坊がつる讃歌:大手新聞記事の誤報がインターネット上を駆け回っている

このページは、下記電子書籍の資料として使っています。


『坊がつる讃歌 誕生物語』
広島高師をめぐる人と人のつながりを追って
初版:2017年7月17日(電子書籍:アマゾン Kindle版)
二版:2019年3月10日
(最新版:2019/03/11刷)

今回の本書第2版では、「山男の歌」から「坊がつる賛歌」そして「坊がつる讃歌」への変遷過程や「山男の歌」の作詞・作曲者探しの過程において、新聞報道がどのようになされたのか改めて検討してみました。

坊がつる讃歌:インターネット上に流れ続ける誤報の原因(ルーツ)を探る

主な参考資料(今回追加)は以下のとおりです。
注:具体的な引用文(引用文献)は、全て『坊がつる讃歌 誕生物語』に記載しています。

中国新聞記事「ルーツは広島高師山岳部歌」、1978年7月9日付け
読売新聞記事「原作者は神尾千葉大学名誉教授」、1978年7月9日付け
中国新聞記事「作曲者見つかる、宇都宮で健在 武山さん」、1978年9月3日付け
読売新聞記事「作曲者もわかる、宇都宮大学名誉教授・武山信治さん」、1978年9月10日付け

各紙には、もちろん貴重な証言などが満載されており、改めて新聞記事検索の醍醐味を感じます。それと同時に、インターネット情報の中には、新聞記事の誤報あるいは曖昧な表現が訂正されることなく、そのまま流され続けている例がいかに多いかに気付かされます。

例えば、上記読売新聞記事7月9日付け(署名入り記事)で
「広島大に残されている資料には、「山岳部第一歌・山男」(昭和十五年八月完成)となっていて、作詞・神尾明生、作曲・竹山仙史、編曲・芦立寛の名前が記載されている」
としています。

つまり、神尾「明正」を「明生」と誤記しています。

この記事こそ、インターネット上で「広島大学に残っている資料では「作詞:神尾明生、作曲:竹山仙史、編曲:芦立寛」となっているものの、原爆で古い資料が焼失したため、それ以上の詳しいことは不明」とする書き込みが独り歩きする原因(ルーツ)となっているようです。

ここでは、地方紙の正しい情報は打ち消されてしまっています。

「廣島高師の山男」作詞・作曲者のうち、作詞者(神尾明正)はこうして特定された

芹洋子が「坊がつる讃歌」を初めて発表したのは、NHK「みんなのうた」(1978年6月・7月)でした。

芹洋子は、その前年の夏(1977年)、阿蘇山麓(熊本県)で開かれたコンサートの後で、「坊がつる賛歌」(元歌は「廣島高師の山男」)を聞いて大いに気に入りました。そして、それを東京に持ち帰り、青木望が編曲をするなどしてレコード化の準備を進めました。

ところが、元歌の作詞・作曲者が分からず、著作権をクリアーできないでいました。

坊がつる賛歌(1952年7月作成)は、坊がつる(大分県竹田市)で、九州大学の学生3名によって作られました。そこから、元歌が「廣島高師の山男」(広島県)であることが分かりました。そして、何とか作詞・作曲者の名前だけは分かった状態で、NHK「みんなのうた」の放送に入りました。

「山男の歌」は、「神尾明正(かんお・あきまさ)作詞、竹山仙史作曲」で、戦前の昭和12年ごろ(1937年)作詞、昭和15年夏(1940年)に作曲されたものだったのです。しかしながら、実際に作詞・作曲者がどこの誰かは全く分かりませんでした。

注:竹山仙史はペンネームで、本名が武山信治(たけやま・しんじ)さんであることが分かったのは、NHK「みんなのうた」の放送が終わった後のことです。

さて、神尾さんが「山男の歌」を作詞したのは、広島高師の助手補として勤務(昭和11年3月~昭和15年3月)していた時でした。

そして、作詞者が神尾明正さん(千葉大学名誉教授)だと特定されたのは、戦後長らく奉職した千葉大学をちょうど定年退官(1978年3月、昭和53)した数か月後(1978年7月)のことでした。

既に、NHK「みんなのうた」で「坊がつる讃歌」の放送が始まっていました。

「山男の歌」の作詞・作曲者探しに非常に熱心だったのは、杉山浩さん(広島高師山岳部出身)です。杉山浩さん(昭和17年・広島高師卒)は、栃木県で教員になり、当時は栃木県立今市高校校長を務めていました。

杉山さんたち広島高師関係者の調査で、広島高師山岳部の記録帳が代々の山岳部リーダーによって受け継がれており、その資料が保管されていることが分かりました。そしてそこには、「神尾明正作詞、竹山仙史作曲、芦立寛編曲」と書かれていました。

作詞・作曲者は、当然ながら高師卒業生あるいは高師関係者だろうと想像されました。ところが、該当する人物は浮かび上がってきませんでした。

さて、神尾明正さん(東京都出身)は、京都大学(地理学)を卒業した後、直ちに広島高師に就職をしました。そして、山岳部顧問となります。ところが、杉山さん(広島高師山岳部出身)は神尾明正さんの名前を知らずにいたようです。そのほかに神尾という名前を覚えている人もいませんでした。

こうして、名前は分かったが具体的に誰だか全く分からない状態に陥ってしまいました。

そうした中で、杉山さん以外の高師関係者が、当時の地理学助手補に神尾という名前の人物がいたことを思い出しました。そして、その人物こそ神尾明正さん(千葉大学名誉教授)であることが分かったのです。

乳頭山遭難43人

乳頭山遭難事件とは

2005年3月末(平成17)、秋田・岩手県境の乳頭山(烏帽子岳、標高1477.5m)に日帰り登山で出かけた秋田県の登山愛好グループ43人が吹雪のため遭難、一夜を雪中で過ごし、翌日、岩手県側の雫石町で全員無事保護された。(2005年03月29日入山、30日救助)

山楽会(全日本年金者組合秋田県本部秋田市支部の山登サークル)
会長は、アルプスなど海外登山の経験あり、乳頭山頻回登山
今回は副リーダー格で参加(当日の統括リーダーは別にいるという意味か)
無事下山後の記者会見では、会長が中心となって釈明・陳謝している

当日のメンバー43名は、ほとんど60代~70代で、最年少でも50代後半、最高齢者78歳、中にペースメーカー装着者1名あり。登山歴でいうと、ベテラン10名、初心者約7割という。初心者30名前後を、ベテラン10名が引率した雪山という形になる。

全日本年金者組合ホームページ(2005年03月31日付け)
秋田県本部の登山事故について/お礼とお詫び、という一文が中央執行委員長名で掲載されている。そこでは、「事故にいたった原因の究明と、今後に生かすべき教訓を明らかにする作業にただちに取り組みます」とうたっている。

当Web管理人としても非常に関心の高い事柄であり、ぜひともその結果をインターネット上で公表することを希望するメールを4月上旬に送信した。

私はそのメールにおいて、当Webページの中に明らかな誤りあるいは不都合な表現があれば、直ちに訂正する用意があることもお伝えしている。しかし、返信メールその他、いっさいの連絡は何も受け取ることなく今日(2009年08月05日)に至っている。

まず最初に簡単な時間経過を押さえておこう

2005年3月29日

午前6時20分、秋田市内出発
午前9時25分、孫六温泉(乳頭温泉郷)から入山
田代岱山荘までは順調、そこで昼食中に天候急変
ルートを示すために立てておいたポールが吹き飛ばされるほどの暴風雪
山頂を踏まず引き返すことになったが、下山途中ルートを見失う
午後7時30分、ビバーク、ブナ林の中に非常用簡易テント7つを張る

3月30日

午前6時過ぎ、携帯電話、”全員無事で蟹場温泉(乳頭温泉郷)に向け下山中”
午前7時50分、秋田県警捜索隊捜索開始(二手に分かれる)
午前10時50分、県警捜索隊が合流し田代岱の山荘に到着、会員らに使用された形跡がないことを確認。
午前11時15分、携帯電話、”誤って沢に入ったが、全員無事、助けを求めるため、〇〇さんが1人で大釜温泉に向かっている”
午後1時55分、〇〇さんが岩手県雫石町の葛根田地熱発電所付近に下山。自宅に電話、”下山した。残りの42人も葛根田沢の尾根で待機している。”
午後2時半過ぎ、待機中のメンバーに先行者一人無事下山が伝わる。そこで初めて岩手県側に入りこんでいることも知らされた。(携帯電話への通話)
午後3時、雫石町役場に乳頭山遭難対策本部設置。町の自衛隊出動要請を受け、航空自衛隊秋田救難隊のジェット機とヘリが雫石町に向け出発。しかし、天候不良のため、まもなく救助活動中止。
午後3時10分、岩手県警現地対策本部設置、10分後、救助隊員10名出発
午後4時47分、岩手県警救助隊、発電所付近のグループを目視確認
午後5時52分、岩手県警救助隊、発電所から葛根田川上流の尾根付近で遭難グループと接触、3分後、42人全員無事を確認、下山開始
(午後5時45分、秋田、岩手両県警の第2次救助隊19人入山)
午後9時15分、第一陣21人下山
午後9時47分、第一陣21人が現地本部をマイクロバスで出発
午後10時30分、第一陣が雫石町役場に到着
午後10時45分、第二陣21人下山
午後11時4分、第二陣21人が現地本部を出発

3月31日

午前0時30分、雫石町役場で記者会見

遭難の背景について考えてみよう

二つ玉低気圧が大暴れして暴風雪となる

29日朝の現地の天候は曇り。しかし、秋田地方気象台は風雪注意報を発令しており、天候が下り坂になることは十分に予測できた。これに対して、「行けるところまで行こう」、「天候が悪くなれば引き返せばいい」という判断で入山した。

しかし、3月下旬としては例年にない大雪が残っている上に、二つ玉低気圧が大暴れして暴風雪となった。ただ幸いなことに、全員無事下山後、心臓などに持病のある男性2人と凍傷の男性1人が念のため入院したが軽症、他の人たちも比較的元気であった。

最近の防寒具の性能強化には目をみはるものがあるようだ。今回、中高年43名全員が無事生還できた条件の一つとみなすことができるだろう。ただし、装備が良くなって冬山が身近になり、初心者の安易な登山が増える傾向にあるとも指摘されている。

地図とコンパス(磁石)を使う機会を逸した

さて、ベテラン組の中には、春夏秋冬の季節を問わず、乳頭山に何十回も登った人たちがいる。そんな山で道を間違えることなどあり得ない。地図とコンパス(磁石)で方角を確認することなく下山を始めた。そこに油断があった。

一度見失った現在位置を、もう一度把握し直すことはそれ程簡単なことではない。山に入ったならば、地図の上で自分は今およそどの辺りにいるのかを、常に把握するようにしなければならない。その上で、時々は現在位置をきちんと確定しながら進むことが大切となる。(2006/04/27追加訂正)

今回、高性能のコンパスを持ってはいた。しかし、おかしいと思うまでそれを使うことはなかった。そして、おかしいと気づいた時、ホワイト・アウトした中で目標物は何も見えず、コンパスは何の役にも立たなくなってしまった。

山荘から孫六温泉(乳頭温泉郷)への下山ルートは、二万五千分1地形図(ウォッちず-国土地理院HP)によれば、まず少し西に行ってすぐにやや南に振り1170mの尾根に乗る。しかし、吹雪でほとんど視界がきかなくなった中、完全にルートを見失いビバークを余儀なくされる(非常用簡易テント7つ)。

ベテラン組は、自分たちの現在位置は、乳頭温泉北側の蟹場(がにば)尾根である、と信じ込んでいた。つまり、入山地点の孫六温泉に下るには、少し南に振るべきポイントがある。しかし、ここを逆に田代平の方に北上してしまったらしい、と考えたのだろう。

迷いはしたけれども、そのまま秋田・岩手県境沿いを大きく北から回り込んで、(蟹場尾根を下って)乳頭温泉郷に向かっていると考えていた。しかし実際には、ほとんど逆方向に進んで岩手県側に大きく入り込んでしまっていた。ところが、だれもそこまでずれ込んでいるとは思ってもいなかった。

全員無事下山、中高年パワーを見せつけたとも言えるのだが

救助を求めるため、一人だけ先に下山させた時の携帯電話による連絡内容は、”<大釜温泉>(乳頭温泉郷)に向けて〇〇さんが下山する”、というものであった。しかし、一人で下山したその当人は、乳頭温泉郷とは反対側にある<葛根田>地熱発電所附近にたどり着いて、”ここはどこですか”、とたずねたという。(一人だけ単独で先行下山ということ自体よく理解できない)

当Web管理人(団塊の世代一期生)が、当日のメンバーに入ればおそらく最年少だろう。しかし、こうした中高年グループの人たちに山で置いていかれることなど珍しくもない。このメンバーも体力にはちょっと自信があったようである。

しかし、自分が先頭に立って山行の企画・運営ができるメンバーは何人いたのだろうか。他人にくっついて歩くだけならば、エネルギーの消費は少ない。マラソンのペースメーカーについていくようなものだ。全部で43名という大所帯とともに考えさせられる。

携帯電話は役にたったか

今回、携帯電話(合計7台所持)が活躍したとも、情報を混乱させたともいえるだろう。メンバーはあくまでも乳頭温泉郷に向かって下山していると信じていた。したがって、携帯で時たまもたらされる位置情報は誤ったものとなり、捜索隊を混乱させた。

さらに、携帯をかける相手が組合や家族であったため、捜索隊は又聞き情報を元に行動せざるを得なかった。なお、携帯の電池も当然のことながら、寒さによって容量は急速に低下する。肌で暖めながら使用したが、電池はそれ程長くは持たなかった。

登山届けのことなど

その他、登山届けが提出されていなくて、最初はメンバーの正確な人数すら把握できなかったこと等、反省点は多いようである。

2005年04月23日(土)追記
2005.04.02(土)初出

愛知大学山岳部薬師岳遭難事件

豪雪吹雪の中を登山中にホワイトアウトした場合、正しい進路を保つことは極めて困難であると容易に想像されます。
1963年(昭和38)正月の薬師岳(富山県)山頂付近で、愛知大学山岳部13名と日本歯科大学6名の生死を分けたものは、果たして何だったのでしょうか。

ここに愛知大学山岳部13名の遭難者の方々に対し謹んで哀悼の意を表します。


本多勝一著『極限の民族』朝日新聞社(1967年)
~カナダ・エスキモー、ニューギニア高地人、アラビア遊牧民~
注)Amazon.co.jpの表記(副題)は、「~アラビア遊牧」で終わっていることに気が付いた。しかしながら、表紙(カバー)にもあるように、「~アラビア遊牧民」が正しいことは間違いなく、本ページでは、副題「~アラビア遊牧民」として紹介する。(2022/04/15)

愛知大学山岳部薬師岳遭難事件とは

愛知大学山岳部13人のパーティーは、1963年1月(昭和38)正月登山として薬師岳(富山県)頂上を目指した。

しかし、後に “サンパチ豪雪” と名付けられた豪雪吹雪の中で山頂を目前にして登頂断念、下山途中〈ルートを誤り〉13人全員が遭難死した。

こうした判断の誤りは、豪雪吹雪をはじめとする様々な要因が積み重なった結果もたらされたものであろう。

ただし重要な事実として、地図とコンパス(磁石)を携行している者はパーティーの中に誰もいなかったことが挙げられる。

なお、“サンパチ豪雪”とは、1963年(昭和38)の冬に北陸から山陰を襲ったすさまじい降雪のことを指す。

新潟平野部(現・新潟市、旧・西蒲原郡)出身の妻は、当時二階から出入りした記憶があるという。
私が住んでいた広島県西部(瀬戸内沿岸部)でも、「朝起きると一面雪で白くなっており、それが昼には解けて無くなる」といったことを何日か繰り返していた。

薬師岳遭難事件は、そうした気象条件の中で起きた。

注:パーティーの編成(学年別人数)や行動記録(コースタイム)など、遭難誌『薬師』の中の記述同士や、そのほかの関係者資料との間で互いに矛盾している点が散見される。
当Webでは、できるだけ整合性の取れる数値のみを採用することを心掛けた。

学生時代の私は山歩きをしていた

3年生の夏、立山・剱岳から薬師岳へ縦走した

学生時代の私は山歩きをしていた。

剣山(徳島県)をホームグラウンドにしており、剣山だけで十数回登った経験がある。
夏には北アルプスに3年連続で通い、最後の年(3年生の時)には、立山・剱岳から薬師岳へ縦走した。
1968年7~8月(昭和43)のことである。

薬師岳では、その5年前の冬(1963年1月)、愛知大学山岳部パーティー13人全員が遭難死するという事件が起きていた。

愛知大学パーティー、薬師岳登頂断念す

リーダー層が手薄であり冬山経験者が少なかった

愛知大学山岳部には、遭難当時23名の部員が所属していた。
そして、そのうちの13名が薬師岳合宿に参加して、全員遭難・帰らぬ人となった。

13名の内訳は、四年生2名(リーダー・サブリーダー)、二年生5名、そして一年生6名である。

「当初の計画段階では、(中略)20名が予定されていた。しかし、実際には(中略)7名は就職運動、家庭事情などの都合により、合宿参加が不可能となった」(「薬師」p.17)。
参加を取りやめたのは、4年生2名、2年生1名、そして1年生4名の合計7名である。

なお、三年生部員が退部していたため、冬山経験者の少ない編成となっている。

太郎小屋到着から遭難までの足取り(組織の乱れ)

愛知大学パーティーの先発隊は、12月29日に太郎小屋(標高2320m台)に到着した。
しかしながら、30日・31日と悪天候で〈沈殿〉したため、最終キャンプを設営予定であった薬師平(標高2470m)まで進むことはできなかった。

そうこうしているうちに、12月31日には13名全員が太郎小屋に集結する形となった。
そして、さらに元旦も悪天候のためそのまま小屋で〈沈殿〉、1月2日になり13名全員が一緒に小屋を出発した(午前5時40分)。

つまり、「サポートおよび第三キャンプ設営(薬師平)を目的とした隊と登頂隊とが同時に出発したわけである」(「薬師」p.138)。

そして、途中の薬師平で第三キャンプ設営後、13名全員でそのまま薬師岳山頂(三角点2926.0m)を目指した。

このことは、「これまで一部計画を修正しつつも一応沿ってきた合宿計画が完全に崩され(「薬師」p.139)」たことを意味している。

注)沈殿とは、悪天候などのため、一時行動を中止して山小屋やテント内に留まることを言う。
山用語としてごく一般的に使われている。
薬学部出身の私には、沈殿反応との関係で頭に入りやすい用語でもある。

地図とコンパス(磁石)を携行していなかった

愛知大学パーティーは、頂上まであとわずか400mくらい(時間にして約35分)を残して登頂を断念した。

そして、下山を開始して間もなくの地点(分岐点標高2900m台)で、〈ほんのわずか右〉に振れる主尾根を外れて、〈90度近く左〉に振れる東南尾根に足を踏み入れてしまった。
つまり、進むべき(下山すべき)方角を取り違えてしまったのである。

残念ながら、彼らは地図とコンパス(磁石)を携行していなかった。

東南尾根にはもちろんテント(薬師平)は無い。
1月2日夜はツエルト二つに分かれてビバークしたものの、翌3日以降も東南尾根から主尾根に戻ることはできなかった。

記録は翌3日で途絶えている。
なお、最後の遺体発見は10月14日のことであった(「薬師」p.125)。

注:標高は電子国土Web(2019/02/16確認)による

愛知大学山岳部遭難誌『薬師』

愛知大学山岳部遭難誌『薬師』(1968年刊)は、薬師岳遭難事件の合宿計画から遭難・捜索、そしてその後についてまとめた追悼誌(書籍)である。

『薬師』は、遭難原因について明確には述べていない

『薬師』では、遭難原因について、以下の4点から種々検討を加えている。

  • メンバー構成について
  • 偵察について
  • 太郎小屋以後の行動について
  • ビバークについて

しかしながら、決定的な遭難原因は何だったのか、自らきちんと指摘するまでには至っていない
以下にて同書から少し引用してみよう。

頂上直下より東南尾根に迷い込んだ地点における進路決定の誤りについて:

次に、頂上直下より東南尾根に迷い込んだ地点における進路決定の誤りも、一つの重大な遭難要因としてあげられる。

この点で、磁石、地図が一部太郎小屋の中で発見され、遺体発見地点付近一帯には何も発見されなかったことは、登頂隊が携帯していなかったものと判断されよう。もし、実際この判断の如く磁石も地図もまったく持っていなかったとすれば、リーダー、装備係の重大な失敗で、弁護の余地はない。だが、万一携行していたにせよ進路の誤りの発見の遅れは、その効用をほとんど無効にしたかも知れない。この磁石、地図の問題は、いわば登山のまったく基礎的な問題で、登頂隊が忘れていたとすれば大いに反省すべきことである。

『薬師』(pp.140–141)

決定的な遭難原因といったものは指摘できない:

以上、全員遭難死を招いた大アクシデントについて、若干の推理をまじえながら原因の追究を進めてきた。が、ここで決定的な遭難原因といったものは指摘できない。これまでにあげた要因が、いくつか相互作用しながら、決定的、かつ致命的なアクシデントとなったのであろう。

『薬師』(p.142)

日本歯科大学パーティーの場合

太郎小屋には、前年の大晦日から、日本歯科大学山岳部6名のパーティーも同宿していた。
迎えて元旦は、一日中地吹雪にて両隊とも沈殿。

注:日本歯科大学隊は、後日捜索隊に加わるとともに遭難誌『薬師』(pp.58-60)では、「日本歯科大学パーティーの行動記録」を提供している。

愛知大学隊と競って薬師岳山頂を目指す

翌2日、愛知大学隊(午前5時40分発)を追って、日本歯科大学隊(午前7時20分発)も薬師岳目指して出発した。

途中の薬師平で、愛知大学隊が「六~七人用冬用テント設営中に遭う」。
そしてその後は、両隊が「頂上をめざし・・・平行して行動する(ママ)」場面もあった(「薬師」p.59)。

薬師岳山頂まで後400mくらいの地点で、先行する愛知大学隊が少し長めの休憩を取った。
それを日本歯科大学隊が追い抜いていった。
そしてその後、約35分で薬師岳山頂に達した。

これに対して、愛知大学隊は、追い抜かれた地点で登頂を断念して下山を開始した。

三度も進路を失ったが、ルート偵察を繰り返して、無事下山する

日本歯科大学隊は、薬師岳山頂にて「しばらく待ったがAAC(Web作者注:愛知大学隊)の姿は現われず・・・」、下山開始。

下山中も、日本歯科大学隊が愛知大学隊の姿を見ることはなく、「(愛知大学隊の)テントは外から閉められている。トレースはなし」という状態であった。

日本歯科大学隊は、「強い風雪のため三度進路を失なう。サブリーダー二名を組ませルート偵察を行いながら下山」という状況の中で、太郎小屋に無事帰着。
なお、往路の薬師平から薬師岳山頂に向かう途中では、「標識をたてながら行動」して下山に備えていた。

翌3日は、強風・視界不良で愛知大学隊(薬師平のテント)の偵察に出ることかなわず、下山も中止して小屋に留まる。
4日になり、「食料も本日の晩の分までしかない」ことから、下山実行。

なお、愛知大学隊の行方については、気掛かりとはいえ、悪天候の中で捜索に出る余裕はなかった。

以上、「」内は、遭難誌参考資料(日本歯科大学パーティーの行動記録)pp.58–61から抜粋。
そのほか、遭難隊員(記録員)による行動記録pp.39–48参照。

参考:日本歯科大学隊の行動表(1963年1月2日)

太郎小屋7:20~薬師平8:20~薬師岳(9:55、10:05)~薬師平13:00~太郎小屋14:25
(薬師岳ピストン)

  • 登り:太郎小屋(1時間)薬師平(1時間35分)薬師岳
    小計2時間35分
  • 下り:薬師岳(2時間55分)薬師平(1時間25分)太郎小屋
    小計4時間20分

日本歯科大学隊は、太郎小屋~薬師平~薬師岳を1日で一気に登り下りしている。
また、登りよりも下りで大幅に時間がかかっていることが分かる。
下りではそれだけ強烈に吹雪かれたのだろう。

太郎小屋がポイントだ

愛知大学パーティーの登山計画は次のとおりであった。

すなわち、12月25日に名古屋を出発、折立、太郎小屋付近、薬師平とキャンプを進めて元日に登頂、1月6日に下山予定。
しかし、予定日を一週間過ぎても彼らは下山してこない。

予備日ぎりぎりの1月14日になり、愛知大学当局から愛知県警を通じて富山県警に捜索願いが出された。

翌15日から吹雪をついて捜索活動が開始され、報道合戦も過熱化した。
もし、愛知大パーティーが太郎小屋に避難してさえいれば、とりあえず生命に別状はないだろう。
もしも小屋にいないとなれば・・・。
こうして太郎小屋が最大の焦点となった。

本多勝一記者と藤木高嶺写真部員(ともに朝日新聞社)の活躍

二人共、ヘリコプターを利用して、捜索隊の先を行く

藤木高嶺・写真部員(朝日新聞社)は、1月18日午後、小型ヘリで捜索隊を飛び越え、有峰ダムの北陸電力折立発電所に着いた。
そして翌日から雪のなかをスキーで太郎小屋を目差して進んだ(ガイドの志鷹敬三さん同行)。

一方、同じく朝日新聞の本多勝一・記者は、天候の晴れ間をついて大型ヘリコプターを太郎小屋まで直接飛ばすタイミングを狙っていた。

藤木は、途中で「愛知大生、食糧残したまま」「折立の飯場に、藤木写真部員確認」という特ダネをものにしながら、1月22日昼前に三角点到着、雪洞を掘る。
あと1日で太郎小屋という位置である。

朝日新聞号外、来た・見た・いなかった

雪洞を掘り終わったちょうどその時、藤木のハンディに入ってきた音声は、「太郎小屋に人影なし・・・・、太郎小屋に人影なし・・・・」。

本多勝一記者(及び鳥光資久写真部員)が大型ジェットヘリ(シコルスキーS62)で小屋に強行着陸して捜索、その結果を受けて上空で旋回する朝日新聞本社機「朝風」から大阪本社へ第一報を伝える声であった。

号外「来た、見た、いなかった ― 太郎小屋に人影なし」

藤木高嶺、雪洞の中でがんばる

さて、記事送信の段になって太郎小屋と富山支局との連絡が取れない。
近くの山がじゃまをして電波障害を起こしているようである。
それに気付いた藤木は、雪洞の中で中継役を努める決意をする。

こうして出来上がった当日(1月22日)夕刊の大見出し
「太郎小屋に人影なし、薬師岳遭難、本社記者ヘリで着陸」

それを受けて、遭難対策本部も「愛知大の13人絶望」と断定した。(同新聞記事見出しより)

なお、太郎小屋では、その後も本多ほか数名(いずれも朝日新聞社)による捜索が続けられた。
注:森田初秋、杉崎弘之の両写真部員がジェットヘリで加わる。

藤木自身は、それから6日間、自らも「テント、雪に埋没、第1キャンプを発見」などの特ダネをものにしながら雪洞の中でがんばり、太郎小屋と富山支局の交信を中継するアンテナ役を果たした。
なお、いくら外が寒くても雪洞の中は零度以下になることはなく、ローソク1本で1度は暖まるという。

富山県警と愛知大学の合同捜索隊結成

捜索隊到着するも人影無し

1月16日、合同捜索隊が富山を出発して現地へ向かうも、悪天候のため幾度となく停滞を余儀なくされる。

1月25日、先行捜索隊9人が太郎小屋に到着、翌26日には、県警と大学の合同捜索本部は「27日で捜索を打ち切る」と決めた。

捜索隊が現場に到着するまで10日ほどかかっていた。
隊員の疲労は激しく食料も残り少ない。
そして、「朝日」の捜索により全員絶望はほぼ確実である。
こうした状況での早い決断であったと思われる。

遺体発見はその二か月後のことである。
まだ雪深い3月の捜索はこれまた異例のことであろう。

注:プロジェクトX~挑戦者たち~『魔の山大遭難 決死の救出劇』(NHK出版、Kindle版)には、救助隊が太郎小屋に到着した時の様子について、「祈るような気持ちで太郎小屋の戸を開けた」とある。

残念ながら、13人全員が小屋いないという“朝日”の捜索結果(22日)は、救助隊が太郎小屋に到着する前に伝わっていたはずである。

『薬師』の写真(pp.48-49の間)を見ると、現地ではMOTOROLA製のトランシーバーを使っている。
写真キャプションには、「現地から本部へ」とある。
そして、その隣の写真には、遭難対策本部に置かれた通信機器で、現地と通話をする様子が映し出されている。
キャプションは、「本部から現地へ」となっている。

プロジェクトX~挑戦者たち~富山県警山岳警備隊


『魔の山大遭難 決死の救出劇』―壁を崩せ 不屈の闘志 プロジェクトX~挑戦者たち~NHK出版(2012年)

この薬師岳捜索要請(1963年1月)の第一報について、プロジェクトX~挑戦者たち~『魔の山大遭難 決死の救出劇』(NHK出版、Kindle版)は、次のように述べている。

「1月13日。剱岳のふもと、富山県上市(かみいち)町の警察署に、突然連絡が入った」。
この点について『薬師』p.49は、「1月14日、~愛知県警を通じて富山県警に捜索を要請」したとしている(上述)。

なお、『魔の山大遭難 決死の救出劇』は、1969年1月(昭和44)の剱岳大量遭難時の富山県警山岳警備隊の活躍(15パーティー81人中、救出62人、死亡・行方不明19人)を中心にまとめた書籍である。

富山県警山岳警備隊は、愛知大学薬師岳遭難事件(1963年1月)を教訓として、事件の2年後(1965年)に発足している。

初代隊長は、富山県警上市署の鑑識係・伊藤忠夫である。
この伊藤こそ、愛知大学薬師岳遭難事件の時、隊長として捜索に当たった人物である。
なお、この時の捜索は、警察隊と愛知大学関係者による合同救援隊として行われた。

佐伯文蔵さんの言葉

佐伯文蔵さん(剱澤小屋(剣沢小屋)主人)は、合同捜索隊のガイドを務めた。
そして、先行捜索隊9人のうちの一人として、最初に太郎小屋に到達した。
その佐伯さんは、薬師について次のように語っている。(引用:BEACON―うぇーぶ)

「剱の大将」と呼ばれた北アルプス切っての名ガイド佐伯文蔵さんは、こんな言葉を遺している。

「吹雪の薬師は、歩荷(ぼっか)でも敬遠する。私も全く自信はない・・・・」

引用:BEACON―うぇーぶ(下記参考資料)

後に、本多・藤木のコンビでカナダ・イニュイ取材を行う

さて、本多勝一と藤木高嶺(当時31歳と36歳)はこの時が初対面であった。
そして、この年のカナダ・イニュイ取材(カナダ・エスキモー、51回連載)をはじめとする極限の民族3部作、さらにそれに続くベトナム取材でコンビを組むことになる。

参考URL

「本多勝一」論 | 団塊の世代一代記(Akimasa Net)
「堀江謙一とマーメイド」 団塊の世代一代記(Akimasa Net)

参考資料

キーワード:
本多勝一&薬師岳
藤木高嶺&薬師岳

  • 本多勝一著『極限の民族』朝日新聞社(1967年)
    ~カナダ・エスキモー、ニューギニア高地人、アラビア遊牧~
  • 本多勝一著『新版・山を考える』朝日文庫(1998年)新版第3刷
  • 藤木高嶺著『極限の山 幻の民』立風書房(1977年)
  • 藤木高嶺著『チャレンジ精神を育てよう』くもん出版(1987年)
  • 愛知大学山岳部薬師岳遭難誌編集委員会編『薬師』1968年9月(非売品)
  • 山田義郎『山岳部「薬師岳遭難」』愛知大学史研究(創刊号,2007年)pp.83-95
  • BEACON―うぇーぶ!!トピックス(20)
    「第20話 あぁ、恨みは深し薬師岳 ~雪洞の藤木アンテナ~」(2018/08/20再確認)
    https://www.icom.co.jp/beacon/backnumber/web_topix/020.html
  • プロジェクトX~挑戦者たち~『魔の山大遭難 決死の救出劇』NHK出版(2012年)
  • 太郎小屋:
    戦前に「太郎兵衛平小屋」として建てられる
    1955年に「太郎小屋」として再建(初代は損壊・消失)
    1965年に「太郎平小屋」の看板を掲げる(筆は田部重治氏)
    このため現在は、通称「太郎平小屋」で通っている
  • 太郎平小屋:
    秋の北アルプス、太郎平小屋と薬師岳(写真キャプション)
    『賢い山のウェア選択術』 ― どんなときも快適にすごすために ―
    細田充著、山と渓谷社(1999年)p.29

2013.05.26(日)遭難誌『薬師』より引用
2003.03.15(土)初出

富士山

一富士、二鷹、三茄子と言われ、初夢のおめでたい題材にもあげられる富士山は、標高、姿・形どれをとってもやはり日本一の山です。

品川のホテルから富士山を見る(カシミール展望図)


品川のホテルからみた富士山
(方位は真北からの角度を示す)

出張でJR品川駅近くのホテルに泊まる。朝起きて、狭い部屋の西側窓にかかるカーテンを開けると、前衛の山並の向こうに白い頭を出した山が見える。富士山である。

AビルとBビルの谷間に、ちょうどすっぽりとはまり込んでいる。手前丹沢山塊の塔ノ岳は、Aビルの後ろに隠れる。蛭ヶ岳の尖がりを見て、その右側は一旦Bビルに隠れ、大室山がさらにその右隣のビル屋上にわずかにのぞいている。菜畑山~赤鞍岳~1470.3mがホテル煙突(円筒形)の上に見える。その右横は、同ホテル内別棟に隠れる。

A:東五反田3-20-14、B:高輪4-11-35、ホテル1477号室。

1996年元旦 年賀状(48歳年男)

1948年(昭和23)1月子年生まれ 今年48歳、年男です。初夢のおめでたいものに 一富士、二鷹、三茄子といいます。今年は富士山のお話から始めましょう。

学生時代の私は山歩きをしていました。剣山(徳島県)をホームグラウンドにしており、十数回登りました。夏には北アルプスに3年連続で通いました。剱岳-富山県-では御来光を拝むことができました。雲海の向こうに生まれて初めて富士山を見ました。

富士を間近に見たのは初めて乗った新幹線の車窓からでした。本社での入社後研修(大阪府)を終えて赴任地(新潟県)に向かう途中のことでした。富士山は関東の各地から見ることができます。冬の雪で白くなったころが特にきれいです。相模湾(神奈川県)の[[ヨット]]からは青い海に浮かぶ白い富士を見ました。甲府(山梨県)に住んでいたころは、自宅から毎日富士山を眺めていました。

富士山に実際に登る機会はありませんでした。一度は登ってみたい山です。第72回[[東京箱根間往復大学駅伝競争>陸上競技(駅伝)]](東京都)、ことしの富士はどの様な表情を見せてくれるのでしょうか。とても楽しみです。

二女結婚式

1999.09.16(木)
ホノルル国際空港 11:10発
1999.09.17(金)
関西国際空港 13:40着
(予定より1時間短縮?)

今年ほんとに久しぶりに2度目の海外旅行に出かけた。2番目の娘がハワイで結婚式をあげるというのでついていったのである。その帰途、飛行機(JAL)の中から富士山をみた。歌の文句ではないが、雲の上にぽっかりと青い頭を出しており、すぐに富士山とわかった。敗戦直前、アメリカ軍の爆撃機が日本を目指すのに富士山を目標にして飛んできた、というのが実感できる光景であった。

村山古道100年ぶり復活

中国新聞記事(2009/07/26付け)

富士山最古の修験道整備
広島市出身の登山家、畠堀操八さん自費出版
登山道全図「村山古道を歩く」送料込み千円

2万5千分の1地形図にルートを落とし込み、写真50点をはめこむ
トイレ情報やルート選択の注意事項記入
横38㎝、縦108㎝

村山古道とは

村山古道とは、その昔、修験行者たちが歩いた富士山麓の道のことである。富士山南面の村山浅間神社(静岡県富士宮市)から新6合目(標高2,500m)に至るもので、標高差約2000m、その距離約20kmに及んでいた。平安末期に開かれたとされており、本来は神仏混交のものであった。しかし、明治初期の廃仏棄釈の影響を受け、道沿いには破壊された修験道遺跡などが残っている。