電子書籍はsigil(EPUB編集ツール)で作ろう

Akimasa Net >> エストリビューターへの道

文章主体の電子書籍の作成にあたっては、EPUB形式(特にリフロー型)を採用するのが今や当たり前になっています。

EPUB形式のファイルは、Webとファイル構造がよく似ています。コードを埋め込んだテキストデータとスタイルシートを組み合わせることによって成り立っています。

したがって、テキストエディタでコードと文章を打ち込みながら、EPUBファイルを作成してしまう猛者がいるかもしれません。あるいは、アマゾンKDPでは、Wordで入稿すればEPUB形式(この場合、正確にはアマゾンKDP用のmobiファイル)にきちんと変換してくれるようです。

そうした中で、シンプルで美しいコードを生成できるのが「sigil」を使う方法です。

ただしここで、sigilはEPUB2にしか対応していないとされており、気になるところです。EPUB2(2007年)は米国を中心として使われてきた形式です。それに対して、縦書きやルビなど日本語の文章に適応させたEPUB3(2011年)の系統があります。縦書きの日本語の文章をsigilを使って作成することはできないのでしょうか。

一般社団法人日本電子出版作家協会(EWA)の代表理事・細田朋希さんは「私の電子書籍テンプレートは数百名の著者様に提供され、そこから販売された電子書籍の流通総数はすでに10万冊を超えます。もちろん6年間、一度足りとも、エラーやクレームが起きたことはありません」と言っています。

細田さんはsigilを使っています。確かにsigilはEPUB3に完全に対応しているわけではありません。しかし、sigilでも縦書きやルビなどに対応することができます。コードとスタイルシートを組み合わせることによって、縦書きやルビなどでもエラーの出ないEPUBファイルを作ることが可能となります。

細田さん自身は、EPUB2.01とEPUB3の混合EPUBを作成しているのだと言っています。もちろん、この混合EPUBファイルは、アマゾンKDPやKOBOに入稿するのに何の問題もありません。

細田さんは、EPUB3作成ソフトの中で「『一太郎』と『でんでんコンバーター』は機能、使いやすさ共に優れています」と認めています。その上で、EWAの電子書籍テンプレートは「ビジネスとして電子書籍を実践することに最適化されています」とも述べています。

「6年と3,000万円超の事業投資の末に完成した電子書籍テンプレートと最強製本ノウハウ」を基にして、sigilを使ってスピーディーでしかもクオリティの高い電子書籍を作ることを目指しているようです。必ずしもEPUB3完全準拠にこだわっているのではないということでしょう。

公開日時: 2016年2月22日 @ 19:38

貴殿の使い方に戸惑う

貴殿とは何ぞや

しばらく前に(2012年11月ころ)、ある方と文書のやり取りをする機会があった。まだ直接お目にかかったことのない方である。その方が私に対して、しきりに「貴殿」という言葉をお使いになるので、不快ですと申し上げた。

すると逆に、目上の方に対して礼をつくしているつもりなのに心外だ、という意味の反論をされたので困惑してしまった。私の方が年齢的に上らしいのである。

私が戸惑ったのには理由がある。それは、以前読んだ「超」シリーズ(野口悠紀雄著)の中に、「貴殿という言葉は決して使ってはならない」とあったのを覚えていたからである。しかし残念ながら、今はその本が手許になくて確認できない(後日入手、再確認、後述)。

貴殿(きでん)と殿(どの)の違い

岩波書店『広辞苑』第六版(CD-ROM版)で「貴殿」を調べてみると、「(尊敬の二人称)あなた、貴下」(一部略)とある。貴殿に関して否定的な記述はどこにもない。ただし、具体的な使用法についての記載は特になく、どのような場面で使うべきかについてはよく分からない。

ところで、私が「貴殿」という言葉に不快感を覚えるのは、野口悠紀雄著の影響というよりは、むしろ、貴殿の中の「殿」が気に掛かるからであろう。

そこで、殿や貴殿について、インターネットで少し検索してみた。

〇〇殿という言い方は、さすがに最近では、役所でもほとんど死語になったものと思われる。今では「様」書きが一般的である。

これとは反対に、「貴殿」は、現在でも役所などではごく一般的に使用されているとのことである。もちろん、肯定的な意味である。これには私も驚いてしまった。自分自身の勉強不足を恥じるばかりである。

これを機会に、私宛の過去の手紙(あるいは文書)やe-Mailを読み返してみると、「貴殿」という言葉が意外と一般的に使われていることに気付いた。この方とのやり取りが始まるまでは、実際には私自身あまり気に止めることはなかったのかもしれない。

引き続き、インターネットで調べてみる

私が貴殿を不快に思うのは、私の感覚がずれているからであろうか。引き続いて、インターネットで遊んでみた。

そうすると、「貴殿」という言葉を受け入れることができますか、といった意味のアンケートが出てきたりして面白い。ざっくりまとめると、反発する人半分、あまり気にならない人半分といった感じである。なおここでは、アンケート回答者の背景(年齢・性別そのほか)はよく分からない。

とは言うものの、ほぼ半数の人が貴殿という言葉に不快感を示している。「貴殿」という言葉の使い方は難しそうである。

さて、インターネットには野口悠紀雄著のことも出ている。それによると、『「超」文章法』中公新書(2002年)の中に、「「貴兄」、「学兄」、「貴殿」は、歳上の人に対して決して使ってはならない表現だ」という文章があるという。

そのほかでは、原典が示されていないので評価に迷う点はあるものの、筒井康隆のエッセイの中に「女房のお父さんから貴殿と言われたら、気分が悪い」という意味のことが書かれているともいう。

さらに、”ビジネスマナーと基礎知識”といった類のサイトを確認してみると、野口の主張とは正反対、あるいは異なる記述もみられる。

「貴殿・・・男性が、対等または目上の人に対して用いる。もとは相手への敬称として用いられていたが、現在は同輩に親愛の気持ちを表わす言葉としても、用いられるようになっているので注意が必要」。ビジネスマナーと基礎知識 >> 敬語の使い方・言葉づかい
www.jp-guide.net/businessmanner/business/keigo.html

貴殿の捉え方は、千差万別である

貴殿という言葉には、その意味の捉え方において、肯定派から否定派まであまりにも幅がありすぎると考えられる。つまり、それだけ使用法の難しい言葉であるといえる。

少なくとも私には、私なりの「貴殿の正しい使い方」を文章にまとめることはできなかった。自分なりにきちんと理解できていない言葉を、無理してまで使うことはないだろう。そこで私自身は、個人的には「貴殿」という言葉は決して使わないことに決めた。

そしてその後、「貴殿」という言葉に敏感になった私の元に、相変わらず「貴殿」は送り届けられ続けている。

インターネット時代の呼称を考える

現代はインターネット全盛の時代である。顔も合わせたことのない人とメール交換などをする場面は、今後益々増えてくることであろう。その時に、相手の方に対する呼称をどうするか、悩みはつきない。

私自身は、今回の件も踏まえて、仕事であるかプライベートであるかにかかわらず、〇〇様とするシンプルなスタイルを中心にやっていこうと考えている。

例えば、私が私のWebに関して、初めての問合せメールを出すとするならば、まず最初に、「Akimasa Net管理人・〇〇様(実名)」と書くであろう(注:「お問合せ」フォームには実名が表記してある)。

そしてその次に、自分の氏名を名乗った上で、本題に入るであろう。自分が何者であるかを明らかにしないで、相手の方とのやり取りはできないと考えるからである。

なお、ここでは、Web上(公開の場)のことではなく、電子メールなど(私信)でのことを言っている。

後日談

上記は原典に触れずに書いていた。県立図書館などで確認をすべきだったのだが、その時間が取れなかったからである。

数日後、野口悠紀雄著『「超」文章法』中公新書をアマゾンで入手した(新刊本)。第6版(2007年12月5日)であった(初版:2002年10月)。
さっそく本文を確認すると、「小生」と言うのはやめよう(pp.216–217)の項があり、以下のように書いてある。

「小生」は、辞書では「謙称」となっているが、実際には目下の人にあてた書簡文で使う表現だ。印刷される文書で使ってよい表現ではない。雑誌のエッセイなどで使っている人がいるが、傲慢に聞こえる。いまどき「拙者」と書く人はいないだろうが、ニュアンスとしては同じようなものである。「貴兄」、「貴学」、「貴殿」は、歳上の人に対して決して使ってはならない表現だ。

野口悠紀雄著『「超」文章法』中公新書(2002年)pp.216-217

なお、本書の副題は「伝えたいことをどう書くか」である。そしてその帯をみると、「目的は、感動させることではない、メッセージを確実に伝え、読み手を説得することだ」となっている。

現代において、「メッセージを(相手に)確実に伝え」、「(気持ちよく)読み手を説得する」には、インターネット時代にふさわしい新しい言葉使いが求められている、と言えるだろう。

松本清張『点と線』の中の「貴兄」

松本清張の原作をビートたけし主演で映像化したテレビ朝日開局50周年記念ドラマ(2007年)。その再放送をビデオに撮って見た。(2014/07/12)

番組の最後で、老境に入った元・警視庁捜査二課の三原紀一警部補と、元・福岡署の鳥飼重太郎刑事(3年前に死去)の娘が面会する場面がある。そこで、三原が鳥飼の娘に、その昔、鳥飼から三原宛に送られた手紙を読んで聞かせている。

手紙の中では、鳥飼が三原に対して「貴兄」という言葉を何度も使っている。警察官の階級として、どちらが上位なのか私には分からないが、年齢はもちろんのこと職歴でも鳥飼の方が上である。事実、別の手紙で、三原は鳥飼のことを「先輩」と呼んでいる。

したがって、先輩から後輩に向けて「貴兄」という言葉を使っていると理解される。

なお、このシーンは映画のためのものであろうか。原作にはないと思われる。

松本清張『砂の器』の中の「貴殿」と「小生」

「カメダは今も相変わらずでしょうね?」。国電蒲田駅(東京都大田区)近くのトリスバーで、客が話す東北弁らしい訛りのある言葉を何人かが聞いた。やがてそのカメダとは、東北の羽後亀田(現・秋田県由利本荘市)のことではなく、山陰の出雲亀嵩(島根県仁多郡奥出雲町)のことではなかろうかという疑いが強まった。奥出雲の方言もズーズー弁で、東北弁に似ていたのである。

『砂の器』には、出雲地方の方言が会話体でよく出てくる。その校正には、亀嵩算盤合名会社の代表社員などが協力した。そしてその後、亀嵩は『砂の器』映画化のロケ地となり、現地には「砂の器記念碑叙事」の碑も建てられた。

そうした深いつながりの中で、清張自身に亀嵩算盤を贈るということが実際にあったのであろうか。清張は『砂の器』の中で、亀嵩算盤合名会社の代表社員から、亀嵩算盤を小説の主人公である今西栄太郎(警視庁捜査一課の部長刑事、45歳)に送った時に添えられていた手紙という設定で、その内容を書き記している。そしてその中に、「貴殿」という言葉が出てくる。

亀嵩算盤合名会社の代表社員は、今西栄太郎よりは、年上の「老人」である。「貴殿」という言葉は、年上の老人から年下の刑事に向けて、敬意を込めた呼びかけとなっている。

なお、同じ手紙の中で、「小生不相変(あいかわらず)、雲州の山間にて逼塞(ひっそく)致し居り候」とも書いている。注:()内フリガナ。

最新:2014/07/12(土)
初出:2012/11/12(月)

上関原発を考える

2011年3月27日(日)14時~
上関原発を考える学習会「海と原発」
講師:佐藤正典(鹿児島大学理学部教授)
主催:廿日市・自然を考える会
場所:廿日市市あいプラザ3階講座室

同学習会に参加して、それまでに考えていたことも含めて自分なりの覚えのためにまとめてみました。つまり、これは決して講義録そのものではありません。また、もし内容に誤りや理解不足の点があれば、それはすべてWeb作者の責任です。

巨大地震発生と福島原発事故

東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)

2011年(平成23)3月11日(金)午後2時46分ごろ、東北地方の三陸沖を震源とする巨大地震(東北地方太平洋沖地震)が発生し、人的物的に甚大な被害をもたらしています。

この度の東日本大震災は、地震の規模を表すマグニチュード 9.0、日本の地震観測史上最大規模のものと考えられます。東北地方を中心に関東地方などで、非常に大きな揺れを観測しました。そして、高さ10mを越える大津波が、三陸沿岸部の広範囲に渡って押し寄せ、各地で壊滅的な被害をもたらしました。

警視庁がまとめた巨大地震による被害(YOMIURI ONLINE、読売新聞より)は、死者11,578人、行方不明16,451人(合計約2万8千人)、避難者170,433人となっています(2011年4月1日午前10時現在)。

この地震で犠牲となられた方々のご冥福を心よりお祈りいたします。そして、被害にあわれた皆様にお見舞い申し上げますとともに、一日も早い復興を祈念いたします。

西日本からエール!One for all, all for one.

福島原発事故

追加訂正(2011/07/10)

下記の文章は、主に2011年4月3日時点の情報をもとに書いています。しかしながら、福島原発事故の程度とその影響は、それまで知らされていたよりもはるかに深刻なものであることが、日々明らかになってきています。

原子力事故・故障の評価の尺度である国際原子力事象評価尺度 (INES)では、過去最悪の原子力事故は、チェルノブイリ原子力発電所事故(1986年、ソビエト連邦(現:ウクライナ))であり、そのレベルを「最悪のレベル7(深刻な事故)」としています。

しかしながら、福島原発の事故を受けて、国際原子力機関 (IAEA) では、レベル8の新設も検討されているようです。

日本における原発の「安全神話」は、だれが何のためにどのようにして作り上げてきたものなのでしょうか。今こそ、一人ひとりが原発とどう向き合うのか真剣に考え、そして自ら行動すべき時がきています。唯一の被爆国であり地震大国である日本の一市民として。

福島原発事故の伝えられ方(4月3日現在)

東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)によって、稼働中の福島第一原子力発電所(東京電力)の原子炉4基がすべて被災しました。

緊急時措置の第一弾として、原子炉を「止める」ために制御棒の挿入が自動的に行なわれました。それには成功したものの、第二弾目である原子炉を「冷やす」という作業は難航しています。最大の要因としては、地震と津波によって電気系統がすべて故障し、被災直後から冷却水を送ることができなくなったことがあげられます。

「冷やす」作業に手間取っている間に、放射能が建物外に漏れていることが分かってきました。福島原発周辺の土地や海水中から、国の基準値を大幅に上回る放射線量が記録されています。

さらに、建物内部には異常に放射線量が高い区域があり、復旧工事の妨げになっています。放射性物質をきちんと「閉じ込める」(第三弾)ことができていない(破損箇所がある)ようです。

現場では、自衛隊や警察・消防そして東電関係者など、多くの方々が日々決死の覚悟で作業をしています。フランスや米国といった外国の支援も検討されています。しかしながら、事故の今後の推移は予断を許さないようです。福島第1原発周辺で実施されている避難指示(半径20キロ圏内)および屋内退避指示(半径20~30㎞圏内)が解除される見通しは全くたっていません。(4月1日現在)

福島原発では、千年に一度の大地震でもなんとか「止める」ことはできた、と言えるのかもしれません。ただし、プルトニウムが検出されるなど、炉心が破損している可能性も完全には否定できなくなってきたようです。そして、次の段階である「冷やす」「閉じ込める」ことはできませんでした。

一度発生した原子炉事故を収束させることが、いかに困難なものであるか、残念ながら福島原発の現状が証明しています。地震大国・被爆国日本における原発のあり方について、危機管理体制の一元化はもちろんのこと、代替エネルギーや省エネ装置の開発も含めて、今こそ真摯な議論が求められています。

原子力発電を考える

原子力発電の位置付け

「でんきの情報広場」(電気事業連合会ホームページ)によると、「2010年3月末現在、日本では54基(合計出力4884.7万kW)の商業用原子力発電所が運転されています」。日本の総電力の3割以上が原子力発電によってまかなわれていると考えてよいでしょう。

それでは、総電力量を3割減らすことができれば、原発はいらなくなるのでしょうか。そして、そもそも総電力量の3割減は可能なのでしょうか。

今回の福島原発の事故を受けて、東京電力では計画節電をすることになりました。各企業がそれに対抗して節電をしたところ、短期的に20~30%単位の節電効果が得られた企業もあったようです。産業用電力に加えて各家庭における省電力を実施することによって、原子力発電に頼らない電力供給は可能なのかも知れません。

原子力発電からの完全撤退も視野に入れた代替エネルギーの研究(太陽光、風力や地熱など)、そして省エネの研究が急務となっています。電力事情の過去、現在そして未来の見通しについて、各種の学術的な研究成果が一般市民にも分かる形で公開されることが望まれます。

小出裕章先生(京都大学原子炉実験所・助教)の主張は、傾聴に値します。

  • 原発Nチャンネル14 原発なしでも電力足りてる(YouTube)
    http://www.youtube.com/watch?v=PLJVLul6Wz0
  • 小出裕章著書「隠される原子力・核の真実」出版記念講演
    (アクティブやない・山口県柳井市)
    http://stop-kaminoseki.net/koide20110320poster.pdf

原子力発電とは、お湯を沸かすこと

原子力発電では、核燃料を燃やしてその熱で水を水蒸気に変えます。そして、その水蒸気でタービン(回転羽根)を回して発電する仕組みになっています。水蒸気でタービンを回すという原理そのものは、火力発電と何ら変わるところはありません。

原子力発電の燃料は、放射性物質

「原子力発電は、CO2(二酸化炭素)を出さないので、環境にやさしいエネルギーだ」とするメッセージが執拗に流されています。温暖化の原因物質とされるCO2を排出する火力発電よりも、それを排出しない原子力発電の方がクリーンだというのです。キャンペーンには多くの有名人が登場しています。

しかし、原子力発電の最大の欠点は、原料として放射性物質を使用すること、そのものにあります。原子力発電によって産生される放射性廃棄物の処理は容易ではありません。原子力発電はほんとうにクリーンで安価なのでしょうか、様々な角度から検討し直す必要があるように思えてなりません。

原発では、日常の正常運転中でも、微量の放射性物質が大気中に排出されています。ところが、原発内での小さなトラブルは頻繁に起きているようです。もちろん、一度重大事故が起これば、その影響はとてつもない規模になります。

旧ソ連でのチェルノブイリ原発事故(1986年)では、炉心溶融(メルトダウン)が起きて、大量の放射性物質が大気中に放出されました。その処理に膨大な労力を要したため、旧ソ連崩壊の一因になったとも言われています。

原子力発電の熱効率は火力に比べて低い

原子力発電では、生成した熱の約1/3だけが電気エネルギーに変換され、残りの2/3のエネルギーは、廃熱として捨てられています(熱効率は約35%程度)。これに対して、最新の火力発電では、熱効率は約50%とされています。

つまり、原子力発電では、発電量の約2倍のエネルギーを何ら有効利用することなく捨てているのに対して、火力発電では、廃熱として捨てられるのは、発電量とほぼ同等ということになります。

原発は巨大な海の温め装置

原子炉および周辺装置を適切な温度に保つためには、大量の冷却水が欠かせません。そうしたことから、原子力発電所は、必ず海や河川あるいは湖のそばに建設されます。ちなみに日本では、全ての原子力発電所は海岸部にあり、しかもそのほとんどは、人口密度が低い地域に建てられています。

取水口から取り入れられた冷却水は、廃熱を受け取って温められます。そうした温廃水は、原発が稼働し続ける限り、毎日大量に海に放出されます。

地球温暖化の影響を考えるとき、原発から放出される廃熱の影響と、火力発電によるCO2(二酸化炭素)放出とでは、どちらがどの程度大きいのでしょうか。今一度検証されるべきです。

上関原発を考える

上関(鳩子の海)に原発建設計画浮上

山口県上関(かみのせき)町は、NHK連続テレビ小説(第14作)「鳩子の海」(1974年4月~1975年4月放映)の舞台となった町です。ドラマの内容について、Wikipedia(鳩子の海)は、「広島への原爆投下など、戦争のショックで記憶を失い、瀬戸内の港町(山口県熊毛郡上関町)で育てられた少女の放浪の軌跡を描いた」としています。

上関は、古くから瀬戸内海の海上交通の要衝として栄えてきた町です。そこに中国電力の原発(2基)建設計画が浮上したのは、1982年6月(昭和57)のことです。

中国電力では、これまでの約30年間にわたる反対派住民らの抗議活動にもかかわらず、1号機(2012年6月着工、2018年3月運転開始)、2号機(2017年度着工、2022年度運転開始)の計画実現に向けて周辺工事を進めています。

生物学研究者の3学会、要望書提出

こうした中で、生物学研究者の組織である3つの学会(日本生態学会、日本ベントス学会、日本鳥学会)の環境保全関係委員会は、広島国際会議場(広島市)において「瀬戸内海の生物多様性保全のための三学会合同シンポジウム」2010年1月10日(日)を開催しました。

上関原発建設計画に対しては、3学会合同でそれまでに合計10件の要望書を提出しており、このシンポジウムは、それらをまとめて一般に広く呼び掛けるために開かれました。

さらに、同シンポジウム後(2010年2月15日付け)、3学会合同の要望書(中国電力及び日本政府あて)が提出されています。そこでは、「上関原子力発電所建設工事の一時中断と生物多様性保全のための適正な調査」が求められています。

・上関原子力発電所建設計画に係わる海域埋め立て工事を一時中断すること。
・3学会から提出された要望書の内容に沿った適正な調査を実施すること。

その理由の第一として、同要望書では、「瀬戸内海西部の周防灘、とりわけ上関周辺海域は、瀬戸内海の本来の自然環境と豊かな生物相が今なお良く残っているという点において、たいへん貴重な場所である」としています。

代表的な希少種・絶滅危惧種としては、ヤシマイシン近似種などの巻貝類、カサシャミセン(腕足動物)、ナメクジウオ(原索動物)、ミミズハゼ類(魚類)、スナメリ(水棲哺乳類)、カンムリウミスズメ(鳥類)などがあげられています。

上関原発で周辺の海が温められる

上関原発では、改良型沸騰水型軽水炉2基を稼働させる計画になっています。したがって、廃熱を処理するため大量の冷却水を必要とします。ここで、冷却水の取水口と放水口の温度差は、7度Cと定められています。

7度Cの温度差を維持するために必要な海水の量は、2基合計で毎秒190トンにもなります。一か月間の取水量に直すと「10km×10kmの海域の水深5mまでの海水量に匹敵する」(佐藤正典、広島保険医新聞2010/04/10号)ことになります。非常に広範囲の海域で、温排水によって海水温が上昇することは避けられないでしょう。

また、冷却水として取り込まれた海水は、炉心近くの復水器を通過するとき、水温40度C以上にもなります。冷却水とともに取り込まれた「卵・稚仔及び動植物プランクトン」が、高温の廃熱で瞬間的に温められて死滅する可能性があります。

その他、フジツボなどがパイプラインに付着するのを防ぐために混入される次亜塩素酸ソーダの影響も心配です。

上関周辺の海は遠浅になっています。太陽光がよく届くことによって豊かな生態系が形成されています。瀬戸内海各地の浅瀬が埋め立てられた中で、瀬戸内海本来の生態系を保持しており、奇跡の海とも言われています。原発建設によってどのような影響があるのか、きちんとした環境アセスメントが欠かせません。

プロジェクトX~挑戦者たち~

プロジェクトX~挑戦者たち~とは

プロジェクトX~挑戦者たち~(NHK)という番組がある。非常におもしろく、いつも大きな感動を与えてくれる番組である。ただし、この番組に対しては、かなりの確率でクレームが寄せられているようである。

事実から離れて誇張しすぎた内容、あるいは事実関係の確認不足など、製作スタッフの勇み足が目立っている。それでもおもしろい番組だといえる。我が「団塊の世代一代記」にも何度も登場している。

サイト内関連ページ(プロジェクトX)

アンコール、「新幹線、執念の弾丸列車」
~老友90歳・戦闘機が姿を変えた~
2002年06月18日放送
東海道新幹線

アンコール「あさま山荘 衝撃の鉄球作戦」
2002年12月28日(土)放送
連合赤軍「あさま山荘」事件

第160回「衝撃のケネディ暗殺 日米衛星中継」
2004年11月30日(火)21:15~22:00放送
ケネディ暗殺と宇宙中継

アンコール「王が眠る、神秘の遺跡」
~父と息子・執念の吉野ヶ里~
2004年12月07日(火)21:15~22:00放送
吉野ヶ里遺跡

第172回「東洋一の巨大ホテル 不夜城作戦に挑む」
2005年05月17日(火)放送
現代に生きる「戦艦大和」の技術

プロジェクトX~挑戦者たち~(NHK)

2000年03月28日(火)第1回放送
「巨大台風から日本を守れ」
~富士山頂・男たちは命をかけた~

今も記憶に新しいあの社会現象、人々の暮らしを劇的に変えた新製品の開発、日本人の底力を見せ付けた巨大プロジェクト・・・。戦後、日本人は英知を駆使し、個人の力量 を“チームワーク”という形で開花させてきた。戦後日本のエポックメイキングな出来事の舞台裏には、いったいどのような人々がいたのか。成功の陰にはどのようなドラマがあり、数々の障害はいかなる秘策で乗り越えられたのだろうか。(同ホームページより)

キャスター:
国井雅比古(くにい・まさひこ)
膳場貴子(ぜんば・たかこ)
久保純子(くぼ・じゅんこ)
ナレーター:
田口トモロヲ(たぐち・ともろを)
番組テーマ曲:
中島みゆき(なかじま・みゆき)、作詞・作曲
主題歌(オープニング曲)「地上の星」
エンディング曲「ヘッドライト・テールライト」

テーマ曲は、オープニング、エンディングとも”中島みゆき”による書き下ろしである。また、彼女が、NHKのドキュメンタリー番組に曲を提供するのは初めてのことである。
(1952年02月、北海道札幌市生まれ)

中島みゆき

2000年07月19日、シングル「地上の星/ヘッドライト・テールライト」リリース
2002年09月、オリコン連続110週チャートイン(日本記録を達成)
2003年01月、連続チャートイン130週にして1位に輝く
2003年05月、連続チャートイン148週(日本記録達成)
2003年11月、連続チャートイン174週(日本記録)
第53回紅白歌合戦(NHKホール)
2002年12月31日初出場、「地上の星」を歌う
歌手別視聴率で堂々の一位(52.8%)獲得
司会、紅組・有働由美子アナウンサー、白組・阿部渉アナウンサー
総合司会、三宅民夫アナウンサー

2005/08/17(水)、初出

百ます計算|読み・書き・計算で学力再生

百ます計算(100マス、百マス)とは、小学生に確実な計算力を身につけさせるために考え出された教材(指導方法)である。算数の授業冒頭に行う「百ます計算」(10分間)によって、児童のやる気と集中力を飛躍的に高めることができるという。(百ます計算の考案者は岸本裕史先生)

この百ます計算をはじめ、各学年の一学期序盤で一年分の常用漢字を習得してしまう「漢字の前倒し」など様々な工夫をして成果をあげたのが、元兵庫県朝来町立山口小学校教諭・陰山英男さんである。(山口小勤務は1989~2003年)

教室の様子は、2000年10月31日、NHK「クローズアップ現代」で紹介され大きな反響を呼んだ。

隂山英男(正式な表記)先生

陰山英男先生(1958年兵庫県生まれ)は、2003年4月から広島県尾道市立土堂(つちどう)小学校の校長として赴任した。広島県による全国公募の校長第一号である。広島県教委では陰山校長就任と同時に、陰山校長と一緒に働くことを希望する教員を県内から募集した。これも全国で初めての試みである。

広島県では校長の自殺が相次いだ。

1999年(平成11)2月28日朝には、卒業式を翌日に控えた県立高校校長(58歳)が自殺している。自殺の原因として「日の丸・君が代」をめぐる対立が取りざたされている。

2003年(平成15)3月9日昼過ぎには、民間採用の小学校校長(尾道市内、56歳)が校舎内で自殺している。

民間採用校長(元広島銀行東京支店副支店長)のケースでは、学校運営に悩み配置転換を希望していたという。会社における縦ラインによる意思の伝達とは異なり、教員の場合には、校長としての自分の考えを一人一人に直接伝える必要があり、意思の疎通に困難を感じていたとも伝えられる。

土堂小学校は、文部科学省の「新しい学校運営」を探る研究校の指定を受けている。当然のことながら、教員の意識改革もその対象となる。陰山先生の豊富な経験と若さで広島県教育界に風穴をあけてほしいものである。

陰山先生のその後:

2006年04月:新設の立命館小学校副校長に就任
(兼務、立命館大学教育開発支援センター教授)
2006年10月:政府の教育再生会議委員に就任(2008年01月まで)
(安倍晋三首相の諮問機関)
2008年10月1日、大阪府教育委員(非常勤)に就任(2012年から委員長(非常勤))
2015年3月末にて辞職。

なお、隂山先生の苗字は、一部の日本語環境では表示できない場合がある、ということなので、本ページでは「陰山英男」と表記させていただいております。

宿題(基礎学力の構築のために)

さて、山口小学校では、以前から宿題をしっかり出している。目安は学年×15~20分である。かなり多いと思う。しかしこうしないと学習時間が圧倒的に足らなくなる。今や先進諸国の中で一番勉強時間が少ないのが日本だという。

陰山先生の本で、「教育技術MOOK・計算プリント」(小学館)の紹介文には、”新指導要領で削減された計算力を取り戻し、中学以降の学習でもつまずかない学力をつける”、とある。おそらく次のような背景(新指導要領による”ゆとり”教育)を指しているものと思われる。

小学校の筆算(掛算)では小数点以下1桁までしか扱わない。したがって、例えば円周率3.14を使った掛算を筆算でやってはいけない。この場合、電卓を使用する。そして驚くべきことに、中学校でも小数点以下2桁以上の筆算(掛算)を勉強する機会はない、という。

読み・書き・計算(基礎)を徹底してやることで、かえって時間的”ゆとり”が生まれる。だから週5日制には賛成だが、週末の過ごし方は家庭や地域でそれぞれが工夫すべき、というのが先生のお考えのようである。百ます計算は、決して受験勉強のためにあるのではない。ゆるぎない基礎を築いてこそ次のステップも見えてこようというものである。

現在最も深刻なのは、実は子供たちの≪生物として生きる力そのものが低下している≫ことである。学力だけでなく子供たちの体力もまた同様に低下しているのである。今こそ学校、家庭そして地域が一体となり、子どもたちと共に自分たちの暮らしぶりそのものを見つめなおす時にきている。

陰山英男著「学力はこうして伸ばす! 」学研(2005年)

子どもたちの基本的な生活習慣の乱れが全ての原因だ(アマゾンレビュー)
アマゾンレビュー、akimasa21、2005/9/10

陰山英男先生(1958年兵庫県生まれ)は、2003年4月から広島県尾道市立土堂(つちどう)小学校の校長として赴任した。 広島県による全国公募の校長第一号として、40才台半ばの若き校長先生の誕生だった。

今でも担任を持ちたいという根っからの教師の彼は、新天地においても小学校1年生からのそろばん指導や、英語学習など新しい工夫を次々と実践に移している。

その彼が言うには、(現在教育界が抱えている)「すべての問題は、子どもたちの基本的な生活習慣が崩れていることからはじまっている」のだという。例えば「百ます計算」を、(テレビを見すぎて)寝不足のまま朝ご飯も食べさせないでやらせたら、(子どもたちだって)キレますよ、といっている。

健全な家庭生活が根本にあってこそ学校における教育が成り立つ。保護者にそのことを納得させる覚悟を教師が持つことができるかどうか、「教育改革は社会改革だ」ととらえる彼の実践に期待し、そして支持してゆきたい。

付録のCD-ROM(学力向上キット)には、彼が今まで実践してきたことのエッセンスが惜しげもなく公開されている。小学校全漢字プリント、百ます計算プリント、算数要点プリント、あるいは若き日の授業風景ビデオなど。付録がこれだけ付いてこの価格はお買い得だ。

参考資料

陰山英男著「読み・書き・計算」で学力再生(新訂増補版)小学館(2003年5月)初版第4刷
「百ます」校長就任二ヶ月、中国新聞2003年6月2日
陰山英男著「学力はこうして伸ばす! 」学研(2005年)

お詫び:2003年08月14日
陰山英男先生のご苗字表記を間違えておりました。
なお現在も正字をコンピュータ上で正しく表記できておりません。
以上、深くお詫びしますとともにお許しいただきたく存じます。

2007年03月14日(水)追記
Wikipedia(陰山英男)の本文から、正字(隂山英男)をコピーさせていただきました。ただし、一部の日本語環境では表示できない場合があるそうです。

円周率3?

円周率はあくまでも3.14である(小数点以下二桁で表示する場合)

小学校の教科書では、円周率=3として計算することになった、という誤解はどこから生まれたのであろうか。調べてみると、〈新〉指導要領(2002年4月1日施行)においても、円周率として3.14を用いることに変わりはない。

ただし筆算で計算する場合、(掛算割算では)小数点以下一桁までしか取り扱わないことになったため、事実上、円周率3(または3.1)となってしまったのである。ちなみに、円周率3.14を用いた計算をするには、電卓を使うのだという。

こうしたことから、ゆとり教育=円周率3(でなければならない)という誤解が生じたようである。それにしても、この程度の計算で電卓に頼っていては、やはり日本国沈没である。

円周率=「3」と「ゆとり教育」

私はこのWeb内の別のコーナーで、円周率πを「3」にしようという「ゆとり教育」が始まる(新指導要領)そうだが、この教育方針が成功したとき日本国は確実に滅亡していることでしょう、という意味の文章を書いたことがある。

しかし、これは私の理解不足で少し不正確な文章であった。そこで以下のとおり改めて考察し直してみることにする。

〈新〉小学校学習指導要領(2002年4月1日施行)

円周率の学習をするのは小学校5年生になってからである。円周率π(小数点以下二桁で表示すれば〈3.14〉)を使って、円の面積(円周率×半径の二乗)や円周の長さ(円周率×半径×2)を計算するときは、当然のことながら小数点の入った掛け算をしなければいけない。

〈新〉小学校学習指導要領では、円周率や小数の乗除算についてどのような取扱いになっているのであろうか。確認してみると、文部省告示第175号(平成10年12月14日)には、平成14年4月1日(2002年)から施行するとして次のように書いてある。(算数、第5学年、内容の取扱い)

円周率としては、3.14を用いるが,目的に応じて3を用いて処理できるよう配慮するものとする

円周率としては、3.14を用いるが,目的に応じて3を用いて処理できるよう配慮するものとする。実はこれと全く同じ文章が、すでに〈旧〉学習指導要領(平成元年3月15日告示、平成4年4月1日施行)にも書かれていた。

その意味するところは、「3」という数字を使って、円の面積や円周の長さを簡単に概算できるということを示しているのであろう。きちんとした値を知りたければ、3.14を使って計算しなおせばよいだけの話である。何も問題はない。新指導要領でも円周率3.14に変わりはないのである。

小数の乗除計算では、1/10の位までの計算を取り扱うものとする

小数の乗除計算では、1/10の位までの計算を取り扱うものとする。〈新〉小学校学習指導要領では、(掛算割算において)小数点以下一桁までの数字しか取り扱わなくなった。ここに大きな問題がある。

新指導要領では、筆算でやる限り、小数点以下2桁まで含む円周率3.14を使用することは許されないのである。円周率は3または3.1(小数点以下一桁)でなければならない。ここの部分だけをとらえて、ゆとり教育=円周率3という「誤解」が広まったものと思われる。

それでは円周率3.14はどのように使うかというと、電卓を使った計算で用いるという。新しい教科書には、円周率を含め桁数制限を越える計算問題の個所には電卓マークが付いているのだそうである。

旧指導要領にも電卓使用について記載はあったが、その範囲は統計処理(大きな数を数多く取り扱う)などに限られていた。ところが、新指導要領では、電卓を使用すべき範囲を大幅に広げている。

なお、その他の桁数制限として、筆算で扱うのは整数部分の3桁×1桁、又は2桁×2桁まで、という制約もあるようだ。たかが整数部分3桁や小数点以下2桁の掛算まで電卓でやるようでは、小学生の計算力は落ちるばかりであろう。

混乱の責任はマスコミにもある

それにしても、こうした誤解(デマ)が広まるのに一部マスコミが手を貸してはいなかっただろうか。ことの本質を押さえてきちんとした報道をするという基本姿勢にかける行為は許されない。

基礎学力の低下は一国の将来を危うくする

基礎学力(読み書き算盤)の低下は一国の将来を危うくする。小学校6年を終えるまでに学ぶべき必要項目は何か、それにはどのくらいの時間がかかるのか。それらをきちんと把握した上で各学年にバランスよく割り振らなければいけない。その結果、多少「ゆとり」が無くなったとしても日本国が沈没するよりはましである。

2009/07/09補足
2002/12/28初出

キーワード:円周率3

算数ができない大学生

算数ができない大学生

あなたはこの問題が解けますか? 「小数」の入った四則計算問題です。中学生レベルだそうですから、気晴らしにちょっとやってみてください。

{1+(0.3-1.52)}÷(0.1)2 ←この「2」の位置はほんとうは上付きです。つまり、2乗です。

どうですか? 気晴らしになりましたか? 実はこれは、大学生の数学力を測定するために実施された問題の一部だそうです。結果は以下のとおりです。いずれも超一流大学の学生さんたちですよ。えー? まさか、「小数」点がどこか抜けてんじゃないでしょうね。(ちなみに、正解は、-22です)

誤答率(つまり、間違った人の割合、全て二桁の実数)

国立トップA大文学系類(数学非受験者を除く)、27%
国立トップB大文学部、25%
有力国立C大学経済学部、33%
有力国立D大学経済学部、38%
有力国立E大学経済学部、38%
私立トップF大学経済学部(数学で受験)、21%
私立トップF大学経済学部(数学非受験)、39%

追加(理工系)、正答率%

2003/08/14追加記載

国立最難関SA(理工)、91.4%
旧帝国大学SE(工)、66.6%
私立トップSA(理工)、79.6%
地方国立SJ(工)、66.1%
地方国立SK1(理工)、59.4%
地方国立SK2(生)、58.1%

参考資料

西村和雄京都大学教授、戸瀬信之慶応大学教授らのグループの調査(一部)
「大学生の数学力低下、深刻―学習時間減響く」
日本経済新聞、平成12年(2000年)1月25日付より
算数ができない大学生(理系学生も学力崩壊)
岡部恒治、戸瀬信之、西村和雄著、東洋経済新報社(2001年)

力道山-空手チョップの英雄

力道山と私

私が力道山の名前を知ったのは、たぶん1954年(昭和29)夏、小学校一年生のころである。場所は広島県安佐郡矢口(現広島市安佐北区)、電柱にポスターが張ってあり、そこには「りきどうやま」と書いてあった。つまり力道山に「りきどう」と振り仮名が振ってあり、「山」は自分の苗字の一部だから、すなおに「やま」と読んだものであろう。おそらくは力道山の広島巡業を知らせるポスターである。

我が家に初めてテレビ(白黒)が入ったのは、皇太子ご成婚パレードが放映された1959年(昭和34)ころで、超人気番組はプロレスであった。力道山が空手チョップで外人レスラーをやっつけるところを見ては歓声を上げたものである。実に単純な話であるが、当の力道山にとって事はそれほど簡単ではなかった。

力道山年譜

1924年(大正13年)11月14日生
出生地:北朝鮮咸鏡南道(本名、金信洛)
出身地:長崎県大村市(日本名、百田光浩)
1939年(昭和14年)
後の養父・百田己之助にスカウトされ朝鮮半島から単身日本に渡る
1940年(昭和15年)
二所ノ関部屋入門(昭21年入幕、24年関脇昇進)
横綱若乃花(初代)は弟弟子に当たる
1950年(昭和25年)9月2日
自宅で自ら髷(まげ)を包丁で切り落とし、相撲界を去る
通算成績135勝82敗15休、幕内在位11場所
(15休は、廃業直後の場所で、番付に四股名が残っていたため全休扱い)
1952年(昭和27年)2月3日
プロレス修行のため、羽田発飛行機でハワイへ出発、その後米国太平洋岸を転戦して、300戦295勝5敗(翌年3月6日帰国)
1953年(昭和28年)7月30日
日本プロレス協会設立(28歳)
1954年(昭和29年)2月19日 蔵前国技館3日間連続興行
力道山、木村政彦vsシャープ兄弟(NWA世界タッグ・チャンピオン)
日本テレビ、NHKが二元中継を行う。その模様は東京を中心とした関東一円の街頭テレビおよそ220台などでも放映され(テレビジョンの本放送開始は昭和28年暮)、全国的なプロレスブームが爆発するきっかけとなった。
なお、シャープ兄弟を日本に招聘したのは、NWAのプロモーターとしての力道山自身である。その後のプロレス日本興行をどのような企画で行い誰を呼ぶかを考え実行したのもすべて力道山である。
1954年(昭和29年)12月22日 巌流島の決闘
日本選手権試合で木村政彦7段(柔道家)を破る(東京・蔵前国技館)
1957年(昭和32年)10月7日
鉄人ルー・テーズ初来日、NWA認定世界ヘビー級選手権試合を戦う
61分3本勝負で時間切れ引き分け(東京・後楽園球場)
翌年8月27日インターナショナル・世界ヘビー級選手権試合で遂にルー・テーズを倒す(ロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアム)
1962年(昭和37年)3月28日
フレッド・ブラッシーの持つ新AWA認定世界ヘビー級選手権に挑戦してベルト奪取(ロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアム)。4月23日のリターンマッチ(東京都体育館・千駄ヶ谷) では、ブラッシーが得意の”噛み付き技”を力道山の額に加えて日本プロレス史上初の流血戦となった。
これを見ていた(テレビ放映)老人が一度に6人もショック死。その後の興行でも老人のショック死が相次ぎ、プロレスのテレビ中継規制が検討されるようになる。
1963年(昭和38年)12月4日
ザ・デストロイヤーがかけた”四の字固め”が力道山の足に絡まったまま、両者リング下に転落して引き分け。レフリー以下総出で足を外したが、2人のリングシューズの紐はボロボロに切れていたという。
1963年(昭和38年)12月8日 暴力団員に刺され15日死亡(39歳)
場所は、東京・赤坂のホテル・ニュージャパン地下のナイトクラブ<ニュー・ラテンクオーター>。凶器は、刃渡り13センチのナイフ。日本プロレス協会設立後10年目のことであった。

力道山殺傷の真相

2007年(平成19)になり、力道山を刺した実行犯、そして目撃者(支配人)の証言によって、事の真相が明らかにされた。それによると、事件は、ナイトクラブ内における二人の小競り合いから、全く偶発的におきたものという。当時言われていた、暴力団組織が関与したトラブル、あるいはCIAの陰謀説などは否定されている。

腹を刺したナイフ(刃渡り13cm)は、一旦その根元まで差し込まれたというが、ほとんど出血をみることはなかった。いかにプロレスラーが体を鍛えている(筋肉をつけている)かという証拠であろう。力道山は、応急処置を受けてそのまま自宅に帰り、刺した本人および関係者を交えて手打ちを行っている。事件を内々に済まそうとしたのである。

そして翌日、病状が悪化したため近くの産科病院に入院して治療を受け、流動食をとるまでに回復していた。一部で言われていたような、暴飲暴食が死の原因ではなさそうだ。ところが、15日午後になって腹部に異変が生じて容態が急変、外から呼んだ外科医の処置を受けたが、手術終了6時間後に死亡した。

なぜ、入院先に産科病院を選んだのか。それは、力道山がそこの病院長と親しく、事件を表ざたにすることを防ぐ目的があったとされている。そして、15日の手術そのものは成功したと家族に伝えられている。しかしながら、結局、その外科手術において、何らかの不都合が生じたことにより、死に至ったとしか考えられない。

例えば、再手術時の麻酔担当医の話として、気管内挿管に失敗したことで窒息死したという証言があるという。土肥修司 1993 『麻酔と蘇生』(中央公論社)(死因に関する外科医の証言)。Wikipedia力道山より

北朝鮮と力道山

1910年(明治43年)8月22日、韓国併合に関する日韓条約調印
1945年(昭和20年)8月15日、戦争終結の詔書放送(正午)
1950年(昭和25年)6月25日、朝鮮戦争勃発
1953年(昭和28年)7月27日、朝鮮休戦協定調印(板門店)
1959年(昭和34年)12月14日、在日朝鮮人・北朝鮮帰還第1船新潟出発
1961年(昭和36年)11月、北朝鮮からの連絡船内で次兄、娘と対面(新潟港)
1962年(昭和37年)4月15日、金日成主席50歳の誕生日高級乗用車を送る
1963年(昭和38年)1月8日、韓国訪問、国賓級の待遇を受ける
1963年(昭和38年)6月5日
盛大な結婚式、史上最大の披露パーティ(ホテルオークラ)
媒酌人:自民党副総裁・大野伴睦夫妻、京都府選出参議院議員・井上清一夫妻
力道山の娘さんが北にいるという。生年月日は1943年(昭和18年)2月2日である。力士時代の力道山は、戦時中、朝鮮半島などを巡業(皇軍慰問)して回ったとき、来日前に母親が決めていた結婚相手に会ったとされている。

参考文献

「力道山がいた」、村松友〓著、朝日新聞社、2000年、〓”示”偏に”見”
「夫・力道山の慟哭」、田中敬子著、双葉社、2003年

街頭テレビ

街頭テレビは、一般の人がテレビというものをほとんど知らなかった1953年(昭和28年)にテレビジョンの本放送開始と同時に登場した。日本テレビの社員(業務局事業部員4名)が関東一円を駆け回り、駅や公園、寺の境内などに設置して回り、その数は一時278台を数えた。

最初、プロ野球やプロボクシングで人気を呼んでいたが、これを熱狂的にしたのは1954年(昭和29年)に始まったプロレス中継である。同年2月、力道山の世界選手権試合において、東京・有楽町の日本劇場前に設置された街頭テレビ(27インチ)の画面には1万人近くが釘付けとなった。大通りまであふれかえった群衆のすぐ後ろを車がかすめていくような状況となり、日本テレビの担当者は「とにかく早く中継が終わってくれ」と祈っていたという。

テレビのある家庭
1953年、テレビ放送開始、3500世帯
1959年、皇太子ご成婚パレード、200万世帯

ときめきの叙景-3-、力道山と「街頭テレビ」、日本経済新聞社 2000.8.15(火)

2007/05/03(木)事件の真相、補足
1999/09/28(火)初出