宇高連絡船・紫雲丸

1966(昭和41)からの学生時代4年間を私は徳島で過ごした。
広島との往復ではほとんど宇高連絡船を利用した。
少なくとも10往復以上はしたであろう。

中国地方から四国への修学旅行をためらう空気がまだ残っていた頃のことである。

宇高連絡船・紫雲丸が、高松港外で同じ宇高連絡船(貨物船)と衝突して沈没したのは、私が入学する11年前の5月のことであった。
沈没事故の犠牲者168名は全て紫雲丸から出ており、その内訳は、紫雲丸船長のほか船員1名、一般旅客58名に加えて、修学旅行中の小中学校児童生徒100名(男子19名、女子81名)及びその関係者8名となっている。

前年の青函連絡船「洞爺丸」の沈没に引き続く国鉄の事故に世論の批判は激しく、長崎惣之助第3代国鉄総裁は責任をとって辞任した。

2007/05/04(金)海難審判庁資料追加
2004/05/12(水)五十回忌報道
2001/06/23(土)初出

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宇高連絡船・紫雲丸沈没す

1955年5月11日6時56分(昭和30)
国鉄宇高連絡船・紫雲丸(客貨船)の〈右舷〉に、同連絡船・第三宇高丸(貨物船)が衝突し、紫雲丸は沈没した。
国鉄宇高連絡船(航路)は、宇野駅(岡山県)~高松駅(香川県)を結ぶ国鉄(日本国有鉄道)の鉄道連絡航路であり、当日、紫雲丸は高松港鉄道第一桟橋から宇野港に向けて出港、第三宇高丸は逆に宇野港から高松港に向っていた。

両船の衝突地点は、高松港の沖合い約2kmの女木島付近で、風はなく穏やかだが濃霧の中での事故であった。死者・行方不明168名(いずれも紫雲丸)は、タイタニック号、洞爺丸に続く当時世界第三番目の海難事件とされている。

リンク集:

1)海難審判所(国土交通省)
日本の重大海難/旅客船紫雲丸貨物船第三宇高丸衝突事件(昭和30年代)
2)紫雲丸事故/松江市立川津小学校6年生
3)紫雲丸 いでたちしまま/昭和31年3月愛媛県立庄内小学校卒業生有志
4)失敗知識データベース/紫雲丸の項(なし)

両船出港

紫雲丸(客貨船):
同日6時40分、高松港定時出港
船長以下乗組員63名、旅客781名、車両15両積載

第三宇高丸(貨物船):
同日6時10分、宇野港定時出港
貨車18両積載

濃霧注意報(高松気象台午前5時30分発表):
本日沿岸の海上で局地的な濃霧が発生するおそれあり、
視界は50メートル以下の見込み

衝突6分前

同日6時50分(衝突6分前、距離約1.5マイル)
紫雲丸では、第三宇高丸の霧中信号を聞き応答する。
第三宇高丸では、レーダーで紫雲丸を認める。

ただし、 視界100~150mという濃霧の中であり、お互いの船体を視認できてはいない。
それにもかかわらず、互いに無線電話で連絡を取り合うことなく、両船とも速力10ノット以上で航行していた。

なお、両船に取り付けられていたレーダー装置を、どちらの船長も使いこなせなかった。
それにもかかわらず、紫雲丸船長は最後まで自分でレーダーを操作し続けた。

衝突

同日6時56分
衝突と同時に右舷破口(4.5m×3.2m)から滝のように海水が侵入
発電機停止、船内の電灯が瞬時に消える
船内放送、電話、無線電話使用不能、船長の指揮命令は船員に伝わらず
沈没までわずか5分、船長の働く場は全くなかった
乗船客に救命胴衣をつけさせることもボートデッキを下ろすこともできなかった
このため、泳ぎの未熟な小中学生に多くの犠牲者を出している
(特に、女子生徒100名中81名が犠牲となった)
また一部生徒が自分の荷物を取りに船内に戻るなどの行動をとったことも犠牲を大きくしてしまった

事故原因(謎の左転)

事故の最大の原因は、紫雲丸船長が〈謎の左転〉をしたことにある。

互いにすれ違う〈行会い船〉の航法に関しては、海上衝突予防法で左舷対左舷ですれ違うこと、すなわち〈右側通行〉が義務付けられている。
つまり、行会い船はお互いに〈右転〉しなければならない。
それにもかかわらず、紫雲丸はなぜ〈左転〉したのか。

〈左転〉の背景として、高松港外で〈宇高連絡船〉同士が慣例としてよく行っていたという「右舷対右舷」で行き違う(左側通行)航法があったのかもしれない。
この航法には、貨物船の構造と、高松港の桟橋が向いている方角が関係していた。

宇高連絡船の貨物船は、船首から貨車の積み下ろしをする構造になっていた。
これに対して、高松港の桟橋は港の沖合い約2km〈北〉の海上に浮かぶ女木島の方を向いている。

宇野港から高松港へ向かって〈南東〉の方角に進んできた貨物船が、船首からそのまま高松港に接岸するためには、高松港外で大きく「左へ」回り込んで女木島に接近し、そこから〈南〉に向かう進路を取る方が都合がよかった。

紫雲丸船長としては、慣例に従って〈左転〉をして、第三宇高丸(貨物船)のために進路を空けてやるつもりだったのかもしれない。
親切心がそうさせたのだろう。
しかし、視界100~150mという濃霧の中でそれは無謀な行動であった。

ここはすなおに海上衝突予防法に従うべきであった。
つまり、〈右転〉しかあり得なかった。
もちろん、 当日の気象状況に応じて、事前に〈減速〉するなどの措置が両船ともに必要であったことはいうまでもない。

船長はなぜ死ななければいけなかったのか

紫雲丸船長は船橋内に留まり、船と運命を共にした。
救命胴衣も付けず、羅針盤を両手でしっかりと抱えるようにしていた、という。

船員法第12条:
船長は、自己の指揮する船舶に急迫した危険があるときは、人命の救助並びに船舶及び積荷の救助に必要な手段を尽くし、旅客、海員、その他船舶内にある者を去らせた後でなければ、自己の指揮する船舶を去ってはならない。

1970年7月(昭和45)、やっと条文の後半部分が削除された。
すなわちその意味するところは、緊急時あらゆる手段を尽くした後、自分自身の命も危うくなると判断すれば、船長も離船してよい、ということである。

瀬戸大橋開通

1988年4月9日(昭和63)、宇高連絡船廃止
同年4月10日、瀬戸中央自動車道(瀬戸大橋)開通

以下、日本道路公団HPより

日本で最初に国立公園に指定された瀬戸内海の優美な多島海の真ん中を通る、道路と鉄道の併用ルート(上下二層の長大橋梁群)です。ルートは道路37.3km、鉄道32.4kmで、海峡部9.4kmに架かる6橋を総称して瀬戸大橋と呼んでいます。吊橋、斜張橋、トラス橋など、世界最大級の橋梁が連なる姿は壮観です。

参考図書

萩原幹生著『宇高連絡船・紫雲丸はなぜ沈んだか』成山堂書店(2000年)

事故から49年目、五十回忌を迎える

2004年05月12日(水)朝刊各紙より

高知市立南海中学校
事故当時3年生117人と教師4人が乗船しており、その内生徒28人が犠牲となった。この時の生存者39名が、事故で中断した京都への修学旅行(一泊二日)に11日あらためて出発した。出発に先立ち、南海中慰霊碑前で遺族約60人と共に黙祷を捧げ、高松市内の追悼行事会場に向かった。会場となった西方寺では、同事故で犠牲者を出した松江市立川津小学校からも卒業生5人が参加した。その後、一行はさらに沈没現場海域で犠牲者の冥福を祈った後、京都に向かった。

松江市立川津小学校
6年生58人中21人、引率教師5人中2人および付き添い3人中2人の合計25人が犠牲となった。その五十回忌の法要(午前10時、川津小紫雲丸遭難記念碑前)と「紫雲丸追悼の集い」(午後1時、川津公民館)が九日営まれ、同級生ら約80人が犠牲者に祈りをささげた。同小での法要は79年以来25年ぶり。法要実行委員会によると、今回で最後になりそうだという。

広島県木江町立南小学校(現・大崎上島町立木江小)
6年生97人中22人と教師3人が犠牲となった。
五十回忌法要が11日、校庭に立つ紫雲丸記念館で執り行われた。

1995年(平成7)、木江南小学校と旧・木江小学校が統合して木江小学校となる。
敷地は南小学校のものを踏襲しており、1956年(昭和31)落成の遭難者記念館(南小学校)は、2002年(平成14)に紫雲丸記念館(木江小学校)として新築落成をむかえている。

愛媛県 庄内小学校
生徒77人中29人(そのうち女子23名)と関係者1人(PTA会長)が犠牲となった。

紫雲丸関係者2人(船長ほか1人)
一般乗客58人
修学旅行児童生徒100人(男19、女81)および関係者8人
合計168人

山本明正(やまもと あきまさ)

1970年3月(昭和45)徳島大学薬学部卒(薬剤師)
1970年4月(昭和45)塩野義製薬株式会社入社
2012年1月(平成24)定年後再雇用満期4年で退職
2012年2月(平成24)保険薬局薬剤師(フルタイム)
2023年4月(令和5)現在、保険薬局薬剤師(パートタイム)