ヨット(堀江健一と私)

2022年6月4日(土)
堀江謙一さん、おめでとう!
世界最高齢83歳でヨットによる単独無寄港の太平洋横断成功

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新潟ではじめてヨットに乗る

1972年(昭和47)入社3年目のころ,私は初めてヨットに乗った。場所は鳥屋潟(とやのがた)という新潟市内にある潟(水溜り,池)である。水深は浅く水は濁っており、所々藻が密集しているような小さな湖であったが、そこに貸しヨット屋があった。

船長帽をかぶった品のいいおじいさんが経営していて、持ち船はたった1艇のヨットだけだった。横浜から持ってきたというその艇は、セールこそ古ぼけていたが、木製のなかなか風格のある艇であった。メインセールに「鴫(しぎ)」のマークがついている、スナイプ級という2人乗りのディンギーである。

スナイプ級は、学生・実業団で多く使用されおり、国体採用艇にもなっている。堀江謙一さんも高校時代の3年間は、スナイプに乗りっぱなしだったようである。

さて、私を連れていってくれたのは、得意先の先生であった。実際にヨットに乗ると、前に進むのに、右へ行ったり左へ行ったり(タッキングの繰り返し)するものだから、初めての私は、最初から最後まで、ヨットがどこをどう進んでいるのか全く分からなかった。

2夏連続で新潟から鎌倉のヨットスクールに通う

水溜りでのヨット遊びに物足らなくなった私たち2人は、夏休みをとり、夜行列車に乗って鎌倉のヨットスクールに入校した。3泊4日くらいのコースであったと思う。使用艇は「Y-15」という2人乗りのディンギーで、設計者は横浜のヨットデザイナー、横山晃である。

鎌倉から帰ってからは、鳥屋潟にももちろん通ったが、海にも出かけた。新潟の海にも貸しヨットがあった。艇種は覚えていないが、「Y-15」とほぼ同じ程度の艇であった。港から狭い防波堤の間を抜けて外海に出るまでの操船は、先生の役目であった。

新潟の夏の海は、ディンギーには最高である。夏の南風が陸から吹くので、波が立たないのである。海はきれいで風の強さも適当である。多分、通常は5m/秒程度であろう。

湘南の海もいい。しかしながら、海風が、遠く太平洋から吹いてくるので、うねりがきついことがある。それに、海岸近くでは海も汚れている。

さて、次の年の夏、私たちは再び鎌倉に出かけた。今度は、同じヨットスクールの1週間コースに入校するためで、またまた夜行列車で出かけた。集合時間前に朝食をとるために入った喫茶店で、「堀江謙一、再び単独無寄港世界一周へ挑戦」というような新聞記事が目に飛び込んできた。

1973年8月4日(昭和48)土曜日のことである。出港したのは8月1日だが、新聞発表は抑えられていたのである。(翌年、昭和49年5月4日無事忠岡港に入港して、単独無寄港世界一周を達成)

東京転勤となりヨットクラブに入会する

1974年10月(昭和49)、私は東京へ転勤になった。年が明けて春になってから、このヨットスクールを開催していたクラブに入会した。実は、このクラブの設立には、堀江謙一さんも関係していたそうであるが、詳しいことは知らない。

クラブ会員の活動拠点は江ノ島ヨットハーバーで、東京オリンピック(昭和39年)のときに造られたものである。使用艇は「Y-15」で、夏の通常シーズンのみならず冬場の自主練習にも参加した。私の活動時期は、東京・横浜時代の4年間と、そのあとの転勤先である甲府から通った1年間の合計5年間である。後半には、Y-15級全日本選手権に2年連続で出場した。

広島に帰ってきてからは、ヨットに乗る機会はほとんどなかった。会社の同僚や息子と3~4回貸しヨットに乗ったくらいである。江ノ島時代の仲間には、その後クルーザーに移った人も多い。年賀状で塩気たっぷりの便りに接するのはとても楽しい。

堀江謙一の冒険

堀江謙一(ほりえ・けんいち)

身長158cm、体重55kg

昭和13年(1938年)9月8日、大阪市港区生まれ
昭和29年(1954年)関西大学第一高等学校(関大一高)入学
ヨット部に入り、初めてヨットにさわる
昭和32年(1957年)関大一高卒業、社会人となる

昭和37年(1962年)23歳、マーメイド号
日本人初の小型ヨットによる太平洋横断(94日間)
シングル・ハンドでの太平洋横断は世界初である
マーメイド号(太平洋ひとりぼっち)
スループ艇
全長5.83m、水線長5.03m、幅2.00m
設計者:横山晃

昭和47年(1972年)34歳、マーメイド2世
東回り単独無帰港世界一周をめざして失敗(マスト切断)
出港わずか8日目にてリタイアする
マーメイド2世(単独無寄港世界一周失敗)
変形リグ(逆V字型マストが前後に1本づつ、帆は4枚)
全長7.25m、水線長?、幅2.50m
設計者:加藤木俊作
造船所:淡路ヨット製作所

昭和49年(1974年)35歳、マーメイド3世
単独無寄港世界一周(西回り275日13時間10分)
マーメイド3世(単独無寄港世界一周成功)
スループ艇
全長8.80m、水線長7.00m、幅2.80m
設計者:林賢之輔、村本信男、加藤木俊作
造船所:淡路ヨット製作所

マーメイド(人魚)とは敷島紡績(株)のトレードマーク。堀江謙一が太平洋横断のとき、唯一寄付を受けたのが同社より提供されたメインセール(人魚のマーク入り)で、船名もそのままマーメイドとした。

太平洋ひとりぼっち

1962年(昭和37)

5月12日西宮出発(乗員は堀江のみ)、8月12日サンフランシスコ到着。所要日数94日間、日本人初の小型ヨットによる太平洋横断に成功する。なお、シングル・ハンド(一人乗り)による太平洋横断は、この時の堀江が世界で初めてである。

使用艇は、マーメイド号。キング・フィッシャー型19フィート(5.83m)のスループ艇(設計者:横山晃)で、1本マストのオーソドックスな艇である。だが、素人目には、果たしてこのヨットで太平洋???どころか外洋にでるのさえ危ないのではと思えるほど小さなヨットである。堀江謙一の、この艇で「太平洋横断は可能か」という問に対して、横山晃は可能と答え、加えてマストを現設計より10%短くするようアドバイスした。

小型ヨットによる太平洋横断、そしてそのためにパスポートを発給することなど、当時の日本では全く考えられない状況であった。彼は合法的に出国するため計画実行直前まであらゆる可能性をさぐった。しかし、結局はパスポートを持つことなくひっそりと“密出国”した。

彼の冒険はアメリカでは画期的壮挙として高く評価され、サンフランシスコ(市長ジョージ・クリストファー氏)名誉市民のカギを贈られる。これに呼応する形で日本の関係官庁は、彼の非合法的な出国に対して寛大な処置をとることを決定した。当初は、強制送還、即逮捕ということまで言われていたのである。

「海の勇者賞」受賞(サンレモ市、イタリア)

昭和39年(1964年)夏、栄えある第1回受賞者となる。ちなみに、第2回受賞者はフランシス・チチェスター卿、第3回受賞者はトール・ヘイエルダール博士である。注)3回までで終わったらしい。

第2回受賞者
フランシス・チチェスター卿(イギリスの海洋冒険家)
1967年5月、ジプシー・モス号で単独世界一周に成功する
東回り(シドニー寄港)275日間(実際の航海は226日間)

第3回受賞者
トール・ヘイエルダール博士(ノルウェーの人類学者)
1970年、葦船ラー2世号(あしの茎で作った帆船)で大西洋横断に成功。これより先、1947年古代人の筏「コンティキ号」でペルーからポリネシア群島へ航海し、ポリネシア文化のペルー発祥説を主張したことでも有名。

単独無帰港世界一周

1972年(昭和47)失敗

11月12日(第1日目)午後1時
大阪・淡輪港を出発(東回り世界一周をめざす)
11月14日(第3日目)午前9時ころ
マストに亀裂が入っているのに気付く。セールをおろして1~2時間後、逆V字型マストが前後に1本づつあったうちの後部マスト完全に切断。
11月17日(第6日目)
前部マストも折れる
11月19日(第8日目)
海上保安庁へ救助要請
11月20日(第9日目)午後2時50分
巡視艇による曳航開始。三重県・鳥羽港に入港
(出港からわずか8日間で失敗に終わる)
失敗の原因の一つに変形リグの採用があげられている。逆V字型のマストが前後に1本づづ、合計2本で帆は4枚というこのヨットの設計者は加藤木俊作、長崎造船大学船舶工学科を卒業したばかりの大阪のヨットデザイナーであった。

出発時の様子
岸壁を埋める2000人の群集
空には10機前後のヘリコプターや軽飛行機
美人からの花束贈呈
50隻ほどのヨット、漁船、モーターボートが港外まで付き添い見送り
しかし、失敗によりマスコミを先頭にした袋叩きに合う。

1973年(昭和48)再出発

8月1日(第1日目)午後11時45分
淡路島・生穂港を出発(西回り世界一周をめざす)
9月8日(第39日目)
35歳の誕生日
11月2日(第94日目)
喜望峰を回る(太平洋から大西洋へ)
1974年(昭和49)成功 Edit

1月5日(第158日目)
ホーン岬を回る(大西洋から太平洋へ)
5月4日(第277日目)午後12時55分
大阪湾・忠岡港に到着
注:出発時帰港地として予定していた淡輪港は工事で閉鎖中
マーメイド3世は、ふたたびオーソドックスなスループ艇とした。設計したのは、横山晃の弟子2人に前回の設計者を加えた合計3人で、共同設計の形をとっている。なお造船所も前回と同じ所を使っている。皆をもう一度男にしてやりたいという堀江一流の男気であろう。

小型ヨットによる単独無寄港世界一周航海は日本人初である
世界では3番目だが、艇の大きさは最も小さく所要日数は最も短い
難易度の高い西回りであることを考えるとその価値は非常に高い
なお、西回りでは、ホーン岬で逆潮になるのでその分むつかしい
今回の航海では、妻のほか数人の見送りを受けただけで出発し
帰港時には忠岡町長を代表とする大歓迎を受けた

それまでの単独無寄港世界一周記録
ロビン・ノックスジョンストン(イギリス人)当時30歳
1969年4月、東回り単独無寄港世界一周(312日間)
チャイ・ブレイス(イギリス人)当時31歳
1971年8月、西回り単独無寄港世界一周(293日間)

参考資料

堀江謙一著「太平洋ひとりぼっち」(ポケット文春版)、文藝春秋(1962年)
堀江謙一著「マーメイド三世」朝日新聞社(1974年)
堀江謙一著「マーメイド号(挫折と栄光の全記録)」講談社(1974年)
堀江謙一著「世界一周ひとりぼっち」立風書房(1977年)
本多勝一著「冒険と日本人」実業之日本社(1972年)
沢木耕太郎著「若き実力者たち-現代を疾走する12人-」文藝春秋(1973年)

2002/12/30構成を多少変更
1999/10/02初出

山本明正(やまもと あきまさ)

1970年3月(昭和45)徳島大学薬学部卒(薬剤師)
1970年4月(昭和45)塩野義製薬株式会社入社
2012年1月(平成24)定年後再雇用満期4年で退職
2012年2月(平成24)保険薬局薬剤師(フルタイム)
2023年4月(令和5)現在、保険薬局薬剤師(パートタイム)