽しみである。

中国新聞2002.1.25(金)情熱のバトンリレー(中国新聞創刊110周年記念)
インタビューに答えて、”アテネ五輪? 当面の目標はそう。でも、30歳で迎える北京五輪に最高のピークを持っていきたい。勝つために”

男子マラソン

尾方剛(おがた・つよし)

同じく第10回世界陸上男子マラソン(13日)で、尾方剛(おがた・つよし)選手が銅メダル(2時間11分16秒)を獲得した。尾方選手は、広島県熊野高校出身(1991年石川国体一万m2位)、山梨学院大学2年の時、箱根駅伝優勝アンカーを努める。大学卒業後、中国電力入社。昨年の福岡国際でマラソン初優勝。

同期会・同窓会

徳島大学

1998年06月20日(土)、薬学部ワンダーフォーゲル部OB会(徳島)
1998年10月10日(土)、松浦博先生叙勲祝賀会(大阪)
勲三等旭日中綬章を受賞
(ワンダーフォーゲル部顧問)

2000年09月23日(土)、第1回薬学部同期会(京都・南禅寺)

高橋尚子、シドニー五輪女子マラソンで金メダル獲得

2000年9月24日(日)朝、第27回シドニー五輪女子マラソンで高橋尚子(なおこ)選手が金メダルを獲得した。五輪での優勝は日本女子陸上界では史上初の快挙である。2時間23分14秒(五輪最高記録)。

私はこのレースを京都の旅館でテレビ観戦した。前日来、一泊で学生時代の同期会があり、朝の食事を終えて解散までしばらくの時間を興奮のうちに過ごすことができた。今週になって、その会での各自の自己紹介をおさめたビデオが配られ、改めて過ぎ去った日々に思いを馳せる今日このごろである。

なお、日本男子のオリンピック陸上競技優勝は、実に64年前の第11回ベルリン大会における男子三段跳び(オリンピック3連覇)である。

三段跳びオリンピック三連覇
第9回アムステルダム大会、昭和3年(1928年)、織田幹雄(広島一中卒)
第10回ロサンゼルス大会、昭和7年(1932年)、南部忠平
第11回ベルリン大会、昭和11年(1936年)、田島直人
2001.09.30(日)第28回ベルリンマラソン(女子)
高橋尚子選手、世界最高タイムで優勝。2時間19分46秒
女子選手として初めて2時間20分の壁を破る。なお、従来の記録はテグラ・ロルーペ(ケニア)が2年前のこの大会で出した2時間20分43秒。
2001.10.07(日)シカゴ・マラソン
キャサリン・ヌデレバ(ケニア)優勝。2時間18分47秒
高橋尚子選手の世界最高記録を、わずか一週間でしかも1分近く上回る。両者の直接対決が実現することを期待したい。
2003年09月14日(日)、第2回薬学部同期会(京都・嵐山)

デジカメを買い換えた(出発前)

第2回同期会の集合写真を無事パソコンに取り込んだ。少し暗い感じはするが修正可能だろう。ともかく全員の顔ははっきりと映っているので安心だ。その後で撮った2~4名づつのスナップ写真は完璧である。幹事から写真係を仰せつかったのだが役目は果たせそうである。ともかく、集合写真にタイトル文字を入れてプリントアウトできるところまで一週間以内で完成させたいと考えている (予定として)。

今回の同期会で、幹事からデジカメを持ってこいと言われて考えた。今まで使っていたデジカメは4~5年前のものでかなり旧式である。山行での花撮影もメカのせいか腕のせいかわからないが今ひとつである。買い換えようかなと思っているところへある製品の宣伝が目に入った。インターネットのサンプル写真を見るとヒマワリの写真が細部まで非常にクリアである。胸ポケットにちょうど入る大きさにも魅力を感じて量販店に走る。

単三乾電池が使えるタイプである。そして標準添付の記録媒体(SDメモリカード)は8MBである。それでは少なすぎると考えて128MBを一枚購入する。しかし 、200万画素タイプなので花を写すにはほんとうは物足りないレベルかもしれない。

鹿苑寺(金閣)、龍安寺(石庭)などを歩いてまわる(9月14日)

写真撮影の予行演習を兼ねて、京都の町を歩いてみた。京都駅から烏丸通りを京都御所そして大徳寺に向けて北へ上がる。そこから鹿苑寺(金閣寺)、龍安寺、そして仁和寺を経て嵐山へ至り、渡月橋を渡れば今日の宿はすぐ目の前である。朝9時30分位から歩き始めて宿には午後4時過ぎに到着した。中でも龍安寺の石亭がやはり一番気に入った。

電池の消耗が激しそうである。後で単三4本を買い足しておこう。さて、さっそく受け付けの女性陣を対象にリハーサルをする。フラッシュ無ではどうも像が二重になるようだ。フラッシュ有りで、画像サイズ1600×1200(UXGA)、画質FINEでいくことにする。1コマ1MB位だろうか。メモリ128Mあるので十分だ。

会には男性11名、女性19名が参加した。前回から3年経ち男女一人づつを欠いてしまった。開会に先立ち黙祷を捧げる。なお、参加資格(昭和41年度入学あるいは昭和45年度卒業)があるのは男女とも約40名づつである。

2次会の途中で”月見”に出かける。渡月橋の上から、月例17.8日の美しい月(右上が少し欠ける)を見る。川下の方角(方位91度、高度23度)で、火星はもう少し南に離れている。ゴルフ組みが相次いでダウン。服薬している者も多い。3年間の重みを感じる。

広隆寺(弥勒菩薩)などを歩いて回る(9月15日)

15日(月)も歩いた。宿に”嵯峨野めぐり”という簡単なパンフレットがあったので説明を受けて出発する。しかし足は自然と太秦方面に向いてしまった。広隆寺から島津製作所の前を通って二条城(築城400年祭)を見学して京都駅に至る。朝9時20分過ぎから歩き始めて京都駅には午後1時30分ころに到着した。

途中、太秦の路上で珍しい人に会う。全くの奇遇であった。同業者でずっと以前に関東で、ある時は呉越同舟、ある時は丁々発止とやりあった仲の人だ。向こうから歩いて来る人に声をかけられてすぐにわかった。 今は太秦に住んでいるのでこの辺りをちょくちょく歩いているという。ナップサック姿である。元気そうでなによりだ。

太秦・廣隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像を見る。美しい。光量が抑えられているのでパンフレット等の写真のようにはっきりとは見えない。それでも満足だ。庭にはキキョウ、ハギの花が満開。入口右手には忠魂碑も。

二条城は広い。まさに幕府が豊臣家、朝廷に示した権力の象徴といったところである。

京都駅で朝方別れた女性4名と会った。再会を約して再び別れる。

広島を出発前にWebに手を入れる(出発直前)

ところで、出かける日は新幹線(のぞみ)を予約していた。それに乗るためには、朝7時04分JR新井口の電車に乗らなければいけないと駅で教えてもらっていた。

朝目がさめるとメールが入っている。我がHPのトップに掲載している内容の修正に関することだ。我がHPを見て行動する人たちがいる。ここで内容を修正しておかないとこの連休が無駄になってしまう。

夢中で作業をする。そして夢中で駅まで走った。汗が引いたのは新幹線が動き始めてしばらくたってからであった。

2005年10月09日(日)、薬学部同窓会(広島)

2005年10月09日(日)
第38回日本薬剤師会学術大会(広島)
広島にて同窓会開催
出身大学病院教授・薬剤部長招聘

2007年、第3回薬学部同期会(徳島)
今年度中にすべての人が60歳以上となる記念の年
2010年、第4回薬学部同期会(東京)
2012年、第5回薬学部同期会(宮島)

廿日市高等学校

1972年01月03日(月)、廿日市高等学校3年B組同期会(広島市南区)欠席?
1992年08月15日(土)、廿日市高等学校41年卒業同期会(広島市西区)
2000年06月17日(土)、廿日市高等学校41年卒業同期会(広島市西区)
第一部「桜尾会」、廿日市高校全体の同窓会、本年度は昭和41年卒業生が当番学年
第二部「41年同期会」、全体の同窓会に引き続き実施する
2005年07月30日(土)、磯谷卓治先生叙勲祝賀会(広島)
瑞宝小綬章を受賞
(高校1・2年の担任)
2007年08月15日(水)、廿日市高等学校41年卒業還暦記念同期会(広島市西区)
一次会、Web友達などに会う
二次会、陸上部のメンバーその他

五日市中学校

1969年01月05日(日)、五中陸上部同窓会(現・佐伯区楽々園)
1986年08月15日(金)、五中陸上部OB会(現・佐伯区海老山)
1990年11月24日(土)、五日市中学校昭和38年卒業同期会

夏の甲子園

伝説の延長18回決勝戦(甲子園)、再現される

延長18回引き分け再試合(1969年)

昭和44年(1969年)8月18日、「延長18回」引き分け再試合(伝説の決勝戦、松山商業VS三沢高校)は私に強烈な印象を今でも残している。私は甲子園に行ったことはない。もちろん試合に出たことなどないし球場に足を運んだこともない。だからこの試合はテレビで見た。

松山商業(愛媛県)・井上明、三沢高校(青森県)・太田幸司、両投手の投げ合いを軸とした両チームの攻防はすさまじく、お互い絶体絶命のピンチをしのぎながら、ついに「0-0」のまま延長18回、4時間16分の死闘は終わった。

翌日の再試合では、松山商業は井上・中村哲の両エースの継投、対する三沢高校は大黒柱太田の4連投(実質5連投)に頼らざるを得ず、地力に勝る松山商業が「4-2」で勝利をおさめ、深紅の大優勝旗を手にした。

そして、太田幸司は”最も美しい甲子園の敗者”となった。

松山商業-三沢高校の試合再現(1999年)

平成11年(1999年)11月6日午後、甲子園球場で、松山商業-三沢高校の試合が再現された。当時の両校ナインがそれぞれ母校のユニフォームに身を包み、30年ぶりに再会したのである。

井上・太田の両エースは5回までを投げ、その時点では「5-7」で三沢高校2点のリードであった。しかしその後、松山商業が「13-8」と逆転し、またしても勝利を得た。

この試合の「MVP」は、松山商業・三好威徳マネジャー(当時)だった。守っては、6回から井上投手をリリーフして2イニングを完璧に押さえ、打っては、勝ち越しのタイムリーヒットを放ったりと大活躍した。30年前はベンチ入りできなかった彼の言葉は、「30年間、この日を待っていたんです!」であった。

なお、深紅の大優勝旗は未だ白河の関を越えたことがない。

太田 幸司(おおた・こうじ)

1952年1月、青森県生まれ。
1969年夏、甲子園準優勝(三沢高校エース)
1970年、近鉄入団。その後、巨人、阪神に移籍する。
1984年、引退。通算58勝85敗4セーブ。

参考資料

田澤拓也(ノンフィクション作家)の次の2点

最も美しい甲子園の敗者、敗因の研究(日本経済新聞社刊)1999年収載
30年目の再々試合 熱く、日本経済新聞、1999.11.12(金)文化欄

広島県出身のプロ野球選手

第46回全国高校野球選手権大会広島県予選<準決勝>

私が高校野球の公式試合を実際にグランドで見たのは、後にも先にも、あの一試合のみである。昭和39年(1964年)7月29日(広島市民球場)、東京オリンピック開幕直前の暑い夏の日のことであった。

我が廿日市(はつかいち)高校は、広陵高校に1-9と完敗した。エースのマウンドを踏んでいたのは、若き日の山本浩司(改名前)である。敵は強く浩司もついに力尽きて試合の途中一時マウンドをゆずった。もしかしたら甲子園、ということで私も応援にかけつけたのだったが、彼は再びマウンドに立ちみごと散った。

山本浩二さんは、小学校、中学校、そして高校と私の1年先輩である。私は、中学に入ったとき、クラブ活動を陸上部にしようか野球部にしようかまよった。結局は陸上部にしたのだが、もし野球部に入部していれば、山本浩二さんといっしょに試合に出る機会があったのかもしれない。

中学時代の部室は、陸上部と野球部は隣り合っていたので、浩二さんの顔は良く知っていた。高校では、クラスマッチ(学級対抗で学年には関係なく対戦した)のバレーボールで、浩二さんのするどいスパイクを受けたこともある。

広島県高校野球界ではまったく無名の県立普通科高校に、あわや甲子園の夢を与え、法政大学でも、無名に近い一般部員から「法政三羽がらす」と言われるまでに成長、出身地の広島東洋カープからドラフト1位指名され、入団後は、年々少しづつ地道に個人打撃成績を上げてゆき、昭和50年(1975年)の球団史上初のリーグ優勝の立役者となってみごと期待に答え、その後さらに日本を代表する選手に飛躍、世界の王からホームラン王を奪うなどして、ついに永久欠番の栄誉を獲得した先輩が身近にいた喜びを、今この年になってひしひしと感ずる。

さて、廿日市高校野球部にはもう一人強い選手がいてショートを守っていた。廿日市のお寺さんの方(廿日市中学出身)で、中学時代は浩二さん(五日市中学出身)とはお互いライバル関係にあったそうである。後年、私の父(次男)が亡くなり墓を近くに移すことになって、宗派が同じということでお世話になろうとは、その時は全く想像もしないことであった。縁とは不思議なものである。

なお、その後も我が母校はいまだ決勝戦(広島県予選)まで勝ち残ったことはない。

山本浩二(やまもと・こうじ)

広島東洋カープ、元選手・監督
ミスター赤ヘル(永久欠番、背番号 8)
日本プロ野球名球会会員(2339安打)

通算成績 (出場試合数 2284)
打数8052、安打2339、打率2割9分0厘
本塁打536、得点打1475、得点1364
三振1123、四死球1230
盗塁231、失策39

タイトル・表彰等
最優秀選手(MVP)、2回(昭和50、55年)
首位打者、1回(昭和50年)
本塁打最多打者、4回(昭和53、55、56、58年)
得点打最多打者、3回(昭和54~56年)
ベストナイン、10回(昭和50・52~59・61年)
ゴールデングラブ賞、10回(昭和47~56年)
(昭和47年制定時はダイヤモンドグラブ賞、61年より改称)
月間最優秀選手賞(月間MVP)、5回
日本シリーズ優秀選手賞、1回(昭和59年)
日本シリーズ敢闘賞、1回(昭和50年)

オールスター戦、14回出場(昭和48~61年)
日本シリーズ、5回出場(昭和50、54、55、59、61年)
日本一、3回(昭和54、55、59年)

昭和21年(1946年)10月25日
広島県佐伯郡五日市町(現・広島市佐伯区五日市)に生まれる
5~6歳のころより兄とともに草野球を始める
(稲刈り後の田んぼグランドなどを使用する)

昭和28年(1953年)4月
五日市町立(現・広島市立)五日市小学校入学(ソフトボール)
5年生のころ、クラスチームで4番・サードで活躍
昭和34年(1959年)4月
五日市町立(現・広島市立)五日市中学校入学(軟式野球)
野球部入部、1年生でレギュラー入り、ピッチャーで4番
2年生の時、佐伯郡中学校軟式野球大会優勝(エースで4連投)
昭和37年(1962年)4月
広島県立廿日市(はつかいち)高校入学(硬式野球)
野球部入部、1年生の時からエースのマウンドを踏む
2年生秋の新チーム結成時、部員数9名のみ(補欠ゼロ)
3年生の時、鶴岡一人南海ホークス監督が高校に視察に来る

昭和39年(1964年)7月29日(高校3年)
第46回全国高校野球選手権大会広島県予選<準決勝>
広陵高校に1-9で完敗、甲子園の土を踏めず
しかし、ベスト4は廿日市高校始まって以来の快挙であった

昭和40年(1965年)4月、法政大学入学
法政大学入学とともに野球部入部。しかし、合宿入り(エリート・コース)は許されず、下宿先から通う一般部員であった。 1年生の時の出番は、春のリーグ戦終了後の新人戦トーナメントのみ。初めてのマウンドでの結果はおもわしくなく、投手としてやっていく自信を失う。

2年生春のリーグ戦終了後、打者転向。新人戦トーナメントで外野手デビュー。秋のリーグ戦は先発出場。リーグ戦終了後、「合宿入り」する。大学3年秋、4年春と連続して東京六大学リーグ戦優勝。

最終学年(法政の黄金期)では、富田、田淵と共にクリーンアップの一角を占め「法政三羽がらす」と言われるまでになる。春のリーグ戦で初めてベスト9に選出され、「ひょっとしたらプロでやっていけるかもしれない」と思うようになる。秋のリーグ戦は、優勝こそ逃したが、個人打撃成績はさらに満足のいくもので、プロ入りへの自信を深めた。

昭和43年(1968年)11月12日
ドラフト会議で念願の広島東洋カープに1位指名される
(法政三羽ガラスの結果は以下の通り)
3番、富田 勝(南海ホークス、昭和43年ドラフト1位指名)
4番、田淵 幸一(阪神タイガース、同上)
5番、山本 浩司(広島東洋カープ、同上)

昭和44年(1969年)4月12日
対中日戦、6番・センターで先発出場。プロ野球デビュー
昭和45年(1970年)12月17日
結婚
昭和46年(1971年)3月
背番号「8」← 「27」に変更
昭和48年(1973年)7月21日
オールスター初出場
昭和49年(1974年)
シーズンオフに改名「浩司 → 浩二」
12月、広島東洋カープ監督にルーツが就任、日本プロ野球史上初の外国人監督誕生。球団カラーを「赤」とし、ユニフォーム変更。背番号など赤字、ヘルメットも赤色(赤ヘル)

昭和50年(1975年)
5月3日、ルーツ退団、新監督に古葉竹識が就任
7月19日、オールスター第1戦、2打席連続本塁打を記録。衣笠も同様に連続本塁打、2人で4本塁打7打点。その後、この二人を中心にペナントレースでも「赤ヘル旋風」を巻き起こす。
10月15日、球団史上初のセ・リーグ優勝(球団創設26年目)、対巨人戦4-0(後楽園球場)立役者となった山本はお立ち台の上で男泣きに泣いた
10月21日、公式戦閉幕。首位打者(初)打率3割1分9厘、MVP(初)、ベストナイン(初)
11月2日、日本シリーズでは阪急に敗れる
敢闘賞受賞(本塁打2本)

昭和54年(1979年)
11月4日、球団史上初の日本一(対近鉄)
日本一2回目(昭和55年2連覇)、3回目(昭和59年)
昭和61年(1986年)
10月27日、日本シリーズで惜敗、3勝4敗1分(対西武)
10月28日、現役引退発表(広島グランドホテル)
12月、NHK野球解説者に就任

昭和63年(1988年)
10月21日、広島東洋カープの監督就任発表

鶴岡一人(つるおか・かずと)

鶴岡一人は広島県呉市の出身(五番町小学校卒)である。

広島商-法政大を経て、南海ホークス(現・福岡ダイエーホークス)入団。選手としてはもちろんのこと監督として特に目覚しい活躍をする。東の「ドン」(元巨人軍監督・川上哲治)に対して、西の「親分」の愛称で親しまれた日本プロ野球界を代表する監督であった。

「ゼニの取れる選手になれ」といった鶴岡自身のことば、あるいは「がめつい野球」という評価からは前近代的な野球を想像しがちであるが、ファームの充実、スコアラーの採用など、その近代化のためにつくした功績は決して小さくない。南海にテスト入団した野村克也・阪神監督(2000年現在)は、鶴岡に抜擢されて正捕手になり三冠王まで取った。

52歳で自らユニフォームを脱いだ鶴岡は、評論家(NHK解説者など)として関西球界の「相談役」に徹した。

プロ野球に入るまで

1916年(大正5年)7月27日生
母校の五番町小学校は東京や京都で開かれた少年野球大会に出場するほど強かった。小学校卒業後ただちに広島商業(広島の野球名門校)進学。
1931年(昭和6年)広島商業3年の時、春の選抜で優勝(ショートで出場)
東京六大学(法政大学)リーグでは、巧打堅守の名三塁手として鳴らす。

選手生活(実働8年)

1939年、南海ホークス入団。本塁打王(10本)。
1940年、召集
1946年、復員後、監督兼任で復帰。打点王、1リーグ制優勝(MVP)
(この年だけチーム名はグレートリング)
1948年、1リーグ制優勝(MVP)
1951年、パリーグ優勝(MVP)
1952年、引退。
(754試合、2681打数790安打、61本塁打、467打点、打率.295 )

監督生活(23年間、1946年~68年)

優勝11回(1リーグ時代2回、パリーグ優勝9回)
日本シリーズ優勝2回

日本シリーズで4度巨人に敗れる(1951年、52年、53年、55年)
1959年、日本シリーズ初優勝(対巨人、大阪・御堂筋の大パレード)
1964年、日本シリーズ優勝(2回目)
史上最多勝利監督、1773勝(千勝以上監督で勝率1位、6割9厘)

1965年、野球殿堂入り(監督在任中、川上哲治氏と同時)
1991年、スポーツ功労者顕彰、勲四等旭日小綬章
2000年3月7日、死去(満83歳)

(杉浦忠投手)
1959年(昭和34年)、大阪・御堂筋涙の大パレードの主役の一人(捕手野村勝也)である。前年(昭和33年)立教大学(同期、長嶋茂雄)から南海入り、新人王(27勝)。翌59年38勝4敗、防御率1・40、最高殊勲選手。
日本シリーズでは、4連投4連勝(対巨人)。
70年引退、187勝106敗、防御率2.39。
2001年(平成13年)11月11日、急性心筋梗塞のため札幌にて急死、66歳。
参考:1961年(昭和36年)稲尾和久投手(西鉄ライオンズ)42勝14敗。

藤村富美男(ふじむら・ふみお)

阪神タイガース、元選手・監督
初代・ミスタータイガース(永久欠番、背番号 10)

藤村富美男は広島県呉市の出身である。

1916年(大正5年)8月14日生
鶴岡一人と同い年ですぐ隣の小学校に入学、野球を始める。
小学校卒業後、高等小学校に2年間通う。
(鶴岡は小学校卒業後すぐに広島商業に進学)

1931年(昭和6年)大正中学(のち呉港中学と改名)入学
1932年、2年生から主戦投手、卒業の年まで夏・甲子園4回連続出場
(この間、春2回出場、1933年、34年)。
1934年(昭和9年)4年生の時、呉港中学と改名、夏・甲子園優勝投手。
呉の港に深紅の大優勝旗をはためかす。この時の決勝戦で、後の巨人軍監督・川上哲治を3連続3振に討ち取ったのは有名なエピソードである。

1936年(昭和11年)中学卒業と同時に、「大阪野球倶楽部」(現・阪神タイガース)入団、創立時のメンバーの一人となる。投手として入団したが、肩をこわして3塁手に転向。戦後はほとんどマウンドに上がることはなく、打者として大活躍する。藤村のバットは、長さ38インチ(97cm)という長いもので、「物干し竿」と呼ばれた。
(バットの長さは、37インチとする資料もある)

1949年(昭和24年) 33歳
本塁打王(46本)、打点王(142)、打率2位(0.332)
当時としては驚異的な成績であり、チーム成績6位ながら最高殊勲選手(MVP)に選ばれる
1956年(昭和31年)6月24日、甲子園での対広島戦
監督でありながら代打で登場、代打・逆転・サヨナラ・満塁本塁打

通算成績(1558試合)、1936年~1958年(実働17年、兵役約4年)
5648打数、1694安打、871得点、打率、0.300
224本塁打

タイトル
首位打者:1回(1950年)
本塁打王:3回(1936年秋、1949年、1953年)
打点王:5回(1944年、1947年~49年、1953年)
最多安打:2回(1949年、1950年)

表彰
最優秀選手:1回(1949年)
ベストナイン:6回(1947年~1952年)

1974年(昭和49年)野球殿堂入り
1992年(平成4年)5月28日、死去(75歳)

付録:男家族すべて甲子園へ
2000年春・選抜を迎えるにあたって、藤村本人はもちろんのこと、弟、子供2人、孫3人の男家族全てが甲子園経験者になろうとしている。

東京オリンピック男子マラソン

10月10日は国民の祝日(体育の日)である。昭和39年(1964年)第18回オリンピック東京大会開催を記念して、開会式の日が選ばれたものである。10月10日は晴れる確率が非常に高いいわゆる特異日のため、この日をオリンピック開会式と決めたのだそうである。ねらいはぴたりと当たり、開会式当日は前日までの雨はうそのように晴れあがり日本晴れとなった。こうしてアジア初の五輪はスタートした。

第18回オリンピック東京大会

1位、アベベ(エチオピア)、2時間12分11秒2
世界最高、オリンピック最高
2位、ヒートリー(イギリス)、2時間16分19秒2
3位、円谷幸吉(日本)、2時間16分22秒8
     
日本人選手3名:
円谷幸吉(コーチ、畠野洋夫)自衛隊
君原健二(コーチ、高橋進)八幡製鉄
寺沢徹 (コーチ、村社講平)倉敷レーヨン
     
第17回ローマ大会、アベベ優勝
第18回東京大会 、アベベ2連覇(円谷3位、君原8位)
第19回メキシコ大会、マモ優勝(君原2位)
(アベベ途中棄権、しかしエチオピア3連覇)
第20回ミュンヘン大会、マモ3位(君原5位)
(エチオピア4回連続国旗掲揚)

アベベ・ビキラ(あべべ・びきら)エチオピア

175cm、65kg

昭和7年(1932年)8月7日生まれ
生地はショア州・デュノバのジョル村
昭和26年(1951年)アジスアベバに出て(19歳)
ハイレ・セラシエ皇帝の親衛隊員となる
昭和31年(1956年)結婚(24歳)
この年エチオピアは初めてオリンピック参加(メルボルン大会)
このオリンピックにマラソン史上初の2連覇をかけたチェコスロバキアの”人間機関車”ザトペックは6位と敗れ去った。
昭和32年(1957年)2月、ローマ大会の陸上強化選手に選ばれる(24歳)
コーチのオンニ・ニスカネン(スウェーデン人)の指導始まる

昭和35年(1960年)ローマオリンピック(28歳)

9月10日午後5時半
カンピドリオ丘スタート → アッピア旧街道(シーザーの道)→コンスタンティーノ凱旋門ゴール、2時間15分16秒2(世界最高)、はだしの英雄となる。

はだしで走ったのは、たまたま今まではいていたランニング・シューズがすり切れて、ローマではぴったりのものが見つからなかったからにすぎない。もちろん子供のころからはだしで走り回っていたそうであるから、はだしの方がむしろ走りやすかったのかもしれない。

昭和39年(1964年)東京オリンピック(32歳)

10月21日午後1時
国立競技場スタート → 甲州街道折り返し → 国立競技場ゴール。20km地点で早くも独走態勢に入り、そのままゴール。史上初の五輪マラソン2連覇達成。
2時間12分11秒2(世界最高、オリンピック最高)。3週間前の盲腸手術の影響をまったく感じさせなかった(ダーク・グリーンのランニングシャツ、エンジのパンツ、シューズは真っ白でドイツ製)。

世界で初めてのテレビによるマラソンコース完全中継は、延々とたった一人のアベベを映すことになってしまった。中継カメラは1台しかなかったのである。しかし私たちは少しも飽きることがなかった。

- 背を立て黙々と走る”はだしの英雄”アベベには、聖者の風格があった -
私の一番好きなアベベの写真に付いているキャプションである。ここにその写真をぜひとも掲載したい。しかし、著作権その他の問題をクリアーするすべを私は知らない。われらすべて勝者(東京オリンピック写真集)、講談社(1965年)P.044より。

昭和43年(1968年)メキシコオリンピック(36歳)

10月20日
16km地点で棄権。五輪マラソン3連覇は成らなかった。
しかし、同僚のマモ優勝。

その年の7月、練習中に転倒して左ヒザの筋肉を痛め、走り込み不足であったことが大きな原因であろう。年齢的にもマラソン・ランナーとしての最盛期はすぎていたといえるかもしれない。

昭和44年(1969年)自動車事故(36歳)
3月23日夜、フォルクスワーゲンを運転中、自損事故をおこし下半身不随となる(第7頚椎のずれ)。
昭和44年(1969年)パラリンピック(36歳)
7月、ストーク・マンデビル病院で開かれたパラリンピックで、洋弓と車イス競争に出場。事故から4か月後のことであった。その後、ノルウェーの身障者スポーツ大会でイヌぞりレースで優勝、するなどしている。
昭和48年(1973年)10月25日、死去(41歳)
脳出血が原因ではないかといわれている。

なお、アベベは戦後まもなくのころ一度日本に来たことがあるらしい。朝鮮戦争出兵途中に(エチオピアの親衛隊兵士として?)横浜港に立ち寄ったことがあるというのだ。このとき実際に日本の土を踏んだのかどうかは定かではない。

円谷幸吉(つぶらや・こうきち)

円谷はアベベに続いて2位で競技場に戻ってきた。その15m後に選手が一人迫っている。円谷は振り向かない。意識がもうろうとしていて気がつかなかったのである。スタンドを埋め尽くした大観衆から悲鳴があがる。テレビの前の私も興奮した。しかし、第3コーナーから第4コーナーにかけてついに抜き去られ3位でゴールした。163cm、55kg。

円谷は責任感の強い男である。「メキシコ・オリンピックではもっと上を目指す」ことを心に誓う。しかし、精神的にも肉体的にも、次のオリンピックを狙うだけの完璧な条件はついに得ることができなかった。

コーチとは引き離され、上官には結婚を反対され、椎間板ヘルニアの手術までした。それでも彼は走り続けた。精いっぱいの努力をしたのである。しかし、皆の期待に答えられないことを悟ったとき彼は自らの命を絶った。

メキシコ・オリンピックの年明け早々、自衛隊体育学校の宿舎内のことであった。まさに「オリンピックに奪われた命」といえるであろう。<父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒、お許し下さい>。

そのメキシコオリンピックで、君原健二は銀メダルを獲得する。それは「円谷のために走る」という君原の強い決意の結果でもあった。円谷幸吉メモリアルマラソン(須賀川市、毎年11月の第二日曜日)は平成10年で第16回を数えている。君原は円谷の墓参を兼ねて毎年参加している。

昭和15年(1940年)5月13日
福島県須賀川町(現在の須賀川市)に生まれる。
君原健二とは同学年である。
昭和22年(1947年)4月、須賀川町立第一小学校入学
昭和28年(1953年)4月、須賀川町立第一中学校入学
昭和31年(1956年)4月、福島県立須賀川高校入学
昭和32年(1957年)(高校2年)
4月、自主的に陸上(ロード)練習を始める。
関係者に注目され、正式な陸上競技部員となる。

昭和33年(1958年)(高校3年)

8月8日、第11回全国高校陸上競技対抗選手権大会(インターハイ)出場。山口県下関市営陸上競技場、トラック5000m予選落ち。しかし、全国大会出場は須賀川高校陸上競技部始まって以来の快挙である。
9月、第13回富山国体、高校生の部5000m出場予選落ち
11月、第8回青森~東京間駅伝競走(あおとう)出場、
福島県選手22名の一員。
昭和34年(1959年)19歳
3月28日、陸上自衛隊入隊。半年間の新隊員教育終了後、郡山陸上自衛隊で自主トレーニングを開始(このころ陸上競技部は存在しない)。
昭和35年(1960年)20歳
10月25日、熊本国体、青年の部5000m5位入賞。
この後、郡山自衛隊陸上競技部が正式発足する。
昭和36年(1961年)21歳
10月、第16回国民体育大会秋田大会、5000m
1位、伊藤勝悦選手(秋田)14分49秒2
2位、円谷幸吉(14分54秒8)
3位、君原健二
(円谷、君原はじめてそろって表彰台に上がる)
昭和37年(1962年)22歳
4月27日、自衛隊体育学校特別体育過程入校(埼玉県・朝霞)
畠野洋夫コーチから初めて正しいトレーニング法を教わる。
10月の日本選手権の成績により、オリンピック強化選手に選ばれる。(5000m、10,000m1位)
12月20日、陸上10傑(日本陸連発表)5000m1位
昭和38年(1963年)23歳、東京オリンピック前年
7月23日~9月20日、ニュージーランド遠征(君原健二などのマラソン組)に加わる。その目的の一つは、世界のスピードマラソンについていける選手の養成、具体的には円谷のマラソン転向の可能性を密かに探るためのものであった。

円谷はトレーニングの結果、2万m世界新記録、1万m日本新記録を出すなど、急激な成長をとげて一躍注目を浴びるようになる。そして、オリンピックでの10000m出場とマラソン挑戦が決定する。しかし、この時点で、円谷はまだ一度もマラソンを走ったことはなかった。

昭和39年(1964年)24歳、東京オリンピックの年

3月20日、マラソン初挑戦(第12回中日名古屋マラソン)で5位入賞、記録2時間23分31秒0 でオリンピック最終選考会出場資格(2時間35分以内)獲得
4月12日、第19回毎日マラソン(オリンピック最終選考会)
国立競技場から調布市飛田給折り返し(東京オリンピックと同じコース)
1位君原、2位円谷、3位寺沢、結果通りこの3名がオリンピック代表となる(円谷は一月2回のフルマラソンをこなして、半年後の本番に臨んだことになる)

10月14日、東京オリンピック10000m決勝、6位入賞
ベルリン・オリンピック以来のトラック競技入賞であった
10月21日、東京オリンピックマラソン、3位
ベルリン・オリンピック以来実に28年ぶりの日章旗である

昭和43年(1968年)27歳、メキシコオリンピックの年

1月9日、陸上自衛隊朝霞駐屯地の自室で自ら命を絶っているのが発見される。

君原健二(きみはら・けんじ)

東京オリンピックでは期待されながらも8位に終わる。八幡に帰って5日後に退部届を提出、マラソンから遠ざかる。しかし、2~3のやむを得ないレース(特にチームレース)にはしぶしぶ出場していたようである。オリンピック年明け早々の中国駅伝(昭和40年1月)にも出場している。

私は、この年の中国駅伝に佐伯陸協(郡市の部)Bチームで出場した。区間こそ違え君原さんと同じ駅伝を走ったことになる。高校2年生の時のことである。

彼は昭和41年(1966年)3月3日、25歳になる直前で結婚した。結婚の意志を固める前後から、再起に向けて動き始めている。

昭和16年(1941年)3月20日、福岡県北九州市小倉北区生まれ
昭和34年(1959年)3月、戸畑中央高卒業後八幡製鉄入社
昭和37年(1962年)12月2日、第16回朝日国際マラソン
21歳で初マラソン、日本最高記録で3位入賞
昭和39年(1964年)10月21日(23歳)
第18回オリンピック大会(東京)8位
昭和43年(1968年)10月20日(27歳)
第19回オリンピック大会(メキシコシティー)2位
昭和47年(1972年)10月10日(31歳)
第20回オリンピック大会(ミュンヘン)5位
昭和48年(1973年)4月6日(32歳)
第10回国際古典マラソン(アテネ)を最後に第一線から退く

オリンピックマラソン3回連続出場
出場したマラソン35回すべて完走
(自己最高 2時間13分25秒8)
優勝13回(ボストンマラソン、アジア大会、別府大分毎日など)
2位8回、3位5回、4位1回、5位2回、7位3回、8位1回
11位、13位各1回づつ。

平成3年(1991年)新日本製鉄(株)退社(50歳)
平成4年(1992年)九州女子短期大学教授就任(51歳)

織田幹雄とマラソン

織田幹雄は東京オリンピック開催決定後、五輪選手強化指導本部長になった。組織強化のため、途中から織田以外の2人のオリンピック三段跳び金メダリストをメンバーに加えている。そして本番では、日本陸上競技選手団総監督を勤めた。

オリンピック三段跳び日本人三連覇
織田幹雄、陸連強化本部長
第9回アムステルダム大会( 昭和3年、1928年)
南部忠平、陸連強化副本部長
第10回ロサンゼルス大会(昭和7年、1932年)
田島直人、陸連強化委員長
第11回ベルリン大会(昭和11年、1936年)

円谷幸吉のマラソン出場を企画・実行、そして成功させたのは実は織田である。円谷がゴールした瞬間、感極まった織田は誰はばかることなく号泣したという。織田は、オリンピックのような大舞台で日ごろの実力をいかんなく発揮するには、技術力30%、精神力70%と説く。精神力なくしては勝てない。自身の豊富な練習量・競技実績からでてくる確信に満ちた言葉である。織田は他人の技術力、精神力を見る確かな目を持っていた。

織田たちの時代は学生スポーツ全盛の時代であった。彼らの偉いところはすべてのことを自分たちの力で運用している点にある。織田にコーチはいない。あらゆる書籍(もちろん洋書を含む)を読破、自分自身で考え実行していったのである。

なお、織田は、中国駅伝(第1回大会、昭和6年(1931年)2月11日)創設にあたって、箱根駅伝を踏まえてコースや距離など色々アドバイスしたという。「広島へ恩返しをしたい」という気持ちが強かったのである。早稲田卒業後、朝日新聞入社が決まるまでしばらく広島に帰っていたときのことである。

織田幹雄(おだ・みきお)

アムステルダム・オリンピック三段跳び金メダリスト
(日本史上初のオリンピック金メダルである)
オリンピック3回連続出場
日本陸上競技連盟名誉会長(日本陸上育ての親)
なお、三段跳び(和名)の命名者はほかならぬ織田自身である

織田の金メダル獲得第一号の栄誉をたたえて、国立競技場のフィールドに立つ織田ポールの高さは、そのときの優勝記録15m21cmとなっている。また、出身校・海田小学校(広島県)の国旗掲揚台のメインポールの高さも15m21cmである。

明治38年(1905年)3月30日
広島県安芸郡海田市町(かいたいち)生まれ
現・安芸郡海田町稲荷町

大正7年(1918年)
海田小学校の前身である鼓浦尋常高等小学校を卒業
広島一中入学、サッカー部に入る(当時の一中は、サッカーが全国で1、2位を争うほど強かった)
大正9年(1920年)広島一中3年生
第7回オリンピック・アントワープ大会(1920年)の十種競技選手、野口源三郎さんの講習会に選ばれて参加する。そのころ短距離走のみならず長距離走でもクラスで1、2位を争うほど強くなっていたのである。記録会の走り高跳びで野口にほめられ急に興味を示すようになる。
大正10年(1921年)広島一中4年生
新設された「徒歩部」(陸上競技部のこと)に入り、走り高跳びを中心とした練習をする。

大正11年(1922年)広島一中5年生、17歳
11月、第6回極東選手権大会(翌年5月、大阪開催)の第一次予選会(広島)
走り高跳び(1m73、日本新)従来の日本新記録、1m69
走り幅跳び(6m39、日本新)公認日本記録 6m38、未公認6m54
三段跳び(13m38)日本記録 13m45に、あと7cm
本大会では、走り幅跳び,三段跳び優勝

大正12年(1923年)広島高等師範附属臨時教員養成所(英文科)入学、18歳
各種の競技会では、跳躍3種目だけでなく棒高跳びや短距離走もこなした。

大正13年(1924年)高師臨教2年生、19歳
第8回オリンピック・パリ大会、跳躍種目でただ一人の代表(40日の船旅)
7月7日、走り高跳び予選落ち
7月9日、三段跳び(14m35、日本新)日本陸上史上初の入賞(6位)

大正14年(1925年)教員養成所を中退し早稲田入学、20歳
跳躍3種目を中心に十種競技、短距離走などあらゆる競技に参加、活躍する。十種競技:100m、400m、1500m、110m障害、棒高跳び,走り高跳び、走り幅跳び、砲丸投げ、円盤投げ、やり投げ。

昭和3年(1928年)早稲田大学商学部1年生、23歳
第9回オリンピック・アムステルダム大会(シベリア鉄道でモスクワまで2週間)
7月29日、走り高跳び予選落ち(木村一夫6位入賞)
7月30日、人見絹枝、女子100m決勝進出ならず。(世界記録も作ったことあり)
7月31日、走り幅跳び予選落ち
8月2日、午前、三段跳び予選通過、午後、人見絹枝、女子800m2位
そのあと、三段跳び優勝(15m21)、南部忠平4位
日本史上初のオリンピック金メダル(生涯最良の日)

昭和6年(1931年)大学卒業後、朝日新聞大阪本社入社(運動部記者となる)
仕事の傍ら、オリンピック2連覇をめざし、三段跳び専門の練習をする。なお当時のスポーツ界は学生中心であり、社会人の競技会はほとんどなかったので、浪速クラブをつくりオリンピック準備競技会などを行った。
10月27日、神宮大会、三段跳び(15m58)日本人初の陸上世界新記録。1時間も経たないうちに、南部忠平、走り幅跳び(7m98)世界新記録達成

昭和7年(1932年)27歳
第10回ロサンゼルス・オリンピック大会(7月30日~8月14日)コーチ,主将兼選手として出場
3月5日、台湾にて指導講習中、三段跳びの踏み切り板上で脚を負傷する。本大会は予選落ち、南部忠平優勝(15m72、世界新記録)。その後けがは回復せず、競技者として第一線を退く。11月結婚。朝日の運動部記者として部長職まで努めた後定年退職。

昭和42年(1967年)第1回織田記念陸上(広島)開催
平成10年(1998年)12月2日、神奈川県藤沢市にて他界(93歳)

昭和27年、第15回オリンピック・ヘルシンキ大会陸上チーム監督
昭和39年、第18回オリンピック・東京大会陸上チーム総監督
昭和40年、早稲田大学教授就任
昭和51年、IOCからオリンピック功労賞受賞
昭和60年、東京都名誉都民
昭和61年、海田町名誉町民
昭和63年、文化功労者受賞
平成元年、日本陸上競技連盟名誉会長
平成6年、海田町、織田幹雄スポーツ振興基金設立(織田氏の寄付による)
平成10年、神奈川県藤沢市にて他界

1999/10/11初出

陸上競技(駅伝)

中学高校では陸上競技部に所属する

中学・高校時代の私はクラブ活動で陸上競技部に所属した。五日市中学校には1周200mの良いトラックがあったが、なぜだか入部当初の記憶では、隣の広島造幣局のグランドでダッシュを繰り返していたことが多かったように思う。

野球部の練習とかち合っていたのか、あるいは造幣局のグランド周辺部は草が生えており柔らかで、足腰にやさしいということだったのかもしれない。3年生が主導する自主練習が多かった。(廿日市高校のグランドは一周300mでここもよく整備されていた)

五日市中学陸上部は、佐伯郡(現・広島市佐伯区+廿日市市+広島県佐伯郡)では1~2を争うほど強かった(監督、沖井義彦先生)。その中でも特に私たちの学年は部員数も多く強かった。

私は2年生の3学期になってやっと駅伝Aチームのメンバーになった。3年生ではトラック400mにも出場した。当時陸上競技大会は佐伯郡・大竹市として行われることが多く、ダントツで強い大竹中学が大きな目標であった。

1962年(昭和37)トラック400m
5月20日、佐伯郡第一回陸上記録大会2位(62秒1)
6月24日、佐伯郡・大竹市春季陸上競技大会1位(58秒4)
9月8日、第11回佐伯郡・大竹市中学校総合体育大会陸上競技の部1位(60秒8)

中国少年駅伝(呉~広島間)出場

1960年(昭和35)11月27日、第21回大会(1年生の時)
大竹中学10連覇ならず(1位海田中学、2位阿賀中学、3位大竹中学)、五日市中学11位/31チーム(3年生6人、2年生1人、1年生1人)
1961年(昭和36)11月26日、第22回大会(2年生の時)
大竹中学雪辱を果たす(4連覇の初年度)
五日市中学11位/34チーム(3年生2人、2年生6人)
1962年(昭和37)11月26日、第23回大会(3年生の時)
大竹中学一度も首位を譲らず(4連覇の2年度)1時間31分57秒
五日市中学A、5位/39チーム(3年生7人、2年生1人)1時間34分19秒
五日市中学B、25位(3年生8人)1時間39分08秒
私は3年生になってやっと中国少年駅伝に出場することができた。その時のコースは、中國新聞呉支社前から旧・中國新聞本社(現・三越)前までの8区間28kmであった。私は、Aチームの8区(アンカー)を任された。大洲橋からゴールまでの3.7kmである。

この年のチームは強くて新チーム結成以来好成績をおさめており、本大会でも私にタスキリレーされたときは4位であった。3位のチームはかなり前に行ってしまっていたが、すぐ後ろに同じ佐伯郡(当時)の友和中学がせまっており、途中で抜かれてしまった。

順位は1つ落としたけれども、強い学年のなかで競り合って、最終学年でやっと本大会に出場できたことで満足であった。チームの目標(10位以内)も大きく上回る成績で皆とも喜びあった。広島市内の繁華街で、電車通りを片側通行止めにした中を走る気分は最高である。たしか翌年からは選手1人が通れる程度の幅を確保するようになったのではないだろうか。

1938年(昭和13)第1回大会開催
戦前大会の正式名称は「軍都連絡少年駅伝競走」といい、第1回大会のコースは、中國新聞社呉支局(現呉支社)前スタート、広島市の旧・中國新聞本社前をゴールとする8区間、29.7kmであった。
広島(陸軍第5師団)、呉(海軍鎮守府)は日本でも有数な軍都であった。この両市を結ぶ国道が完成したのは昭和13年10月15日のことで、国道完成を機に「軍都少年駅伝」は始まった。出場資格は、高等小学校1、2年、中学1、2年在学中に限り、「数え年15歳以下」(満14歳以下)であった。

敗戦前後の昭和19年、20年の中断はあったが、戦後、中国少年駅伝として再開された。その後、交通事情等から開催場所を海岸線から内陸部へ変えたりしながら、第50回中国中学校駅伝(平成元年、1989年11月26日)を迎え現在に至っている。

中学生対象の駅伝で戦前から続いているものは見当たらないらしい。長距離王国広島を基礎から支えてきた大会であり,采谷義秋(うねたに・よしあき)さん・ミュンヘン五輪マラソン代表など、この駅伝から五輪選手や全国的な名選手が輩出している。

中国駅伝(福山~広島間)出場

私は中国駅伝に出場したことがある。高校2年生の冬のことである。ただし廿日市(はつかいち)高校として出場したのではない。佐伯陸協B(郡市の部)のメンバーとして出場したのである。当時廿日市高校にも駅伝メンバーとして本大会8区間を満たすだけの人数は揃っていた。しかし、そのメンバーでは独立したチームは組めない、つまり出場は出来ても大会として恥ずかしくない成績は残せないということになった。そこで、廿日市高校生を佐伯陸協ABの両チームに振り分けて出場させてもらったのである。

1965年(昭和40)1月31日、第32回大会
佐伯陸協B・2区(松永-尾道)9.7km、34分23秒
中国駅伝は、一般の部、郡市の部、高校の部と3部制で行われていた。その制度によってこの伝統ある駅伝に参加することができ、出場者名簿に名前が残っていることは大変な光栄である。私の参加した佐伯陸協は、戦後まもないころ、八幡製鉄を向こうに回して優勝(一般の部)したこともある伝統のあるチームである。そこに流れる人と人のつながりによって私たちの参加が可能となったのであろう。感謝申し上げるほかはない。

中国駅伝は、福山(備後)と広島(安芸)という広島県を代表する2大都市を結ぶ100km余り8区間で行われた(中国新聞社主催)。スタートは福山駅前(第19回昭和27年大会より中国新聞福山支社)ゴール旧・中国新聞本社前(第35回昭和43年大会より平和記念公園)。箱根駅伝と並んで日本を代表する駅伝であった。

第1回大会は昭和6年2月11日に開かれた。以後戦前はこの紀元節開催が恒例となる。戦前の大会は、第2回大会からは一般青年(青年団)、学生の2部制をとった。昭和19年2月11日第14回大会が戦前最後の大会である。この大会は主催・大日本体育会広島県支部(中国新聞社は協賛)、スタート・ゴールは福山・広島のそれぞれの護国神社であったが、中国駅伝の名前だけは残した。なお学生の参加はなかった。

昭和20年中止、21年・22年には広島呉間往復駅伝実施。1948年(昭和23)2月11日第15回大会が戦後正式な復活大会となる。この年憲法が発布されて、国民の祝日が変更となり、紀元節は廃止、新たに「成人の日」が生まれた。

次回大会はこの成人の日に行われたが、それ以降は1月の最終日曜日(あるいは2月第一)に実施された。平成7年第62回大会を最後に「全国都道府県対抗男子駅伝競走大会」として発展的に解消している。

中国駅伝には幾人ものオリンピック選手が参加した。第55回大会まででその数32名にのぼる。

郷土の先輩・同僚(および関係する人たち)

注意点:
以下の2つの駅伝の実施時期は概ね次ぎのとおりである。したがって、同じ年度(学年)でも年号は異なってくる。
中学駅伝(ほぼ11月末実施)
中国駅伝(ほぼ1月末実施)

高橋進(たかはし・すすむ)

大正9年(1920年)11月17日 広島県佐伯郡吉和村生まれ
昭和14年(1939年)旧制広島一中(現・国泰寺高校)卒
昭和17年(1942年)東京高師体育科一部 卒
2001年(平成13年)5月13日、脳梗塞のため死去(80歳)

専攻分野  体育運動学(とくに陸上競技)
君原健二のコーチとして有名。メキシコオリンピックの代表選考で、高地では「比体重」の大きい選手は不向きとして、国内選考レースで君原を上回った采谷義秋(うねたに)選手(竹原高校教諭)よりも君原が適当と主張した。

君原が男子マラソン2位に入りその理論は証明されたが、采谷義秋も自分と同じ広島県出身者であり、高橋の胸中は複雑であったに違いない。采谷が次のミュンヘン五輪に出場してほっとした、と後に述懐している。

戦後、3000m障害のスペシャリストとして活躍。
昭和22年~30年まで日本選手権9連勝。(26~34歳)
昭和26年(1951年)3月第1回アジア大会(インド)優勝
昭和27年(1952年)ヘルシンキ・オリンピック出場(31歳)
走った決勝レースは五百九。三百八十五回トップでゴールイン。
すべてのレース内容をそらんじていた。

中国駅伝(中学の部、旧制広島一中)
昭和12、13(区間賞)、14年、3回連続出場
優勝2回(13、14年連続)
中国駅伝(当時一般の部、佐伯体協)高校教員
昭和23年(戦後復活大会)~27年、5回連続出場すべて区間賞
優勝2回(24、25年連続、ともに第2位は八幡製鉄)
中国駅伝(一般の部、八幡製鉄)佐伯より移籍
昭和28年~34年、7回連続出場すべて区間賞(~38歳)
優勝5回(29~33年まで5回連続)
佐伯、八幡を通じて12回連続区間賞(中学時代を含めて合計13回)
広島一中、佐伯、八幡で合計9回優勝
旧制広島一中三年で参加した中国駅伝は7区2位。初レースでの敗戦が以後の精進につながったという。「中国駅伝最多の13個の区間賞が何よりの勲章」と生涯にわたって言い続けた。

高橋を中心とした佐伯体協は強かった。実業団の八幡製鉄を向こうに回し一般の部で優勝したこともある。1952年(昭和27年)、高橋はその八幡製鉄に請われて基町高校教員から移籍してさらに活躍、選手生活は昭和11年から35年(39歳)の四半世紀におよんだ。現役引退後は指導者として君原他多くの選手を育てた。日本陸連終身コーチ。

君原健二(きみはら・けんじ)

昭和39年(1964年)東京オリンピック8位(23歳)
昭和43年(1968年)メキシコオリンピック2位(27歳)
昭和47年(1972年)ミュンヘンオリンピック5位(31歳)

中国駅伝(一般の部、八幡製鉄)
昭和35年、高橋進と入れ替わるようにして3区区間賞デビュー
昭和38年まで、4回連続出場、区間賞2回(18~22歳)
昭和39年、八幡製鉄欠場
昭和40年~49年、10回連続出場、区間賞2回(~32歳)
優勝2回(41、42年連続)
昭和55年、選手不足の為出場(38歳)
出場回数合計15回、優勝2回、区間賞4回
昭和47年からチーム名は新日鉄、昭和59年チームとして最後の出場。

参考:
私は、昭和40年の第32回中国駅伝に出場した。だから、区間こそ違え君原さんと同じ駅伝を走ったことになる。高校2年生の冬のことである。

望戸豊数(もうこ・とよかず)

大竹中学陸上競技部監督(17年間)として中学駅伝14回優勝
(昭和26年から9連覇 →3位 → 昭和36年から4連覇 → 3位、4位 → 昭和42年最後の優勝)以上17回。
昭和23年12月、朝日マラソン3位(2時間43分7秒)
広島一中で、高橋進の4年後輩。

中学駅伝(広島一中)第1回大会から2回連続出場
昭和13、14年、優勝・区間賞ともになし。
中国駅伝(中学の部、広島一中)
昭和16、17(優勝)、18年、3回連続出場、区間賞なし。
中国駅伝(一般の部、佐伯体協)(23歳~29歳)
昭和23年(戦後復活大会)~29年、7回連続出場、区間賞1、優勝2回(24、25年連続、ともに第2位は八幡製鉄)

三上剛(みかみ・つよし)

私の廿日市(はつかいち)高校時代の陸上部コーチである。大竹中学の望戸豊数先生の教え子。中国駅伝最多出場記録保持者(23回)

中学駅伝(大竹中)2回連続出場
昭和28、29年(大竹中3連勝、4連勝目)区間賞なし。
中国駅伝(大竹高校)3回連続出場
昭和31、32、33年、優勝・区間賞なし。
箱根駅伝(日本体育大学)4年連続出場、優勝・区間賞なし
この間中国駅伝出場なし
中国駅伝(郡市の部、佐伯陸協)(23歳~34歳)
昭和38~49年、12回連続出場、優勝1回、区間賞1回。
ブランク(所属チームなし)
中国駅伝(郡市の部、大竹市陸協)(39歳~47歳)
昭和55~62年、8回連続出場、優勝なし、区間賞1回。
出場回数合計23回、優勝1回、区間賞2回

文野清(ぶんの・きよし)

私の五日市中学・廿日市高校時代の同級生である。中学校教員。

中学駅伝(五日市中学)昭和35~37年、3回連続出場
中国駅伝(一般の部、佐伯陸協)昭和39~41年、3回連続出場。中学3年間、高校3年間とも1年生の時からそれぞれの駅伝出場。優勝・区間賞なし。
中国駅伝(一般の部、佐伯陸協)昭和52年出場

ヨット(堀江健一と私)

2022年6月4日(土)
堀江謙一さん、おめでとう!
世界最高齢83歳でヨットによる単独無寄港の太平洋横断成功

新潟ではじめてヨットに乗る

1972年(昭和47)入社3年目のころ,私は初めてヨットに乗った。場所は鳥屋潟(とやのがた)という新潟市内にある潟(水溜り,池)である。水深は浅く水は濁っており、所々藻が密集しているような小さな湖であったが、そこに貸しヨット屋があった。

船長帽をかぶった品のいいおじいさんが経営していて、持ち船はたった1艇のヨットだけだった。横浜から持ってきたというその艇は、セールこそ古ぼけていたが、木製のなかなか風格のある艇であった。メインセールに「鴫(しぎ)」のマークがついている、スナイプ級という2人乗りのディンギーである。

スナイプ級は、学生・実業団で多く使用されおり、国体採用艇にもなっている。堀江謙一さんも高校時代の3年間は、スナイプに乗りっぱなしだったようである。

さて、私を連れていってくれたのは、得意先の先生であった。実際にヨットに乗ると、前に進むのに、右へ行ったり左へ行ったり(タッキングの繰り返し)するものだから、初めての私は、最初から最後まで、ヨットがどこをどう進んでいるのか全く分からなかった。

2夏連続で新潟から鎌倉のヨットスクールに通う

水溜りでのヨット遊びに物足らなくなった私たち2人は、夏休みをとり、夜行列車に乗って鎌倉のヨットスクールに入校した。3泊4日くらいのコースであったと思う。使用艇は「Y-15」という2人乗りのディンギーで、設計者は横浜のヨットデザイナー、横山晃である。

鎌倉から帰ってからは、鳥屋潟にももちろん通ったが、海にも出かけた。新潟の海にも貸しヨットがあった。艇種は覚えていないが、「Y-15」とほぼ同じ程度の艇であった。港から狭い防波堤の間を抜けて外海に出るまでの操船は、先生の役目であった。

新潟の夏の海は、ディンギーには最高である。夏の南風が陸から吹くので、波が立たないのである。海はきれいで風の強さも適当である。多分、通常は5m/秒程度であろう。

湘南の海もいい。しかしながら、海風が、遠く太平洋から吹いてくるので、うねりがきついことがある。それに、海岸近くでは海も汚れている。

さて、次の年の夏、私たちは再び鎌倉に出かけた。今度は、同じヨットスクールの1週間コースに入校するためで、またまた夜行列車で出かけた。集合時間前に朝食をとるために入った喫茶店で、「堀江謙一、再び単独無寄港世界一周へ挑戦」というような新聞記事が目に飛び込んできた。

1973年8月4日(昭和48)土曜日のことである。出港したのは8月1日だが、新聞発表は抑えられていたのである。(翌年、昭和49年5月4日無事忠岡港に入港して、単独無寄港世界一周を達成)

東京転勤となりヨットクラブに入会する

1974年10月(昭和49)、私は東京へ転勤になった。年が明けて春になってから、このヨットスクールを開催していたクラブに入会した。実は、このクラブの設立には、堀江謙一さんも関係していたそうであるが、詳しいことは知らない。

クラブ会員の活動拠点は江ノ島ヨットハーバーで、東京オリンピック(昭和39年)のときに造られたものである。使用艇は「Y-15」で、夏の通常シーズンのみならず冬場の自主練習にも参加した。私の活動時期は、東京・横浜時代の4年間と、そのあとの転勤先である甲府から通った1年間の合計5年間である。後半には、Y-15級全日本選手権に2年連続で出場した。

広島に帰ってきてからは、ヨットに乗る機会はほとんどなかった。会社の同僚や息子と3~4回貸しヨットに乗ったくらいである。江ノ島時代の仲間には、その後クルーザーに移った人も多い。年賀状で塩気たっぷりの便りに接するのはとても楽しい。

堀江謙一の冒険

堀江謙一(ほりえ・けんいち)

身長158cm、体重55kg

昭和13年(1938年)9月8日、大阪市港区生まれ
昭和29年(1954年)関西大学第一高等学校(関大一高)入学
ヨット部に入り、初めてヨットにさわる
昭和32年(1957年)関大一高卒業、社会人となる

昭和37年(1962年)23歳、マーメイド号
日本人初の小型ヨットによる太平洋横断(94日間)
シングル・ハンドでの太平洋横断は世界初である
マーメイド号(太平洋ひとりぼっち)
スループ艇
全長5.83m、水線長5.03m、幅2.00m
設計者:横山晃

昭和47年(1972年)34歳、マーメイド2世
東回り単独無帰港世界一周をめざして失敗(マスト切断)
出港わずか8日目にてリタイアする
マーメイド2世(単独無寄港世界一周失敗)
変形リグ(逆V字型マストが前後に1本づつ、帆は4枚)
全長7.25m、水線長?、幅2.50m
設計者:加藤木俊作
造船所:淡路ヨット製作所

昭和49年(1974年)35歳、マーメイド3世
単独無寄港世界一周(西回り275日13時間10分)
マーメイド3世(単独無寄港世界一周成功)
スループ艇
全長8.80m、水線長7.00m、幅2.80m
設計者:林賢之輔、村本信男、加藤木俊作
造船所:淡路ヨット製作所

マーメイド(人魚)とは敷島紡績(株)のトレードマーク。堀江謙一が太平洋横断のとき、唯一寄付を受けたのが同社より提供されたメインセール(人魚のマーク入り)で、船名もそのままマーメイドとした。

太平洋ひとりぼっち

1962年(昭和37)

5月12日西宮出発(乗員は堀江のみ)、8月12日サンフランシスコ到着。所要日数94日間、日本人初の小型ヨットによる太平洋横断に成功する。なお、シングル・ハンド(一人乗り)による太平洋横断は、この時の堀江が世界で初めてである。

使用艇は、マーメイド号。キング・フィッシャー型19フィート(5.83m)のスループ艇(設計者:横山晃)で、1本マストのオーソドックスな艇である。だが、素人目には、果たしてこのヨットで太平洋???どころか外洋にでるのさえ危ないのではと思えるほど小さなヨットである。堀江謙一の、この艇で「太平洋横断は可能か」という問に対して、横山晃は可能と答え、加えてマストを現設計より10%短くするようアドバイスした。

小型ヨットによる太平洋横断、そしてそのためにパスポートを発給することなど、当時の日本では全く考えられない状況であった。彼は合法的に出国するため計画実行直前まであらゆる可能性をさぐった。しかし、結局はパスポートを持つことなくひっそりと“密出国”した。

彼の冒険はアメリカでは画期的壮挙として高く評価され、サンフランシスコ(市長ジョージ・クリストファー氏)名誉市民のカギを贈られる。これに呼応する形で日本の関係官庁は、彼の非合法的な出国に対して寛大な処置をとることを決定した。当初は、強制送還、即逮捕ということまで言われていたのである。

「海の勇者賞」受賞(サンレモ市、イタリア)

昭和39年(1964年)夏、栄えある第1回受賞者となる。ちなみに、第2回受賞者はフランシス・チチェスター卿、第3回受賞者はトール・ヘイエルダール博士である。注)3回までで終わったらしい。

第2回受賞者
フランシス・チチェスター卿(イギリスの海洋冒険家)
1967年5月、ジプシー・モス号で単独世界一周に成功する
東回り(シドニー寄港)275日間(実際の航海は226日間)

第3回受賞者
トール・ヘイエルダール博士(ノルウェーの人類学者)
1970年、葦船ラー2世号(あしの茎で作った帆船)で大西洋横断に成功。これより先、1947年古代人の筏「コンティキ号」でペルーからポリネシア群島へ航海し、ポリネシア文化のペルー発祥説を主張したことでも有名。

単独無帰港世界一周

1972年(昭和47)失敗

11月12日(第1日目)午後1時
大阪・淡輪港を出発(東回り世界一周をめざす)
11月14日(第3日目)午前9時ころ
マストに亀裂が入っているのに気付く。セールをおろして1~2時間後、逆V字型マストが前後に1本づつあったうちの後部マスト完全に切断。
11月17日(第6日目)
前部マストも折れる
11月19日(第8日目)
海上保安庁へ救助要請
11月20日(第9日目)午後2時50分
巡視艇による曳航開始。三重県・鳥羽港に入港
(出港からわずか8日間で失敗に終わる)
失敗の原因の一つに変形リグの採用があげられている。逆V字型のマストが前後に1本づづ、合計2本で帆は4枚というこのヨットの設計者は加藤木俊作、長崎造船大学船舶工学科を卒業したばかりの大阪のヨットデザイナーであった。

出発時の様子
岸壁を埋める2000人の群集
空には10機前後のヘリコプターや軽飛行機
美人からの花束贈呈
50隻ほどのヨット、漁船、モーターボートが港外まで付き添い見送り
しかし、失敗によりマスコミを先頭にした袋叩きに合う。

1973年(昭和48)再出発

8月1日(第1日目)午後11時45分
淡路島・生穂港を出発(西回り世界一周をめざす)
9月8日(第39日目)
35歳の誕生日
11月2日(第94日目)
喜望峰を回る(太平洋から大西洋へ)
1974年(昭和49)成功 Edit

1月5日(第158日目)
ホーン岬を回る(大西洋から太平洋へ)
5月4日(第277日目)午後12時55分
大阪湾・忠岡港に到着
注:出発時帰港地として予定していた淡輪港は工事で閉鎖中
マーメイド3世は、ふたたびオーソドックスなスループ艇とした。設計したのは、横山晃の弟子2人に前回の設計者を加えた合計3人で、共同設計の形をとっている。なお造船所も前回と同じ所を使っている。皆をもう一度男にしてやりたいという堀江一流の男気であろう。

小型ヨットによる単独無寄港世界一周航海は日本人初である
世界では3番目だが、艇の大きさは最も小さく所要日数は最も短い
難易度の高い西回りであることを考えるとその価値は非常に高い
なお、西回りでは、ホーン岬で逆潮になるのでその分むつかしい
今回の航海では、妻のほか数人の見送りを受けただけで出発し
帰港時には忠岡町長を代表とする大歓迎を受けた

それまでの単独無寄港世界一周記録
ロビン・ノックスジョンストン(イギリス人)当時30歳
1969年4月、東回り単独無寄港世界一周(312日間)
チャイ・ブレイス(イギリス人)当時31歳
1971年8月、西回り単独無寄港世界一周(293日間)

参考資料

堀江謙一著「太平洋ひとりぼっち」(ポケット文春版)、文藝春秋(1962年)
堀江謙一著「マーメイド三世」朝日新聞社(1974年)
堀江謙一著「マーメイド号(挫折と栄光の全記録)」講談社(1974年)
堀江謙一著「世界一周ひとりぼっち」立風書房(1977年)
本多勝一著「冒険と日本人」実業之日本社(1972年)
沢木耕太郎著「若き実力者たち-現代を疾走する12人-」文藝春秋(1973年)

2002/12/30構成を多少変更
1999/10/02初出

バレーボール

広島県安佐郡では昔からバレーボールが盛んであった

広島県安佐郡(現在、広島市安佐南区、安佐北区)は、昔からバレーボールの盛んな土地柄である。私が一時期通った祇園町立山本小学校もそんな地域の学校の一つであった。校庭には校舎に沿ってバレーボール置き場が作られていた。そこに数十個のバレーボールが置いてあり、だれでも自由に使うことができた。

郡内では小学校対抗のバレーボール大会があり、5年生以上が正式に大会へ出場していた。4年生は補欠の学年である。4年生になると、5年生からの大会参加を目指して、土曜日の放課後の特訓が始まる。私は10番目の選手、つまり当時の9人制バレーボールの補欠1番であった。なお4年生の冬で転校したので、実際にバレーボール大会に出ることはなかった。(当時の山本小学校は、1学年1学級で一クラスは男女合わせて50名前後)

山本小学校は強かった。私が4年生の時、5年生・6年生の男女とも春秋連続して優勝したのではなかっただろうか。あやふやな記憶を確かめるべく図書館で中国新聞のマイクロフィルムを当たってみたが、小学生の記録までは新聞には載らなかったようである。

安佐郡からは世界的なバレーボール選手が出ている。猫田選手(専売広島、現JTサンダーズ)である。私の4学年先輩であるから、安佐郡にいたころ接触しているとすれば、私が小学校1年生・2年生のとき、小学校5年・6年であった猫田少年をバレーボール大会で見ていた可能性はある。

猫田勝敏(ねこだ・かつとし)

男子バレーボール選手(広島市安佐南区出身)。日本が世界に誇る名セッターで“小さな大セッター”と呼ばれた。時間差攻撃などコンビネーションバレーの司令塔役を担ったが、その身上は「セッターが目立ってはだめ」であった。オリンピック4回連続出場。

昭和39年(1964年)東京オリンピック、銅メダル(20歳)
昭和43年(1968年)メキシコオリンピック、銀メダル(24歳)
昭和47年(1972年)ミュンヘンオリンピック、金メダル(28歳)
昭和51年(1976年)モントリオールオリンピック、第4位(32歳)

昭和19年(1944年)2月1日生まれ
広島県安佐郡安古市町(現:広島市安佐南区古市)
小学校入学前からバレーボールに親しむ
昭和25年(1950年)古市小学校入学
バレーボールを始める
昭和31年(1956年)安佐中学入学
バレーボール部に入部、前衛のセンターとしてトスを上げ始める
(9人制バレーボール)
昭和34年(1959年)崇徳高校入学
バレー部監督稲葉正文先生に本格的なセッターとしての指導を受ける
昭和37年(1962年)日本専売公社中国支社に入社
このころが6人制バレーへの転換期であった

昭和39年(1964年)東京オリンピック3位
チーム最年少(20歳)でセッターとして大活躍。世界的に注目され始める。
昭和44年(1968年)メキシコ五輪2位
年末に結婚
昭和47年(1972年)ミュンヘンオリンピック優勝
前年、試合中に右腕を骨折、約2か月間入院。オリンピック直前に奇跡的なカムバックを果たし、日本チームを優勝に導く。ここに松平康隆監督の「オリンピック金メダル獲得8年計画」が成就する。「目標達成のためには絶対に猫田のトスでなければだめだ」とした監督の期待に見事に答えたわけである。
昭和51年(1976年)モントリオールオリンピック、日本選手団旗手をつとめる
男子バレーボールは、残念ながらメダルを逃す(4位)

昭和55年(1980年)1月、引退
新年度から専売広島の監督就任
(総監督に崇徳高校時代の恩師稲葉正文氏を招く)

昭和55年(1980年)6月
史上初の「バレーボール栄誉賞」受賞(日本バレーボール協会より)
昭和57年(1982年)胃全摘手術を受ける(胃がん)
昭和58年(1983年)9月4日、死去(39歳)
紫綬褒章遺族追賞
平成13年(2001年)10月5日
20世紀最優秀選手特別賞・男子の部、授賞式(国際バレーボール連盟)
ブエノスアイレス(アルゼンチン)において、デラルア大統領らが出席する中、禮子夫人が「故猫田勝敏氏」の遺影を抱いて壇上に立ち、記念の盾を受け取る。

現在、専売広島(日本たばこ産業株式会社-JT)には大変りっぱな体育館「猫田記念体育館」が建っている。

初出:1999.10.01(金)