豪雪吹雪の中を登山中にホワイトアウトした場合、正しい進路を保つことは極めて困難であると容易に想像されます。
1963年(昭和38)正月の薬師岳(富山県)山頂付近で、愛知大学山岳部13名と日本歯科大学6名の生死を分けたものは、果たして何だったのでしょうか。
ここに愛知大学山岳部13名の遭難者の方々に対し謹んで哀悼の意を表します。
本多勝一著『極限の民族』朝日新聞社(1967年)
~カナダ・エスキモー、ニューギニア高地人、アラビア遊牧民~
注)Amazon.co.jpの表記(副題)は、「~アラビア遊牧」で終わっていることに気が付いた。しかしながら、表紙(カバー)にもあるように、「~アラビア遊牧民」が正しいことは間違いなく、本ページでは、副題「~アラビア遊牧民」として紹介する。(2022/04/15)
このページの目次です
愛知大学山岳部薬師岳遭難事件とは
愛知大学山岳部13人のパーティーは、1963年1月(昭和38)正月登山として薬師岳(富山県)頂上を目指した。
しかし、後に “サンパチ豪雪” と名付けられた豪雪吹雪の中で山頂を目前にして登頂断念、下山途中〈ルートを誤り〉13人全員が遭難死した。
こうした判断の誤りは、豪雪吹雪をはじめとする様々な要因が積み重なった結果もたらされたものであろう。
ただし重要な事実として、地図とコンパス(磁石)を携行している者はパーティーの中に誰もいなかったことが挙げられる。
なお、“サンパチ豪雪”とは、1963年(昭和38)の冬に北陸から山陰を襲ったすさまじい降雪のことを指す。
新潟平野部(現・新潟市、旧・西蒲原郡)出身の妻は、当時二階から出入りした記憶があるという。
私が住んでいた広島県西部(瀬戸内沿岸部)でも、「朝起きると一面雪で白くなっており、それが昼には解けて無くなる」といったことを何日か繰り返していた。
薬師岳遭難事件は、そうした気象条件の中で起きた。
注:パーティーの編成(学年別人数)や行動記録(コースタイム)など、遭難誌『薬師』の中の記述同士や、そのほかの関係者資料との間で互いに矛盾している点が散見される。
当Webでは、できるだけ整合性の取れる数値のみを採用することを心掛けた。
学生時代の私は山歩きをしていた
3年生の夏、立山・剱岳から薬師岳へ縦走した
学生時代の私は山歩きをしていた。
剣山(徳島県)をホームグラウンドにしており、剣山だけで十数回登った経験がある。
夏には北アルプスに3年連続で通い、最後の年(3年生の時)には、立山・剱岳から薬師岳へ縦走した。
1968年7~8月(昭和43)のことである。
薬師岳では、その5年前の冬(1963年1月)、愛知大学山岳部パーティー13人全員が遭難死するという事件が起きていた。
愛知大学パーティー、薬師岳登頂断念す
リーダー層が手薄であり冬山経験者が少なかった
愛知大学山岳部には、遭難当時23名の部員が所属していた。
そして、そのうちの13名が薬師岳合宿に参加して、全員遭難・帰らぬ人となった。
13名の内訳は、四年生2名(リーダー・サブリーダー)、二年生5名、そして一年生6名である。
「当初の計画段階では、(中略)20名が予定されていた。しかし、実際には(中略)7名は就職運動、家庭事情などの都合により、合宿参加が不可能となった」(「薬師」p.17)。
参加を取りやめたのは、4年生2名、2年生1名、そして1年生4名の合計7名である。
なお、三年生部員が退部していたため、冬山経験者の少ない編成となっている。
太郎小屋到着から遭難までの足取り(組織の乱れ)
愛知大学パーティーの先発隊は、12月29日に太郎小屋(標高2320m台)に到着した。
しかしながら、30日・31日と悪天候で〈沈殿〉したため、最終キャンプを設営予定であった薬師平(標高2470m)まで進むことはできなかった。
そうこうしているうちに、12月31日には13名全員が太郎小屋に集結する形となった。
そして、さらに元旦も悪天候のためそのまま小屋で〈沈殿〉、1月2日になり13名全員が一緒に小屋を出発した(午前5時40分)。
つまり、「サポートおよび第三キャンプ設営(薬師平)を目的とした隊と登頂隊とが同時に出発したわけである」(「薬師」p.138)。
そして、途中の薬師平で第三キャンプ設営後、13名全員でそのまま薬師岳山頂(三角点2926.0m)を目指した。
このことは、「これまで一部計画を修正しつつも一応沿ってきた合宿計画が完全に崩され(「薬師」p.139)」たことを意味している。
注)沈殿とは、悪天候などのため、一時行動を中止して山小屋やテント内に留まることを言う。
山用語としてごく一般的に使われている。
薬学部出身の私には、沈殿反応との関係で頭に入りやすい用語でもある。
地図とコンパス(磁石)を携行していなかった
愛知大学パーティーは、頂上まであとわずか400mくらい(時間にして約35分)を残して登頂を断念した。
そして、下山を開始して間もなくの地点(分岐点標高2900m台)で、〈ほんのわずか右〉に振れる主尾根を外れて、〈90度近く左〉に振れる東南尾根に足を踏み入れてしまった。
つまり、進むべき(下山すべき)方角を取り違えてしまったのである。
残念ながら、彼らは地図とコンパス(磁石)を携行していなかった。
東南尾根にはもちろんテント(薬師平)は無い。
1月2日夜はツエルト二つに分かれてビバークしたものの、翌3日以降も東南尾根から主尾根に戻ることはできなかった。
記録は翌3日で途絶えている。
なお、最後の遺体発見は10月14日のことであった(「薬師」p.125)。
注:標高は電子国土Web(2019/02/16確認)による
愛知大学山岳部遭難誌『薬師』
愛知大学山岳部遭難誌『薬師』(1968年刊)は、薬師岳遭難事件の合宿計画から遭難・捜索、そしてその後についてまとめた追悼誌(書籍)である。
『薬師』は、遭難原因について明確には述べていない
『薬師』では、遭難原因について、以下の4点から種々検討を加えている。
- メンバー構成について
- 偵察について
- 太郎小屋以後の行動について
- ビバークについて
しかしながら、決定的な遭難原因は何だったのか、自らきちんと指摘するまでには至っていない。
以下にて同書から少し引用してみよう。
頂上直下より東南尾根に迷い込んだ地点における進路決定の誤りについて:
次に、頂上直下より東南尾根に迷い込んだ地点における進路決定の誤りも、一つの重大な遭難要因としてあげられる。
この点で、磁石、地図が一部太郎小屋の中で発見され、遺体発見地点付近一帯には何も発見されなかったことは、登頂隊が携帯していなかったものと判断されよう。もし、実際この判断の如く磁石も地図もまったく持っていなかったとすれば、リーダー、装備係の重大な失敗で、弁護の余地はない。だが、万一携行していたにせよ進路の誤りの発見の遅れは、その効用をほとんど無効にしたかも知れない。この磁石、地図の問題は、いわば登山のまったく基礎的な問題で、登頂隊が忘れていたとすれば大いに反省すべきことである。
『薬師』(pp.140–141)
決定的な遭難原因といったものは指摘できない:
以上、全員遭難死を招いた大アクシデントについて、若干の推理をまじえながら原因の追究を進めてきた。が、ここで決定的な遭難原因といったものは指摘できない。これまでにあげた要因が、いくつか相互作用しながら、決定的、かつ致命的なアクシデントとなったのであろう。
『薬師』(p.142)
日本歯科大学パーティーの場合
太郎小屋には、前年の大晦日から、日本歯科大学山岳部6名のパーティーも同宿していた。
迎えて元旦は、一日中地吹雪にて両隊とも沈殿。
注:日本歯科大学隊は、後日捜索隊に加わるとともに遭難誌『薬師』(pp.58-60)では、「日本歯科大学パーティーの行動記録」を提供している。
愛知大学隊と競って薬師岳山頂を目指す
翌2日、愛知大学隊(午前5時40分発)を追って、日本歯科大学隊(午前7時20分発)も薬師岳目指して出発した。
途中の薬師平で、愛知大学隊が「六~七人用冬用テント設営中に遭う」。
そしてその後は、両隊が「頂上をめざし・・・平行して行動する(ママ)」場面もあった(「薬師」p.59)。
薬師岳山頂まで後400mくらいの地点で、先行する愛知大学隊が少し長めの休憩を取った。
それを日本歯科大学隊が追い抜いていった。
そしてその後、約35分で薬師岳山頂に達した。
これに対して、愛知大学隊は、追い抜かれた地点で登頂を断念して下山を開始した。
三度も進路を失ったが、ルート偵察を繰り返して、無事下山する
日本歯科大学隊は、薬師岳山頂にて「しばらく待ったがAAC(Web作者注:愛知大学隊)の姿は現われず・・・」、下山開始。
下山中も、日本歯科大学隊が愛知大学隊の姿を見ることはなく、「(愛知大学隊の)テントは外から閉められている。トレースはなし」という状態であった。
日本歯科大学隊は、「強い風雪のため三度進路を失なう。サブリーダー二名を組ませルート偵察を行いながら下山」という状況の中で、太郎小屋に無事帰着。
なお、往路の薬師平から薬師岳山頂に向かう途中では、「標識をたてながら行動」して下山に備えていた。
翌3日は、強風・視界不良で愛知大学隊(薬師平のテント)の偵察に出ることかなわず、下山も中止して小屋に留まる。
4日になり、「食料も本日の晩の分までしかない」ことから、下山実行。
なお、愛知大学隊の行方については、気掛かりとはいえ、悪天候の中で捜索に出る余裕はなかった。
以上、「」内は、遭難誌参考資料(日本歯科大学パーティーの行動記録)pp.58–61から抜粋。
そのほか、遭難隊員(記録員)による行動記録pp.39–48参照。
参考:日本歯科大学隊の行動表(1963年1月2日)
太郎小屋7:20~薬師平8:20~薬師岳(9:55、10:05)~薬師平13:00~太郎小屋14:25
(薬師岳ピストン)
- 登り:太郎小屋(1時間)薬師平(1時間35分)薬師岳
小計2時間35分 - 下り:薬師岳(2時間55分)薬師平(1時間25分)太郎小屋
小計4時間20分
日本歯科大学隊は、太郎小屋~薬師平~薬師岳を1日で一気に登り下りしている。
また、登りよりも下りで大幅に時間がかかっていることが分かる。
下りではそれだけ強烈に吹雪かれたのだろう。
太郎小屋がポイントだ
愛知大学パーティーの登山計画は次のとおりであった。
すなわち、12月25日に名古屋を出発、折立、太郎小屋付近、薬師平とキャンプを進めて元日に登頂、1月6日に下山予定。
しかし、予定日を一週間過ぎても彼らは下山してこない。
予備日ぎりぎりの1月14日になり、愛知大学当局から愛知県警を通じて富山県警に捜索願いが出された。
翌15日から吹雪をついて捜索活動が開始され、報道合戦も過熱化した。
もし、愛知大パーティーが太郎小屋に避難してさえいれば、とりあえず生命に別状はないだろう。
もしも小屋にいないとなれば・・・。
こうして太郎小屋が最大の焦点となった。
本多勝一記者と藤木高嶺写真部員(ともに朝日新聞社)の活躍
二人共、ヘリコプターを利用して、捜索隊の先を行く
藤木高嶺・写真部員(朝日新聞社)は、1月18日午後、小型ヘリで捜索隊を飛び越え、有峰ダムの北陸電力折立発電所に着いた。
そして翌日から雪のなかをスキーで太郎小屋を目差して進んだ(ガイドの志鷹敬三さん同行)。
一方、同じく朝日新聞の本多勝一・記者は、天候の晴れ間をついて大型ヘリコプターを太郎小屋まで直接飛ばすタイミングを狙っていた。
藤木は、途中で「愛知大生、食糧残したまま」「折立の飯場に、藤木写真部員確認」という特ダネをものにしながら、1月22日昼前に三角点到着、雪洞を掘る。
あと1日で太郎小屋という位置である。
朝日新聞号外、来た・見た・いなかった
雪洞を掘り終わったちょうどその時、藤木のハンディに入ってきた音声は、「太郎小屋に人影なし・・・・、太郎小屋に人影なし・・・・」。
本多勝一記者他3名(鳥光資久、森田初秋、そして杉崎弘之の各写真部員)が大型ジェットヘリ(シコルスキーS62)で小屋に強行着陸して捜索、その結果を受けて上空で旋回する朝日新聞本社機「朝風」から大阪本社へ第一報を伝える声であった。
号外「来た、見た、いなかった ― 太郎小屋に人影なし」
藤木高嶺、雪洞の中でがんばる
さて、記事送信の段になって太郎小屋と富山支局との連絡が取れない。
近くの山がじゃまをして電波障害を起こしているようである。
それに気付いた藤木は、雪洞の中で中継役を努める決意をする。
こうして出来上がった当日(1月22日)夕刊の大見出し
「太郎小屋に人影なし、薬師岳遭難、本社記者ヘリで着陸」
それを受けて、遭難対策本部も「愛知大の13人絶望」と断定した。(同新聞記事見出しより)
なお、太郎小屋では、その後も本多など(いずれも朝日新聞社)による捜索が続けられた。
藤木自身は、それから6日間、自らも「テント、雪に埋没、第1キャンプを発見」などの特ダネをものにしながら雪洞の中でがんばり、太郎小屋と富山支局の交信を中継するアンテナ役を果たした。
なお、いくら外が寒くても雪洞の中は零度以下になることはなく、ローソク1本で1度は暖まるという。
富山県警と愛知大学の合同捜索隊結成
捜索隊到着するも人影無し
1月16日、合同捜索隊が富山を出発して現地へ向かうも、悪天候のため幾度となく停滞を余儀なくされる。
1月25日、先行捜索隊9人が太郎小屋に到着、翌26日には、県警と大学の合同捜索本部は「27日で捜索を打ち切る」と決めた。
捜索隊が現場に到着するまで10日ほどかかっていた。
隊員の疲労は激しく食料も残り少ない。
そして、「朝日」の捜索により全員絶望はほぼ確実である。
こうした状況での早い決断であったと思われる。
遺体発見はその二か月後のことである。
まだ雪深い3月の捜索はこれまた異例のことであろう。
注:プロジェクトX~挑戦者たち~『魔の山大遭難 決死の救出劇』(NHK出版、Kindle版)には、救助隊が太郎小屋に到着した時の様子について、「祈るような気持ちで太郎小屋の戸を開けた」とある。
残念ながら、13人全員が小屋いないという“朝日”の捜索結果(22日)は、救助隊が太郎小屋に到着する前に伝わっていたはずである。
『薬師』の写真(pp.48-49の間)を見ると、現地ではMOTOROLA製のトランシーバーを使っている。
写真キャプションには、「現地から本部へ」とある。
そして、その隣の写真には、遭難対策本部に置かれた通信機器で、現地と通話をする様子が映し出されている。
キャプションは、「本部から現地へ」となっている。
プロジェクトX~挑戦者たち~富山県警山岳警備隊
『魔の山大遭難 決死の救出劇』―壁を崩せ 不屈の闘志 プロジェクトX~挑戦者たち~NHK出版(2012年)
この薬師岳捜索要請(1963年1月)の第一報について、プロジェクトX~挑戦者たち~『魔の山大遭難 決死の救出劇』(NHK出版、Kindle版)は、次のように述べている。
「1月13日。剱岳のふもと、富山県上市(かみいち)町の警察署に、突然連絡が入った」。
この点について『薬師』p.49は、「1月14日、~愛知県警を通じて富山県警に捜索を要請」したとしている(上述)。
なお、『魔の山大遭難 決死の救出劇』は、1969年1月(昭和44)の剱岳大量遭難時の富山県警山岳警備隊の活躍(15パーティー81人中、救出62人、死亡・行方不明19人)を中心にまとめた書籍である。
富山県警山岳警備隊は、愛知大学薬師岳遭難事件(1963年1月)を教訓として、事件の2年後(1965年)に発足している。
初代隊長は、富山県警上市署の鑑識係・伊藤忠夫である。
この伊藤こそ、愛知大学薬師岳遭難事件の時、隊長として捜索に当たった人物である。
なお、この時の捜索は、警察隊と愛知大学関係者による合同救援隊として行われた。
佐伯文蔵さんの言葉
佐伯文蔵さん(剱澤小屋(剣沢小屋)主人)は、合同捜索隊のガイドを務めた。
そして、先行捜索隊9人のうちの一人として、最初に太郎小屋に到達した。
その佐伯さんは、薬師について次のように語っている。(引用:BEACON―うぇーぶ)
「剱の大将」と呼ばれた北アルプス切っての名ガイド佐伯文蔵さんは、こんな言葉を遺している。
「吹雪の薬師は、歩荷(ぼっか)でも敬遠する。私も全く自信はない・・・・」
引用:BEACON―うぇーぶ(下記参考資料)
後に、本多・藤木のコンビでカナダ・イニュイ取材を行う
さて、本多勝一と藤木高嶺(当時31歳と36歳)はこの時が初対面であった。
そして、この年のカナダ・イニュイ取材(カナダ・エスキモー、51回連載)をはじめとする極限の民族3部作、さらにそれに続くベトナム取材でコンビを組むことになる。
参考URL
「本多勝一」論 | 団塊の世代一代記(Akimasa Net)
「堀江謙一とマーメイド」 団塊の世代一代記(Akimasa Net)
参考資料
キーワード:
本多勝一&薬師岳
藤木高嶺&薬師岳
- 本多勝一著『極限の民族』朝日新聞社(1967年)
~カナダ・エスキモー、ニューギニア高地人、アラビア遊牧~ - 本多勝一著『新版・山を考える』朝日文庫(1998年)新版第3刷
- 藤木高嶺著『極限の山 幻の民』立風書房(1977年)
- 藤木高嶺著『チャレンジ精神を育てよう』くもん出版(1987年)
- 愛知大学山岳部薬師岳遭難誌編集委員会編『薬師』1968年9月(非売品)
- 山田義郎『山岳部「薬師岳遭難」』愛知大学史研究(創刊号,2007年)pp.83-95
- BEACON―うぇーぶ!!トピックス(20)
「第20話 あぁ、恨みは深し薬師岳 ~雪洞の藤木アンテナ~」(2018/08/20再確認)
https://www.icom.co.jp/beacon/backnumber/web_topix/020.html - プロジェクトX~挑戦者たち~『魔の山大遭難 決死の救出劇』NHK出版(2012年)
- 太郎小屋:
戦前に「太郎兵衛平小屋」として建てられる
1955年に「太郎小屋」として再建(初代は損壊・消失)
1965年に「太郎平小屋」の看板を掲げる(筆は田部重治氏)
このため現在は、通称「太郎平小屋」で通っている - 太郎平小屋:
秋の北アルプス、太郎平小屋と薬師岳(写真キャプション)
『賢い山のウェア選択術』 ― どんなときも快適にすごすために ―
細田充著、山と渓谷社(1999年)p.29
2013.05.26(日)遭難誌『薬師』より引用
2003.03.15(土)初出