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『坊がつる讃歌 誕生物語』
広島高師をめぐる人と人のつながりを追って
初版:2017年7月17日(電子書籍:アマゾン Kindle版)
二版:2019年3月10日
(最新版:2019/03/11刷)
今回の本書第2版では、「山男の歌」から「坊がつる賛歌」そして「坊がつる讃歌」への変遷過程や「山男の歌」の作詞・作曲者探しの過程において、新聞報道がどのようになされたのか改めて検討してみました。
坊がつる讃歌:インターネット上に流れ続ける誤報の原因(ルーツ)を探る
主な参考資料(今回追加)は以下のとおりです。
注:具体的な引用文(引用文献)は、全て『坊がつる讃歌 誕生物語』に記載しています。
中国新聞記事「ルーツは広島高師山岳部歌」、1978年7月9日付け
読売新聞記事「原作者は神尾千葉大学名誉教授」、1978年7月9日付け
中国新聞記事「作曲者見つかる、宇都宮で健在 武山さん」、1978年9月3日付け
読売新聞記事「作曲者もわかる、宇都宮大学名誉教授・武山信治さん」、1978年9月10日付け
各紙には、もちろん貴重な証言などが満載されており、改めて新聞記事検索の醍醐味を感じます。それと同時に、インターネット情報の中には、新聞記事の誤報あるいは曖昧な表現が訂正されることなく、そのまま流され続けている例がいかに多いかに気付かされます。
例えば、上記読売新聞記事7月9日付け(署名入り記事)で
「広島大に残されている資料には、「山岳部第一歌・山男」(昭和十五年八月完成)となっていて、作詞・神尾明生、作曲・竹山仙史、編曲・芦立寛の名前が記載されている」
としています。
つまり、神尾「明正」を「明生」と誤記しています。
この記事こそ、インターネット上で「広島大学に残っている資料では「作詞:神尾明生、作曲:竹山仙史、編曲:芦立寛」となっているものの、原爆で古い資料が焼失したため、それ以上の詳しいことは不明」とする書き込みが独り歩きする原因(ルーツ)となっているようです。
ここでは、地方紙の正しい情報は打ち消されてしまっています。
「廣島高師の山男」作詞・作曲者のうち、作詞者(神尾明正)はこうして特定された
芹洋子が「坊がつる讃歌」を初めて発表したのは、NHK「みんなのうた」(1978年6月・7月)でした。
芹洋子は、その前年の夏(1977年)、阿蘇山麓(熊本県)で開かれたコンサートの後で、「坊がつる賛歌」(元歌は「廣島高師の山男」)を聞いて大いに気に入りました。そして、それを東京に持ち帰り、青木望が編曲をするなどしてレコード化の準備を進めました。
ところが、元歌の作詞・作曲者が分からず、著作権をクリアーできないでいました。
坊がつる賛歌(1952年7月作成)は、坊がつる(大分県竹田市)で、九州大学の学生3名によって作られました。そこから、元歌が「廣島高師の山男」(広島県)であることが分かりました。そして、何とか作詞・作曲者の名前だけは分かった状態で、NHK「みんなのうた」の放送に入りました。
「山男の歌」は、「神尾明正(かんお・あきまさ)作詞、竹山仙史作曲」で、戦前の昭和12年ごろ(1937年)作詞、昭和15年夏(1940年)に作曲されたものだったのです。しかしながら、実際に作詞・作曲者がどこの誰かは全く分かりませんでした。
注:竹山仙史はペンネームで、本名が武山信治(たけやま・しんじ)さんであることが分かったのは、NHK「みんなのうた」の放送が終わった後のことです。
さて、神尾さんが「山男の歌」を作詞したのは、広島高師の助手補として勤務(昭和11年3月~昭和15年3月)していた時でした。
そして、作詞者が神尾明正さん(千葉大学名誉教授)だと特定されたのは、戦後長らく奉職した千葉大学をちょうど定年退官(1978年3月、昭和53)した数か月後(1978年7月)のことでした。
既に、NHK「みんなのうた」で「坊がつる讃歌」の放送が始まっていました。
「山男の歌」の作詞・作曲者探しに非常に熱心だったのは、杉山浩さん(広島高師山岳部出身)です。杉山浩さん(昭和17年・広島高師卒)は、栃木県で教員になり、当時は栃木県立今市高校校長を務めていました。
杉山さんたち広島高師関係者の調査で、広島高師山岳部の記録帳が代々の山岳部リーダーによって受け継がれており、その資料が保管されていることが分かりました。そしてそこには、「神尾明正作詞、竹山仙史作曲、芦立寛編曲」と書かれていました。
作詞・作曲者は、当然ながら高師卒業生あるいは高師関係者だろうと想像されました。ところが、該当する人物は浮かび上がってきませんでした。
さて、神尾明正さん(東京都出身)は、京都大学(地理学)を卒業した後、直ちに広島高師に就職をしました。そして、山岳部顧問となります。ところが、杉山さん(広島高師山岳部出身)は神尾明正さんの名前を知らずにいたようです。そのほかに神尾という名前を覚えている人もいませんでした。
こうして、名前は分かったが具体的に誰だか全く分からない状態に陥ってしまいました。
そうした中で、杉山さん以外の高師関係者が、当時の地理学助手補に神尾という名前の人物がいたことを思い出しました。そして、その人物こそ神尾明正さん(千葉大学名誉教授)であることが分かったのです。