米国同時多発テロ事件

私は米国同時多発テロ事件をテレビで目撃した

私は米国同時多発テロ事件をテレビで目撃した。2001年9月11日、家に帰ってテレビをつける(NHK夜10時のニュース)と、飛行機事故だという。世界貿易センタービル(ツインビル)北棟の上部階から黒煙が立ち昇っている。

飛行機がニューヨークのビル街のど真ん中に墜落するようなことがあるのだろうか。もし機体などにトラブルが発生したとしても必死で海まで操縦していくのではないだろうか。と、思い巡らすまもなく飛行機がビルの真正面にぶっつかる映像が映し出された。事故の再現ビデオではない。別の飛行機が、今度はツインビル(世界貿易センタービル)の南棟へ突っ込んでいく瞬間をとらえたものであった。

事故ではない。事件だった。同時多発テロ事件とその報復としてのアフガン戦争はこうして始まった。

世界貿易センタービル・北棟

1970年完成、110階建て、高さ約420m
衝突場所、96~103階
衝突時間、午前8時45分(日本時間午後9時45)
倒壊時間、午前10時28分

世界貿易センタービル・南棟

1972年完成、110階建て、高さ約420m
衝突場所、87~93階
衝突時間、午前9時03分(日本時間午後10時03分)
倒壊時間、午前10時05分

参考資料

米国東部時間(日本時間-13時間)
また、上記の数値については資料によって細かな異同があり、完璧なものではありません。

ニューヨーク・ツインタワービルの崩壊 /JST失敗知識データベース/科学技術振興機構(JST)

アポロ計画

アポロ11号、人類初の月面着陸成功(1969年)

アポロ11号のニール・アームストロング船長が、1969年7月20日(昭和44)、月着陸の第一歩を印した。アポロ11号の月面着陸の様子はテレビで実況中継され、世界中の6億人が見つめた。この時、私たちの大学では遅れてきた大学紛争の真っ只中であった。

月と地球の距離

地球(直径1万2千km)の大きさを〈バスケットボール〉に例えるならば、月(直径3,480km)の大きさは〈野球のボール〉程度になる。そして両者は、約7m(実際距離、約38万km)離れているということになる。

旧ソ連:人類初の人工衛星(1957年)

戦後、宇宙開発競争の幕が切って落とされ、米国は旧ソ連に遅れをとってしまった。

  • 1957年10月4日(旧ソ連)、スプートニク1号(人類初の人工衛星)
  • 1957年11月3日(旧ソ連)、スプートニク2号(ライカ犬、初の生物飛行)
  • 1958年1月31日(米国)、エクスプローラ1号(米国初の人工衛星)
    参考:1970年2月11日(日本)、おおすみ(日本初の人工衛星)

米国:NASA(アメリカ航空宇宙局)設立(1958年)

米国は、1958年、旧ソ連に追いつくためNASA(アメリカ航空宇宙局)を設立した。そして、「有人宇宙飛行」計画(マーキュリー計画)を発表した。しかし、またしてもタッチの差で旧ソ連に遅れをとった。

  • 1961年4月12日(旧ソ連)、ボストーク1号(人類初の有人宇宙飛行)
    ガガーリン少佐、地球は青かった、地球の大気圏外を1時間48分で一周
  • 1961年5月5日(米国)、マーキュリー3号(米国初の有人宇宙飛行)
    アラン・シェパード、弾道飛行(15分28秒)
  • 1962年2月20日(米国)、マーキュリー6号(米国初の軌道周回飛行)
    ジョン・グレン中佐、地球上100マイル(約160km)、1周90分で3周する
    自動操縦装置の故障などを手動操作で乗り切って無事帰還したヒーロー
    77歳でスペースシャトルに搭乗した(史上最高齢)
  • 1963年6月16日(旧ソ連)、ボストーク6号(史上初の女性宇宙飛行士)
    ワレンチナ・V・テレシコワ、私はカモメ、地球を48周(飛行時間71時間弱)

ケネディ大統領:アポロ計画を発表(1961年)

人類初の「有人宇宙飛行」を巡って、米国はタッチの差でまたしても旧ソ連に遅れをとった。しかし、このマーキュリー3号の成功を受けて、当時のアメリカ大統領ケネディは、アメリカ連邦議会特別両院合同会議で演説(1961年5月25日)、アポロ計画(1960年代が終わるまでに、人類を月に送り込み無事生還させる)を発表した。

米国は、アポロ計画(3人乗り宇宙船、月面着陸)の前にジェミニ計画(2人乗り)を実施、65年から66年にかけて10機を打ち上げて、月着陸のための訓練としてランデブーやドッキングなどの実験を確実にこなしていった。

以下、宇宙情報センター解説によると、

「アポロ計画」は、本来、有人宇宙船を月軌道上にのせる計画でした。しかし、1961年のケネディ大統領(当時)の演説により、月面に有人宇宙船着陸を成功させる計画に変更されました。アポロ計画では最後の17号まで合計6回の月面着陸に成功(当Web作者注:11~17号、但し13号を除く)し、12人の宇宙飛行士を月面に送りました。

アポロ13号、奇跡の生還(1970年)

アポロ13号は、NASAで3度目の月着陸を目指すが、月への軌道途中で「司令船」の酸素タンクが爆発するという大事故を起こす。それは、宇宙飛行士の生命をもおびやかすような重大なトラブルであった。

当初予定の月着陸はもちろん中止、月を回って無事地球に帰還することが最大の目的となる。クルーはもちろんのこと、NASA官制室や宇宙船関連メーカーなど多数の人々の必死の努力によって、その目的は達成された。

なお、アポロシリーズの宇宙飛行士は3名。月着陸時は、そのうち2名が「月着陸船」に乗り込み、残る1名が「司令船」で月軌道を回りながら待機することになる。その他、宇宙船には支援船を接続している。

1970年(昭和45)4月17日

4月11日(土)

ヒューストン時間13時14分
打ち上げ

4月13日(月)

ヒューストン時間21時8分
トラブル発生
打ち上げ後、2日と7時間54分

トラブルが発生した時、アポロ13号は月に向かう軌道上にあった。あと24時間足らずで月に達するという距離である。このまま何の処置もしなければ、月を回って再び地球を目指すコースは取るけれども、地球(直径1万2千km)からは約7万2千kmも離れたところを通りすぎてしまう。生還の望みはない。

なんとしても、アポロ13号を自由帰還軌道(月を回って地球に帰る軌道)に乗せなければいけない。しかし、トラブルによって、「司令船」の電気系統、制御装置そしてコンピュータといったあらゆる装置に甚大な被害を生じていた。NASA司令室は、「月着陸船」を救命ボートとして利用することを決定する。

月着陸船は、いうまでもなく月着陸用の装置であり、月着陸のメンバー2人が45時間生きてゆけるように設計されていた。地球に帰還するまで、今から77~100時間かかる。しかも、クルーは全部で3人である。酸素は、電力は、そして水は、はたして足りるのか。

最後の難関、大気圏再突入はどのようにしたらよいのか?
通常なら、再突入チェックリストを書き上げ、シミュレーターでテストし、欠陥を排除するには三か月かかる。それを今回ヒューストンのスタッフは二日足らずでやらなければいけない。

その他もろもろの困難を乗り越えて、3人は無事地球に帰ってきた。

4月14日(火)

2時40分、自由帰還軌道投入のため月着陸船のエンジン噴射。
18時21分、地球との交信不能圏(月の裏側)に入る
20時40分、2度目の噴射―PCプラス2噴射―すなわち、月を回って、月の裏側の「近月点(月にもっとも接近する点」を通過してから2時間後の噴射のこと。

4月15日(水)

10時半過ぎ、軌道(大気圏突入コース)修正のため月着陸船のエンジン噴射

4月17日(金)

7時15分、支援船切り離し
9時台、司令船の航行システムをコンピュータまで含めて完璧な状態で生きかえらせる。月着陸船切り離し。
11時43分?、南太平洋上に着水。

参考資料

  • 「人類、月に立つ(上・下)」アンドルー・チェイキン著、亀井よし子訳、NHK出版(1999年)
  • アポロ13号/JST失敗知識データベース/科学技術振興機構(JST)

日本赤軍・重信房子容疑者逮捕

Yahooニュース:2022/05/28 8:20配信
「国際テロ組織日本赤軍の元最高幹部で、「国際テロの魔女」と呼ばれた重信房子(76)さんが懲役20年の刑期を満了し出所した」。

日本赤軍・重信房子容疑者逮捕

警察庁が逮捕監禁容疑で国際手配していた日本赤軍リーダーの重信房子容疑者(55)が潜伏先の大阪府高槻市内で逮捕された。数多くのテロ事件を起こしてきた日本赤軍だが、リーダーを失ったことで組織は事実上壊滅状態に追い込まれたものとみられる。佐賀新聞 2000年11月09日より

逮捕容疑は1974年9月、オランダ・ハーグのフランス大使館を占拠、大使らを人質に取ったというものである。

日本赤軍は、1971年、新左翼の共産同赤軍派幹部だった重信房子容疑者が革命拠点を海外につくる「国際根拠地論」を掲げレバノンに出国、結成した。同じ赤軍派から分かれた連合赤軍が、リンチ殺人や浅間山荘事件(72年)など国内での過激な実力闘争を展開したのに対し、日本赤軍は中東を拠点にパレスチナゲリラとの連携を深め勢力を拡大していった。

72年のロッド(現ベングリオン)空港乱射事件をはじめ次々とテロ事件を起こし、クアラルンプール米大使館占拠事件(75年)とダッカ日航機ハイジャック事件(77年)では超法規的措置で日本国内に拘置中のメンバーら計11人を釈放させた。

しかし、冷戦構造の崩壊後は活動範囲が狭まり、95年以降、今年3月に強制送還された4人も含め計8人が欧州や南米などで身柄を拘束されている。なお、赤軍派の起こした事件としては、70年の日航機<よど号>ハイジャック事件がある。この事件のメンバー9人もまた逮捕や死亡で4人にまで減少している。(以上、佐賀新聞の記事を中心にまとめた)

これらのグループのリーダー層は団塊の世代より少し上の年代であるけれども、中核メンバーは団塊の世代そのものである。21世紀を目前にして、あれから早30年あまりの年月が経過している。同世代の人間は社会人生活30年を経て、会社ではすでに役職定年を向かえつつある。これに対して、その間の彼等の努力はいったい何だったのだろうか。何とも言えない寂しい気持ちになってしまう。

日航機「よど号」ハイジャック事件

1970年3月31日午前7時40分(昭和45)、富士山南側上空で日本初のハイジャック事件が起きた。過激派(赤軍派)学生9名による羽田発福岡行き日航機351便(よど号)乗っ取り事件である。北朝鮮に渡った犯人たちは金体制の中で日本人拉致にも関与している疑いが非常に強い。

金総書記、拉致認め謝罪

2002年9月17日(火)日朝首脳会談(小泉純一郎首相、金正日総書記)が平壌(ピョンヤン)で開かれた。席上、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金総書記は拉致疑惑について自国の関与を認め謝罪した。その際に長年にわたって行方不明とされてきた被害者の安否が明らかにされたが、その内容は実に驚くべきものであった。

警察庁認定8件、11人(拉致場所は日本国内10人、欧州1人)の内

死亡6名、生存4名、不明1名

死亡者の中には、最年少(中学1年生)で拉致された女性(その娘が生存しているという)や、よど号ハイジャック犯の元妻が関与して欧州で拉致したとされる女性が含まれている。不明者1名については、北朝鮮へ入国した事実は確認できない、としている。拉致後、北朝鮮へ連行中に船内で亡くなった可能性も示唆されている。なお、生存者4名は、男女ペアで拉致された3組のうちの2組である。

未認定2人(拉致場所は欧州2人)の内

死亡2名

よど号グループが関与した疑いの持たれている男性たちである。

その他1人の内

生存1名(氏名不祥)

政府でも全く把握していなかった人物だという。もしかして、拉致されたのは上記の方々以外にも存在するのではないだろうか。

さて、拉致され既に死亡したとされる8人の死亡日が相手国側から伝えられた。それによると、拉致当時(1977年~1983年)多くの人が20才台だったにもかかわらず、拉致後数年にして20~30代で亡くなっている。中には共に行動していたとみられる男女が同じ日に死亡したケースもあるという。異常というほかはない。日本政府は拉致事件の全容を解明して国民の前に示す責任がある。

有本さん拉致、北朝鮮外交官と工作「よど号」元妻証言

(読売新聞)[2002年3月13日2時4分更新]

2002年(平成14年)3月12日
日航機「よど号」を乗っ取って北朝鮮に渡った元赤軍派メンバー(48)の元妻、八尾恵(やおめぐみ)証人(46)が、12日に東京地裁で開かれた赤木恵美子被告(46)(旅券法違反などの罪)の公判に、検察側証人として出廷し、英国留学中の1983年に行方不明となった有本恵子さん(当時23歳)拉致(らち)事件について、「よど号メンバーらが日本で革命を起こすための人材獲得が目的だった。リーダーの田宮高麿幹部(故人)らから指示を受けて工作にかかわった」と自らの関与を認め、朝鮮労働党員の外交官の関与について詳しく証言した。

なお、赤木恵美子被告は昨年日本に帰国逮捕された。

「よど号」ハイジャック犯の娘三人が日本に一時帰国

2001年(平成13年)5月15日
田中義三の長女、小西隆裕の長女、故田宮高麿の長女
彼女たち3人はピョンヤンでいつも三人いっしょに行動しているらしい
党主催の各種式典では貴賓席に座るなど特別の待遇を受けているという

よど号事件妻子5人帰国手続きへ

センター事務局長明かす(毎日新聞)
2000年10月24日(火)22時35分、Yahooニュース

1970年のよど号乗っ取り事件で、北朝鮮に渡った元赤軍派メンバーの妻子5人が年内の帰国実現に向け、日本政府に手続き開始を求めていることが24日、分かった。帰国支援活動を続けている「救援連絡センター」の山中幸男事務局長が平壌からの帰途、北京空港で記者団に明らかにした。[毎日新聞 10月24日]

ノーベル平和賞に韓国の金大中大統領(ロイター)

2000年10月13日、Yahooニュース
[オスロ 13日 ロイター] ノーベル平和賞の受賞者に、韓国の金大中・現大統領が決まった。同国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との関係を改善し、冷戦の最後の引火点を融和した功績が認められた、という。

北朝鮮、「よど号」容疑者を追放の用意 米に言及

2000年10月9日09:16、asahi.com

米と北朝鮮 反テロ共同声明

2000年10月6日夕方(日本時間7日朝)、米国務省は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との間で国際テロに反対する共同声明に合意したと発表した。

北朝鮮は、これまで米国にテロ支援国家指定の早期解除を要求。これに対し、米側は日航機乗っ取り事件(よど号事件)で北朝鮮に亡命した日本の元赤軍派グループの国外追放や日本人拉致(らち)疑惑解明などを解除の条件としていた。米政府当局者は、これらの条件は共同声明の三項目に含まれているとしている。 (西日本新聞)

シドニーオリンピック

2000年9月15日(金)、シドニーオリンピック開会式において、南北朝鮮の選手団は、白地に青で国境線のない朝鮮半島を描いた「統一旗」のもと、いっしょになって入場行進を行った。その後の各種競技会場においても、”統一朝鮮の歌”が高らかに歌われ、南北の区別なくお互いを応援するシーンが随所で見られたという。南北朝鮮統一への民族の熱き思いが見てとれる光景である。

大阪万博、日本初のハイジャック事件発生

今からちょうど30年余り前、1970年3月末、大学を卒業したばかりの私は大阪万博会場のすぐ近く千里丘陵にあった伯父(母方)の家に寄留していた。薬剤師国家試験(4月初め)を受ける為で、大阪で受験してそのまま6日の入社式(本社、大阪・道修町)にのぞもうとしていた。

「よど号」ハイジャック事件が起きたのはちょうどその時であった。

注:事件経過の時刻に関しては資料によって多少の誤差がみられる。以下では、島田滋敏著「よど号」事件 三十年目の真実-日航対策本部事務局長の回想-、草思社(2002年)を採用した。

島田滋敏さんは、韓国・金浦空港に設置された日航現地対策本部の事務局長として、機内の犯人とコントロール・タワーとの交信を一貫してモニターしていた。すなわち、犯人と日韓両国政府の交渉の全容を知る立場にあった、ほとんど唯一の人物といえる。

「よど号」乗っ取られる(1970年)

3月31日、日本初のハイジャック発生

午前7時21分、7時10分羽田発福岡行きJAL351便、離陸
日本航空国内線、ボーイング727型ジェット旅客機、JA8315、通称「よど号」(定刻の10分余り遅れ)、コックピット・クルー3名(石田真二機長、江崎悌一副操縦士、相原航空機関士)、スチュワーデス4名、乗客131名(ハイジャック犯を含む)

午前7時40分、富士山南側上空でハイジャック発生
犯人は過激派(赤軍派)学生9名で北朝鮮行きを指示。しかし、彼らと北朝鮮との間に何らかの連絡がついていた訳ではなかった。相手側が受け入れてくれるかどうかは彼らにもまったくわからなかった。

午前8時59分、福岡・板付空港着陸(定刻の14分遅れ)
給油を遅らせるなどして時間稼ぎをするが、有効な解決策なし
午後1時40分老人子供と一部の女性(付き添いの親のみ)23人解放

午後1時59分、福岡空港を<突然>離陸、北朝鮮をめざす
ナビゲーション・ルート(飛行経路)不明
エアポート・インフォメーション(ピョンヤン空港に関する情報)なし
機長にあらかじめ届けられていた北朝鮮の地図は、中学生用の学習地図帳の朝鮮半島部分を破りとったもののみであった。

午後3時13分、韓国・金浦空港に<偽装>着陸
韓国側は、首都ソウルの玄関口である金浦空港を平壌の空港に偽装した。その上で、戦闘機2機(国籍不明機、実は韓国空軍機)が”よど号”にスクランブルをかけ、偽の管制誘導によって金浦空港に強制着陸させた。

北朝鮮と日本は国交がない。その北朝鮮の了解もなしに、日本の飛行機が北朝鮮へ飛んでゆけば撃墜される可能性が高い。偽装着陸は、日本側の憂慮に米韓が同調した連係プレー の結果であろう。

なお、米国側にも深い事情があったようだ。乗客の中に米国人が二人含まれており、その内の一人はCIA関係者であったというのだ。北朝鮮に連れて行かれたらとんでもないことになってしまう。(後段、ピョンヤンへ飛び立つまでの経緯、参照)

さて着陸後20分くらいして、ハイジャック犯たちはそこが北朝鮮ではなく、韓国であることに気づいた。アメリカ車が走り回り、ラジオからはジャズが流れていた。NWノースウェスト機が空港の端に一機取り残されていた。偽装工作は完璧ではなかった。犯人は”米軍機も見た”と後に語っている。金浦空港の隣の米軍基地に駐機中のものだったのだろうか。

いずれにせよ、彼らは態度を硬化させ、以後長い膠着状態に入る。その間に、バッテリー切れで機内温度は40度にも達し、トイレのタンクが一杯になって臭気が漂い始めた。乗客のがまんは限度を越えていた。

福岡に集まった乗客の家族や一般市民からは、即時解決のため(人質を乗せたまま)”よど号”を直ちに平壌(ピョンヤン)へ行かせるべし、との声が高まる。

4月2日、北朝鮮受け入れの意思表示

午前3時20分、北朝鮮赤十字社の公式声明(3つの確約)
航空の安全保障、乗員の人道的処遇、機体返還
これにより北朝鮮へ飛ぶ条件は整い、人質解放交渉にはずみがつく。

4月3日、北朝鮮へ

午後6時05分、北朝鮮に向けて飛び立つ
これに先立ち、乗客99名、スチュワーデス4名を全て解放。この中には、高名な医師など医療関係者約10名や20歳台の若い男女18名が含まれていた。身代わりの人質として山村新治郎運輸政務次官がただ一人乗りこむ。ただし、コックピット・クルー3名(機長、副操縦士、航空機関士)の交代は認められなかった。

こうして「よど号」は飛び立った。安全飛行のために必要不可欠な情報である、ウェザー・データ(気象情報)もオペレーショナル・データ(運航情報)も全く与えられなかった。夕闇が迫る中での完全な有視界飛行である。時間がなかった。

金浦空港を離陸した後、まっすぐ東に飛んで一旦日本海に出て、それから北上する。そして北緯39度線上に沿って西に飛べばピョンヤンが見えてくるだろう。飛行距離約760km、飛行時間1時間余りか。

石田機長は、戦時中に特攻隊の教官として朝鮮半島にいたことがある。ところが、ピョンヤンのことはまったく知らなかったらしい。はたしてうまく飛べるのか。

午後7時15分、平壌(ピョンヤン)・美林空港着
平壌(ピョンヤン)管制塔からの応答はまったくなかった。そして、ピョンヤン・順安飛行場を見つけることはできなかった。しかたなく途中で見つけた小さな飛行場に着陸することにした。ほとんど視界ゼロに近く暗くなった中で、明かりのまったくない暗闇の空港へ決死の着陸が成功した。

旧日本軍の美林飛行場跡地。地面に四角いコンクリートを並べただけのおよそ滑走路とはいえない代物であった。(石田機長後日談)

4月4日、一日休息

4月5日、羽田帰還

午前9時10分、機長以下3名のコックピット・クルーと山村代議士は犯人を残して機体とともに羽田到着。3月31日に羽田を飛び立ってから122時間経過していた。

ピョンヤンへ飛び立つまでの経緯

福岡での約5時間にわたる引き延ばし工作、および韓国・金浦空港への偽装着陸の影には米国の思惑が見え隠れしている。米国人乗客2名の内1名がCIA関係者であった可能性が高いのである。北朝鮮に身柄を引き渡すことは絶対に許されないことであった。

一方、はからずも当事国となった韓国では、朴正照大統領が陣頭に立って事に当たった。当然のことながら、南北朝鮮の政治的対立を踏まえた対応が求められる。さらに、韓国では、前年12月に大韓航空のYS-11がハイジャックされ、乗客・乗員11名が北に抑留されたままになっている、という状況もあった。 北朝鮮に対する評価は日本の当局よりもはるかに厳しいものであった。

人道的立場から、出来るだけ早くピョンヤンに飛ばせて、そこで解決すればよいとする日本政府(世論)の立場は容認しがたい。最初から最後まで、絶対に韓国内で解決(人質解放)するという強い意思表示が貫かれた。人質を北にやれば、医師等の医療関係者(約10名)や若い男女(二十歳代18名)を中心として、その内の何人かは戻ってこれない可能性が高いと判断していたのだ。

北朝鮮は、いったんは乗客・乗員の安全を約束していた。しかし、条件が変わった(乗客は山村次官と犯人達のみとなった)として、「航空機の航行の安全と乗客・乗員の安全は保証しない 」と態度を変えていた。それにもかかわらず、日本国政府は「よど号」を北朝鮮に向けて飛び立たせてしまった。

「よど号」は、国際遭難通信用周波数121.5メガサイクルで航行援助を求め続けた。船舶等のSOSに相当するものだ。しかし、北朝鮮は沈黙し続けた。国際航空界の常識 では考えられない行為である。結局のところ、北朝鮮がほんとうに欲しかったのは100名近い乗客だった、ということだろう。

北朝鮮当局の見解として、もし飛行誘導を行えば、「よど号」を受け入れたことになるので最初から 誘導するつもりはなかった。「よど号」はあくまで不法侵入者として取り扱う、というものであったという。(石田機長談)

さて、韓国・金浦空港で解放された乗客と乗務員(スチュワーデス)4名は、特別機「飛騨号」で、4月3日午後8時25分福岡に無事帰ってきた。ところが乗客の数が1名不足していた。(解放された乗客は全部で99名)

米国人乗客二名のうちの問題の一名が、解放直後、金浦空港から姿を消したのだ。戒厳令下の空港をすり抜けたということになる。米韓当局によって極秘に処理された結果のようだ。彼は、事件解決の5日後東京に戻り、3年後本国帰国、その直後に神父をやめ 、以後消息不明という。

「よど号」メンバーのその後

ハイジャック「事件」は、こうして一人の死傷者を出すこともなく解決した。しかしこれは、「よど号」メンバーにとっては長い漂流の旅の始まりにすぎなかった。そしてその旅は30年後の現在もまだ終わっていない。

犯人たちは北朝鮮側から一種のヒーローとして迎え入れられた。腐敗した資本主義社会日本から脱出して金日成(社会主義朝鮮)の懐に飛びこんだ”金の卵”として厚遇されたのである。着の身着のままだった彼らに対して、生活に必要なものはすべて朝鮮労働党から支給された。そして宿舎として平壌(ピョンヤン)郊外の党招待所があてがわれた。

しかし、北の闇の中に消えた「よど号」メンバーの消息が日本まで届くことはほとんどなかった。彼らはおそらく政治犯収容所のような場所に幽閉されつづけていると考えられていた。彼らの北朝鮮<国内外>での活動内容についておぼろげながら伝わってくるようになったのは1990年代に入ってからであり、すでに事件発生から20年がたっていた。

例えば、「よど号」グループの<妻>たちの存在が初めて明らかになったのは、1992年4月、80歳を目前にした金日成のインタビューによってであった(朝日新聞政治面掲載)。それまでは、メンバー全員が結婚していること、しかも相手の女性はすべて日本人で子供までいることなど想像だにされなかった。

現在の「よど号」グループは、彼らと妻子(子供の数は20名)、それに事件後ピョンヤンで合流した人物(男性)やグループ員の妹が加わって構成されているらしい。

主体(チュチェ)思想

ピョンヤンに着いてからの彼らの生活は、ひたすら主体(チュチェ)思想を叩きこまれる毎日であった。北朝鮮側から受ける破格の待遇に対する「義理」、軽井沢「あさま山荘」事件や連合赤軍事件(総括という名の粛清)とそれに伴う国内赤軍派の壊滅は彼らの思想に微妙な変化をもたらした。

1972年5月6日、金日成が彼らの宿舎を訪問(謁見)、この時を境に「よど号」グループは朝鮮労働党の忠実な”チュチェの戦士”として生まれ変わった。そして彼らは、金正日を担当最高責任者とする特別な存在として権力中枢と直接結びつけられた。

日本人革命村

彼らの暮らす招待所はピョンヤン郊外にある。関係者から日本人革命村とよばれているこの一角は周辺の農村から隔離されており、北朝鮮で市販されているどんな地図にも記載されていない。

村には彼らが日本式生活を満喫するための施設・設備が完備している。それらを維持するために多くの労働者が働いている。専属の料理人が数名いる。食堂での給仕、洗濯、掃除などをする若い女性が配置されているなど、さながら小さな宮廷といったところである。

花嫁獲得作戦

村の最初の花嫁は1975年10月19日に日本を出国、いくつかの国を経ておそらく東欧の朝鮮大使館経由で入国した。メンバーの一人とハイジャック直前まで恋人関係にあった女性で、彼からまったく連絡がないのに業を煮やして自ら行動を起こした結果であった。

これをきっかけに、残りのメンバー全員の花嫁が<日本から>連れてこられることになり、朝鮮労働党によって実行に移された。そして、1977年5月初めに次々と結婚式を挙げた。(1976年中に結婚したものもいるらしい)

5月1日、田宮高麿
5月3日、赤木志郎
5月4日、柴田泰弘
5月5日、田中義三、など

花嫁たちの中には、日本にいるときからチュチェ研などでチュチェ思想と金日成主義の洗礼を受けていたものが多い。しかし、ハイジャック犯と結婚することが目的で北朝鮮に渡ったものはいない。北朝鮮に渡った後、「領導芸術」という洗脳(マインド・コントロール)を受け、結婚を余儀なくされていったものと思われる。

妻達の中には、北朝鮮の思想とは関係なく、拉致に近い形で連れてこられた者も2名いる。いわゆる「日本人拉致疑惑」が起こった時期と重なってはいるが、彼女達の存在は1990年代半ば以降までまったく明かにされることはなかった。

「よど号」メンバーによる秘密工作

彼らは1975年頃から海外へ出はじめた。当然のことながら偽造旅券や時には外交官旅券を使用したのであろう。各国の北朝鮮大使館を宿泊場所とし、北朝鮮外交官や工作員と行動をともにすることも多かった。特に北欧においては、外交官特権を利用した違法な経済活動の一端を担わされていた可能性が高い。

結婚して最初の子供ができたころ、いよいよ軍事訓練が始まった。指導教官は人民軍から派遣され、ゲリラ戦士として徹底的に鍛え上げられた。1979年末から翌年の春にかけて、彼らのうち数名の男女が海外(ヨーロッパ)へ出かけていった。

マドリッド(スペイン)は彼らの重要な工作拠点の一つでほぼ10年間維持された。そして、数名の日本人学生(旅行者や留学生)拉致の活動舞台となった。対象となったのは、日本政府が認定している拉致7件10人とは全く別の人たちである。

しかし、こうした北朝鮮側(外交官や工作員)の活動は西側組織によって徹底的にマークされ、おびただしい量の証拠写真が撮られた。そして、そこには「よど号」メンバーはもちろんのこと妻達もいっしょに写っていた。

こうした資料を日本の公安当局が受け取ったのは、ソウル・オリンピック(1988年)開催前頃である。写真鑑定の結果、「よど号」メンバーが確かに写っていることを確認したにも関わらず、何ら行動を起こすことなく資料はどこかに仕舞い込まれてしまった。

ただし、<妻たち>に対しては旅券返納命令が出された(1988年8月6日付け官報)。しかしその理由は、北朝鮮工作員と接触する危険人物としてであり、この時点で彼女たちがよど号グループの妻であることまでは分かっていなかった。

妻たちは、1980年代前半から1988年5月末ころまで頻繁に日本に一時帰国をしている。おそらくメンバーの日本帰国の下準備のためであったろう。ところで、旅券は本人が所持する正真正銘のものであった。なぜならば、彼女たちに旅券返納命令が出されたのは1988年8月であり、それまでに全員が2回更新をすませていた。

1989年11月9日「ベルリンの壁崩壊」に象徴される東西緊張緩和に続く激動の中で、北朝鮮はヨーロッパにおける拠点を次々と失っていった。すでに日本からの撤収を余儀なくされていた「よど号」グループは、活動の主体を北朝鮮国内からの対日工作に切り替えざるを得なくなっている。

ハイジャック事件メンバー、その他関係者

田宮高麿(当時、27歳)リーダー、赤軍派軍事委員長
1995年11月30日未明、ピョンヤンの自宅で急死(心疾患)。

小西隆裕(同、25歳)サブ・リーダー格、東大全共闘
妻とは事件発生以前から恋人関係。

岡本武(同、24歳)京大、東大安田講堂(1969年1月18、19日)経験者
思想的対立により妻といっしょにグループから引き離される(1982~3年頃)。夫妻死亡説が新聞に出たこともあるがほんとうのところは不明である。

妻は1976年7月に失踪(拉致されて)した高知県出身の日本人女性であるという事実がつい最近明らかとなった(1996年8月7日、朝日新聞)。彼女は1980年春日本に一時帰国している。グループの日本潜入計画(岡本武が候補)を何らかの形で手助けするためであったのだろう。

赤木志郎(同、22歳)東大安田講堂 経験者
 妻恵美子2001年日本帰国逮捕、旅券法違反などの罪で公判中
若林盛亮(同、23歳)東大安田講堂 経験者
阿部公博(同、22歳)東大安田講堂 経験者

田中義三(同、21歳)
1996年3月、偽ドル関与疑惑によりカンボジアで逮捕。身柄を拘束された時、彼は北朝鮮大使館の公用車で大使館員2人と同行中であった。逮捕後タイに連行され四年あまりの獄中生活を送る。無罪判決を得て日本帰国、収監そして裁判中。妻子はピョンヤン在住。

吉田金太郎(同、20歳)
1985年に病死と伝えられているが、1977年5月初めの合同結婚式で彼も妻を迎えたという証拠は無い。当時すでにメンバーから離れていたか、あるいは死亡していたか? 粛清説もある。

柴田泰弘(同、16歳)
1985年春、日本潜入。1988年5月6日、兵庫県警外事課に逮捕される。続いて5月25日、彼の妻が神奈川県警外事課に逮捕された。妻逮捕のきっかけは<密告>電話によるものであり、その直後、何人かの北朝鮮関係者(よど号日本人妻も含む)があわただしく日本を出国した。

彼の妻八尾恵(やおめぐみ、兵庫県出身)は、北朝鮮について「行けるものなら行ってみたい」という漠然とした期待感をもっていた。そのとき、朝鮮総連系の学生活動家と知り合い、紹介された人物によって北朝鮮行きが実現する。

1977年2月24日、大阪・伊丹空港から香港に向けて出国、さらにジェット船に乗って同日中にマカオの指定されたホテルに入る。翌日北朝鮮側の担当者と会い数日を過ごす。この間に出来あがった北朝鮮公民のパスポートを持って出入国専用バスで国境を渡り中国に入る。車を乗り換えて飛行場に行き翌日北京に飛ぶ。北京飯店に一泊、翌朝北京空港から北朝鮮に飛び、平壌・順安空港に降り立つ。日付は3月1日になっていた。

マカオからは常に担当者が付き添う。泊まるホテルはその土地一番の高級ホテル、豪華な食事に貸切タクシーでの市内観光付きであった。ピョンアンの招待所でもいたせり尽くせりで面倒を見てもらい、「よど号」メンバーとの結婚を勧められ断り切れなくなってしまった。彼女はメンバーの男性と強制的に”結婚”させるために計画的に連れて行かれたのだ。

子供2人を生んで1984年、7年ぶりに日本に潜入帰国、横須賀でカフェ・バーを開いて半年後に逮捕される。しかし結局,罪状は公正証書原本不実記載(住民票への偽名登録)のみで罰金刑確定。

彼女自身が「よど号」グループの日本人妻の一人であることを告白したのは1992年になってからである。1992年4月の金日成による「よど号」妻子問題公表後、悩み続けた末出した結論であった。そして1997年、北朝鮮に残してきた子供2人(女児)に日本国籍が与えられた。

2002年(平成14年)3月12日に開かれた赤木恵美子被告(46)(旅券法違反などの罪、2001年日本帰国逮捕)の公判で英国留学中の女性拉致(らち)事件について詳しく証言した。

(塩見孝也)元赤軍派議長
よど号事件のリーダーとなるはずだったが直前に別の事件で逮捕された。
19年9ヶ月の刑期を終えて出所。後にピョンヤンにて田宮たちと再会。

(山村新治郎)衆議院議員
1992年4月13日未明、<次女>に自宅で包丁にて刺し殺される。
自民党<訪朝団>の団長としてまさに出発する当日のことであった。訪朝団の目的は金日成主席80周年の慶祝行事参加であったが、もう一つの目的は「よど号」グループとの再会にあった。山村も田宮もそれを心待ちにしていたという。

よど号事件当時、”身代わり人質”として一躍有名になった父親を羽田空港に出迎えたのは、ほかならぬ彼女である。彼女の人生にとっても「よど号」事件は言うに言えぬ深い影を落としていたのであろう。そして「よど号」メンバーにとっては、日本政府とのささやかな繋がりを完全に立ち切られた事件となった。

参考資料

〇『宿命』「よど号」亡命者たちの秘密工作、高沢皓司著、新潮社1998年
〇「よど号」事件 三十年目の真実、-日航対策本部事務局長の回想-
島田滋敏著、草思社2002年
〇週間新潮2001.08.16-23号、私はよど号犯「柴田」と強制結婚させられた
〇謝罪します、八尾恵著、文藝春秋社2002年
「かりの会」帰国支援センター

2005/01/09
韓国・金浦空港偽装着陸の謎、加筆訂正
2002/09/19
日朝首脳会談、追加
2000/10/02初出

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連合赤軍「あさま山荘」事件

連合赤軍「あさま山荘」事件とは

1972年2月19日(昭和47)土曜日の午後、長野県の別荘地軽井沢町にあった「浅間山荘(あさま山荘)」に連合赤軍兵士数名が管理人の妻を人質にとって立てこもる。2月28日(月)人質解放のため機動隊による突入作戦が開始され、その模様は終日全国にテレビ放映された。

連合赤軍とは

1969年(昭和44年)9月4日
赤軍派結成(共産同戦旗派から分裂独立)
1971年(昭和46年)7月
赤軍派・京浜安保共闘「統一赤軍」結成宣言 (→連合赤軍へ)
12月31日、榛名山アジトにて「連合赤軍」創設
一般学生青年層による反安保大衆運動、学園紛争は、安保成立の日、1970年(昭和45年)6月23日を境に次第に沈静化した。これに対して、赤軍派、京浜安保共闘などのウルトラ過激派の行動はますますエスカレートしてテロリストへの道をたどった。
戦術は、銃器・爆弾闘争へと移り、ヘルメットと角材で武装した「ゲバ学生」による「火炎瓶闘争」とは比較にならない激しいものであった。

さて、連合赤軍内部では「あさま山荘」事件を起こす前に、メンバー同志のリンチ殺人が繰り返し行われ多数の死者が出ていました。人質解放作戦終了後に、そうしたいわゆる「総括」の全容が明らかになったこともあり、国内における極左過激派集団の勢いはその後急速に衰えていきました。総括:メンバー29人のうち14人が仲間からリンチを受けて殺され埋められていた。

2002/08/11記
「あさま山荘」の正式名称は、以下のとおりである。
河合楽器健康保険組合保養所「浅間山荘」
つまり漢字表記が正しい。それに対して、事件の早い段階で、書きやすい平仮名表記が通称として使用されるようになり、現在に至っているようである。

プロジェクトX~挑戦者たち~(NHK)

プロジェクトX~挑戦者たち~
第75回「あさま山荘 衝撃の鉄球作戦」(2002年01月08日放送)
アンコール、同年12月28日放送

そのころの主なニュース

2月2日、元日本兵横井庄一さん帰国(恥ずかしながら帰ってまいりました)
2月3日、冬季オリンピック札幌大会開催(13日まで)
スキー70m級ジャンプで日本が金・銀・銅メダル独占
(笠谷、金野、青地選手)
2月21日、ニクソン米大統領中国訪問(頭越し外交、佐藤栄作首相)
周恩来首相が出迎え、毛沢東主席と会談
27日米中平和五原則で合意、28日帰国

1972年(昭和47年)2月28日(月)

この日私は結婚休暇明けで1週間ぶりに出社した。しかし出先でテレビの前に釘付けになってしまい仕事にはならなかった。「あさま山荘」人質解放(19日以来)のため機動隊による突入作戦が開始され、その模様が終日全国にテレビ放映されていたのである。

この日NHKは、番組途中でたった5分間、訪中していたニクソン米大統領帰国のニュースを報じたのみで、衆議院予算委員会中継は中止した。この結果NHKの連続生放映は朝9時から夜7時までにおよび新記録となった。民放各社もまたCMを飛ばして番組を自動延長した。そうして、最高視聴率は史上空前 89.7%を記録したといわれる。

救出作戦の経過

人質〇〇(管理人の奥さん、31歳)は必ず救出せよ。
これが本警備の最高目的である。(後藤田正晴警察庁長官より)

警察側、死者2名、重軽傷27名(内1名は報道関係者)
この外、22日に民間人1名が犯人に狙撃され死亡している。
(この人物は、警察の検問所、阻止線を突破して山荘玄関まで達した)

特型警備車(防弾装甲車)
高圧放水車
クレーン車(大鉄球作戦用)
午前10時00分、作戦開始命令
午前10時54分、大鉄球作戦開始
クレーン車のアームから鋼鉄性のワイヤーで吊り下げられた大鉄球(モルケン)をスウィングさせて建物にぶつけて破壊していった。同時に行った放水の威力もすばらしく作業は順調に進んだが・・・
11時27分頃
高見繁光警部(特科車輛隊)撃たれる(殉職後、警視正)
11時56分
内田尚孝、第二機動隊長撃たれる(殉職後、警視長)
途中でクレーン車がエンスト。
放水量も約2時間分くらいしか確保できていなかった。
12時38分、拳銃使用許可(警察庁より許可命令届く)
13時37分、緊急指揮幕僚会議
特別決死隊編成(警視庁2名、長野県警2名)など
14時50分頃、鉄パイプ爆弾投下(警察官5名重軽傷)
17時37分、決死隊4名突入、数メートルの至近距離で犯人と対峙。
この前後(18時07分までの約20分余り)、最後の高圧(13気圧)放水により突破口を広げる作業が続けられた。
18時05分、隊長(機動隊長)命令、一斉に突入、検挙せよ
18時14分、犯人逮捕(男5人)、人質無事救出(事件発生以来218時間)

現場での指揮はどのように行われたのか

1972年(昭和47年)2月19日(土)15時20分
長野県軽井沢町レイクニュータウン(新興別荘地)の「浅間山荘」(河合楽器保養所)に連合赤軍兵士数名が人質をとって立てこもる。

後藤田正晴警察庁長官は、ただちに「浅間山荘」派遣幕僚団を結成する(警察庁9名、警視庁16名、計25名)とともに、警視庁機動隊派遣を決定する。

もちろんこれは長野県警本部長を助けて働くための処置であるが、縦割り組織の中で有事の指揮命令系統を確立・維持・機能させるのは実に困難な仕事であった。

実質的な現場指揮官としてこの仕事を成し遂げたのは佐々淳行氏(警視庁所属)。東京大学法学部卒業後、国家地方警察本部(現警察庁)に入庁したキャリアである。

彼は、全共闘による「東大安田講堂事件」(1969年1月18~19日攻防戦)に象徴される反安保・学園紛争の制圧過程で、百戦錬磨の実戦経験から得られた豊富な「危機管理」技術を持っていた。

今、警察による不祥事が続いている。昔、たった一人の人質救出のため、文字通り命をかけて戦った警察があった。その救出活動のための基礎的技術は、反安保・学園紛争の制圧過程で磨かれたのである。

治安を維持するとはどういうことなのか。そもそも維持するに値する治安とは、いったい誰にとっての治安なのであろうか。

参考資料

佐々淳行著、 「連合赤軍あさま山荘事件」-実戦・危機管理、文春文庫
久能靖著、「浅間山荘事件の真実」、河出書房新社
語られざる連合赤軍-浅間山荘から30年-、高橋檀著、彩流社2002年

キーワード:
連合赤軍
あさま山荘、浅間山荘
佐々淳行

2002/08/11
参考文献1件追加、および加筆
2000/03/26初出

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力道山-空手チョップの英雄

力道山と私

私が力道山の名前を知ったのは、たぶん1954年(昭和29)夏、小学校一年生のころである。場所は広島県安佐郡矢口(現広島市安佐北区)、電柱にポスターが張ってあり、そこには「りきどうやま」と書いてあった。つまり力道山に「りきどう」と振り仮名が振ってあり、「山」は自分の苗字の一部だから、すなおに「やま」と読んだものであろう。おそらくは力道山の広島巡業を知らせるポスターである。

我が家に初めてテレビ(白黒)が入ったのは、皇太子ご成婚パレードが放映された1959年(昭和34)ころで、超人気番組はプロレスであった。力道山が空手チョップで外人レスラーをやっつけるところを見ては歓声を上げたものである。実に単純な話であるが、当の力道山にとって事はそれほど簡単ではなかった。

力道山年譜

1924年(大正13年)11月14日生
出生地:北朝鮮咸鏡南道(本名、金信洛)
出身地:長崎県大村市(日本名、百田光浩)
1939年(昭和14年)
後の養父・百田己之助にスカウトされ朝鮮半島から単身日本に渡る
1940年(昭和15年)
二所ノ関部屋入門(昭21年入幕、24年関脇昇進)
横綱若乃花(初代)は弟弟子に当たる
1950年(昭和25年)9月2日
自宅で自ら髷(まげ)を包丁で切り落とし、相撲界を去る
通算成績135勝82敗15休、幕内在位11場所
(15休は、廃業直後の場所で、番付に四股名が残っていたため全休扱い)
1952年(昭和27年)2月3日
プロレス修行のため、羽田発飛行機でハワイへ出発、その後米国太平洋岸を転戦して、300戦295勝5敗(翌年3月6日帰国)
1953年(昭和28年)7月30日
日本プロレス協会設立(28歳)
1954年(昭和29年)2月19日 蔵前国技館3日間連続興行
力道山、木村政彦vsシャープ兄弟(NWA世界タッグ・チャンピオン)
日本テレビ、NHKが二元中継を行う。その模様は東京を中心とした関東一円の街頭テレビおよそ220台などでも放映され(テレビジョンの本放送開始は昭和28年暮)、全国的なプロレスブームが爆発するきっかけとなった。
なお、シャープ兄弟を日本に招聘したのは、NWAのプロモーターとしての力道山自身である。その後のプロレス日本興行をどのような企画で行い誰を呼ぶかを考え実行したのもすべて力道山である。
1954年(昭和29年)12月22日 巌流島の決闘
日本選手権試合で木村政彦7段(柔道家)を破る(東京・蔵前国技館)
1957年(昭和32年)10月7日
鉄人ルー・テーズ初来日、NWA認定世界ヘビー級選手権試合を戦う
61分3本勝負で時間切れ引き分け(東京・後楽園球場)
翌年8月27日インターナショナル・世界ヘビー級選手権試合で遂にルー・テーズを倒す(ロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアム)
1962年(昭和37年)3月28日
フレッド・ブラッシーの持つ新AWA認定世界ヘビー級選手権に挑戦してベルト奪取(ロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアム)。4月23日のリターンマッチ(東京都体育館・千駄ヶ谷) では、ブラッシーが得意の”噛み付き技”を力道山の額に加えて日本プロレス史上初の流血戦となった。
これを見ていた(テレビ放映)老人が一度に6人もショック死。その後の興行でも老人のショック死が相次ぎ、プロレスのテレビ中継規制が検討されるようになる。
1963年(昭和38年)12月4日
ザ・デストロイヤーがかけた”四の字固め”が力道山の足に絡まったまま、両者リング下に転落して引き分け。レフリー以下総出で足を外したが、2人のリングシューズの紐はボロボロに切れていたという。
1963年(昭和38年)12月8日 暴力団員に刺され15日死亡(39歳)
場所は、東京・赤坂のホテル・ニュージャパン地下のナイトクラブ<ニュー・ラテンクオーター>。凶器は、刃渡り13センチのナイフ。日本プロレス協会設立後10年目のことであった。

力道山殺傷の真相

2007年(平成19)になり、力道山を刺した実行犯、そして目撃者(支配人)の証言によって、事の真相が明らかにされた。それによると、事件は、ナイトクラブ内における二人の小競り合いから、全く偶発的におきたものという。当時言われていた、暴力団組織が関与したトラブル、あるいはCIAの陰謀説などは否定されている。

腹を刺したナイフ(刃渡り13cm)は、一旦その根元まで差し込まれたというが、ほとんど出血をみることはなかった。いかにプロレスラーが体を鍛えている(筋肉をつけている)かという証拠であろう。力道山は、応急処置を受けてそのまま自宅に帰り、刺した本人および関係者を交えて手打ちを行っている。事件を内々に済まそうとしたのである。

そして翌日、病状が悪化したため近くの産科病院に入院して治療を受け、流動食をとるまでに回復していた。一部で言われていたような、暴飲暴食が死の原因ではなさそうだ。ところが、15日午後になって腹部に異変が生じて容態が急変、外から呼んだ外科医の処置を受けたが、手術終了6時間後に死亡した。

なぜ、入院先に産科病院を選んだのか。それは、力道山がそこの病院長と親しく、事件を表ざたにすることを防ぐ目的があったとされている。そして、15日の手術そのものは成功したと家族に伝えられている。しかしながら、結局、その外科手術において、何らかの不都合が生じたことにより、死に至ったとしか考えられない。

例えば、再手術時の麻酔担当医の話として、気管内挿管に失敗したことで窒息死したという証言があるという。土肥修司 1993 『麻酔と蘇生』(中央公論社)(死因に関する外科医の証言)。Wikipedia力道山より

北朝鮮と力道山

1910年(明治43年)8月22日、韓国併合に関する日韓条約調印
1945年(昭和20年)8月15日、戦争終結の詔書放送(正午)
1950年(昭和25年)6月25日、朝鮮戦争勃発
1953年(昭和28年)7月27日、朝鮮休戦協定調印(板門店)
1959年(昭和34年)12月14日、在日朝鮮人・北朝鮮帰還第1船新潟出発
1961年(昭和36年)11月、北朝鮮からの連絡船内で次兄、娘と対面(新潟港)
1962年(昭和37年)4月15日、金日成主席50歳の誕生日高級乗用車を送る
1963年(昭和38年)1月8日、韓国訪問、国賓級の待遇を受ける
1963年(昭和38年)6月5日
盛大な結婚式、史上最大の披露パーティ(ホテルオークラ)
媒酌人:自民党副総裁・大野伴睦夫妻、京都府選出参議院議員・井上清一夫妻
力道山の娘さんが北にいるという。生年月日は1943年(昭和18年)2月2日である。力士時代の力道山は、戦時中、朝鮮半島などを巡業(皇軍慰問)して回ったとき、来日前に母親が決めていた結婚相手に会ったとされている。

参考文献

「力道山がいた」、村松友〓著、朝日新聞社、2000年、〓”示”偏に”見”
「夫・力道山の慟哭」、田中敬子著、双葉社、2003年

街頭テレビ

街頭テレビは、一般の人がテレビというものをほとんど知らなかった1953年(昭和28年)にテレビジョンの本放送開始と同時に登場した。日本テレビの社員(業務局事業部員4名)が関東一円を駆け回り、駅や公園、寺の境内などに設置して回り、その数は一時278台を数えた。

最初、プロ野球やプロボクシングで人気を呼んでいたが、これを熱狂的にしたのは1954年(昭和29年)に始まったプロレス中継である。同年2月、力道山の世界選手権試合において、東京・有楽町の日本劇場前に設置された街頭テレビ(27インチ)の画面には1万人近くが釘付けとなった。大通りまであふれかえった群衆のすぐ後ろを車がかすめていくような状況となり、日本テレビの担当者は「とにかく早く中継が終わってくれ」と祈っていたという。

テレビのある家庭
1953年、テレビ放送開始、3500世帯
1959年、皇太子ご成婚パレード、200万世帯

ときめきの叙景-3-、力道山と「街頭テレビ」、日本経済新聞社 2000.8.15(火)

2007/05/03(木)事件の真相、補足
1999/09/28(火)初出