坊がつる讃歌:大手新聞記事の誤報がインターネット上を駆け回っている

このページは、下記電子書籍の資料として使っています。


『坊がつる讃歌 誕生物語』
広島高師をめぐる人と人のつながりを追って
初版:2017年7月17日(電子書籍:アマゾン Kindle版)
二版:2019年3月10日
(最新版:2019/03/11刷)

今回の本書第2版では、「山男の歌」から「坊がつる賛歌」そして「坊がつる讃歌」への変遷過程や「山男の歌」の作詞・作曲者探しの過程において、新聞報道がどのようになされたのか改めて検討してみました。

坊がつる讃歌:インターネット上に流れ続ける誤報の原因(ルーツ)を探る

主な参考資料(今回追加)は以下のとおりです。
注:具体的な引用文(引用文献)は、全て『坊がつる讃歌 誕生物語』に記載しています。

中国新聞記事「ルーツは広島高師山岳部歌」、1978年7月9日付け
読売新聞記事「原作者は神尾千葉大学名誉教授」、1978年7月9日付け
中国新聞記事「作曲者見つかる、宇都宮で健在 武山さん」、1978年9月3日付け
読売新聞記事「作曲者もわかる、宇都宮大学名誉教授・武山信治さん」、1978年9月10日付け

各紙には、もちろん貴重な証言などが満載されており、改めて新聞記事検索の醍醐味を感じます。それと同時に、インターネット情報の中には、新聞記事の誤報あるいは曖昧な表現が訂正されることなく、そのまま流され続けている例がいかに多いかに気付かされます。

例えば、上記読売新聞記事7月9日付け(署名入り記事)で
「広島大に残されている資料には、「山岳部第一歌・山男」(昭和十五年八月完成)となっていて、作詞・神尾明生、作曲・竹山仙史、編曲・芦立寛の名前が記載されている」
としています。

つまり、神尾「明正」を「明生」と誤記しています。

この記事こそ、インターネット上で「広島大学に残っている資料では「作詞:神尾明生、作曲:竹山仙史、編曲:芦立寛」となっているものの、原爆で古い資料が焼失したため、それ以上の詳しいことは不明」とする書き込みが独り歩きする原因(ルーツ)となっているようです。

ここでは、地方紙の正しい情報は打ち消されてしまっています。

「廣島高師の山男」作詞・作曲者のうち、作詞者(神尾明正)はこうして特定された

芹洋子が「坊がつる讃歌」を初めて発表したのは、NHK「みんなのうた」(1978年6月・7月)でした。

芹洋子は、その前年の夏(1977年)、阿蘇山麓(熊本県)で開かれたコンサートの後で、「坊がつる賛歌」(元歌は「廣島高師の山男」)を聞いて大いに気に入りました。そして、それを東京に持ち帰り、青木望が編曲をするなどしてレコード化の準備を進めました。

ところが、元歌の作詞・作曲者が分からず、著作権をクリアーできないでいました。

坊がつる賛歌(1952年7月作成)は、坊がつる(大分県竹田市)で、九州大学の学生3名によって作られました。そこから、元歌が「廣島高師の山男」(広島県)であることが分かりました。そして、何とか作詞・作曲者の名前だけは分かった状態で、NHK「みんなのうた」の放送に入りました。

「山男の歌」は、「神尾明正(かんお・あきまさ)作詞、竹山仙史作曲」で、戦前の昭和12年ごろ(1937年)作詞、昭和15年夏(1940年)に作曲されたものだったのです。しかしながら、実際に作詞・作曲者がどこの誰かは全く分かりませんでした。

注:竹山仙史はペンネームで、本名が武山信治(たけやま・しんじ)さんであることが分かったのは、NHK「みんなのうた」の放送が終わった後のことです。

さて、神尾さんが「山男の歌」を作詞したのは、広島高師の助手補として勤務(昭和11年3月~昭和15年3月)していた時でした。

そして、作詞者が神尾明正さん(千葉大学名誉教授)だと特定されたのは、戦後長らく奉職した千葉大学をちょうど定年退官(1978年3月、昭和53)した数か月後(1978年7月)のことでした。

既に、NHK「みんなのうた」で「坊がつる讃歌」の放送が始まっていました。

「山男の歌」の作詞・作曲者探しに非常に熱心だったのは、杉山浩さん(広島高師山岳部出身)です。杉山浩さん(昭和17年・広島高師卒)は、栃木県で教員になり、当時は栃木県立今市高校校長を務めていました。

杉山さんたち広島高師関係者の調査で、広島高師山岳部の記録帳が代々の山岳部リーダーによって受け継がれており、その資料が保管されていることが分かりました。そしてそこには、「神尾明正作詞、竹山仙史作曲、芦立寛編曲」と書かれていました。

作詞・作曲者は、当然ながら高師卒業生あるいは高師関係者だろうと想像されました。ところが、該当する人物は浮かび上がってきませんでした。

さて、神尾明正さん(東京都出身)は、京都大学(地理学)を卒業した後、直ちに広島高師に就職をしました。そして、山岳部顧問となります。ところが、杉山さん(広島高師山岳部出身)は神尾明正さんの名前を知らずにいたようです。そのほかに神尾という名前を覚えている人もいませんでした。

こうして、名前は分かったが具体的に誰だか全く分からない状態に陥ってしまいました。

そうした中で、杉山さん以外の高師関係者が、当時の地理学助手補に神尾という名前の人物がいたことを思い出しました。そして、その人物こそ神尾明正さん(千葉大学名誉教授)であることが分かったのです。

坊がつる讃歌

このページを「加筆修正の上、まとめ直して」電子書籍(下記)として出版しています。つまり、このページは、電子書籍(アマゾン Kindle版)作成のための基礎資料という位置付けになります。全体的な整合性は、書籍版(アマゾン Kindle版)の中でとっています。


『坊がつる讃歌 誕生物語』
~広島高師をめぐる人と人のつながりを追って~
初版:2017年7月17日(電子書籍:アマゾン Kindle版)
二版:2019年3月10日
(最新:2019/09/23刷)

芹洋子が歌う「坊がつる〈讃歌〉」(1978年発表)は、1952年(昭和27)夏に坊がつる(大分県竹田市)で作られた「坊がつる〈賛歌〉」を多少アレンジしたものとなっています。そしてその「坊がつる〈賛歌〉」は、九州大学の学生3人によって、広島高師「山男の歌」(昭和12年作詞・15年作曲)を元歌として作られました。

あらまし(概要)

「坊がつる讃歌」

  • 「作詞:神尾明正、補作詞:松本征夫、作曲:竹山仙史、編曲:青木望」(NHK「みんなのうた」)
  • 「作詞:神尾明正、松本徰夫、作曲:竹山仙史、編曲:青木望」(キングレコード(株))

『坊がつる讃歌誕生物語』の第2版(2019/03/10)では、資料として、原曲「山男の歌」の作詞・作曲者探しの結果を伝える新聞記事(1978年7月、9月)を新たに加えて、全体的に整合性の取れる文章として完成させました。(2019/03/20最新)

なお、広島県立図書館作成のレファレンス資料として次の資料があり、貴重な参考文献が数点紹介されています。

「「坊がつる讃歌」(ぼうがつるさんか)は,昭和15年に作曲された広島大学山岳部の歌と関係があるらしい。このことについて書いてある資料はないか。」、『レファレンス協同データベース』(広島県立図書館2013年7月23日登録)

ただし、そこで紹介されている参考文献そのものに明らかな間違いや曖昧な点を幾つも含んでいます。レファレンス資料(広島県立図書館作成)では、それら参考資料の正確度までは吟味していません。つまり、明らかな間違いや曖昧な点を含んだままとなっています。

今回は、従来から入手していたそれらの参考文献と、新たに入手した上記新聞記事を中心に相互参照を行いながら作業を進めました。その結果、レファレンス資料(広島県立図書館作成)を補完する正確度の高い資料とすることができました。

特に、現在インターネット上に流布している情報の幾つかには疑問符を付けています。

⇒「坊がつる讃歌:大手新聞記事の誤報がインターネット上を駆け回っている

さて、芹洋子が歌って大ヒットした「坊がつる讃歌」は、私の愛唱歌の一つです。

芹洋子の「坊がつる讃歌」(1978年6月発表)は、坊がつる(大分県竹田市)にある山小屋で作られた「坊がつる賛歌」(1952年7月作成)を多少アレンジしたものになっています。

「坊がつる賛歌」を作ったのは九州大学の学生3人です。「坊がつる賛歌」には元歌があり、「廣島高師の山男」(広島県、1940年8月完成)の替え歌として作られました。
注:廣島高師(ひろしまこうし)

「廣島高師の山男」とは、廣島高等師範学校山岳部第一歌のことで、単に「山男の歌」とも呼ばれています。戦後も広島高師の流れをくむ広島大学で歌われ続けています。

ここで廣島高師(廣島高等師範学校)とは、官立の中等学校男子教員養成機関のことであり、戦前の広島には、旧制の中等学校教員を目指して全国から教師の卵が大勢集まってきました。

「山男の歌」を作詞したのは、東京都出身の神尾明正(かんお・あきまさ)です。

神尾は、京都大学(地理学専攻)を卒業後、直ちに広島高師の助手補として広島で暮らすようになります。そして、休日は山登りに明け暮れる生活を送りながら、翌年の1937年(昭和12)ごろ「山男の歌」を作詞しました。

歌詞ができてから3年後(1940年8月、昭和15)、広島高師山岳部のリーダーだった宮城県出身の芦立寛(昭和16年・広島高師卒)が、当時、栃木県師範学校の音楽教師をしていた義兄・竹山仙史(本名・武山信治)に作曲を依頼しました。

注:芦立寛(あしたて・ひろし)
注:武山信治(たけやま・しんじ)

武山は、芦立と同じく宮城県出身で、芦立の実姉の夫にあたる人物です。芦立は、完成した「山男の歌」を歌いやすくするため多少手を入れました。

広島高師「山男の歌」は、全国から広島に集まった教師志望の学生の間で歌われ、やがて、高師卒業とともに全国の中等学校(旧制)に拡散していきました。

そうしたルートの中から、「坊がつる賛歌」が生まれることになります。

まず、広島高師を卒業(昭和17年卒)した葱花勲(ぎぼう・いさお)が、大分県立日田中学校(旧制中学校)に赴任します。葱花は同校で山岳部顧問になり、広島で覚えた「山男の歌」をみんなに教えました。

そこに梅木秀徳が入学(入部)してきて、今度は梅木が「山男の歌」を覚えました。戦後間もなくの頃で、旧制中学から新制高校に変わっていました。

梅木が覚えた「山男の歌」をベースにして、坊がつる(大分県竹田市)にある山小屋(あせび小屋)で、九州大学の学生3名によって替え歌の「坊がつる賛歌」が作られました。1952年7月(昭和27)のことです。

あせび小屋は九州山小屋の会所有であり、九州大学の学生3名はいずれも同会に所属していました。「坊がつる賛歌」を作った時は3人で小屋番をしており、雨続きで登山客が途切れたため、暇に任せて作った歌の一つが「坊がつる賛歌」だったのです。

さて、坊がつるを取り巻く九重連山は、その昔から山岳宗教の聖地とされてきました。その中心だったのが、九重山白水寺法華院(天台宗)です。法華院は、今では法華院温泉山荘として代々受け継がれています。

また、九州山小屋の会は、後に「筑紫山岳会」の名前を復活させ、さらに「しんつくし山岳会」となります。法華院温泉山荘とも深いつながりを持っています。そうした環境の中で「坊がつる賛歌」が生まれ、多くの人たちとの交流の中で育まれていったのです。

ただし、それでもなお「坊がつる賛歌」が九州以外の地域に広がることはありませんでした。「坊がつる賛歌」が全国的に知られるきっかけを作ったのは、歌手の芹洋子です。

芹洋子が初めて「坊がつる賛歌」を聴いたのは、1977年(昭和52)夏、阿蘇山麓で開かれた野外コンサートでのことでした。

芹は「坊がつる賛歌」を大いに気に入りました。そしてその翌年、1978年(昭和53年6月・7月)にNHK「みんなのうた」で歌って大ヒットしました。

芹洋子は、その年大晦日のNHK紅白歌合戦(第29回)で紅白初出場を果たし、「坊がつる讃歌」を歌いました。

つまり、広島で誕生した歌(1940年完成)が大分(坊がつる)で生まれ変わり(1952年作成)、九州で歌い継がれながら、紅白歌合戦で歌われる(1978年発表)までに成長していったのです。

ところで、芹洋子が最初に「坊がつる賛歌」を聞いたとき、原曲の作詞・作曲者名は分からないままでした。

そこで、NHK「みんなのうた」(1978年)の放送及びレコード化に向けて、元歌「山男の歌」の作詞・作曲者捜しが始まりました。著作権をクリアーするためにはどうしても必要な作業でした。

調べを進めていくうちに、広島高師山岳部の記録帳が、昭和40年(1965年)ごろ見つかり保管されていることが分かりました。

そしてそれには、「山男の歌」の譜面と歌詞が記録されており、「神尾明正作詞、竹山仙史作曲、芦立寛編曲」となっていました。(竹山仙史はペンネーム、本名は武山信治)

これらの調査では、栃木県在住の杉山浩という教師(昭和17年・広島高師卒)が大いに活躍しました。

杉山は、芦立の元に曲が届いた時、広島で一緒に喜び一緒に歌った同じ山岳部員でした。ところが不思議なことに、杉山は芦立から「曲は義兄に作ってもらった」ということを聞いていなかったようです。

また、神尾(作詞者)が広島高師山岳部の顧問をしていたことも記憶に残っていなかったようです。

それはともかく、その後も多くの広島高師関係者が連携することによって、作詞・作曲者が判明しました。

作詞者の神尾明正は、戦後長らく千葉大学(千葉県)に奉職しました。

名物教師として知られていたようで、千葉大学には千葉大学「山男の歌」が歌い継がれています。ところがこれまた不思議なことに、千葉大学「山男の歌」を広めたのは神尾明正ではありませんでした。

作曲者の武山信治は、戦前から長らく宇都宮大学(栃木県)に奉職しました。宇都宮大学に「山恋い」という歌があるというのですが、詳細は不明です。

「山男の歌」制定のキーマンとも言うべき芦立寛は、広島高師から広島文理科大学に進み、卒後は山形県で教職に就きました。そして、戦後すぐに故郷の宮城県に戻り、後に宮城県農業短期大学教授になりました。

広島県出身の私は、高校卒業後約二十年間を広島県外で過ごしました。そして、50歳を過ぎてから広島の山に登り始めました。その多くは、「山男の歌」の作詞者である神尾明正が足跡を残した山域です。

武山信治は、義弟から作曲を依頼され一晩で曲を完成させました。そして後年、次のように語っています。

「詩の内容に感動しましてね。山男たちが、いこいを感じる曲をつくろうと、直感はそれでした」。(読売新聞記事1978年9月10日付け)

「広島高師の山男」、「坊がつる賛歌」そして「坊がつる讃歌」及び広島から各地に伝播して伝わる「山男の歌」が、今後も末永く歌い継がれていくことを祈っています。

最後に、神尾は「山男の歌」作詞にあたって大山(鳥取県)あたりをイメージしたと語ったとされています。出所は次の新聞記事のようです。

「伯耆大山あたりをイメージに四季の山の情景を書いた記憶はあるんです」。(読売新聞記事1978年7月9日付け)

しかし、大山は広島市内からは遠く、とてもホームグランドにはなり得ません。もしも神尾が大山に登った経験があるとしても、回数はそれほど多くないと思われます。

神尾自身は、上記新聞記事の出た約半年後に手記を書いています。その文章は、作詞者自身による「山男の歌」の背景説明ともなっています。(「早稲田学報」p.26)

例えば、「山男の歌」5番は冬(スキー)、そして2番(坊がつる讃歌1番)は春(残雪の頃)を歌っています。そして、手記は次の言葉で締めくくられています。

「脊梁山脈の割に広い尾根筋を、日本海と瀬戸内海とを一望の下におさめられる雄大そのものの景色の中ですべれた楽しみは、生涯忘れることができない」。

ここで中国脊梁山脈とあるのは、決して、日本海に面した独立峰である大山のイメージではありません。

神尾が冬場頻回に通った山域が、広島市内からほど近い広島県西部の山域(広島・島根県境尾根)であることは、神尾手記からも読み取ることができます。

当該山域では、年によっては5月上旬まで雪の残ることがあります。雪山は、広島市内からすぐ手の届く位置にあるのです。

第二版発売に寄せて

今回の本書第2版では、「山男の歌」から「坊がつる賛歌」そして「坊がつる讃歌」への変遷過程や「山男の歌」の作詞・作曲者探しの過程について、新聞報道がどのようになされたのか改めて検討してみました。

主な参考資料(今回追加)は以下のとおりです。

中国新聞記事「ルーツは広島高師山岳部歌」、1978年7月9日付け
読売新聞記事「原作者は神尾千葉大学名誉教授」、1978年7月9日付け
中国新聞記事「作曲者見つかる、宇都宮で健在 武山さん」、1978年9月3日付け
読売新聞記事「作曲者もわかる、宇都宮大学名誉教授・武山信治さん」、1978年9月10日付け

各紙には、もちろん貴重な証言などが満載されており、改めて新聞記事検索の醍醐味を感じます。それと同時に、インターネット情報の中には、新聞記事の誤報あるいは曖昧な表現が訂正されることなく、そのまま流され続けている例がいかに多いかに気付かされます。

例えば、上記全国紙7月9日付け(署名入り記事)で
「広島大に残されている資料には、「山岳部第一歌・山男」(昭和十五年八月完成)となっていて、作詞・神尾明生、作曲・竹山仙史、編曲・芦立寛の名前が記載されている」
としています。

つまり、神尾「明正」を「明生」と誤記しています。

この記事こそ、インターネット上で「広島大学に残っている資料では「作詞:神尾明生、作曲:竹山仙史、編曲:芦立寛」となっているものの、原爆で古い資料が焼失したため、それ以上の詳しいことは不明」とする書き込みが独り歩きする原因(ルーツ)となっているようです。

ここでは、地方紙の正しい情報は打ち消されてしまっています。

また、「山男の歌」を作詞するにあたって、神尾は大山(鳥取県)辺りの四季をイメージして作ったとも伝えられています。これも上記の新聞記事が出所のようです。

「伯耆大山あたりをイメージに四季の山の情景を書いた記憶はあるんです」となっています。

ただし、大山は広島からは遠く、少なくともホームグランドとして頻回に入山できる山域ではありません。

「山男の歌」が広島の山々の四季折々を歌い込んでいることは、上記新聞記事から半年後に書かれた「神尾手記」からも明らかです。

例えば、雪山に関しては、次の事実を指摘しておきたいと思います。

広島市内から近い広島県西部の山域(広島・島根県境尾根)でも、年によっては5月上旬まで雪の残ることがあります。雪山は、広島市内からすぐ手の届く位置にあるのです。

さらに、芹洋子が初めて「坊がつる賛歌」を阿蘇山麓で聞いた時の様子として、次のようなフレーズが流布しています。

「芹洋子のテントにギターを持った若者たちが遊びにきて、「坊がつる讃歌」を歌い、コンサートで歌ってみたらと勧めた」。

これに対して、芹洋子の手記では、コンサート後のキャンプファイヤーでの出来事だとしています。

一人の若者が静かに歌い始めると、「やがて、山並にこだまするかのように、歌声の輪がゆるやかに広がっていった」そうです。

そのほか、両紙を比較すると細かい異同があります。それらに加えて、さらに多くの資料を比較検討することによって、私の「坊がつる讃歌誕生物語」を作り上げることができました。

なお、「坊がつる賛歌」の譜面を完成させたのは、野田宏一郎(後のSF作家・野田昌宏)です。“広一郎”は、間違いです

また、芹洋子がNHK「みんなのうた」で坊がつる讃歌を歌うのは、彼女が阿蘇山麓で「坊がつる賛歌」を聞いた翌年のことです。その間、編曲を行なったり、著作権をクリアーするため原曲の作詞・作曲者探しに奔走しています。

坊がつる讃歌

坊がつる讃歌(坊がつる賛歌)とは

「坊がつる讃歌」
作詞:神尾明正、補作:松本征夫、作曲:竹山仙史、唄:芹洋子

芹洋子が歌う「坊がつる讃歌」(1978年発表)は、当時九州地方の登山愛好家の間で歌われていた「坊がつる<賛>歌」を多少アレンジして作られたものである。

元となった「坊がつる賛歌」は、1952年(昭和27)夏に完成している。「坊がツル」と、それを取り巻く九重連山を愛する山男(九州大学の学生3人)によって、広島高師「山男の歌」を元歌として作られ、その後地元で歌い継がれていた。

「坊がつる賛歌」が、「坊がつる讃歌」として全国的に広まるきっかけとなったのは、1978年(昭和53年6月・7月)に、芹洋子がNHK「みんなのうた」で歌ってからである。(その年の大晦日、芹洋子は同曲で紅白初出場)

なお、この時の「みんなのうた」では、歌詞の一部を一般向きに手直したうえで、元は9番まであったものを4番までの歌として放送された。また、曲名は最初、替え歌の賛歌だったのが讃歌とされた。それ以後、芹洋子の「坊がつる讃歌」として定着している。

注:補作者の一人梅木は、「もともとは「替え歌」ということで、「替」の文字にちょっぴり「ハ」を加えて「賛」を使った(法華院物語 p.205)」と書いている。しかし実際には、初出資料(九州山小屋の会会報「山小屋)で既に「坊ヶツル讃歌」となっている。

当Webでは分かりやすくするため、「坊がつる賛歌」(補作:九州大学の学生3人)で通すことにする。

ところで、九重法華院温泉山荘(坊がツル)でリリースされたCD「九重山歌」(2002年)には、1952年(昭和27)にできた「坊がつる<賛>歌」そのもの(1番~9番まで)が収録されているという。
一番から九番までの歌詞紹介(法華院物語 p.202-204)

芹洋子

芹洋子は東大阪市出身。1960年、CMソングを中心に活動開始。この年から3年間、NHKテレビ「歌はともだち」でレギュラーをつとめる。1976年「四季の歌」、1978年には「坊がつる讃歌」が大ヒット、同年大晦日には、第29回紅白歌合戦に初出場して同曲を歌う。また、1981年の訪中以来、彼女の歌は中国でも愛好され、同国各地でのコンサートも好評を得ている。

1992年、交通事故にあい、外傷性クモ膜下出血を発症して一時意識不明。奇跡的に意識は回復したものの、記憶喪失状態となり、過去の記憶をすべて失う。懸命のリハビリの結果、現在は歌手として復帰している。

坊がつる賛歌に元歌あり(広島高師「山男の歌」)

九州地方で歌い継がれていた「坊がつる<賛>歌」には元歌があった。廣島高師「山男の歌」(廣島高等師範学校山岳部第一歌、廣島高師の山男)がそれである。作曲:神尾明正(昭和12年ころ)、作詞:武山信治(昭和15年夏ころ)。

廣島高師(廣島高等師範学校、1902年設置)は、広島文理科大学などと並ぶ広島大学教育学部(1949年設置)の前身校(5つ)の中の一つであり、「(戦前における)中等学校教員養成の中核校で,全国の中等学校に優秀な教員を供給し,「普通教育の本山」と呼ばれ」ていたという。「」内は広島大学大学院教育学研究科・教育学部のWebから引用。確認(2012/05/13)

広島大学に対する問い合わせ(顛末記)

広島大学のWebをみると、「山男の歌」について紹介したオフィシャルページを設けている。(廣島高師「山男の歌」/広島大学教育学部教育学講座、2009年6月開設)、確認(2012/05/10)

そのトップページを見ると、「山男の歌」の作詞・作曲者について、「廣島高師 山男の歌 廣島高等師範学校山岳部第一歌 作詞:神尾名正、作曲:武山信治」となっていた。

しかしながら、そこからリンクされている「廣島高師 山男の歌 楽譜」では、「神尾明正」作詞、武山信治作曲となっている。(PDFファイルとしてダウンロード可)

作詞者のきちんとしたお名前や、その他いくつか知りたいことがあり、広島大学本部にメールフォームで二度連絡を入れた。しかし、全く「なしのつぶて」、ただ1本の返信メールすらなかった。なお、それから約二週間後、作詞者の氏名の誤りは訂正されたようである。

広島高師「山男の歌」は、作詞:神尾明正、作曲:武山信治(いずれも本名)で間違いないはずである。インターネット上では、それに加えて、編曲:芦立寛の名前があがってくることが多い。しかし、広島大学のオフィシャルページに芦立寛の名前はない。

芦立寛は、ほんとうに「山男の歌」とは無関係なのだろうか。いろいろ調べていくと、広島県山岳連盟会報「もみじ」の中に、芦立寛に関する記事があることが分かった(インターネット情報)。そこでは、「広島高師の山男」の歌詞及び歌の由来が紹介されており、その中に芦立寛の名前が登場している。(「もみじ」第91号p.26、2010年1月20日発行)

「山男の歌」と「芦立寛」との間には、やはり何らかの関係があることは確かなようである。今後、「山男の歌」成立の過程について、私なりにもう少し調べてみようと思っている。

後日談:一年以上たって(2013/07/28)、やはり気になったので、広島大学に、もう一度確認メール(今回は、E-mail判明)を入れた。翌朝、週明け早々に返信メールがあった。一年前は、なんらかの理由で返信メールが不達だった可能性がある。なお、今回の返信メールでは、本ページで特に付け加えるべき内容は何もなかった。

早稲田大学に対する問い合わせ(じつに迅速な対応)

ところで、上記の広島県山岳連盟会報「もみじ」に記載されていた情報というのは、「早稲田学報1979年版」(号数不明)に、「広島高師の山男」作詞の経緯が記されている、というものであった。

そこでさっそく、早稲田大学の当該部署に連絡を取ってみた。(メールフォームによるバックナンバー注文)

担当の方から、学報の古いバックナンバーについては、実物を販売することはできない、その代りということで、当該部分についてメールにてご対応をいただいた。その間、メールフォームを送信してから、ほんの1時間足らずの間であった。(2012/05/24)

ご紹介いただいた資料は、神尾明正(学園講師・千葉大学名誉教授)「坊がつる讃歌」(早稲田学報1979年1月号、pp.25-6)である。

神尾明正は、「坊がつる讃歌」の元歌である広島高師「山男の歌」の作詞者である。「坊がつる讃歌」は、この記事の掲載された前年の1978年に芹洋子が歌って大ヒットし、神尾は元歌(本歌)の作詞者として、この時初めて世に登場している。

なお、早稲田学報とは「早稲田大学校友会が発行するコミュニケーション誌で、毎奇数月15日の年6回発行」されている。また、神尾の肩書の学園講師(当時)とは、早稲田大学講師のことである。

神尾略年譜によれば、神尾は1978年3月(昭和53)、「定年により千葉大学教養部の専任を退く」となっている。坊がつる讃歌が大ヒットした当時は早稲田大学の講師をしており、その関係で早稲田学報に記事を提供したものと思われる。

内容については、広島高師「山男の歌」(後段)などで引用。

坊がつる賛歌誕生

九州大学の学生3人による替え歌(歌詞のみ)

1952年7月28日「坊ヶツル賛歌」誕生(法華院物語 p.26)

1952年(昭和27年)夏、九州大学の学生3人(松本征夫、草野一人、そして梅木秀徳)が、坊がツルにある山小屋「あせび小屋」(九州山小屋の会所有)の小屋番として滞在していた。

ある時期、悪天候続きで宿泊客もとだえたため、退屈しのぎに替え歌を作って遊んだ。替え歌のいくつかは、当時流行していたヤットン節を元にしたものだった。

その他に「坊がつる賛歌」という歌も作った。これにも元歌があり、広島高師「山男の歌」をベースに使った。そして、いずれの歌にも、九重連山の山名をふんだんに織り込んで楽しんだ。

Web作者注:
九州山小屋の会(福岡市)は、後に「筑紫山岳会」の名前を復活させ、さらに「しんつくし山岳会」となった。(法華院物語 p.205)
もっと詳細な変遷については、同書 p.63参照。

補作者の一人、梅木秀徳さん「坊がつる賛歌」を語る

「法華院物語」の中で、補作者の一人、梅木秀徳は「坊がつる賛歌」誕生時の様子について次のように記している。

「法華院物語」2010年

三人は立石敏雄会長のもとで、小屋の管理と宿泊者の世話というボランティアをしていたのだが、暇な時は山々を登り歩いていた。しかし、雨の日ともなると宿泊者もほとんどなく、時間を持て余すことが多かった。その年の七月下旬はとくに雨の日が多かった。

梅木秀徳・記「坊がつる賛歌」p.204

「坊ヶツル賛歌」を作った九大の学生3人のうち、「山男の歌」を知っていたのは梅木秀徳であり、広島高師の葱花(ぎぼう)勲から教わったという。ただし、両者のくわしい関係について、今まで私にはよく分からなかった。(2012年5月になって、下記資料を発見した)

参考(インターネット情報):

二木紘三のうた物語、坊がつる讃歌の項
投稿:かずあき、2010年3月1日(月)16時37分
“かずあき”さんによれば、山好きな教員・葱花勲(広島高師卒)の最初の赴任高が大分県立日田高等学校であり、生徒の中の一人に梅木秀徳がいたという。

確認(2012/05/13)

梅木秀徳は、日田高校(当時、日田城内高校)では山岳部に所属しており、その時の顧問であった葱花勲(広島高師卒)から「山男の歌」を教わったという。(法華院物語 pp.201-202)

ここで、九州大学の学生3人のうち松本征夫だけが、日本音楽著作権協会のデータベースで、”補詩:松本マサ夫”として登録されている。その理由は分からない。(最年長者だったからかも知れない)

それはともかく、これらの歌は「その年12月の会報「山小屋」に発表」(法華院物語 p.202)された。そして、翌年には「山と渓谷」誌上でも紹介された。

こうして、それらの歌は「山行ヤットン節」として会員の間で歌われた。しかし、「坊がつる賛歌」はメロディが分からなかったので歌われることはなかった。

Web作者注:
「しんつくし山岳会」ホームページでは、これらの歌が発表されたときの会報の一部を掲載(PDFファイル)している。その本文余白をみると、「山小屋第11号(S27.12.3発行)より」と添え書きされている。確認(2012/05/13)

譜面発表からNHK「みんなのうた」まで

「法華院物語」は、替え歌が発表されてから、実際に歌われるようになるまでの経緯について、次のように記している。(補作者の一人、梅木秀徳・記)

「法華院物語」2010年

発表はしたものの、会員にはメロディーが分からない。同じ会員だった野田宏一郎が高師出身者に聞くなどして五線譜に落とし、歌われるようになった。

梅木秀徳・記「坊がつる賛歌」p.204

口ずさむことはできても、譜面に落とし込むことができなかったという意味のようである。なお、野田宏一郎(後のSF作家・野田昌宏)が、巷の「坊がつる讃歌」関連の文章では広一郎と記されている場合がある。誤りであろう。

さて、1954年(昭和29年)、野田宏一郎が「坊がつる賛歌」の本歌を捜し当て、譜面とともに発表した。ここに至って、またたく間に九州の山男や山女たちの間で歌われ始めた。しかし、この段階でも全国的に知られることはなかった。

1977年(昭和52年)夏、阿蘇山麓で野外コンサートが開かれ、そこには歌手の芹洋子も参加していた。彼女のテントに遊びにきた若者が、ギター片手に「坊がつる賛歌」を歌い、芹にコンサートで歌うことをすすめる。

そしてその翌年、1978年(昭和53年6月・7月)にNHK「みんなのうた」で芹洋子が歌って大ヒットした結果、芹洋子の「坊がつる讃歌」として全国的に広まったのである。そして芹は、同年大晦日に紅白初出場を果たした。

Web作者注:
しんつくし山岳会ホームページに、「昭和51年に5月にNHKのど自慢で久住に住む女性がこの曲を歌い、歌のルーツが判明したもの」(原文のまま)という記述がある。確認(2012/05/13)

補作者の一人、草野一人さんの回想

「法華院物語」には、補作者の一人である草野一人の「あせび小屋番人の思い出」が掲載されている。その中から、坊がつる賛歌に関する部分を抜き出してみると、次のようになる。

「法華院物語」2010年

昭和二十七年の夏、坊がつるのあせび小屋の番人を一ヶ月間やることになった。(中略)七月の終り頃、同じ山岳会の松本徰夫さんと梅木秀徳さんがやって来た。祖母山に出かける前との事で数泊されることになった。(中略)夜はビールを飲みながら(中略)梅木さんが昼間口づさんでいた広島高師山岳部の歌を元歌にして坊がつるの周辺を讃える替え歌を作った。(中略)私は後年、芹洋子歌手がNHKで坊がつる讃歌を歌うまで全く忘れていた。(以下略)

草野一人・記「あせび小屋番人の思い出」pp.242-5

「坊がつる賛歌」誕生のより正確ないきさつ、及び補作者それぞれのその後の人生が見て取れるようである。

芹洋子は、紅白初出場の翌年(1979年7月)”坊がつる”を訪れており、その時の写真が残っている(「法華院物語」p.204)。真ん中に芹洋子、その両脇に松本徰夫と梅木秀徳という配置で三人が並んで立っている。

補作者の一人、松本徰夫さん逝く

2012年4月8日午前11時から、九重山法華院の観音堂前の五輪塔で納骨式が執り行われた。坊がつる讃歌の補作者の一人、松本氏ご逝去一周年の記念式典である。

この五輪塔について、「法華院物語」は次のように書いている。松本氏ご自身による生前の文章である。

「法華院物語」2010年

この五輪塔は、九重山の開発と保全に尽くした六名の先輩方を祀ってあり、いわば顕彰の意味を持っている。落成式(除幕式)は昭和四十三年(1968)十一月二十三日に行われた。(中略)

建立当時、祀られた四氏は、加藤数功、梅本昌雄、弘藏孟夫、工藤元平で、これらの方の氏名が刻まれていた。のちに立石敏雄、福原喜代男二氏が祀られ、その名が刻まれた。

松本徰夫・記「九重山法華院五輪塔」pp.67-72

そして今回、新たに松本氏を加えて7名の名前が刻まれた新しい石板が作られ、現在の刻名(6名分)の上に貼り付けられることになっているという。

工藤元平(くどう・もとへい)
弘藏孟夫(ひろくら・たけお)
梅本昌雄(うめもと・まさお)
加藤数功(かとう・かずなり)
立石敏雄(たていし・としお)
福原喜代男(ふくはら・きよお)

一九六八年 秋 筑紫山岳會

参考(インターネット情報):

松本徰夫先生五輪の塔納骨式/7年時限の九州の山便り
故・松本ゆきお先生の五輪塔納骨式に出席/九重連山の光と影
確認(2012/05/13)

Web作者注:
法華院五輪塔及びそこに刻まれた六名の方々の業績については、「法華院物語」第二章”法華院五輪塔”pp.65-119参照のこと。

広島高師「山男の歌」のこと

芹洋子が最初にみた「坊がつる賛歌」の譜面には、作詞者として、3人の名前(松本征夫、草野一人、梅木秀徳)のみが記され、作曲者は不明となっていた。

NHK「みんなのうた」の大ヒット(1978年)がきっかけとなり、本歌(元歌)の作詞・作曲者捜しが始まった。そして同年中に両者が相次いで判明した。

この時活躍したのが、栃木県在住の杉山浩(広島高師、昭和17年卒)である。杉山は、「山男の歌の原譜が残っていて、作詞は神尾正明、作曲は竹山仙史」であることを突き止めた(広島高師八十年誌1982,p.540)。ただし、ここで正明は明正の間違いである。

本歌の作詞者判明、神尾明正(かんお・あきまさ)さん

杉山は、1940年(昭和15)ごろ広島高師の地質鉱物学研究室の助手補に、「神尾(かんお)」という人物がいたことを知る。そして、この神尾こそ作詞者の「神尾明正」であることを確かめた。ただし、神尾は作曲者については何も知らなかった。

昭和53年7月9日付、読売新聞
週刊平凡1978.06.29号、pp.143-145
ルーツ探訪
NHK「みんなのうた」で大反響
『坊がつる讃歌』に40年間の秘められた人間ドラマが!

神尾明正さんは、1912年12月(大正元年)、現・東京都中央区生まれ。東京高等学校から京都帝国大学文学部に進学し、地理学を専攻して昭和11年3月に卒業。直ちに広島高等師範学校の助手補に任ぜられる。

昭和15年3月、広島高師を退職して、同年10月には中国大陸に渡り、敗戦後帰国。愛知県、東京都で教職に就いた後、昭和24年6月、千葉大学学芸学部助教授となる。昭和39年1月、千葉大学文理学部教授、昭和43年4月、同教養部教授。昭和53年4月、定年退官。

神尾は、広島高師に就職してから初めて広島で暮らすようになった。神尾手記(早稲田学報)によれば、休日には西中国山地の山々や近郊の岩登りに明け暮れたようである。

当然、広島高師山岳部と深いつながりができたことだろう。山男の歌作詞当時(昭和12年ころ)の心境について、神尾は次のように述べている。「「モシモシカメヨ」で歌ってもらえれば、部歌がないよりはましだと思った」。(早稲田学報1979年1月号p.25)

広島高師の山好きな職員として、山岳部の部歌がほしかったのだろう。ただし、メロディーまでは付けることができなかったので、モシモシカメヨで代用させたもののようである。どちらも七五調の詩であり字数は合うはずである。

参照:戸定会(千葉大学園芸学部同窓会)会報2015年版に、神尾の講義を受けたり、直接話しを聞いたことのある方の手記が載っている。(参照:下記「山男の歌」(千葉大学)の項)

続いて、作曲者判明、武山信治(たけやま・しんじ)さん

作詞者が分かってから、さらに二か月後、今度は作曲者(竹山仙史:ペンネーム)が判明した。本名は武山信治(判明当時、宇都宮大学名誉教授)といい、当時広島高師山岳部のリーダーだった芦立寛(あしたて・ひろし)の実姉の夫に当たる人物である。

1940年(昭和15)夏、義弟の芦立寛から、“いい詩があるからメロディーを”という依頼の手紙を受け取り、一晩で作ったものだという。

武山信治さんは、1908年4月(明治41)宮城県生まれ、宮城師範学校本科第一部を卒業後、小学校教諭を経て、東京音楽学校師範科(現:東京藝術大学音楽学部)に入学、同校を1938年3月(昭和13)に卒業。その後、群馬県立前橋女学校勤務を経て栃木師範学校(現:宇都宮大学教育学部)教諭となり、1972年3月(昭和47)に宇都宮大学を定年退官(翌月名誉教授)。(功績調書より)

竹山仙史とは武山の書道の雅号を使用したもので、ペンネームを使ったのはこの時一回限りだった。彼の論文や作曲(歌、ピアノ、数多くの校歌)などはすべて本名で発表されている。

なお、栃木師範学校が設置されたのは、1943年4月(昭和18)である。したがって、作曲当時(昭和15年夏ころ)の彼は、前橋で勤務していたものと思われる(神尾手記「早稲田学報」では宇都宮となっている)。

注:武山信治さんに関する資料は、最初孫娘さんから私宛にホームページを見たとメールがあり、その後、母上(信治さんの二女)から手紙や電話でご教示いただいた。

編曲者はいたのか? 芦立寛(あしたて・ひろし)さんについて

武山信治に作曲を依頼した芦立寛のことを、編曲者とする情報もある。作曲者の義弟にあたる芦立寛の役割についてまとめてみよう。

早稲田学報

「早稲田学報1979年1月号」で、神尾明正は次のように述べている。

「早稲田学報」1979年1月号

昭和十五年頃、作曲者竹山仙史(本名武山信治)氏の勤務地の宇都宮に、山岳部員だった義弟さんが「山男」の歌詞を送って、作曲を依頼した。作曲者は旧制東京音楽学校出で、宇都宮大学名誉教授、今年七十歳、お元気である。昭和五十三年夏、はじめてわかった。

神尾明正・記「坊がつる讃歌」p.26

ここで「山岳部員だった義弟」というのが、芦立寛のことである。

神尾が「山男の歌」を作詞したのは、昭和12年ころである。そして、竹山仙史による作曲は昭和15年夏である。その少し前の昭和15年3月、神尾は広島高師を退職している。

神尾が「芦立寛の依頼によって竹山仙史がメロディを付けた」ことを知らなかったとしても不思議ではない。

しかし、後の芹洋子による大ヒットによって、神尾と武山(竹山)がお互いの存在を知り、交流を持った結果が上記の記述になっているものと思われる。

関係者から頂いた資料では、両者が実際に会ったことがあるかどうか定かではないが、手紙や年賀状のやり取りはあったとのことである。

もみじ

広島県山岳連盟会報「もみじ」第91号(2010年1月20日発行)の中に、次のような記事がある。

広島県山岳連盟会報「もみじ」第91号(2010年1月20日発行)

作詞は、当時広島高師の地質学の助手、神尾明正氏(千葉大学名誉教授)で、「早稲田学報1979」にその経緯が記されている。作曲は当時のリーダー、故芦立寛氏(元宮城県立農業短大学長)が義兄の武山伸治氏(東京音楽学校出身、宇都宮大学名誉教授、雅号竹山仙史)に依頼したものである。

「広島高師の山男」(執筆者不明)p.26

Web作者注:武山伸治(誤)→武山信治(正)。芦立寛(元宮城県農業短期大学教授)が同短期大学の学長だった事実はない。助手(誤)→助手補(正)。

この文章だけでは、芦立寛が「広島高師の山男」の編曲者として、その役割を果たしたかどうかは不明である。しかしながら、芦立寛が「広島高師の山男」完成のキーマンであったことは確かである。

廣島高師青春の歌

最近(2015/11/01)になって、『廣島高師青春の歌』という小冊子(PDF)がインターネットにアップされているのを発見した。

尚志会(広島高師関係者の同窓会組織)の兵庫県支部が発行したもので、1981年8月2日(昭和56)に神戸市国際交流会館で行われた「ポートピア’81 寮歌青春コンサート」時に配布されたものである。

その中に、「山男の歌」(昭和十五年山岳部の歌)の歌詞(1番から6番まですべて)が載っている。作詞:神尾明正、作曲:武山信治である。そしてさらに、制定編曲:芦立寛と記されている。

同歌詞の下には、芦立寛の顔写真とともに紹介記事が載っている。(以下、「」内引用)

「廣島高師学友会山岳部の記録に”新作部歌成る。昭和15年8月、神尾兄作詩・武山信治作曲、ハ短調なるものを、ト調に直す。少し淋しくはあるけれども、落付いた曲である。ゆっくりうたってほしい芦立寛”とある」という。

「当時山岳部のキャップであった芦立寛(文科第一部4年在学)氏が中心となり、高師地理教室助手であった神尾明正氏と共に作詞、それを芦立氏の姉婿で当時栃木師範学校の音楽の先生であった武山信治氏に作曲を依頼、その曲を記録のようにト調に編曲したものといわれている」。

芦立寛さんは、武山信治(作曲者)と同様、宮城県の出身である。「昭和12年広島高師入学、同16年3月卒業、引きつづき文理科大学心理学科へ進学、昭和19年卒業後、山形師範学校教諭となり」、昭和22年に宮城師範学校に転任、後に宮城県農業短期大学教授となる。

神尾が「山男の歌」を作詞した当時(昭和12年)、芦立は入学したての1年生であり、曲が付いた時に最上級生の4年生になっていたことが分かる。

私が頂いた資料では、芦立が神尾とともに実際に作詞したのかどうか、そして編曲をしたのかどうかについては、全く手掛かりはない。

なお、武山が作曲をしたのは、宇都宮(栃木師範学校教諭)時代ではなく前橋(前橋女学校教諭)時代の可能性の方が高い(前述)。

広島高師八十年誌

『追憶―広島高等師範学校創立八十周年記念』(1982年)p.540-542に、「「山男の歌」と「坊がつる讃歌」」という一文がある。

筆者は、「坊がつる讃歌」(歌:芹洋子)が大ヒットした時に、「山男の歌」(元歌)の作詞・作曲者探しに奔走した杉山浩(昭和17年卒)である。

杉山は芦立寛の二学年後輩である。その杉山は「山男の歌」誕生時のエピソードとして、次のように書いている。

「私が淳風寮の山岳部室に独り寝転んでいた時、二年先輩で部長であった芦立寛兄が、山岳部の新しい歌が出来たと、喜び勇んで飛込んで来た。芦立兄がギターで、楽譜を辿って何回となく弾いた。私がそれに合わせて歌った。何度も何度も繰返して歌った。曲の最後の方が一寸女性的で歌い難くかったので、歌い易いように直した」。

同記念誌p.725には、「山男の歌(昭15)」の歌詞(1番から6番まですべて)が載っており、そこでは作詞 神尾 明正、作曲 武山信治、編曲 芦立 寛、となっている。

杉山は、山男の歌のメロディーが広島に届けられた時、上記のように一番身近にいた人物である。しかしながら、「坊がつる讃歌」(歌:芹洋子)が大ヒットするまで、「山男の歌」(元歌)を誰が作詞・作曲したのか、詳しいことは何も知らなかったという。

なお、同上記事の中で「作曲者は武山信次氏」とあるのは、武山信治の間違いである。また、作曲当時の肩書を「栃木県女子師範の教授」としているのは疑問が残る(前述のとおり)。

山男の歌から賛歌、そして讃歌へ(歌詞の変遷)

広島で誕生した「山男の歌」は、九州(坊がつる賛歌)のみならず、全国各地に広まって歌い継がれているようである。そうしたことを背景に、広島大学Webでは、「山男の歌」について次のように述べている。

参考(インターネット情報):

廣島高師「山男の歌」/広島大学教育学部教育学講座
「紅白歌合戦でも歌われた「坊がつる讃歌」(芹洋子)は替え歌としてつとに有名であるが、歌詞やメロディーの一部が若干異なる同“山男の歌”も巷に散見される。混声四部合唱曲としてリバイバル・リニューアルされたこの「廣島高師“山男の歌”」が、歌詞の本旨とともに、広く関係者各位に歌い継がれていくことを切に願っている」(2009年6月、同教育学部Web内に掲載)
以上、「」内引用(2012/05/13)。

様々なバリエーションがあるものの、本家はあくまでも自分たちである、ということなのであろう。

しかしながら、私の調べた限りでは、地元広島で現在歌い継がれている歌詞そのものが、原作詞者が書き残したものと異なっている。さらに、原作曲者が宇都宮で広めたとされる歌詞とも違っている。

広島大学がオリジナリティを尊重する学問の府であるとするならば、広島高師「山男の歌」成立とその後の経緯(歌詞およびメロディー)などについて、原作者を顕彰しつつ、きちんと考察した文章をまとめて書き残しておくべきであろう。

そうでなければ、「山男の歌」のプライオリティは主張できないはずである。

元歌の作詞者、神尾明正さんの場合

「早稲田学報1979年1月号」で、神尾明正は次のように述べている。記事冒頭の文章である。

「早稲田学報」1979年1月号

巷間歌われている「坊がつる讃歌」の歌詞は、すっかり補作されてしまって、一番だけが元歌の二番で完全に原形が保たれているほかは、語句こそ使っているが、元歌とははるかに遠いものになってしまっている。

(中略)一番と六番は広島文理科大学高等師範学校山岳部の歌としての序節と終節であり、二番から四番までは山の四季をうたったつもりであった。(後略)

神尾明正・記「坊がつる讃歌」p.25

「山男の歌」では、1番(序節)と6番(終節)の間の2番から5番まで、広島の山の四季(春・夏・秋・冬)を順番に歌いこんでいる。「山男の歌」2番、つまり「坊がつる讃歌」1番は、春(残雪のころ)の歌である。

Web作者注:上記記事で「二番から四番まで」としているのは単純な表記ミス(正しくは、二番から五番まで)であろう。なお、広島県の山間部は本州最西端の豪雪地帯である。

「早稲田学報1979年1月号」には、神尾明正によって、「山男の歌」1~6番の歌詞全文が掲載されている。そのうちの2番は以下のとおりである。

「早稲田学報」1979年1月号

「山男の歌」2番

人みな 花に 酔うときも
残雪 恋いし 山に入り
涙を流す 山男
雪解(ゆきげ)の水に 春を知る

神尾明正・記「坊がつる讃歌」p.26

なお、「坊がつる讃歌」1番は、「残雪 恋し 山に入り」であり、わずかに表記が異なっている。(恋いし⇔恋し)

広島高師「山男の歌」の場合

「山男の歌」(広島大学Web)2番は、「残雪 恋いて 山に入り」となっている。神尾手記(早稲田学報)の「残雪恋いし」や、「坊がつる賛歌」(補作:九州大学の学生3人)あるいは「坊がつる讃歌」(歌:芹洋子)の「残雪恋し」とは明らかに異なっている。

そこで全般にわたって、「山男の歌」(広島大学Web)と神尾手記(早稲田学報)を読み比べてみると、言い回しの異なる箇所がいくつかあることが分かった。また、神尾手記では、漢字を平仮名に書き換えたと思われる箇所がいくつかあることも分かった。

実は、「坊がつる賛歌」(補作:九州大学の学生3人)から「坊がつる讃歌」(歌:芹洋子)になる時に、いくつかの漢字が平仮名に置き換えられている。例えば、「人皆花に酔う時も」から、「人みな花に酔うときも」に変わっている。つまり、神尾の原作詞は、もともと漢字を多用していたと思われる。

神尾手記(早稲田学報)は、「坊がつる讃歌」が大ヒットした翌年(1979年)に書かれたものである。原作詞者である神尾と言えども、「坊がつる讃歌」(歌:芹洋子)の平仮名表記に引きずられた面があるのかもしれない。

こうしてみると、広島大学Webの方が原作詞に近いと思われる。

そこで僭越ながら、私なりに広島高師「山男の歌」の歌詞を復元してみた。文語調で漢字を多用している点も考慮した。

まず、上記の廣島高師「山男の歌」(広島大学教育学部教育学講座Webに掲載)を基にして、神尾手記(早稲田学報)と比較検討した。

さらに、坊がつる賛歌や廣島高師関係者の書き起こした複数の歌詞、及び元歌の伝播先である米沢興譲館「山岳部歌」や千葉大学「山男の歌」の歌詞をそれぞれ参考にした。

著作権の関係で、全文表記はできないので、異同のある箇所のみ抜き出してみた。以下()内は広島大学Webの歌詞である。

1番:胸に抱きて行く道は(胸に抱いて行く道は)
2番:残雪恋いて山に入り
この部分は、「残雪恋いし」(早稲田学報掲載の原作詞)や「残雪恋し」(坊がつる讃歌)となっている箇所である。しかしながら、廣島高師関係者はいずれの資料でも「残雪恋いて」としているので尊重する。
3番:異同なし
4番:テント濡らして暮れてゆく(テントぬらして暮れてゆく)
5番:浩然の気は言い難し(浩然の気は止み難し)
6番:異同なし

元歌の作曲者、武山信治さんの場合

元歌の作曲者、竹山仙史(本名:武山信治)は、宇都宮大学を定年退官(1972年3月、昭和47)した後も宇都宮に住み続けた。広島県山岳連盟会報「もみじ」の中に、「山男の歌」が、宇都宮大学「山恋い」として歌われているという意味の記述があったので、調べてみたがヒットしなかった。

その代り、下野新聞(SOON)の中に天国と地獄(2012/05/20)と題する次のような文章を発見した。「山登りの好きな知人に、宇都宮大名誉教授の武山信治さん=故人=が作曲した「坊がつる賛歌」風の歌を教えられた。「人みな花に酔うころも、残雪踏んで山に入り、涙を流す山男…(以下略)」

宇都宮では、「人みな花に酔うころも、残雪踏んで山に入り・・・」と伝わっているのであろうか。全文を知りたいものである。

坊がつる賛歌の場合

坊がつる賛歌の初出は、九州山小屋の会会報「山小屋第11号」p.32の「坊ヶツル讃歌」である。Web作者注、題名は「坊ヶツル<賛歌>」ではなく<讃歌>となっている。

「坊がつる賛歌」では、「山男の歌」(全部で6番)の序節(1番)、春(2番)、夏(3番)、秋(4番)、冬(5番)そして終節(6番)の形式は全くなくなり、全部で9番までの替え歌として、坊がつると九重連山の山名をたっぷりと歌いこんでいる。

元歌から引き続いて使用されている言葉は、ごく一部あるものの、全体的にはほとんど原形をとどめていない。そうした中で、1番だけは、「山男の歌」2番をほぼ踏襲している。

坊ヶツル賛歌(1番)

人皆花に酔う時も 残雪恋し山に入り
涙を流す山男 雪解の水に春を知る

「法華院物語」p.202では、皆を”みな”と表現している。

坊がつる讃歌の場合

「坊がつる讃歌」では、坊がつる賛歌(1~9番)のうち、1番、3番、4番そして8番の歌詞四つを採用して4番までとし、細部にわたって一般向きに手直ししている。

その他の「山男の歌」

広島県山岳連盟会報「もみじ」第91号には、「山男の歌」の伝播先として、宇都宮大学「山恋い」の他、山形県・興譲館高校の部歌、早稲田大学山岳部の名前があげられている。

米沢興譲館高等学校(山形県立)

米沢興譲館同窓会公式サイトの中に、「山岳部歌」が掲載されている。それをみると、作詞:伊賀仁、原曲:広島大学山岳部歌、そして、「現在歌われている本校山岳部歌の作詞者は本校第46回(昭13)卒業生。元本校教諭」(原文のまま)と紹介されている。確認(2012/05/28)

歌詞が1番から6番まですべて載せられており、「山男の歌」の原曲のスタイル(早稲田学報参照)を踏襲したものとなっているようである。そして、その2番は以下のとおりである。

人皆花に酔う時も
残雪越えて山に入り
涙を流す山男
雪解の水に春を知る

なお、「この曲の旋律は広島大学山岳部歌(作詞、足立寛 作曲、神尾 一)を元にしている」(原文のまま、確認2012/05/28)とも書いてある。

しかしここは、今までみてきたように、作詞:神尾明正、作曲:武山信治となるべきと考えられる。また、作詞:<足立>寛とは、原曲者に作曲を依頼した原曲者の義弟(妻の弟)、つまり<芦立>寛(編曲者とする資料もあり)のことであろう。

いずれにしても、作詞・作曲者(および編曲者)の混同、名字の取り違えに加えて、フルネームも間違えている可能性が高い。

なお、同高山岳部歌について、広島県山岳連盟会報「もみじ」は、「故三浦淳・広島大学山岳部OB作詞」としている。三浦淳(広島県)が伝えた歌詞に、伊賀仁(山形県)が変更を加えて現在の歌詞ができたのであろうか。

私なりの疑問点を明らかにしたくてメールをしたところ、米沢興譲館同窓会HP運営委員会から、概略以下のような返信メールをいただいた。(2012/06/04)

・本校OBで広島大山岳部OBでもある作詞者が、本校赴任時に導入したと伝え聞いている
・しかし、すでに故人となられたため、詳細を確認することはできない
・なお、この山岳部歌は、現在では残念ながら歌い継がれていない。

後日(2015/11/14)、杉山浩資料1982を読んでいたところ、「伊賀仁先生(私の一年上の山岳部員)に「山男の歌」を教わったという山形出身の教師に出会った」という一節があるのを見つけた。

米沢興譲館高等学校の山岳部歌は、伊賀仁が作詞した可能性が高い。「もみじ」(広島県山岳連盟会報)の「故三浦淳・広島大学山岳部OB作詞」とする説には疑問が残る。

早稲田大学山岳部歌

インターネットでの検索では、うまくヒットしなかった。2015年11月現在、確度の高いプライベート情報によれば、早稲田大学で「山男の歌」が流布している(あるいは過去にしていた)という証拠は全く何もない。

「もみじ」(広島県山岳連盟会報)の記事には疑問が残る。

千葉大学「山男の歌」

広島高師「山男の歌」が千葉大学でも歌い継がれている。千葉大学は、山男の作詞者である神尾明正(千葉大学名誉教授)の勤め先であった。そしてその詩を補作したのが、千葉大学園芸学部出身の佐藤三郎である。おそらく昭和30年台前半から園芸学部内だけでなく他学部にも広まり、折にふれて歌われてきたようである。

ここで一つの疑問がある。メロディーはどこから持ってきたのであろうか。

神尾略年譜によれば、神尾は昭和15年3月に広島高師を退職している。したがって、武山信治が作曲をした昭和15年夏には広島にいなかった可能性がある。ただし、同年10月に中国大陸に渡るまでの間、広島に留まっていた可能性もある。いずれにしてもそれ以降、神尾が広島に長期間滞在することはなかったと思われる。

また、「山男の歌」の作詞者(神尾明正)と作曲者(武山信治)がお互いの存在を知り合ったのは、芹洋子の「坊がつる讃歌」が大ヒットした1978年(昭和53)以降のことである。

参考までに、戸定会(千葉大学園芸学部同窓会)会報2015年版は、特集「山男の歌」を載せている。その2ページ目に、伊東正・戸定会会長による文章がある。その一部を抜き出してみよう。(以下、「」内引用)

神尾は「千葉大学の名物先生」だった。「教養の地学の講義は教室に溢れるほどの受講学生」が集まった。「山の話と専門の地元園生貝塚の話」になると、「自分の世界に入り込み、時間も無視して熱弁」を振るった。そんな先生の「情熱に魅かれて、仲間と先生の研究室に遊びに行くようになった」。

「(研究室で)ある時、先生は「山登り談話」をはじめ」た。「広島高師の学生時代は山登りに明け暮れていたこと、当時自分が作った「山男」という歌が、山岳部歌として後輩達に歌い継がれていること等を語り、その歌詞を朗々と諳んじている先生を微かに記憶」している。

神尾略年譜によれば、神尾が広島高師の学生であった事実はない。ただし、広島高師の助手補として広島に来てから、休日は山登りに明け暮れていたことは確かである。

注:戸定会(千葉大学園芸学部同窓会)会報等の資料については、ある戸定会関係者から私のホームページを見たとメールがあり、その後ご送付いただいたものである。

旧制高校寮歌と坊がつる讃歌(「山男の歌」)との類似点

鹿児島大学理学部同窓会のホームページの中に、「鹿児島大学在学中の思い出など」冨山(理学部生物学科1979年4月入学1983年3月卒業)「「楠の葉末」によく似た曲」と題するページがある。確認(2012/05/23)

そこには、以下のように書かれている。興味深い内容ながら、私には論評する力はないので、論点のみ記しておくこととする。(以下、すべて引用)

「北辰斜め」に隠れて、あまり目立ちませんが、七高造士館の寮歌の愛唱歌の双璧に「楠の葉末」があります。
「楠の葉末」に似た曲は、私の知る限りは2曲あり、「あざみの歌」と「坊がつる讃歌」です。

本ページの変遷

本ページは、電子出版(アマゾンKindle版)しています。

『坊がつる讃歌 誕生物語(初版)』(2017年7月17日)
~廣島高師をめぐる人と人のつながりを追って~
www.amazon.co.jp/ebook/dp/B073ZC3GKL/

電子書籍では、Webページよりもさらにシェイプアップした情報をご提供しております。
ぜひ一度ご覧ください。

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参考書籍:「九重山 法華院物語―山と人」
編著者 松本徰夫・梅木秀徳他
弦書房(2010年3月1日発行)

その他、参考資料

九州山小屋の会会報「山小屋」第11号(S27.12.3発行)
「坊ヶツル讃歌」(松本・草野・梅木、合作)p.32
Web作者注:<賛歌>ではなく<讃歌>と表記してある
早稲田大学校友会誌「早稲田学報」1979年1月号
「坊がつる讃歌」(神尾明正)pp.25-26
広島県山岳連盟会報「もみじ」第91号(2010年1月20日発行)
「広島高師の山男」(執筆者不明)p.26
武山信治さん関連資料
功績調書など
神尾明正先生略年譜
自然と文化 : 神尾明正先生退官記念論文集 / 神尾明正先生退官記念事業実行委員会編(1978年3月)
戸定会(千葉大学園芸学部同窓会)資料
戸定会会報2015年版、特集「山男の歌」pp.2-4
別途資料、「山男の歌」(楽譜及び歌詞)
廣島高師関係資料
追憶―広島高等師範学校創立八十周年記念(1982年)
「山男の歌」と「坊がつる讃歌」、杉山浩(昭和17年卒)pp.540-542
廣島高師青春の歌(尚志会神戸支部)
豊原源太郎資料

予定書籍:『「廣島高師の山男」から「坊がつる讃歌」へ』
―広島高師をめぐる人と人のつながりを追って―
普通教育の本山:全国から集まり地元に拡散
インターネット情報
引用は原文のまま

「坊がつる讃歌(Akimasa Net)」の成立とその後

芹洋子が歌って大ヒットした「坊がつる<讃>歌」は、私の愛唱歌の一つである。

このページ(2005年6月初出)は、当初、主として二木紘三さんのWeb(下記)を参考にしてまとめた。そしてその後は、私なりに調べた結果を元に、その都度文章の手直しを繰り返している。

もちろん、明らかな誤りについては、その都度訂正している。したがって、現在の文章は、初出時からみるとかなり異なったものになっている。

参考(初出時):

主として二木紘三Webサイト>>MIDI歌声喫茶>>坊がつる讃歌、を参考にまとめた。二木紘三さんは、”川原弘さん、および坊がつるにある法華院温泉山荘の主人・弘蔵岳久さんからの情報に基づいて構成したものである”、ということを書いている。そして弘蔵岳久さん自身も、この件に関して情報を発信している。法華院温泉山荘>>法華院 EXPRESS vol.013、2002/11/発行「坊がつる讃歌」特集

2012年5月、「九重山 法華院物語―山と人」弦書房(2010年発行)に加えて、最近入手した三つの資料を元に全体的に加筆修正した。
2015年10月、武山信治さん関連資料、戸定会(千葉大学園芸学部同窓会)資料を元に加筆修正した。

坊がつるとは

ラムサール条約登録湿地【くじゅう坊ガツル・タデ原湿原】

坊がツル(大分県)は、九重連山(1,700m級の火山群)に囲まれた標高約1220~30m台の盆地であり、中央部を筑後川の源流、鳴子川が流れる湿原(ラムサール条約登録湿地、2005年)となっている。

この湿原について、大分県ホームページでは「平成17年11月8日、アフリカのウガンダで開催された第9回ラムサール条約締約国会議にて、くじゅう坊ガツル・タデ原湿原が保全すべき重要な湿地として登録されました。中間湿原としては、国内最大級の面積を有しています」(原文のまま)と紹介している。確認(2012/06/16)

Web作者注:
インターネット情報では、坊がツルについて「九州では珍しい高層湿原・・・」として紹介される例が多く、当Webでもその表現を用いていた。しかし実際のところ、私には、高層湿原、中間湿原あるいは低層湿原の違いを理解する能力はないので、高層湿原・・・の部分は削除することとした。(EICネット、環境用語参照)

ところで「坊がつる」とは、「坊」(後記)があった「つる」という意味である。そして「つる」とは、水流のある平坦地をさす言葉である。

九州の尾根・九重連山の主な山々

「九州の尾根」ともいわれる九重連山の主な山々には、東・大船山(たいせんざん)、東北東・黒岳(最高峰は高塚山)、北東・平治岳(ひいじだけ)、西・三俣山(みまたやま)、南西・久住山(くじゅうさん)などがあり、標高1,700m級の山々が連なっている。

そして、主峰である久住山近くの中岳(標高1791m)が、九州<本土>の最高峰となっている。

ところで、坊がつる賛歌9番に、「平治に厚き雲は来ぬ」という歌詞がある。二万五千分1地形図で平治の読み方を確認すると、平治岳に”ひいじ”と振り仮名表記がされている。

しかし、インターネット検索では、”ひじ”もあれば”ひいじ”もある状態で頭が混乱・・・

2005年06月26日(日)追記:
大分市在住の山好きの方からメールあり。地元では平治(岳)のことを、意識的に「ひーじ」または「ひいじ」と呼ぶようにしているとのこと。(詳細は後段にて)

九重連山、山岳宗教(天台宗)の聖地

中・近世において「九重の山岳は天台の山岳宗教によって聖地となり、高原や湿原は里人の野焼きによって維持されてきた」(法華院物語 p.9)。

その中心だったのが、九重山白水寺法華院(天台宗)である。法華院は天台宗白水寺の一坊として、文明2年(1470)に開山された。寺号は白水寺、院号は法華院、そして坊名を弘蔵坊(こうぞうぼう)といった。

最盛期、周辺一帯には、上・中・下宮、法華院、四支院、本御門、北御門など数多くの建物があったという。しかし、明治の神仏分離政策(廃仏毀釈)によって衰退し、本坊の弘蔵坊(こうぞうぼう)のみ神社として山にとどまった。

弘蔵坊は、1882年(明治15)には、坊がつる北西稜の法華院温泉で山小屋(法華院温泉山荘)の経営を始めた。そして、そこで法華院を継承しつつ現在に至っている。

Web作者注:
法華院(弘蔵坊)は、1882年(明治15)火災にあって、建物のほとんどを失ってしまった。「幸いに温泉があったので、それ以後入湯客相手の湯治宿をはじめた。法華院弘藏坊(こうぞうぼう)からなので、弘藏(ひろくら)姓の法華院温泉となった」(法華院物語 p.23)

平治(岳)は何て読むんだろう

大分在住の方からご教示いただく

2005年06月24日(金)一通のメールを受け取る。

大分市内在住の山好きの方からで、地元では平治(岳)のことを、意識的に「ひーじ」または「ひいじ」と呼ぶようにしているとのこと。参考文献を添付したくわしい解説付きのメールをいただいた。

この方とは、3年ほど前にも2~3回メールのやり取りをしたことがある。最初のキッカケは、私のホームページに掲載していた私の知人(広島県出身)の記事を、全く偶然にWeb上でご覧になったことによる。

彼とは実は大学時代の親友だという。というわけで、彼の近況に関する若干の情報交換を行った。そして、大分で山に関するホームページを作っているとのことで、その時、我がホームページをリンクしていただいた。

その方から、この度またしてもメールをいただくことになった。今回も全く偶然に、「坊がつる讃歌」(団塊の世代一代記)Akimasa.Netを見て、平治(岳)の読み方がわからなくて困っている私に助け舟を出していただいたのだ。

九重山の山名あれこれ

聞けば、この方は、「坊がつる賛歌」の補作者3名のうちのお一人、梅木秀徳氏(現在71歳)と直接お話のできる立場にあるという。梅木氏はお元気でまだまだ現役だそうだ。「坊がつる賛歌」のこと、平治岳のことなど、新しい知見がでてくることがあるかもしれない。楽しみである。

しんつくし山岳会編刊「九重山」(1961年、昭和36年)冒頭
加藤数功”山名と地名のおこり”に以下のような文章があるという。

平治(ひーぢ)岳:この山はもともとカリマタ山と言うのが本名ですが、名前が悪いので、この山の東側に‘ヒーヂの野’という所があるのでそれを頂上にうつし、それに漢字を充てたものだと故弘蔵孟夫氏が説明しておられました。

加藤数功氏(故人)
九州山岳第二号、昭和13(1938)年発行、朋文堂
「九重山と久住山の問題」、「九州山岳の高度標について」
など、九重連峰の山名の由来等を精力的に研究
弘蔵孟夫氏(故人)
法華院24代院主、明治年間に山宿(法華院温泉山荘)を創業する。山荘はその後、弘蔵祐夫、岳久と受け継がれている。(宿として3代目、法華院としては26代目)
梅木秀徳氏(昭和8年10月生、現在71歳)
「坊がつる賛歌」の補作者3名のうちのお一人。
「大分の山-大分県主要山岳丘陵一覧-」(1987年、自費出版・非売品)
加藤数功氏を師と仰ぎ、大分の山に関して山名の由来や呼び方などを数十年にわたり調査する。上記書籍はその成果である。同書中で、平治岳:「ヒイジ岳、別名・古名:狩又山」としている。

コー・イ・モンディ峰(ヒンズークシュ山域)初登頂40年記念日(大分ヒマラヤ研究会)

2005年07月03日(日)は、大分ヒマラヤ研究会によるコー・イ・モンディ峰(ヒンズークシュ山域)初登頂40年目の記念の日であり、同日記念祝賀会が開かれることになっている。

この遠征隊は、大分県から初めてヒマラヤに送り出された遠征隊である。大分ヒマラヤ研究会(会長・加藤数功氏)の成果であり、この時の遠征隊員の一人が梅木秀徳氏であった。

なお、遠征先をヒンズークシュ山域としたのは、当時ネパールが渡航禁止になったため変更したものという。「コー・イ・モンディ峰登山報告書1965」大分ヒマラヤ遠征委員会(1966年刊)

大分ヒマラヤ研究会が母体となって、後に「大分登高会」という山岳会が発足する。メールの方は、以前「大分登高会」に所属して、登山の技術を磨いた時期があったようだ。現在は、”おゆぴにすと「山のいで湯愛好会」”に属して、主として大分の山を楽しんでいるという。

「今年の九重連峰のミヤマキリシマは格別見事な咲きっぷりでした。とりわけ、平治岳山頂一帯は形容しがたいほど見事なものでした」。いただいたメールの一文である。その最新山行記(2005年06月04日)には、‘ヒーヂの野’に関する考察もある。

広島(広島高師)と大分(坊がつる)を結ぶ不思議なご縁

全くの偶然から、同じ方から別々の案件で、数年を隔ててメールをいただいた。広島高師(広島)と坊がつる(大分)を結ぶ何か強いつながりがあるのだろうか。不思議なご縁である。

未整理

神尾は、調査当時すでに千葉大学名誉教授であり、“園生貝塚(そんのうかいづか、千葉県)に関する文献”に数多く登場している(1952年~1996 年)。彼の学位論文のテーマそのものが園生貝塚だったようである。

wikipedia,2012/06/09
「坊がつる讃歌」(ぼうがつるさんか)とは、1978年(昭和53)6月・7月に、芹洋子がNHK「みんなのうた」で歌った曲。その元になった「坊がつる賛歌」は、1952年(昭和27)に坊ガツルの山小屋で九州大学の学生3人によって作られた。その時ベースに使ったのが、廣島高師「山男の歌」(廣島高等師範学校山岳部第一歌、廣島高師の山男)である(作詞は1937年、作曲は1940年)。なお、芹洋子は1978年の大晦日、紅白歌合戦に初出場して「坊がつる讃歌」を歌った。

昭和53年、年を削除

『九重山 法華院物語―山と人』編著者 松本徰夫・梅木秀徳他、弦書房(2010年3月1日発行)
松本・草野・梅木、合作「坊ヶツル讃歌」九州山小屋の会会報『山小屋』第11号(1952年12月3日発行)、p.32
神尾明正「坊がつる讃歌」早稲田大学校友会誌『早稲田学報』(1979年1月号)、pp.25-6
「広島高師の山男」広島県山岳連盟会報『もみじ』第91号(2010年1月20日発行)、p.26

早稲田学報、号数及び発行年月日

Amazonレビュー(2012/06/16)
九重山法華院物語―山と人

芹洋子が歌う「坊がつる讃歌」(1978年発表)は、私の愛唱歌の一つである。その元歌「坊がつる賛歌」は、九重山・坊ガツルで、1952年(昭和27)に九州大学の学生3名によって作られた。そのうちのお二人の名前が、本書の編著者として表記されている。

九重山(あるいは九重連山)は、大分県にある火山群の総称であり、1,700m級の山々が連なっている。主峰は久住山(一等三角点、1786.5m)、その隣に、九州<本土>最高峰の中岳 (標高1791m) があり、九州の屋根ともいわれている。6月ころ咲くミヤマキリシマ群落は有名である。そして、九重連山に囲まれた盆地(湿原)を坊ガツルという。2005年(平成17)11月には、ラムサール条約登録湿地に「くじゅう坊ガツル・タデ原湿原」として登録されている。

さて九重山は、中・近世において山岳宗教の聖地とされ、その中心だったのが、九重山白水寺法華院(天台宗)である。法華院は天台宗白水寺の一坊として、文明2年(1470)に開山された。寺号は白水寺、院号は法華院、そして坊名を弘蔵坊(こうぞうぼう)といった。周辺には数多くの建物があったとされるが、明治の神仏分離政策(廃仏毀釈)によって衰退し、本坊の弘蔵坊のみ神社として山にとどまった。弘蔵坊は、1882年(明治15)には、坊がつる北西稜の法華院温泉で山小屋(法華院温泉山荘)の経営を始めた。そして、そこで法華院を継承しつつ現在に至っている。

九重山法華院の観音堂前の五輪塔には、九重山の開発と保全に尽くした六名の名前(いずれも故人)が、顕彰の意味で刻まれている。そこに新たに、松本征夫(故人)の名前が刻まれることになった。本書の編著者の一人であり、「坊がつる賛歌」を作った3名のうちの一人でもある。本書には、「坊がつる賛歌」を作った他の二人の手記が掲載されている。「坊がつる賛歌」誕生のいきさつについて、それぞれの思いをつづっていて、読み応えがある。「坊がつる賛歌」は、五輪塔で顕彰されている方々を中心とした「山と人」を結ぶ強い絆のなかで生まれ、そして歌い継がれている。

「坊がつる讃歌(賛歌)」は、もはや、廣島高師「山男の歌」(廣島高等師範学校山岳部第一歌、廣島高師の山男)の替え歌などとはいえない、りっぱな独立した歌となっている。

乳頭山遭難43人

乳頭山遭難事件とは

2005年3月末(平成17)、秋田・岩手県境の乳頭山(烏帽子岳、標高1477.5m)に日帰り登山で出かけた秋田県の登山愛好グループ43人が吹雪のため遭難、一夜を雪中で過ごし、翌日、岩手県側の雫石町で全員無事保護された。(2005年03月29日入山、30日救助)

山楽会(全日本年金者組合秋田県本部秋田市支部の山登サークル)
会長は、アルプスなど海外登山の経験あり、乳頭山頻回登山
今回は副リーダー格で参加(当日の統括リーダーは別にいるという意味か)
無事下山後の記者会見では、会長が中心となって釈明・陳謝している

当日のメンバー43名は、ほとんど60代~70代で、最年少でも50代後半、最高齢者78歳、中にペースメーカー装着者1名あり。登山歴でいうと、ベテラン10名、初心者約7割という。初心者30名前後を、ベテラン10名が引率した雪山という形になる。

全日本年金者組合ホームページ(2005年03月31日付け)
秋田県本部の登山事故について/お礼とお詫び、という一文が中央執行委員長名で掲載されている。そこでは、「事故にいたった原因の究明と、今後に生かすべき教訓を明らかにする作業にただちに取り組みます」とうたっている。

当Web管理人としても非常に関心の高い事柄であり、ぜひともその結果をインターネット上で公表することを希望するメールを4月上旬に送信した。

私はそのメールにおいて、当Webページの中に明らかな誤りあるいは不都合な表現があれば、直ちに訂正する用意があることもお伝えしている。しかし、返信メールその他、いっさいの連絡は何も受け取ることなく今日(2009年08月05日)に至っている。

まず最初に簡単な時間経過を押さえておこう

2005年3月29日

午前6時20分、秋田市内出発
午前9時25分、孫六温泉(乳頭温泉郷)から入山
田代岱山荘までは順調、そこで昼食中に天候急変
ルートを示すために立てておいたポールが吹き飛ばされるほどの暴風雪
山頂を踏まず引き返すことになったが、下山途中ルートを見失う
午後7時30分、ビバーク、ブナ林の中に非常用簡易テント7つを張る

3月30日

午前6時過ぎ、携帯電話、”全員無事で蟹場温泉(乳頭温泉郷)に向け下山中”
午前7時50分、秋田県警捜索隊捜索開始(二手に分かれる)
午前10時50分、県警捜索隊が合流し田代岱の山荘に到着、会員らに使用された形跡がないことを確認。
午前11時15分、携帯電話、”誤って沢に入ったが、全員無事、助けを求めるため、〇〇さんが1人で大釜温泉に向かっている”
午後1時55分、〇〇さんが岩手県雫石町の葛根田地熱発電所付近に下山。自宅に電話、”下山した。残りの42人も葛根田沢の尾根で待機している。”
午後2時半過ぎ、待機中のメンバーに先行者一人無事下山が伝わる。そこで初めて岩手県側に入りこんでいることも知らされた。(携帯電話への通話)
午後3時、雫石町役場に乳頭山遭難対策本部設置。町の自衛隊出動要請を受け、航空自衛隊秋田救難隊のジェット機とヘリが雫石町に向け出発。しかし、天候不良のため、まもなく救助活動中止。
午後3時10分、岩手県警現地対策本部設置、10分後、救助隊員10名出発
午後4時47分、岩手県警救助隊、発電所付近のグループを目視確認
午後5時52分、岩手県警救助隊、発電所から葛根田川上流の尾根付近で遭難グループと接触、3分後、42人全員無事を確認、下山開始
(午後5時45分、秋田、岩手両県警の第2次救助隊19人入山)
午後9時15分、第一陣21人下山
午後9時47分、第一陣21人が現地本部をマイクロバスで出発
午後10時30分、第一陣が雫石町役場に到着
午後10時45分、第二陣21人下山
午後11時4分、第二陣21人が現地本部を出発

3月31日

午前0時30分、雫石町役場で記者会見

遭難の背景について考えてみよう

二つ玉低気圧が大暴れして暴風雪となる

29日朝の現地の天候は曇り。しかし、秋田地方気象台は風雪注意報を発令しており、天候が下り坂になることは十分に予測できた。これに対して、「行けるところまで行こう」、「天候が悪くなれば引き返せばいい」という判断で入山した。

しかし、3月下旬としては例年にない大雪が残っている上に、二つ玉低気圧が大暴れして暴風雪となった。ただ幸いなことに、全員無事下山後、心臓などに持病のある男性2人と凍傷の男性1人が念のため入院したが軽症、他の人たちも比較的元気であった。

最近の防寒具の性能強化には目をみはるものがあるようだ。今回、中高年43名全員が無事生還できた条件の一つとみなすことができるだろう。ただし、装備が良くなって冬山が身近になり、初心者の安易な登山が増える傾向にあるとも指摘されている。

地図とコンパス(磁石)を使う機会を逸した

さて、ベテラン組の中には、春夏秋冬の季節を問わず、乳頭山に何十回も登った人たちがいる。そんな山で道を間違えることなどあり得ない。地図とコンパス(磁石)で方角を確認することなく下山を始めた。そこに油断があった。

一度見失った現在位置を、もう一度把握し直すことはそれ程簡単なことではない。山に入ったならば、地図の上で自分は今およそどの辺りにいるのかを、常に把握するようにしなければならない。その上で、時々は現在位置をきちんと確定しながら進むことが大切となる。(2006/04/27追加訂正)

今回、高性能のコンパスを持ってはいた。しかし、おかしいと思うまでそれを使うことはなかった。そして、おかしいと気づいた時、ホワイト・アウトした中で目標物は何も見えず、コンパスは何の役にも立たなくなってしまった。

山荘から孫六温泉(乳頭温泉郷)への下山ルートは、二万五千分1地形図(ウォッちず-国土地理院HP)によれば、まず少し西に行ってすぐにやや南に振り1170mの尾根に乗る。しかし、吹雪でほとんど視界がきかなくなった中、完全にルートを見失いビバークを余儀なくされる(非常用簡易テント7つ)。

ベテラン組は、自分たちの現在位置は、乳頭温泉北側の蟹場(がにば)尾根である、と信じ込んでいた。つまり、入山地点の孫六温泉に下るには、少し南に振るべきポイントがある。しかし、ここを逆に田代平の方に北上してしまったらしい、と考えたのだろう。

迷いはしたけれども、そのまま秋田・岩手県境沿いを大きく北から回り込んで、(蟹場尾根を下って)乳頭温泉郷に向かっていると考えていた。しかし実際には、ほとんど逆方向に進んで岩手県側に大きく入り込んでしまっていた。ところが、だれもそこまでずれ込んでいるとは思ってもいなかった。

全員無事下山、中高年パワーを見せつけたとも言えるのだが

救助を求めるため、一人だけ先に下山させた時の携帯電話による連絡内容は、”<大釜温泉>(乳頭温泉郷)に向けて〇〇さんが下山する”、というものであった。しかし、一人で下山したその当人は、乳頭温泉郷とは反対側にある<葛根田>地熱発電所附近にたどり着いて、”ここはどこですか”、とたずねたという。(一人だけ単独で先行下山ということ自体よく理解できない)

当Web管理人(団塊の世代一期生)が、当日のメンバーに入ればおそらく最年少だろう。しかし、こうした中高年グループの人たちに山で置いていかれることなど珍しくもない。このメンバーも体力にはちょっと自信があったようである。

しかし、自分が先頭に立って山行の企画・運営ができるメンバーは何人いたのだろうか。他人にくっついて歩くだけならば、エネルギーの消費は少ない。マラソンのペースメーカーについていくようなものだ。全部で43名という大所帯とともに考えさせられる。

携帯電話は役にたったか

今回、携帯電話(合計7台所持)が活躍したとも、情報を混乱させたともいえるだろう。メンバーはあくまでも乳頭温泉郷に向かって下山していると信じていた。したがって、携帯で時たまもたらされる位置情報は誤ったものとなり、捜索隊を混乱させた。

さらに、携帯をかける相手が組合や家族であったため、捜索隊は又聞き情報を元に行動せざるを得なかった。なお、携帯の電池も当然のことながら、寒さによって容量は急速に低下する。肌で暖めながら使用したが、電池はそれ程長くは持たなかった。

登山届けのことなど

その他、登山届けが提出されていなくて、最初はメンバーの正確な人数すら把握できなかったこと等、反省点は多いようである。

2005年04月23日(土)追記
2005.04.02(土)初出

白神山地(世界自然遺産)のブナ原生林

このページに「加筆修正」をして、電子書籍(アマゾン Kindle版)として出版しています。


『白神山地と世界遺産登録』
北村・青森県知事による青秋林道建設の見直し発言
2018年12月21日(電子書籍:アマゾン Kindle版)

白神山地(しらかみさんち)とは

白神山地とは、青森・秋田両県境にまたがる山岳地帯で、そこには世界最大規模のブナ原生林が広がっている。その核心部分である青森・秋田県境尾根を貫いて走る”青秋林道”の建設工事が、1982年(昭和57)に青森・秋田両県側から着工された。

この林道が建設されれば、白神山地の自然(ブナ原生林など)は破壊されてしまう。全国的な自然保護運動の高まりの中で、この広域基幹林道の建設は凍結(1987年)され、白神山地は後に自然環境保全地域指定を受ける。そのことがキッカケとなり、白神山地は屋久島と並んで1993年(平成5)12月、日本で初めてのユネスコ世界”自然”遺産に登録された。

なお、白神山地13万ヘクタールのうち、世界遺産登録区域は、16,971ヘクタールで、青森県側の面積はそのうちの約4分の3(12,627ヘクタール)を占めている。 そして、残りの約4分の1は、すべて秋田県山本郡藤里町に属している。

青秋林道建設の見直し発言(北村正哉・青森県知事)

世界最大規模といわれる白神山地のブナ原生林を守ったのは、北村正哉・青森県知事の決断、すなわち「青秋林道建設の見直し発言」である。

そして、この知事発言を得る直接の原動力となったのは、赤石川源流(青森県西津軽郡鰺ヶ沢町-あじがさわ-)の水源涵養保安林解除に反対して提出された多数の〈異議意見書〉であるといってよいだろう。

〈異議意見書〉の署名を呼びかける集会は、赤石川流域の全19集落で開かれ大成功を収める。赤石川流域の住民は、過去の経験から、森を守ることは川を守ること、そして海を守ることにもつながる、ということをよく知っている人たちであった。

地元の盛り上がりと共に、全国から集まった〈異議意見書〉は1万3千余通にのぼった。日本の林政史上、未曾有の出来事とされる膨大な数の意見書が、北村正哉・青森県知事の判断に強い影響を与えたことは明白である。なお、〈異議意見書〉提出のアイデアは日本自然保護協会から授けられた。

赤石川と青秋林道、概念図

赤石川と青秋林道
佐藤昌明(2006年)P.75より(転載承諾済)

佐藤昌明著「新・白神山地-森は蘇るか」緑風出版(2006年)

河北新報社の佐藤昌明記者は、1983年春から1988年春までの五年間、青森市で勤務していた。そしてその間、1987年11月には、北村青森県知事の「青秋林道建設の見直し発言」ももちろん取材している。佐藤記者は、”青秋林道”建設反対運動の重要局面すべてに立ち会ったただ一人の報道関係者であった。

佐藤記者は、2006年に佐藤昌明著「新・白神山地-森は蘇るか」(緑風出版)を出版している。1998年版(同出版社)の改訂新版であり、それを読むと、全編にわたって見直しが行われていることがわかる。

さらに、新たな内容として「入山規制に対する批判、青森県知事の林道中止の政治決断の真相、自然を蘇らせるブナ再生事業など」といった項目も盛り込まれている。

その中で特に、「およそ20年目にして初めて明かされた青森県知事による「青秋林道建設の見直し発言」の真相」は、非常に興味深くかつ重要な内容を含んでいる。

本書は、「自然保護とは何か、自然と人間との関係はどうあるべきか考える」ために欠かすことのできない書籍の一つである。なお、新旧著作で採用されている写真・イラストはすべて筆者自身の手によっている。

世界遺産登録と入山規制

世界遺産条約とは、顕著な普遍的価値を有する文化遺産および自然遺産を、国際的な協力・援助のもとに保護していくことを目的に、1972年(昭和47)のユネスコ総会で採択されたものである。

日本の条約批准は1992年(平成4)である。その翌年12月9日、自然遺産として、白神山地と屋久島、また、文化遺産として、法隆寺地域の仏教建造物(奈良県生駒郡斑鳩町)と姫路城(兵庫県姫路市)が、日本で初めて世界遺産に登録された。

さて、白神山地では、世界遺産登録後のブナ原生林保護のあり方をめぐって、今なお混乱が続いている。混乱のもととなっている「入山規制」を含む管理計画策定には、一人の官僚が深く関わっている。秋田県側の「原則入山禁止」、青森県側の「ルート指定の許可制入山」制度を実現させた橋岡伸守氏である。

橋岡伸守氏(林野庁OB)は、秋田営林局計画課長の職に続いて、青森営林局森林管理部長を最後に退職、そのまま青森市内の林業コンサルタント会社に再就職した。そして、2007年5月24日(木)、 東京地検特捜部によって、緑資源機構幹部らとともに逮捕された。容疑は、独立行政法人「緑資源機構」(農林水産省所管)が発注した林道整備のコンサルタント業務をめぐる談合事件に関する独禁法違反(不当な取引制限)である。

白神山地に入山規制を導入した人物が、刑事事件で逮捕された。では、そのような入山規制とは、一体何なのだろうか。

〈青秋林道〉(広域基幹林道青秋線)
秋田県(八森町~藤里町)~青森県(鯵ヶ沢町~西目屋村)
総延長28.1km(のちルート変更により29.6kmに延びる)
総事業費約30億円(計画当初)

白神山地の自然を守るためには、”青秋林道”(1982年8月着工)は絶対に阻止しなければならない。こうして青森・秋田両県の自然保護団体が〈独自〉に立ち上がって活動を開始した。そして、東北地方を始め、全国各地の自然保護団体、及び一般市民の支持と協力を得て運動は成功した。(1990年、林野庁が打ち切り決定)

日本自然保護協会(沼田真会長)は、1990年に世界遺産条約の早期批准と、白神山地の自然遺産登録を求める意見書を内閣総理大臣に送り、これが契機となって白神山地の自然遺産登録が実現した。それは、”青秋林道”建設阻止運動に参加した多くの人たちにとって、思いもかけないプレゼントとなった。

しかし、せっかく世界遺産に登録された白神山地の保護のあり方をめぐって、自然保護活動は、その後分裂してしまっている。「入山規制問題」が原因である。ある人は、自然保護のためには核心地域への立ち入りを全面的に禁止すべきだという。あるいは、かつてのマタギなどのように、そこで生活の糧を得る人々がいる、そういう人たちまで規制するのはおかしいなど、様々な意見が出ている。

当Web管理人としては、マタギの後裔である吉川隆さんの意見に強く引かれる。吉川さんは、青森県鯵ヶ沢町の赤石川源流に住んでおり、一年のうち半分は白神山地に入って、自らクマ撃ちや山菜取りをしているという方である。

吉川さんの発言を聞いてみよう。
「世界遺産とは観光資源ではないはずだ。道路もいらない。便利さも要らない。今のままでいいではないか。山は誰でも入れる。善人でも悪人でも誰でも入っていい。山を見たかったら、汗を流して入ればいい。遭難するしないは、本人の能力の問題だ」佐藤昌明(2006年)p.97

林道建設反対運動は、青森県側と秋田県側でほとんど同時に、かつ独自に進められた

1978年(昭和53)12月06日
「青秋県境奥地開発林道開設促進期成同盟会」(野呂田芳成会長)結成
1981年(昭和56)04月02日、林野庁
“青秋林道”の路線採択を決定
1982年(昭和57)04月05日、林野庁
林道事業の実施計画を承認
1982年(昭和57)08月01日(秋田)、12日(青森)
“青秋林道”(秋田工区、青森工区)着工
1985年(昭和60)06月27日、秋田県森林土木課長ら二人
青森市を訪れてルート変更説明(秋田県藤里町を避けて、秋田県八森町から直接青森県鯵ヶ沢町の赤石川源流に入ることになった)
1986年(昭和61)11月、秋田県側工事ストップ
1987年(昭和62)06月08日、青森県
「赤石川源流の保安林解除に同意する意見書」、青森県営林局へ提出
1987年(昭和62)10月19日、青秋林道に反対する連絡協議会
鯵ヶ沢町一ツ森地区で、「赤石川を考える会」を開催
赤石川源流の水源涵養保安林解除に反対する異議意見書の署名呼びかけ
その後一か月足らずで、赤石川流域の上流から下流まで、全19集落で集会
1987年(昭和62)11月05日、青秋林道に反対する連絡協議会
異議意見書の第一次集計分を青森県農林部に提出
1987年(昭和62)11月06日、北村・青森県知事
「青秋林道建設の見直し発言」
1987年(昭和62)11月13日、青秋林道に反対する連絡協議会
異議意見書の第二次集計分を青森県農林部に提出
提出期限は11月14日であった
1990年(平成02)03月18日、青森営林局
白神山地森林生態系保護地域の最終設定案を発表
1990年(平成02)03月29日、林野庁
白神山地森林生態系保護地域設定案を承認
“青秋林道”の打ち切りが確定する
1990年(平成02)06月10日、青秋林道に反対する連絡協議会
解散会(弘前市内)、この席で、沼田真・日本自然保護協会会長の発言あり、白神山地を世界遺産に推薦する
1993年(平成05)12月09日、世界遺産委員会
白神山地の世界自然遺産登録を決定する
“青秋林道”建設反対運動では、青森県側と秋田県側でほとんど同時に、かつ独自に活動が進められた。したがって、それぞれの時期に、どちらの県側の誰がどの様な役割を果たしたのか、正確に把握しておかないと正しい全体像は見えてこない。

青森県側の活動の中心となったのは、根深誠さん(弘前市郊外)といってよいだろう。これに対して、秋田県側の活動の中心となったのは、鎌田孝一さん(カメラ店経営・藤里町)である。

ただし、秋田県側の工事がストップ(1986年11月)した時点で、秋田県側の実質的な活動は終了したことになる。それ以降、1987年11月6日の北村正哉・青森県知事による「青秋林道建設の見直し発言」を得るまでの闘いは、すべて青森県内で行われた。つまり、”青秋林道”の建設を完全に阻止したのは、青森県側の活動である。

根深誠さん(青森県)

1947年(昭和22)、青森県弘前市生まれ
弘前高校から明治大学へ進学、高校大学を通じて山岳部所属
明大OBの故植村直己氏の指導も受ける、エベレスト遠征経験あり
植村直己アラスカ・マッキンリー遭難捜索隊の一員

1982年(昭和57)07月19日
林道建設中止要望書を青森県に提出
青森県自然保護の会と日本野鳥の会弘前支部の連名
1983年(昭和58)04月02日
「青秋林道に反対する連絡協議会」結成
青森県内各地の自然保護団体および山岳団体参加(10団体)
これ以前に、日本自然保護協会の沼田真理事長(のち会長)と面談実現
1983年08月25日~27日
自然保護議員連盟の視察団(団長・岩垂寿喜男衆議院議員)
青森、秋田両県を訪問、白神山地の現地を見る
無名の白神山地を一躍クローズアップさせることに貢献

鎌田孝一さん(秋田県)

1930年(昭和05)、岩手県稗貫郡大迫町生まれ
1960年(昭和35)12月25日、藤里町にて「カマタ写真店」開店
1973年(昭和48)2月、秋田自然を守る友の会設立

-1982年(昭和57年)-

5月27日、青秋林道中止と、粕毛川源流部の保全についての要望書
秋田県知事、および県の林務部、生活環境部に提出
秋田県野鳥の会と秋田自然を守る友の会の連名
10月26日~27日、初の国会陳情、大石武一会長(自然保護議員連盟)など

-1983年(昭和58年)-

1月22日、白神山地のブナ原生林を守る会設立総会
秋田県内の自然保護団体の横の連絡組織が始めて成立する
総会に引き続き、根深誠代表(白神山地の自然を守る会)などの記念講演
8月下旬、自然保護議員連盟の林道視察(団長・岩垂寿喜男衆議院議員)
青森側の視察終了後、秋田側へ廻る。

-1985年(昭和60年)-

1月30日、林野庁長官との面談実現
白神山地保護の立場から、青森側の根深誠代表とともに出席する
6月15日~16日、ブナ・シンポジウム開催(秋田市)、日本自然保護協会主催
前年の11月から開催に向けて準備に奔走する。当日は、自然保護運動に取り組む全国各地の人たちや学者、それに林野庁からも職員が出席した(参加者約600名)。 このシンポジウムを契機に、ブナ原生林保護運動は全国的に盛り上がっていった。

秋田工区のルート変更

1986年(昭和61)11月、秋田県側の工事はストップした。秋田県の八森町内を、同・藤里町に向けて北東に延びてきた林道は、藤里町手前で止まった。そして以後、そこから延伸することはなかった。

ところで、秋田県側で工事がストップする前年の1985年6月6日、秋田県はルート変更を決めている。最初の計画では、林道は秋田県側の八森町から藤里町を経て、青森県鯵ヶ沢町に入る、となっていた。それが、藤里町を通らずに直接鯵ヶ沢町とつながるように変わったのだ。

その結果、ルートは八森・藤里両町境の手前で八森町内を北上するように変更された。修正ルートは西側から北へ少しふくらんで回りこむ形となり、その分総延長は1.5km延びている。また、青森県鯵ケ沢町を通る部分が、2.7kmから3.7kmに増えた。

佐藤昌明(2006年)p.58は、この間の動きについて、次のように述べている。

青秋林道の秋田工区は、八森町からスタートした後、鎌田氏の住む藤里町の粕毛川の源流部に入る予定になっていた。ところが秋田県庁林務部は、ブナ・シンポジウムの開催時期の前後に、鎌田氏の批判を避けるかのように、藤里町に入る予定の青秋林道・秋田工区のルートを変更して、青森県側の鯵ヶ沢町の赤石川源流域へ付け替えた。

佐藤は、さらに改訂新版の「ルート変更」(P.99-106)で、なぜ秋田県側から青森県側へルートが変更されたのか、その経緯を詳しく述べている。

さて、このルート変更によって、秋田県藤里町・粕毛川最源流部の三蓋沢は破壊から免れることになった。しかし、今度は、新たに付け替えられた青森県鯵ヶ沢町の赤石川源流域を破壊するような形のルートになった。

1985年6月27日、秋田県林務部の職員が青森市を訪れて、ルート変更について説明会を開催した。なぜならば、この区間の工事主体は秋田県だからである。つまり、青森県側に入り込んで秋田県側の工事が行われることになる。しかし、赤石川の源流域から上流・中流域、そして下流域(日本海)まで、すべての流域を含む鯵ヶ沢町の住民には何の知らせも届いていなかった。

秋田県が、県境を越えて青森県内で工事を行うというのだ。いかにも不自然な話である。そのことが青森県側の住民感情に火をつけ、多数の異議意見書になって表れた。

異議意見書とは何か(最大の山場)

-1987年(昭和62年)-

春ごろ、日本自然保護協会
 保安林解除に不服がある場合、〈異議意見書〉を提出することができるとアドバイスする
6月8日、青森県
 「赤石川源流の保安林解除に同意する意見書」、青森県営林局へ提出
9月5日、10日、青秋林道に反対する連絡協議会
 鯵ケ沢駅前でチラシ約5,000枚を配布
9月27日、青秋林道に反対する連絡協議会
 鯵ケ沢町で「白神山地と地域を語る会」開催、西郡教組との共催
10月15日、青森県
 赤石川源流の保安林解除の予定告知(工事着工にゴーサイン)
10月19日、青秋林道に反対する連絡協議会
 鯵ヶ沢町一ツ森地区で、「赤石川を考える会」を開催
 赤石川源流の水源涵養保安林解除に反対する異議意見書の署名呼びかけ
 その後一か月足らずで、赤石川流域の上流から下流まで、全19集落で集会
11月5日、青森、秋田両県の自然保護団体代表5名
 異議意見書第一次集計分約3,500通を、青森県農林部長に提出
 青森側約2,000(そのうち、直接の利害者たる赤石川流域住民分700以上)
 秋田側約1,500
11月6日、北村青森県知事
 青秋林道建設の見直し発言、世論も林道凍結へ向って大きく傾く
11月13日、青秋林道に反対する連絡協議会会長ら代表4名
 第二次集計分を青森県農林部に提出
 総数(一次分と合わせて13,202通、赤石川流域住民分1,024通)
 これらの中には、当然全国から寄せられたものも含まれている
 なお、提出期限は11月14日であった

北村青森県知事の見直し発言が出るまでの経過

北村青森県知事の見直し発言が出るまでの経過を振り返ってみよう。

青森・秋田県境から青森県鯵ケ沢町内1.6km分の間の地域は、”水源涵養保安林”に指定されていた。したがって、林道建設工事を進めるためには、指定解除の手続きが必要である。6月8日、青森県は、「赤石川源流の保安林解除に同意する意見書」を青森県営林局へ提出した。

林道工事が遂に青森県側のブナ原生林核心地域に迫ってきた。しかし、「多くの犠牲を払って取り組んできたが、林道工事をどうやって止められるか、誰も分からなかった。先が見えず、みんな暗く、会合を開いても発言する者は少なかった」佐藤昌明(2006年)pp.59-60

そうした中で、日本自然保護協会から、保安林解除に不服がある場合〈異議意見書〉を提出することができる(森林法)、というアドバイスを受ける。 また、意見書提出の権利を持つのは、”直接の利害関係を有する者”であるという。ここで直接の利害関係者とは、工事予定箇所(赤石川源流部)の下流にすむ住民と考えるのが妥当なところである。

青森・秋田県境の二ツ森に端を発した赤石川は、北北東に向かって流れ、やがて日本海に注ぐ。この赤石川の源流部から、上流、中流そして下流と、流域全体をすっぽりと包み込んでいるのが鯵ヶ沢町である。町域は東西10km足らずだが、南北に約40kmと細長く延びている。この鯵ヶ沢町で林道建設反対の賛同が得られなければどうしようもない。

ところが、当時の青森県側の活動の中心は西目屋村であり、鯵ヶ沢町は全く手付かずで何のつても持っていなかった。そこでまず鯵ヶ沢駅前のチラシ配りから始めた。そして、この行動をキッカケに人の輪が広がり、急速に運動のエネルギーが高まって、遂に奇跡を呼び込んだ。

ルート変更(青森県鯵ヶ沢町民の判断)

住民集会で強調されたのは、ルート変更によって赤石川源流部が破壊される可能性が高まったという点である。そして、その変更は全く秋田県側の都合によるものであり、青森県側は工事区間をただ単に押し付けられた(費用負担は秋田県側)に過ぎない、ということが地域の住民感情を大いに刺激した。

赤石川流域の住民は、過去の経験から、森を守ることは川を守ること、そして海を守ることにもつながる、ということをよく知っている人たちであった。赤石川流域の全19集落で、青秋林道建設反対の〈異議意見書〉の署名を呼びかける集会が開かれ大成功を収める。

日本自然保護協会の果たした役割

運動の最大の山場となった〈異議意見書〉提出のアイデアを授けたのは、日本自然保護協会である。協会では、それ以前から青森側・秋田側に対して適切なアドバイスや協力を行っている。

例えば、鎌田孝一さん初の国会陳情では、自然保護協会の担当者が各方面への案内役を務めている。そして、その担当者は、その後すぐに白神山地へ向かっている。さらに、林野庁長官との面会も実現している。

自然保護議員連盟の林道視察(団長・岩垂寿喜男衆議院議員、当時自然保護議員連盟幹事長)は、当協会からの調査要請もあって林道計画の見直しを目的に行われたものである。その直前には、日本自然保護協会も現地調査を行っている 。

秋田市で開催した”ブナ・シンポジウム”(主催・日本自然保護協会)を契機として、青森・秋田両県の自然保護団体のみならず、東北地方ならびに全国各地の自然保護団体の支持と協力が得られ、林野庁の自然林保護政策を転換した結果として「白神山地」は保護された。

林道建設凍結決定後、日本自然保護協会が政府に世界遺産条約の早期批准と、白神山地の自然遺産登録を求める意見書を内閣総理大臣に送り、これが契機となって白神山地の自然遺産登録が実現した。

青森県の方々

工藤俊雄・青森県農林部長
ソフトランディング(軟着陸)の役割を果たした人物、と言われている

金入明義・自民党青森県連政調会長
北村知事からの直接指示を受けて、精力的な現地調査を行い、
青森県議会を林道凍結へ方向づける

参考資料

根深誠編著「森を考える」立風書房(1992年)
― 白神ブナ原生林からの報告 ―
根深誠著「白神山地 恵みの森へ」JTB(1995年)
佐藤昌明著「新・白神山地―森は蘇るか」緑風出版(2006年)
鎌田孝一著「白神山地に生きる」白水社(1987年)

2008/01/31、完成 (図版:赤石川と青秋林道、挿入)
2008/01/19、増補訂正開始
2005/03/01、細部修正
2005/02/02、決定稿
2005/01/30、完成
2005/01/29、初出

愛知大学山岳部薬師岳遭難事件

豪雪吹雪の中を登山中にホワイトアウトした場合、正しい進路を保つことは極めて困難であると容易に想像されます。1963年(昭和38)正月の薬師岳(富山県)山頂付近で、愛知大学山岳部13名と日本歯科大学6名の生死を分けたものは、果たして何だったのでしょうか。

ここに愛知大学山岳部13名の遭難者の方々に対し謹んで哀悼の意を表します。


本多勝一著『極限の民族』朝日新聞社(1967年)
~カナダ・エスキモー、ニューギニア高地人、アラビア遊牧~

愛知大学山岳部薬師岳遭難事件とは

愛知大学山岳部13人のパーティーは、1963年1月(昭和38)正月登山として薬師岳(富山県)頂上を目指した。

しかし、後に “サンパチ豪雪” と名付けられた豪雪吹雪の中で山頂を目前にして登頂断念、下山途中〈ルートを誤り〉13人全員が遭難死した。

こうした判断の誤りは、豪雪吹雪をはじめとする様々な要因が積み重なった結果もたらされたものであろう。

ただし重要な事実として、地図とコンパス(磁石)を携行している者はパーティーの中に誰もいなかったことが挙げられる。

なお、“サンパチ豪雪”とは、1963年(昭和38)の冬に北陸から山陰を襲ったすさまじい降雪のことを指す。

新潟平野部(現・新潟市、旧・西蒲原郡)出身の妻は、当時二階から出入りした記憶があるという。私が住んでいた広島県西部(瀬戸内沿岸部)でも、「朝起きると一面雪で白くなっており、それが昼には解けて無くなる」といったことを何日か繰り返していた。

薬師岳遭難事件は、そうした気象条件の中で起きた。

注:パーティーの編成(学年別人数)や行動記録(コースタイム)など、遭難誌『薬師』の中の記述同士や、そのほかの関係者資料との間で互いに矛盾している点が散見される。当Webでは、できるだけ整合性の取れる数値のみを採用することを心掛けた。

学生時代の私は山歩きをしていた

3年生の夏、立山・剱岳から薬師岳へ縦走した

学生時代の私は山歩きをしていた。

剣山(徳島県)をホームグラウンドにしており、剣山だけで十数回登った経験がある。夏には北アルプスに3年連続で通い、最後の年(3年生の時)には、立山・剱岳から薬師岳へ縦走した。1968年7~8月(昭和43)のことである。

薬師岳では、その5年前の冬(1963年1月)、愛知大学山岳部パーティー13人全員が遭難死するという事件が起きていた。

愛知大学パーティー、薬師岳登頂断念す

リーダー層が手薄であり冬山経験者が少なかった

愛知大学山岳部には、遭難当時23名の部員が所属していた。そして、そのうちの13名が薬師岳合宿に参加して、全員遭難・帰らぬ人となった。

13名の内訳は、四年生2名(リーダー・サブリーダー)、二年生5名、そして一年生6名である。

「当初の計画段階では、(中略)20名が予定されていた。しかし、実際には(中略)7名は就職運動、家庭事情などの都合により、合宿参加が不可能となった」(「薬師」p.17)。参加を取りやめたのは、4年生2名、2年生1名、そして1年生4名の合計7名である。

なお、三年生部員が退部していたため、冬山経験者の少ない編成となっている。

太郎小屋到着から遭難までの足取り(組織の乱れ)

愛知大学パーティーの先発隊は、12月29日に太郎小屋(標高2320m台)に到着した。しかしながら、30日・31日と悪天候で〈沈殿〉したため、最終キャンプを設営予定であった薬師平(標高2470m)まで進むことはできなかった。

そうこうしているうちに、12月31日には13名全員が太郎小屋に集結する形となった。そして、さらに元旦も悪天候のためそのまま小屋で〈沈殿〉、1月2日になり13名全員が一緒に小屋を出発した(午前5時40分)。

つまり、「サポートおよび第三キャンプ設営(薬師平)を目的とした隊と登頂隊とが同時に出発したわけである」(「薬師」p.138)。

そして、途中の薬師平で第三キャンプ設営後、13名全員でそのまま薬師岳山頂(三角点2926.0m)を目指した。

このことは、「これまで一部計画を修正しつつも一応沿ってきた合宿計画が完全に崩され(「薬師」p.139)」たことを意味している。

注:沈殿とは、悪天候などのため、一時行動を中止して山小屋やテント内に留まることを言う。山用語としてごく一般的に使われている。薬学部出身の私には、沈殿反応との関係で頭に入りやすい用語でもある。

地図とコンパス(磁石)を携行していなかった

愛知大学パーティーは、頂上まであとわずか400mくらい(時間にして約35分)を残して登頂を断念した。

そして、下山を開始して間もなくの地点(分岐点標高2900m台)で、〈ほんのわずか右〉に振れる主尾根を外れて、〈90度近く左〉に振れる東南尾根に足を踏み入れてしまった。つまり、進むべき(下山すべき)方角を取り違えてしまったのである。

残念ながら、彼らは地図とコンパス(磁石)を携行していなかった。

東南尾根にはもちろんテント(薬師平)は無い。1月2日夜はツエルト二つに分かれてビバークしたものの、翌3日以降も東南尾根から主尾根に戻ることはできなかった。

記録は翌3日で途絶えている。なお、最後の遺体発見は10月14日のことであった(「薬師」p.125)。

注:標高は電子国土Web(2019/02/16確認)による

愛知大学山岳部遭難誌『薬師』

愛知大学山岳部遭難誌『薬師』(1968年刊)は、薬師岳遭難事件の合宿計画から遭難・捜索、そしてその後についてまとめた追悼誌(書籍)である。

『薬師』は、遭難原因について明確には述べていない

『薬師』では、遭難原因について、以下の4点から種々検討を加えている。

  • メンバー構成について
  • 偵察について
  • 太郎小屋以後の行動について
  • ビバークについて

しかしながら、決定的な遭難原因は何だったのか、自らきちんと指摘するまでには至っていない。以下にて同書から少し引用してみよう。

頂上直下より東南尾根に迷い込んだ地点における進路決定の誤りについて:

次に、頂上直下より東南尾根に迷い込んだ地点における進路決定の誤りも、一つの重大な遭難要因としてあげられる。

この点で、磁石、地図が一部太郎小屋の中で発見され、遺体発見地点付近一帯には何も発見されなかったことは、登頂隊が携帯していなかったものと判断されよう。もし、実際この判断の如く磁石も地図もまったく持っていなかったとすれば、リーダー、装備係の重大な失敗で、弁護の余地はない。だが、万一携行していたにせよ進路の誤りの発見の遅れは、その効用をほとんど無効にしたかも知れない。この磁石、地図の問題は、いわば登山のまったく基礎的な問題で、登頂隊が忘れていたとすれば大いに反省すべきことである。

『薬師』(pp.140–141)

決定的な遭難原因といったものは指摘できない:

以上、全員遭難死を招いた大アクシデントについて、若干の推理をまじえながら原因の追究を進めてきた。が、ここで決定的な遭難原因といったものは指摘できない。これまでにあげた要因が、いくつか相互作用しながら、決定的、かつ致命的なアクシデントとなったのであろう。

『薬師』(p.142)

日本歯科大学パーティーの場合

太郎小屋には、前年の大晦日から、日本歯科大学山岳部6名のパーティーも同宿していた。迎えて元旦は、一日中地吹雪にて両隊とも沈殿。

注:日本歯科大学隊は、後日捜索隊に加わるとともに遭難誌『薬師』(pp.58-60)では、「日本歯科大学パーティーの行動記録」を提供している。

愛知大学隊と競って薬師岳山頂を目指す

翌2日、愛知大学隊(午前5時40分発)を追って、日本歯科大学隊(午前7時20分発)も薬師岳目指して出発した。

途中の薬師平で、愛知大学隊が「六~七人用冬用テント設営中に遭う」。そしてその後は、両隊が「頂上をめざし・・・平行して行動する」場面もあった(「薬師」p.59)。

薬師岳山頂まで後400mくらいの地点で、先行する愛知大学隊が少し長めの休憩を取った。それを日本歯科大学隊が追い抜いていった。そしてその後、約35分で薬師岳山頂に達した。

これに対して、愛知大学隊は、追い抜かれた地点で登頂を断念して下山を開始した。

三度も進路を失ったが、ルート偵察を繰り返して、無事下山する

日本歯科大学隊は、薬師岳山頂にて「しばらく待ったがAAC(Web作者注:愛知大学隊)の姿は現われず・・・」、下山開始。

下山中も、日本歯科大学隊が愛知大学隊の姿を見ることはなく、「(愛知大学隊の)テントは外から閉められている。トレースはなし」という状態であった。

日本歯科大学隊は、「強い風雪のため三度進路を失なう。サブリーダー二名を組ませルート偵察を行いながら下山」という状況の中で、太郎小屋に無事帰着。なお、往路の薬師平から薬師岳山頂に向かう途中では、「標識をたてながら行動」して下山に備えていた。

翌3日は、強風・視界不良で愛知大学隊(薬師平のテント)の偵察に出ることかなわず、下山も中止して小屋に留まる。4日になり、「食料も本日の晩の分までしかない」ことから、下山実行。

なお、愛知大学隊の行方については、気掛かりとはいえ、悪天候の中で捜索に出る余裕はなかった。

以上、「」内は、遭難誌参考資料(日本歯科大学パーティーの行動記録)pp.58–61から抜粋。そのほか、遭難隊員(記録員)による行動記録pp.39–48参照。

参考:日本歯科大学隊の行動表(1963年1月2日)

太郎小屋7:20~薬師平8:20~薬師岳(9:55、10:05)~薬師平13:00~太郎小屋14:25
(薬師岳ピストン)

  • 登り:太郎小屋(1時間)薬師平(1時間35分)薬師岳
    小計2時間35分
  • 下り:薬師岳(2時間55分)薬師平(1時間25分)太郎小屋
    小計4時間20分

日本歯科大学隊は、太郎小屋~薬師平~薬師岳を1日で一気に登り下りしている。また、登りよりも下りで大幅に時間がかかっていることが分かる。下りではそれだけ強烈に吹雪かれたのだろう。

太郎小屋がポイントだ

愛知大学パーティーの登山計画は次のとおりであった。

すなわち、12月25日に名古屋を出発、折立、太郎小屋付近、薬師平とキャンプを進めて元日に登頂、1月6日に下山予定。しかし、予定日を一週間過ぎても彼らは下山してこない。

予備日ぎりぎりの1月14日になり、愛知大学当局から愛知県警を通じて富山県警に捜索願いが出された。

翌15日から吹雪をついて捜索活動が開始され、報道合戦も過熱化した。もし、愛知大パーティーが太郎小屋に避難してさえいれば、とりあえず生命に別状はないだろう。もしも小屋にいないとなれば・・・。こうして太郎小屋が最大の焦点となった。

本多勝一記者と藤木高嶺写真部員(ともに朝日新聞社)の活躍

二人共、ヘリコプターを利用して、捜索隊の先を行く

藤木高嶺・写真部員(朝日新聞社)は、1月18日午後、小型ヘリで捜索隊を飛び越え、有峰ダムの北陸電力折立発電所に着いた。そして翌日から雪のなかをスキーで太郎小屋を目差して進んだ(ガイドの志鷹敬三さん同行)。

一方、同じく朝日新聞の本多勝一・記者は、天候の晴れ間をついて大型ヘリコプターを太郎小屋まで直接飛ばすタイミングを狙っていた。

藤木は、途中で「愛知大生、食糧残したまま」「折立の飯場に、藤木写真部員確認」という特ダネをものにしながら、1月22日昼前に三角点到着、雪洞を掘る。あと1日で太郎小屋という位置である。

朝日新聞号外、来た・見た・いなかった

雪洞を掘り終わったちょうどその時、藤木のハンディに入ってきた音声は、「太郎小屋に人影なし・・・・、太郎小屋に人影なし・・・・」。

本多勝一記者(及び鳥光資久写真部員)が大型ジェットヘリ(シコルスキーS62)で小屋に強行着陸して捜索、その結果を受けて上空で旋回する朝日新聞本社機「朝風」から大阪本社へ第一報を伝える声であった。

号外「来た、見た、いなかった ― 太郎小屋に人影なし」

藤木高嶺、雪洞の中でがんばる

さて、記事送信の段になって太郎小屋と富山支局との連絡が取れない。近くの山がじゃまをして電波障害を起こしているようである。それに気付いた藤木は、雪洞の中で中継役を努める決意をする。

こうして出来上がった当日(1月22日)夕刊の大見出し
「太郎小屋に人影なし、薬師岳遭難、本社記者ヘリで着陸」

それを受けて、遭難対策本部も「愛知大の13人絶望」と断定した。(同新聞記事見出しより)

なお、太郎小屋では、その後も本多ほか数名(いずれも朝日新聞社)による捜索が続けられた。注:森田初秋、杉崎弘之の両写真部員がジェットヘリで加わる。

藤木自身は、それから6日間、自らも「テント、雪に埋没、第1キャンプを発見」などの特ダネをものにしながら雪洞の中でがんばり、太郎小屋と富山支局の交信を中継するアンテナ役を果たした。なお、いくら外が寒くても雪洞の中は零度以下になることはなく、ローソク1本で1度は暖まるという。

富山県警と愛知大学の合同捜索隊結成

捜索隊到着するも人影無し

1月16日、合同捜索隊が富山を出発して現地へ向かうも、悪天候のため幾度となく停滞を余儀なくされる。

1月25日、先行捜索隊9人が太郎小屋に到着、翌26日には、県警と大学の合同捜索本部は「27日で捜索を打ち切る」と決めた。

捜索隊が現場に到着するまで10日ほどかかっていた。隊員の疲労は激しく食料も残り少ない。そして、「朝日」の捜索により全員絶望はほぼ確実である。こうした状況での早い決断であったと思われる。

遺体発見はその二か月後のことである。まだ雪深い3月の捜索はこれまた異例のことであろう。

注:プロジェクトX~挑戦者たち~『魔の山大遭難 決死の救出劇』(NHK出版、Kindle版)には、救助隊が太郎小屋に到着した時の様子について、「祈るような気持ちで太郎小屋の戸を開けた」とある。

残念ながら、13人全員が小屋いないという“朝日”の捜索結果(22日)は、救助隊が太郎小屋に到着する前に伝わっていたはずである。

『薬師』の写真(pp.48-49の間)を見ると、現地ではMOTOROLA製のトランシーバーを使っている。写真キャプションには、「現地から本部へ」とある。そして、その隣の写真には、遭難対策本部に置かれた通信機器で、現地と通話をする様子が映し出されている。キャプションは、「本部から現地へ」となっている。

プロジェクトX~挑戦者たち~富山県警山岳警備隊


『魔の山大遭難 決死の救出劇』―壁を崩せ 不屈の闘志 プロジェクトX~挑戦者たち~NHK出版(2012年)

この薬師岳捜索要請(1963年1月)の第一報について、プロジェクトX~挑戦者たち~『魔の山大遭難 決死の救出劇』(NHK出版、Kindle版)は、次のように述べている。

「1月13日。剱岳のふもと、富山県上市(かみいち)町の警察署に、突然連絡が入った」。この点について『薬師』p.49は、「1月14日、~愛知県警を通じて富山県警に捜索を要請」したとしている(上述)。

なお、『魔の山大遭難 決死の救出劇』は、1969年1月(昭和44)の剱岳大量遭難時の富山県警山岳警備隊の活躍(15パーティー81人中、救出62人、死亡・行方不明19人)を中心にまとめた書籍である。

富山県警山岳警備隊は、愛知大学薬師岳遭難事件(1963年1月)を教訓として、事件の2年後(1965年)に発足している。

初代隊長は、富山県警上市署の鑑識係・伊藤忠夫である。この伊藤こそ、愛知大学薬師岳遭難事件の時、隊長として捜索に当たった人物である。なお、この時の捜索は、警察隊と愛知大学関係者による合同救援隊として行われた。

佐伯文蔵さんの言葉

佐伯文蔵さん(剱澤小屋(剣沢小屋)主人)は、合同捜索隊のガイドを務めた。そして、先行捜索隊9人のうちの一人として、最初に太郎小屋に到達した。その佐伯さんは、薬師について次のように語っている。(引用:BEACON―うぇーぶ)

「剱の大将」と呼ばれた北アルプス切っての名ガイド佐伯文蔵さんは、こんな言葉を遺している。

「吹雪の薬師は、歩荷(ぼっか)でも敬遠する。私も全く自信はない・・・・」

引用:BEACON―うぇーぶ(下記参考資料)

後に、本多・藤木のコンビでカナダ・イニュイ取材を行う

さて、本多勝一と藤木高嶺(当時31歳と36歳)はこの時が初対面であった。そして、この年のカナダ・イニュイ取材(カナダ・エスキモー、51回連載)をはじめとする極限の民族3部作、さらにそれに続くベトナム取材でコンビを組むことになる。

参考URL

「本多勝一」論 | 団塊の世代一代記(Akimasa Net)
「堀江謙一とマーメイド」 団塊の世代一代記(Akimasa Net)

参考資料

キーワード:
本多勝一&薬師岳
藤木高嶺&薬師岳

  • 本多勝一著『極限の民族』朝日新聞社(1967年)
    ~カナダ・エスキモー、ニューギニア高地人、アラビア遊牧~
  • 本多勝一著『新版・山を考える』朝日文庫(1998年)新版第3刷
  • 藤木高嶺著『極限の山 幻の民』立風書房(1977年)
  • 藤木高嶺著『チャレンジ精神を育てよう』くもん出版(1987年)
  • 愛知大学山岳部薬師岳遭難誌編集委員会編『薬師』1968年9月(非売品)
  • 山田義郎『山岳部「薬師岳遭難」』愛知大学史研究(創刊号,2007年)pp.83-95
  • BEACON―うぇーぶ!!トピックス(20)
    「第20話 あぁ、恨みは深し薬師岳 ~雪洞の藤木アンテナ~」(2018/08/20再確認)
    https://www.icom.co.jp/beacon/backnumber/web_topix/020.html
  • プロジェクトX~挑戦者たち~『魔の山大遭難 決死の救出劇』NHK出版(2012年)
  • 太郎小屋:
    戦前に「太郎兵衛平小屋」として建てられる
    1955年に「太郎小屋」として再建(初代は損壊・消失)
    1965年に「太郎平小屋」の看板を掲げる(筆は田部重治氏)
    このため現在は、通称「太郎平小屋」で通っている
  • 太郎平小屋:
    秋の北アルプス、太郎平小屋と薬師岳(写真キャプション)
    『賢い山のウェア選択術』 ― どんなときも快適にすごすために ―
    細田充著、山と渓谷社(1999年)p.29

2013.05.26(日)遭難誌『薬師』より引用
2003.03.15(土)初出

富士山

一富士、二鷹、三茄子と言われ、初夢のおめでたい題材にもあげられる富士山は、標高、姿・形どれをとってもやはり日本一の山です。

品川のホテルから富士山を見る(カシミール展望図)


品川のホテルからみた富士山
(方位は真北からの角度を示す)

出張でJR品川駅近くのホテルに泊まる。朝起きて、狭い部屋の西側窓にかかるカーテンを開けると、前衛の山並の向こうに白い頭を出した山が見える。富士山である。

AビルとBビルの谷間に、ちょうどすっぽりとはまり込んでいる。手前丹沢山塊の塔ノ岳は、Aビルの後ろに隠れる。蛭ヶ岳の尖がりを見て、その右側は一旦Bビルに隠れ、大室山がさらにその右隣のビル屋上にわずかにのぞいている。菜畑山~赤鞍岳~1470.3mがホテル煙突(円筒形)の上に見える。その右横は、同ホテル内別棟に隠れる。

A:東五反田3-20-14、B:高輪4-11-35、ホテル1477号室。

1996年元旦 年賀状(48歳年男)

1948年(昭和23)1月子年生まれ 今年48歳、年男です。初夢のおめでたいものに 一富士、二鷹、三茄子といいます。今年は富士山のお話から始めましょう。

学生時代の私は山歩きをしていました。剣山(徳島県)をホームグラウンドにしており、十数回登りました。夏には北アルプスに3年連続で通いました。剱岳-富山県-では御来光を拝むことができました。雲海の向こうに生まれて初めて富士山を見ました。

富士を間近に見たのは初めて乗った新幹線の車窓からでした。本社での入社後研修(大阪府)を終えて赴任地(新潟県)に向かう途中のことでした。富士山は関東の各地から見ることができます。冬の雪で白くなったころが特にきれいです。相模湾(神奈川県)の[[ヨット]]からは青い海に浮かぶ白い富士を見ました。甲府(山梨県)に住んでいたころは、自宅から毎日富士山を眺めていました。

富士山に実際に登る機会はありませんでした。一度は登ってみたい山です。第72回[[東京箱根間往復大学駅伝競争>陸上競技(駅伝)]](東京都)、ことしの富士はどの様な表情を見せてくれるのでしょうか。とても楽しみです。

二女結婚式

1999.09.16(木)
ホノルル国際空港 11:10発
1999.09.17(金)
関西国際空港 13:40着
(予定より1時間短縮?)

今年ほんとに久しぶりに2度目の海外旅行に出かけた。2番目の娘がハワイで結婚式をあげるというのでついていったのである。その帰途、飛行機(JAL)の中から富士山をみた。歌の文句ではないが、雲の上にぽっかりと青い頭を出しており、すぐに富士山とわかった。敗戦直前、アメリカ軍の爆撃機が日本を目指すのに富士山を目標にして飛んできた、というのが実感できる光景であった。

村山古道100年ぶり復活

中国新聞記事(2009/07/26付け)

富士山最古の修験道整備
広島市出身の登山家、畠堀操八さん自費出版
登山道全図「村山古道を歩く」送料込み千円

2万5千分の1地形図にルートを落とし込み、写真50点をはめこむ
トイレ情報やルート選択の注意事項記入
横38㎝、縦108㎝

村山古道とは

村山古道とは、その昔、修験行者たちが歩いた富士山麓の道のことである。富士山南面の村山浅間神社(静岡県富士宮市)から新6合目(標高2,500m)に至るもので、標高差約2000m、その距離約20kmに及んでいた。平安末期に開かれたとされており、本来は神仏混交のものであった。しかし、明治初期の廃仏棄釈の影響を受け、道沿いには破壊された修験道遺跡などが残っている。