戦争

日本海海戦(東郷ターンは丁字戦法ではなかった)

投稿日:2004年3月22日 更新日:

日本海海戦(日露戦争)における連合艦隊の敵前大回頭(東郷ターン)については、従来から「丁字戦法」だとされてきた。

しかし、最近になってそれを否定する新しい見解が示されている。日露戦争の帰趨を決したとも言える「東郷ターン」の実像は、果たしてどのようなものであったのだろうか。(連合艦隊司令長官・東郷平八郎海軍大将)

井沢元彦「逆説の日本史(第1258回)を読む」

井沢元彦(作家)は、「逆説の日本史(第1258回)」の中で次のように述べている。(なお、表記はT字戦法となっている)

「前回述べたように(Web作者注:週刊ポスト,2020年03月27日号,pp.70-73)実際にやってみるとT字戦法は二度とも失敗に終わった。しかし、この失敗の経験を生かし猛訓練で修正を施した結果、バルチック艦隊との「本番」日本海海戦においては、T字戦法は完全にうまくいったのである」。(週刊ポスト,2020年04月03日号,p.69)

なおここで、日本海海戦はあくまでもT字戦法であったと主張する理由について、井沢元彦は何も述べていない。

日本海海戦をめぐる「ウソと誤解に満ちた「通説」」とは何か、そして真実はどこにあるのだろうか。

公刊戦史全4巻(海軍軍令部)、つまり『明治三十七八年海戦史』(明治42-43年刊)には、「黄海海戦は丁字戦法で戦ったとちゃんと書いてある」。「ところが日本海海戦のほうには丁字戦法で戦ったなんて一言も書いてない」。それにもかかわらず、どういうわけか「東郷ターン=丁字戦法」は常識として語り継がれてきた。(半藤&戸高,p.115)

ところで、上記の公刊戦史は、海軍軍令部編『極秘明治三十七八年海戦史』(全150冊)を基に作られた。もちろんその中に「日本海海戦は丁字戦法だった」とする記述は皆無である。

『極秘明治三十七八年海戦史』は、事実に基づく海戦史であり一切の脚色を否定した内容となっている。戦前は極秘扱いとされ、戦後になって初めて一般にその存在が知られるようになった。

日本国内では、「防衛省防衛研究所図書館史料室が所蔵する千代田史料中に、ほぼ完全な形で一組のみ保存されている」。「二〇〇五年以降、アジア歴史資料センターからインターネットでほぼ全文が公開されたことにより、今後は本書を無視して日露戦争を論じることはできなくなった」。(「日露戦争の第一撃は誰が放ったのか」note:manabe kaoru,2020/02/08 22:50)

井沢元彦が極秘海戦史まで読み込んだ上で、「逆説の日本史(第1258回)」を書いたのかどうかは分からない。

記録はきちんと残されている。ならば、後は真摯にその資料と向き合うだけである。

日本海海戦とは

日本海海戦とは、日露戦争中の日本(連合艦隊)とロシア(バルチック艦隊)との両艦隊決戦をいう。連合艦隊はこの近代最初の大海戦に完勝した。そしてその勝利は世界中を驚かすとともに、日露戦争の動向を決するものとなった。

海戦は“対馬海峡”の沖ノ島北方で始まった。連合艦隊が、日本海海戦に勝利することができた最大の要因は以下のとおりである。

  • 敵艦隊が対馬海峡を通過するという正確な情報の入手
  • 世界の海戦史上“奇跡”と言われる東郷ターンの成功

なお、連合艦隊の敵前大回頭(東郷ターン)について、従来から「丁字戦法」だとされていた ⇒ 「日本海海戦」(東郷ターンとは何か)Akimasa Net。しかし、最近になってそれを否定する新しい見解が示されている(後述)。

バルチック艦隊はどこを通ってウラジオストクを目指すか

日露戦争の主戦場は中国大陸(満州)である。ロシア皇帝ニコライ二世は、日本軍の補給路を断つべく、戦場からはるか離れたヨーロッパのバルト海で太平洋艦隊を編成して、日本海のウラジオストック入港を目指して地球をほぼ半周する程の大遠征を命じた。

バルチック艦隊とは、以下の第2・第3太平洋艦隊のことをいう。

1904年10月15日(明治37)
第2太平洋艦隊、軍港リバウ(バルト海)から出撃、ウラジオストクに向かう
1905年2月15日(明治38)
第3太平洋艦隊、軍港リバウ(バルト海)から出撃、ウラジオストクに向かう
5月9日、両艦隊は、フランス領インドシナ(現ベトナム)のカムラン湾で合流

第2太平洋艦隊は、アフリカの喜望峰を回って大西洋に入った。そこで支隊(スエズ運河通過)と再び合流した。さらに、大西洋からインド洋に入り、カムラン湾(現ベトナム)で第3太平洋艦隊と合流した。そして、いよいよフィリピンから台湾近くまで迫ってきた。

1905年5月下旬(明治38)
いよいよバルチック艦隊がすぐそこまでやってきた!
朝鮮半島にあって連合艦隊司令部は決断を迫られていた

バルチック艦隊には、長征で疲れた乗組員を休め、汚れた船体を整備する時間と場所が必要である。当然ながら一旦母港(ウラジオストク)に入港するであろう。港に逃げ込まれてはチャンスがなくなる。その前に一戦交えて叩いておかなければならない。

それでは、果たしてバルチック艦隊はどこを通ってウラジオストク(日本海)を目指すか?
考えられるのは、次の3つのコースである。

  1. 最短距離の対馬海峡を通過する
  2. 太平洋を迂回して津軽海峡から日本海に入る
  3. 宗谷海峡まで大回りする

日本側では、バルチック艦隊のロシア本国出撃時点から、可能な限りの監視体制を取っていた。ところが最後の最後で、フィリピンのバシー海峡通過後の艦隊の行方を見失ってしまった。やはり北方へ向かったのであろうか。

東郷自身は、津軽海峡を通過すると読んでいた

遅くとも来るだろうと想定した5月23日になっても、バルチック艦隊は姿を見せなかった。そこで、翌24日の午前中、北進の「密封命令」が交付(5月25日午後3時開封予定)された。東郷自身は、「敵艦隊は津軽海峡を通過する」と読んでいたのであろう。

もしその命令が実行されて、連合艦隊が朝鮮半島から津軽海峡に移動していたならば、バルチック艦隊はがら空きの対馬海峡を悠然と通過して、ウラジオストクへ入港できた可能性が高い。もしそうなれば、日露戦争の結果すら変わっていた可能性もある。

しかし、5月25日に三笠艦上で開かれた軍議において、少数派による必死の進言があり、今しばらく朝鮮半島に留まることとなる。「27日午後までお待ち願えれば万全」、少数派の第二艦隊司令官・嶋村速雄少将は答えている。

対馬海峡を通過すること間違いなし(最新情報入手)

5月26日未明、「バルチック艦隊は最短距離の“対馬海峡”を通過すること間違いなし」とする情報が届く。続いて翌27日(午前5時5分ごろ)、“敵艦見ゆ”との知らせが届く。

警報に接し、連合艦隊は直ちに出動した。決戦場は”沖の島附近”となるだろう。いよいよ、その日その時である。

丁字戦法は使われなかった!

示唆に富んだ興味深い本が出版された。

半藤一利・戸高一成著『日本海海戦 かく勝てり』PHP研究所(2004年)
東郷平八郎の肉声、「連合艦隊解散の辞」朗読CD付き

本書は次のように述べている。すなわち、

日本海海戦では「丁字戦法」は使われなかった。それは当日荒天のため幻に終わった“連繋機雷”投下という機密作戦をひた隠すために創作されたものである。今年は日露開戦ちょうど100年目、驚愕の事実をここで明らかにする。

立場を超えて読むべき基本図書といえる。

東郷ターン(敵前大回頭)は、敵の頭を抑え込む丁字戦法ではなかった

丁字戦法とは、一直線に突き進んでくる敵艦隊の頭を抑えるように、その前方を横縦隊となって横切る形を取ることをいう。この戦法の利点として、敵の艦隊は前方の砲しか戦闘に参加できないのに対して、味方の艦隊は前後にある全ての砲が発射可能になる、とされていた。

連合艦隊が「丁字戦法」を初めて実戦で使用したのは、黄海海戦(明治37年8月10日、旅順沖)の時である。ロシア太平洋艦隊に対して、練りに練った見事な「丁字戦法」をとり、そして見事に逃げられてしまった。

「丁字戦法」は、戦闘意欲旺盛な敵が決戦を挑んでこないかぎり成立しない戦法だったのだ。この時の敵艦隊は戦意がまるで無く、一列になって進む連合艦隊の最後尾を、いとも簡単にすり抜けて逃げ出してしまった。

逃げる気になれば簡単に逃げることができる。「丁字戦法」の弱点が見事に露呈した。これでは今後の作戦には使えない。直ちに「丁字戦法」の練り直しが始まった。最終的に決定した「対バルチック艦隊戦策」(明治38年5月17日作成、19日配布)では、「丁字戦法」の影はほとんど残っていなかった。

東郷ターン(敵前大回頭)の後、敵と併航しながら戦った

明治38年5月27日(1904年)、運命の日である。

6時00分ごろ、連合艦隊は朝鮮半島の鎮海湾(釜山の西約40km)から順次出撃して南下する。
13時39分、バルチック艦隊を発見する。

沖ノ島の北西海上で南西方向にバルチック艦隊を発見する。敵艦隊は北東方向に向かってきている。連合艦隊は、右に少し振れて、バルチック艦隊の左舷前方についた。

13時55分:

旗艦「三笠」の艦橋に「Z旗」が掲げられた。「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」

14時05分:

敵の旗艦スワロフとの距離8000米になった時、旗艦三笠の艦上で、加藤友三郎連合艦隊参謀長は大声で命じた。「艦長、〈取舵〉一杯ッ」。東郷平八郎連合艦隊司令長官は無言で会心の笑みを浮かべつつうなずく。

敵前大回頭、世にいう東郷ターンである。この場合、敵前で〈左へUターン〉して、敵と併航しながら戦おう(併航戦・へいこうせん)というのである。それは、決して敵の頭を押さえ込む形の「丁字戦法」ではない。そして、併行戦は最初から決まっていた作戦である。

なおこの時、連合艦隊は敵艦隊の北側について、右舷を敵に向けた形になった。(日本海海戦合戦図,半藤&戸高2004,p.223,pp.139-142)

さて、大回頭中は日本側からは砲撃できない。逆に撃たれっぱなしで、「三笠」もかなりの損害を出した。しかし、何とか持ちこたえた。

14時10分:

回頭を終えた連合艦隊の猛攻が始まり、勝負は最初の30分間でほぼ決着した。兵の熟練度が違っていたのが最大の原因とされている。その後の夜戦も含めた翌日にかけての第10合戦までで、バルチック艦隊は壊滅した。

天気晴朗なれども波高し ― 平文の中に込められた深い意味

実はこの時、「丁字戦法」に取って代わるべき重要な極秘作戦が用意されていた。決戦前に水雷艇隊を出撃させ、敵艦隊前方に連繋機雷を敷設しようという奇襲作戦である。しかし当日は、低気圧通過後でまだ波が高かった。300トンクラスの水雷艇には耐えられないかもしれない。

当日朝、連合艦隊司令部から軍令部に向けて次の電報が発信された(6時21分)。

敵艦見ゆとの警報に接し聯合艦隊は直ちに出動、之を撃滅せんとす(暗号)
本日天気晴朗〈なれども〉波高し(平文)
平文は、主席参謀・秋山真之中佐が付け加えたものである。

その心は、荒天で連繋機雷作戦は多分できませんよ、と軍令部に暗に知らせるためであったのだろうか。秋山参謀は苦悩していた。平文とはいえ深い意味が込められていたのかもしれない。

午前10時ごろ、東郷長官はそれまで艦隊に付いてきていた水雷艇を退避させた。こうして連繋機雷作戦は幻に終わり、太平洋戦争惨敗に至るまで軍機として取り扱われることになる。

なお、暗号部分を一字一句正確に翻訳すれば、次のようになるという。
「敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃沈滅せんとす」。

東郷元帥詳伝(小笠原長生による伝記)

小笠原長生によって、1921年(大正10)、東郷平八郎元帥の伝記が刊行された。小笠原は日露戦争中は軍令部参謀であり、後に軍令部の戦史編纂に関係した。東郷元帥の私設副官ともいうべき人物である。

この伝記の中で東郷元帥は神になった。東郷ターン(敵前大回頭)は神話となり、真の秘密である連繋機雷作戦は完全に抹殺された。日本海海戦と「東郷ターン=丁字戦法」はこの本によって創り上げられた壮大なドラマだと言えるだろう。

勝って兜の緒を締めよ ― 東郷平八郎による「連合艦隊解散の辞」

日本海海戦において、日本人将兵はそれぞれの持ち場に応じた存分の働きをした。そして思いもかけないようなパーフェクトな勝利を得た。こうしてバルチック艦隊を壊滅せしめた日本海軍は得意の絶頂期を迎えることになる。

日露戦争自体は、アメリカの仲裁によって、日本が勝ったという形式で講和が成立した。いってみれば”やっとこさ得た勝利”である。これを完勝に見せかけた罪と罰は大きい。失敗は全て無かったことにされた。戦訓を生かす組織を作り上げることができず、結局太平洋戦争によって日本海軍は壊滅した。

東郷平八郎は、12月21日連合艦隊の解散にあたって、「連合艦隊解散の辞」を読み上げた。そこで彼は“天佑神助”を強調し、そして最後に述べている。“古人曰く勝て兜の緒を締めよと”。分かっていたのである。

戸高一成「日本海海戦に丁字戦法はなかった」,初出「中央公論6月号」(1991年、平成3),再録「日本海海戦かく勝てり」2004年,PHP研究所

海軍軍令部編纂『極秘明治三七・八年海戦史』防衛研究所図書館蔵(1909年、明治42)

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