灯ろう流し(原爆慰霊行事)

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灯ろう流し(とうろう流し)とは

広島市内の川で、毎年8月6日から3日間行われる「灯ろう流し(とうろう流し)」は、原爆慰霊行事としてすっかり定着している。灯ろう(とうろう)には、亡くなった方の名前 (法名または俗名)と、流した人の名前(施主名)を書き込むのが通例である。

最近の灯ろう (とうろう)は、国内外の旅行者や慰霊に来られた方々が、具体的な慰霊者名ではなく、一般的な「平和への思い」を書いて流すケースも目立つようである。遺族・関係者による「慰霊」に対して、「ピース・メッセージ」といった方がよいのかもしれない。

実際に身内を原爆で亡くした人々と、平和を祈念して外部から行事に参加する人々とでは、埋め難い意識の差があるのは事実かもしれない。しかし、共に手を携えて恒久平和を願い続けたいものである。

2002年8月6日(平成14)夜7時半ごろ、いつもより少し早く帰宅の途についた。いつものように相生橋に差し掛かるとかなりの人出である。屋台まで出ているようである。今日は57回目の原爆の日、川では灯ろう流し (とうろう流し、午後6時~午後9時)の真っ最中だろう。

灯ろう(とうろう)の作り方

灯ろう(とうろう)の作り方そのものは非常に簡単である。まず、浮き台となる20cm前後の木片を用意して十字型に組む。次に、木片の四隅の先端に竹を立て、それを色紙で囲う。そして、底板(十字型)の中央に立てたロウソクに火を灯す。そうすると、色紙に書いたそれぞれの “思い” が浮かび上がる仕組みである。

1945年8月6日午前8時15分

世界初の原子爆弾が広島に投下されたのは、1945年8月6日(昭和20)午前8時15分である。爆心地は相生橋(爆撃の目標となったT字型の橋)付近であった。辺り一面は灼熱の地獄と化し一瞬にして多くの人々が死んでいった。かろうじて生き残った被災者の多くが水を求めて川へ身を投げ出し、そして、そこで命を落とした。数多くの遺体が川に浮かび伝馬船が通るのも困難であったという。

広島の灯ろう流しは戦後始まった

70年間草木も生えないと言われた広島市内中心部に、昭和23~24年ごろにはバラック建ての商店街が建ち始めている。そしてその頃、遺族をはじめ関係者が、原爆で亡くなった人たちの供養のため手作りの灯ろう (とうろう)を川に流し始めた。

広島の「灯ろう流し(とうろう流し)」はこうして戦後始まったものである。すなわち、全国各地でお盆の終わりの日(送り盆)に行われる精霊流しとは起源を異にするものらしい。ただし、基本的な土壌としては、広島地方の「安芸門徒」特有の「盆灯ろう」(ちょっと派手ですね)があると思われる。

なお、最近では、元安川で行なわれている「とうろう流し」は、主催:とうろう流し実行委員会(広島祭委員会、広島市中央部商店街振興組合連合会)によってボランティアで運営されており、申込み「代金」は、とうろう購入費、設営費、流灯船代、警備費、清掃費として使われているという。流した灯ろうの回収など環境問題を考えると組織だったものにしないと統制が取れないということのようである。

ちなみに、灯ろうの数は最盛期(昭和35~36年ごろ)には市内6つの川で8月6日から3日間で約2~3万個、現在でも、約1万個の灯ろうが6つの川の十数ヶ所から流されているそうである。

参考資料

8月6日とうろう流し(とうろう流し実行委員会)
インターネット灯ろう流し(NPO法人・シニアネットひろしまなど)
8月6日の夜「灯ろう流し」(圓龍寺・広島市中区寺町)
キーワード:灯ろう流し(とうろう流し)、広島

なお、圓龍寺さんからは、プライベートメッセージをいただいています。

2002/08/09最新
細部にわたって加筆修正
2002/08/06
ファイル紛失のため書き直し
2000/07/22初出

山本明正(やまもと あきまさ)

1970年3月(昭和45)徳島大学薬学部卒(薬剤師)
1970年4月(昭和45)塩野義製薬株式会社入社
2012年1月(平成24)定年後再雇用満期4年で退職
2012年2月(平成24)保険薬局薬剤師(フルタイム)
2023年4月(令和5)現在、保険薬局薬剤師(パートタイム)