ケネディ暗殺と宇宙中継(そして奇跡の日本語ナレーション)

日米間のテレビジョン衛星中継(実験)は、1963年11月(昭和38)に始まった。
東京五輪(1964年10月開催)の前年のことである。

そして、この実験放送初日に飛び込んできたのが、ケネディ米大統領暗殺という衝撃的なニュースであった。
なお、当時は衛星中継ではなく“宇宙中継”と呼ばれていた。

さて、当時高校1年生だった私は、その時の映像に日本語のナレーションが入っていたこともよく覚えている。
声の主は、前田治郎さん(当時35歳、毎日放送ニューヨーク特派員)だった。

後年縁あって、私のこのページで直接お世話になろうとは夢にも思わなかった。

前田治郎(まえだ・じろう=毎日放送元国際室長)さん、2014年3月12日(平成26)、呼吸不全にてご逝去(享年85歳)。
心よりご冥福をお祈りいたします。

注)以下の前田リポートについては、朝日新聞縮刷版のほか、前田治郎さんご本人からご提供いただいた資料(及びコメント)を大いに参考にした。

追記:2020年12月
今年2月、KDDI MUSEUM(東京都多摩市)を設立準備中の関係者から、当Webを見たと言って突然のメールを頂いた。
同MUSEUMは、日本における国際通信の歴史などを紹介する史料館として、近々リニューアルオープン予定とのことである。
そして、その中の衛星通信コーナーの映像で、前田治郎さんのナレーションを使いたいとのこと。
そのためには、ご遺族の承諾が必要であり、私がその仲立ちをすることになった。
先様からは早速ご快諾を頂き、直接二人でご挨拶に伺いたかったのだが、このコロナ禍で年末まで延び延びとなっている。

ケネディ暗殺さる

米国大統領ジョン・F・ケネディ(JFK)は、1963年11月22日(昭和38)、アメリカ中部標準時間(CST)午後0時30分、テキサス州ダラス空港からオープンカーで市内の演説会場に向かう途中、何者かに狙撃され病院に運ばれたが30分後に死亡した。
事件が起きたのは、アメリカ東部標準時間(EST)午後1時30分、日本時間では23日(土)午前3時30分のことであった。

ケネディ大統領が暗殺されたちょうどその日の朝、すなわち、日本時間11月23日朝(米国時間では22日夕方)、通信衛星を使った日米間初のテレビ宇宙中継(実験)を行うことで、政府間の正式合意(11月19日)が成立していた。

実験放送は成功した。
そして、それからちょうど1年後、東京オリンピック(1964年10月開催)の映像が全世界に向けて発信されることになる。

東京オリンピックを成功させること、それによって戦後復興した日本の姿を全世界にアピールすること、そのためには、何としてでも世界初のオリンピック映像生中継を成功させたい。
国をあげての目標は明確であった。

現在では世界のいかなるところで起きた事件でも、即座に茶の間のテレビで見ることができる。
つまり、〈衛星によるリアルタイムでの国際ニュース〉が当たり前の時代となっている。
そのような国際報道のあり方の一大転換点となったのが、この実験放送の成功であった。

日米間初のテレビ宇宙中継成功

この時の実験放送は、米国から日本に向けて電波を送信するものであった。

実験放送には通信衛星リレー1号が使われた。
この衛星は、約3時間で地球を一周する低軌道衛星であったため、日米双方から「見える」20分程度が中継の限度だった。

その後、静止衛星シンコム3号の打ち上げによって、日米間で24時間自由に衛星中継をすることが可能となった。
東京五輪の映像は、このシンコム衛星を使用して世界中に中継された。

NHKアーカイブス「初の日米宇宙中継 大統領暗殺の悲報」は事実をきちんと伝えていない

11月23日(土)、初の日米宇宙中継は断続的に2回行われた。
第一回:午前5時27分42秒~同48分(20分間)
第二回:午前8時58分~9時15分(17分間)

11月26日(火)、二日目(第3回と第4回)の実験放送が行われた。(国葬の模様など)
第三回:午前4時から15分間:
第四回:午前7時50分から15分間:

実はこの実験放送では、当時米国に駐在していた前田治郎さん(毎日放送ニューヨーク特派員)が、日本語でナレーションを入れるという想定外の出来事が起こった。

その時の映像の一部を、NHKアーカイブス「初の日米宇宙中継 大統領暗殺の悲報」で見ることができる。

ただし、NHKアーカイブスでは、第1回と第2回の映像をつなげて編集している(画面の字幕では「1963年ニュースハイライト」よりとなっている)。
つまり断続的に2回行われた“宇宙中継”の初日の内容を1回分としてまとめている。(2020/03/23再確認)

したがって、前田治郎さんの日本語ナレーション入り映像が流されたのは、第1日目の第二回目の実験放送であったという事実が、あいまいになっている。

前田治郎さんの日本語ナレーション入り映像についてまとめておこう

1963年11月23日(日本時間)の実験放送は2回行われた。
なお、この時の実験電波は米国から日本に向けて送信されたものである。

1回目(午前5時半)の放送では、アメリカ航空宇宙局(NASA)のあるカリフォルニア州モハービー砂漠の風景などが送られてきた。
その直前にケネディ大統領が暗殺されたため、事前に準備されていたケネディ大統領から日本国民に宛てたメッセージは送られてこなかった。

実際にケネディ大統領暗殺というショッキングな映像が飛び込んできたのは、2回目の放送(同日午前9時)の時である。

そしてこの時、これらの映像に日本語でナレーションを入れたのが、前田治郎さん(当時35歳、毎日放送ニューヨーク特派員)である。

ところで、前田さんはあくまでも毎日放送ニューヨーク特派員であり、「中継のアナウンサー」(NHKアーカイブスのキャプション)ではない。

また、前田さんの出演は、前田さんがケネディ暗殺を取材している最中に全くの偶然から決まったことである。
宇宙中継の中で日本語ナレーションを入れるということは、当初から予定されていたことではなかった。

さて、その2回目の放送では、前田さんは、当日の実験担当であった米国NBC放送のアナウンサーが全米向けにしゃべっている映像などを見ながら、別の場所で電話回線を使って音声を入れていった。

そして、それらの映像と前田さんの声が合わさって日本に送られた。
このようにして、米国アナウンサーの話す内容などを翻訳したものではなく、前田さん自身の言葉でケネディ暗殺直後の興奮した様子が伝えられることになった。

NHK「みんなのコメント」欄に投稿した

上記のことを確認しておきたくて、この度(2020年3月下旬)思い切って、NHK「初の日米宇宙中継 大統領暗殺の悲報」の「みんなのコメント」欄に投稿をした。
その内容は以下のとおりである。

1963年11月23日の実験放送は2回行われた。1回目(午前5時半)の放送では、アメリカ航空宇宙局(NASA)のあるカリフォルニア州モハービー砂漠の風景などが送られてきた。2回目(同日午前9時)の放送で初めて、ケネディ大統領暗殺に関する映像が飛び込んできた。この時米国にいて、日本語でナレーションを入れたのが前田治郎さん(毎日放送ニューヨーク特派員)である。彼は決して「中継のアナウンサー」ではない。

NHKアーカイブスのキャプションが書き換えられた

その後しばらくして、私のコメントが掲載されるとともに、NHKアーカイブスのキャプションが書き換えられているのに気が付いた。(2020/03/25再確認)

11月23日早朝、世界の放送史上画期的な実験、太平洋を越えたテレビの宇宙中継が行われた。午前5時28分、モニターテレビに史上初めて太平洋を越えてきた映像が鮮やかに映し出された。ところが、この歴史的な電波に乗って送られてきたのは、ケネディ大統領暗殺の悲報。中継のアナウンス「この電波でこのような悲しいニュースをお送りしなければならないのは誠に残念」と伝え、衝撃は全国に広がった。

キャプションを書き換えることによって、今度は日本語そのものとしておかしな文章になってしまっている。
以下にて、新旧の文章(後半部分)を併記してみた。

  • 書き換え前:「中継のアナウンサーが「この電波でこのような悲しいニュースをお送りしなければならないのは誠に残念」とリポートし、衝撃は全国に広がった」。
  • 書き換え後:「中継のアナウンス「この電波でこのような悲しいニュースをお送りしなければならないのは誠に残念」と伝え、衝撃は全国に広がった」。

私としては納得できない。

なぜならば、「前田治郎さんは決して中継のアナウンサーではない」、そして、そのことを指摘した私のコメント(「みんなのコメント」への投稿)を受けて、姑息な書き換えを行い、自らキャプションの日本語をめちゃくちゃにしてしまった行為が信じられなかったからである。

そこで、「前田治郎さんの日本語ナレーション入り映像が流されたのは、第1日目の第二回目の実験放送であった」という事実の確認も含めて、キャプション全般にわたってもう一度検討し直していただきたい旨、「NHKへのご意見・お問い合わせ」窓口宛てに郵送で申入れをした。(2020/04/01付け)

2020年11月23日(月・祝)現在、「なしのつぶて」で何の連絡も無い。
NHKといえども100%信用はできない。

第1回目の内容

第一回目の放送では、アメリカ航空宇宙局(NASA)のあるカリフォルニア州モハービー砂漠の風景などが送られてきた。

実はこの1回目の実験では、あらかじめ録画してあったケネディ大統領から日本へのメッセージが送られるはずであった。
しかし、大統領はこの時既に暗殺されていた。

実験開始直前の5時14分、NASAからの宇宙無電で、「実験は予定通り行うが、大統領が映っている分の放送は取りやめる」という連絡が入っていた。

実験そのものは大成功だった。
朝日・毎日は感動の瞬間を次のように伝えている。

午前5時27分42秒、モニターテレビに濃淡の模様が出た。
続いてNASAの模様入りテストパターンが表示され、27分50秒、はっきりとした映像がブラウン管に飛び込んできた。
映し出されていたのは、広漠とした米カリフォルニア州モハービー砂漠(米側電波発信基地)の模様で、一本の木、草まで細かく写っている。
国内のテレビ放送と何らかわりはない。

“ドキッ”とするようなあざやかな画像
国内放送かと耳を疑うようなハッキリした声・・・
それは宇宙時代の新しい夜明けを知らせるファンファーレでもあった

第2回目の内容(前田治郎さんの日本語ナレーション入り)

そして2回目の放送で、ケネディ大統領暗殺というショッキングな映像が飛び込んできた。

画面には、在りし日のケネディ大統領の元気な姿が映し出された。
大統領に選ばれた直後(2年10か月前)の演説会の模様である。
テレビは、新聞スタンドに群がる人々、半旗を掲げたビルなど、悲しみと興奮に包まれたニューヨークの生々しい表情も伝えてきた。

これらの映像にナレーション(日本語)を入れた日本人がいる。
前田治郎さん(当時35歳、毎日放送ニューヨーク特派員)である。
前田さんは貿易商社から毎日放送に入り、アナウンサー、プロデューサーを経て、1963年2月からニューヨーク支局の駐在員となっていた。

事件当日、彼は仕事のためバスでマンハッタンからニューヨーク市郊外に向かっていた。
翌年4月から開催されるニューヨーク世界博の工事現場を視察するためで、ほかの日本人記者14~5人も一緒であった。

ハイウェイ入口の料金所で係員がバスのドア口から叫ぶ。
“ケネディ、デッド”。
皆の不安は的中した。実はバスに乗る前に、「ケネディが撃たれたらしい」と、市民がささやきあっているのを小耳にはさんだ記者がいたのである。

ハイウェイではバスはUターンできない。
一旦会場まで行かざるを得なかった。
市内へ引き返した前田さんは、当時業務提携をしていたABC放送の国際部門に駆け込んで、このニュースを日本に送るための資料集めをしていた。
そこへ、ABCの広報担当者から思いもかけない提案をうける。

「午後7時(現地時間)から2回目の宇宙中継実験が行われる。君が日本語でこの大事件のニュースを送ってみないか」

ABC国際部門のコイル社長は、当日の実験担当であったNBC放送に電話をかけ、日本に実験電波を送るテレビ映像と音声の回線を設定した。
約1時間後(日本時間午前9時ちょうど)、前田さんの声(日本語)は、そのとき全米で放送されていたNBCのテレビ映像に乗せて日本に送られた。

「これは輝かしい日米テレビ中継の2回目のテストであります」。
前田さんの第一声である。

その続きを、NHKアーカイブス「初の日米宇宙中継 大統領暗殺の悲報」(前述)の音声から書き起こしてみた。

この電波に乗せて、誠に悲しむべきニュースをお送りしなければなりません。既にニュースでご存知と思いますが、アメリカ合衆国ケネディ大統領は、11月22日、日本時間23日午前4時、テキサス州ダラス市において銃弾に撃たれ死亡しました。この電波に、このような悲しいニュースをお送りしなければならないのは、誠に残念に思います。

注)用字用語は当Web作者による。また、句読点の位置は音声の息継ぎを参考にした。

前田さんはコイル社長のデスクに座り、目の前にあるテレビに映るNBCテレビの映像を見ながら〈電話〉で話をした。
映像そのものは、ケネディの就任演説の模様など回顧場面がほとんどであった。

前田さんは、テレビ画面とは別に次々と入ってくるニュースも生で電波に乗せた。
その内容は、そばに座っていたABC国際部門のスタッフがメモに書いてよこしたものである。

  • ケネディ大統領の遺体は、いまちょうどワシントンのホワイト・ハウスに送られました。
  • ジョンソン副大統領が、飛行機の中で宣誓を行って大統領に就任しました。

突然のことできちんとした原稿を作る時間はほとんどなかった。
“それこそアドリブでレポートしました”とはご本人のお話である。
前田さんの出演(13分12秒)はこうして無事終了した。

コイル社長がABCの東京事務所に国際電話(当時12回線しかなかった)をかけ、日本のテレビで確かに放映されたことを確認する。
社長と前田さんはウイスキーを手に中継の成功を祝ったという。

なお、日本に届いた映像は、NHKの全国ネットワークと民放全局を通じて日本全国に流された。
確かに、NHK・民放共に同じ映像が流されていたように記憶している。

プロジェクトX~挑戦者たち~(NHK)

第160回「衝撃のケネディ暗殺 日米衛星中継」
11月30日(火)21:15~22:00放送(2004年)

プロジェクトX~挑戦者たち~(NHK)という番組がある。
非常におもしろく興味深い番組である。
第160回「衝撃のケネディ暗殺 日米衛星中継」をちょうどテレビで見ることができた。
(なお、当時は衛星中継ではなく“宇宙中継”と呼ばれていた)

その内容を、以下のとおり私なりにまとめてみた。

東京オリンピック(1964年)開催が決定したのは、その4年前の1960年のことである。
しかしその当時、大陸間におけるテレビ画像中継技術は何も確立されていなかった。

例えば我が国では、ローマオリンピック(1960年)の時、短波を使用して1コマ1コマの画像を連続送信する実験を行った。
しかしその出来栄えは実用には程遠いものであった。

ちょうどその時、1961年(昭和36)、ケネディ・アメリカ大統領が、電波を〈送受〉信できる「通信衛星」を打ち上げることによって、ヨーロッパとアメリカを電話や映像で結ぶ計画を発表した。

ところが、日本は実験の対象とはならなかった。
技術力が低いとみなされたのである。
衛星からの電波はわずか10兆分の1ワットで、アメリカでともした電球の熱を日本で感じ取る、というようなレベルの技術力が必要であった。

なお、この「日本が外された」という表現に関しては、KDD(現KDDI)のOBたちから異論が出ているようである。

参考)「この番組では「日本は技術力が低いとアメリカの構想から外されていた」 と云うくだりがあり、我らOB仲間に疑問の声が上がった」。不死鳥物語~第6話 プロジェクトX談義~遠藤栄造 (2005年3月)から「」内引用。(2020/03/25確認)
https://k-unet.sakura.ne.jp/old/series/phnx/phnx06/phnx06.html

「プロジェクトX~挑戦者たち~」(NHK)は、書き過ぎる(面白く作る)傾向があったと私も感じている。
その結果として、この場合には事実とかけ離れた表現になったのであろうか。
ただし、この衛星中継の技術面に関しては、当Web作者は判断する能力を持ち合わせていないので、その一部を引用(出典元明記)するに留めておきたい。

さて、日本の技術者たちは、手探りの開発を続けながら、日本独自の通信アンテナである“カセグレンアンテナ”(直径20mの大パラボラアンテナ)を完成させた(1963年11月)。
そして直ちに、日米政府間で実験に関する合意が成立した(11月19日)。
日本も実験の正式なパートナーとなったのである。
実験開始予定日の4日前のことである。

アンテナの設置場所は、国際電信電話会社宇宙通信実験所(茨城県多賀郡十王町、現在のKDDI茨城衛星通信センター)。
技術責任者は、宮憲一(みや・けんいち)国際電電宇宙通信研究部長(当時49歳)。
宮憲一さんは、その後KDD(現KDDI)副社長を務めた後、2004年4月8日死去(享年89歳)。

プロジェクトXのゲスト3人のうち2人は、技術者の方(宮憲一さんの部下)であった。
そしてもう一人のゲストが前田治郎さん(実験当時35歳)で、毎日放送ニューヨーク特派員としてケネディ暗殺事件当時アメリカに駐在していた。
前田さんは、アメリカから送られたケネディ暗殺という衝撃的ニュース映像に、アメリカで日本語のナレーションを入れる機会(前述)を得た方である。

以前から、我がホームページでもケネディ暗殺についてほんの少しだが書き留めていた。
その文章に対して、前田治郎さんご本人から“事実と異なる”とのメールがあった。
そしてその後、郵便、FAXや電子メールで数多くの資料及びアドバイスを頂き、この文章を完成させることができた(2004/04/25)。

その前田治郎さんご本人をテレビで初めて拝見して感慨深いものがある。

国葬のもよう(キャロライン・ケネディなど)

11月26日(火)には、二日目(第3回と第4回)の実験放送が行われた。

午前4時から15分間:
容疑者オズワルドが射殺される瞬間の映像。葬儀参列のため渡米した池田勇人首相、大平正芳外相を出迎えるラスク国務長官など。

午前7時50分から15分間:
ワシントンで行われた国葬の模様(録画)が放送された。
ケネディ前大統領の葬儀は、現地時間25日正午からワシントン市内の聖マシューズ教会で国葬として行われ、ミサの後、遺体はアーリントン国立墓地に埋葬された。

そうした映像の中で、ケネディ大統領の妻であるジャクリーン・ケネディの両脇に立っていた長女と長男のことをよく覚えている。
長女のキャロライン・ケネディは、先日(2016年5月27日)、駐日米国大使(在任期間:2013年11月~2017年1月)として、オバマ米国大統領の広島訪問(米国の現職大統領初)に同行した。

映像の配信、今昔物語

2004年4月15日(木)、イラクで武装グループに人質にとられていた日本人3人が、8日ぶりにバグダッド市内で無事解放された。
この人質事件の第一報は、アルジャジーラ(中東カタールのアラビア語衛星放送)によって全世界に発信された。
そのときの映像は武装グループがアルジャジーラに送りつけたDVDからとったものだという。

さて、ケネディ暗殺事件当時は、国際ニュースといえば、航空便で届く数日遅れのフィルムの時代であった。
私にも次のような思い出がある。

思い起こせばローマオリンピック(1960年、昭和35年)の時、私は中学1年生であった。
水泳男子400m自由形決勝では、日本の山中毅がマレー・ローズ(豪州)と対決し、前回のメルボルン大会同様敗れ去った。
前年の日米対抗(ローズ米国留学中)で一度雪辱を果たしていたのだが、オリンピックではとうとう勝つことができなかった。

ローマ五輪のテレビ放送でもフィルムの空輸が行われた。
「ただ今、日航機でフィルムが到着しました」というような予告があって放送が始まったことがあるように覚えている。

参考資料

◯朝日新聞東京本社(夕刊)1963年11月23日、3版11面
日米間のテレビ中継成功、暗殺ニュースも生々し、劇的な悲しみを報ず
◯毎日新聞(夕刊)1963年11月23日
ケ大統領暗殺、悲報のせ宇宙中継、前田特派員(毎日放送)が報道
遺影もあざやかに、沈むニューヨークを刻々、衛星TV
◯朝日新聞東京本社(夕刊)1963年11月26日、3版11面
一瞬、静まり返る、”宇宙電波”に哀悼の視線
◯週間新潮1963年11月号p.23
日米中継のぶっつけアナウンス
”悲報”を伝えた日本語放送
衛星から送られた画面と前田特派員(写真キャプション)
◯週間文春1963年12月9日号P.14
新聞パトロール(特集、ケネディ暗殺)
新聞街に暁の緊急招集、世紀のニュースは締め切り直後にきた
海外特派員(毎日放送前田ニューヨーク特派員など)の活躍
◯文藝春秋1986年10月号p.181
日米新時代、30年の30人
38年、ケネディ暗殺を”実況”した日米TV中継の日
前田治郎(毎日放送国際室長)
◯朝日新聞1993年11月23日(関東版)
JFK暗殺こう伝えた、30年前の「その時」報道は-
日米初の衛星実験中継、飛び込んだ特派員、社長室で電話放送など
◯朝日新聞(夕刊)2003年1月15日
茶の間の奇跡(7)、ケネディ暗殺、「リアルタイム」の衝撃
63年11月22日宇宙中継の実験が本番に
ABC国際部門社長室でリポートした前田治郎。ぶっつけ本番だったが、アナウンサーの経験が生きた。(写真キャプション)
◯Herald Asahi, Mar.17,2003
50 Years of TV in Japan
Tragedy in Dallas reported in Japan via satellite

2020/03/23(月)増補
2004/04/25(日)決定稿完成
2002/01/20(日)初出

参考リンク

人工知能の特異点を遡って
-2001年宇宙の旅-
原田康也(早稲田大学)
情報処理Vol.56 No.8 Aug.2015 753-755
https://ipsj.ixsq.nii.ac.jp

米国同時多発テロ事件

私は米国同時多発テロ事件をテレビで目撃した

私は米国同時多発テロ事件をテレビで目撃した。2001年9月11日、家に帰ってテレビをつける(NHK夜10時のニュース)と、飛行機事故だという。世界貿易センタービル(ツインビル)北棟の上部階から黒煙が立ち昇っている。

飛行機がニューヨークのビル街のど真ん中に墜落するようなことがあるのだろうか。もし機体などにトラブルが発生したとしても必死で海まで操縦していくのではないだろうか。と、思い巡らすまもなく飛行機がビルの真正面にぶっつかる映像が映し出された。事故の再現ビデオではない。別の飛行機が、今度はツインビル(世界貿易センタービル)の南棟へ突っ込んでいく瞬間をとらえたものであった。

事故ではない。事件だった。同時多発テロ事件とその報復としてのアフガン戦争はこうして始まった。

世界貿易センタービル・北棟

1970年完成、110階建て、高さ約420m
衝突場所、96~103階
衝突時間、午前8時45分(日本時間午後9時45)
倒壊時間、午前10時28分

世界貿易センタービル・南棟

1972年完成、110階建て、高さ約420m
衝突場所、87~93階
衝突時間、午前9時03分(日本時間午後10時03分)
倒壊時間、午前10時05分

参考資料

米国東部時間(日本時間-13時間)
また、上記の数値については資料によって細かな異同があり、完璧なものではありません。

ニューヨーク・ツインタワービルの崩壊 /JST失敗知識データベース/科学技術振興機構(JST)

アポロ計画

アポロ11号、人類初の月面着陸成功(1969年)

アポロ11号のニール・アームストロング船長が、1969年7月20日(昭和44)、月着陸の第一歩を印した。アポロ11号の月面着陸の様子はテレビで実況中継され、世界中の6億人が見つめた。この時、私たちの大学では遅れてきた大学紛争の真っ只中であった。

月と地球の距離

地球(直径1万2千km)の大きさを〈バスケットボール〉に例えるならば、月(直径3,480km)の大きさは〈野球のボール〉程度になる。そして両者は、約7m(実際距離、約38万km)離れているということになる。

旧ソ連:人類初の人工衛星(1957年)

戦後、宇宙開発競争の幕が切って落とされ、米国は旧ソ連に遅れをとってしまった。

  • 1957年10月4日(旧ソ連)、スプートニク1号(人類初の人工衛星)
  • 1957年11月3日(旧ソ連)、スプートニク2号(ライカ犬、初の生物飛行)
  • 1958年1月31日(米国)、エクスプローラ1号(米国初の人工衛星)
    参考:1970年2月11日(日本)、おおすみ(日本初の人工衛星)

米国:NASA(アメリカ航空宇宙局)設立(1958年)

米国は、1958年、旧ソ連に追いつくためNASA(アメリカ航空宇宙局)を設立した。そして、「有人宇宙飛行」計画(マーキュリー計画)を発表した。しかし、またしてもタッチの差で旧ソ連に遅れをとった。

  • 1961年4月12日(旧ソ連)、ボストーク1号(人類初の有人宇宙飛行)
    ガガーリン少佐、地球は青かった、地球の大気圏外を1時間48分で一周
  • 1961年5月5日(米国)、マーキュリー3号(米国初の有人宇宙飛行)
    アラン・シェパード、弾道飛行(15分28秒)
  • 1962年2月20日(米国)、マーキュリー6号(米国初の軌道周回飛行)
    ジョン・グレン中佐、地球上100マイル(約160km)、1周90分で3周する
    自動操縦装置の故障などを手動操作で乗り切って無事帰還したヒーロー
    77歳でスペースシャトルに搭乗した(史上最高齢)
  • 1963年6月16日(旧ソ連)、ボストーク6号(史上初の女性宇宙飛行士)
    ワレンチナ・V・テレシコワ、私はカモメ、地球を48周(飛行時間71時間弱)

ケネディ大統領:アポロ計画を発表(1961年)

人類初の「有人宇宙飛行」を巡って、米国はタッチの差でまたしても旧ソ連に遅れをとった。しかし、このマーキュリー3号の成功を受けて、当時のアメリカ大統領ケネディは、アメリカ連邦議会特別両院合同会議で演説(1961年5月25日)、アポロ計画(1960年代が終わるまでに、人類を月に送り込み無事生還させる)を発表した。

米国は、アポロ計画(3人乗り宇宙船、月面着陸)の前にジェミニ計画(2人乗り)を実施、65年から66年にかけて10機を打ち上げて、月着陸のための訓練としてランデブーやドッキングなどの実験を確実にこなしていった。

以下、宇宙情報センター解説によると、

「アポロ計画」は、本来、有人宇宙船を月軌道上にのせる計画でした。しかし、1961年のケネディ大統領(当時)の演説により、月面に有人宇宙船着陸を成功させる計画に変更されました。アポロ計画では最後の17号まで合計6回の月面着陸に成功(当Web作者注:11~17号、但し13号を除く)し、12人の宇宙飛行士を月面に送りました。

アポロ13号、奇跡の生還(1970年)

アポロ13号は、NASAで3度目の月着陸を目指すが、月への軌道途中で「司令船」の酸素タンクが爆発するという大事故を起こす。それは、宇宙飛行士の生命をもおびやかすような重大なトラブルであった。

当初予定の月着陸はもちろん中止、月を回って無事地球に帰還することが最大の目的となる。クルーはもちろんのこと、NASA官制室や宇宙船関連メーカーなど多数の人々の必死の努力によって、その目的は達成された。

なお、アポロシリーズの宇宙飛行士は3名。月着陸時は、そのうち2名が「月着陸船」に乗り込み、残る1名が「司令船」で月軌道を回りながら待機することになる。その他、宇宙船には支援船を接続している。

1970年(昭和45)4月17日

4月11日(土)

ヒューストン時間13時14分
打ち上げ

4月13日(月)

ヒューストン時間21時8分
トラブル発生
打ち上げ後、2日と7時間54分

トラブルが発生した時、アポロ13号は月に向かう軌道上にあった。あと24時間足らずで月に達するという距離である。このまま何の処置もしなければ、月を回って再び地球を目指すコースは取るけれども、地球(直径1万2千km)からは約7万2千kmも離れたところを通りすぎてしまう。生還の望みはない。

なんとしても、アポロ13号を自由帰還軌道(月を回って地球に帰る軌道)に乗せなければいけない。しかし、トラブルによって、「司令船」の電気系統、制御装置そしてコンピュータといったあらゆる装置に甚大な被害を生じていた。NASA司令室は、「月着陸船」を救命ボートとして利用することを決定する。

月着陸船は、いうまでもなく月着陸用の装置であり、月着陸のメンバー2人が45時間生きてゆけるように設計されていた。地球に帰還するまで、今から77~100時間かかる。しかも、クルーは全部で3人である。酸素は、電力は、そして水は、はたして足りるのか。

最後の難関、大気圏再突入はどのようにしたらよいのか?
通常なら、再突入チェックリストを書き上げ、シミュレーターでテストし、欠陥を排除するには三か月かかる。それを今回ヒューストンのスタッフは二日足らずでやらなければいけない。

その他もろもろの困難を乗り越えて、3人は無事地球に帰ってきた。

4月14日(火)

2時40分、自由帰還軌道投入のため月着陸船のエンジン噴射。
18時21分、地球との交信不能圏(月の裏側)に入る
20時40分、2度目の噴射―PCプラス2噴射―すなわち、月を回って、月の裏側の「近月点(月にもっとも接近する点」を通過してから2時間後の噴射のこと。

4月15日(水)

10時半過ぎ、軌道(大気圏突入コース)修正のため月着陸船のエンジン噴射

4月17日(金)

7時15分、支援船切り離し
9時台、司令船の航行システムをコンピュータまで含めて完璧な状態で生きかえらせる。月着陸船切り離し。
11時43分?、南太平洋上に着水。

参考資料

  • 「人類、月に立つ(上・下)」アンドルー・チェイキン著、亀井よし子訳、NHK出版(1999年)
  • アポロ13号/JST失敗知識データベース/科学技術振興機構(JST)

宇高連絡船・紫雲丸

1966(昭和41)からの学生時代4年間を私は徳島で過ごした。
広島との往復ではほとんど宇高連絡船を利用した。
少なくとも10往復以上はしたであろう。

中国地方から四国への修学旅行をためらう空気がまだ残っていた頃のことである。

宇高連絡船・紫雲丸が、高松港外で同じ宇高連絡船(貨物船)と衝突して沈没したのは、私が入学する11年前の5月のことであった。
沈没事故の犠牲者168名は全て紫雲丸から出ており、その内訳は、紫雲丸船長のほか船員1名、一般旅客58名に加えて、修学旅行中の小中学校児童生徒100名(男子19名、女子81名)及びその関係者8名となっている。

前年の青函連絡船「洞爺丸」の沈没に引き続く国鉄の事故に世論の批判は激しく、長崎惣之助第3代国鉄総裁は責任をとって辞任した。

2007/05/04(金)海難審判庁資料追加
2004/05/12(水)五十回忌報道
2001/06/23(土)初出

宇高連絡船・紫雲丸沈没す

1955年5月11日6時56分(昭和30)
国鉄宇高連絡船・紫雲丸(客貨船)の〈右舷〉に、同連絡船・第三宇高丸(貨物船)が衝突し、紫雲丸は沈没した。
国鉄宇高連絡船(航路)は、宇野駅(岡山県)~高松駅(香川県)を結ぶ国鉄(日本国有鉄道)の鉄道連絡航路であり、当日、紫雲丸は高松港鉄道第一桟橋から宇野港に向けて出港、第三宇高丸は逆に宇野港から高松港に向っていた。

両船の衝突地点は、高松港の沖合い約2kmの女木島付近で、風はなく穏やかだが濃霧の中での事故であった。死者・行方不明168名(いずれも紫雲丸)は、タイタニック号、洞爺丸に続く当時世界第三番目の海難事件とされている。

リンク集:

1)海難審判所(国土交通省)
日本の重大海難/旅客船紫雲丸貨物船第三宇高丸衝突事件(昭和30年代)
2)紫雲丸事故/松江市立川津小学校6年生
3)紫雲丸 いでたちしまま/昭和31年3月愛媛県立庄内小学校卒業生有志
4)失敗知識データベース/紫雲丸の項(なし)

両船出港

紫雲丸(客貨船):
同日6時40分、高松港定時出港
船長以下乗組員63名、旅客781名、車両15両積載

第三宇高丸(貨物船):
同日6時10分、宇野港定時出港
貨車18両積載

濃霧注意報(高松気象台午前5時30分発表):
本日沿岸の海上で局地的な濃霧が発生するおそれあり、
視界は50メートル以下の見込み

衝突6分前

同日6時50分(衝突6分前、距離約1.5マイル)
紫雲丸では、第三宇高丸の霧中信号を聞き応答する。
第三宇高丸では、レーダーで紫雲丸を認める。

ただし、 視界100~150mという濃霧の中であり、お互いの船体を視認できてはいない。
それにもかかわらず、互いに無線電話で連絡を取り合うことなく、両船とも速力10ノット以上で航行していた。

なお、両船に取り付けられていたレーダー装置を、どちらの船長も使いこなせなかった。
それにもかかわらず、紫雲丸船長は最後まで自分でレーダーを操作し続けた。

衝突

同日6時56分
衝突と同時に右舷破口(4.5m×3.2m)から滝のように海水が侵入
発電機停止、船内の電灯が瞬時に消える
船内放送、電話、無線電話使用不能、船長の指揮命令は船員に伝わらず
沈没までわずか5分、船長の働く場は全くなかった
乗船客に救命胴衣をつけさせることもボートデッキを下ろすこともできなかった
このため、泳ぎの未熟な小中学生に多くの犠牲者を出している
(特に、女子生徒100名中81名が犠牲となった)
また一部生徒が自分の荷物を取りに船内に戻るなどの行動をとったことも犠牲を大きくしてしまった

事故原因(謎の左転)

事故の最大の原因は、紫雲丸船長が〈謎の左転〉をしたことにある。

互いにすれ違う〈行会い船〉の航法に関しては、海上衝突予防法で左舷対左舷ですれ違うこと、すなわち〈右側通行〉が義務付けられている。
つまり、行会い船はお互いに〈右転〉しなければならない。
それにもかかわらず、紫雲丸はなぜ〈左転〉したのか。

〈左転〉の背景として、高松港外で〈宇高連絡船〉同士が慣例としてよく行っていたという「右舷対右舷」で行き違う(左側通行)航法があったのかもしれない。
この航法には、貨物船の構造と、高松港の桟橋が向いている方角が関係していた。

宇高連絡船の貨物船は、船首から貨車の積み下ろしをする構造になっていた。
これに対して、高松港の桟橋は港の沖合い約2km〈北〉の海上に浮かぶ女木島の方を向いている。

宇野港から高松港へ向かって〈南東〉の方角に進んできた貨物船が、船首からそのまま高松港に接岸するためには、高松港外で大きく「左へ」回り込んで女木島に接近し、そこから〈南〉に向かう進路を取る方が都合がよかった。

紫雲丸船長としては、慣例に従って〈左転〉をして、第三宇高丸(貨物船)のために進路を空けてやるつもりだったのかもしれない。
親切心がそうさせたのだろう。
しかし、視界100~150mという濃霧の中でそれは無謀な行動であった。

ここはすなおに海上衝突予防法に従うべきであった。
つまり、〈右転〉しかあり得なかった。
もちろん、 当日の気象状況に応じて、事前に〈減速〉するなどの措置が両船ともに必要であったことはいうまでもない。

船長はなぜ死ななければいけなかったのか

紫雲丸船長は船橋内に留まり、船と運命を共にした。
救命胴衣も付けず、羅針盤を両手でしっかりと抱えるようにしていた、という。

船員法第12条:
船長は、自己の指揮する船舶に急迫した危険があるときは、人命の救助並びに船舶及び積荷の救助に必要な手段を尽くし、旅客、海員、その他船舶内にある者を去らせた後でなければ、自己の指揮する船舶を去ってはならない。

1970年7月(昭和45)、やっと条文の後半部分が削除された。
すなわちその意味するところは、緊急時あらゆる手段を尽くした後、自分自身の命も危うくなると判断すれば、船長も離船してよい、ということである。

瀬戸大橋開通

1988年4月9日(昭和63)、宇高連絡船廃止
同年4月10日、瀬戸中央自動車道(瀬戸大橋)開通

以下、日本道路公団HPより

日本で最初に国立公園に指定された瀬戸内海の優美な多島海の真ん中を通る、道路と鉄道の併用ルート(上下二層の長大橋梁群)です。ルートは道路37.3km、鉄道32.4kmで、海峡部9.4kmに架かる6橋を総称して瀬戸大橋と呼んでいます。吊橋、斜張橋、トラス橋など、世界最大級の橋梁が連なる姿は壮観です。

参考図書

萩原幹生著『宇高連絡船・紫雲丸はなぜ沈んだか』成山堂書店(2000年)

事故から49年目、五十回忌を迎える

2004年05月12日(水)朝刊各紙より

高知市立南海中学校
事故当時3年生117人と教師4人が乗船しており、その内生徒28人が犠牲となった。この時の生存者39名が、事故で中断した京都への修学旅行(一泊二日)に11日あらためて出発した。出発に先立ち、南海中慰霊碑前で遺族約60人と共に黙祷を捧げ、高松市内の追悼行事会場に向かった。会場となった西方寺では、同事故で犠牲者を出した松江市立川津小学校からも卒業生5人が参加した。その後、一行はさらに沈没現場海域で犠牲者の冥福を祈った後、京都に向かった。

松江市立川津小学校
6年生58人中21人、引率教師5人中2人および付き添い3人中2人の合計25人が犠牲となった。その五十回忌の法要(午前10時、川津小紫雲丸遭難記念碑前)と「紫雲丸追悼の集い」(午後1時、川津公民館)が九日営まれ、同級生ら約80人が犠牲者に祈りをささげた。同小での法要は79年以来25年ぶり。法要実行委員会によると、今回で最後になりそうだという。

広島県木江町立南小学校(現・大崎上島町立木江小)
6年生97人中22人と教師3人が犠牲となった。
五十回忌法要が11日、校庭に立つ紫雲丸記念館で執り行われた。

1995年(平成7)、木江南小学校と旧・木江小学校が統合して木江小学校となる。
敷地は南小学校のものを踏襲しており、1956年(昭和31)落成の遭難者記念館(南小学校)は、2002年(平成14)に紫雲丸記念館(木江小学校)として新築落成をむかえている。

愛媛県 庄内小学校
生徒77人中29人(そのうち女子23名)と関係者1人(PTA会長)が犠牲となった。

紫雲丸関係者2人(船長ほか1人)
一般乗客58人
修学旅行児童生徒100人(男19、女81)および関係者8人
合計168人

元祖・御三家

元祖・御三家

西郷輝彦さん、2022年2月20日(令和4)、前立腺がんにて死去(75歳)
ご逝去を悼み謹んでお悔やみ申し上げます。

1960年代、青春歌謡を歌っていた橋幸夫、舟木一夫、そして西郷輝彦の三人は、“御三家”として親しまれ絶大な人気を誇っていた。後の新・御三家(郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎)に対して、元祖・御三家とも言われているようである。

その元祖・御三家が、ユニット「G3K(ごさんけ)」を結成して、2000年10月6日から2001年12月31日まで、全国100都市でツアーコンサートを行ったことがある。テレビ番組以外で三人が競演するのは初めてであり、ステージで三人がそろうのも、その時が「最初で最後」であった。なお司会は、玉置宏(たまおき ひろし)。

彼らは三人共、デビュー曲がその年のうちにヒットして、同年末にはNHK紅白歌合戦に初出場を果たしている。また、日本レコード大賞新人賞も同時に獲得している。

御三家とはもちろん、徳川家の尾張・紀伊・水戸家のことである。それ以外のいわゆる「ご三家」について、『記者ハンドブック(新聞用字用語集)第13版』共同通信社(2016年3月刊)では、〈「ご三家」(芸能界など)〉としている。

ただし実際には、芸能界の「ご三家」は「御三家」と表記される場合が圧倒的に多く、当Webでもそれに従っている。参考までに、今回の西郷さん訃報に際して、大手新聞デジタル版(日経、読売、毎日、朝日など)では、「御三家」としている。

そうした中で、東京新聞や中国新聞(本社・広島市)では、「ご三家」を採用している。

注)記者ハンドブック(第14版:2022/03/15発行)では、以下の記載のみで注釈など一切無しになった。

「ごさんけ:御三家」

ちなみに、薬業界(関西)にはかつて、〈道修町御三家(武田・塩野義・田辺)〉という言葉があった。大阪市中央区・道修町(どしょうまち)は、江戸時代から続く薬問屋街から発展した町であり、日本の医薬品産業発祥の地と言われている。

「高校三年生」(我が青春の歌)

昭和39年(1964年)夏、私たち(高校2年生)の学校の修学旅行は九州一周旅行であった。途中、バスの中で作新学院(栃木県)の高校野球春夏連覇(史上初)のラジオ放送を聞いた記憶がある。そして、同じくラジオから流れていたのは、前年度レコード大賞新人賞を獲得した「高校三年生」である。それから数十年たって、私たちの同期会では校歌に続いてこの歌を合唱してお開きとなる。

私たちにとって忘れ得ぬこの歌を歌っていたのは、舟木一夫。この歌で彼は一躍スターダムにのし上がっていた。その彼が一時期不遇の時代を迎えることとなる。しばらくして、全てを乗り越えて再び表舞台に登場してきた彼は渋く輝いていた。そういう彼が私は好きである。

橋幸夫

1943年5月(昭和18)、東京都生まれ、4学年上
1960年8月(昭和35)デビュー、17歳
潮来笠(作詞・佐伯孝夫、作曲・吉田正)
同年、第2回日本レコード大賞新人賞(新人賞はこの回初めて設定)
同年、第11回NHK紅白歌合戦初出場(司会:赤組 中村メイコ、白組 高橋圭三)

舟木一夫

1944年12月(昭和19)、愛知県生まれ、3学年上
1963年6月(昭和38)デビュー、18歳
高校三年生(作詞・丘灯至夫、作曲・遠藤実)
同年、第5回日本レコード大賞新人賞(同年発表の“学園広場”と合わせて)
同年、第14回NHK紅白歌合戦初出場(司会:赤組 江利チエミ、白組 宮田輝)
紅白で歌ったのは、もちろん“高校三年生”である

西郷輝彦

1947年2月(昭和22)、鹿児島県生まれ、1学年上
1964年3月(昭和39)、17歳
君だけを(作詞・水島哲、作曲・北原じゅん)
同年、第6回日本レコード大賞新人賞(同年発表の”十七歳のこの胸に”と合わせて)
同年、第15回NHK紅白歌合戦初出場(司会:赤組 江利チエミ、白組 宮田輝)
紅白では、“十七歳のこの胸に”を歌う

2001/03/20、初出

東海道新幹線

東海道新幹線とは

東海道新幹線は<広軌><新線>である。高速かつ大量の輸送を実現するには、大型の車両が高速で走行可能な広軌が大前提となる。これに対して、日本の在来鉄道は<狭軌>である。したがって、新幹線を開通させるためには、およそ鉄道に関する一切のシステムを丸ごと新たに組み上げなければならなかった。

プロジェクトX~挑戦者たち~(NHK)

プロジェクトX~挑戦者たち~
第7回、「執念が生んだ新幹線」
~老友90歳・戦闘機が姿を変えた~
2000年05月09日(火)21:15~22:00放送
アンコール、「新幹線、執念の弾丸列車」
(2002年06月18日)

「プロジェクトX~挑戦者たち~」では、敗戦でつくることができなくなった飛行機の技術を、高速列車に応用していく技術者が主役となっている。しかしながら、東海道新幹線の成功は、総合プロデューサーとしての島秀雄なくしてはありえなかった。「プロジェクトX~挑戦者たち~」では、そのあたりの理解が浅いと感じられる。

東海旅客鉄道株式会社
http://jr-central.co.jp/

新幹線「のぞみ」に乗る

2001年2月28日(水)・3月1日(木)と東京出張で新幹線に乗った。
3月1日(木)15時52分東京発のぞみ、19時43分広島着(3時間51分)
途中、兵庫県・加古川鉄橋を過ぎたあたりで、時速300kmのアナウンス(電光表示)あり。

のぞみ21号(500系)東京発-博多行、時刻表
東京発 15:52、新横浜発 16:09、名古屋着 17:32
名古屋発 17:34、京都着 18:10、京都発 18:12、新大阪着 18:26
新大阪発 18:28、岡山着 19:08、岡山発 19:09、広島着 19:43
広島発 19:44、小倉発 20:29、博多着 20:45

東京-大阪間、2時間34分
大阪-広島間、1時間15分
広島-博多間、1時間01分

なお、3月1日は新横浜駅の前後で徐行のため数分遅れる
広島着で完全に遅れを取り戻せたかどうかは定かではない

男性ホームから転落、救助の2人もはねられ死亡

二十六日午後七時二十分ごろ、JR山手線新大久保駅のホームで、酒に酔った男性一人が線路に転落した。ホームにいた男性二人が線路に降りて助けようとしているところに電車が進入、三人とも電車にはねられ死亡した。救助しようとして死亡したのは、韓国人留学生李秀賢さん(26)と日本人カメラマン関根史郎さん(47)の2人である。佐賀新聞2001年01月27日~28日より

プラットホームに手すり・欄干をつけよ!!。
これは新幹線をつくった男 島秀雄が最晩年まで主張しつづけたことであった。

島秀雄(新幹線をつくった男)

「新幹線をつくった男 島秀雄物語」高橋団吉著、小学館(2000年)

1901年(明治34年)5月20日大阪生まれ
生まれて数か月後東京に転居、東京で育つ。

1971年(昭和46年)文化功労者、70歳

1995年(平成7年)11月3日、文化勲章、93歳
鉄道人として初、エンジニアとしては井深大に続いて二人目
東海道新幹線開業から数えて30年目
父・島安次郎の鉄道界入り(明治28年)百年目

1998年(平成10年)3月18日没(満96歳)
20世紀を角から角まできっちりと直角、水平そして垂直主義で生きた男であった

世界の標準(広軌)

日本の鉄道は<狭軌>である。線路の幅(軌間)は、1067ミリ。これに対して、世界の標準軌は1435ミリであり、日本ではこれを<広軌>といっている。

狭軌は、イギリスの植民地型規格である。狭い日本には狭軌で十分、コストも安くすむという大隈重信の一言で決まったとされている。しかし、高速かつ大量の輸送を実現するには、大型の車両が高速で走行可能な広軌が大前提となる。

電車列車(理想の鉄道)

機関車列車に対して
加減速性能に優れ、緻密なダイヤを組める
牽引機関車を切り離す必要がなく、折り返し運転が容易
重い牽引機が不要なため、軌道の構造がより簡素となりコスト減にもつながる
電力の回生が可能で、省エネルギーに貢献する

D51型蒸気機関車(愛称デゴイチ)

東京帝国大学機械工学科卒、1925年(大正14年)鉄道省入省。
入省2年目の1926年(大正15年)4月、工作局車両課に配属。
1927年(昭和2年)7ヶ月に及ぶ欧米視察旅行(鉄道省休職、私費)。

1928年(昭和3年)、蒸気機関車の設計補佐に大抜擢され、その後、補佐役 → 設計主任 → 課長として、ほぼ1年毎に次々と新しい機関車を生み出していった(在籍10年)。この時期こそ、正に日本SLの黄金時代といえるであろう。

1930年(昭和5年)~1932年(昭和7年)、「国産標準自動車製作」プロジェクトのため出向。自動車の国産三大メーカーの設計陣を向うに回して、一番若い島が会議をリードする。大の車好きの島は、出来あがった試作品のテストドライバーをかってでた。東京-箱根-名古屋から中仙道に入り(総勢十数台)、碓氷峠付近で1台が故障して試験走行は中止。当初予定の箱根往復からみると大成功であった。

1932年(昭和7年)4月、工作局車両課に課長補佐として戻る。
こののち設計主任を務めた大型貨物専用機関車D51型は、島作品の最高傑作とされておりSLの代名詞となった感さえある。汽車生産は、1936年(昭和11年)~1944年(昭和19年)で、最多生産1115両を誇っている。

1936年(昭和11年)4月、二度目の世界旅行(官費)に出る(帰国は1年9か月後の翌年12月)。

C62型蒸気機関車(愛称シロクニ)

1945年(昭和20年)8月の敗戦後、旅客列車は復員者や買出しの人々であふれかえっていた。しかし、当時の日本に旅客用蒸気機関車を新たに一から作っている余裕はなかった。

苦肉の策として、「D51」、「D52」のボイラーに「C57」、「C59」の足回りをつけて旅客用に改善することが試みられた。こうして1948年(昭和23年)暮、「D52」+「C59」から「C62」(愛称シロクニ)が完成した。

「C62」は東海道・山陽本線の急行牽引機としてデビュー、翌年からは東海道に10年ぶりに復活した特急「へいわ」を牽引するなどして大活躍した。また、1954年(昭和29年)12月19日には、東海道本線木曽川鉄橋上で、時速129キロ(狭軌世界最高速度)を達成している。まさに、日本SL史の最後を飾るにふさわしい最強の機関車であった。

湘南電車

島はこれより先の1944年(昭和19年)春、資材局動力車課長として戦時型電車「63形」の完成にかかわる。資材を徹底的に切り詰めて作ったこの寿司詰め専用電車は、戦後復興期の花形電車として活躍した。また私鉄にも導入され、その後の大量輸送車両の原型ともなった。

ただし、当時の電車は「ゲタ電」とも呼ばれ、振動と騒音が激しく乗り心地が非常に悪かった。電車とは、せいぜい20~30分(20kmくらい)の近距離をそれこそゲタ代わりに乗る乗り物と考えられていたのである。

湘南電車(緑とオレンジのツートンカラー)

湘南電車の車体は、緑とオレンジでツートンカラーに塗り分けられ、国鉄のみならず私鉄と比べても斬新なデザインであった。

また、運転席正面を開業数か月後からは、2枚の平面ガラスを角度をつけて組み合わせ、つなぎ目にまっすぐ鼻筋を通すという、島式フェイスとした。この形式は、国鉄車両の顔として国鉄の車両全般に広く採用されたばかりでなく、広く私鉄各社にも流行した。

S式便器の発案

S式便器:参考書P.110の写真キャプションより
清潔&省スペースの男女共用トイレとして湘南電車にデビューした画期的トイレ。以後、国鉄の客車全般に広く普及し、「汽車型便器」として広く一般家庭、店舗などでも親しまれた。島秀雄・発案。

1946年(昭和21年)12月、台車の振動理論の完成を目的とした研究会を立ち上げる(高速台車振動研究会)。この会は、1949年(昭和24年)4月の第6回まで開催され、島は座長として会を成功に導く。

1948年3月(昭和23年)工作局長就任。
1950年3月1日、湘南電車がデビューし、東京-沼津間を2時間半で結んだ(従来は3時間)。この当時、1編成16両もの長編成で2時間半も走りつづける<長距離>電車列車は世界のどこにも存在しなかった。

桜木町事故(一旦、国鉄を去る)

桜木町の列車火災/失敗知識データベース/畑村創造工学研究所

1949年(昭和24年)6月1日
日本国有鉄道発足(運輸省から分離・独立)
初代国鉄総裁・下山定則

7月6日:下山事件
下山定則国鉄総裁、5日登庁の途中行方不明となり、翌未明、線路上で轢死体となって発見。場所は、常磐線・北千十-綾瀬間の東武線ガード下付近。死後轢断・生体轢断で見解対立するが未解決。なお、轢断したのは、D51-651牽引の貨物列車と推定されている。島と下山は東大工学部の同期。
7月15日:三鷹事件
中央線三鷹駅車庫から63形の無人電車が暴走。駅前派出所を壊し、民家に突っ込んだ。死者6名、負傷者十数名。
8月17日:松川事件
東北本線・松川-金谷川間で上り旅客列車が脱線転覆、乗務員3名死亡。

1951年(昭和26年)4月24日
桜木町事故。車両火災にて死者106名、重軽傷50数名。
国電京浜東北線赤羽発桜木町行電車(63形)。
パンタグラフが架線に引っかかり垂れ下がった架線が木製屋根に接触発火。
事故の第一原因は、工事の不手際から現場の架線がたるんでいたため。
63形車両の戦時設計そのもの(粗末な木製車両等)が事故を大きくした。
第2代総裁、加賀山之雄(ゆきお)引責辞任。

1951年(昭和26年)8月
63形改良の目処をつけ、車両局長(理事)を最後に国鉄を去る
勤続26年、50歳の年であった。

ビジネス特急こだま

1954年(昭和29年)9月26日、青函連絡船・洞爺丸沈没、死亡1155名
1955年(昭和30年)5月11日、宇高連絡船・紫雲丸沈没、死亡168名
第3代総裁、長崎惣之助引責辞任
十河(そごう)信二(71歳)、第4代国鉄総裁就任
十河信二は東京帝国大学法学部卒、後藤新平(広軌論者)に認められて鉄道院に入る。晴天の霹靂(本人曰く)の総裁就任から二期8年を努め、東海道新幹線(広軌による超高速電車列車)を完成させる。

1955年(昭和30年)12月1日
島秀雄、理事・技師長(副総裁格)として国鉄に返り咲く
新幹線開通に向けて十河信二の強い要請によるものであった
就任後直ちに、次期東海道線の主力を、当時国鉄で検討されていた電気機関車列車方式から電車列車方式へと180度転換させる
1957年(昭和32年)9月27日
国鉄東海道本線、函南(かんなみ)-沼津間で、小田急ロマンスカー(小田急電鉄スーパー・エキスプレスカー:SE車)が、時速145km(狭軌世界最高速度)を達成した。当時、業界全体には立場を超えて高速電車列車への気運が高まっており、このような国鉄の線路を借りた高速試験が実現したのである。

1958年(昭和33年)11月1日
ビジネス特急こだま、東京、大阪で出発式(計1日2往復)
最高時速110km(従来は95km)、東京-大阪間、6時間50分
東京、大阪をそれぞれ朝7時発、大阪、東京に午後1時50分到着
折り返し大阪、東京を午後4時発、東京、大阪に夜10時50分着
東京-大阪間の日帰りが可能となった(しかも現地で2時間の余裕あり)
1959年(昭和34年)7月31日、時速163km(狭軌世界最高速度)達成
場所は、東海道本線・金谷-焼津間の上り線

参考:特急「つばめ」の所要時間(東京-大阪間)
1929年(昭和4年)新設(機関車列車)、5年後に丹那トンネル開通、8時間
1956年(昭和31年)11月東海道線全線電化、7時間30分

東海道新幹線

東海道新幹線は<広軌><新線>である。およそ鉄道に関する一切のシステムを丸ごと新たに組み上げなければならない。高速車両の設計はもちろんのこと、駅、トンネル、架橋などの建設や運行システムの確立など、やるべきことは膨大である。「総合プロデューサー」として島秀雄はこの仕事を完璧にやり遂げる。世界的にみても、これだけ大規模な鉄道施設を、しかもこれだけの短期間で、丸ごと新たに建設した例はない。

1956年(昭和31年)5月、東海道線増強調査会,設置
1957年(昭和32年)7月、幹線調査室、設置
1958年(昭和33年)4月、新幹線建設基準調査委員会、発足
1959年(昭和34年)11月、1号試験台車投入、基礎的データの収集開始
1959年(昭和34年)3月30日、東海道新幹線予算、国会承認
1959年(昭和34年)4月20日、起工式、新丹那トンネル東口
1961年(昭和36年)5月2日、世銀借款、正式調印
1961年(昭和36年)8月、新幹線主要項目、正式決定

1962年(昭和37年)4月20日
新幹線テストコース「鴨宮モデル線区」開設
(神奈川県、綾瀬-鴨宮間、約32km、現在も営業区間として使用)
1963年(昭和38年)3月30日
世界最高時速256km達成

1964年(昭和39年)10月1日、ひかり1号列車出発式(東京駅9番ホーム)
テープカットをしたのは、第5代国鉄総裁・石田禮助であった
出発式の来賓名簿に十河と島の名前はなかった
(前年5月、十河総裁二期満了で退任、島もこれに殉じて辞任していた)

開業時の列車ダイヤ:
「ひかり」「こだま」それぞれ1日15往復、東京-大阪間、4時間および5時間
翌年11月のダイヤ改正で、「ひかり」3時間10分となる

親子三代(弾丸列車計画)

新幹線は、1964年(昭和39年)10月10日開催の東京オリンピックに間に合った。工期は短く驚異的なスピードで完成した。実は、この原型(広軌新線)が戦時中に一度計画、実行に移されていた弾丸列車計画(昭和16年工事着工)にあることを知る人は少ない。

新幹線の東京-名古屋間、京都-大阪間ルートは、ほぼ弾丸列車計画のものがそのまま引き継がれている。この中で、日本坂トンネル(2174m)は1944年(昭和19年)9月にすでに完成、新丹那トンネル(7959m)も両側から約3割程度堀り進められていた。

弾丸列車計画の鉄道幹線調査会特別委員会委員長は島安次郎(秀雄の父、当時69歳)であった。そして東海道新幹線「ひかり0系」の設計を実際に担当したのは、島隆(秀雄の次男)であった。

弾丸列車計画:
東京-大阪間、4時間30分
大阪-下関間、4時間30分

安全神話

1966年(昭和41年)4月25日、新幹線で<車軸折損>事故が発生した。幸にも車掌が異常に気ついて運転士に通報、非常ブレーキがかけられ大事にはいたらなかった。設計上、いくつかの部品が影響しあって、破損した車軸を正常な位置に押しとどめることができたという奇跡にも救われたという。

この車軸は、国鉄を辞した島が顧問として復職した住友金属工業で精魂を込めて開発した自信作であった。島のショックと心労は大きく、顔面神経麻痺に続いて心筋梗塞をおこして倒れる。

新幹線は開業以来、高速かつ安全な乗り物として大成功した。そのことによって世界の鉄道を蘇らせることに成功した。しかし、それは失敗の積み重ねの上に確立されたものである。開業後3年間、現場ではあらゆるトラブルを経験している。そして、それら原因を徹底的に追求していった。

鉄道は100%安全で当たり前である(島秀雄)。しかし、人間の作った道具に100%を期待することはできない(唐津一)。だからこそ、日常現場での保守を繰り返すことによる二重三重の安全対策しか安全を守り抜く方策はない。

宇宙開発事業団(NASDA)初代理事長

1970年(昭和45年)8月15日、68歳、古希を目前にして宇宙開発事業団初代理事長の辞令を受け取り(総理大臣・佐藤栄作)、新分野・宇宙への挑戦に旅立つ。ここで何故、ロケット開発には全く無関係であった島秀雄だったのだろうか。

東海道新幹線は、ほぼ100%純国産技術によって建設されており、いかに戦前からの技術の蓄積が大きかったかを示している。島は新幹線建設を通して未経験な新規巨大プロジェクトを成功に導くための手法を確立した。システム計画手法と呼ばれるこの方法、すなわち、不確定な技術を磨きつつ、限定された予算内で短期間に、いかに効率よく目標を達成させるかというこの手法は、例えば米国のアポロ有人月飛行計画にも多くの影響を与えていた。

ひるがえって、日本の宇宙開発は戦後ゼロから出発した。そのため、当時産業界から要請の高かった静止衛星を早期に打ち上げるには、客観的にみてNASA(米航空宇宙局)からの技術導入が必須という状態にあった。

それにも関わらず、当時、日本の宇宙開発は事実上2つに分裂しており、それぞれが独自の実験を繰り返して対立していた。ペンシルロケットで有名な糸川英夫博士を中心とする東大宇宙航空研究所(東大グループ、固体式ロケット)と、科学技術庁宇宙開発推進本部(推本グループ、液体式ロケット)である。

NASA(米航空宇宙局)をはじめとする米国技術者から高い評価を受けており、国内の対立する双方のグループからは中立的なカリスマ技術師、島はまとめ役・推進役としてまさに適任であったといえよう。

島は、就任早々(1970年10月21日)大英断を下す。すなわち、<米国から液体ロケット技術を導入>して1975年(昭和50年)までに静止衛星を打ち上げる、という計画の決定で、これがなければ日本の宇宙開発は50年遅れた、とさえ語り継がれている 。

静止気象衛星「ひまわり」(GMS)
1977年(昭和52年)7月14日ケネディ宇宙センターから打ち上げ
デルタ2914型ロケット(米国製)使用、静止化後初期重量、約325Kg
続くGMS-2からは種子島宇宙センターからの打上げとなり、GMS-3、4を経て、現在はGMS-5が運用を引き継いでいる。(2001/06/30現在)
島秀雄、1977年(昭和52年)9月末日NASDA理事長退任。

2001/02/10(土)初出

日本赤軍・重信房子容疑者逮捕

Yahooニュース:2022/05/28 8:20配信
「国際テロ組織日本赤軍の元最高幹部で、「国際テロの魔女」と呼ばれた重信房子(76)さんが懲役20年の刑期を満了し出所した」。

日本赤軍・重信房子容疑者逮捕

警察庁が逮捕監禁容疑で国際手配していた日本赤軍リーダーの重信房子容疑者(55)が潜伏先の大阪府高槻市内で逮捕された。数多くのテロ事件を起こしてきた日本赤軍だが、リーダーを失ったことで組織は事実上壊滅状態に追い込まれたものとみられる。佐賀新聞 2000年11月09日より

逮捕容疑は1974年9月、オランダ・ハーグのフランス大使館を占拠、大使らを人質に取ったというものである。

日本赤軍は、1971年、新左翼の共産同赤軍派幹部だった重信房子容疑者が革命拠点を海外につくる「国際根拠地論」を掲げレバノンに出国、結成した。同じ赤軍派から分かれた連合赤軍が、リンチ殺人や浅間山荘事件(72年)など国内での過激な実力闘争を展開したのに対し、日本赤軍は中東を拠点にパレスチナゲリラとの連携を深め勢力を拡大していった。

72年のロッド(現ベングリオン)空港乱射事件をはじめ次々とテロ事件を起こし、クアラルンプール米大使館占拠事件(75年)とダッカ日航機ハイジャック事件(77年)では超法規的措置で日本国内に拘置中のメンバーら計11人を釈放させた。

しかし、冷戦構造の崩壊後は活動範囲が狭まり、95年以降、今年3月に強制送還された4人も含め計8人が欧州や南米などで身柄を拘束されている。なお、赤軍派の起こした事件としては、70年の日航機<よど号>ハイジャック事件がある。この事件のメンバー9人もまた逮捕や死亡で4人にまで減少している。(以上、佐賀新聞の記事を中心にまとめた)

これらのグループのリーダー層は団塊の世代より少し上の年代であるけれども、中核メンバーは団塊の世代そのものである。21世紀を目前にして、あれから早30年あまりの年月が経過している。同世代の人間は社会人生活30年を経て、会社ではすでに役職定年を向かえつつある。これに対して、その間の彼等の努力はいったい何だったのだろうか。何とも言えない寂しい気持ちになってしまう。

日航機「よど号」ハイジャック事件

1970年3月31日午前7時40分(昭和45)、富士山南側上空で日本初のハイジャック事件が起きた。過激派(赤軍派)学生9名による羽田発福岡行き日航機351便(よど号)乗っ取り事件である。北朝鮮に渡った犯人たちは金体制の中で日本人拉致にも関与している疑いが非常に強い。

金総書記、拉致認め謝罪

2002年9月17日(火)日朝首脳会談(小泉純一郎首相、金正日総書記)が平壌(ピョンヤン)で開かれた。席上、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金総書記は拉致疑惑について自国の関与を認め謝罪した。その際に長年にわたって行方不明とされてきた被害者の安否が明らかにされたが、その内容は実に驚くべきものであった。

警察庁認定8件、11人(拉致場所は日本国内10人、欧州1人)の内

死亡6名、生存4名、不明1名

死亡者の中には、最年少(中学1年生)で拉致された女性(その娘が生存しているという)や、よど号ハイジャック犯の元妻が関与して欧州で拉致したとされる女性が含まれている。不明者1名については、北朝鮮へ入国した事実は確認できない、としている。拉致後、北朝鮮へ連行中に船内で亡くなった可能性も示唆されている。なお、生存者4名は、男女ペアで拉致された3組のうちの2組である。

未認定2人(拉致場所は欧州2人)の内

死亡2名

よど号グループが関与した疑いの持たれている男性たちである。

その他1人の内

生存1名(氏名不祥)

政府でも全く把握していなかった人物だという。もしかして、拉致されたのは上記の方々以外にも存在するのではないだろうか。

さて、拉致され既に死亡したとされる8人の死亡日が相手国側から伝えられた。それによると、拉致当時(1977年~1983年)多くの人が20才台だったにもかかわらず、拉致後数年にして20~30代で亡くなっている。中には共に行動していたとみられる男女が同じ日に死亡したケースもあるという。異常というほかはない。日本政府は拉致事件の全容を解明して国民の前に示す責任がある。

有本さん拉致、北朝鮮外交官と工作「よど号」元妻証言

(読売新聞)[2002年3月13日2時4分更新]

2002年(平成14年)3月12日
日航機「よど号」を乗っ取って北朝鮮に渡った元赤軍派メンバー(48)の元妻、八尾恵(やおめぐみ)証人(46)が、12日に東京地裁で開かれた赤木恵美子被告(46)(旅券法違反などの罪)の公判に、検察側証人として出廷し、英国留学中の1983年に行方不明となった有本恵子さん(当時23歳)拉致(らち)事件について、「よど号メンバーらが日本で革命を起こすための人材獲得が目的だった。リーダーの田宮高麿幹部(故人)らから指示を受けて工作にかかわった」と自らの関与を認め、朝鮮労働党員の外交官の関与について詳しく証言した。

なお、赤木恵美子被告は昨年日本に帰国逮捕された。

「よど号」ハイジャック犯の娘三人が日本に一時帰国

2001年(平成13年)5月15日
田中義三の長女、小西隆裕の長女、故田宮高麿の長女
彼女たち3人はピョンヤンでいつも三人いっしょに行動しているらしい
党主催の各種式典では貴賓席に座るなど特別の待遇を受けているという

よど号事件妻子5人帰国手続きへ

センター事務局長明かす(毎日新聞)
2000年10月24日(火)22時35分、Yahooニュース

1970年のよど号乗っ取り事件で、北朝鮮に渡った元赤軍派メンバーの妻子5人が年内の帰国実現に向け、日本政府に手続き開始を求めていることが24日、分かった。帰国支援活動を続けている「救援連絡センター」の山中幸男事務局長が平壌からの帰途、北京空港で記者団に明らかにした。[毎日新聞 10月24日]

ノーベル平和賞に韓国の金大中大統領(ロイター)

2000年10月13日、Yahooニュース
[オスロ 13日 ロイター] ノーベル平和賞の受賞者に、韓国の金大中・現大統領が決まった。同国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との関係を改善し、冷戦の最後の引火点を融和した功績が認められた、という。

北朝鮮、「よど号」容疑者を追放の用意 米に言及

2000年10月9日09:16、asahi.com

米と北朝鮮 反テロ共同声明

2000年10月6日夕方(日本時間7日朝)、米国務省は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との間で国際テロに反対する共同声明に合意したと発表した。

北朝鮮は、これまで米国にテロ支援国家指定の早期解除を要求。これに対し、米側は日航機乗っ取り事件(よど号事件)で北朝鮮に亡命した日本の元赤軍派グループの国外追放や日本人拉致(らち)疑惑解明などを解除の条件としていた。米政府当局者は、これらの条件は共同声明の三項目に含まれているとしている。 (西日本新聞)

シドニーオリンピック

2000年9月15日(金)、シドニーオリンピック開会式において、南北朝鮮の選手団は、白地に青で国境線のない朝鮮半島を描いた「統一旗」のもと、いっしょになって入場行進を行った。その後の各種競技会場においても、”統一朝鮮の歌”が高らかに歌われ、南北の区別なくお互いを応援するシーンが随所で見られたという。南北朝鮮統一への民族の熱き思いが見てとれる光景である。

大阪万博、日本初のハイジャック事件発生

今からちょうど30年余り前、1970年3月末、大学を卒業したばかりの私は大阪万博会場のすぐ近く千里丘陵にあった伯父(母方)の家に寄留していた。薬剤師国家試験(4月初め)を受ける為で、大阪で受験してそのまま6日の入社式(本社、大阪・道修町)にのぞもうとしていた。

「よど号」ハイジャック事件が起きたのはちょうどその時であった。

注:事件経過の時刻に関しては資料によって多少の誤差がみられる。以下では、島田滋敏著「よど号」事件 三十年目の真実-日航対策本部事務局長の回想-、草思社(2002年)を採用した。

島田滋敏さんは、韓国・金浦空港に設置された日航現地対策本部の事務局長として、機内の犯人とコントロール・タワーとの交信を一貫してモニターしていた。すなわち、犯人と日韓両国政府の交渉の全容を知る立場にあった、ほとんど唯一の人物といえる。

「よど号」乗っ取られる(1970年)

3月31日、日本初のハイジャック発生

午前7時21分、7時10分羽田発福岡行きJAL351便、離陸
日本航空国内線、ボーイング727型ジェット旅客機、JA8315、通称「よど号」(定刻の10分余り遅れ)、コックピット・クルー3名(石田真二機長、江崎悌一副操縦士、相原航空機関士)、スチュワーデス4名、乗客131名(ハイジャック犯を含む)

午前7時40分、富士山南側上空でハイジャック発生
犯人は過激派(赤軍派)学生9名で北朝鮮行きを指示。しかし、彼らと北朝鮮との間に何らかの連絡がついていた訳ではなかった。相手側が受け入れてくれるかどうかは彼らにもまったくわからなかった。

午前8時59分、福岡・板付空港着陸(定刻の14分遅れ)
給油を遅らせるなどして時間稼ぎをするが、有効な解決策なし
午後1時40分老人子供と一部の女性(付き添いの親のみ)23人解放

午後1時59分、福岡空港を<突然>離陸、北朝鮮をめざす
ナビゲーション・ルート(飛行経路)不明
エアポート・インフォメーション(ピョンヤン空港に関する情報)なし
機長にあらかじめ届けられていた北朝鮮の地図は、中学生用の学習地図帳の朝鮮半島部分を破りとったもののみであった。

午後3時13分、韓国・金浦空港に<偽装>着陸
韓国側は、首都ソウルの玄関口である金浦空港を平壌の空港に偽装した。その上で、戦闘機2機(国籍不明機、実は韓国空軍機)が”よど号”にスクランブルをかけ、偽の管制誘導によって金浦空港に強制着陸させた。

北朝鮮と日本は国交がない。その北朝鮮の了解もなしに、日本の飛行機が北朝鮮へ飛んでゆけば撃墜される可能性が高い。偽装着陸は、日本側の憂慮に米韓が同調した連係プレー の結果であろう。

なお、米国側にも深い事情があったようだ。乗客の中に米国人が二人含まれており、その内の一人はCIA関係者であったというのだ。北朝鮮に連れて行かれたらとんでもないことになってしまう。(後段、ピョンヤンへ飛び立つまでの経緯、参照)

さて着陸後20分くらいして、ハイジャック犯たちはそこが北朝鮮ではなく、韓国であることに気づいた。アメリカ車が走り回り、ラジオからはジャズが流れていた。NWノースウェスト機が空港の端に一機取り残されていた。偽装工作は完璧ではなかった。犯人は”米軍機も見た”と後に語っている。金浦空港の隣の米軍基地に駐機中のものだったのだろうか。

いずれにせよ、彼らは態度を硬化させ、以後長い膠着状態に入る。その間に、バッテリー切れで機内温度は40度にも達し、トイレのタンクが一杯になって臭気が漂い始めた。乗客のがまんは限度を越えていた。

福岡に集まった乗客の家族や一般市民からは、即時解決のため(人質を乗せたまま)”よど号”を直ちに平壌(ピョンヤン)へ行かせるべし、との声が高まる。

4月2日、北朝鮮受け入れの意思表示

午前3時20分、北朝鮮赤十字社の公式声明(3つの確約)
航空の安全保障、乗員の人道的処遇、機体返還
これにより北朝鮮へ飛ぶ条件は整い、人質解放交渉にはずみがつく。

4月3日、北朝鮮へ

午後6時05分、北朝鮮に向けて飛び立つ
これに先立ち、乗客99名、スチュワーデス4名を全て解放。この中には、高名な医師など医療関係者約10名や20歳台の若い男女18名が含まれていた。身代わりの人質として山村新治郎運輸政務次官がただ一人乗りこむ。ただし、コックピット・クルー3名(機長、副操縦士、航空機関士)の交代は認められなかった。

こうして「よど号」は飛び立った。安全飛行のために必要不可欠な情報である、ウェザー・データ(気象情報)もオペレーショナル・データ(運航情報)も全く与えられなかった。夕闇が迫る中での完全な有視界飛行である。時間がなかった。

金浦空港を離陸した後、まっすぐ東に飛んで一旦日本海に出て、それから北上する。そして北緯39度線上に沿って西に飛べばピョンヤンが見えてくるだろう。飛行距離約760km、飛行時間1時間余りか。

石田機長は、戦時中に特攻隊の教官として朝鮮半島にいたことがある。ところが、ピョンヤンのことはまったく知らなかったらしい。はたしてうまく飛べるのか。

午後7時15分、平壌(ピョンヤン)・美林空港着
平壌(ピョンヤン)管制塔からの応答はまったくなかった。そして、ピョンヤン・順安飛行場を見つけることはできなかった。しかたなく途中で見つけた小さな飛行場に着陸することにした。ほとんど視界ゼロに近く暗くなった中で、明かりのまったくない暗闇の空港へ決死の着陸が成功した。

旧日本軍の美林飛行場跡地。地面に四角いコンクリートを並べただけのおよそ滑走路とはいえない代物であった。(石田機長後日談)

4月4日、一日休息

4月5日、羽田帰還

午前9時10分、機長以下3名のコックピット・クルーと山村代議士は犯人を残して機体とともに羽田到着。3月31日に羽田を飛び立ってから122時間経過していた。

ピョンヤンへ飛び立つまでの経緯

福岡での約5時間にわたる引き延ばし工作、および韓国・金浦空港への偽装着陸の影には米国の思惑が見え隠れしている。米国人乗客2名の内1名がCIA関係者であった可能性が高いのである。北朝鮮に身柄を引き渡すことは絶対に許されないことであった。

一方、はからずも当事国となった韓国では、朴正照大統領が陣頭に立って事に当たった。当然のことながら、南北朝鮮の政治的対立を踏まえた対応が求められる。さらに、韓国では、前年12月に大韓航空のYS-11がハイジャックされ、乗客・乗員11名が北に抑留されたままになっている、という状況もあった。 北朝鮮に対する評価は日本の当局よりもはるかに厳しいものであった。

人道的立場から、出来るだけ早くピョンヤンに飛ばせて、そこで解決すればよいとする日本政府(世論)の立場は容認しがたい。最初から最後まで、絶対に韓国内で解決(人質解放)するという強い意思表示が貫かれた。人質を北にやれば、医師等の医療関係者(約10名)や若い男女(二十歳代18名)を中心として、その内の何人かは戻ってこれない可能性が高いと判断していたのだ。

北朝鮮は、いったんは乗客・乗員の安全を約束していた。しかし、条件が変わった(乗客は山村次官と犯人達のみとなった)として、「航空機の航行の安全と乗客・乗員の安全は保証しない 」と態度を変えていた。それにもかかわらず、日本国政府は「よど号」を北朝鮮に向けて飛び立たせてしまった。

「よど号」は、国際遭難通信用周波数121.5メガサイクルで航行援助を求め続けた。船舶等のSOSに相当するものだ。しかし、北朝鮮は沈黙し続けた。国際航空界の常識 では考えられない行為である。結局のところ、北朝鮮がほんとうに欲しかったのは100名近い乗客だった、ということだろう。

北朝鮮当局の見解として、もし飛行誘導を行えば、「よど号」を受け入れたことになるので最初から 誘導するつもりはなかった。「よど号」はあくまで不法侵入者として取り扱う、というものであったという。(石田機長談)

さて、韓国・金浦空港で解放された乗客と乗務員(スチュワーデス)4名は、特別機「飛騨号」で、4月3日午後8時25分福岡に無事帰ってきた。ところが乗客の数が1名不足していた。(解放された乗客は全部で99名)

米国人乗客二名のうちの問題の一名が、解放直後、金浦空港から姿を消したのだ。戒厳令下の空港をすり抜けたということになる。米韓当局によって極秘に処理された結果のようだ。彼は、事件解決の5日後東京に戻り、3年後本国帰国、その直後に神父をやめ 、以後消息不明という。

「よど号」メンバーのその後

ハイジャック「事件」は、こうして一人の死傷者を出すこともなく解決した。しかしこれは、「よど号」メンバーにとっては長い漂流の旅の始まりにすぎなかった。そしてその旅は30年後の現在もまだ終わっていない。

犯人たちは北朝鮮側から一種のヒーローとして迎え入れられた。腐敗した資本主義社会日本から脱出して金日成(社会主義朝鮮)の懐に飛びこんだ”金の卵”として厚遇されたのである。着の身着のままだった彼らに対して、生活に必要なものはすべて朝鮮労働党から支給された。そして宿舎として平壌(ピョンヤン)郊外の党招待所があてがわれた。

しかし、北の闇の中に消えた「よど号」メンバーの消息が日本まで届くことはほとんどなかった。彼らはおそらく政治犯収容所のような場所に幽閉されつづけていると考えられていた。彼らの北朝鮮<国内外>での活動内容についておぼろげながら伝わってくるようになったのは1990年代に入ってからであり、すでに事件発生から20年がたっていた。

例えば、「よど号」グループの<妻>たちの存在が初めて明らかになったのは、1992年4月、80歳を目前にした金日成のインタビューによってであった(朝日新聞政治面掲載)。それまでは、メンバー全員が結婚していること、しかも相手の女性はすべて日本人で子供までいることなど想像だにされなかった。

現在の「よど号」グループは、彼らと妻子(子供の数は20名)、それに事件後ピョンヤンで合流した人物(男性)やグループ員の妹が加わって構成されているらしい。

主体(チュチェ)思想

ピョンヤンに着いてからの彼らの生活は、ひたすら主体(チュチェ)思想を叩きこまれる毎日であった。北朝鮮側から受ける破格の待遇に対する「義理」、軽井沢「あさま山荘」事件や連合赤軍事件(総括という名の粛清)とそれに伴う国内赤軍派の壊滅は彼らの思想に微妙な変化をもたらした。

1972年5月6日、金日成が彼らの宿舎を訪問(謁見)、この時を境に「よど号」グループは朝鮮労働党の忠実な”チュチェの戦士”として生まれ変わった。そして彼らは、金正日を担当最高責任者とする特別な存在として権力中枢と直接結びつけられた。

日本人革命村

彼らの暮らす招待所はピョンヤン郊外にある。関係者から日本人革命村とよばれているこの一角は周辺の農村から隔離されており、北朝鮮で市販されているどんな地図にも記載されていない。

村には彼らが日本式生活を満喫するための施設・設備が完備している。それらを維持するために多くの労働者が働いている。専属の料理人が数名いる。食堂での給仕、洗濯、掃除などをする若い女性が配置されているなど、さながら小さな宮廷といったところである。

花嫁獲得作戦

村の最初の花嫁は1975年10月19日に日本を出国、いくつかの国を経ておそらく東欧の朝鮮大使館経由で入国した。メンバーの一人とハイジャック直前まで恋人関係にあった女性で、彼からまったく連絡がないのに業を煮やして自ら行動を起こした結果であった。

これをきっかけに、残りのメンバー全員の花嫁が<日本から>連れてこられることになり、朝鮮労働党によって実行に移された。そして、1977年5月初めに次々と結婚式を挙げた。(1976年中に結婚したものもいるらしい)

5月1日、田宮高麿
5月3日、赤木志郎
5月4日、柴田泰弘
5月5日、田中義三、など

花嫁たちの中には、日本にいるときからチュチェ研などでチュチェ思想と金日成主義の洗礼を受けていたものが多い。しかし、ハイジャック犯と結婚することが目的で北朝鮮に渡ったものはいない。北朝鮮に渡った後、「領導芸術」という洗脳(マインド・コントロール)を受け、結婚を余儀なくされていったものと思われる。

妻達の中には、北朝鮮の思想とは関係なく、拉致に近い形で連れてこられた者も2名いる。いわゆる「日本人拉致疑惑」が起こった時期と重なってはいるが、彼女達の存在は1990年代半ば以降までまったく明かにされることはなかった。

「よど号」メンバーによる秘密工作

彼らは1975年頃から海外へ出はじめた。当然のことながら偽造旅券や時には外交官旅券を使用したのであろう。各国の北朝鮮大使館を宿泊場所とし、北朝鮮外交官や工作員と行動をともにすることも多かった。特に北欧においては、外交官特権を利用した違法な経済活動の一端を担わされていた可能性が高い。

結婚して最初の子供ができたころ、いよいよ軍事訓練が始まった。指導教官は人民軍から派遣され、ゲリラ戦士として徹底的に鍛え上げられた。1979年末から翌年の春にかけて、彼らのうち数名の男女が海外(ヨーロッパ)へ出かけていった。

マドリッド(スペイン)は彼らの重要な工作拠点の一つでほぼ10年間維持された。そして、数名の日本人学生(旅行者や留学生)拉致の活動舞台となった。対象となったのは、日本政府が認定している拉致7件10人とは全く別の人たちである。

しかし、こうした北朝鮮側(外交官や工作員)の活動は西側組織によって徹底的にマークされ、おびただしい量の証拠写真が撮られた。そして、そこには「よど号」メンバーはもちろんのこと妻達もいっしょに写っていた。

こうした資料を日本の公安当局が受け取ったのは、ソウル・オリンピック(1988年)開催前頃である。写真鑑定の結果、「よど号」メンバーが確かに写っていることを確認したにも関わらず、何ら行動を起こすことなく資料はどこかに仕舞い込まれてしまった。

ただし、<妻たち>に対しては旅券返納命令が出された(1988年8月6日付け官報)。しかしその理由は、北朝鮮工作員と接触する危険人物としてであり、この時点で彼女たちがよど号グループの妻であることまでは分かっていなかった。

妻たちは、1980年代前半から1988年5月末ころまで頻繁に日本に一時帰国をしている。おそらくメンバーの日本帰国の下準備のためであったろう。ところで、旅券は本人が所持する正真正銘のものであった。なぜならば、彼女たちに旅券返納命令が出されたのは1988年8月であり、それまでに全員が2回更新をすませていた。

1989年11月9日「ベルリンの壁崩壊」に象徴される東西緊張緩和に続く激動の中で、北朝鮮はヨーロッパにおける拠点を次々と失っていった。すでに日本からの撤収を余儀なくされていた「よど号」グループは、活動の主体を北朝鮮国内からの対日工作に切り替えざるを得なくなっている。

ハイジャック事件メンバー、その他関係者

田宮高麿(当時、27歳)リーダー、赤軍派軍事委員長
1995年11月30日未明、ピョンヤンの自宅で急死(心疾患)。

小西隆裕(同、25歳)サブ・リーダー格、東大全共闘
妻とは事件発生以前から恋人関係。

岡本武(同、24歳)京大、東大安田講堂(1969年1月18、19日)経験者
思想的対立により妻といっしょにグループから引き離される(1982~3年頃)。夫妻死亡説が新聞に出たこともあるがほんとうのところは不明である。

妻は1976年7月に失踪(拉致されて)した高知県出身の日本人女性であるという事実がつい最近明らかとなった(1996年8月7日、朝日新聞)。彼女は1980年春日本に一時帰国している。グループの日本潜入計画(岡本武が候補)を何らかの形で手助けするためであったのだろう。

赤木志郎(同、22歳)東大安田講堂 経験者
 妻恵美子2001年日本帰国逮捕、旅券法違反などの罪で公判中
若林盛亮(同、23歳)東大安田講堂 経験者
阿部公博(同、22歳)東大安田講堂 経験者

田中義三(同、21歳)
1996年3月、偽ドル関与疑惑によりカンボジアで逮捕。身柄を拘束された時、彼は北朝鮮大使館の公用車で大使館員2人と同行中であった。逮捕後タイに連行され四年あまりの獄中生活を送る。無罪判決を得て日本帰国、収監そして裁判中。妻子はピョンヤン在住。

吉田金太郎(同、20歳)
1985年に病死と伝えられているが、1977年5月初めの合同結婚式で彼も妻を迎えたという証拠は無い。当時すでにメンバーから離れていたか、あるいは死亡していたか? 粛清説もある。

柴田泰弘(同、16歳)
1985年春、日本潜入。1988年5月6日、兵庫県警外事課に逮捕される。続いて5月25日、彼の妻が神奈川県警外事課に逮捕された。妻逮捕のきっかけは<密告>電話によるものであり、その直後、何人かの北朝鮮関係者(よど号日本人妻も含む)があわただしく日本を出国した。

彼の妻八尾恵(やおめぐみ、兵庫県出身)は、北朝鮮について「行けるものなら行ってみたい」という漠然とした期待感をもっていた。そのとき、朝鮮総連系の学生活動家と知り合い、紹介された人物によって北朝鮮行きが実現する。

1977年2月24日、大阪・伊丹空港から香港に向けて出国、さらにジェット船に乗って同日中にマカオの指定されたホテルに入る。翌日北朝鮮側の担当者と会い数日を過ごす。この間に出来あがった北朝鮮公民のパスポートを持って出入国専用バスで国境を渡り中国に入る。車を乗り換えて飛行場に行き翌日北京に飛ぶ。北京飯店に一泊、翌朝北京空港から北朝鮮に飛び、平壌・順安空港に降り立つ。日付は3月1日になっていた。

マカオからは常に担当者が付き添う。泊まるホテルはその土地一番の高級ホテル、豪華な食事に貸切タクシーでの市内観光付きであった。ピョンアンの招待所でもいたせり尽くせりで面倒を見てもらい、「よど号」メンバーとの結婚を勧められ断り切れなくなってしまった。彼女はメンバーの男性と強制的に”結婚”させるために計画的に連れて行かれたのだ。

子供2人を生んで1984年、7年ぶりに日本に潜入帰国、横須賀でカフェ・バーを開いて半年後に逮捕される。しかし結局,罪状は公正証書原本不実記載(住民票への偽名登録)のみで罰金刑確定。

彼女自身が「よど号」グループの日本人妻の一人であることを告白したのは1992年になってからである。1992年4月の金日成による「よど号」妻子問題公表後、悩み続けた末出した結論であった。そして1997年、北朝鮮に残してきた子供2人(女児)に日本国籍が与えられた。

2002年(平成14年)3月12日に開かれた赤木恵美子被告(46)(旅券法違反などの罪、2001年日本帰国逮捕)の公判で英国留学中の女性拉致(らち)事件について詳しく証言した。

(塩見孝也)元赤軍派議長
よど号事件のリーダーとなるはずだったが直前に別の事件で逮捕された。
19年9ヶ月の刑期を終えて出所。後にピョンヤンにて田宮たちと再会。

(山村新治郎)衆議院議員
1992年4月13日未明、<次女>に自宅で包丁にて刺し殺される。
自民党<訪朝団>の団長としてまさに出発する当日のことであった。訪朝団の目的は金日成主席80周年の慶祝行事参加であったが、もう一つの目的は「よど号」グループとの再会にあった。山村も田宮もそれを心待ちにしていたという。

よど号事件当時、”身代わり人質”として一躍有名になった父親を羽田空港に出迎えたのは、ほかならぬ彼女である。彼女の人生にとっても「よど号」事件は言うに言えぬ深い影を落としていたのであろう。そして「よど号」メンバーにとっては、日本政府とのささやかな繋がりを完全に立ち切られた事件となった。

参考資料

〇『宿命』「よど号」亡命者たちの秘密工作、高沢皓司著、新潮社1998年
〇「よど号」事件 三十年目の真実、-日航対策本部事務局長の回想-
島田滋敏著、草思社2002年
〇週間新潮2001.08.16-23号、私はよど号犯「柴田」と強制結婚させられた
〇謝罪します、八尾恵著、文藝春秋社2002年
「かりの会」帰国支援センター

2005/01/09
韓国・金浦空港偽装着陸の謎、加筆訂正
2002/09/19
日朝首脳会談、追加
2000/10/02初出

電子書籍(アマゾン Kindle版)

本ページの一部は、電子出版しています。

『塩野義製薬MR生活42年』
~ある医薬情報担当者の半生~
www.amazon.co.jp/ebook/dp/B00WF44WIA/
2015年4月19日(初版発行)
2016年4月6日(第2版発行)

日航ジャンボ機(JAL123便)墜落事故

1985年8月12日(昭和60)

日航ジャンボ機(JAL123便)は、1985年8月12日(昭和60)、群馬県の山中に墜落(18時56分)しました。羽田(東京)発18:00、伊丹(大阪)行の便で、乗員乗客524名中死者520名、生存者は乗客女性4名のみでした。

事故原因は、事故調(運輸省航空事故調査委員会)によれば、「後部圧力隔壁が破壊されたことによって、垂直尾翼及びその附近にある油圧システムが大きなダメージを受けたため」としています。しかし、この圧力隔壁破壊説に対しては現在に至るまで異論も多いようです。

また、墜落地点がなかなか特定できず、その間に、もっと多くの生存者を救助できたのではないかとも言われています。

さて、この事故ではシオノギ製薬の社員も2名が殉職されました。

そのうちのお一人には名刺を頂いたことがあります。開発担当の方で、後にフルマリン(1988年発売)の開発に関与していたと聞きました。おそらく、この事故によってフルマリン開発の進捗に差し障りが出たのではなかろうかと思われます。フルマリン=シオノギ製薬創製のオキサセフェム系抗生物質(注射剤)。

そのほか、大阪・道修町(どしょうまち)に本社を構える製薬メーカーの中から何人かの犠牲者が出ています。出張帰りのビジネスマンの中には、新幹線よりほんの少しでも早く自宅に帰れるということで、飛行機を選んだ人もいたことでしょう。

当時の私は、山梨県(甲府市)で勤務をしていました。その山梨県(大月市)の上空を、同機はコントロール不能となり、ダッチロール状態(機体が上下左右に揺れること)のまま飛んでいったのです。(米田pp.128–9,日航123便の航跡)

必死に機体を制御しようと試みながら、羽田に引き返そうとしたクルーや、乗員乗客の無念を思うと涙を禁じ得ません。ご冥福をお祈りするばかりです。以上、『塩野義製薬MR生活42年』(アマゾンKindle版を基に修正)

電子書籍(アマゾン Kindle版)

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~ある医薬情報担当者の半生~
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2015年4月19日(初版)
2016年4月6日(第2版)
2017年06月10日(第3版)
(最新版:2017/11/26刷)

墜落事故の経緯

日本航空JAL123便墜落事故
乗員乗客524人中、死者520人
乗員15人、全員死亡(機長、副操縦士、航空機関士、計3名を含む)
乗客509人、505名死亡(女性乗客4名のみ生存)

8月12日、18時12分(定刻の12分遅れ)、羽田離陸(大阪・伊丹行)
18時24分、相模湾上空で異常発生(ドーンというような爆発?音)
18時24分42秒、スコーク77(EMG:emergency call)発信
18時56分23秒、衝撃音、群馬県山中に墜落
18時56分26秒、衝撃音、記録停止
19時20分、在日米軍機、現場上空から墜落位置情報発信
8月13日、5時37分、長野県警ヘリ「やまびこ」、空から現場特定
10時45分、生存者発見の報が本部に届く

ボーイング社製 DC747SR(運輸省機体登録番号:JA8119号)
全長70.5m、全幅59.6m、重量約250t
SRとはショート・レンジの略で、短中距離の日本の航空事情に会わせて数多い離着陸をこなせるように補強された機体のことを指す

さて、航空機事故のおよそ9割は、離陸後3分間、着陸前8分間の合わせて11分間に起こっている。これが魔の11分間(クリティカル11min)と言われるものである。

逆にいえば、高度・速度共に安定して飛行している状態(巡航速度)での事故は非常に少ない。日航ジャンボ機墜落事故は、巡航速度中に起きた事故としては、いまだに世界最大規模の航空機事故とされている。

ところで、事故処理のための統合本部は遂に設置されなかった。その代わりを群馬県警本部長が穴埋めする形で調整役を努めた。しかし、このような巨大事故に対応するには、情報の一元化と指揮命令系統の統一化が絶対条件となる。救難体系の見直しは、その後も十分な検討をされることなく、放置されたままとなっている。

河村著添付地図:
・現場付近鳥瞰図p.5
・現場広域地図p.6–7(上野村役場及び墜落現場周辺を全て含む)
・現場地図p.8–9(現場周辺の拡大図)

1985年8月13日(昭和60)

事故翌日の朝、甲府市内(山梨県)にあった私の勤め先では外勤社員の禁足令が出された。前日の夕方、日航機(羽田発伊丹行)が山梨県内の山中に墜落、その飛行機に我社の社員が乗っているというのである。

結局、しばらくして墜落現場は群馬県内と分かり、拘束は解かれた。しかし、捜索の結果、社員2名の殉職が確認された。

2000年8月13日(平成12)

事故からちょうど丸15年、たまたま朝のテレビ番組を見ていたら、ボイスレコーダーの肉声テープが公開されていた。それは、トラブル発生から墜落までの緊迫したコックピット内の様子を知らせるものであった。(米田付録DVD,御巣鷹の謎を追う)

最後まで懸命に操縦し続けたキャプテンたちと、それをフォローする客室乗務員、そして30分間余りの恐怖に耐え続けた乗客の無念を思うと涙を禁じ得ない。

しかし、このテープは正式に公開されたものではないのだそうである。つい最近廃棄処分されてしまったらしい本事件関連の1トン余りの資料(事故後10年の保存義務)の中の一部で、それがたまたまマスコミの手に渡ったものだという 。

本事件の事故原因については、運輸省航空事故調査委員会の結論(後部圧力隔壁破壊説)に対して異論も多く、政府に対して再調査を求める声がある中で、こうした資料の散逸は非常に残念である。

キャプテンたちは頑張った

相模湾上空での事故発生と同時に、垂直尾翼の約3分の2が吹っ飛んだ (下部方向舵の一部も破損)。尾翼部分には油圧システムが集中している。尾翼の損傷に加えて、油圧(4系統全て)が効かなくなった機体は操縦不能となり、ダッチロール状態(機体が上下左右に揺れること)となった。

キャプテンたちは、主にエンジン出力の調整によって機体をコントロール、羽田へ引き返そうと懸命の努力を行う。 その途中にある米軍横田基地からも、123便に何度も呼びかけが行われた。「滑走路を空けておくので、いつ緊急着陸してもよい」と伝えたかったのだ。

しかし、123便にはそれに応じる余裕は全くなかった。機体を飛行させることだけで精一杯だったのである。その時の緊迫した状況は、フライトレコーダーとボイスレコーダーの中にしっかりと刻み込まれている。フライトレコーダーを見ながらボイスレコーダーを聞くことによって、キャプテンたちの必死の操縦内容がよりよく理解できるだろう。

ボーイング747ジャンボ機の航空性能はもちろんのこと、キャプテンたちの技量はすばらしかった。事故発生から墜落までの約30分間の操縦について、多くのパイロットをして「あの状況でよくあそこまでがんばれた」と非常に高い評価を受けている。しかし、最後は力尽きて群馬県内の山中に墜落した。

事故原因について(運輸省航空事故調査委員会)

日航ジャンボ機(JAL123便)墜落事故の原因は、事故調(運輸省航空事故調査委員会)によれば、後部圧力隔壁が破壊されたことによって、垂直尾翼及びその附近にある油圧システムが大きなダメージを受けたため、としている。

つまり、”後部圧力隔壁が金属疲労で破壊されたため”、機体内の与圧された空気が一気に外に吹き出し垂直尾翼を破壊した、というのである。

ところで、この”金属疲労”とは一体どういうことなのであろうか。事故調の説明は次のとおりである。

同機は本墜落事故の約7年前の1978年6月、大阪空港で「尻もち事故」(機体尾部が滑走路を”こする”事故)を起こしている。このとき圧力隔壁を修理したボーイング社の整備士がリベットを正確に打たなかったため、飛行を繰り返していくうちに金属疲労を起こし破壊された。

つまり、事故原因はボーイング社と日航による圧力隔壁の整備ミスということで、両社とも公式にこれを認めている。

圧力隔壁破壊説はほんとうに正しいのか?

ジャンボ機は高空を飛ぶ。つまり、低圧状態の中を飛んでいく。したがって、人員の生命維持のため、機内を与圧する(圧力を加える)必要があり、その与圧に耐え得るように機体を補強する装置が圧力隔壁である。

このような圧力装置が破壊されれば、与圧された空気が急激に外に押し出されるのは当然のことである。しかし、それが尾翼を破壊するほどの強い圧力を持つものなのであろうか。

いずれにしても、 事故直後、人間や荷物が機外へ吸い出されるといったような急激な気体の流れは観測されていない。いわゆる急減圧はなかったものと考えられる。

まず最初に尾翼が破壊された可能性もある

圧力隔壁破壊 → 尾翼破壊という図式とは別の見方として、まず最初に尾翼が破壊されたという考え方も成り立つ。圧力隔壁が破壊されたのは、ただ単に墜落時の衝撃によるものではないのだろうか。

日本乗員組合連絡会議(日乗連)は、圧力隔壁破壊による急減圧はなかったと主張している。そして、事故の直接的原因として上部方向舵のフラッター(振動)現象をあげている。この現象によって垂直尾翼が破壊されたというのである。 有力な手懸りの一つであろう。

垂直尾翼はなぜ破壊されたのであろうか。その原因を調査するためには、相模湾に沈んだ垂直尾翼の破片を回収することが必須である。それにもかかわらず、事故調では、たった3日間の海上捜索で垂直尾翼の回収作業を断念している。当時の事故調の捜索活動は不十分であったと言えるであろう。そこには、徹底した原因究明をしようとする姿勢は全くみられない。

墜落地点は翌朝やっと特定された

日航ジャンボ機JAL123便は、8月12日18時56分、群馬県内の奥深い山中(長野県境近く)に墜落した。

直ちに空からの捜索が開始され、米軍機、自衛隊機及び民間機がそれぞれ現場上空に達したものの、その夜のうちには墜落地点が群馬県側と断定することさえできなかった。

この間、事故発生直後から、墜落地点は長野県側とする様々な誤情報(佐久説から始まり、碓氷峠説、ぶどう峠説、そして御座山北斜面説など)が飛び交った。

長野県警ヘリ「やまびこ」は、翌朝8月13日5時37分(当日の現場近くの日の出は午前5時ちょうど)になって、やっと空から現場を特定した。もちろん群馬県内である。既に墜落から10時間半以上が経過していた。

当時の群馬県警はヘリコプターを所有していなかった。群馬県警は、地上捜索隊による活動を事故当夜から開始した。非常に広い山域を隊を二分して捜索した結果、そのうちの一隊が翌朝8月13日7時34分、墜落地点を視認することに成功した。長野県警による空からの現場特定に遅れること約2時間であった。

しかし、群馬県警が墜落地点を視認した場所は、墜落地点(長野県境付近)からはるか遠く離れた場所(埼玉県境付近)であった。つまり、結果として、墜落地点とは真反対の方向を捜索していたことになる。

さて、それからさらに数時間後、午前10時45分に4名の生存者(いずれも乗客女性)が発見された。墜落から約15時間が経過していた。彼女たちの証言によれば、墜落直後しばらくの間は、彼女たち以外にも生存者がいたことは確実である。

自衛隊及び警察による捜索・救難活動の遅れは致命的であった。なぜもっと多くの人たちの命を救うことができなかったのか。この事故で残された大きな課題の一つである。

墜落現場の特定はなぜ遅れたのか

捜索が難航したのは、もともと確かな情報が少ない上に通信状態が非常に悪く、上野村(群馬県)の現地本部との連絡がうまくいかなかったことが原因の一つとされている。 また、中央から現地本部に届いた情報そのものが非常に少なかったのも事実だろう。

しかしながら最も大きな原因は、現地本部及び捜索隊が、地図とコンパスで墜落推定地点と捜索隊の位置関係をしっかり把握しながら行動することができなかったことにあるのではなかろうか。

あるいはまた、現場に一般人を近づけたくない何か重大な理由があったのだろうか。

河村一男群馬県警察本部長(当時)は、群馬県警捜索隊にどのような命令を下したのだろうか。そして、捜索隊はどのような行動をとったのだろうか。河村著書が「責任者の代表として正しい事実を書き残せ」ているかといえば、肝心の捜索活動について曖昧な点が多すぎるため、大いに不満が残る内容となっている。

正確な墜落位置情報は、すぐに得られたはずである

群馬県警が墜落位置情報を初めて入手したのは、事故当日8月12日の深夜23時08分のことだという。もたらされた情報は次のようなものであった。(河村p.87)

「航空機の炎上を目撃した位置は、北緯36度02分、東経138度41分」。

事故(18時56分)直後、自衛隊機や民間機が捜索のため次々と飛び立った。そうした中で真っ先に現場に到着したのは、在日米軍C130Hハーキュリーズ輸送機(アントヌッチ中尉搭乗)であった。同機は、同日8月12日19時20分、現場上空から墜落機の残骸を発見して位置情報を発信した。(米田pp.106–7,115上段、米空軍アントヌッチ中尉の証言)

「ラージファイア フロム ヨコタ 305度34マイル」

その情報は、直ちに日本政府、さらには日本航空にも伝えられた。

日本航空の現役パイロットであった藤田日出男は、同社の”航空事故調査”担当者でもあった。彼は事故当日夜、翌日の香港フライトに備えて成田にいた。(以下、藤田pp.15–19)

藤田は、事故の第一報を19時15分に聞いた。その時の情報は、123便(ボーイング747型ジャンボ機)が操縦不能になり、レーダーから消えたというものであった。

NHKテレビが速報を流したのは、その10分余り後の19時26分である。藤田は、NHK速報を見た後すぐに翌日のフライトを交代してもらい、成田から羽田に引き返した。そして、事故調査のため直ちに現場に向かった。

日本航空が得ていた墜落地点の情報は、「横田の305度(北西)34海里(かいり)付近(1海里=1,852m)」であった。アントヌッチ証言の数値である。

羽田に移動するタクシーの中で、藤田はフライトバッグの中のエアウエイ・マニュアル(航空路や空港の地図)とプロッターを使って墜落地点を検討した。その結果は、「富士山の真北40海里(約74km)、北緯36度東経138度45分付近」を示していた。

この数値自体は、墜落地点が群馬県内にあることを示している。しかし、この時点では、墜落地点は長野県内とする情報に、藤田も引きずられていたようである。

墜落地点の計測値は、現場上空に到着した複数の飛行機、その他各地のレーダーによるものが幾つもあった。それらの位置情報は、いずれも墜落地点の回りに正確にバラついている。これだけの証拠がありながら、なぜ最後まで長野県側だったのだろうか。(米田p.76,計測地点と墜落発表地点)

群馬県警は本当に何も知らされていなかったのだろうか。

墜落位置情報は極めて正確であった

・群馬県警が得た情報:
航空機の炎上を目撃した位置は、北緯36度02分、東経138度41分

明らかに群馬県内である。それにもかかわらず、群馬県警捜索隊は、これから捜索に向かう林道近くが墜落現場だという自覚もなく、その場を通り過ぎている。

・日本航空が得た情報
横田の305度(北西)34海里(かいり)付近
この数値を藤田が手元で解析したところ、
富士山の真北40海里(約74km)、北緯36度東経138度45分付近

・事故調報告書
北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒
もちろんこれが一番正確な数値である。

各数値を比べると、緯度経度共に数分の誤差しか無い。距離にすると数kmである。つまり墜落地点の情報は最初から極めて正確であったことが分かる。それにもかかわらず、なぜ墜落地点が長野県側だったのか、納得のいく理由は見当たらない。

参考:当時の緯度経度表示は、日本測地系(日本測地系TOKYO)によるものである。世界測地系(日本測地系2000(Japanese Geodetic Datum2000))は、2002年4月1日(平成14)から適用されている。

緯度経度1分の距離は
地球を1周約4万kmの完全な球体と仮定すると、
緯度1分=4万km/360度/60分 ⇒ 1.85km
経度1分=1.85km✕cosine36(北緯36度の場合)⇒ 1.50km
つまり、1分=1海里(かいり、マイル)≒1,852mのことである。

群馬県警捜索隊の動きを分析してみる

群馬県警捜索隊は日付が変わるころ、地元猟友会の道案内で隊を二分して捜索活動に入る。受け持ち範囲は隊長隊が北側、副隊長隊は南側である。

隊長隊は、墜落位置情報として唯一群馬県警にもたらされたという地点のそばを通っている。しかし、現場は近くにあるはずだという緊張感もなく通り過ぎている(前述)。

副隊長隊は、翌日8月13日午前7時34分、 周囲を見渡せる中腹の高みに立つ。振り返れば煙が上がっており飛行機の残骸らしきものが見える。(河村p.138要約)

私(Web作者)なりに、カシミール3D(3D地図ナビゲーター)で、墜落地点を見通せる箇所を検討して作図してみた。その結果、副隊長隊が墜落現場を視認した地点は、埼玉県境に近い山腹でしかあり得ないことが分かった。三国峠の北北東側である。

つまり、現場である「長野県境」とは真反対の「埼玉県境」に向けて、現場から遠ざかるように捜索しながら登ったとしか考えられない。

地図とコンパスが欲しかった

群馬県警本部で使用した地図は、上野役場編集4万分1富士波版(緯度・経度標示無し)と、日本分県地図地名総覧(群馬県分26万5千分1、長野県分36万分1)という小縮尺の地図である。

捜索隊も含めて、大縮尺の地図(国土地理院二万五千分1あるいは五万分1地形図)やコンパスは持っていなかったのだろう。これでは、たとえ正確な緯度経度情報が得られたとしても、実際にはそれがどの地点を示すのか分かるはずもない。

群馬県警捜索隊は、地図とコンパスを高崎や前橋で揃えて、上野村に持って行くべきであった。

墜落地点は決して御巣鷹山ではない

墜落地点は群馬県上野村で、群馬県内の御巣鷹山(標高1639.4m)と群馬・長野・埼玉県境の三国山(標高1834m)を結ぶ線上の”無名”支尾根上(標高約1565m)である。

つまり、御巣鷹山がある尾根の南に平行して走る”大蛇倉尾根”の、さらに少し南を長野・群馬県境尾根から東(群馬県側)へ流れる支尾根上(三国山の北北西約2.5km)である。

そして、墜落現場となった尾根の谷側を”スゲの沢”という。したがって、尾根の名称としては「スゲの尾根」あたりが妥当だったのであろう。(河村pp.290-291)

ところが、無名では何かと不便だというので、一番近い御巣鷹山という名称を用いることにしたようである。”御巣鷹の尾根”という呼び方があるようだが、かえって場所の特定を困難にするだけである。墜落現場は、決して御巣鷹山から派生する尾根上にはない。

日航機墜落地点(第4現場)二万五千分1地形図”浜平”(及び”居倉”参照)
群馬県多野郡上野村大字楢原字本谷3577番地、国有林76林班う小班
三国山の北北西約2.5kmにある尾根(標高約1565m)-事故調報告書より
(北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒)

墜落地点は御巣鷹山ではない、御巣鷹の尾根でもない、という河村著書の主張には私としても全面的に賛成である。

ただし、藤田著書を実にいい加減な本であると決め付けているが、それはどうであろうか。藤田は元日航のパイロットであり、航空事故調査を英国の大学で学んだという専門家である。「圧力隔壁破壊による急減圧はなかった」という主張には説得力がある、と私は考えている。

参考資料

米田憲司著「御巣鷹の謎を追う」宝島社(2005年)
事故原因は何か
現場確定が遅れた理由は何か
不可解な自衛隊の行動
米軍が救助を中止した理由は何か
事故調査委員会は何故結論を急いだのか
特別付録:JAL123便ボイスレコーダー+CG映像DVD
日航123便事故の「真相解明」をはばんだものは何か
(アマゾンレビュー、akimasa21、2006/01/29)
河村一男著「日航機墜落」イースト・プレス(2004年)
123便、捜索の真相、2000名が見た地獄!
警察の最高指揮官が、20年目にしてすべてを明かしたノンフィクション!
墜落現場は御巣鷹山ではない!(帯より)
地図とコンパスがほしかった
(アマゾンレビュー、akimasa21、 2005/9/12)
藤田日出男著「隠された証言」新潮社(2003年)
内部告発が明らかにする隠蔽の構図
元日航パイロット・事故調査のエキスパートが
執念で描く、18年目の真相!(帯より)
JST失敗知識データベース/科学技術振興機構(JST)
御巣鷹山の日航ジャンボ機の墜落/失敗知識データベース

最後に、日航ジャンボ機(JAL123便)墜落事故の処理に当たっては、警察・消防、自衛隊その他全ての人々が最大限の努力をした。 生存者の発見から遺体の収容まで、関係各位の超人的な努力には頭が下がる思いである。

⇒日航ジャンボ機墜落現場 カシミール展望図

2000.08.14(月)、2005.08.11(木)最新

連合赤軍「あさま山荘」事件

連合赤軍「あさま山荘」事件とは

1972年2月19日(昭和47)土曜日の午後、長野県の別荘地軽井沢町にあった「浅間山荘(あさま山荘)」に連合赤軍兵士数名が管理人の妻を人質にとって立てこもる。2月28日(月)人質解放のため機動隊による突入作戦が開始され、その模様は終日全国にテレビ放映された。

連合赤軍とは

1969年(昭和44年)9月4日
赤軍派結成(共産同戦旗派から分裂独立)
1971年(昭和46年)7月
赤軍派・京浜安保共闘「統一赤軍」結成宣言 (→連合赤軍へ)
12月31日、榛名山アジトにて「連合赤軍」創設
一般学生青年層による反安保大衆運動、学園紛争は、安保成立の日、1970年(昭和45年)6月23日を境に次第に沈静化した。これに対して、赤軍派、京浜安保共闘などのウルトラ過激派の行動はますますエスカレートしてテロリストへの道をたどった。
戦術は、銃器・爆弾闘争へと移り、ヘルメットと角材で武装した「ゲバ学生」による「火炎瓶闘争」とは比較にならない激しいものであった。

さて、連合赤軍内部では「あさま山荘」事件を起こす前に、メンバー同志のリンチ殺人が繰り返し行われ多数の死者が出ていました。人質解放作戦終了後に、そうしたいわゆる「総括」の全容が明らかになったこともあり、国内における極左過激派集団の勢いはその後急速に衰えていきました。総括:メンバー29人のうち14人が仲間からリンチを受けて殺され埋められていた。

2002/08/11記
「あさま山荘」の正式名称は、以下のとおりである。
河合楽器健康保険組合保養所「浅間山荘」
つまり漢字表記が正しい。それに対して、事件の早い段階で、書きやすい平仮名表記が通称として使用されるようになり、現在に至っているようである。

プロジェクトX~挑戦者たち~(NHK)

プロジェクトX~挑戦者たち~
第75回「あさま山荘 衝撃の鉄球作戦」(2002年01月08日放送)
アンコール、同年12月28日放送

そのころの主なニュース

2月2日、元日本兵横井庄一さん帰国(恥ずかしながら帰ってまいりました)
2月3日、冬季オリンピック札幌大会開催(13日まで)
スキー70m級ジャンプで日本が金・銀・銅メダル独占
(笠谷、金野、青地選手)
2月21日、ニクソン米大統領中国訪問(頭越し外交、佐藤栄作首相)
周恩来首相が出迎え、毛沢東主席と会談
27日米中平和五原則で合意、28日帰国

1972年(昭和47年)2月28日(月)

この日私は結婚休暇明けで1週間ぶりに出社した。しかし出先でテレビの前に釘付けになってしまい仕事にはならなかった。「あさま山荘」人質解放(19日以来)のため機動隊による突入作戦が開始され、その模様が終日全国にテレビ放映されていたのである。

この日NHKは、番組途中でたった5分間、訪中していたニクソン米大統領帰国のニュースを報じたのみで、衆議院予算委員会中継は中止した。この結果NHKの連続生放映は朝9時から夜7時までにおよび新記録となった。民放各社もまたCMを飛ばして番組を自動延長した。そうして、最高視聴率は史上空前 89.7%を記録したといわれる。

救出作戦の経過

人質〇〇(管理人の奥さん、31歳)は必ず救出せよ。
これが本警備の最高目的である。(後藤田正晴警察庁長官より)

警察側、死者2名、重軽傷27名(内1名は報道関係者)
この外、22日に民間人1名が犯人に狙撃され死亡している。
(この人物は、警察の検問所、阻止線を突破して山荘玄関まで達した)

特型警備車(防弾装甲車)
高圧放水車
クレーン車(大鉄球作戦用)
午前10時00分、作戦開始命令
午前10時54分、大鉄球作戦開始
クレーン車のアームから鋼鉄性のワイヤーで吊り下げられた大鉄球(モルケン)をスウィングさせて建物にぶつけて破壊していった。同時に行った放水の威力もすばらしく作業は順調に進んだが・・・
11時27分頃
高見繁光警部(特科車輛隊)撃たれる(殉職後、警視正)
11時56分
内田尚孝、第二機動隊長撃たれる(殉職後、警視長)
途中でクレーン車がエンスト。
放水量も約2時間分くらいしか確保できていなかった。
12時38分、拳銃使用許可(警察庁より許可命令届く)
13時37分、緊急指揮幕僚会議
特別決死隊編成(警視庁2名、長野県警2名)など
14時50分頃、鉄パイプ爆弾投下(警察官5名重軽傷)
17時37分、決死隊4名突入、数メートルの至近距離で犯人と対峙。
この前後(18時07分までの約20分余り)、最後の高圧(13気圧)放水により突破口を広げる作業が続けられた。
18時05分、隊長(機動隊長)命令、一斉に突入、検挙せよ
18時14分、犯人逮捕(男5人)、人質無事救出(事件発生以来218時間)

現場での指揮はどのように行われたのか

1972年(昭和47年)2月19日(土)15時20分
長野県軽井沢町レイクニュータウン(新興別荘地)の「浅間山荘」(河合楽器保養所)に連合赤軍兵士数名が人質をとって立てこもる。

後藤田正晴警察庁長官は、ただちに「浅間山荘」派遣幕僚団を結成する(警察庁9名、警視庁16名、計25名)とともに、警視庁機動隊派遣を決定する。

もちろんこれは長野県警本部長を助けて働くための処置であるが、縦割り組織の中で有事の指揮命令系統を確立・維持・機能させるのは実に困難な仕事であった。

実質的な現場指揮官としてこの仕事を成し遂げたのは佐々淳行氏(警視庁所属)。東京大学法学部卒業後、国家地方警察本部(現警察庁)に入庁したキャリアである。

彼は、全共闘による「東大安田講堂事件」(1969年1月18~19日攻防戦)に象徴される反安保・学園紛争の制圧過程で、百戦錬磨の実戦経験から得られた豊富な「危機管理」技術を持っていた。

今、警察による不祥事が続いている。昔、たった一人の人質救出のため、文字通り命をかけて戦った警察があった。その救出活動のための基礎的技術は、反安保・学園紛争の制圧過程で磨かれたのである。

治安を維持するとはどういうことなのか。そもそも維持するに値する治安とは、いったい誰にとっての治安なのであろうか。

参考資料

佐々淳行著、 「連合赤軍あさま山荘事件」-実戦・危機管理、文春文庫
久能靖著、「浅間山荘事件の真実」、河出書房新社
語られざる連合赤軍-浅間山荘から30年-、高橋檀著、彩流社2002年

キーワード:
連合赤軍
あさま山荘、浅間山荘
佐々淳行

2002/08/11
参考文献1件追加、および加筆
2000/03/26初出

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