戦艦大和(参考文献)

数多くある大和文献の中から
特に注目すべき文献を表記した

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「真相・戦艦大和ノ最期」 写真と新資料で解明

https://amzn.to/43vBa0r
原勝洋著、KKベストセラーズ(2003年)

写真と新資料で解明、謎の超弩級戦艦・大和の全貌 永遠の謎がいま解けた、米軍撮影、堂々の写真90枚 (帯より)

戦艦「大和」は遅れてきたヒーローだった
(アマゾンレビュー、akimasa21、2005/9/19)

世界最大・最新鋭の戦艦「大和」は、沖縄水上特攻の途中で米軍機多数の猛攻を受け、誕生からわずか3年4か月でその短い生涯を閉じた。不沈艦「大和」はなぜ沈んだのか。その原因をさぐるには、全長263mにも及ぶ船体のどこで、いつ、何が起こったのか正確に時系列で並べてみなければならない。

著者は、昭和45年(1970年)に「大和」の未公表写真を米国立文書館から入手している。翌年の昭和46年(1971年)には、「大和」撃沈に参加した攻撃隊の記録を、米海軍歴史部門作戦記録公文書課から入手している。”その戦闘記録は攻撃機の数と機種、発進、攻撃そして帰還時刻、搭載兵器の種類と数、攻撃目標に対する被弾と被雷の評価、被害状況などすべてを含むものだった。”

特攻「大和」艦隊は、「大和」以外に軽巡洋艦1隻、駆逐艦8隻で構成されていた。そうした中で、「戦艦大和」に対する直接攻撃〈117機〉という数字が示されたのは初めてのことだろう。また米国側の記録を総合すると、戦艦「大和」は、旧日本海軍作成の「軍艦大和戦闘詳報」に記されたよりも2倍程度大きいダメージを受けていたことが分かる。

このような貴重な発見を、著者はなぜ資料入手から30年以上も経て公表したのだろうか。また、本書の写真の中には時間的順序が逆になっていると指摘されている箇所がある。さらに、兄弟艦の戦艦「武蔵」と並ぶ写真で、「大和」と「武蔵」を取り違えている箇所があるという。よって星一つ減。

(レビュー、ここまで)

インターネット上で本書収載写真について種々議論されている。当Web作者にはどの意見が正しいか判断する能力はないが、参考のため以下にまとめておく。

10から12ページまでの4枚は連続した写真である。しかし、10頁下と11頁の写真は順番が時間的に逆となっている。正しい順番は、10ページの上、11ページ、10ページの下、12ページとなる。なお、11ページの写真は、全図をみると撮影機と思しき機体の影が雲に写っている印象的な1枚として知られている。(米海軍資料番号80-G-46986)

6頁と7頁にまたがった写真は解説では大和とされているが、輪形陣の最外周の駆逐艦が写っていることから武藏だと考えられる。この写真は5ページ下の写真に続くもので、艦隊陣形からみて、第2輪、左斜め後方に占位していた武蔵と見るのが適切である。右端に見える大きな航跡と煙の量からみて、こちらが大和である可能性が高い。

シブヤン海での対空戦闘が開始された当時の陣形から考えると、4頁上下の写真は中央右が大和、その左が武藏と考えて良いであろう。

日本側の撮影によるもの(2枚のみ)
艤装中の大和(1941年9月20日) 表紙見返し
公試中の大和(1941年10月30日)裏表紙見返し

「戦艦大和誕生(上)(下)」 西島技術大佐の大仕事


前間孝則著、講談社(1997年)
(文庫本化1999年)

現代に生き続ける「戦艦大和」
(アマゾンレビュー、akimasa21、2006/01/28)

戦艦大和建造の実質的な現場責任者(船殻主任)は、西島亮二造船少佐(当時35歳)である。西島は戦後、公の場ではほとんど発言することなく沈黙を守り通した。インタビュー嫌いで、雑誌などの依頼原稿もほとんど断っている。その西島が実は原稿用紙一千枚を越える回顧録を書き残していたのだ。

「海軍技術大佐(造船)西島亮二回想記録」(防衛庁防衛研修所戦史室、1971年)という、一般には非公開の大部の回想録である。本書の著者前島は1995年(平成7年)、満93歳になる西島とその家族を訪問して資料の閲覧を願い出る。

回想記録とその他膨大な参考資料を突き合わせることによって浮かび上がってくるのは、西島が長い時間をかけ、苦労して独力で開発したすばらしい造船管理法の全容である。

例えば、戦艦大和の船殻工場での工数は99万9千35工数であった。これに対して、2号艦「武蔵」(三菱長崎造船所)の工数は、大和の約2倍以上であり、したがって建造日数、建造費ともに大和より大幅に大きな数字となっている。しかしこの事実は戦後になってもほとんど公にはされていない。

それはともかく、西島が確立した効率的な造船建造システムこそ、敗戦後わずか11年にして日本を造船業世界一に押し上げる原動力となったのである。戦艦「大和」は現代に生きている。 西島の科学的な生産管理システムは、その後の生産大国日本の源流の一つになったといえるであろう。

(レビュー、ここまで)

さて、呉海軍工廠では戦局の悪化に伴い、甲標的「蛟龍」、人間魚雷「回天」、ベニヤ製モーターボート「震洋」、水中飛行機「海龍」などの特攻兵器を開発・生産していった。本土決戦を前にして、艦船をつくるための材料も理由もそして時間もなく、西島たち造船官が最後には飛行機をつくるために駆り出される始末であった。

西島は極めてすぐれた造船技術者であった。それゆえに組織(海軍)の中にあって、戦艦大和以後も戦時中のあらゆる局面で酷使され続けたといえる。しかしながら、戦局が不利になるにしたがって、計画実現に必要な物資や人材はますます不足していった。

トップから降りてくる目標数値は、非現実的で到底実現不可能なものばかりで、そこにあるのはただの精神論でしかなかった。日本には、あらゆる角度から幅広く情報を集めて、それを基に状況を的確に判断できる”軍事技術者”(ジェネラルマネージャー)は、ただの一人も存在しなかったということになる。西島が戦後完黙したのは、そのような組織に翻弄され続けた技術者としてのせめてもの矜持であろう。

前間孝則氏(1946年生まれ)は、石川島播磨重工の航空宇宙事業本部技術開発事業部で、ジェットエンジンの設計に20年間従事した経歴を持っている。1998年同社を退社後は、ジェットエンジン、航空機、自動車そして鉄道などの技術開発について、戦前から戦後にかけての歴史をノンフィクションとして著している。

「戦艦大和ノ最期」 吉田満著


吉田満著、講談社文芸文庫(1994年)

東京帝国大学在学中、学徒出陣(海軍少尉)
大和に副電測士(レーダー担当)として乗り込む
沖縄特攻では、駆逐艦「冬月」に救助される
戦後は、日銀にて監事にまで昇進
1979年(昭和54年)他界(享年56歳)

父親の知人で、近くに疎開していた作家の吉川英治を訪ねる
戦艦大和の体験談はぜひ書かなければいけないと強く勧められる
その夜、大学ノートに一気に書き下ろす(1945年秋)
漢字と片仮名だけの文語体による戦記文学の傑作とされている

題名:「戦艦大和の最期」(゛の゛はひらがな)
副題:天号作戦に於ける軍艦大和の戦闘経過(注:”闘”の字が欠字)

雑誌「創元」第一輯、1946年(昭和21年)12月発行に掲載予定の初稿が発禁処分となる。小林秀雄(作家・評論家)たちが主宰する雑誌への掲載を、小林自らに勧められ承諾した。しかし、発刊される前にGHQの検閲を受け、「軍国主義的」という理由で全面削除の発禁処分となった。

その後、1949年(昭和24年)に〈小説〉「軍艦大和」として雑誌「サロン」(銀座出版)で発表された。GHQの検閲をすり抜ける為に十数カ所を削除したという。また文語体から口語体に改められており、題名にも「小説」と付けられている。本来の原稿のままで出版されたのは1952年(昭和27年、創元社)である。・・・・・・・・・・

事実無根:救助者の手首切り
疑問:哨戒長臼淵大尉(一次室長)、進歩のない者は決して勝たない・・・議論
戦後民主主義の価値観に頭を大転換させ、そこから大日本帝国を批判した
沈没位置は、徳之島ノ北西洋上ではない

吉田満「戦艦大和ノ最期」の嘘
粟野仁雄著、WiLL、2006年1月号、pp.60-6

「第二次世界大戦における米海軍作戦全史」15冊

サミュエル・エリオット・モリソン著、リトル・ブラウン社
Morison, Samuel Eliot
History of United States Naval Operations in World War II
Boston: Little Brown and Company, 1947-1962
日本語訳:太平洋戦争アメリカ海軍作戦史、1~4巻のみ
:野中五郎訳、改造社(1950年)

「モリソンの太平洋海戦史」


サミュエル・エリオット・モリソン/大谷内一夫・訳(光人社) 2003年
Morison, Samuel Eliot
Two-Ocean War
Boston: Little Brown and Company, 1963

名著モリソン戦史全15冊版から、もっとも重要な戦闘や作戦を選択してまとめられたのが、本書の原著である。その中から、さらに日米関係と太平洋作戦に関する部分を選択・収載して訳されたのが本書である。

アメリカ海軍は、史上最大の作戦をどのように計画し、戦闘したのか!
米海軍アドミラルにして第一級戦史家モリソン博士の不朽の名著
ハンディ版第二次世界大戦米海軍作戦全史
(帯より)

「戦艦大和」 平間洋一編


平間洋一編、講談社選書メチエ269(2003年)

大和の全生涯がわかる決定版!
史上最強の戦艦は、どのようにして誕生したのか?
なぜ悲劇の最期を迎えたのか?
設計思想、建造の創意工夫から、実戦での能力まで徹底的に検証。
米海軍情報部の新資料も渉猟
(カバー裏および帯より)

参考文献が多数収載されており、戦艦大和の全貌をつかむのに最適。

「戦艦「大和」開発物語」 雑誌「丸」掲載記事集成


松本喜太郎他、光人社NF文庫(2003年)

日本造艦技術の最高・最大の産物にして戦艦発達史の頂上に君臨する「大和」--その比ぶべくもなき堅固な船体構造から周到なる射撃システム、光学機器、防御甲鈑、電探装置などについて、完成までの道程を開発・建造に携わった造船官らが詳述する話題の技術戦史。(カバー裏より)

雑誌「丸」掲載論文(昭和35年~平成4年)を集成したものである。なお再掲にあたって論文題名が多少変更となっているものがある。(下記では本書記載の論文名を記す)

  • 戦艦「大和」船体構造全解明、雑誌「丸」昭和58年9月号
    多賀一史、艦艇研究家
  • 私は戦艦「大和」をこのように設計した、雑誌「丸」昭和37年2月号
    松本喜太郎、元呉海軍工廠造船部設計主任・海軍技術大佐
  • 戦艦「大和」設計秘話、雑誌「丸」昭和35年4月号
    福田啓二、元「大和」基本計画主任・海軍技術中将
  • 私が戦艦「大和」の設計図を描いた、雑誌「丸」昭和44年8月号(エキストラ版)
    高木長作、元三菱造船所技師・造船検査課第一係長
  • 語られざる戦艦「大和」建造の秘密、雑誌「丸」昭和43年7月号
    庭田尚三、元呉海軍工廠造船部長・海軍技術中将
  • 特殊鋼鈑の鎧をつけた不沈戦艦誕生す、雑誌「丸」昭和38年5月号
    佐々川清、元海軍技術大佐
  • 戦艦「大和」プロペラの謎を追う、雑誌「丸」平成4年7月号
    北村恒信、元呉海軍工廠造機部設計係
  • 戦艦「大和」主砲兵装極秘資料、雑誌「丸」昭和54年11月号
    大谷豊吉、元呉海軍工廠設計員
  • 四六センチ主砲の栄光と顛末、雑誌「丸」昭和38年5月号
    井上威恭、元海軍技術大尉
  • 主砲の生命15メートル測距儀の秘密、雑誌「丸」昭和38年5月号
    北川茂春、元海軍技術大佐
  • 世界最大戦艦の砲熕極秘資料、雑誌「丸」昭和38年5月号
    清水文雄、元海軍技術中将
  • 水中聴音機技術報告書、雑誌「丸」昭和38年5月号
    久山多美男、元呉海軍工廠技術部員
  • 「大和」型戦艦レーダーのすべて、雑誌「丸」昭和38年5月号
    松井宗明、元海軍技術少佐
  • 「大和」は戦艦発達の頂点だった、雑誌「丸」昭和35年4月号
    大浜啓一、戦史研究家
  • 戦艦「大和」は現代に生きている、雑誌「丸」昭和35年4月号
    西島亮二、元「大和」建造主任・海軍技術大佐

「戦艦大和からの生還」


武藤武士著、自費出版センター(1988年)

元小学校長の自分史(自費出版)である。「戦艦大和の最後」を一兵士の立場から体験をまとめたものは初めてという。著者履歴は、以下の通りである。

大正11年(1920年)生まれ
昭和17年(1942年)3月、兵庫師範学校(現神戸大学教育学部)卒
一年間教鞭をとって兵役へ(師範徴兵-予め義務付けられていたことである)
昭和18年(1943年)4月1日、大竹海兵団入団
昭和18年(1943年)6月30日、戦艦大和配属(高角砲第五分隊)
昭和20年(1945年)4月7日、「大和」撃沈、生還
昭和48年(1973年)、明石市立江井島小学校長
昭和63年(1988年)、播磨町教育委員会退職(公職から退く)

巻末に「大和」戦死者生存者名簿(厚生省援護局名簿より)掲載。ただし、掲載生存者数243名となっており、従来資料269名よりも少ない。未掲載分があるものと思われる。なお、戦死者数については当Web作者は検討していない。

島の墓標 私の「戦艦大和」


鬼内仙次著、創元社(1997年)

戦艦「大和」と僚船の生き残り、その他関係者多数への聞き取りを基にまとめたもの。大和特攻隊の動きが時系列で分かる。

「戦艦大和の最後」一高角砲員の苛酷なる原体験


坪井平次著、光人社(1999年)

五番高角砲塔員(信管手)として戦艦「大和」で働く。
戦後は、三重県の小中学校の教諭、教頭、校長をつとめる。

大正11年(1920年)生まれ
昭和17年(1942年)3月、三重県師範学校本科第一部卒
ただちに、日進国民学校訓導となる
昭和18年(1943年)4月、大竹海兵団入団(同年7月卒団)
戦艦「大和」に乗り組み、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦を戦う
沖縄特攻では、漂流ののち救助される
敗戦時、海軍上等兵曹
昭和55年(1980年)定年退職

映画「男たちの大和/YAMATO」公開記念出版企画
”大和、それぞれの視点” 企画・制作 中国新聞広告局
なお当日は、同映画一般公開日
2005年12月17日(土)中国新聞一面下(合計6冊)

「戦艦大和 最後の乗組員の遺言」


八杉康夫著、ワック(2005年)

生きるということの意味を考える
(アマゾンレビュー、akimasa21、2005/12/23)

戦艦大和は米軍機の激しい機銃掃射を受け、数多くの犠牲者を出した。爆弾や魚雷も数発命中した。被雷によって艦が一方に傾くと、反対舷の水密区画に海水を注入してバランスを取った。たとえその区画に生存者がいたとしても、それは避けられない措置だった。しかし遂に大和は横転沈没した。艦の底部からの脱出者はほとんどいなかった。

著者の戦闘配置である艦橋は無傷だった。横転する艦から難なく海面に脱出できた。しかし、沈み行く艦の巻き波に引き込まれる。もはやこれまでと思った最中に、砲塔の誘爆によって海面に押し上げられる。まもなく、空から大爆発で真っ赤に焼けた大和の鋼鉄の破片が降り注いだ。多くの兵が鉄片に当たり、目の前で声もなく沈んでいった。

その後は、重油の浮かぶ海で丸太につかまりながら、2~3mのうねりの中を4時間漂流した。力尽きて海中に消えていく負傷兵がいた。「死んでもいいから眠りたい」それほどの凄まじい眠気に負けてしまった兵がいた。

やっと駆逐艦が救助に現われた。待ちきれず泳ぎ始めて力尽きる者がいた。近づいてきた駆逐艦からロープが下ろされた。我先にとロープの奪い合いが始まった。階級も年齢もなかった。もはや帝國海軍軍人はそこにはいなかった。

戦後になり、著者は海底の大和を探り当て、NHKとの合同調査でその全貌を映像化することに成功した。そして現在、「大和の語り部」として講演活動を続けている。当時17歳の上等水兵が体験した「生きる」ということの意味を伝えたくて。

「戦艦大和メカニカルガイドブック」


Jシップス編集部編、イカロス出版(2005年)

八大企画:
大和のメカニズム、大和の一生、大和人物列伝、大和まめ知識、映画「男たちの大和」密着ガイド、コラム集「大和といま、私の大和」 元防衛大教授・平間洋一氏、戦史研究家・原勝洋氏、大和ミュージアム館長・戸高一成氏、現代の大和ガイド、巻末資料・大和艦隊カタログ

「戦艦「大和」」


歴史群像編集部、学研パブリッシング(2013年)

第一級のイラストレーターで編成された大和CGプロジェクトチームが精密模型制作グループ「NAVY YARD」の大和研究会の協力を得て制作したCG「大和」の大特集!約100点の精密三次元CGで堪能する戦艦「大和」のすべて!
(編集部/著者レビューより)

「戦艦大和の遺産、上・下」


前間孝則著、講談社(2005年)

「世界制覇巨大タンカーを創った男」(2000年)の文庫化にあたり改題、再編。
出版社/著者からの内容紹介(2000年版より)
船体は海底に沈もうとも「大和」の技術は生き抜いた!戦後日本の造船業が、いかに苦渋を切り抜け、世界一へとのし上がっていったのか!?その軌跡のすべてを追う。

「僕たちの好きな戦艦大和」


別冊宝島編集部編、宝島社(2005年)

最強戦艦、神話の夢と現実
悲劇の最期から60年、沈黙は破られた
インタビュー、石破茂(元防衛庁長官)、松本零士(漫画家)
その他

「戦艦大和の全て」


松野正樹著、双葉社(2005年)

出版社/著者からの内容紹介
史上初 極秘だった艦内を徹底再現、戦艦大和の内部構造、四六センチ三連装主砲塔のメカニズム、戦艦大和のメカニズム、大和型戦艦 内部艤装図、その他

「戦艦大和のすべて」


原勝洋著、インデックス・コミュニケーションズ(2004年)

内容(「BOOK」データベースより)
戦後60年、大和浮上!今も時代と共に生きる軍艦大和。その誕生から最期までを克明に描く完全版。

山本明正(やまもと あきまさ)

1970年3月(昭和45)徳島大学薬学部卒(薬剤師)
1970年4月(昭和45)塩野義製薬株式会社入社
2012年1月(平成24)定年後再雇用満期4年で退職
2012年2月(平成24)保険薬局薬剤師(フルタイム)
2023年4月(令和5)現在、保険薬局薬剤師(パートタイム)