東海道新幹線とは
東海道新幹線は<広軌><新線>である。高速かつ大量の輸送を実現するには、大型の車両が高速で走行可能な広軌が大前提となる。これに対して、日本の在来鉄道は<狭軌>である。したがって、新幹線を開通させるためには、およそ鉄道に関する一切のシステムを丸ごと新たに組み上げなければならなかった。
プロジェクトX~挑戦者たち~(NHK)
プロジェクトX~挑戦者たち~
第7回、「執念が生んだ新幹線」
~老友90歳・戦闘機が姿を変えた~
2000年05月09日(火)21:15~22:00放送
アンコール、「新幹線、執念の弾丸列車」
(2002年06月18日)
「プロジェクトX~挑戦者たち~」では、敗戦でつくることができなくなった飛行機の技術を、高速列車に応用していく技術者が主役となっている。しかしながら、東海道新幹線の成功は、総合プロデューサーとしての島秀雄なくしてはありえなかった。「プロジェクトX~挑戦者たち~」では、そのあたりの理解が浅いと感じられる。
東海旅客鉄道株式会社
http://jr-central.co.jp/
新幹線「のぞみ」に乗る
2001年2月28日(水)・3月1日(木)と東京出張で新幹線に乗った。
3月1日(木)15時52分東京発のぞみ、19時43分広島着(3時間51分)
途中、兵庫県・加古川鉄橋を過ぎたあたりで、時速300kmのアナウンス(電光表示)あり。
のぞみ21号(500系)東京発-博多行、時刻表
東京発 15:52、新横浜発 16:09、名古屋着 17:32
名古屋発 17:34、京都着 18:10、京都発 18:12、新大阪着 18:26
新大阪発 18:28、岡山着 19:08、岡山発 19:09、広島着 19:43
広島発 19:44、小倉発 20:29、博多着 20:45
東京-大阪間、2時間34分
大阪-広島間、1時間15分
広島-博多間、1時間01分
なお、3月1日は新横浜駅の前後で徐行のため数分遅れる
広島着で完全に遅れを取り戻せたかどうかは定かではない
男性ホームから転落、救助の2人もはねられ死亡
二十六日午後七時二十分ごろ、JR山手線新大久保駅のホームで、酒に酔った男性一人が線路に転落した。ホームにいた男性二人が線路に降りて助けようとしているところに電車が進入、三人とも電車にはねられ死亡した。救助しようとして死亡したのは、韓国人留学生李秀賢さん(26)と日本人カメラマン関根史郎さん(47)の2人である。佐賀新聞2001年01月27日~28日より
プラットホームに手すり・欄干をつけよ!!。
これは新幹線をつくった男 島秀雄が最晩年まで主張しつづけたことであった。
島秀雄(新幹線をつくった男)
「新幹線をつくった男 島秀雄物語」高橋団吉著、小学館(2000年)
1901年(明治34年)5月20日大阪生まれ
生まれて数か月後東京に転居、東京で育つ。
1971年(昭和46年)文化功労者、70歳
1995年(平成7年)11月3日、文化勲章、93歳
鉄道人として初、エンジニアとしては井深大に続いて二人目
東海道新幹線開業から数えて30年目
父・島安次郎の鉄道界入り(明治28年)百年目
1998年(平成10年)3月18日没(満96歳)
20世紀を角から角まできっちりと直角、水平そして垂直主義で生きた男であった
世界の標準(広軌)
日本の鉄道は<狭軌>である。線路の幅(軌間)は、1067ミリ。これに対して、世界の標準軌は1435ミリであり、日本ではこれを<広軌>といっている。
狭軌は、イギリスの植民地型規格である。狭い日本には狭軌で十分、コストも安くすむという大隈重信の一言で決まったとされている。しかし、高速かつ大量の輸送を実現するには、大型の車両が高速で走行可能な広軌が大前提となる。
電車列車(理想の鉄道)
機関車列車に対して
加減速性能に優れ、緻密なダイヤを組める
牽引機関車を切り離す必要がなく、折り返し運転が容易
重い牽引機が不要なため、軌道の構造がより簡素となりコスト減にもつながる
電力の回生が可能で、省エネルギーに貢献する
D51型蒸気機関車(愛称デゴイチ)
東京帝国大学機械工学科卒、1925年(大正14年)鉄道省入省。
入省2年目の1926年(大正15年)4月、工作局車両課に配属。
1927年(昭和2年)7ヶ月に及ぶ欧米視察旅行(鉄道省休職、私費)。
1928年(昭和3年)、蒸気機関車の設計補佐に大抜擢され、その後、補佐役 → 設計主任 → 課長として、ほぼ1年毎に次々と新しい機関車を生み出していった(在籍10年)。この時期こそ、正に日本SLの黄金時代といえるであろう。
1930年(昭和5年)~1932年(昭和7年)、「国産標準自動車製作」プロジェクトのため出向。自動車の国産三大メーカーの設計陣を向うに回して、一番若い島が会議をリードする。大の車好きの島は、出来あがった試作品のテストドライバーをかってでた。東京-箱根-名古屋から中仙道に入り(総勢十数台)、碓氷峠付近で1台が故障して試験走行は中止。当初予定の箱根往復からみると大成功であった。
1932年(昭和7年)4月、工作局車両課に課長補佐として戻る。
こののち設計主任を務めた大型貨物専用機関車D51型は、島作品の最高傑作とされておりSLの代名詞となった感さえある。汽車生産は、1936年(昭和11年)~1944年(昭和19年)で、最多生産1115両を誇っている。
1936年(昭和11年)4月、二度目の世界旅行(官費)に出る(帰国は1年9か月後の翌年12月)。
C62型蒸気機関車(愛称シロクニ)
1945年(昭和20年)8月の敗戦後、旅客列車は復員者や買出しの人々であふれかえっていた。しかし、当時の日本に旅客用蒸気機関車を新たに一から作っている余裕はなかった。
苦肉の策として、「D51」、「D52」のボイラーに「C57」、「C59」の足回りをつけて旅客用に改善することが試みられた。こうして1948年(昭和23年)暮、「D52」+「C59」から「C62」(愛称シロクニ)が完成した。
「C62」は東海道・山陽本線の急行牽引機としてデビュー、翌年からは東海道に10年ぶりに復活した特急「へいわ」を牽引するなどして大活躍した。また、1954年(昭和29年)12月19日には、東海道本線木曽川鉄橋上で、時速129キロ(狭軌世界最高速度)を達成している。まさに、日本SL史の最後を飾るにふさわしい最強の機関車であった。
湘南電車
島はこれより先の1944年(昭和19年)春、資材局動力車課長として戦時型電車「63形」の完成にかかわる。資材を徹底的に切り詰めて作ったこの寿司詰め専用電車は、戦後復興期の花形電車として活躍した。また私鉄にも導入され、その後の大量輸送車両の原型ともなった。
ただし、当時の電車は「ゲタ電」とも呼ばれ、振動と騒音が激しく乗り心地が非常に悪かった。電車とは、せいぜい20~30分(20kmくらい)の近距離をそれこそゲタ代わりに乗る乗り物と考えられていたのである。
湘南電車(緑とオレンジのツートンカラー)
湘南電車の車体は、緑とオレンジでツートンカラーに塗り分けられ、国鉄のみならず私鉄と比べても斬新なデザインであった。
また、運転席正面を開業数か月後からは、2枚の平面ガラスを角度をつけて組み合わせ、つなぎ目にまっすぐ鼻筋を通すという、島式フェイスとした。この形式は、国鉄車両の顔として国鉄の車両全般に広く採用されたばかりでなく、広く私鉄各社にも流行した。
S式便器の発案
S式便器:参考書P.110の写真キャプションより
清潔&省スペースの男女共用トイレとして湘南電車にデビューした画期的トイレ。以後、国鉄の客車全般に広く普及し、「汽車型便器」として広く一般家庭、店舗などでも親しまれた。島秀雄・発案。
1946年(昭和21年)12月、台車の振動理論の完成を目的とした研究会を立ち上げる(高速台車振動研究会)。この会は、1949年(昭和24年)4月の第6回まで開催され、島は座長として会を成功に導く。
1948年3月(昭和23年)工作局長就任。
1950年3月1日、湘南電車がデビューし、東京-沼津間を2時間半で結んだ(従来は3時間)。この当時、1編成16両もの長編成で2時間半も走りつづける<長距離>電車列車は世界のどこにも存在しなかった。
桜木町事故(一旦、国鉄を去る)
桜木町の列車火災/失敗知識データベース/畑村創造工学研究所
1949年(昭和24年)6月1日
日本国有鉄道発足(運輸省から分離・独立)
初代国鉄総裁・下山定則
7月6日:下山事件
下山定則国鉄総裁、5日登庁の途中行方不明となり、翌未明、線路上で轢死体となって発見。場所は、常磐線・北千十-綾瀬間の東武線ガード下付近。死後轢断・生体轢断で見解対立するが未解決。なお、轢断したのは、D51-651牽引の貨物列車と推定されている。島と下山は東大工学部の同期。
7月15日:三鷹事件
中央線三鷹駅車庫から63形の無人電車が暴走。駅前派出所を壊し、民家に突っ込んだ。死者6名、負傷者十数名。
8月17日:松川事件
東北本線・松川-金谷川間で上り旅客列車が脱線転覆、乗務員3名死亡。
1951年(昭和26年)4月24日
桜木町事故。車両火災にて死者106名、重軽傷50数名。
国電京浜東北線赤羽発桜木町行電車(63形)。
パンタグラフが架線に引っかかり垂れ下がった架線が木製屋根に接触発火。
事故の第一原因は、工事の不手際から現場の架線がたるんでいたため。
63形車両の戦時設計そのもの(粗末な木製車両等)が事故を大きくした。
第2代総裁、加賀山之雄(ゆきお)引責辞任。
1951年(昭和26年)8月
63形改良の目処をつけ、車両局長(理事)を最後に国鉄を去る
勤続26年、50歳の年であった。
ビジネス特急こだま
1954年(昭和29年)9月26日、青函連絡船・洞爺丸沈没、死亡1155名
1955年(昭和30年)5月11日、宇高連絡船・紫雲丸沈没、死亡168名
第3代総裁、長崎惣之助引責辞任
十河(そごう)信二(71歳)、第4代国鉄総裁就任
十河信二は東京帝国大学法学部卒、後藤新平(広軌論者)に認められて鉄道院に入る。晴天の霹靂(本人曰く)の総裁就任から二期8年を努め、東海道新幹線(広軌による超高速電車列車)を完成させる。
1955年(昭和30年)12月1日
島秀雄、理事・技師長(副総裁格)として国鉄に返り咲く
新幹線開通に向けて十河信二の強い要請によるものであった
就任後直ちに、次期東海道線の主力を、当時国鉄で検討されていた電気機関車列車方式から電車列車方式へと180度転換させる
1957年(昭和32年)9月27日
国鉄東海道本線、函南(かんなみ)-沼津間で、小田急ロマンスカー(小田急電鉄スーパー・エキスプレスカー:SE車)が、時速145km(狭軌世界最高速度)を達成した。当時、業界全体には立場を超えて高速電車列車への気運が高まっており、このような国鉄の線路を借りた高速試験が実現したのである。
1958年(昭和33年)11月1日
ビジネス特急こだま、東京、大阪で出発式(計1日2往復)
最高時速110km(従来は95km)、東京-大阪間、6時間50分
東京、大阪をそれぞれ朝7時発、大阪、東京に午後1時50分到着
折り返し大阪、東京を午後4時発、東京、大阪に夜10時50分着
東京-大阪間の日帰りが可能となった(しかも現地で2時間の余裕あり)
1959年(昭和34年)7月31日、時速163km(狭軌世界最高速度)達成
場所は、東海道本線・金谷-焼津間の上り線
参考:特急「つばめ」の所要時間(東京-大阪間)
1929年(昭和4年)新設(機関車列車)、5年後に丹那トンネル開通、8時間
1956年(昭和31年)11月東海道線全線電化、7時間30分
東海道新幹線
東海道新幹線は<広軌><新線>である。およそ鉄道に関する一切のシステムを丸ごと新たに組み上げなければならない。高速車両の設計はもちろんのこと、駅、トンネル、架橋などの建設や運行システムの確立など、やるべきことは膨大である。「総合プロデューサー」として島秀雄はこの仕事を完璧にやり遂げる。世界的にみても、これだけ大規模な鉄道施設を、しかもこれだけの短期間で、丸ごと新たに建設した例はない。
1956年(昭和31年)5月、東海道線増強調査会,設置
1957年(昭和32年)7月、幹線調査室、設置
1958年(昭和33年)4月、新幹線建設基準調査委員会、発足
1959年(昭和34年)11月、1号試験台車投入、基礎的データの収集開始
1959年(昭和34年)3月30日、東海道新幹線予算、国会承認
1959年(昭和34年)4月20日、起工式、新丹那トンネル東口
1961年(昭和36年)5月2日、世銀借款、正式調印
1961年(昭和36年)8月、新幹線主要項目、正式決定
1962年(昭和37年)4月20日
新幹線テストコース「鴨宮モデル線区」開設
(神奈川県、綾瀬-鴨宮間、約32km、現在も営業区間として使用)
1963年(昭和38年)3月30日
世界最高時速256km達成
1964年(昭和39年)10月1日、ひかり1号列車出発式(東京駅9番ホーム)
テープカットをしたのは、第5代国鉄総裁・石田禮助であった
出発式の来賓名簿に十河と島の名前はなかった
(前年5月、十河総裁二期満了で退任、島もこれに殉じて辞任していた)
開業時の列車ダイヤ:
「ひかり」「こだま」それぞれ1日15往復、東京-大阪間、4時間および5時間
翌年11月のダイヤ改正で、「ひかり」3時間10分となる
親子三代(弾丸列車計画)
新幹線は、1964年(昭和39年)10月10日開催の東京オリンピックに間に合った。工期は短く驚異的なスピードで完成した。実は、この原型(広軌新線)が戦時中に一度計画、実行に移されていた弾丸列車計画(昭和16年工事着工)にあることを知る人は少ない。
新幹線の東京-名古屋間、京都-大阪間ルートは、ほぼ弾丸列車計画のものがそのまま引き継がれている。この中で、日本坂トンネル(2174m)は1944年(昭和19年)9月にすでに完成、新丹那トンネル(7959m)も両側から約3割程度堀り進められていた。
弾丸列車計画の鉄道幹線調査会特別委員会委員長は島安次郎(秀雄の父、当時69歳)であった。そして東海道新幹線「ひかり0系」の設計を実際に担当したのは、島隆(秀雄の次男)であった。
弾丸列車計画:
東京-大阪間、4時間30分
大阪-下関間、4時間30分
安全神話
1966年(昭和41年)4月25日、新幹線で<車軸折損>事故が発生した。幸にも車掌が異常に気ついて運転士に通報、非常ブレーキがかけられ大事にはいたらなかった。設計上、いくつかの部品が影響しあって、破損した車軸を正常な位置に押しとどめることができたという奇跡にも救われたという。
この車軸は、国鉄を辞した島が顧問として復職した住友金属工業で精魂を込めて開発した自信作であった。島のショックと心労は大きく、顔面神経麻痺に続いて心筋梗塞をおこして倒れる。
新幹線は開業以来、高速かつ安全な乗り物として大成功した。そのことによって世界の鉄道を蘇らせることに成功した。しかし、それは失敗の積み重ねの上に確立されたものである。開業後3年間、現場ではあらゆるトラブルを経験している。そして、それら原因を徹底的に追求していった。
鉄道は100%安全で当たり前である(島秀雄)。しかし、人間の作った道具に100%を期待することはできない(唐津一)。だからこそ、日常現場での保守を繰り返すことによる二重三重の安全対策しか安全を守り抜く方策はない。
宇宙開発事業団(NASDA)初代理事長
1970年(昭和45年)8月15日、68歳、古希を目前にして宇宙開発事業団初代理事長の辞令を受け取り(総理大臣・佐藤栄作)、新分野・宇宙への挑戦に旅立つ。ここで何故、ロケット開発には全く無関係であった島秀雄だったのだろうか。
東海道新幹線は、ほぼ100%純国産技術によって建設されており、いかに戦前からの技術の蓄積が大きかったかを示している。島は新幹線建設を通して未経験な新規巨大プロジェクトを成功に導くための手法を確立した。システム計画手法と呼ばれるこの方法、すなわち、不確定な技術を磨きつつ、限定された予算内で短期間に、いかに効率よく目標を達成させるかというこの手法は、例えば米国のアポロ有人月飛行計画にも多くの影響を与えていた。
ひるがえって、日本の宇宙開発は戦後ゼロから出発した。そのため、当時産業界から要請の高かった静止衛星を早期に打ち上げるには、客観的にみてNASA(米航空宇宙局)からの技術導入が必須という状態にあった。
それにも関わらず、当時、日本の宇宙開発は事実上2つに分裂しており、それぞれが独自の実験を繰り返して対立していた。ペンシルロケットで有名な糸川英夫博士を中心とする東大宇宙航空研究所(東大グループ、固体式ロケット)と、科学技術庁宇宙開発推進本部(推本グループ、液体式ロケット)である。
NASA(米航空宇宙局)をはじめとする米国技術者から高い評価を受けており、国内の対立する双方のグループからは中立的なカリスマ技術師、島はまとめ役・推進役としてまさに適任であったといえよう。
島は、就任早々(1970年10月21日)大英断を下す。すなわち、<米国から液体ロケット技術を導入>して1975年(昭和50年)までに静止衛星を打ち上げる、という計画の決定で、これがなければ日本の宇宙開発は50年遅れた、とさえ語り継がれている 。
静止気象衛星「ひまわり」(GMS)
1977年(昭和52年)7月14日ケネディ宇宙センターから打ち上げ
デルタ2914型ロケット(米国製)使用、静止化後初期重量、約325Kg
続くGMS-2からは種子島宇宙センターからの打上げとなり、GMS-3、4を経て、現在はGMS-5が運用を引き継いでいる。(2001/06/30現在)
島秀雄、1977年(昭和52年)9月末日NASDA理事長退任。
2001/02/10(土)初出