宇高連絡船・紫雲丸

1966(昭和41)からの学生時代4年間を私は徳島で過ごした。広島との往復ではほとんど宇高連絡船を利用した。少なくとも10往復以上はしたであろう。中国地方から四国への修学旅行をためらう空気がまだ残っていた頃のことである。

宇高連絡船・紫雲丸が、高松港外で同じ宇高連絡船(貨物船)と衝突して沈没したのは、私が入学する11年前の5月のことであった。沈没事故の犠牲者168名は全て紫雲丸から出ており、その内訳は、紫雲丸船長のほか船員1名、一般旅客58名に加えて、修学旅行中の小中学校児童生徒100名(男子19名、女子81名)及びその関係者8名となっている。

前年の青函連絡船「洞爺丸」の沈没に引き続く国鉄の事故に世論の批判は激しく、長崎惣之助第3代国鉄総裁は責任をとって辞任した。

2007/05/04(金)海難審判庁資料追加
2004/05/12(水)五十回忌報道
2001/06/23(土)初出

宇高連絡船・紫雲丸沈没す

1955年(昭和30年)5月11日6時56分
国鉄宇高連絡船・紫雲丸(客貨船)の〈右舷〉に、同連絡船・第三宇高丸(貨物船)が衝突し、紫雲丸は沈没した。国鉄宇高連絡船(航路)は、宇野駅(岡山県)~高松駅(香川県)を結ぶ国鉄(日本国有鉄道)の鉄道連絡航路であり、当日、紫雲丸は高松港鉄道第一桟橋から宇野港に向けて出港、第三宇高丸は逆に宇野港から高松港に向っていた。

両船の衝突地点は、高松港の沖合い約2kmの女木島付近で、風はなく穏やかだが濃霧の中での事故であった。死者・行方不明168名(いずれも紫雲丸)は、タイタニック号、洞爺丸に続く当時世界第三番目の海難事件とされている。

リンク集:

1)海難審判所(国土交通省)
日本の重大海難/旅客船紫雲丸貨物船第三宇高丸衝突事件(昭和30年代)
2)紫雲丸事故/松江市立川津小学校6年生
3)紫雲丸 いでたちしまま/昭和31年3月愛媛県立庄内小学校卒業生有志
4)失敗知識データベース/紫雲丸の項(なし)

両船出港

紫雲丸(客貨船):
同日6時40分、高松港定時出港
船長以下乗組員63名、旅客781名、車両15両積載

第三宇高丸(貨物船):
同日6時10分、宇野港定時出港
貨車18両積載

濃霧注意報(高松気象台午前5時30分発表):
本日沿岸の海上で局地的な濃霧が発生するおそれあり、
視界は50メートル以下の見込み

衝突6分前

同日6時50分(衝突6分前、距離約1.5マイル)
紫雲丸では、第三宇高丸の霧中信号を聞き応答する。
第三宇高丸では、レーダーで紫雲丸を認める。

ただし、 視界100~150mという濃霧の中であり、お互いの船体を視認できてはいない。それにもかかわらず、互いに無線電話で連絡を取り合うことなく、両船とも速力10ノット以上で航行していた。

なお、両船に取り付けられていたレーダー装置を、どちらの船長も使いこなせなかった。それにもかかわらず、紫雲丸船長は最後まで自分でレーダーを操作し続けた。

衝突

衝突と同時に右舷破口(4.5m×3.2m)から滝のように海水が侵入
発電機停止、船内の電灯が瞬時に消える
船内放送、電話、無線電話使用不能、船長の指揮命令は船員に伝わらず
沈没までわずか5分、船長の働く場は全くなかった
乗船客に救命胴衣をつけさせることもボートデッキを下ろすこともできなかった
このため、泳ぎの未熟な小中学生に多くの犠牲者を出している
(特に、女子生徒100名中81名が犠牲となった)
また一部生徒が自分の荷物を取りに船内に戻るなどの行動をとったことも犠牲を大きくしてしまった

事故原因(謎の左転)

事故の最大の原因は、紫雲丸船長が〈謎の左転〉をしたことにある。互いにすれ違う〈行会い船〉の航法に関しては、海上衝突予防法で左舷対左舷ですれ違うこと、すなわち〈右側通行〉が義務付けられている。つまり、行会い船はお互いに〈右転〉しなければならない。それにもかかわらず、紫雲丸はなぜ〈左転〉したのか。

〈左転〉の背景として、高松港外で〈宇高連絡船〉同士が慣例としてよく行っていたという「右舷対右舷」で行き違う(左側通行)航法があったのかもしれない。この航法には、貨物船の構造と、高松港の桟橋が向いている方角が関係していた。

宇高連絡船の貨物船は、船首から貨車の積み下ろしをする構造になっていた。これに対して、高松港の桟橋は港の沖合い約2km〈北〉の海上に浮かぶ女木島の方を向いている。

宇野港から高松港へ向かって〈南東〉の方角に進んできた貨物船が、船首からそのまま高松港に接岸するためには、高松港外で大きく「左へ」回り込んで女木島に接近し、そこから〈南〉に向かう進路を取る方が都合がよかった。

紫雲丸船長としては、慣例に従って〈左転〉をして、第三宇高丸(貨物船)のために進路を空けてやるつもりだったのかもしれない。親切心がそうさせたのだろう。しかし、視界100~150mという濃霧の中でそれは無謀な行動であった。

ここはすなおに海上衝突予防法に従うべきであった。つまり、〈右転〉しかあり得なかった。もちろん、 当日の気象状況に応じて、事前に〈減速〉するなどの措置が両船ともに必要であったことはいうまでもない。

船長はなぜ死ななければいけなかったのか

紫雲丸船長は船橋内に留まり、船と運命を共にした。救命胴衣も付けず、羅針盤を両手でしっかりと抱えるようにしていた、という。

船員法第12条:
船長は、自己の指揮する船舶に急迫した危険があるときは、人命の救助並びに船舶及び積荷の救助に必要な手段を尽くし、旅客、海員、その他船舶内にある者を去らせた後でなければ、自己の指揮する船舶を去ってはならない。
1970年(昭和45年)7月にやっと条文の後半部分が削除された。すなわちその意味するところは、緊急時あらゆる手段を尽くした後、自分自身の命も危うくなると判断すれば、船長も離船してよい、ということである。

瀬戸大橋開通

1988年(昭和63年)4月9日、宇高連絡船廃止
1988年(昭和63年)4月10日、瀬戸中央自動車道(瀬戸大橋)開通

以下、日本道路公団HPより

日本で最初に国立公園に指定された瀬戸内海の優美な多島海の真ん中を通る、道路と鉄道の併用ルート(上下二層の長大橋梁群)です。ルートは道路37.3km、鉄道32.4kmで、海峡部9.4kmに架かる6橋を総称して瀬戸大橋と呼んでいます。吊橋、斜張橋、トラス橋など、世界最大級の橋梁が連なる姿は壮観です。

参考図書

宇高連絡船・紫雲丸はなぜ沈んだか、萩原幹生著(成山堂書店)2000年

事故から49年目、五十回忌を迎える

2004年05月12日(水)朝刊各紙より

高知市立南海中学校
事故当時3年生117人と教師4人が乗船しており、その内生徒28人が犠牲となった。この時の生存者39名が、事故で中断した京都への修学旅行(一泊二日)に11日あらためて出発した。出発に先立ち、南海中慰霊碑前で遺族約60人と共に黙祷を捧げ、高松市内の追悼行事会場に向かった。会場となった西方寺では、同事故で犠牲者を出した松江市立川津小学校からも卒業生5人が参加した。その後、一行はさらに沈没現場海域で犠牲者の冥福を祈った後、京都に向かった。

松江市立川津小学校
6年生58人中21人、引率教師5人中2人および付き添い3人中2人の合計25人が犠牲となった。その五十回忌の法要(午前10時、川津小紫雲丸遭難記念碑前)と「紫雲丸追悼の集い」(午後1時、川津公民館)が九日営まれ、同級生ら約80人が犠牲者に祈りをささげた。同小での法要は79年以来25年ぶり。法要実行委員会によると、今回で最後になりそうだという。

広島県木江町立南小学校(現大崎上島町立木江小)
6年生97人中22人と教師3人が犠牲となった。
五十回忌法要が11日、校庭に立つ紫雲丸記念館で執り行われた。

1995年(平成7)、木江南小学校と旧・木江小学校が統合して木江小学校となる。敷地は南小学校のものを踏襲しており、1956年(昭和31)落成の遭難者記念館(南小学校)は、2002年(平成14)に紫雲丸記念館(木江小)として新築落成をむかえている。

愛媛県 庄内小学校
生徒77人中29人と関係者1人(PTA会長)が犠牲となった。

紫雲丸関係者2人(船長他1人)
一般乗客58人
修学旅行児童生徒100人(男19、女81)および関係者8人
合計168人

東海道新幹線

東海道新幹線とは

東海道新幹線は<広軌><新線>である。高速かつ大量の輸送を実現するには、大型の車両が高速で走行可能な広軌が大前提となる。これに対して、日本の在来鉄道は<狭軌>である。したがって、新幹線を開通させるためには、およそ鉄道に関する一切のシステムを丸ごと新たに組み上げなければならなかった。

プロジェクトX~挑戦者たち~(NHK)

プロジェクトX~挑戦者たち~
第7回、「執念が生んだ新幹線」
~老友90歳・戦闘機が姿を変えた~
2000年05月09日(火)21:15~22:00放送
アンコール、「新幹線、執念の弾丸列車」
(2002年06月18日)

「プロジェクトX~挑戦者たち~」では、敗戦でつくることができなくなった飛行機の技術を、高速列車に応用していく技術者が主役となっている。しかしながら、東海道新幹線の成功は、総合プロデューサーとしての島秀雄なくしてはありえなかった。「プロジェクトX~挑戦者たち~」では、そのあたりの理解が浅いと感じられる。

東海旅客鉄道株式会社
http://jr-central.co.jp/

新幹線「のぞみ」に乗る

2001年2月28日(水)・3月1日(木)と東京出張で新幹線に乗った。
3月1日(木)15時52分東京発のぞみ、19時43分広島着(3時間51分)
途中、兵庫県・加古川鉄橋を過ぎたあたりで、時速300kmのアナウンス(電光表示)あり。

のぞみ21号(500系)東京発-博多行、時刻表
東京発 15:52、新横浜発 16:09、名古屋着 17:32
名古屋発 17:34、京都着 18:10、京都発 18:12、新大阪着 18:26
新大阪発 18:28、岡山着 19:08、岡山発 19:09、広島着 19:43
広島発 19:44、小倉発 20:29、博多着 20:45

東京-大阪間、2時間34分
大阪-広島間、1時間15分
広島-博多間、1時間01分

なお、3月1日は新横浜駅の前後で徐行のため数分遅れる
広島着で完全に遅れを取り戻せたかどうかは定かではない

男性ホームから転落、救助の2人もはねられ死亡

二十六日午後七時二十分ごろ、JR山手線新大久保駅のホームで、酒に酔った男性一人が線路に転落した。ホームにいた男性二人が線路に降りて助けようとしているところに電車が進入、三人とも電車にはねられ死亡した。救助しようとして死亡したのは、韓国人留学生李秀賢さん(26)と日本人カメラマン関根史郎さん(47)の2人である。佐賀新聞2001年01月27日~28日より

プラットホームに手すり・欄干をつけよ!!。
これは新幹線をつくった男 島秀雄が最晩年まで主張しつづけたことであった。

島秀雄(新幹線をつくった男)

「新幹線をつくった男 島秀雄物語」高橋団吉著、小学館(2000年)

1901年(明治34年)5月20日大阪生まれ
生まれて数か月後東京に転居、東京で育つ。

1971年(昭和46年)文化功労者、70歳

1995年(平成7年)11月3日、文化勲章、93歳
鉄道人として初、エンジニアとしては井深大に続いて二人目
東海道新幹線開業から数えて30年目
父・島安次郎の鉄道界入り(明治28年)百年目

1998年(平成10年)3月18日没(満96歳)
20世紀を角から角まできっちりと直角、水平そして垂直主義で生きた男であった

世界の標準(広軌)

日本の鉄道は<狭軌>である。線路の幅(軌間)は、1067ミリ。これに対して、世界の標準軌は1435ミリであり、日本ではこれを<広軌>といっている。

狭軌は、イギリスの植民地型規格である。狭い日本には狭軌で十分、コストも安くすむという大隈重信の一言で決まったとされている。しかし、高速かつ大量の輸送を実現するには、大型の車両が高速で走行可能な広軌が大前提となる。

電車列車(理想の鉄道)

機関車列車に対して
加減速性能に優れ、緻密なダイヤを組める
牽引機関車を切り離す必要がなく、折り返し運転が容易
重い牽引機が不要なため、軌道の構造がより簡素となりコスト減にもつながる
電力の回生が可能で、省エネルギーに貢献する

D51型蒸気機関車(愛称デゴイチ)

東京帝国大学機械工学科卒、1925年(大正14年)鉄道省入省。
入省2年目の1926年(大正15年)4月、工作局車両課に配属。
1927年(昭和2年)7ヶ月に及ぶ欧米視察旅行(鉄道省休職、私費)。

1928年(昭和3年)、蒸気機関車の設計補佐に大抜擢され、その後、補佐役 → 設計主任 → 課長として、ほぼ1年毎に次々と新しい機関車を生み出していった(在籍10年)。この時期こそ、正に日本SLの黄金時代といえるであろう。

1930年(昭和5年)~1932年(昭和7年)、「国産標準自動車製作」プロジェクトのため出向。自動車の国産三大メーカーの設計陣を向うに回して、一番若い島が会議をリードする。大の車好きの島は、出来あがった試作品のテストドライバーをかってでた。東京-箱根-名古屋から中仙道に入り(総勢十数台)、碓氷峠付近で1台が故障して試験走行は中止。当初予定の箱根往復からみると大成功であった。

1932年(昭和7年)4月、工作局車両課に課長補佐として戻る。
こののち設計主任を務めた大型貨物専用機関車D51型は、島作品の最高傑作とされておりSLの代名詞となった感さえある。汽車生産は、1936年(昭和11年)~1944年(昭和19年)で、最多生産1115両を誇っている。

1936年(昭和11年)4月、二度目の世界旅行(官費)に出る(帰国は1年9か月後の翌年12月)。

C62型蒸気機関車(愛称シロクニ)

1945年(昭和20年)8月の敗戦後、旅客列車は復員者や買出しの人々であふれかえっていた。しかし、当時の日本に旅客用蒸気機関車を新たに一から作っている余裕はなかった。

苦肉の策として、「D51」、「D52」のボイラーに「C57」、「C59」の足回りをつけて旅客用に改善することが試みられた。こうして1948年(昭和23年)暮、「D52」+「C59」から「C62」(愛称シロクニ)が完成した。

「C62」は東海道・山陽本線の急行牽引機としてデビュー、翌年からは東海道に10年ぶりに復活した特急「へいわ」を牽引するなどして大活躍した。また、1954年(昭和29年)12月19日には、東海道本線木曽川鉄橋上で、時速129キロ(狭軌世界最高速度)を達成している。まさに、日本SL史の最後を飾るにふさわしい最強の機関車であった。

湘南電車

島はこれより先の1944年(昭和19年)春、資材局動力車課長として戦時型電車「63形」の完成にかかわる。資材を徹底的に切り詰めて作ったこの寿司詰め専用電車は、戦後復興期の花形電車として活躍した。また私鉄にも導入され、その後の大量輸送車両の原型ともなった。

ただし、当時の電車は「ゲタ電」とも呼ばれ、振動と騒音が激しく乗り心地が非常に悪かった。電車とは、せいぜい20~30分(20kmくらい)の近距離をそれこそゲタ代わりに乗る乗り物と考えられていたのである。

湘南電車(緑とオレンジのツートンカラー)

湘南電車の車体は、緑とオレンジでツートンカラーに塗り分けられ、国鉄のみならず私鉄と比べても斬新なデザインであった。

また、運転席正面を開業数か月後からは、2枚の平面ガラスを角度をつけて組み合わせ、つなぎ目にまっすぐ鼻筋を通すという、島式フェイスとした。この形式は、国鉄車両の顔として国鉄の車両全般に広く採用されたばかりでなく、広く私鉄各社にも流行した。

S式便器の発案

S式便器:参考書P.110の写真キャプションより
清潔&省スペースの男女共用トイレとして湘南電車にデビューした画期的トイレ。以後、国鉄の客車全般に広く普及し、「汽車型便器」として広く一般家庭、店舗などでも親しまれた。島秀雄・発案。

1946年(昭和21年)12月、台車の振動理論の完成を目的とした研究会を立ち上げる(高速台車振動研究会)。この会は、1949年(昭和24年)4月の第6回まで開催され、島は座長として会を成功に導く。

1948年3月(昭和23年)工作局長就任。
1950年3月1日、湘南電車がデビューし、東京-沼津間を2時間半で結んだ(従来は3時間)。この当時、1編成16両もの長編成で2時間半も走りつづける<長距離>電車列車は世界のどこにも存在しなかった。

桜木町事故(一旦、国鉄を去る)

桜木町の列車火災/失敗知識データベース/畑村創造工学研究所

1949年(昭和24年)6月1日
日本国有鉄道発足(運輸省から分離・独立)
初代国鉄総裁・下山定則

7月6日:下山事件
下山定則国鉄総裁、5日登庁の途中行方不明となり、翌未明、線路上で轢死体となって発見。場所は、常磐線・北千十-綾瀬間の東武線ガード下付近。死後轢断・生体轢断で見解対立するが未解決。なお、轢断したのは、D51-651牽引の貨物列車と推定されている。島と下山は東大工学部の同期。
7月15日:三鷹事件
中央線三鷹駅車庫から63形の無人電車が暴走。駅前派出所を壊し、民家に突っ込んだ。死者6名、負傷者十数名。
8月17日:松川事件
東北本線・松川-金谷川間で上り旅客列車が脱線転覆、乗務員3名死亡。

1951年(昭和26年)4月24日
桜木町事故。車両火災にて死者106名、重軽傷50数名。
国電京浜東北線赤羽発桜木町行電車(63形)。
パンタグラフが架線に引っかかり垂れ下がった架線が木製屋根に接触発火。
事故の第一原因は、工事の不手際から現場の架線がたるんでいたため。
63形車両の戦時設計そのもの(粗末な木製車両等)が事故を大きくした。
第2代総裁、加賀山之雄(ゆきお)引責辞任。

1951年(昭和26年)8月
63形改良の目処をつけ、車両局長(理事)を最後に国鉄を去る
勤続26年、50歳の年であった。

ビジネス特急こだま

1954年(昭和29年)9月26日、青函連絡船・洞爺丸沈没、死亡1155名
1955年(昭和30年)5月11日、宇高連絡船・紫雲丸沈没、死亡168名
第3代総裁、長崎惣之助引責辞任
十河(そごう)信二(71歳)、第4代国鉄総裁就任
十河信二は東京帝国大学法学部卒、後藤新平(広軌論者)に認められて鉄道院に入る。晴天の霹靂(本人曰く)の総裁就任から二期8年を努め、東海道新幹線(広軌による超高速電車列車)を完成させる。

1955年(昭和30年)12月1日
島秀雄、理事・技師長(副総裁格)として国鉄に返り咲く
新幹線開通に向けて十河信二の強い要請によるものであった
就任後直ちに、次期東海道線の主力を、当時国鉄で検討されていた電気機関車列車方式から電車列車方式へと180度転換させる
1957年(昭和32年)9月27日
国鉄東海道本線、函南(かんなみ)-沼津間で、小田急ロマンスカー(小田急電鉄スーパー・エキスプレスカー:SE車)が、時速145km(狭軌世界最高速度)を達成した。当時、業界全体には立場を超えて高速電車列車への気運が高まっており、このような国鉄の線路を借りた高速試験が実現したのである。

1958年(昭和33年)11月1日
ビジネス特急こだま、東京、大阪で出発式(計1日2往復)
最高時速110km(従来は95km)、東京-大阪間、6時間50分
東京、大阪をそれぞれ朝7時発、大阪、東京に午後1時50分到着
折り返し大阪、東京を午後4時発、東京、大阪に夜10時50分着
東京-大阪間の日帰りが可能となった(しかも現地で2時間の余裕あり)
1959年(昭和34年)7月31日、時速163km(狭軌世界最高速度)達成
場所は、東海道本線・金谷-焼津間の上り線

参考:特急「つばめ」の所要時間(東京-大阪間)
1929年(昭和4年)新設(機関車列車)、5年後に丹那トンネル開通、8時間
1956年(昭和31年)11月東海道線全線電化、7時間30分

東海道新幹線

東海道新幹線は<広軌><新線>である。およそ鉄道に関する一切のシステムを丸ごと新たに組み上げなければならない。高速車両の設計はもちろんのこと、駅、トンネル、架橋などの建設や運行システムの確立など、やるべきことは膨大である。「総合プロデューサー」として島秀雄はこの仕事を完璧にやり遂げる。世界的にみても、これだけ大規模な鉄道施設を、しかもこれだけの短期間で、丸ごと新たに建設した例はない。

1956年(昭和31年)5月、東海道線増強調査会,設置
1957年(昭和32年)7月、幹線調査室、設置
1958年(昭和33年)4月、新幹線建設基準調査委員会、発足
1959年(昭和34年)11月、1号試験台車投入、基礎的データの収集開始
1959年(昭和34年)3月30日、東海道新幹線予算、国会承認
1959年(昭和34年)4月20日、起工式、新丹那トンネル東口
1961年(昭和36年)5月2日、世銀借款、正式調印
1961年(昭和36年)8月、新幹線主要項目、正式決定

1962年(昭和37年)4月20日
新幹線テストコース「鴨宮モデル線区」開設
(神奈川県、綾瀬-鴨宮間、約32km、現在も営業区間として使用)
1963年(昭和38年)3月30日
世界最高時速256km達成

1964年(昭和39年)10月1日、ひかり1号列車出発式(東京駅9番ホーム)
テープカットをしたのは、第5代国鉄総裁・石田禮助であった
出発式の来賓名簿に十河と島の名前はなかった
(前年5月、十河総裁二期満了で退任、島もこれに殉じて辞任していた)

開業時の列車ダイヤ:
「ひかり」「こだま」それぞれ1日15往復、東京-大阪間、4時間および5時間
翌年11月のダイヤ改正で、「ひかり」3時間10分となる

親子三代(弾丸列車計画)

新幹線は、1964年(昭和39年)10月10日開催の東京オリンピックに間に合った。工期は短く驚異的なスピードで完成した。実は、この原型(広軌新線)が戦時中に一度計画、実行に移されていた弾丸列車計画(昭和16年工事着工)にあることを知る人は少ない。

新幹線の東京-名古屋間、京都-大阪間ルートは、ほぼ弾丸列車計画のものがそのまま引き継がれている。この中で、日本坂トンネル(2174m)は1944年(昭和19年)9月にすでに完成、新丹那トンネル(7959m)も両側から約3割程度堀り進められていた。

弾丸列車計画の鉄道幹線調査会特別委員会委員長は島安次郎(秀雄の父、当時69歳)であった。そして東海道新幹線「ひかり0系」の設計を実際に担当したのは、島隆(秀雄の次男)であった。

弾丸列車計画:
東京-大阪間、4時間30分
大阪-下関間、4時間30分

安全神話

1966年(昭和41年)4月25日、新幹線で<車軸折損>事故が発生した。幸にも車掌が異常に気ついて運転士に通報、非常ブレーキがかけられ大事にはいたらなかった。設計上、いくつかの部品が影響しあって、破損した車軸を正常な位置に押しとどめることができたという奇跡にも救われたという。

この車軸は、国鉄を辞した島が顧問として復職した住友金属工業で精魂を込めて開発した自信作であった。島のショックと心労は大きく、顔面神経麻痺に続いて心筋梗塞をおこして倒れる。

新幹線は開業以来、高速かつ安全な乗り物として大成功した。そのことによって世界の鉄道を蘇らせることに成功した。しかし、それは失敗の積み重ねの上に確立されたものである。開業後3年間、現場ではあらゆるトラブルを経験している。そして、それら原因を徹底的に追求していった。

鉄道は100%安全で当たり前である(島秀雄)。しかし、人間の作った道具に100%を期待することはできない(唐津一)。だからこそ、日常現場での保守を繰り返すことによる二重三重の安全対策しか安全を守り抜く方策はない。

宇宙開発事業団(NASDA)初代理事長

1970年(昭和45年)8月15日、68歳、古希を目前にして宇宙開発事業団初代理事長の辞令を受け取り(総理大臣・佐藤栄作)、新分野・宇宙への挑戦に旅立つ。ここで何故、ロケット開発には全く無関係であった島秀雄だったのだろうか。

東海道新幹線は、ほぼ100%純国産技術によって建設されており、いかに戦前からの技術の蓄積が大きかったかを示している。島は新幹線建設を通して未経験な新規巨大プロジェクトを成功に導くための手法を確立した。システム計画手法と呼ばれるこの方法、すなわち、不確定な技術を磨きつつ、限定された予算内で短期間に、いかに効率よく目標を達成させるかというこの手法は、例えば米国のアポロ有人月飛行計画にも多くの影響を与えていた。

ひるがえって、日本の宇宙開発は戦後ゼロから出発した。そのため、当時産業界から要請の高かった静止衛星を早期に打ち上げるには、客観的にみてNASA(米航空宇宙局)からの技術導入が必須という状態にあった。

それにも関わらず、当時、日本の宇宙開発は事実上2つに分裂しており、それぞれが独自の実験を繰り返して対立していた。ペンシルロケットで有名な糸川英夫博士を中心とする東大宇宙航空研究所(東大グループ、固体式ロケット)と、科学技術庁宇宙開発推進本部(推本グループ、液体式ロケット)である。

NASA(米航空宇宙局)をはじめとする米国技術者から高い評価を受けており、国内の対立する双方のグループからは中立的なカリスマ技術師、島はまとめ役・推進役としてまさに適任であったといえよう。

島は、就任早々(1970年10月21日)大英断を下す。すなわち、<米国から液体ロケット技術を導入>して1975年(昭和50年)までに静止衛星を打ち上げる、という計画の決定で、これがなければ日本の宇宙開発は50年遅れた、とさえ語り継がれている 。

静止気象衛星「ひまわり」(GMS)
1977年(昭和52年)7月14日ケネディ宇宙センターから打ち上げ
デルタ2914型ロケット(米国製)使用、静止化後初期重量、約325Kg
続くGMS-2からは種子島宇宙センターからの打上げとなり、GMS-3、4を経て、現在はGMS-5が運用を引き継いでいる。(2001/06/30現在)
島秀雄、1977年(昭和52年)9月末日NASDA理事長退任。

2001/02/10(土)初出

青函連絡船・洞爺丸

洞爺丸事故、概要

洞爺丸台風、昭和29年(1954年)9月25~27日
小学校1年生(6歳)
この台風に関して当時の記憶はまったくない。

1954年(昭和29年)9月26日22時43分
青函連絡船・洞爺丸(3800トン)は、台風15号(洞爺丸台風、台風マリー)のため函館港外で座礁・転覆し、その結果、死亡および行方不明1155名(乗客乗員他1314人中、生存者わずかに159名)という大惨事となった。これは「タイタニック号」に次ぐ世界第二位、わが国最大の海難事故である。

事故当日、台風通過のため出航を見合わせていた洞爺丸は、定刻(14時40分)の4時間遅れ(18時39分)で函館港を出航した。18時頃から風雨が弱くなり晴れ間が見えてきたのを〈台風の目〉と判断したのである。

ところが、これは実は閉塞前線のいたずらであった。本物の台風の中心は、その時、まだ間違いなく函館西方の日本海上にあった。

北海道まで達してその勢力を維持する台風の数は多くない。しかし、台風15号は違っていた。渡島半島西側の日本海上(函館の緯度線上)に達する直前に急速に発達し、そして速度を急速に落とした。

風の吹き込む方向は、函館湾が日本海にわずかに口を開けている方向と一致していた。その結果、函館湾には長時間にわたって南よりの強風が海から直接吹き込むこととなった。さらに、日本海で発生した波長の長い大きなうねりが函館湾内に押し寄せてきた。

船尾開口部からは容赦なく波が打ち上げ洞爺丸にダメージを与えた。結果的に、洞爺丸船長の出港判断は間違っていたといえる。当時こうした判断はすべて船長一人の決断にゆだねられていたのだった。

風の強さは想像以上で、洞爺丸は港に引き返すこともままならず、函館港外に投錨を余儀なくされる。しかし、錨はきかず七重浜(ななえはま)に向かって流され始めた。そして、ついに座礁し一応の安心が得られたと思ったのもつかの間で、強風によって転覆してしまう。

水深わずか8m、海岸まで700mの地点であった。出港から4時間44分、座礁した3800トンもの船舶が転覆してしまうほどの想像を絶する風力であった。この時、洞爺丸以外の連絡船も数隻沈没し(いずれも乗客なし)、多くの船員が殉職した。

なお、当時GHQ占領下の日本では気象観測網は貧弱であった。また、本格的台風と接する機会の少ない北海道で、予報官自身、台風予報の経験が少なく、台風の位置をリアルタイムで捉えていなかった可能性がある。

洞爺丸は、当時最新鋭の青函連絡船だった

洞爺丸は、1947年(昭和22年)11月21日に青森函館間航路に就航した。戦争によって壊滅状態となった青函連絡船増強計画の一環として建造されたものであり、当時最新鋭の船舶(客貨船)だった。

3800トン4本煙突、長さ(垂線間)113.2m、積載車両軌条二条、旅客定員約1130名。1950年(昭和25年)10月18日には、日本で初のレーダー を装備して運用開始している。

洞爺丸は、沈没のわずか50日前の1954年(昭和29年)8月7日には、天皇皇后両陛下の御召船の役目を果たしている(北海道国体臨席のため)。青森発14時00分、函館着18時30分。洞爺丸の前後左右には「おじか」「あつみ」など6隻の巡視船が並走、海峡中央では防衛庁自衛艦隊24隻による登舷礼(とうげんれい)を受ける。

洞爺丸台風による犠牲者

洞爺丸
乗客(総数1167人、死亡1051名、生存116名)
乗組員(同111人、同73名、同38名)
公務職員(同36人、同31名、同5名)
総計(1314人中、死亡1155名、生存159名)
1957年(昭和32年)4月9日、国鉄本社確定数字による
乗客には、米軍人、軍属、外国人、鉄道弘済会職員などを含む

第11青函丸、船長以下90名殉職(救助なし)
北見丸、船長以下70名殉職(救助6名)
日高丸、船長以下56名殉職(救助20名)
十勝丸、船長以下59名殉職(救助17名)

昭和29年(1954年)9月26日

14時40分、出港予定

台風15号接近中、他船からの乗客・貨物の積み替えに時間を取られたりして、出港のタイミングを逃す。本船ケテミ(天候険悪出港見合わせ)となり乗客は乗船したまま出港を待つこととなった。

18時39分、出港

函館港を出港(定刻の4時間遅れ)

19時01分、投錨(そして機関機能停止)

強風のため防波堤の外側1500メートル(函館湾内)の地点に投錨。しかし錨が効かず、函館港外の七重浜(ななえはま)に向かって流され始める。同時に船尾開口部から車両甲板への浸水がその下の機関室に及び、焚火不能となる。

22時26分、座礁

座礁(七重浜沖1100メートル、右舷に30度傾いた状態)。
やがて発電不能となり、船内に闇が訪れる。

22時43分、沈没

転覆、沈没(七重浜沖700メートル、水深わずか8mの地点)
角度135度までひっくり返った。 

青函航路(海の上のレール)

青函航路は、本州と北海道のレールを結ぶ航路(見えないレール)である。ダイヤ通り運行しなければ接続列車に影響が出る。5分以上の遅れは「事故報告書」提出の対象でさえあった。遅延の理由が、たとえ悪天候(不可抗力)のためだけであったとしても報告書の提出は免れなかった。

洞爺丸船長(渾名は天気図)

当日の洞爺丸船長(54歳)は、船長歴13年で、岸壁に船を一度もぶつけたことがないということからもわかるように、操船には伝説的ともいえる抜群の腕前を持っていた。また、若い頃から天気図を自分でかいて読んでいた。付いた渾名は「天気図」。

本船ケテミ(運命の2分間停電)-洞爺丸出港せず

14時40分、洞爺丸は定刻に出港予定であった。NHK第一、正午のニュース後の天気予報では、「台風15号は今日の夕方奥羽地方北部から北海道に達する見込み」とあり、洞爺丸船長は、津軽海峡が暴風域に入ったとしても、左半円(可航半円)であると考えていたと思われる。

台風15号マリー(後に洞爺丸台風と命名)の現在位置、進路と自船の耐荒天能力を計りにかけて船長は出港を決断した。しかし、他の船(洞爺丸より小型)が途中から函館港に引き返してきて、その乗客・貨物を移乗するのに時間がかかった。

やっと出港となったところで、船尾にかけた可動橋が上がらない。停電だった。船長は、「本船ケテミ」(天候険悪出港見合わせ)と決定する。しばらくして可動橋は上がったが、ケテミ取り消しはなかった。時に、15時10分。停電したのはわずかに2分間であった。このとき出港できていればまちがいなく青森に着いていたであろう。運命の2分間であった。

二度目のドラ(悪魔の目)

NHK午後4時のニュースでは、「台風15号は、午後3時現在、青森県の西方約100km、中心示度968ミリバール、北東へ時速110kmで進行中、午後5時頃渡島半島を通って、今夜北海道を通過する見込み」であった。

17時30分ころ、洞爺丸の出港予定時刻からすでに約3時間経っていた。今までの土砂降りの雨が嘘のように、西から南にかけて空が真っ青に晴れ上がった。〈台風の目〉だ。洞爺丸船長は確信した。他の連絡船船長や函館海洋気象台の予報官まで、だれもがそう思った。多少の吹き返しはあるかもしれないが、最新鋭の洞爺丸なら乗りきれる。

洞爺丸船長には、再開第一便としてできるだけ早くダイヤを正常に戻さなくてはならないというプレッシャーもあったであろう。こうして、船長は出港を決意した。このように、船舶の運航には船長が絶対的な権限をもっており、周囲から口をはさむことはできない、とするのが長い間の伝統と慣習であった。

ところで、だれもが見た〈台風の目〉は、実は閉塞前線のいたずらであった。本物の台風の中心は、その時、まだ間違いなく函館西方の日本海上にあった。

異常台風15号(北海道西岸を発達して北上)

毎年数多く発生する台風のうち、津軽海峡に影響を及ぼすまで北上する台風は、全体の1割程度である。それらのうち、北海道西方海上を北上して、津軽海峡が右半円(一般に危険半円と言われる)となるような台風は、さらに少なく、それまでで全体の1~2%しかなかった。いずれにしても、北海道付近に達した台風は、速度が急増して衰えるのが常であった。

しかし、台風15号は違った。15時ころ、青森県の西方海上で急速に発達、17時ころ、渡島半島西側の日本海上(函館の緯度線上)に達し、速度を急速に落として(時速100km→40km)ゆっくりと北上していった。このような台風は観測史上15号がはじめてだった。そしてこのような変化が起きていることに誰も気づいてはいなかった。

GHQ占領下の日本では気象観測網は貧弱であった。また、本格的台風と接する機会の少ない北海道で、予報官自身、台風予報の経験が少なかった。

函館湾(天下の良港だが)

天下の良港、函館にも欠点はあった。真方位207度(真南は180度)から219度(僅か12度)の角度で日本海にその口を開いており、その対岸は遠く能登半島や山陰海岸になるのだそうである。

台風15号が渡島半島西側の日本海上で発達・停滞することによって、函館湾には長時間にわたって南よりの強風が海から直接吹き込むこととなった。さらに、日本海で発生した波長の長い大きなうねりが函館湾内に押し寄せてきた。

船体構造(車両甲板上の滞水)

連絡船の車両甲板は海水面より高い位置にある。しかし、船尾開口部は解放されたままの構造であった。そしてここから海水が打ちこんできた。しかし、なぜ波の進行方向と反対側の船尾から波が打ちこんできたのか。

洞爺丸を襲った波は、波高6m波周期9秒と推定されている。まさにこの条件のときのみ、実験では海水の「滞留」現象が起きることがわかった。もし波高がこれ以上高くなっても、波周期が変われば滞水量は急激に減少する。

なお、実験の結果、このときの車両甲板の滞水量は250トン以下で、復元力には影響なしと判断された。

座礁(安全か?)-真の沈没原因は何か

投錨から3時間25分、浜に吹き寄せられ続けていた洞爺丸はついに浅瀬に乗り上げた。定年退職を1年後に控えた船長にとって初めての事故(それも大きな海難事故)には違いなかったが、これで台風との闘いはひとまず終わった。誰しもそう思った。数千トンもある連絡船が横転・沈没するなどということはまるで考えられないことだったのである。

洞爺丸が最初に座礁した地点は、海図上での水深12mである。吃水5mの洞爺丸では通常は船底が届くはずはない。ところが、ここに台風の大波でかきまわされた海底の砂が浅瀬をつくっていた。これを漂砂現象という。

この浅瀬(幅3~400m)の上で安全に座州する前に、右舷のビルジキールが海底につきささり、横転して流されていくうちに深みに落ち込んだものと思われる。このため、平坦な場所でただ単に横倒しになったのならば、横転角度90度ですむはずのところ、角度135度までひっくり返ってしまった。(ビルジキールとは、船底の両舷湾曲部の縦方向に細長く突き出した鉄板で、横揺れを数10%押さえる効果がある)

羊蹄丸(青森発、再開第一便)

翌朝、青森からの再開第一便がうそのように穏やかな函館湾に入ってきた。昨日午後4時30分出港予定だった羊蹄丸(洞爺丸と同型船)である。羊蹄丸船長は、「なぜ船を出さぬ、優柔不断で日和見だ」という乗客たちからの罵声に耐えに耐え、台風と闘った。その結果、洞爺丸船長とは異なる決断をしたのである。

洞爺丸海難審判採決(船長の責任)

1955年9月22日、函館地方海難審判庁において採決が言い渡された。
主文:本件遭難は洞爺丸船長の運航に関する業務上の過失に起因して発生したものであるが、本船の船体構造および青函連絡船の運航管理が適当でなかったこともその一因である。指定海難関係人十河信二に対して勧告する。
なお、気象台と青函局長への勧告は見送られた。

洞爺丸船長は船と運命をともにした。したがって、審判では一言も弁明する機会を与えられることなく、「職務上の過失」と主文に明記されたのである。その後の海難審判庁でのさまざまな議論の末、船長が海難で殉職した場合、判決理由のなかに船長名が出たとしても、主文に「船長の職務上の過失」の語句は使用しない旨申し合わされ、現在に至っているという。

勧告の実施

勧告の実施(船体構造、運航管理の強化による安全性向上)
車輛甲板の後部開口に水密扉を設置
異常気象時の出航可否判断は、青函局と船長の合議事項とする
その他、船体復元力の増大、気象関連部署との連携強化など

1988年(昭和63年)3月13日夕刻、最後の連絡船が函館、青森出港、80年の青函連絡船の歴史を閉じる。洞爺丸事故後から連絡船の廃止に至るまで、運航中の乗客の死亡事故は起きなかった。関係者の必死の努力によって、洞爺丸の教訓は生かされたのである。

なお同日朝、青函トンネルの営業運転開始。

参考資料

上前淳一郎著「洞爺丸はなぜ沈んだか」文藝春秋(1980年)
松本幸四郎著「青函連絡船」朝日イブニングニュース社(1983年)
金丸大作著「写真集青函連絡船」朝日イブニングニュース社(1984年)
田中正吾著「青函連絡船-洞爺丸転覆の謎」成山堂書店(1998年)

リンク集

海難審判所(国土交通省)
海難分析集/海難分析集No.6(平成18年5月発刊)
台風と海難~台風大接近!そのときあなたは~
日本の重大海難/旅客船洞爺丸遭難事件(昭和20年代)
JST失敗知識データベース/科学技術振興機構(JST)
青函連絡船洞爺丸の沈没

その他の台風

伊勢湾台風(11歳)

昭和34年(1959年)9月26~27日

小学校6年生
高潮と強風によっておきた名古屋の被害の様子は自宅のテレビで見たか?

台風19号(42歳)

平成2年(1990年9月20日)

台風19号本州縦断
同じ台風19号としては、翌3年のものの方がはるかに印象が強い。

台風19号(43歳)

平成3年(1991年9月24日~10月1日)

気象要覧平成3年9月号より:
宮古島の東を北上した台風第19号は、27日の16時過ぎ長崎県佐世保市付近に上陸した。その後、速い速度で日本海を北東に進み28日8時前に北海道渡島半島に再上陸した。この台風による被害の特徴は、強風害が各地で発生し、住家・農作物に大きな被害をもたらしたことである。

広島県では強風と塩害により155万2000戸が停電した。厳島神社では、国宝の左楽房が流出し、能舞台が倒壊するなど国宝六棟、国重文九棟が損壊した。28日には青森りんごが洞爺丸台風をはるかに上回る規模の被害を受けた。

このとき私は下関にて単身赴任中、27日(金)夕方台風に追いかけられるように山陽自動車道を広島に向かった。ラジオの情報によると、私が各インターを通過する毎にそのインターが閉鎖になっていくような状況であった。広島で一番風が強かったのは、午後7時~8時ころであったか(自宅にて体験)。広島といえば、台風の中心はたいていそれてくれるものとの確信?みたいなものがあっただけにショック。

29日(日)は友人の結婚式(山口市)のため山陽自動車道をこんどは西に戻る。山々の至る所で木々が倒れているのが観察できた。挙式は、サビエル記念聖堂の予定(出席予定)であったが、1991年(平成3年)9月始め炎上したため小聖堂に変更。収容人員少ないとのことで披露宴のみの出席となる。

台風18号(51歳)

平成11年(1999年9月24日)(金)

台風18号は二十四日午前六時ごろ、熊本県北部に上陸し、周防灘に抜けた後、午前九時前に山口県宇部市付近に再上陸した。広島市中区で午前九時四十七分、最大瞬間風速四九・六メートルを記録した。

世界文化遺産の厳島神社(広島県佐伯郡宮島町)は二十四日午前十時前、台風18号の強風と荒波で、国宝の左門客(ひだりかどまろうど)神社が全壊、社殿の床板の一部がはがれ落ちた。その他、国宝、国の重要文化財に多大の被害あり。8年前の台風19号の損傷をほぼ修復し終わったときであり、関係者に与えた打撃は大きい。

当日は通勤用の車を会社に置きっぱなしにしていたので、JRにて出社。山陽本線上り広島方面最後の列車(広島着午前7時半前)で久しぶりに超すし詰め状態を体験する。広島市内で一番風と雨が強かったのは午前10~11時ころか。(社内にて体験)

ところで宮島の台風といえば、高校時代の陸上競技部の夏合宿を思い出す。砂浜にテントを張って自炊をしながら練習をしていた合宿後半に台風が近づいてきたため、大潮のときの潮位よりもさらに海面が上がってきてテントまで迫ってきたことを思い出す。

夏合宿のもう一つは高校の分校(砂谷)で実施した。どちらかが1年生(2年生)のときのことか今すぐには確認できない。

2007/05/04(金)、海難審判庁資料追加
1999/09/25(土)、初出