はじめに
今年は日本が先の大戦で敗れてから60年目の節目の年に当たる。各地で様々な催しものが例年よりも積極的に行われたようである。私の母が属する俳句雑誌「夕凪」も、2005年8月号(通巻682号)を原爆特集号としている。(「夕凪」、発行所広島市、昭和22年6月に第1号発刊)
編集後記には、”手記などを送ってこられた方の添え書きを読むと、書くのはこれが最後の機会・・・・・今書いて置かなければ年齢的に無理になりそうだと危機感を持っておられる感じだった”と記されている。
その中に、母(大正10年生まれ)の引揚げ記(今の韓国から)がいっしょに載っている。私が母から引揚げの話を聞いたことは一度もない。この手記を読んで妻が、一度きちんとお話を聞いておかねばという。確かにその通りだ。まずは、我がHomePageに転載してその第一歩とすることにしよう。
なお、この転載に関しては、「夕凪」編集人・発行人の飯野幸雄様にご快諾をいただいている。転載にあたり、原本の縦組みを横書きに直した。また、段落の数を原文より少し多めにとった。表記方法はほぼ完全に原文のままである。ただし、「こゝ」に類する表現は、「ここ」のように直した。
敗戦―母の手記
その日十一時半頃主人は勤務先からひょっこり帰って来た。体調でも悪いのかと思いきや「正午に天皇陛下のラジオ放送があるから」と。当時陛下の玉音を聞くとは前代未聞のことだから、成程とは思ったが一寸腑に落ちない気持ちではあった。
そして正午。二人でラジオの前に畏まった。雑音は多く、意味も余りはっきりと私には理解出来なかった。「結局日本は負けたのですか?」「そうだ。これから何が起こるか分からんぞ。」と主人。大分後で、主人が十二時前に帰って来た理由が、うすうすと分かった。それはもし暴動が起きた時の事を予想していたのかも知れないと。
二十才で結婚し、同時に主人の任地である京城(現在のソウル)に行き、その後転勤で大邱に居住、そこで敗戦を迎えたのである。全く世間知らずの私は、放送の内容の予想も出来ず、まして主人の気持など察する事も出来なかった。
それにしても、昭和十六年十二月八日早朝の「臨時ニュースを申し上げます。」というアナウンサーの興奮した声が更に、戦争状態に入った事を告げた時、当時軍需工場の設計課に勤務していた兄が、ぽつんと一言「日本が勝てるわけがないのにナー。」とつぶやいた事を思い出した。
やっぱり勝てる戦争ではなかったのか。それにしても今まで尊い命を犠牲にした人達はどうなるのだ。唯ぼんやりとそんな事を考えていた。その日から、空襲警報も鳴らず、夜は電気を煌々とつけられるという喜びに反して、今後の私達はどうなるのだ、という不安が始まった。
それから何日位経っていたろうか、闇船が出るという噂を聞いた。荷物は一人二個位持てる。金額はいくらだったか忘れたが、かなりの額だった事は確かだ。
その噂を聞いた時気が付いたのだが、町内にあった警察の官舎数軒が全部蛻(もぬけ)の殻だったのである。「警察は我々を見捨てた。」と近所の人々は地団駄をふんだ。
その頃主人が「お前も帰れ」と言った。「自分は未だここで仕事があるし、何時どこへ連れて行かれるか分からないから。」と。未だ子供も居なかった私は、「いいえ、私も一緒に残ります。」といった途端、主人の顔色が変わった。
「お前だけでも早く帰って、親父とお袋を安心させてくれ。」私はハッと吾にかえった。そうだ、主人には内地に両親が居た。そして兄は、当時満州の新京に、弟は戦地で生死も定かではない。私が一日でも早く帰って主人の様子、当地の状況を知らせたら少しは心が落ち着くかも知れない。そして私は帰る決心をした。
或夜行李二個と一緒にトラックに乗せられ港に向かった。トラックには坐ることも出来ない位の人と荷物である。皆無言。異様な雰囲気だ。どの位走ったか、途端にトラックが止まった。しばらくして「今日は警戒がきびしいから船は出せない。」引き返すという。
それから又主人と二人の生活が始まったが、貯金は封鎖されるし(朝鮮で稼いだお金は朝鮮のもの、という理屈)。町の雰囲気は以前とは全く違うし、いつ帰れるとも分からない不安な日々が続いた。
ところが十一月二十日過ぎる頃だったろうか、明日引揚列車第一号が出るという。荷物は自分の持てるだけ。帰れば両親の元で何とかなる、という甘えもあって、私達はそれぞれがリュックサックを背負っただけである。
中味は帰りつくまで何日かかるか分からないからと、お米五升(約七kg位か)。これは行李一杯分の衣類と交換したものである。それと炊飯出来るように登山用のコッフェル。それに衣類少々。帰国して身寄りも家もない人達は、リュックの上に布団を積み上げて、下には鍋、お釜、薬缶をぶら下げ後から人間は全く見えない。実に哀れな姿である。
帰国出来る喜びに、いそいそと駅に集合したが、乗せられたのは貨車である。鉄柵のついた小窓が二ヶ所位あるだけ。釜山までどの位かかったか全く記憶にない。
釜山に着いたら波止場に荷物を全部並べろ、という。検査が目的だが実際は検査官がほしいものは次々と取り上げるのである。私の長襦袢と、主人の軍刀を取られた。軍刀は何時か返せる時が来たら返す、という条件で証明書まで書いてくれた。ペラペラでぼろぼろになった証明書を見ると、あの時の屈辱感がむらむらと甦る。
船が仙崎港(山口県)に着くまで皆不安と喜びで落着かなかった。デッキから誰かが「日本が見えるゾー。」と叫んだ。一斉にデッキに飛び出す人、窓に顔をはり着ける人達が欣喜雀躍といった状態だった。
上陸するとすぐ皆に、一ヶづつおにぎりが配られた。あの時の嬉しさは今思い出しても涙が出る。警察に見捨てられた、と思った時から不安と屈辱に絶え乍ら過ごした三ヶ月余り、今こうして私達を迎えて下さる人があったのだ、と思うと人の心のあたたかさがつくづくと身に沁みた。正に「国破れて山河あり」と思った。
仙崎からは山陰線で下関経由尾道まで、今度は無蓋列車だ。寒さも、トンネルでの煤も何のそのである。広島駅は深夜だった。真暗で何も見えない。何の物音もしない。「広島だぞ。」と囁くような声があちこちでする。
降車する人も居られた。あの方々のその後はどのような人生だったろうか、と近頃つくづく思い出す。八月十五日以来日本と全く途絶された状態に置かれていた私達には、この真暗な広島は帰国出来た喜びを吹き飛ばしてしまった。
尾道には夕方頃着いたように思う。下車してから主人とお互いに煤で真黒な顔を見合わせて大笑い。海で顔を洗ったのを昨日のように思い出した。
その夜因島の両親に暖かく迎えてもらったのは申すまでもない。あれから六十年。裸の私達の面倒を見てくれた両親、その後満州から引き揚げてきた兄夫婦、そして無事復員した弟も、私に両親への孝心を呼び覚ましてくれた主人もみんな鬼籍の人になってしまった。
この地球上から何故戦争がなくならないのだろうか。この青い地球の、きれいな花、美しい鳥、生物にとって欠かせない水をもたらす山の木々、それ等と共に世界中の人々が仲良く共存出来る手立てはないのだろうか。
日本は四季それぞれの花が咲き、鳥が囀り、東風(こち)が春を運び、南風(みなみ)が夏を持って来て、高西風(たかにし)が秋をもたらし、北風(きた)が冬の季節風となる。この美しい日本を俳句を志す私達が詠み続ければ、どこかで少しは戦争反対につながるのではないだろうか。どうだろう。
尚私のこの体験は、満州、北朝鮮その他から引揚げて来られた方々に比べれば、物のかずでない事を申し添えてペンを擱く。
2005年8月初出