このページの目次です
稲はどこから来たのか
春、田植えによって水田に整然と植えられたイネの苗は、夏になって青々と育ち、やがて収穫を前にして黄金色の稲穂を垂れる。平地では見渡す限りの水田が広がり、山間部では天まで届きそうな棚田が折り重なる。これぞ現代日本人が稲作に対して持つイメージの典型であろう。
しかしながら、こうした見渡す限りの水田風景が日本中に広がるのは、おおざっぱに言えば江戸時代に入ってからということになるかもしれない、という。水田を維持管理するということは大事業であり、灌漑用の水路やため池そして肥料などの条件が整ってくるのは近世以降と考えられるからである。
ところで、日本列島には少なくとも今のイネに直接つながるような野生のイネは存在しなかったとされている。イネはやはり南方の植物である。ならばイネは、いつ、誰が、どこからどのようにして日本に運んできたのであろうか。“稲はどこから来たのか”、興味の尽きないテーマである。
世界の栽培イネ(サティバとグラベリマ)
世界で現在栽培されているイネには二つの種類がある。オリザ・サティバ(Oryza sativa)とオリザ・グラベリマ(Oryza glaberrima)である。ただし、グラベリマはアフリカ西海岸付近だけで栽培されているものであり、全世界で広く栽培されているイネはサティバ一種のみである。
サティバの品種(インディカとジャポニカ)
サティバはさらに、インディカとジャポニカという二つの品種のグループに大別される(加藤茂苞しげとも博士・九州大学、1928年)。
寺地徹(現・京都産業大学)の葉緑体DNAを使った研究(1988年、当時京都大学学生)によれば、栽培イネはもちろんのこと、野生イネにもインディカ型母系とジャポニカ型母系が存在するという。pSINE(動き回る遺伝子の一種)の研究(大坪栄一・久子夫妻など)によれば、インディカの系統とジャポニカの系統ははっきり分かれて分布している。
すなわち、インディカとジャポニカとは祖先を異にするグループであり、栽培イネには二つの祖先があったと考えることができる(二元説有利)。なお、インディカとジャポニカを区別する方法として、フェノール反応(Ph)、プラス(インディカ)、マイナス(ジャポニカ)なども用いられる。
ジャポニカを細分類する(熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカ)
ジャポニカはさらに、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカに細分化される(岡彦一博士、国立遺伝学研究所)。岡博士は多くのイネ品種を観察するうちに二つの区別を直感的に感じ取ったもののようである。
中村郁郎(1997年、千葉大学)によれば、葉緑体DNA(PS-ID部分)分析によって、インディカとジャポニカの判別はすぐにできる。また、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの区別も場合によっては完璧にできる。このようなPS-IDのタイプなどを組み合わせて葉緑体DNAからみたイネの系統樹を作ることができる。
さらに、核DNAを電気泳動にかけてできるバンドによって、熱帯・温帯の両ジャポニカの区別がかなりの確率(80~90%)でできるとされている(佐藤洋一郎)。ただし、二つのジャポニカの間には自然交配によってどちらともつかない品種もできており、この方法によってそれ以上精度を上げることは難しいようである。
稲作は縄文時代に始まった
風張(かざはり)遺跡(青森県八戸市)から米粒が7つ発見され(1989年?)、年代測定の結果は毎日新聞(1992年8月30日朝刊)などで報道された。「青森で日本最古のコメ、3000年前の遺跡から、伝播定説より500年早く」。こうして日本列島における縄文稲作の存在が現実のものとなった。
最近の研究によって、 日本でのイネの栽培は縄文時代から始まったことが確実視されている。その本格的な栽培開始時期については、西日本では6000年前 (縄文時代前期から中期頃)、東日本ではそれよりかなり遅れて3000年前(縄文時代後期頃)とされており、東西で大きな開きがある。
縄文稲作はどこから来たか(新・海上の道)
縄文のイネ(陸稲)は<熱帯ジャポニカ>である。 熱帯ジャポニカは、縄文時代のいつの日にか南西諸島を経由して、すなわち「海上の道」(柳田國男)を通って日本列島にやってきたと考えられる。
その根拠は、在来品種の研究によると、熱帯ジャポニカの形質や熱帯ジャポニカに固有と思われる幾つかの遺伝子が南西諸島のものに多いからである。ただし渡来元については、台湾・フィリピン、インドシナ半島、あるいは長江下流域など、今は特定するに至らない。
なお、ここで在来品種とは、国などの機関による品種改良が始まる前に各地にあった古い品種で、それぞれの土地の風土によく適応していると考えられている。日本でいえば 、江戸時代末から明治にかけての時代のものである。
南西諸島の稲作(オーストロネシア型農耕)
日本列島に至る南からの道を考えるとき、一番南に位置する南西諸島の役割は非常に重要となる。
南西諸島は、自然や歴史あるいは民俗文化的要素から、三つの地域に分けて考えると分かりやすい。すなわち、北部圏(種子島・屋久島及びトカラ列島など)、中部圏(奄美諸島・沖縄諸島など)、そして南部圏(宮古諸島・八重山諸島など) の三つである。そして、これら文化圏の諸特質の違いを詳細に研究することによって、文化の流れを復元する試みが続けられている。
ところで、沖縄の伝統的農耕では畑作農耕の方が水田稲作農耕よりも比重が高かったと考えられる。その畑作農耕の主作物はアワであり、ムギや豆類とともにサトイモ、ヤマノイモなどのイモ類も重要な役割を荷っていた。その起源は、南島系の根栽農耕文化に求めることができる。すなわち、根栽=雑穀型の文化である。
南西諸島で行われてきた水田稲作の特徴は、「踏耕」(蹄耕)と冬作にある。ブル型のイネ(熱帯ジャポニカ)を主作物とするこのような農耕は、オーストロネシア農耕と呼ばれ、これまた東南アジアの島嶼部を中心とする南方的な要素を持ったものである。
踏耕とは、大型家畜(水牛・牛または馬)を数頭から十数頭ほど苗代あるいは本田に追い込んで水を張った田面を踏み付けさせ、水田の耕耘、除草、床締め(漏水を防ぐ)などを行う作業のことをいう。
冬作とは、例えばイネを秋冬に播種して、春夏に刈り取る栽培形態をいい、冬でも一定以上の気温と降水量が見込まれる冬雨型地域で可能となる。ここで夏場の栽培を避けるのは、夏の降水量が台風など不安定な要素に左右されるなどの理由が考えられる。
踏耕(オーストロネシア型農耕)の分布範囲は、東南アジア島嶼部(スラウェシ、ボルネオそしてスマトラなどのインドネシアの島々からマレー半島沿岸)を中心として、西はスリランカ、マダガスカル、東は小スンダ列島、東北はフィリピン・台湾から南西諸島にかけて広がっており、冬雨型の気候地域とよく一致している。
なお、八重山諸島の在来イネの中には、ブルとよく似た特性を示すにもかかわらず、フェノール反応がプラスを示すものが存在している。そして、その分布範囲は、台湾山地、海南島、ハルマヘラ島、スラウェシ島、そして小スンダ列島の島々など、東南アジアの熱帯島嶼部から日本本土の陸稲の中にも認められるという(渡部忠世)。
これらはより古い時代の栽培種であり、特徴として、水田でも畑地でも栽培しうる「水陸未分化」型の「陸稲」としての性質を持っていることがあげられる。
縄文稲作は焼畑農耕?
縄文稲作は焼畑によっていた可能性が高く、農耕遺跡は発見されにくいだろうと考えられる。インドシナでの焼畑の研究結果によると、焼畑は3年くらい使用すると放置される。また、焼畑を営む人々は農具というものをほとんど使わないという。
農具が乏しく、永続的に耕地として利用していない土地を発掘しても、農耕の跡を発見することは難しい。まして、縄文“水田”といったような“稲作”の遺構が見つかる可能性はまずあり得ない。
焼畑では、森を伐採して火入れを行い畑を開く。木や草を焼いてできた灰は肥料となり雑草の種子も死滅している。こうして焼畑1年目の生産性は驚くほど高くなる。インドシナの焼畑では日本での平均の5割もの収穫(玄米に直して)があるという。逆に、肥料や農薬を含め投下されるエネルギーははるかに小さい。それだけ効率がよいということになる。
畑を開いて2年目、3年目になると、雑草が生い茂り栄養分も不足してくる。病原菌や害虫も戻ってきて収量は目にみえて減少していく。魅力の乏しくなった土地は休耕にして一旦山の神様に返す。輪廻の思想である。
イネの痕跡を調べる
プラントオパール分析とは
イネ科の植物は土中の珪酸を吸収して葉の葉脈に平行して存在する機動細胞に蓄積する。プラントオパールとは、そうした珪酸体(ガラス成分)が地中から掘り出されたものをいい、植物の種類ごとに特徴的な構造をしている。
したがって、イネ・プラントオパールが発見されれば、そこにはイネが存在した可能性が非常に高いということになる。ただし、プラントオパールは非常に小さい(50ミクロン以下)ため、なんらかの原因によって汚染される可能性が否定できないため注意が必要である。
縄文時代の遺跡におけるイネ・プラントオパールの検出例は30例に及び(外山秀一さん、皇學館大学)、主に西日本の各地に広く分布している。縄文時代の前期以降、西日本の各地で稲作が行われていたことを示す証拠である。
1999年4月19日、日本最古(6400年前)のイネ細胞化石が発見された。朝寝鼻貝塚(あさねばな、岡山市内)でイネ・プラントオパールが発見されたのである(岡山理科大学・小林博昭さん、ノートルダム清心女子大学・高橋護さん)。
南溝手遺跡(みなみみぞて、岡山県総社市)では、縄文土器(縄文時代後期)のかけらの中からプラントオパールを検出することに成功した(宮崎大学・藤原宏志さん)。汚染されてまぎれこんだプラントオパールではないということを証明するにはここまでしなければいけない。まさに執念そのものである。
吉備地方を中心に縄文稲作の痕跡が数多く見つかっている。この地方での研究が進んでいるということもあろうが、いずれにしても遺跡の立地は山間部というよりは平野部にあるようだ。こうした傾向は全国的にいえることでもある。
日本列島に隣接した地域(長江中流域の江南山地や台湾山地など)では、陸稲が焼畑の主作物から欠落している例が多い。 同様の傾向は、西日本各地の山地における焼畑(昭和35年頃まで存在)でも見られたという。
古いタイプの焼畑農耕には陸稲を含んでいなかった可能性がある。ならば陸稲が日本列島に入ってきた時期はいつか。そしてそれはどのような場所で栽培されたのか。例えば、河川敷や湖畔のような土地を火入れによって開墾していたのであろうか。プラントオパール分析を含めて今後の研究成果が楽しみである。
花粉分析とは
花粉はプラントオパールと違って多くの植物種に存在しており、スポロポレニンという非常に丈夫な成分を含む外膜に覆われている。このため、湿原や湖底堆積物中に数万年、時には数百万年以上にもわたって化石として残ることができる。
花粉分析とは、このような化石花粉の組成変化を経時的に調べることによって、過去から現在に至る植生の変遷と気候の変化、あるいは人類による植生の撹乱などの手掛かりを得ることをいう。
花粉分析の結果からみると、縄文時代に広範囲にわたって長期間イネだけに占拠され続けた場所は認められないという。
弥生稲作はどこから来たか
弥生のイネ(水稲)は<温帯ジャポニカ>である。そして最近、“稲作の長江起源説”が唱えられている。考古学や育種・遺伝学の成果を踏まえてのことである。ここで稲作の起源が長江にあるかどうかは別として、日本列島や朝鮮半島に伝わった水田稲作の原型が、長江流域において形成されたことはほぼ間違いない。
DNA上のSSR領域多型について、日本列島、朝鮮半島そして中国大陸の温帯ジャポニカ在来品種250種を検討した結果、例えば、RM1というSSR領域に存在する8つのタイプ(a~h)について、中国大陸にはa~hの全てが存在することが分かった。朝鮮半島には、7つのタイプ(bを除く)が存在している。そして日本列島の在来品種の多くはaとb( その他若干のcタイプ)であった。
日本列島に最初にもたらされた固体数があまり多くなかったため、7つ8つある多型のうち一つまたは二つの型しかもたらされなかったと考えてよいだろう。(びん首効果-ボトルネック効果)
朝鮮半島に存在しないbタイプは、朝鮮半島を経由せず中国大陸から直接日本列島にもたらされたと考えられる。もう一つのaタイプは、朝鮮半島では半数以上を占めているが、中国大陸ではその割合があまり高くないので、朝鮮半島経由でもたらされた可能性が高い。
従来からこの二つの経路をめぐって、考古学者や農学者が入り乱れて学説の対立が続いていたが、二つの経路とも可能性があるということになる。特に朝鮮半島南部においては、弥生文化の原型とされる要素(石器や青銅器あるいは貯蔵穴など)をすべて有する酷似した遺跡が発見されており、その直接的つながりは深いと考えられる。
弥生時代とは水田稲作だけの時代か
畦や水路を伴った水田稲作は縄文晩期後半に北九州で始まった。しかし、現代の日本人がイメージするような水田を維持することは、実は並大抵のことではない。
水稲の栽培には水の管理が必須である。十分な水を確保するために、灌漑用の水路やため池などを必要とする。これらは個々の耕作者が個別に対応できるような問題ではない。大掛かりな土木工事を含む管理体制が前提となる。
また、イネだけが生存する生態系を長期に持続させるためには、常に雑草を取り払い肥料をやり続けなければいけない。そうしないと収穫を上げ続けることはできないのだ。
縄文の要素はなかなか消えなかった
水田と共にやってきた弥生のイネ(水稲)が、熱帯ジャポニカという縄文以来のイネを完全に排除するまでには長い年月がかかっている。少なくとも弥生時代は、熱帯・温帯ジャポニカ並存の時代であった。
弥生時代の全期間を通して熱帯ジャポニカが全体の約4割も占め続けていた。その割合には、弥生時代の始まりと終りの時期で差はない。また、列島の各地域による差もないのである。(2001年春現在、調べた種子の数120個中、熱帯ジャポニカ50個)
花粉分析の結果から、河内平野全体が水田という環境(弥生時代全般)には無かったと考えられる(池島・福万寺遺跡、大阪府)。雑草種子の量を調べることによって、古墳時代の大規模水田で稲作に使用された部分と耕作が放棄された部分が交錯している可能性が示唆されている(曲金北遺跡・まがりかねきた、静岡市)
曲金北遺跡(古墳時代)の広さ約5ヘクタール。3~4畳半程の小区画が連続した形状をしている。そのうち100の小区画を調べたところ、水田はたった22区画で休耕田が多く含まれていたことが判明した。また栽培稲は、水稲2割、陸稲4割であった。せっかくの水田で焼畑と変わらない雑駁農耕を行っていたことになる。これは全国の弥生遺跡に共通する特徴である。
日本に見渡す限りの水田が登場する時期はいつ?
縄文・弥生の稲作は肥料や農薬を使わない自然農法である。焼畑稲作では種まき後ほとんど人手をかけることはないだろうが、水田稲作では草取りは必須の作業であり過酷な農作業となる。焼畑稲作でそこそこの収穫があるならば、あえて水田稲作で苦労する必要はないかもしれない。費用対効果の問題である。
水田を維持管理するということは大事業であり、灌漑用の水路やため池そして肥料などの条件が整ってくるのは近世以降と考えられる。見渡す限りの水田風景が日本中に広がるのは、おおざっぱに言えば江戸時代に入ってからということになるだろうか 。
(付録)弥生時代の始まりは500年さかのぼる可能性がある?
放射性炭素(C14)年代測定法を用いた最近の研究成果によって、弥生時代の始まりが500年もさかのぼる可能性がでてきた。2003年5月に国立民俗歴史博物館から発表されたもので、各方面で大反響を巻き起こしている。
参考資料
・海上の道、柳田國男著、筑摩書房1962年など
・栽培植物と農耕の起源、中尾佐助著、岩波新書1966年
・稲作以前、佐々木高明著、NHKブックス1971年
・稲の道、渡部 忠世著、NHKブックス1977年
・環境考古学事始、安田 喜憲著、NHKブックス1980年
・日本文化の基層を探る-ナラ林文化と照葉樹林文化-
佐々木高明著、NHKブックス1993年
・稲の日本史、佐藤洋一郎著、角川選書2002年
・イネの文明、佐藤洋一郎著、PHP新書2003年
・国立民俗歴史博物館HP
・南からの日本文化(上)-新・海上の道-
佐々木高明著、NHKブックス2003年