NHK大河ドラマの中で、忠臣蔵は今までに幾度か取り上げられている。その中で、私が最も印象に残っているのは、「赤穂浪士」(昭和39年)である。この時の討ち入りシーンは視聴率53.0%で、全シリーズを通じて今までの最高を記録している。大河ドラマ第2作目、すなわち昭和39年、東京オリンピックの年(1964年)のことであった。
大石内蔵助役の長谷川一夫が実に良かった。彼が同志に呼び掛ける「各々方(おのおのがた)」という太く低い声が今でも耳の底に残っている。そして、蜘蛛の甚十郎という架空の人物を演じる宇野重吉も味があって良かった。
NHK大河ドラマは、1963年(昭和38)の「花の生涯」に始まる。それ以来、毎年1回毎のシリーズで欠かすことなく続いており、今年(平成11年)の「元禄繚乱」は迎えて第36回ということになる。赤穂浪士を直接描いたシリーズとしては4回目である。シリーズ全体の実に一割以上が「忠臣蔵」であり、それだけ人気の高い題材であるということなのであろう。
NHK大河ドラマは、一作毎に1月から12月の一年間に渡って放映(ほぼ毎週日曜日)されている。忠臣蔵が取り上げられる回数が多いのは、実際の討ち入りの時期(12月14日夜半)を最終回近くのクライマックスに重ねることができて、興行的にも都合が良いということもあるのかもしれない。
大石内蔵助良雄(よしたか)は、万治2年(1659年)播磨国赤穂で生まれた。19歳で大石を継ぎ2年ほど見習い家老、21歳で国家老上席(筆頭家老)となる。
元禄14年(1701年)3月14日、勅使饗応役の浅野内匠頭が殿中松之廊下で吉良上野介に刃傷に及ぶ。元禄15年12月14日(1702年)夜半、赤穂浪士47人が吉良邸に討ち入る。激闘1時間余り、見事敵を討つ。変事から1年9か月後のことである。
大石内蔵助は肥後熊本藩主細川越中守綱利(54万石)下屋敷にお預けとなり、元禄16年2月4日(1703年)、切腹。行年45歳。
広島と「忠臣蔵」は浅からぬ因縁がある。なぜならば、安芸国浅野家(広島)は、赤穂藩浅野家の本家筋にあたるからである。広島浅野藩初代藩主浅野長晟(ながあきら)、すなわち浅野長政(豊臣政権の五奉行の一人)の二男は、兄幸長(長政の長男)病没後に紀州和歌山藩主を継ぎ、その後安芸国広島に移封された。
赤穂浅野家は、長政の三男長重が下野真岡藩主となり、その後、歴代藩主が常陸真壁~常陸笠間~播州赤穂と継ぎ、長重から数えて4代の浅野内匠頭長矩(ながのり)のとき江戸城松の廊下についえた。
なお、浅野内匠頭の正室である阿久里姫(瑤泉院)は、安芸国三次(みよし)浅野家の出であり、三次浅野藩の藩祖長治(ながはる、広島浅野藩祖長晟の長男-庶子)の娘にあたる。
大石内蔵助の子孫は現代まで続いている。三男・大三郎(元禄15年7月5日生)がその源である。大三郎は、赤穂藩取り潰し後に、母が実家但馬国豊岡に戻ってから出産したため父の顔を知らぬままであった。
宝永6年(1709年)将軍綱吉崩御の大赦で、父内蔵助の罪(吉良邸討ち入り)を免れ、12歳の時、安芸国浅野家に召抱えられて1500石取りとなった(父内蔵助と同じ禄高である)。このとき、母理玖(りく)も広島に同行し23年後同地にて没した(68歳)。
理玖、大三郎ともに、浅野家菩提寺の国泰寺(広島市西区己斐上)に葬られている。なお、その当時の国泰寺は現在の中区にあり、そのすぐ側に国泰寺町の地名を残している。
初出:1999.12.30(木)