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聖火リレー
私は、聖火リレーに二度参加したことがある。熊本国体(中1)と東京オリンピック(高2)である。どちらの場合も、実際に聖火トーチを持ったわけではない。主役の後ろで旗か何かを持って走る伴走だった。
熊本国体の時には、事前に練習をした記憶がない。いきなり授業中の教室から連れて行かれて参加した、そんな感じだ。中学生時代は、駅伝の試走とか競技会のために、授業のある日に丸一日校外へ出かけることがよくあった。のんびりした時代だったのである(たまに勉強が遅れることもあったが)。
東京オリンピックの聖火リレーの時には、事前に何回か練習をした。設定スピードは確か5分/kmくらいのペースではなかったかと思う。陸上競技部以外のクラブからも参加者がいて、一緒に練習すると何人かが遅れ気味になったりした。我々は3分/kmは楽に切れる力を持っていたので、それが5分ならば楽勝であった。
東京オリンピック聖火リレー
1区間1~2km
正走者1、副走者2、随走者20、計23名
高校中学生年齢層の男女から選ばれた(約10万人参加)
8月21日オリンピアの遺跡ヘラ神殿跡(ギリシャ・アテネ)で太陽光線を凹面鏡に受けて聖火がともされる。その後特別機でアジアの各地をリレーされ(アテネ、イスタンブール、ベイルート、テヘラン、ラホール、ニューデリー、ラングーン、バンコク、クアラルンプール、マニラ、香港、台北)そして沖縄入りする。
沖縄島内リレーの後、9月5日鹿児島に空輸、その後各コースに分散しながら、最終的には4コースで日本全国46都道府県をへて東京で再び集火された。
坂井義則(さかい・よしのり)
東京オリンピック聖火最終ランナーは、広島県出身の坂井義則さんである。私の郷土の2学年先輩で、私が高1のとき彼は高3だった。その彼を私は広島県営陸上競技場でまじかに見たことがある。
たぶん、1600mリレー(400m×4人)のときのことだ(800mリレーではないと思う)。彼は100、200、400m専門、私は高校ではトラックは800mをやっていたが、1600mリレーにも出場していたのである。私の先輩が、あれが三次(みよし)高校の坂井さんだと教えてくれた。身長は私(173cm)よりかなり高く肩幅があってなかなかの男前であった。
オリンピック開会式当日、聖火トーチを持ってメーンスタジアムのトラックを半周した彼は、練習の時より少しスローペースであったというが、ゆったりと落ち着いたストライド走法で美しかった。そして聖火台への163段をいっきにかけあがっていった。
- 昭和20年(1945年)8月6日生まれ
広島に原爆(原子爆弾)が投下されてからわずか1時間半後、広島から100km余北の中国山脈のふところの町、三次(みよし)市で生まれる。
三次中学2年のとき陸上競技を始める。
三次高校3年のときの広島県大会では、100m、200m、400m、800mリレーで優勝を独占。 - 昭和39年(1964年)
4月、早稲田大学教育学部入学(18歳)
東京オリンピック聖火最終ランナーに選ばれその練習に専念する
10月10日、無事大役を果たす(19歳) - 昭和41年(1966年)
バンコクアジア大会400m銀メダル - 昭和43年(1968年)
大学卒業後、フジテレビ入社
競技生活に別れを告げる
参考資料
- 東京オリンピック1964/歴史公文書探究サイト『ぶん蔵』 BUNZO
2013/12/17改編