このページの目次です
力道山と私
私が力道山の名前を知ったのは、たぶん1954年(昭和29)夏、小学校一年生のころである。場所は広島県安佐郡矢口(現広島市安佐北区)、電柱にポスターが張ってあり、そこには「りきどうやま」と書いてあった。つまり力道山に「りきどう」と振り仮名が振ってあり、「山」は自分の苗字の一部だから、すなおに「やま」と読んだものであろう。おそらくは力道山の広島巡業を知らせるポスターである。
我が家に初めてテレビ(白黒)が入ったのは、皇太子ご成婚パレードが放映された1959年(昭和34)ころで、超人気番組はプロレスであった。力道山が空手チョップで外人レスラーをやっつけるところを見ては歓声を上げたものである。実に単純な話であるが、当の力道山にとって事はそれほど簡単ではなかった。
力道山年譜
1924年(大正13年)11月14日生
出生地:北朝鮮咸鏡南道(本名、金信洛)
出身地:長崎県大村市(日本名、百田光浩)
1939年(昭和14年)
後の養父・百田己之助にスカウトされ朝鮮半島から単身日本に渡る
1940年(昭和15年)
二所ノ関部屋入門(昭21年入幕、24年関脇昇進)
横綱若乃花(初代)は弟弟子に当たる
1950年(昭和25年)9月2日
自宅で自ら髷(まげ)を包丁で切り落とし、相撲界を去る
通算成績135勝82敗15休、幕内在位11場所
(15休は、廃業直後の場所で、番付に四股名が残っていたため全休扱い)
1952年(昭和27年)2月3日
プロレス修行のため、羽田発飛行機でハワイへ出発、その後米国太平洋岸を転戦して、300戦295勝5敗(翌年3月6日帰国)
1953年(昭和28年)7月30日
日本プロレス協会設立(28歳)
1954年(昭和29年)2月19日 蔵前国技館3日間連続興行
力道山、木村政彦vsシャープ兄弟(NWA世界タッグ・チャンピオン)
日本テレビ、NHKが二元中継を行う。その模様は東京を中心とした関東一円の街頭テレビおよそ220台などでも放映され(テレビジョンの本放送開始は昭和28年暮)、全国的なプロレスブームが爆発するきっかけとなった。
なお、シャープ兄弟を日本に招聘したのは、NWAのプロモーターとしての力道山自身である。その後のプロレス日本興行をどのような企画で行い誰を呼ぶかを考え実行したのもすべて力道山である。
1954年(昭和29年)12月22日 巌流島の決闘
日本選手権試合で木村政彦7段(柔道家)を破る(東京・蔵前国技館)
1957年(昭和32年)10月7日
鉄人ルー・テーズ初来日、NWA認定世界ヘビー級選手権試合を戦う
61分3本勝負で時間切れ引き分け(東京・後楽園球場)
翌年8月27日インターナショナル・世界ヘビー級選手権試合で遂にルー・テーズを倒す(ロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアム)
1962年(昭和37年)3月28日
フレッド・ブラッシーの持つ新AWA認定世界ヘビー級選手権に挑戦してベルト奪取(ロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアム)。4月23日のリターンマッチ(東京都体育館・千駄ヶ谷) では、ブラッシーが得意の”噛み付き技”を力道山の額に加えて日本プロレス史上初の流血戦となった。
これを見ていた(テレビ放映)老人が一度に6人もショック死。その後の興行でも老人のショック死が相次ぎ、プロレスのテレビ中継規制が検討されるようになる。
1963年(昭和38年)12月4日
ザ・デストロイヤーがかけた”四の字固め”が力道山の足に絡まったまま、両者リング下に転落して引き分け。レフリー以下総出で足を外したが、2人のリングシューズの紐はボロボロに切れていたという。
1963年(昭和38年)12月8日 暴力団員に刺され15日死亡(39歳)
場所は、東京・赤坂のホテル・ニュージャパン地下のナイトクラブ<ニュー・ラテンクオーター>。凶器は、刃渡り13センチのナイフ。日本プロレス協会設立後10年目のことであった。
力道山殺傷の真相
2007年(平成19)になり、力道山を刺した実行犯、そして目撃者(支配人)の証言によって、事の真相が明らかにされた。それによると、事件は、ナイトクラブ内における二人の小競り合いから、全く偶発的におきたものという。当時言われていた、暴力団組織が関与したトラブル、あるいはCIAの陰謀説などは否定されている。
腹を刺したナイフ(刃渡り13cm)は、一旦その根元まで差し込まれたというが、ほとんど出血をみることはなかった。いかにプロレスラーが体を鍛えている(筋肉をつけている)かという証拠であろう。力道山は、応急処置を受けてそのまま自宅に帰り、刺した本人および関係者を交えて手打ちを行っている。事件を内々に済まそうとしたのである。
そして翌日、病状が悪化したため近くの産科病院に入院して治療を受け、流動食をとるまでに回復していた。一部で言われていたような、暴飲暴食が死の原因ではなさそうだ。ところが、15日午後になって腹部に異変が生じて容態が急変、外から呼んだ外科医の処置を受けたが、手術終了6時間後に死亡した。
なぜ、入院先に産科病院を選んだのか。それは、力道山がそこの病院長と親しく、事件を表ざたにすることを防ぐ目的があったとされている。そして、15日の手術そのものは成功したと家族に伝えられている。しかしながら、結局、その外科手術において、何らかの不都合が生じたことにより、死に至ったとしか考えられない。
例えば、再手術時の麻酔担当医の話として、気管内挿管に失敗したことで窒息死したという証言があるという。土肥修司 1993 『麻酔と蘇生』(中央公論社)(死因に関する外科医の証言)。Wikipedia力道山より
北朝鮮と力道山
1910年(明治43年)8月22日、韓国併合に関する日韓条約調印
1945年(昭和20年)8月15日、戦争終結の詔書放送(正午)
1950年(昭和25年)6月25日、朝鮮戦争勃発
1953年(昭和28年)7月27日、朝鮮休戦協定調印(板門店)
1959年(昭和34年)12月14日、在日朝鮮人・北朝鮮帰還第1船新潟出発
1961年(昭和36年)11月、北朝鮮からの連絡船内で次兄、娘と対面(新潟港)
1962年(昭和37年)4月15日、金日成主席50歳の誕生日高級乗用車を送る
1963年(昭和38年)1月8日、韓国訪問、国賓級の待遇を受ける
1963年(昭和38年)6月5日
盛大な結婚式、史上最大の披露パーティ(ホテルオークラ)
媒酌人:自民党副総裁・大野伴睦夫妻、京都府選出参議院議員・井上清一夫妻
力道山の娘さんが北にいるという。生年月日は1943年(昭和18年)2月2日である。力士時代の力道山は、戦時中、朝鮮半島などを巡業(皇軍慰問)して回ったとき、来日前に母親が決めていた結婚相手に会ったとされている。
参考文献
「力道山がいた」、村松友〓著、朝日新聞社、2000年、〓”示”偏に”見”
「夫・力道山の慟哭」、田中敬子著、双葉社、2003年
街頭テレビ
街頭テレビは、一般の人がテレビというものをほとんど知らなかった1953年(昭和28年)にテレビジョンの本放送開始と同時に登場した。日本テレビの社員(業務局事業部員4名)が関東一円を駆け回り、駅や公園、寺の境内などに設置して回り、その数は一時278台を数えた。
最初、プロ野球やプロボクシングで人気を呼んでいたが、これを熱狂的にしたのは1954年(昭和29年)に始まったプロレス中継である。同年2月、力道山の世界選手権試合において、東京・有楽町の日本劇場前に設置された街頭テレビ(27インチ)の画面には1万人近くが釘付けとなった。大通りまであふれかえった群衆のすぐ後ろを車がかすめていくような状況となり、日本テレビの担当者は「とにかく早く中継が終わってくれ」と祈っていたという。
テレビのある家庭
1953年、テレビ放送開始、3500世帯
1959年、皇太子ご成婚パレード、200万世帯
ときめきの叙景-3-、力道山と「街頭テレビ」、日本経済新聞社 2000.8.15(火)
2007/05/03(木)事件の真相、補足
1999/09/28(火)初出