織田信長、本能寺の変にて死去
信長の弟から2家の大名家存続
1)信長の弟・信包(のぶかね)
丹波柏原(かいばら)藩(無嗣断絶)
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2)信長の弟・長益(ながます、有楽斎=うらくさい)
摂津味舌(ました)藩(有楽斎死去に伴い、味舌藩は除封)
3)有楽斎(信長の弟)の庶長子・長孝(ながたか)
美濃野村(のむら)藩(無嗣断絶)
4)有楽斎(信長の弟)の四男・長政(ながまさ)
大和戒重(かいじゅう)藩(後の大和芝村(しばむら)藩)、明治維新まで存続
5)有楽斎(信長の弟)の五男・尚長(なおなが)
大和柳本(やなぎもと)藩、明治維新まで存続
信長の二男から2家の大名家存続
6)信長の二男・信雄(のぶかつ)
大和宇陀松山(うだまつやま)藩
7)信雄(信長の二男)の四男・信良(のぶよし)
上野小幡(おばた)藩-出羽高畠(たかはた)藩-出羽天童(てんどう)藩、明治維新まで存続
8)信雄(信長の二男)の五男・高長(たかなが)
大和宇陀松山(うだまつやま)藩-丹後柏原(かいばら)藩、明治維新まで存続
信長の弟の系統とは
◎信長の弟・信包(のぶかね)
1598年6(慶長3)、丹波柏原藩立藩(3万6千石)
3代で無嗣断絶、その後一時幕府領となった後、信雄の五男・高長系が入封。
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◎信長の弟・長益(ながます、有楽斎=うらくさい)
関ヶ原の戦い→摂津味舌藩立藩(ただし、合計3万石のほとんどは大和国)
有楽斎と庶長子・長孝は共に、関ヶ原の戦いでは東軍に属する。
有楽斎隠居(1615年8月・元和1)、隠居料1万石を自分の手元に残す。
四男・長政→大和戒重藩(後の芝村藩)立藩、有楽斎から1万石を分与
五男・尚長→大和柳本藩立藩、有楽斎から1万石を分与
有楽斎死去に伴い、味舌藩は除封。
◎有楽斎の庶長子・長孝(ながたか)
関ヶ原の戦い→美濃野村藩立藩(1万石)
父の有楽斎とは別の所領で、いわば分家として認められた形となる。
しかしながら、長孝の子・長則に嗣子なく、美濃野村藩は無嗣断絶(1631年、寛永8)。
◎有楽斎の四男・長政(ながまさ)
有楽斎隠居に伴い、一万石分与→大和戒重藩(後の大和芝村藩)立藩。
大和芝村藩(戒重藩含む)で11代続き、明治維新を迎える。
◎有楽斎の五男・尚長(なおなが)
有楽斎隠居に伴い、一万石分与→大和柳本藩立藩。
大和柳本藩で13代続き、明治維新を迎える。
信長の二男の系統とは
◎信長の長男・信忠(のぶただ)、本能寺の変にて死去
◎信長の三男・信孝(のぶたか)、子無し
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◎信長の二男・信雄(のぶかつ)
大阪夏の陣(1615年、慶長20)→大和宇陀松山藩(5万石)入封。
福島高晴(福島正則の弟)改易後のことである。
ただし、その領地は、大和宇陀3万石と上野小幡2万石に分かれていた。
信雄隠居に伴い、自身の隠居料として大和2万8千石。
四男・信良→上野小幡藩立藩、信雄の旧領(2万石)を継ぐ。
信雄死去に伴い、
五男・高長→大和宇陀松山藩(2万8千石)を継ぐ。
◎信雄の四男・信良(のぶよし)
信雄隠居に伴い、旧領の一部を継ぐ(1616年、元和2)→上野小幡藩立藩(2万石)
7代藩主・信邦(のぶくに)は、明和事件に連座して蟄居処分。
後を継いだ弟・信浮(のぶちか)は、出羽高畠藩へ転封(立藩)2万石。
信浮の子・信美(のぶかず)の時、藩庁(陣屋)を高畠から天童に移したため、出羽天童藩立藩とする。(出和高畠藩は消滅)
出羽天童藩で5代(信雄から数えて13代)続き、明治維新を迎える。
◎信雄の五男・高長(たかなが)
信雄死去に伴い、大和宇陀松山藩(2万8千石)を継ぐ。
信雄から数えて4代目の信武(のぶたけ)、お家騒動(宇陀崩れ)で自害。
後を継いだ信休(のぶやす)、丹波柏原藩(2万石)へ転封(減封)、1695年4月(元禄8年)。
丹波柏原藩で11代(信雄から数えて15代)続いて、明治維新を迎える。
(なお、信休を最後に大和宇陀松山藩は除封)
信成(のぶなり)フィギュアスケート選手、自称(信雄の17代目の男系子孫)
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関係のある各藩
美濃野村藩(のむら):
美濃国(現在の岐阜県揖斐郡大野町)
大和宇陀松山藩(うだまつやま):
現在の奈良県宇陀市大宇陀
大和戒重藩(かいじゅう):
大和芝村藩(しばむら):
大和国式上 (しきのかみ) 郡芝村地方(現在の奈良県桜井市)
当初、中世城郭戒重城を陣屋に定めたが、後に芝村に陣屋を移す。
大和柳本藩(やなぎもと):
現在の奈良県天理市柳本町
摂津味舌藩(ました):
摂津国島下郡味舌村(現在の大阪府摂津市三島)
上野小幡藩(おばた):
現在の群馬県甘楽郡甘楽町小幡
出羽高畠藩(たかはた):
出羽国置賜郡(現在の山形県東置賜郡高畠町)
丹波柏原藩(かいばら):
丹波国氷上郡柏原(現在の兵庫県丹波市柏原)
出和天童藩(てんどう):
現在の山形県天童市