江戸のお殿様(池田家)

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池田輝政(恒興二男、播磨姫路藩)

播磨姫路藩初代藩主

  • 関ヶ原の役(1600年)の戦功により、池田輝政(てるまさ、池田勝入斎信輝(恒興)の二男)が、播磨一国52万石で姫路城に入る。また、恒興三男の長吉(ながよし、輝政の弟)が、因幡国岩井・邑美・八上郡6万石で鳥取藩を立藩する。
  • 輝政の正室は、嫡男の利隆(としたか)を出産後、体調が優れず実家に帰ったとされる。
  • 輝政は継室として、徳川家康の二女督姫(とくひめ)を迎え入れ(1594年)、二男忠継(ただつぐ)、三男忠雄(ただお)、四男輝澄(てるずみ)、五男政綱(まさつな)、そして六男輝興(てるおき)が生まれた。つまり、輝政嫡男の利隆にとっては異母弟ということになる。なお、督姫が次々と男児を出産する間に、側室(複数)からも複数の男児が生まれた。そして、彼らは公式には七男以下として処遇された。

利隆(輝政長男、播磨姫路藩)

播磨姫路⇒因幡鳥取(光政の時)⇒備前岡山(光政の時)

利隆長男光政(輝政の孫)
光政の弟(利隆二男)、恒元(備前児島藩)、備前児島⇒播磨山崎(3代で断絶)
光政二男(岡山新田藩・鴨方、かもがた)
光政三男(岡山新田藩・生坂、おうさか)

  • 輝政死去(1613年)に伴い、姫路藩は嫡男利隆(池田宗家)が継ぐ。
  • 利隆急死(1616年)に伴い、姫路藩は嫡男光政(みつまさ)が継ぐ。しかしながら、幼少(8歳)を理由に、翌1617年に播磨姫路藩から因幡鳥取藩へ転封となる。(因幡鳥取藩主は備中松山藩主へ)
  • 池田家には別途備前岡山藩があり、忠継(輝政二男)から忠雄(輝政三男)へと継がれた。忠雄(輝政三男)嫡男の池田光仲(みつなか、光政の従兄、共に輝政の孫)は、1632年、わずか3歳で家督を継ぐことになった。この時、再び藩主の幼少を理由に国替えが行われた。
    幼い光仲が因幡鳥取藩主となり、入れ替わりに池田宗家の光政が備前岡山藩主となったのである。
  • こうして、池田宗家(光政系)が岡山藩、家康の血を引く池田家(光仲系)が鳥取藩に落ち着くこととなり、その支配は幕末まで続いた。なお鳥取藩(池田氏)の石高は宗家の岡山藩(池田氏)よりも高く破格の扱いを受けている。
  • 岡山池田藩3代藩主の光政は、1648年に弟の恒元(つねもと、輝政の孫)を藩祖とする児島藩を支藩として立藩している。しかし、わずか1年で廃藩(領地は岡山藩に還付)となる。その理由は、藩祖・恒元が播磨山崎藩へ転封となったためである。そしてその後、恒元から数えて3代目が夭折したため断絶している。

忠継(輝政二男、備前岡山藩)

備前岡山藩初代藩主

  • 家康の外孫にあたる忠継は、小早川秀秋(無嗣断絶)の後を受けて、岡山藩にわずか5歳で封じられた(1603年)。ただし、実際の統治は異母兄の利隆が岡山城に入って行った(忠継自身は姫路城の両親のもとで暮らしていた)。
  • 輝政(姫路藩主)死去(1613年)に伴い、利隆(輝政嫡男)が播磨姫路藩を継ぐ。
    そしてこの時、異母弟である忠継(輝政二男、備前岡山藩主)に、播磨国西部の佐用・宍粟・赤穂三郡内のうち13万石が分与された。
  • 忠継(輝政二男)が早世(1615年)した後、次弟忠雄(輝政三男)が洲本藩から移り岡山藩を継ぐ。
    またこの時、利隆から忠継に分与されていた播磨領が、忠継や忠雄の弟三人に分け与えられて立藩した。すなわち、播磨山崎宍栗藩(輝政四男・輝澄)、播磨赤穂藩(輝政五男・政綱)そして播磨作用藩(輝政六男・輝興)である。

忠雄(輝政三男、淡路洲本藩)

淡路洲本⇒備前岡山(忠雄の時)⇒因幡鳥取(光仲の時)

忠雄長男光仲(輝政の孫)
光仲二男(鳥取東館新田藩・鹿奴、しかの)
光仲三男(鳥取西館新田藩・若桜、わかさ)

  • 輝政死去(1613年)に伴い、利隆(輝政嫡男)の異母弟である忠雄(輝政三男)は、播磨姫路藩の属領となっていた淡路洲本藩を再度立藩する。
  • 次兄忠継(輝政二男)が早世(1615年)したため、忠雄(輝政三男)が洲本藩から移り岡山藩を継ぐ。
  • 忠雄(輝政三男)嫡男の池田光仲(みつなか、光政の従兄、共に輝政の孫)は、1632年、わずか3歳で備前岡山藩の家督を継ぐことになった。この時、幼少を理由に国替えが行われた。幼い光仲が因幡鳥取藩主となり、入れ替わりに池田宗家の光政(光仲の従兄、共に輝政の孫)が備前岡山藩主となった。

注)忠雄(輝政三男)の岡山藩移封に伴い洲本藩は廃藩、一時収公された。そして同年、阿波徳島藩主に与えられ、その後、徳島藩家老稲田氏が淡路城代兼仕置職として居住した。

輝澄(輝政四男、播磨山崎宍栗藩)

輝政四男の輝澄は、忠継(岡山藩主)や忠雄(洲本藩主)と同じく徳川家康の外孫(母は二女督姫)である。つまり、輝政嫡男の利隆(池田宗家)の異母弟にあたる。

忠継(輝政二男)急逝後、五男政綱(播磨赤穂藩)や六男輝興(播磨佐用藩)と共に、利隆(輝政嫡男)から忠継に分与されていた播磨領の一部を与えられて立藩。

池田輝澄(山崎藩主)は、同時に立藩した輝興(佐用藩主)の赤穂藩転封に伴い廃藩となった佐用藩を吸収した。そして、池田騒動(新旧家臣団の対立)に巻き込まれて改易(1640年)された。

その間に、岡山池田家は次兄忠雄が継いだ後、その子光仲のとき因幡鳥取藩に転封となっている。輝澄は改易後、甥である鳥取藩主・池田光仲預かりとなり、鳥取藩内の鹿野において堪忍料1万石を与えられた。

輝澄の後は子の政直が継ぎ、輝澄の死後に播磨福本藩(1万石)を立藩する(鳥取藩の支藩的立場)。しかし、政直は嗣子なく没したため、弟二人に所領を分割、それぞれ交代寄合及び旗本(ともに1万石以下)となる。そして、幕末に再び福本藩立藩(1万石余)。

なお、輝澄改易後の山崎藩は、松平(松井)氏が領有した後に一時天領となる。その後すぐ、池田恒元(光政の弟)が備前児島藩(岡山藩の支藩)から入る。しかし、恒元から数えて3代目で嗣子なく除封、以降本多氏が領有。

政綱(輝政五男、播磨赤穂藩)

輝政五男の政綱は、忠継(岡山藩主)や忠雄(洲本藩主)と同じく徳川家康の外孫(母は二女督姫)である。つまり、輝政嫡男の利隆(池田宗家)の異母弟にあたる。

忠継(輝政二男)急逝後、四男輝澄(播磨山崎宍栗藩)や六男輝興(播磨佐用藩)と共に、利隆(輝政嫡男)から忠継に分与されていた播磨領の一部を与えられて立藩。

池田政綱(赤穂藩主)には嗣子なく一時除封となる。その後、同時に立藩した輝興(佐用藩主)が遺領を継承して赤穂藩主となる。ところが、輝興突然の乱心にて所領没収、宗家(甥の岡山藩主・池田光政)お預けとなる。

赤穂には、その後浅野氏が代わって入り、後の「忠臣蔵」へとつながることとなる。

輝興(輝政六男、播磨佐用藩)

輝政六男の輝興は、輝政二男の忠継(岡山藩主)や三男の忠雄(洲本藩主)と同じく徳川家康の外孫(母は二女督姫)である。つまり、輝政嫡男の利隆(池田宗家)の異母弟にあたる。

忠継(輝政二男)急逝後、四男輝澄(播磨山崎宍栗藩)や五男政綱(播磨赤穂藩)と共に、利隆(輝政嫡男)から忠継に分与されていた播磨領の一部を与えられて立藩。

同時に立藩した池田政綱(赤穂藩主)には嗣子なく一時除封となる。その後、輝興(佐用藩主)が遺領を継承して赤穂藩主となる。ここで佐用藩は廃藩となり、輝政四男の輝澄(山崎藩主)が作用藩を吸収した。⇒ 赤穂藩主、山崎藩主の項へ

池田長吉(恒興三男、因幡鳥取藩)

因幡鳥取⇒備中松山(長幸の時)

  • 関ヶ原の役(1600年)の戦功により、池田長吉(ながよし、池田勝入斎信輝(恒興)の三男)が、因幡国岩井・邑美・八上郡6万石で鳥取藩を立藩する。(池田輝政の弟)
  • 池田宗家の播磨姫路藩から因幡鳥取藩への転封(1617年)に伴い、因幡鳥取藩の池田長幸(長吉の長男、2代藩主)が備中松山藩を立藩して移るが、長吉から数えて3代で廃絶。備中松山藩そのものは他家の支配にて幕末まで存続。
山本明正(やまもと あきまさ)

1970年3月(昭和45)徳島大学薬学部卒(薬剤師)
1970年4月(昭和45)塩野義製薬株式会社入社
2012年1月(平成24)定年後再雇用満期4年で退職
2012年2月(平成24)保険薬局薬剤師(フルタイム)
2023年4月(令和5)現在、保険薬局薬剤師(パートタイム)