戦艦大和の最期(米側資料による戦闘詳報)

はじめに

戦闘(沖縄水上特攻)の詳細は、米海軍側資料及び戦後の米海軍調査団報告書(日本人生存士官への聞き取り調査)によると以下のとおりとなる。

参考資料:原勝洋著作
「真相・戦艦大和ノ最期」KKベストセラーズ(2003年)
「戦艦大和のすべて」インデックスコミュニケーションズ(2005年)

両作品とも力作である。ただし、同一著者による書籍でありながら、両著には数字の矛盾点が多すぎる。例えば、「大和」艦隊全体に対する敵攻撃機数と、軍艦「大和」を直接攻撃した敵機数の混同混在、あるいは数値の不一致などである。以下では、主として「真相・戦艦大和ノ最期」を参考とした。

「戦艦大和」に対する直接攻撃117機(原勝洋著作より)
戦闘機15機、戦闘爆撃機5機、合計20機
急降下爆撃機37機
雷撃機60機(内1機は魚雷でなく爆弾搭載)

「戦艦大和」は、〈左〉舷に対する魚雷攻撃を集中的に受け、その結果、船腹を大きく開けた〈右〉舷に止めの魚雷数発をくらう。戦闘初期の爆弾命中によって発生した火災が燃え続けており、弾薬庫に誘爆をおこして轟沈する。

米国側資料によれば、魚雷58本発射(15本前後命中確実)、爆弾77発投下(10発以上命中)、その他、ロケット弾112発発射などとなっている。軍艦大和戦闘詳報による魚雷10本、爆弾5発という数字の約2倍のダメージを受けていたことになる。

当日の米軍空母搭載機及び発進機数

「第一遊撃部隊」攻撃機数386機(モリソン著作より)

米側空母搭載896機中、発進機数386機
1任務群所属113機、3任務群所属167機、4任務群所属106機
(戦闘機180機、急降下爆撃機75機、雷撃機131機)
各任務群の構成(原勝洋著作より)は、本ページ下段参照のこと

なお、戦闘機16機が誘導と直援のため、本隊発進の45分前(午前9時15分)に発艦している。この機数が上記に含まれているのかどうかは不明。

実際の出撃機数367機(原勝洋著作より)

第一次攻撃隊発進(午前10時頃)

第58・1任務群所属の271機中101機(第一波)
第58・3任務群所属の367機中159機(第二波)

それぞれの任務群ごとにほぼまとまって飛行を続けた。ただし、15分遅れて発艦した空母「ハンコック」所属の38機(原勝洋著作本文記載数値)は「大和」を発見することなく帰投したという。

原勝洋著作の各任務群構成(本ページ下段参照)によれば、ハンコック所属の出撃機数は48機となっている。 別の資料(平間洋一編「戦艦大和」)によれば、ハンコック隊51機すべて(原勝洋著作とは数値が違う)が目的を達せず帰投したという。 いずれにせよ、「ハンコック隊」は全機とも直接攻撃には参加できなかったものと思われる。

第二次攻撃隊発進(10時45分頃)

第58・4任務群所属の256機中107機
そのうち105機が実際に日本艦隊を攻撃する。
(エンジン故障、燃料系統トラブルで、戦闘機2機が母艦に引き返す)

出撃機総数367機の機種別内訳

戦闘機ヘルキャット106機、戦闘爆撃機コルセア52機、合計158機
急降下爆撃機ヘルダイバー78機
電撃機アベンジャー131機

ただし、
原勝洋著作の各任務群構成(本ページ下段参照)の数値を小計すると、
出撃機数367→377機となる
(3任務群所属159→169機、急降下爆撃機77→88機)
また、戦闘機113機(本文記載106機)+戦闘爆撃機45機(本文記載52機)=合計158機(本文と一致)という食い違いもある

モリソン戦記との相違点

空母総搭載機数894機で、モリソン記載896機より2機少ない
(ただし、本文記載では896機出撃となっている)
4任務群出撃数107機で、モリソン記載106機より1機多い

第一次攻撃第一波(大和直接攻撃19機)、12時35分ころ

第58・1任務群所属機による攻撃である。

米国側資料では、爆弾20発投下(直撃弾4発)、魚雷8本発射(左舷に2~3本命中)となっている。

空母「ベニントン」所属隊

第82爆撃機中隊

〈SB2Cヘルダイバー〉11機

その内の〈4機〉が千ポンド半徹甲爆弾2発づつ計8発一斉投下
2発命中、後部射撃所、二番副砲、13号電探破壊

命中第一弾は、副砲塔のアーマーを貫いて火薬庫に達し、火災発生
この火災は「大和」沈没まで消えることなく命取りとなった
大和型戦艦の副砲塔は、最上型巡洋艦の陸揚げ品をそのまま流用したもので、対爆弾防御禦には致命的な弱点を有していたのだった

米側被害(ベニントン隊)

1機撃墜(撮影用カメラ装備)、2名行方不明
その他2機損傷(艦上で修理可能)

大和戦闘詳報12時41分、後檣附近に中型爆弾2命中

空母「ホーネット」所属隊

第17爆撃機中隊

〈SB2Cヘルダイバー〉14機

その内の〈7機〉が千ポンド半徹甲爆弾と徹甲爆弾各6発(合計12発)投下
数発命中、前艦橋後部の兵員待機室附近、右艦首波除け附近など

第17雷撃機中隊

〈TMBアベンジャー〉14機

その内の〈8機〉が「大和」雷撃、4本命中主張
(1機エンジン不調で帰還、残りは、大和以外を攻撃)

左舷中央部に2本命中、傾斜5から6度(右舷注水で1度まで持ち直す)
他1本、第3主砲塔後方の左艦尾へ命中の可能性あり

米側被害(ホーネット隊)

ヘルダイバー急降下爆撃機4機損傷(1機爆弾投下断念、2機母艦着艦後破棄、1機母艦に着艦できず海上着水機体喪失、その他乗員1名脚を負傷)
アベンジャー雷撃機1機撃墜(3名行方不明)、その他5機被弾(1機母艦帰還後破棄)

大和戦闘詳報12時45分、左舷前部に魚雷1命中

第一次攻撃第二波(大和直接攻撃73機)、12時59分攻撃下命

第58・3任務群所属機による攻撃である。

第58・1任務群所属機による攻撃が終了するまで上空で待機していた各小隊による波状攻撃が絶え間なく繰り返された (魚雷44本、爆弾27発、ロケット弾112発)。米側記録では、少なくとも魚雷8本、爆弾5発命中とされている。

なお、記録された攻撃時刻については、日米双方とも相当の混乱が生じているものと考えられる。

空母「エセックス」所属隊

第83戦闘爆撃機中隊

〈F4Uコルセア〉5機

その内の〈1機〉が千ポンド通常爆弾投下、左舷側上部構造前方に命中

第83爆撃機中隊

〈SB2Cヘルダイバー〉12機

千ポンド徹甲爆弾22発、半徹甲爆弾2発(合計24発)を一斉投下
前方、第一主砲塔前方と第3主砲塔前方に爆発を認める

第83雷撃機中隊

〈TBMアベンジャー〉15機

その内の13機、挟み撃ちによる雷撃(アンビル雷撃法)
第一小隊4機(艦首右舷方向から)、第二小隊4機(艦首左舷方向から)、
第三小隊4機(第二小隊後方から)

魚雷3本命中確認、小隊所属12機以外の3機の働き記載無し
(米軍記録雷撃時刻、12時59分)

米側被害(エセックス隊)

ヘルダイバー急降下爆撃機5機被弾
アベンジャー雷撃機11機被弾
ヘルキャット戦闘機2機損傷(大和以外攻撃?)
ただし負傷者および撃墜機なし

空母「バンカーヒル」所属隊

第84雷撃機中隊

〈TBMアベンジャー〉14機

5つの小隊(2~3機づつ)がおよそ1分の間に魚雷13本投下
左舷に7本、右舷後部に2本の命中を観測
(米軍記録雷撃時刻、12時58分)

第84戦闘機中隊

第84戦闘機中隊(14機)による攻撃も記録されているという
五百ポンド通常爆弾14発投下、ロケット弾112発発射

ただし、原勝洋著作の各任務群構成(本ページ下段参照)によれば、第84隊(空母バンカーヒル所属)の出撃機数は、戦闘機2機、戦闘爆撃機15機となっている。

米側被害(バンカーヒル隊)

アベンジャー雷撃機1機、魚雷投下前に撃墜(3名戦死)
他に2機被弾(1名負傷、7日後艦上にて死亡)

護衛空母「バターン」所属隊

第47雷撃機中隊

〈TBMアベンジャー〉9機

4機ごとの波状攻撃(合計〈8機〉)で右舷雷撃
6本命中主張(4本確実見込み)、その他1機の働き記載無し
(米軍記録雷撃時刻、13時08分)

米側被害(バターン隊)

アベンジャー雷撃機1機被弾(搭乗員1名負傷、機体破棄)
ヘルキャット戦闘機3機被弾(大和以外攻撃?)

大和戦闘詳報13時37分、左舷中部に魚雷3命中

護衛空母「カボット」所属隊

第29雷撃機中隊

〈TBMアベンジャー〉9機

魚雷2本の命中を観測
(米軍記録雷撃時刻、13時20分)

米側被害(カボット隊)

損害なし

大和戦闘詳報13時44分、左舷中央部に魚雷2命中

第二次攻撃(大和直接攻撃24機)、13時35分攻撃開始

第58・3任務群所属機による攻撃である。

米軍側資料では、爆弾30発投下(多数命中)、魚雷6本発射(5本命中)となっている。

空母「イントレピッド」所属隊

第10戦闘爆撃機中隊

〈F4Uコルセア〉4機

千ポンド通常爆弾3発投下、命中1発、至近弾2発

大和戦闘詳報14時02分、左舷中央部に中型爆弾3命中 Edit

第10急降下爆撃機中隊

〈SB2Cヘルダイバー〉14機

第10雷撃機中隊

〈TBMアベンジャー〉12機

爆撃機と雷撃機が共同で、爆弾27発投下、左舷後部命中、煙突後方と艦中央部に多数集中して命中 。魚雷10本を、「大和」援護の「冬月」に投下
別の1機が発射した魚雷が「大和」<左>舷中央に命中

米側被害(イントレピッド隊)

ヘルダイバー急降下爆撃機5機被弾翼交換
アベンジャー雷撃機1機被弾(大和以外攻撃)

大和戦闘詳報14時07分、〈右〉舷中央部に魚雷1命中

ただし、被雷箇所が米軍記録と左右逆の記述になっている。

空母「ヨークタウン」所属隊

第9雷撃中隊

〈TBMアベンジャー〉12機

その内の第一小隊〈6機〉による雷撃実行(大和に対する最後の雷撃)
まず4機が、大和右舷に4発の魚雷一斉投下、〈右〉舷中央部に3発命中

米側被害(ヨークタウン隊)

記載なし

大和戦闘詳報14時12分、〈左〉舷中部及び後部に魚雷2命中

ただし、被雷箇所が米軍記録と左右逆の記述になっている。

続いて1機、右舷艦首に向け投雷、命中確認
最後の1機による雷撃、左舷艦尾に近い後部命中

大和戦闘詳報14時17分、左舷中部に魚雷1命中

「戦艦大和」直接攻撃117機(原勝洋著作より)に対して、戦闘機が1機足りない(15機中14機分の記載しかない)。

米海軍空母部隊(第58任務部隊)の詳細

第58・1任務群(空母2隻+軽空母2隻)

空母「ベニントン」

第82航空群102機搭載中、28機出撃
急降下爆撃機SB2Cヘルダイバー11機
雷撃機TBMアベンジャー10機
戦闘機F6Fヘルキャット6機(写真撮影機を含む)
戦闘爆撃機F4Uコルセア1機(海兵隊所属)

空母「ホーネット」

第17航空群101機搭載中、44機出撃
急降下爆撃機SB2Cヘルダイバー14機
雷撃機TMBアベンジャー14機
戦闘機F6Fヘルキャット16機(写真撮影機1機を含む)

護衛空母「ベローウッド」

第30航空群34機搭載中、14機出撃
戦闘機F6Fヘルキャット8機
雷撃機TMBアベンジャー6機

護衛空母「サンジャシント」

第45航空群34機搭載中、15機出撃
戦闘機F6Fヘルキャット7機(写真撮影機を含む)
雷撃機TMBアベンジャー8機

第58・3任務群(空母3隻+軽空母2隻)

空母「ハンコック」

第6航空群94機搭載中、48機出撃
SB2C 14機、TMB 14機、F6F 12機、F4U 8機

空母「エセックス」

第83航空群100機搭載中、40機出撃
SB2C 12機、TMB 15機、F6F 8機、F4U 5機

空母「バンカーヒル」

第84航空群103機搭載中、41機出撃
SB2C 10機、TTMB 14機、F6F 2機、F4U 15機

護衛空母「バターン」

第47航空群36機搭載中、21機出撃
SB2C 無、TMB 9機、F6F 12機、F4U 無

護衛空母「カボット」

第29航空群34機搭載中、19機出撃
SB2C 無、TMB 9機、F6F 10機、F4U 無

第58・4任務群(空母2隻+軽空母1隻)

空母「イントレピッド」

第10航空群120機搭載中、42機出撃
SB2C 14機、TMB 12機、F6F 無、F4U 16機

空母「ヨークタウン」

第9航空群102機搭載中、46機出撃
SB2C 13機、TMB 13機、F6F 20機、F4U 無

護衛空母「ラングレー」

第23航空群34機搭載、19機出撃
SB2C 無、TMB 7機、F6F 12機、F4U 無

戦艦大和(参考文献)

数多くある大和文献の中から
特に注目すべき文献を表記した

「真相・戦艦大和ノ最期」 写真と新資料で解明

https://amzn.to/43vBa0r
原勝洋著、KKベストセラーズ(2003年)

写真と新資料で解明、謎の超弩級戦艦・大和の全貌 永遠の謎がいま解けた、米軍撮影、堂々の写真90枚 (帯より)

戦艦「大和」は遅れてきたヒーローだった
(アマゾンレビュー、akimasa21、2005/9/19)

世界最大・最新鋭の戦艦「大和」は、沖縄水上特攻の途中で米軍機多数の猛攻を受け、誕生からわずか3年4か月でその短い生涯を閉じた。不沈艦「大和」はなぜ沈んだのか。その原因をさぐるには、全長263mにも及ぶ船体のどこで、いつ、何が起こったのか正確に時系列で並べてみなければならない。

著者は、昭和45年(1970年)に「大和」の未公表写真を米国立文書館から入手している。翌年の昭和46年(1971年)には、「大和」撃沈に参加した攻撃隊の記録を、米海軍歴史部門作戦記録公文書課から入手している。”その戦闘記録は攻撃機の数と機種、発進、攻撃そして帰還時刻、搭載兵器の種類と数、攻撃目標に対する被弾と被雷の評価、被害状況などすべてを含むものだった。”

特攻「大和」艦隊は、「大和」以外に軽巡洋艦1隻、駆逐艦8隻で構成されていた。そうした中で、「戦艦大和」に対する直接攻撃〈117機〉という数字が示されたのは初めてのことだろう。また米国側の記録を総合すると、戦艦「大和」は、旧日本海軍作成の「軍艦大和戦闘詳報」に記されたよりも2倍程度大きいダメージを受けていたことが分かる。

このような貴重な発見を、著者はなぜ資料入手から30年以上も経て公表したのだろうか。また、本書の写真の中には時間的順序が逆になっていると指摘されている箇所がある。さらに、兄弟艦の戦艦「武蔵」と並ぶ写真で、「大和」と「武蔵」を取り違えている箇所があるという。よって星一つ減。

(レビュー、ここまで)

インターネット上で本書収載写真について種々議論されている。当Web作者にはどの意見が正しいか判断する能力はないが、参考のため以下にまとめておく。

10から12ページまでの4枚は連続した写真である。しかし、10頁下と11頁の写真は順番が時間的に逆となっている。正しい順番は、10ページの上、11ページ、10ページの下、12ページとなる。なお、11ページの写真は、全図をみると撮影機と思しき機体の影が雲に写っている印象的な1枚として知られている。(米海軍資料番号80-G-46986)

6頁と7頁にまたがった写真は解説では大和とされているが、輪形陣の最外周の駆逐艦が写っていることから武藏だと考えられる。この写真は5ページ下の写真に続くもので、艦隊陣形からみて、第2輪、左斜め後方に占位していた武蔵と見るのが適切である。右端に見える大きな航跡と煙の量からみて、こちらが大和である可能性が高い。

シブヤン海での対空戦闘が開始された当時の陣形から考えると、4頁上下の写真は中央右が大和、その左が武藏と考えて良いであろう。

日本側の撮影によるもの(2枚のみ)
艤装中の大和(1941年9月20日) 表紙見返し
公試中の大和(1941年10月30日)裏表紙見返し

「戦艦大和誕生(上)(下)」 西島技術大佐の大仕事


前間孝則著、講談社(1997年)
(文庫本化1999年)

現代に生き続ける「戦艦大和」
(アマゾンレビュー、akimasa21、2006/01/28)

戦艦大和建造の実質的な現場責任者(船殻主任)は、西島亮二造船少佐(当時35歳)である。西島は戦後、公の場ではほとんど発言することなく沈黙を守り通した。インタビュー嫌いで、雑誌などの依頼原稿もほとんど断っている。その西島が実は原稿用紙一千枚を越える回顧録を書き残していたのだ。

「海軍技術大佐(造船)西島亮二回想記録」(防衛庁防衛研修所戦史室、1971年)という、一般には非公開の大部の回想録である。本書の著者前島は1995年(平成7年)、満93歳になる西島とその家族を訪問して資料の閲覧を願い出る。

回想記録とその他膨大な参考資料を突き合わせることによって浮かび上がってくるのは、西島が長い時間をかけ、苦労して独力で開発したすばらしい造船管理法の全容である。

例えば、戦艦大和の船殻工場での工数は99万9千35工数であった。これに対して、2号艦「武蔵」(三菱長崎造船所)の工数は、大和の約2倍以上であり、したがって建造日数、建造費ともに大和より大幅に大きな数字となっている。しかしこの事実は戦後になってもほとんど公にはされていない。

それはともかく、西島が確立した効率的な造船建造システムこそ、敗戦後わずか11年にして日本を造船業世界一に押し上げる原動力となったのである。戦艦「大和」は現代に生きている。 西島の科学的な生産管理システムは、その後の生産大国日本の源流の一つになったといえるであろう。

(レビュー、ここまで)

さて、呉海軍工廠では戦局の悪化に伴い、甲標的「蛟龍」、人間魚雷「回天」、ベニヤ製モーターボート「震洋」、水中飛行機「海龍」などの特攻兵器を開発・生産していった。本土決戦を前にして、艦船をつくるための材料も理由もそして時間もなく、西島たち造船官が最後には飛行機をつくるために駆り出される始末であった。

西島は極めてすぐれた造船技術者であった。それゆえに組織(海軍)の中にあって、戦艦大和以後も戦時中のあらゆる局面で酷使され続けたといえる。しかしながら、戦局が不利になるにしたがって、計画実現に必要な物資や人材はますます不足していった。

トップから降りてくる目標数値は、非現実的で到底実現不可能なものばかりで、そこにあるのはただの精神論でしかなかった。日本には、あらゆる角度から幅広く情報を集めて、それを基に状況を的確に判断できる”軍事技術者”(ジェネラルマネージャー)は、ただの一人も存在しなかったということになる。西島が戦後完黙したのは、そのような組織に翻弄され続けた技術者としてのせめてもの矜持であろう。

前間孝則氏(1946年生まれ)は、石川島播磨重工の航空宇宙事業本部技術開発事業部で、ジェットエンジンの設計に20年間従事した経歴を持っている。1998年同社を退社後は、ジェットエンジン、航空機、自動車そして鉄道などの技術開発について、戦前から戦後にかけての歴史をノンフィクションとして著している。

「戦艦大和ノ最期」 吉田満著


吉田満著、講談社文芸文庫(1994年)

東京帝国大学在学中、学徒出陣(海軍少尉)
大和に副電測士(レーダー担当)として乗り込む
沖縄特攻では、駆逐艦「冬月」に救助される
戦後は、日銀にて監事にまで昇進
1979年(昭和54年)他界(享年56歳)

父親の知人で、近くに疎開していた作家の吉川英治を訪ねる
戦艦大和の体験談はぜひ書かなければいけないと強く勧められる
その夜、大学ノートに一気に書き下ろす(1945年秋)
漢字と片仮名だけの文語体による戦記文学の傑作とされている

題名:「戦艦大和の最期」(゛の゛はひらがな)
副題:天号作戦に於ける軍艦大和の戦闘経過(注:”闘”の字が欠字)

雑誌「創元」第一輯、1946年(昭和21年)12月発行に掲載予定の初稿が発禁処分となる。小林秀雄(作家・評論家)たちが主宰する雑誌への掲載を、小林自らに勧められ承諾した。しかし、発刊される前にGHQの検閲を受け、「軍国主義的」という理由で全面削除の発禁処分となった。

その後、1949年(昭和24年)に〈小説〉「軍艦大和」として雑誌「サロン」(銀座出版)で発表された。GHQの検閲をすり抜ける為に十数カ所を削除したという。また文語体から口語体に改められており、題名にも「小説」と付けられている。本来の原稿のままで出版されたのは1952年(昭和27年、創元社)である。・・・・・・・・・・

事実無根:救助者の手首切り
疑問:哨戒長臼淵大尉(一次室長)、進歩のない者は決して勝たない・・・議論
戦後民主主義の価値観に頭を大転換させ、そこから大日本帝国を批判した
沈没位置は、徳之島ノ北西洋上ではない

吉田満「戦艦大和ノ最期」の嘘
粟野仁雄著、WiLL、2006年1月号、pp.60-6

「第二次世界大戦における米海軍作戦全史」15冊

サミュエル・エリオット・モリソン著、リトル・ブラウン社
Morison, Samuel Eliot
History of United States Naval Operations in World War II
Boston: Little Brown and Company, 1947-1962
日本語訳:太平洋戦争アメリカ海軍作戦史、1~4巻のみ
:野中五郎訳、改造社(1950年)

「モリソンの太平洋海戦史」


サミュエル・エリオット・モリソン/大谷内一夫・訳(光人社) 2003年
Morison, Samuel Eliot
Two-Ocean War
Boston: Little Brown and Company, 1963

名著モリソン戦史全15冊版から、もっとも重要な戦闘や作戦を選択してまとめられたのが、本書の原著である。その中から、さらに日米関係と太平洋作戦に関する部分を選択・収載して訳されたのが本書である。

アメリカ海軍は、史上最大の作戦をどのように計画し、戦闘したのか!
米海軍アドミラルにして第一級戦史家モリソン博士の不朽の名著
ハンディ版第二次世界大戦米海軍作戦全史
(帯より)

「戦艦大和」 平間洋一編


平間洋一編、講談社選書メチエ269(2003年)

大和の全生涯がわかる決定版!
史上最強の戦艦は、どのようにして誕生したのか?
なぜ悲劇の最期を迎えたのか?
設計思想、建造の創意工夫から、実戦での能力まで徹底的に検証。
米海軍情報部の新資料も渉猟
(カバー裏および帯より)

参考文献が多数収載されており、戦艦大和の全貌をつかむのに最適。

「戦艦「大和」開発物語」 雑誌「丸」掲載記事集成


松本喜太郎他、光人社NF文庫(2003年)

日本造艦技術の最高・最大の産物にして戦艦発達史の頂上に君臨する「大和」--その比ぶべくもなき堅固な船体構造から周到なる射撃システム、光学機器、防御甲鈑、電探装置などについて、完成までの道程を開発・建造に携わった造船官らが詳述する話題の技術戦史。(カバー裏より)

雑誌「丸」掲載論文(昭和35年~平成4年)を集成したものである。なお再掲にあたって論文題名が多少変更となっているものがある。(下記では本書記載の論文名を記す)

  • 戦艦「大和」船体構造全解明、雑誌「丸」昭和58年9月号
    多賀一史、艦艇研究家
  • 私は戦艦「大和」をこのように設計した、雑誌「丸」昭和37年2月号
    松本喜太郎、元呉海軍工廠造船部設計主任・海軍技術大佐
  • 戦艦「大和」設計秘話、雑誌「丸」昭和35年4月号
    福田啓二、元「大和」基本計画主任・海軍技術中将
  • 私が戦艦「大和」の設計図を描いた、雑誌「丸」昭和44年8月号(エキストラ版)
    高木長作、元三菱造船所技師・造船検査課第一係長
  • 語られざる戦艦「大和」建造の秘密、雑誌「丸」昭和43年7月号
    庭田尚三、元呉海軍工廠造船部長・海軍技術中将
  • 特殊鋼鈑の鎧をつけた不沈戦艦誕生す、雑誌「丸」昭和38年5月号
    佐々川清、元海軍技術大佐
  • 戦艦「大和」プロペラの謎を追う、雑誌「丸」平成4年7月号
    北村恒信、元呉海軍工廠造機部設計係
  • 戦艦「大和」主砲兵装極秘資料、雑誌「丸」昭和54年11月号
    大谷豊吉、元呉海軍工廠設計員
  • 四六センチ主砲の栄光と顛末、雑誌「丸」昭和38年5月号
    井上威恭、元海軍技術大尉
  • 主砲の生命15メートル測距儀の秘密、雑誌「丸」昭和38年5月号
    北川茂春、元海軍技術大佐
  • 世界最大戦艦の砲熕極秘資料、雑誌「丸」昭和38年5月号
    清水文雄、元海軍技術中将
  • 水中聴音機技術報告書、雑誌「丸」昭和38年5月号
    久山多美男、元呉海軍工廠技術部員
  • 「大和」型戦艦レーダーのすべて、雑誌「丸」昭和38年5月号
    松井宗明、元海軍技術少佐
  • 「大和」は戦艦発達の頂点だった、雑誌「丸」昭和35年4月号
    大浜啓一、戦史研究家
  • 戦艦「大和」は現代に生きている、雑誌「丸」昭和35年4月号
    西島亮二、元「大和」建造主任・海軍技術大佐

「戦艦大和からの生還」


武藤武士著、自費出版センター(1988年)

元小学校長の自分史(自費出版)である。「戦艦大和の最後」を一兵士の立場から体験をまとめたものは初めてという。著者履歴は、以下の通りである。

大正11年(1920年)生まれ
昭和17年(1942年)3月、兵庫師範学校(現神戸大学教育学部)卒
一年間教鞭をとって兵役へ(師範徴兵-予め義務付けられていたことである)
昭和18年(1943年)4月1日、大竹海兵団入団
昭和18年(1943年)6月30日、戦艦大和配属(高角砲第五分隊)
昭和20年(1945年)4月7日、「大和」撃沈、生還
昭和48年(1973年)、明石市立江井島小学校長
昭和63年(1988年)、播磨町教育委員会退職(公職から退く)

巻末に「大和」戦死者生存者名簿(厚生省援護局名簿より)掲載。ただし、掲載生存者数243名となっており、従来資料269名よりも少ない。未掲載分があるものと思われる。なお、戦死者数については当Web作者は検討していない。

島の墓標 私の「戦艦大和」


鬼内仙次著、創元社(1997年)

戦艦「大和」と僚船の生き残り、その他関係者多数への聞き取りを基にまとめたもの。大和特攻隊の動きが時系列で分かる。

「戦艦大和の最後」一高角砲員の苛酷なる原体験


坪井平次著、光人社(1999年)

五番高角砲塔員(信管手)として戦艦「大和」で働く。
戦後は、三重県の小中学校の教諭、教頭、校長をつとめる。

大正11年(1920年)生まれ
昭和17年(1942年)3月、三重県師範学校本科第一部卒
ただちに、日進国民学校訓導となる
昭和18年(1943年)4月、大竹海兵団入団(同年7月卒団)
戦艦「大和」に乗り組み、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦を戦う
沖縄特攻では、漂流ののち救助される
敗戦時、海軍上等兵曹
昭和55年(1980年)定年退職

映画「男たちの大和/YAMATO」公開記念出版企画
”大和、それぞれの視点” 企画・制作 中国新聞広告局
なお当日は、同映画一般公開日
2005年12月17日(土)中国新聞一面下(合計6冊)

「戦艦大和 最後の乗組員の遺言」


八杉康夫著、ワック(2005年)

生きるということの意味を考える
(アマゾンレビュー、akimasa21、2005/12/23)

戦艦大和は米軍機の激しい機銃掃射を受け、数多くの犠牲者を出した。爆弾や魚雷も数発命中した。被雷によって艦が一方に傾くと、反対舷の水密区画に海水を注入してバランスを取った。たとえその区画に生存者がいたとしても、それは避けられない措置だった。しかし遂に大和は横転沈没した。艦の底部からの脱出者はほとんどいなかった。

著者の戦闘配置である艦橋は無傷だった。横転する艦から難なく海面に脱出できた。しかし、沈み行く艦の巻き波に引き込まれる。もはやこれまでと思った最中に、砲塔の誘爆によって海面に押し上げられる。まもなく、空から大爆発で真っ赤に焼けた大和の鋼鉄の破片が降り注いだ。多くの兵が鉄片に当たり、目の前で声もなく沈んでいった。

その後は、重油の浮かぶ海で丸太につかまりながら、2~3mのうねりの中を4時間漂流した。力尽きて海中に消えていく負傷兵がいた。「死んでもいいから眠りたい」それほどの凄まじい眠気に負けてしまった兵がいた。

やっと駆逐艦が救助に現われた。待ちきれず泳ぎ始めて力尽きる者がいた。近づいてきた駆逐艦からロープが下ろされた。我先にとロープの奪い合いが始まった。階級も年齢もなかった。もはや帝國海軍軍人はそこにはいなかった。

戦後になり、著者は海底の大和を探り当て、NHKとの合同調査でその全貌を映像化することに成功した。そして現在、「大和の語り部」として講演活動を続けている。当時17歳の上等水兵が体験した「生きる」ということの意味を伝えたくて。

「戦艦大和メカニカルガイドブック」


Jシップス編集部編、イカロス出版(2005年)

八大企画:
大和のメカニズム、大和の一生、大和人物列伝、大和まめ知識、映画「男たちの大和」密着ガイド、コラム集「大和といま、私の大和」 元防衛大教授・平間洋一氏、戦史研究家・原勝洋氏、大和ミュージアム館長・戸高一成氏、現代の大和ガイド、巻末資料・大和艦隊カタログ

「戦艦「大和」」


歴史群像編集部、学研パブリッシング(2013年)

第一級のイラストレーターで編成された大和CGプロジェクトチームが精密模型制作グループ「NAVY YARD」の大和研究会の協力を得て制作したCG「大和」の大特集!約100点の精密三次元CGで堪能する戦艦「大和」のすべて!
(編集部/著者レビューより)

「戦艦大和の遺産、上・下」


前間孝則著、講談社(2005年)

「世界制覇巨大タンカーを創った男」(2000年)の文庫化にあたり改題、再編。
出版社/著者からの内容紹介(2000年版より)
船体は海底に沈もうとも「大和」の技術は生き抜いた!戦後日本の造船業が、いかに苦渋を切り抜け、世界一へとのし上がっていったのか!?その軌跡のすべてを追う。

「僕たちの好きな戦艦大和」


別冊宝島編集部編、宝島社(2005年)

最強戦艦、神話の夢と現実
悲劇の最期から60年、沈黙は破られた
インタビュー、石破茂(元防衛庁長官)、松本零士(漫画家)
その他

「戦艦大和の全て」


松野正樹著、双葉社(2005年)

出版社/著者からの内容紹介
史上初 極秘だった艦内を徹底再現、戦艦大和の内部構造、四六センチ三連装主砲塔のメカニズム、戦艦大和のメカニズム、大和型戦艦 内部艤装図、その他

「戦艦大和のすべて」


原勝洋著、インデックス・コミュニケーションズ(2004年)

内容(「BOOK」データベースより)
戦後60年、大和浮上!今も時代と共に生きる軍艦大和。その誕生から最期までを克明に描く完全版。

敗戦―母の手記

はじめに

今年は日本が先の大戦で敗れてから60年目の節目の年に当たる。各地で様々な催しものが例年よりも積極的に行われたようである。私の母が属する俳句雑誌「夕凪」も、2005年8月号(通巻682号)を原爆特集号としている。(「夕凪」、発行所広島市、昭和22年6月に第1号発刊)

編集後記には、”手記などを送ってこられた方の添え書きを読むと、書くのはこれが最後の機会・・・・・今書いて置かなければ年齢的に無理になりそうだと危機感を持っておられる感じだった”と記されている。

その中に、母(大正10年生まれ)の引揚げ記(今の韓国から)がいっしょに載っている。私が母から引揚げの話を聞いたことは一度もない。この手記を読んで妻が、一度きちんとお話を聞いておかねばという。確かにその通りだ。まずは、我がHomePageに転載してその第一歩とすることにしよう。

なお、この転載に関しては、「夕凪」編集人・発行人の飯野幸雄様にご快諾をいただいている。転載にあたり、原本の縦組みを横書きに直した。また、段落の数を原文より少し多めにとった。表記方法はほぼ完全に原文のままである。ただし、「こゝ」に類する表現は、「ここ」のように直した。

敗戦―母の手記

その日十一時半頃主人は勤務先からひょっこり帰って来た。体調でも悪いのかと思いきや「正午に天皇陛下のラジオ放送があるから」と。当時陛下の玉音を聞くとは前代未聞のことだから、成程とは思ったが一寸腑に落ちない気持ちではあった。

そして正午。二人でラジオの前に畏まった。雑音は多く、意味も余りはっきりと私には理解出来なかった。「結局日本は負けたのですか?」「そうだ。これから何が起こるか分からんぞ。」と主人。大分後で、主人が十二時前に帰って来た理由が、うすうすと分かった。それはもし暴動が起きた時の事を予想していたのかも知れないと。

二十才で結婚し、同時に主人の任地である京城(現在のソウル)に行き、その後転勤で大邱に居住、そこで敗戦を迎えたのである。全く世間知らずの私は、放送の内容の予想も出来ず、まして主人の気持など察する事も出来なかった。

それにしても、昭和十六年十二月八日早朝の「臨時ニュースを申し上げます。」というアナウンサーの興奮した声が更に、戦争状態に入った事を告げた時、当時軍需工場の設計課に勤務していた兄が、ぽつんと一言「日本が勝てるわけがないのにナー。」とつぶやいた事を思い出した。

やっぱり勝てる戦争ではなかったのか。それにしても今まで尊い命を犠牲にした人達はどうなるのだ。唯ぼんやりとそんな事を考えていた。その日から、空襲警報も鳴らず、夜は電気を煌々とつけられるという喜びに反して、今後の私達はどうなるのだ、という不安が始まった。

それから何日位経っていたろうか、闇船が出るという噂を聞いた。荷物は一人二個位持てる。金額はいくらだったか忘れたが、かなりの額だった事は確かだ。

その噂を聞いた時気が付いたのだが、町内にあった警察の官舎数軒が全部蛻(もぬけ)の殻だったのである。「警察は我々を見捨てた。」と近所の人々は地団駄をふんだ。

その頃主人が「お前も帰れ」と言った。「自分は未だここで仕事があるし、何時どこへ連れて行かれるか分からないから。」と。未だ子供も居なかった私は、「いいえ、私も一緒に残ります。」といった途端、主人の顔色が変わった。

「お前だけでも早く帰って、親父とお袋を安心させてくれ。」私はハッと吾にかえった。そうだ、主人には内地に両親が居た。そして兄は、当時満州の新京に、弟は戦地で生死も定かではない。私が一日でも早く帰って主人の様子、当地の状況を知らせたら少しは心が落ち着くかも知れない。そして私は帰る決心をした。

或夜行李二個と一緒にトラックに乗せられ港に向かった。トラックには坐ることも出来ない位の人と荷物である。皆無言。異様な雰囲気だ。どの位走ったか、途端にトラックが止まった。しばらくして「今日は警戒がきびしいから船は出せない。」引き返すという。

それから又主人と二人の生活が始まったが、貯金は封鎖されるし(朝鮮で稼いだお金は朝鮮のもの、という理屈)。町の雰囲気は以前とは全く違うし、いつ帰れるとも分からない不安な日々が続いた。

ところが十一月二十日過ぎる頃だったろうか、明日引揚列車第一号が出るという。荷物は自分の持てるだけ。帰れば両親の元で何とかなる、という甘えもあって、私達はそれぞれがリュックサックを背負っただけである。

中味は帰りつくまで何日かかるか分からないからと、お米五升(約七kg位か)。これは行李一杯分の衣類と交換したものである。それと炊飯出来るように登山用のコッフェル。それに衣類少々。帰国して身寄りも家もない人達は、リュックの上に布団を積み上げて、下には鍋、お釜、薬缶をぶら下げ後から人間は全く見えない。実に哀れな姿である。

帰国出来る喜びに、いそいそと駅に集合したが、乗せられたのは貨車である。鉄柵のついた小窓が二ヶ所位あるだけ。釜山までどの位かかったか全く記憶にない。

釜山に着いたら波止場に荷物を全部並べろ、という。検査が目的だが実際は検査官がほしいものは次々と取り上げるのである。私の長襦袢と、主人の軍刀を取られた。軍刀は何時か返せる時が来たら返す、という条件で証明書まで書いてくれた。ペラペラでぼろぼろになった証明書を見ると、あの時の屈辱感がむらむらと甦る。

船が仙崎港(山口県)に着くまで皆不安と喜びで落着かなかった。デッキから誰かが「日本が見えるゾー。」と叫んだ。一斉にデッキに飛び出す人、窓に顔をはり着ける人達が欣喜雀躍といった状態だった。

上陸するとすぐ皆に、一ヶづつおにぎりが配られた。あの時の嬉しさは今思い出しても涙が出る。警察に見捨てられた、と思った時から不安と屈辱に絶え乍ら過ごした三ヶ月余り、今こうして私達を迎えて下さる人があったのだ、と思うと人の心のあたたかさがつくづくと身に沁みた。正に「国破れて山河あり」と思った。

仙崎からは山陰線で下関経由尾道まで、今度は無蓋列車だ。寒さも、トンネルでの煤も何のそのである。広島駅は深夜だった。真暗で何も見えない。何の物音もしない。「広島だぞ。」と囁くような声があちこちでする。

降車する人も居られた。あの方々のその後はどのような人生だったろうか、と近頃つくづく思い出す。八月十五日以来日本と全く途絶された状態に置かれていた私達には、この真暗な広島は帰国出来た喜びを吹き飛ばしてしまった。

尾道には夕方頃着いたように思う。下車してから主人とお互いに煤で真黒な顔を見合わせて大笑い。海で顔を洗ったのを昨日のように思い出した。

その夜因島の両親に暖かく迎えてもらったのは申すまでもない。あれから六十年。裸の私達の面倒を見てくれた両親、その後満州から引き揚げてきた兄夫婦、そして無事復員した弟も、私に両親への孝心を呼び覚ましてくれた主人もみんな鬼籍の人になってしまった。

この地球上から何故戦争がなくならないのだろうか。この青い地球の、きれいな花、美しい鳥、生物にとって欠かせない水をもたらす山の木々、それ等と共に世界中の人々が仲良く共存出来る手立てはないのだろうか。

日本は四季それぞれの花が咲き、鳥が囀り、東風(こち)が春を運び、南風(みなみ)が夏を持って来て、高西風(たかにし)が秋をもたらし、北風(きた)が冬の季節風となる。この美しい日本を俳句を志す私達が詠み続ければ、どこかで少しは戦争反対につながるのではないだろうか。どうだろう。

尚私のこの体験は、満州、北朝鮮その他から引揚げて来られた方々に比べれば、物のかずでない事を申し添えてペンを擱く。

2005年8月初出

現代に生きる「戦艦大和」の技術

戦艦大和は無用の長物だったのか

「戦艦大和」は、沖縄特攻を命じられて出撃した。そしてその途中で、米軍機100機以上の直接攻撃を受け東シナ海であえなく轟沈した。大和が永遠の眠りについているのは、長崎県福江市男女群島南176km 、北緯30度43分、東経128度04分、水深345mの海底である。

「戦艦大和」は、巨艦大砲主義の象徴であった。しかしながら、太平洋戦争中に艦隊決戦など望むべくもなく、ほとんど活躍の機会を得ることなく海の藻くずと消えてしまった。それは、いかに強大な戦艦と言えども、航空機の時代には通用しないことを自ら証明する無残な結末であった。

「戦艦大和」は、ちまたで言われるような無用の長物だったのだろうか。決してそうではない。「戦艦大和」は、日本の工業技術の粋を集めて建造された。その過程で磨きをかけられた技術が、戦後日本復興のために各方面で大いに役立っている。ここでは、そのことについて、少しずつまとめてみようと思う。

1)砲塔の旋回技術

プロジェクトX~挑戦者たち~(NHK)

プロジェクトX~挑戦者たち~
第172回2005年05月17日放送
「東洋一の巨大ホテル 不夜城作戦に挑む」

第18回オリンピック東京大会の開催(1964年10月、昭和39年)が決定した頃、日本で海外からの宿泊客を大量に引き受けることのできるホテルは、圧倒的に不足していた。

「ホテルニューオータニ」(千代田区紀尾井町)は、オリンピック開催に間に合うように建設されたホテルの一つである。当時日本で一番高い地上17階、1000室を誇る東洋一のホテルだった。

ところが、何と建設が始まったのはオリンピックの前年(昭和38年)で、わずか17か月間で設計・施工をすべて終えた空前の突貫工事(15か月)だったという。工事方法や建物の構造の工夫、あるいは風呂場の水回りに、世界初の「ユニットバス」を採用するなど、工事のスピードアップのため様々な試みがなされた。そして、これらの建築技術は、その後、日本の超高層ビル建築でことごとく採用されている。

ホテルのオーナーは、大谷米太郎(おおたに・よねたろう)であった。その彼が、工事の途中で、最上階の17階に世界一の大きさ、直径45mの巨大回転ラウンジ建設を思いついた。本体工事そのものに時間的余裕がないにもかかわらず、とんでもない遊び心を出してきたものだ。

いくらやっても、巨大回転ラウンジはスムーズに回らない。最終的には、「戦艦大和」の主砲(46センチ砲)の砲塔を旋回させた技術を導入して、やっとなめらかな動きと精度が得られるようになったと言う。1時間に1回ゆっくりと回転する巨大フロアは今日も元気に働いている。

初出:2005年08月16日(火)

日本海海戦(東郷ターンは丁字戦法ではなかった)

日本海海戦(日露戦争)における連合艦隊の敵前大回頭(東郷ターン)については、従来から「丁字戦法」だとされてきた。

しかし、最近になってそれを否定する新しい見解が示されている。
日露戦争の帰趨を決したとも言える「東郷ターン」の実像は、果たしてどのようなものであったのだろうか。(連合艦隊司令長官・東郷平八郎海軍大将)

追記:2020年7月
さる著名な戦史研究家からメールを頂いた。
丁字戦法に関することなのだが、私の理解が追い付かず、このページにはまだ何も手を付けることができないまま失礼をしている。

井沢元彦「逆説の日本史(第1258回)を読む」

井沢元彦(作家)は、「逆説の日本史(第1258回)」の中で次のように述べている。
(なお、表記はT字戦法となっている)

「前回述べたように(Web作者注:週刊ポスト,2020年03月27日号,pp.70-73)実際にやってみるとT字戦法は二度とも失敗に終わった。しかし、この失敗の経験を生かし猛訓練で修正を施した結果、バルチック艦隊との「本番」日本海海戦においては、T字戦法は完全にうまくいったのである」。(週刊ポスト,2020年04月03日号,p.69)

なおここで、日本海海戦はあくまでもT字戦法であったと主張する理由について、井沢元彦は何も述べていない。

日本海海戦をめぐる「ウソと誤解に満ちた「通説」」とは何か、そして真実はどこにあるのだろうか。

公刊戦史全4巻(海軍軍令部)、つまり『明治三十七八年海戦史』(明治42-43年刊)には、「黄海海戦は丁字戦法で戦ったとちゃんと書いてある」。
「ところが日本海海戦のほうには丁字戦法で戦ったなんて一言も書いてない」。
それにもかかわらず、どういうわけか「東郷ターン=丁字戦法」は常識として語り継がれてきた。(半藤&戸高,p.115)

ところで、上記の公刊戦史は、海軍軍令部編『極秘明治三十七八年海戦史』(全150冊)を基に作られた。
もちろんその中に「日本海海戦は丁字戦法だった」とする記述は皆無である。

『極秘明治三十七八年海戦史』は、事実に基づく海戦史であり一切の脚色を否定した内容となっている。
戦前は極秘扱いとされ、戦後になって初めて一般にその存在が知られるようになった。

日本国内では、「防衛省防衛研究所図書館史料室が所蔵する千代田史料中に、ほぼ完全な形で一組のみ保存されている」。
「二〇〇五年以降、アジア歴史資料センターからインターネットでほぼ全文が公開されたことにより、今後は本書を無視して日露戦争を論じることはできなくなった」。

(「日露戦争の第一撃は誰が放ったのか」note:manabe kaoru,2020/02/08 22:50)

井沢元彦が極秘海戦史まで読み込んだ上で、「逆説の日本史(第1258回)」を書いたのかどうかは分からない。

記録はきちんと残されている。
ならば、後は真摯にその資料と向き合うだけである。

日本海海戦とは

日本海海戦とは、日露戦争中の日本(連合艦隊)とロシア(バルチック艦隊)との両艦隊決戦をいう。
連合艦隊はこの近代最初の大海戦に完勝した。
そしてその勝利は世界中を驚かすとともに、日露戦争の動向を決するものとなった。

海戦は“対馬海峡”の沖ノ島北方で始まった。
連合艦隊が、日本海海戦に勝利することができた最大の要因は以下のとおりである。

  • 敵艦隊が対馬海峡を通過するという正確な情報の入手
  • 世界の海戦史上“奇跡”と言われる東郷ターンの成功

なお、連合艦隊の敵前大回頭(東郷ターン)について、従来から「丁字戦法」だとされていた ⇒ 「日本海海戦」(東郷ターンとは何か)Akimasa Net
しかし、最近になってそれを否定する新しい見解が示されている(後述)。

バルチック艦隊はどこを通ってウラジオストクを目指すか

日露戦争の主戦場は中国大陸(満州)である。
ロシア皇帝ニコライ二世は、日本軍の補給路を断つべく、戦場からはるか離れたヨーロッパのバルト海で太平洋艦隊を編成して、日本海のウラジオストック入港を目指して地球をほぼ半周する程の大遠征を命じた。

バルチック艦隊とは、以下の第2・第3太平洋艦隊のことをいう。

1904年10月15日(明治37)
第2太平洋艦隊、軍港リバウ(バルト海)から出撃、ウラジオストクに向かう
1905年2月15日(明治38)
第3太平洋艦隊、軍港リバウ(バルト海)から出撃、ウラジオストクに向かう
5月9日、両艦隊は、フランス領インドシナ(現ベトナム)のカムラン湾で合流

第2太平洋艦隊は、アフリカの喜望峰を回って大西洋に入った。
そこで支隊(スエズ運河通過)と再び合流した。
さらに、大西洋からインド洋に入り、カムラン湾(現ベトナム)で第3太平洋艦隊と合流した。
そして、いよいよフィリピンから台湾近くまで迫ってきた。

1905年5月下旬(明治38)
いよいよバルチック艦隊がすぐそこまでやってきた!
朝鮮半島にあって連合艦隊司令部は決断を迫られていた

バルチック艦隊には、長征で疲れた乗組員を休め、汚れた船体を整備する時間と場所が必要である。
当然ながら一旦母港(ウラジオストク)に入港するであろう。
港に逃げ込まれてはチャンスがなくなる。
その前に一戦交えて叩いておかなければならない。

それでは、果たしてバルチック艦隊はどこを通ってウラジオストク(日本海)を目指すか?
考えられるのは、次の3つのコースである。

  1. 最短距離の対馬海峡を通過する
  2. 太平洋を迂回して津軽海峡から日本海に入る
  3. 宗谷海峡まで大回りする

日本側では、バルチック艦隊のロシア本国出撃時点から、可能な限りの監視体制を取っていた。
ところが最後の最後で、フィリピンのバシー海峡通過後の艦隊の行方を見失ってしまった。
やはり北方へ向かったのであろうか。

東郷自身は、津軽海峡を通過すると読んでいた

遅くとも来るだろうと想定した5月23日になっても、バルチック艦隊は姿を見せなかった。
そこで、翌24日の午前中、北進の「密封命令」が交付(5月25日午後3時開封予定)された。
東郷自身は、「敵艦隊は津軽海峡を通過する」と読んでいたのであろう。

もしその命令が実行されて、連合艦隊が朝鮮半島から津軽海峡に移動していたならば、バルチック艦隊はがら空きの対馬海峡を悠然と通過して、ウラジオストクへ入港できた可能性が高い。
もしそうなれば、日露戦争の結果すら変わっていた可能性もある。

しかし、5月25日に三笠艦上で開かれた軍議において、少数派による必死の進言があり、今しばらく朝鮮半島に留まることとなる。
「27日午後までお待ち願えれば万全」、少数派の第二艦隊司令官・嶋村速雄少将は答えている。

対馬海峡を通過すること間違いなし(最新情報入手)

5月26日未明、「バルチック艦隊は最短距離の“対馬海峡”を通過すること間違いなし」とする情報が届く。
続いて翌27日(午前5時5分ごろ)、“敵艦見ゆ”との知らせが届く。

警報に接し、連合艦隊は直ちに出動した。
決戦場は”沖の島附近”となるだろう。
いよいよ、その日その時である。

丁字戦法は使われなかった!

示唆に富んだ興味深い本が出版された。

半藤一利・戸高一成著『日本海海戦 かく勝てり』PHP研究所(2004年)
東郷平八郎の肉声、「連合艦隊解散の辞」朗読CD付き

本書は次のように述べている。すなわち、

日本海海戦では「丁字戦法」は使われなかった。
それは当日荒天のため幻に終わった“連繋機雷”投下という機密作戦をひた隠すために創作されたものである。
今年は日露開戦ちょうど100年目、驚愕の事実をここで明らかにする。

立場を超えて読むべき基本図書といえる。

東郷ターン(敵前大回頭)は、敵の頭を抑え込む丁字戦法ではなかった

丁字戦法とは、一直線に突き進んでくる敵艦隊の頭を抑えるように、その前方を横縦隊となって横切る形を取ることをいう。
この戦法の利点として、敵の艦隊は前方の砲しか戦闘に参加できないのに対して、味方の艦隊は前後にある全ての砲が発射可能になる、とされていた。

連合艦隊が「丁字戦法」を初めて実戦で使用したのは、黄海海戦(明治37年8月10日、旅順沖)の時である。
ロシア太平洋艦隊に対して、練りに練った見事な「丁字戦法」をとり、そして見事に逃げられてしまった。

「丁字戦法」は、戦闘意欲旺盛な敵が決戦を挑んでこないかぎり成立しない戦法だったのだ。
この時の敵艦隊は戦意がまるで無く、一列になって進む連合艦隊の最後尾を、いとも簡単にすり抜けて逃げ出してしまった。

逃げる気になれば簡単に逃げることができる。
「丁字戦法」の弱点が見事に露呈した。
これでは今後の作戦には使えない。
直ちに「丁字戦法」の練り直しが始まった。
最終的に決定した「対バルチック艦隊戦策」(明治38年5月17日作成、19日配布)では、「丁字戦法」の影はほとんど残っていなかった。

東郷ターン(敵前大回頭)の後、敵と併航しながら戦った

明治38年5月27日(1904年)、運命の日である。

6時00分ごろ、連合艦隊は朝鮮半島の鎮海湾(釜山の西約40km)から順次出撃して南下する。
13時39分、バルチック艦隊を発見する。

沖ノ島の北西海上で南西方向にバルチック艦隊を発見する。敵艦隊は北東方向に向かってきている。
連合艦隊は、右に少し振れて、バルチック艦隊の左舷前方についた。

13時55分:

旗艦「三笠」の艦橋に「Z旗」が掲げられた。
「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」

14時05分:

敵の旗艦スワロフとの距離8000米になった時、旗艦三笠の艦上で、加藤友三郎連合艦隊参謀長は大声で命じた。
「艦長、〈取舵〉一杯ッ」。
東郷平八郎連合艦隊司令長官は無言で会心の笑みを浮かべつつうなずく。

敵前大回頭、世にいう東郷ターンである。
この場合、敵前で〈左へUターン〉して、敵と併航しながら戦おう(併航戦・へいこうせん)というのである。
それは、決して敵の頭を押さえ込む形の「丁字戦法」ではない。
そして、併行戦は最初から決まっていた作戦である。

なおこの時、連合艦隊は敵艦隊の北側について、右舷を敵に向けた形になった。
(日本海海戦合戦図,半藤&戸高2004,p.223,pp.139-142)

さて、大回頭中は日本側からは砲撃できない。
逆に撃たれっぱなしで、「三笠」もかなりの損害を出した。
しかし、何とか持ちこたえた。

14時10分:

回頭を終えた連合艦隊の猛攻が始まり、勝負は最初の30分間でほぼ決着した。
兵の熟練度が違っていたのが最大の原因とされている。
その後の夜戦も含めた翌日にかけての第10合戦までで、バルチック艦隊は壊滅した。

天気晴朗なれども波高し ― 平文の中に込められた深い意味

実はこの時、「丁字戦法」に取って代わるべき重要な極秘作戦が用意されていた。
決戦前に水雷艇隊を出撃させ、敵艦隊前方に連繋機雷を敷設しようという奇襲作戦である。
しかし当日は、低気圧通過後でまだ波が高かった。300トンクラスの水雷艇には耐えられないかもしれない。

当日朝、連合艦隊司令部から軍令部に向けて次の電報が発信された(6時21分)。

敵艦見ゆとの警報に接し聯合艦隊は直ちに出動、之を撃滅せんとす(暗号)
本日天気晴朗〈なれども〉波高し(平文)
平文は、主席参謀・秋山真之中佐が付け加えたものである。

その心は、荒天で連繋機雷作戦は多分できませんよ、と軍令部に暗に知らせるためであったのだろうか。
秋山参謀は苦悩していた。
平文とはいえ深い意味が込められていたのかもしれない。

午前10時ごろ、東郷長官はそれまで艦隊に付いてきていた水雷艇を退避させた。
こうして連繋機雷作戦は幻に終わり、太平洋戦争惨敗に至るまで軍機として取り扱われることになる。

なお、暗号部分を一字一句正確に翻訳すれば、次のようになるという。
「敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃沈滅せんとす」。

東郷元帥詳伝(小笠原長生による伝記)

小笠原長生によって、1921年(大正10)、東郷平八郎元帥の伝記が刊行された。
小笠原は日露戦争中は軍令部参謀であり、後に軍令部の戦史編纂に関係した。
東郷元帥の私設副官ともいうべき人物である。

この伝記の中で東郷元帥は神になった。
東郷ターン(敵前大回頭)は神話となり、真の秘密である連繋機雷作戦は完全に抹殺された。
日本海海戦と「東郷ターン=丁字戦法」はこの本によって創り上げられた壮大なドラマだと言えるだろう。

勝って兜の緒を締めよ ― 東郷平八郎による「連合艦隊解散の辞」

日本海海戦において、日本人将兵はそれぞれの持ち場に応じた存分の働きをした。
そして思いもかけないようなパーフェクトな勝利を得た。
こうしてバルチック艦隊を壊滅せしめた日本海軍は得意の絶頂期を迎えることになる。

日露戦争自体は、アメリカの仲裁によって、日本が勝ったという形式で講和が成立した。
いってみれば”やっとこさ得た勝利”である。
これを完勝に見せかけた罪と罰は大きい。
失敗は全て無かったことにされた。
戦訓を生かす組織を作り上げることができず、結局太平洋戦争によって日本海軍は壊滅した。

東郷平八郎は、12月21日連合艦隊の解散にあたって、「連合艦隊解散の辞」を読み上げた。
そこで彼は“天佑神助”を強調し、そして最後に述べている。
“古人曰く勝て兜の緒を締めよと”。
分かっていたのである。

戸高一成「日本海海戦に丁字戦法はなかった」,初出「中央公論6月号」(1991年、平成3),再録「日本海海戦かく勝てり」2004年,PHP研究所

海軍軍令部編纂『極秘明治三七・八年海戦史』防衛研究所図書館蔵(1909年、明治42)

中国新聞記事にみる戦艦「大和」

中国新聞記事にみる戦艦「大和」

以下、2003年~2006年当時の新聞記事から抜粋している。
現在作業中断。

  • 2006年06月13日(火)
    広島県の大型観光キャンペーン(2004~2005年度)
    2005年経済効果992億円
    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)
  • 2006年06月8日(木)
    大和ミュージアム
    児童・生徒向けの自主学習帳作成
    展示品への理解と興味を深めるため
  • 2006年05月18日(木)
    大和ミュージアム、「大和」紙芝居、3シーン公募
    来年3月までに、(順次)全シーン22点を作成してもらう予定
  • 2006年05月12日(金)
    東映映画「男たちの大和/YAMATO」ロケセット(尾道市向島町)
    解体工事本格的に始まる(11日より)
    入場者数、百万二千三百三十四人
    (2005年7月17日~2006年5月7日、休場日を除く253日間公開)
  • 2006年05月10日(水)
    大和ロケセット、一部を大和ミュージアムに無償譲渡予定
    東映映画「男たちの大和/YAMATO」ロケセット
    日立造船向島西工場(尾道市向島町)
    大和前部を全長190m、最大幅40mの原寸大で再現
    直径46cmの主砲や3連装機銃など装備
  • 2006年05月02日(火)
    大和ミュージアム企画展、31日まで
    企画展「十分の1戦艦大和に魅せられた男たち」
    ミュージアムのメーン展示物の計画から完成までの過程紹介
  • 2006年04月27日(木)
    映画「男たちの大和/YAMATO」ロケセット(尾道市向島町)
    ロケセットのスタッフが和服姿で案内
    市内の劇団が発案、大正期の着物など手持ちの資材を貸し出し
  • 2006年04月27日(木)
    大和ミュージアム、1年目の航跡(下)、優しさ不足
    解説・休憩所、改善の余地
  • 2006年04月26日(水)
    大和ミュージアム、1年目の航跡(中)、賛否両論
    戸高一成館長(57歳):技術自体には、何の罪もない。技術を使う人間の側に責任があり、使い方次第で戦争という悲劇を招くことを知ってもらいたい
    八杉康夫さん(78歳)大和の元乗組員、「沖縄特攻の生還者、模型の大きさばかりが注目されている。博物館が観光施設化し、戦争や大和の悲惨さがどこまで発信できているのか」「ブームは一過性のもので、いずれ風化する。大和の運命を考えながら、平和の尊さ、ありがたさを学ぶミュージアムであってほしい」
  • 2006年04月25日(火)
    大和ミュージアム、1年目の航跡(上)、うれしい誤算
    23日で開館1年経過、来館者170万人突破(当初目標、年間40万人)
  • 2006年04月21日(金)
    海上自衛隊呉基地(呉市昭和町)
    昨年度の見学者が二万人突破、過去最多
    昨年4月会館の大和ミュージアム(呉市宝町)の影響大
  • 2006年04月19日(水)
    呉観光ボランティアの会(無料ガイド)
    18日新戦力13人が加わる(総勢64人)
    大和ブームによる人手不足解消
    拠点は呉市入船山記念館(呉市幸町)、2000年3月発足
  • 2006年04月19日(水)
    大和ミュージアム23日に開館一周年
    大和ミュージアム、ちゅうぴーくらぶ加盟店となる(23日から)
    会員証提示で入館料割引
    大和ミュージアム開館1周年記念クルーズ
    瀬戸内海汽船
  • 2006年04月16日(日)
    呉配備の旧海軍「第六潜水艇」殉難追悼式15日
    顕彰碑のある鯛乃宮神社(呉市西三津田町)で
    佐久間勉艦長(第六号潜水艇)の遺品、大和ミュージアムに寄託
    (3月18日記事により補完)
  • 2006年04月13日(木)
    広島港(広島市南区宇品)発着、呉湾周遊ランチクルージング(15日から)
    海上自衛隊呉基地沖、音戸の瀬戸巡り
    大和ミュージアム(呉市)見学コースもあり(その場合、帰路は定期航路使用)
    クルージング船「銀河」(53m、602トン)、瀬戸内海汽船
  • 2006年04月02日(日)
    海軍第二艦隊乗組員慰霊の船旅(4泊5日)
    あす3日出港(呉市川原石港)
    発起人は現在10人、元乗組員と遺族で構成
  • 2006年03月31日(金)
    呉市の観光客過去最多345万人(2005年分集計まとまる)
    経済効果402億円超(前年比4倍以上)
    大和ミュージアムの来館者は、現在160万人を突破している
  • 2006年03月26日(日)
    サウンドドラマ「戦艦大和の最後」CD復刻、ビクターエンタテインメント
    吉田満原作「戦艦大和ノ最期」をもとにしたラジオ放送
    大和ミュージアムの資料などを掲載したブックレット付き、3800円
  • 2006年03月19日(日)
    海軍第二艦隊乗組員の洋上慰霊祭、参加者募る
    大型客船「ふじ丸」チャーター(4泊5日の旅)
    4月3日、呉市川原石港出港
    4日、戦艦大和や巡洋艦、駆逐艦4隻の沈没地点で追悼式開催
    5日、徳之島犬田府岬で慰霊祭実施
    7日、枕崎市火之神公園で第二艦隊追悼式参列
    Web作者注:新聞には5日犬田布岬の大和慰霊塔とある
    八杉康夫著「戦艦大和最後の乗組員の遺言」P149には、八杉氏が昭和43年に徳之島の慰霊碑除幕式に出席したことが書かれている。慰霊碑には「戦艦大和を旗艦とする第二艦隊慰霊碑」という高松宮殿下の文字が彫られており、真西の方向にむいて立っていたという。最近になって慰霊碑を作り直したいという相談を受けたので、大和艦隊は徳之島まで達することなく撃沈された(八杉さんは海底に眠る戦艦「大和」を探り当てた方だ)のだから、(徳之島と大和は何の関係もないことになり)立て直しても意味はないが、少なくとも大和が沈んだ北北西の方向に向けたらどうかとアドバイスをしたという。
  • 2006年03月18日(土)
    佐久間勉艦長(第六号潜水艇)の遺品、大和ミュージアムに寄託
    国産初の潜水艇、明治43年(1910)4月15日、山口県岩国市新湊沖で潜航訓練中、海水浸入事故のため自力で再浮上することかなわず、艦長以下14名全員死亡。事故発生午前9時50分頃、艦長の遺書あり、最終記載時刻12時40分。
    第六号潜水艇殉難之碑、鯛乃宮神社境内(呉市西三津田町)
    沈没前日の4月14日、宮島から新湊まで2時間30分にわたる潜航をしたらしい
    (インターネット情報にて補足、但し疑問点あり、新湊?)
  • 2006年03月15日(水)
    大和ミュージアム学芸員斎藤義朗さん
    「大和」資料を整理して、極秘部分が多く、解明されていない戦時中の造船技術について研究したい、交流ワイド(ひと人ヒト)
  • 2006年03月14日(火)
    呉海軍工廠亀ケ首東射場跡(呉市倉橋町)
    戦艦「大和」の主砲などの艦砲実弾試射が行われた場所
    荒れ放題だった遺構周辺の整備に取り組む(地元観光ボランティアガイドら)
  • 2006年03月12日(日)
    大和ミュージアム来館者数150万人突破(11日)
    会館323日目、当初年間目標40万人の4倍にせまる好調ぶり
  • 2006年03月09日(木)
    呉市、優秀観光地づくり賞協会長賞受賞、主催:日本観光協会
    大和ミュージアム(来館者数148万人突破)を核とした観光地づくりなど評価
  • 2006年03月06日(月)
    足元の安保(米軍再編と中国地方)NO.6
    道家一成(どうけ・かずなり)・海上自衛隊呉地方総監に聞く
    旧海軍の町、呉市は戦艦「大和」のふるさと
    呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)2005年4月開館
    映画「男たちの大和/YAMATO」2005年12月封切り
    海自は呉史料館(仮称)2006年1月着工
    「大和」によって全国に呉をアピールすることができた
    海自への理解も深まった
  • 2006年02月22日(水)
    戦艦「大和」の溶接関連資料が大和ミュージアムに寄贈された
    送り主は横須賀市在住の元造船技術者
    溶接方法を記した解説書と、溶接範囲を描いた青焼き図面の2点
    大和建造当時、接合方法はびょうから溶接へ移行する過渡期であった
    大和も溶接とびょうを使い分けて建造された
    篠崎賢二・広島大学大学院工学研究科教授の話:
    技術力の変遷を知る上で貴重な資料
  • 2004年04月18日(日)
    この人に、戸高一成さん(55歳)
    「大和」を通して何を伝えたいですか
    呉市企画部参事補(海事歴史科学館担当)
    呉の発展支えた技 次代に
  • 2003/12/18(木)
    戦艦「大和」十分の1模型の船体部分完成
    今後各部の仕上げを行って、呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)のメーン展示物となる予定(開館は2005年4月)

「中国新聞」呉支社編集部長吉川慶三
広・一一空廠、連載1986年(昭和61年)2月3日から57回

神風特攻隊(特別攻撃隊)とは

神風特攻隊(特別攻撃隊)とは

神風特攻隊(しんぷうと読む)とは、太平洋戦争末期に飛行機ごと体当たり攻撃を行って、敵機動部隊を殲滅することを目的として編成された特別攻撃隊のことをいう。軍事作戦とは本来、敵を倒して自らは生きて帰ることを前提としたものであるはずである。神風特攻隊編成の真意はどこにあったのであろうか。

「特攻は統率の外道である」。神風特攻隊の発案実行者とされる大西瀧治郎中将(第一航空艦隊司令長官)自身の言葉である。「わが声価は棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす」。大西中将は敗戦翌日割腹自殺して果てた。介錯も受けず10時間もの間もがき苦しんだという。

ここで、純粋に国を思い散華した数多くの御霊に対して、心より哀悼の意を表するものである。

「「特攻」と日本人」保阪正康著、講談社現代新書(2005年)

特攻隊員が自らの死をもってわれわれに訴えかけているものは何か。新しい特攻論の必要性を訴える著者のスタンスに全面的に賛成である。

涙なくしては読めない(アマゾンレビュー)

元原稿、akimasa21、2005/9/3

特攻隊員は数多くの手記や遺稿を残している。それらの一部は、例えば「きけわだつみのこえ-日本戦歿学生の手記-」青年学生平和の会刊行(1949年)に収載されている。あるいは、知覧特攻平和会館(鹿児島県)等の施設に展示されている。

多くの人々が「英霊の中の英霊」である特攻隊員の遺品に接して涙している。しかし、ただ単に涙しているだけでいいのだろうか。彼らは何故死ななければならなかったのか、”もっと理性的にこの特攻作戦やそのシステムを問い直すことこそ重要”(保阪著書P.015)な時期にきている。

特攻作戦のような、生還の可能性の全くない軍事作戦を命じた国は、いまだかつて日本国以外にはない。そして、直接命令を下した指揮官たちは、口々に”われわれもすぐに君たちのあとを継いで飛び立つ”(保阪著書P.040)といっておきながら、後に続いた者はほとんどだれもいなかった。

また、戦後生き残った最高指導者層は、(神風)特攻隊の発案実行者はあくまでも大西瀧治郎中将である、として全ての責任を彼に押し付け、自らの関与を完全に否定し続けた。

特攻隊員が手記や遺稿で訴えたかったのは、このような当時の日本における指導者層の理不尽な行為ではなかったか。あるいは、そのような体制を許したすべての国民を含む日本国国家そのものではなかったのだろうか。

最初の組織的特攻が行われた昭和19年(1944年)10月当時、戦局はすでに決し、日本が勝つ見込みはまったくなくなっていた。したがって、終戦にむけた手続きを模索する以外に取るべき選択肢はなかったといえよう。

それにもかかわらず、戦略・戦術もなく精神論ばかりに傾いて戦争を続行した。そして遂に、いかに戦時とはいえ絶対に行ってはならない特攻作戦を実行してしまった。国民もまたそのような風潮に対して、声をあげて反対することはほとんどなかった。

特攻隊員はその役目を引き受けなければよかったのだ、という声もまた多いという。しかし、当時の日本国の状況の中で、それを拒否することはできなかったはずである。全員が志願だったかといえば、”限りなく指名に近い強制が働いた”ということだろう。拒否すれば非国民とされ、場合によっては累は家族にまでおよぶ危険もあっただろう。

若い彼らには夢があった。やりたいことがたくさんあった。生きていたかった。深い苦悩を抱えて、特攻隊員たちは飛び立っていった。

彼らが自らの死をもってわれわれに訴えているのは、「(彼らの)死を生み出した時代を心底から清算しなければならないという覚悟である」(保阪著書P.075)。そのような彼らの死が「犬死」であることなど断じてない。

「神風特攻の記録」金子敏夫著、光人社(2001年)

最初の組織的特攻隊はフィリピンで編成された(アマゾンレビュー)

akimasa21、2005/9/18

神風特攻隊(しんぷうと読む)とは、太平洋戦争末期(昭和19年10月20日)にフィリピンで編成された海軍による初めての組織的特別攻撃隊であった。最初選抜された隊員24名は、全員が第十期甲種飛行予科練習生(予科練、甲飛10期)出身で、すべて志願によるとされている。そしてその上に指揮官(海兵70期)1名を指名した。

この25名に加えて、後から甲飛以外の志願者12名が名乗りをあげたため、神風特攻隊は指揮官所属の「敷島隊」をはじめ9隊の編成となった。「この作戦限り」であったはずの特攻作戦はその後も継続されたため、これを第一神風特攻隊としてその後の特攻隊と区別している。

本書は、特に第一神風特攻隊について、隊の成立、変遷、あるいは出撃状況・戦果等を、生存者のくわしい聞き取りを交えてまとめたものである。中でも「敷島隊」は、4回目の出撃で初めて敵艦隊に遭遇し大戦果をあげる。爆装6機(他に直掩4機あり)で飛び立ったが、爆装1機(4回とも同行)がエンジン不調で引き返したため5機で突入している(引き返した1機は後日散華)。なお、直掩1機上空戦で撃墜の被害あり。

爆装隊員は死ぬまで何回でも出撃を繰り返した。これに対して、直掩機の任務は護衛および戦果偵察であるから、必ずしも死ぬとは限らなかった。したがって、同じ特攻死扱いでも爆装隊員と直掩要員では大きな違いがある。

ところが、両者の関係を取り違えて、氏名が入れ替わったままの諸書が出回っている。あるいは、隊員の氏名そのものの誤りを訂正していない書籍が今でも新たに出版(2005年刊)されている。本書は、特に第一神風特別攻撃隊に関して、他書籍の正確度をはかる”リトマス試験紙”として非常に有用だ。

神風特攻隊の名前は、旧日本海軍航空隊で使用された

神風特攻隊の名前は、旧日本海軍航空隊で使用されたものである。したがって、陸軍航空機による特攻作戦には、”神風”の名前は使われていない。 また、同じ海軍において飛行機以外での特攻作戦はいくつも実行されているが、同様に”神風”の名前は使われていない。例えば、震洋 (ベニヤ製モーターボート)、回天(人間魚雷)などによる特攻、戦艦大和などの水上特攻等である。

一般的には、特攻といえば飛行機によるものを思い浮かべるケースが多く、その場合、陸海軍の区別なく神風(かみかぜ)特攻隊 と広く呼び習わされているように思われる。特攻作戦によって”神風(かみかぜ)”が吹いてほしかったという国民の願望からくるものであろうか。 いずれにしても、諸外国でも「カミカゼ」といえば「死を覚悟した体当たり攻撃」をさすということである。

山本五十六連合艦隊司令長官は、日米開戦の三か月前、近衛文麿首相に問われて海軍の見とおしを答えている。「是非やれと いわれれば、始め半年か一年の間はずいぶん暴れて御覧にいれる。しかしながら、二年三年となればまったく確信は持てぬ」

実はこれには続きがあって、「三国同盟ができたのは致し方ないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力ご努力を願いたいと思います」というのだが、「暴れてごらんにいれます」とは、”勝てる”とも”負ける”ともどちらともつかない、いかにも曖昧な物言いである。

それはともかく、山本長官の予想通り、ハワイ真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争緒戦の華々しい戦果は長くは続かなかった。米軍は圧倒的物量を背景に、太平洋各地に展開していた日本軍を本土へ追い詰め始めた。こうした中で神風特攻隊が編成された。

飛行機による特攻作戦で出撃した人数は5000人前後(陸海軍)と思われるが、当Web管理人は未だその全容をつかんではいない。

真珠湾における特殊潜航艇による特別攻撃が原型となっている

ハワイ真珠湾攻撃(5隻)
昭和16年(1941年)12月8日未明(日本時間)、日本海軍の戦闘機、雷撃機、爆撃機からなる200機近い大編隊がハワイ真珠湾を襲った。こうして太平洋戦争が始まった。

空からの攻撃に加えて、海からは特殊潜航艇5隻(二人乗り、魚雷2本搭載)が真珠湾突入を試みた。しかしながら、10名中9名が戦死(1名捕虜)、大本営は戦死した9名を「九軍神」(写真氏名公表)として崇めた。ただし、太平洋戦争捕虜第1号となった生存者の存在は敗戦に至るまで完全に抹殺した。攻撃に参加した事実すら発表しなかったのである。

この真珠湾攻撃隊のことを第一特別攻撃隊と称する。そして、その後第二次特別攻撃隊(昭和17年5月31日)がマダガスカル(2艇、4名戦死)とシドニー湾(3艇、6名戦死)にそれぞれ出撃した。

オーストラリア・シドニー湾攻撃(3艇)
第二次特別攻撃隊(昭和17年5月31日)
シドニー湾攻撃(3艇)では、湾口の防潜網に絡まり航行不能となって自沈(1艇)、魚雷2本発射、目標の米国重巡洋艦シカゴには命中しなかったが、余波で軍用フェリー・クタバルを撃沈 (水兵19名死亡)して、その後行方不明(1艇)、発射管を損傷して魚雷の発射が不可能となり乗員は拳銃で自決(1艇)という結果であった。

オーストラリア海軍は2艇を引き上げ、日本海軍軍人の勇気に対して海軍葬の礼で弔った。その模様はラジオでオーストラリア全土に放送されたという。4人の棺は日本国旗で覆われ火葬に付された。そして遺骨は戦時交換船で日本に返還された。

引き上げたられた2艇の特殊潜航艇は、切断して1艇に修復復元され今もオーストラリア戦争記念館(キャンベラ)に保存されている。なお、シドニーの海軍基地は、このとき沈没した船にちなんで、HMAS Kuttabul基地と呼ばれている。

マダガスカルのディゴアレス湾攻撃(2艇)
第二次特別攻撃隊(昭和17年5月31日)
マダガスカルのディゴアレス湾攻撃(2艇)では、イギリス戦艦1隻、タンカー1隻を撃沈した。当時のイギリス首相チャーチルは、戦後執筆した「第2次大戦回顧録」(ノーベル文学賞受賞、1953年)の中で、”祖国のために貢献した行為”として賞賛している。

第一次、第二次特別攻撃隊に引き続いて、太平洋の各地で敗戦の年まで散発的に特殊潜航艇による出撃が繰り返し行われたようである(9回出撃、総数42艇)。

特殊潜航艇による第一次および第二次特別攻撃(合計20名出撃)は、生きて帰ることを前提に許可された作戦といわれている。しかし、生存者は真珠湾で捕虜第1号となった乗組員以外にない。その後の特別攻撃がどのようなものであったか定かではないが、第一次、第二次における異常に高い死亡率を考えるとき、これらは後の神風特攻隊の原型になったといえるであろう。

神風特攻隊(第一神風特別攻撃隊)

昭和19年10月17日、米軍がスルアン島(フィリピン)に上陸、翌18日17時日本軍はフィリピン防衛の為に「捷一号作戦」を発動する。神風特攻はこの作戦を成功させるために大西瀧治郎中将 (海兵40期)によって考え出されたとされている。その目的は、敵機動部隊(特に空母)の活動を少しの間でも抑止しようとすることにあった。

大西中将は19日深夜、特攻隊の編成を命じた(マバラカット基地、フィリピン・ルソン島中部)。それに応じて海軍第一航空艦隊・201航空隊から24名選抜 、全員が第十期甲種飛行予科練習生(予科練、甲飛10期)出身ですべて志願によるとされている。その上で指揮官(海兵70期)を指名した。(零戦 -250kg爆弾搭載)

神風特攻隊として最初に編成されたのは、敷島隊、大和隊、朝日隊および山桜隊の4隊である。各隊の名称は、「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花」(本居宣長)によっている。

各隊は、爆装(体当たり)3機、直掩(および戦果偵察)2機を標準とした。最初、実際に編成された隊が4隊であったのは、保有機が少なくこれが精一杯であった という事情によるようだ。しかし、特攻隊組織後は、志願者も増え飛行機も各地から調達できた。結局、一航艦の搭乗員で編成された特攻隊は9隊(編成表参照)に及び、これを第一神風特別攻撃隊と呼んでいる。

最初の爆装隊員25名(指揮官-海兵70期+甲10期24名) とその後の志願者12名の動向は以下の通りである。隊員の大多数は、10月21日~30日までに散華していった。

第一神風特攻隊、特攻死(32名)

海兵70期1名、甲飛10期24名中19名
予学11期、予学13期、各1名
丙4期、丙10期、丙12期、各1名
丙15期3名、丙16期1名、丙17期2名
乙13期1名

甲飛10期24名中、19名特攻死以外5名の内訳
特攻から帰投後戦死1名(10月25日)
後に艦船攻撃の後不時着,陸上戦で戦死(11月5日)
後に特攻死1名(11月12日)
後に国内の空中戦で戦死1名(20年5月28日)
敗戦時、生存1名

なお、特攻隊員の特攻死32名に加えて、
直掩機搭乗者の特攻死7名あり

第一神風特攻隊の編成表(9隊)

昭和19年10月20日命名式
最初の爆装隊員25名
(指揮官-海兵70期+甲10期24名)

敷島隊4名、ゼロ戦爆装(神風特攻隊指揮官を含む)
大和隊3名、ゼロ戦爆装
朝日隊3名、ゼロ戦爆装
山桜隊3名、ゼロ戦爆装
その他一括して菊水隊編入12名

敷島隊には、その後、丙15期、丙17期、各1名志願者追加

10月21日
大和隊再編成、ゼロ戦爆装
最初大和隊に編入された3名と一括菊水隊数名はセブ島に移動
そこで新たに特攻志願者を募り大和隊が再編成された
(予学11期、予学13期、丙4期、丙12期、丙15期、各1名志願者追加)

10月22日
菊水隊3名、ゼロ戦爆装
 (一括菊水隊から2名、大和隊から編入1名)
若桜隊4名、ゼロ戦爆装
 (一括菊水隊から2名、大和隊、朝日隊から編入各1名)
10月25日
彗星隊1機(2名)、艦爆
 (乙13期、丙10期)
10月26日
初桜隊3名、ゼロ戦爆装
 (一括菊水隊から1名、山桜隊から編入1名、丙17期1名志願者追加)
葉桜隊6名、ゼロ戦爆装
 (一括菊水隊から2名、朝日→若桜隊、敷島隊から編入各1名)
 (および、丙15期、丙16期各1名志願者追加)

第一神風特攻隊の出撃記録

10月20日、最初の出撃命令下る、ただし、悪天候のため翌日に延期
最初の出撃命令は、20日に敷島隊、大和隊、朝日隊および山桜隊の爆装13機と、それぞれの直掩機を合わせた10機の合計23機に下されたが、悪天候のため出撃は翌日に持ち越しとなった。

10月21日(マバラカット)
敷島隊4名(直掩4機あり)、初出撃
 指揮官、海兵70期
 甲10期2名
 丙15期1名志願者追加
 (その他、エンジン不調発進中止・・・甲10期1名)
朝日隊3名(直掩2機あり)、同時に初出撃(合同作戦)
 甲10期3名

予定地点に至るが天候不良のため敵発見できず
ルソン島南部レガスピー不時着、翌22日マバラカット全機帰投
ただし敷島隊直掩4機のうち2機は報告のため21日中にマバラカット帰投
朝日隊1名(甲10期)、22日若桜隊に編入(さらにその後、26日葉桜隊に編入)

10月21日(セブ)
大和隊<2名>、初出撃
指揮官(久納好孚・中尉、予学11期)、特攻死(セブ90度185浬)
悪天候を冒し、体当たりを決行したと認定
列機1機(甲10期)は指揮官と分離帰投(22日若桜隊編入→25日特攻死)
直掩1機(甲10期)も同様に指揮官と分離帰投、戦果の確認なし
(→ 25日大和隊第一次攻撃隊指揮官、特攻死)

10月22日(マバラカット)
山桜隊3名(直掩2機あり)、初出撃
天候不良のため敵発見できず全機帰投
(甲10期3名)

10月23日(マバラカット)
敷島隊5名(直掩4機あり)、2回目出撃
天候不良のため敵発見できず、全機帰投
(海兵70期、甲10期3名、丙15期)

10月23日(セブ)
大和隊<2名>出撃
指揮官(佐藤馨・上飛曹、丙4期)、特攻死(スルアン沖)
体当たりを決行したと思われるが詳細不明
列機1機(石岡義人・一飛曹、甲10期)、エンジン不調で引き返す
(21日一括菊水隊から編入、11月12日第五聖武隊で特攻死)
直掩機はいたはずというが不明

10月24日(マバラカット)
敷島隊5名(直掩4機あり)、3回目出撃
天候不良のため敵発見できず、全機帰投
(海兵70期、甲10期3名、丙15期)

-10月25日-

10月25日早朝命令、”栗田艦隊のレイテ湾突入に呼応して、すでに編成されている体当たり特別攻撃隊の全機を発進させよ”(第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将、マニラ)。この時までに各隊それぞれの基地に展開していた。

朝日隊<2名>(ダバオ第一基地)、直掩1機あり
指揮官(上野敬一・一飛曹、甲10期)
(20日朝日隊編入21日出撃帰投歴あり)
未帰投、特攻死(第一ダバオ飛行場28度237浬)
直掩機が途中から不在のため消息不明、ただし
連合国側の記録によれば体当たり戦死の可能性大
甲10期1名(磯川質男・一飛曹)、天候不良、不時着
一ヵ月後徒歩にてマバラカット帰投、昭和20年5月大村湾上空夜戦で戦死
(20日朝日隊編入21日出撃帰投歴あり)
直掩1機、飛行機故障のため不時着、後日帰投

山桜隊<3名>(ダバオ第一基地)、直掩2機あり
指揮官(宮原田賢・一飛曹、甲10期)
甲10期1名(瀧澤光雄・一飛曹)
上記2名未帰投、消息不明、特攻死(第一ダバオ飛行場25度285浬)
その他甲10期1名、故障で引き返す(翌26日初桜隊編入→29日特攻死)
(三名とも、20日一括菊水隊編入、22日山桜隊編入22日出撃帰投歴あり)
連合国側の記録によれば、未帰投2機は体当たり戦死の可能性大
なお直掩2機は、悪天候のため爆装機を見失う

注:連合艦隊布告に”宮原田賢一”とあるのは誤り

菊水隊<3名>(ダバオ第二基地)、直掩2機あり
指揮官(加藤豊文・一飛曹、甲10期)、22日一括菊水隊から編入、特攻死
甲10期1名(宮川正・一飛曹)、20日大和隊編入→22日菊水隊編入、特攻死
大型空母の艦尾に2機のうち1機命中・火災停止(スリガオ海峡東方40浬)
その他甲10期1名(高橋保男・一飛曹)、敗戦時生存
22日一括菊水隊から編入、25日発進直後、脚故障で引き返すが、山桜隊の4番機扱いで再出撃、ところが、悪天候のため敵発見できず再び引き返す
(26日大和隊第三次攻撃隊直掩を努め、同期の戦果報告を行う)
25日直掩1機(その他直掩1機は氏名不詳)によって 、菊水隊の戦果報告がなされた。ほんとうは、これが神風特攻隊初の戦果である。ただし、初戦果の名誉は下記敷島隊にゆずる形となった。

敷島隊<6名>(マバラカット)、直掩4機あり(詳しい内容は後記)
5名特攻死、空母1隻撃沈など戦果大
(海兵70期、甲10期2名、丙15期、および丙17期(この時初参加)、計5名)
その他、甲10期1名がいっしょに飛び立つが、エンジン不調でレガスピー不時着。当日の直接攻撃には不参加(翌26日葉桜隊編入→30日特攻死)
なお、この時、直掩1機特攻死扱い(6名とも、タクロバン85度35浬)

彗星隊1機<2名>(マバラカット)
浅尾弘・上飛曹、乙13期、消息不明、特攻死(レイテ湾)
須内則男・二飛曹、丙10期、消息不明、特攻死(レイテ湾)

大和隊第一次攻撃隊<2名>(セブ)、直掩には彗星1機(2名)
指揮官(大坪一男・一飛曹、甲10期)、消息不明、特攻死
(20日一括菊水隊編入、21日大和隊直掩歴あり)
列機1機(荒木外義・飛長、丙15期)、消息不明、特攻死
直掩機(二人乗り)未帰投、特攻死扱い2名
(國原千里・少尉-乙5期、大西春雄・飛曹長-甲3期)
(上記4名とも、バタブ130度70浬)

若桜隊<4名>(セブ)、直掩2機あり
指揮官(木村繁・一飛曹、甲10期)、敵を見ずセブ帰投
(22日一括菊水隊から編入、25日帰投後戦死)
甲10期1名、敵を見ず帰投
(22日朝日隊から編入、26日葉桜隊編入→30日特攻死)
甲10期1名、敵を見ず帰投
(22日一括菊水隊から編入、25日大和隊編入→26日特攻死)
甲10期1名(中瀬清久・一飛曹)、消息不明、特攻死 (ダバオ130度70浬)
(20日大和隊編入21日出撃帰投歴あり、22日若桜隊編入)

10月26日(セブ)

大和隊第二次攻撃隊(第一大和隊)<2名>(直掩1機あり)、出撃
指揮官(植村眞久・少尉、予学13期)、特攻死
列機1機(五十嵐春雄・二飛曹、丙12期)、特攻死
直掩機を含めて全機撃墜される(米国側資料)
直掩機、特攻死扱い(日村助一・二飛曹-丙10期)

大和隊第三次攻撃隊(第二大和隊)<3名>(直掩2機あり)、出撃
指揮官(勝又富作・一飛曹、甲10期)、特攻死
(20日一括菊水隊、22日若桜隊編入25日出撃帰投歴あり、26日大和隊編入)
甲10期1名(移川晋一・一飛曹)、特攻死
(21日一括菊水隊から編入)
甲10期1名(塩田寛・一飛曹)、特攻死
(20日当初から大和隊編入)
護衛空母2隻に3機とも命中
直掩1機(甲10期、敗戦時生存)によって戦果報告あり
(22日一括菊水隊から菊水隊編入25日出撃帰投歴あり→26日大和隊直掩)
直掩1機、特攻死扱い(勝浦茂夫・飛長-丙15期)

注:連合艦隊布告(71号、88号)の移川晋一(直掩)・勝浦茂夫(爆装)は誤り。大和隊の「戦闘報告」に記述された編成に間違いがあり、それをそのまま引き継いだものと思われる。

(26日の大和隊は、7名全員スリガオ海峡東方80浬)

10月27日(セブ)
大和隊第四次攻撃隊<2名>(直掩2機あり)、出撃
指揮官(木村幸男・一飛曹、甲10期)、途中敵機に遭遇、目的を達せず帰投
(21日一括菊水隊から編入、11月5日陸上戦闘にて戦死)
甲10期1名(松村茂・一飛曹)、21日一括菊水隊から編入
敵機に遭遇、撃墜される、特攻死(スリガオ87度20浬)

10月29日(ニコルス第一)
初桜隊<3名>(直掩2機あり)、出撃
指揮官(野並哲・一飛曹、甲10期)、特攻死
(26日一括菊水隊から編入)
甲10期1名(藤本寿・一飛曹)、特攻死
(20日山桜隊編入22日・25日出撃帰投歴あり、26日初桜隊編入)
丙17期1名(吉盛政利・飛長)、特攻死
攻撃はしたが戦果確認せず
米軍側の記録では正規空母に一機命中小火災
直掩2機の働き不明(マニラ74度180浬)

10月30日(セブ)
葉桜隊<6名>(直掩5機あり)、出撃
指揮官(崎田清・一飛曹、甲10期)、26日葉桜隊編入、特攻死
(20日朝日隊編入21日出撃帰投、22日若桜隊編入25日出撃帰投)
甲10期2名(廣田幸宣・一飛曹、山沢貞勝・一飛曹)、特攻死
(両名とも、26日一括菊水隊から編入)
甲10期1名(山下憲行・一飛曹)、特攻死
(20日敷島隊編入4回出撃帰投、26日葉桜隊編入)
丙15期1名(鈴木鐘一・飛長)、特攻死
丙16期1名(桜森文雄・飛長)、特攻死
空母突入大破など戦果大
直掩2機、特攻死扱い(残り3機帰投)
(新井康平・上飛曹-甲9期、大川善雄・一飛曹-乙16期)
上記8名、すべてスルアン島150度40浬

第一神風特攻隊指揮官・関行男大尉(敷島隊 隊長)

西条中学(愛媛県)出身、海兵70期
昭和13年12月海軍兵学校入学、459名
昭和16年11月15日海軍兵学校卒(高松宮臨席)、432名
少尉候補生として、戦艦「扶桑」乗り組み、その後、水上機母艦「千歳」
ミッドウェー、トラック泊地など出撃
昭和18年1月、第39期飛行科学生
昭和18年8月、宇佐航空隊(艦上爆撃機の実用機教程)
昭和19年1月、霞ヶ浦海軍航空隊付き(操縦教官)
昭和19年9月、台南(台湾)練習航空隊へ教官として赴任(新婚三ヶ月)
3週間後、マバラカット基地(フィリピン)へ転出、配属先は零戦部隊
昭和19年10月19日深夜、神風特別攻撃隊指揮官として指名される
昭和19年10月25日、4度目の出撃で散華、大戦果をあげる

搭乗機、零式艦上戦闘機21型(A6M2)

指揮官は、母一人・子一人で妻帯者であった。この時、教官から実戦部隊へ着任したばかりであった。しかも本来の艦上爆撃機乗りから戦闘機隊に転科したもので、ゼロ戦(戦闘機)には慣れていなかった。着任早々でメンバーは殆ど把握していない。しかも、体調を崩して半病人状態であった。等々、他に適任者は何人かいたと思われる。「どうして自分が選ばれたのか、よくわからない」。小野田政(同盟通信特派員)が最後に聞いたことばである。

敷島隊の編成表および戦果(10月25日)

零式艦上戦闘機6機(乗員6名、250kg爆弾搭載)

1番機、関行男・海軍大尉(戦死後、中佐)23歳、
2番機、谷暢夫・海軍一等飛行兵曹(戦死後、少尉)19歳
 昭和17年4月、土浦海軍航空隊入隊(甲飛10期)
3番機、中野磐雄・海軍一等飛行兵曹(戦死後、少尉)20歳
 昭和17年4月、土浦海軍航空隊入隊(甲飛10期)
4番機、永峰肇・海軍飛行兵長(戦死後、飛行兵曹長)19歳
 昭和17年5月、佐世保第二海兵団入団
 昭和17年12月、三重海軍航空隊入隊(丙飛15期)
5番機、大黒繁男・海軍上等飛行兵(戦死後、飛行兵曹長)19歳
 昭和17年12月、佐世保海兵団入団
 昭和18年3月、岩国海軍航空隊入隊(丙飛17期)
その他、爆装1機不時着(直接攻撃不参加)

注:中野<盤>雄(海軍公文書)は間違い、中野<磐>雄が正しい
原因は、海軍横須賀鎮守府の人事担当者が誤記したことによる

敷島隊の当日出撃時の編成は、爆装6機と直掩4機の合計10機であった
しかし、爆装1機がエンジン不調でレガスピー不時着
結局、直接の攻撃は爆装5機によって行われた(5名特攻死)
なお、この時、直掩1機が上記5名とは別に特攻死扱い
(管川操・飛長-丙15期)

不時着した彼(甲10期)はおそらく4番機として飛び立っていたはずである
過去3回の出撃(戦果なし)全てに同行していた彼は、やっと成就した4度目の出撃では自機の不調に涙を飲むこととなった(26日葉桜隊に編入)

敷島隊の実際の出撃回数は4回であり、4回目で目的を達した。各出撃日における爆装出撃機、あるいは実際に敵を攻撃できた機は、その時の状況によって異なっている。具体的には、出撃機は、4機(1回目)、5機 (2回目、3回目)、6機(4回目)である。ただし、4回目で実際に敵を攻撃できたのは5機である。

ところで、特攻隊による最初の体当たり攻撃は、21日、23日の”大和隊”が行ったとされるが、成果があったかどうかは確認されず、米軍側も被害を受けたという発表はしていない。

特攻隊の戦果が具体的に確認されたのは、25日の朝日・山桜・菊水隊の攻撃においてである。ただし、その戦果が伝えられるまでには少し時間がかかった。 その間に、それらの約3時間後に行われた<敷島隊>による戦果報告が先に司令部に届いた。

その戦果は下記の通り華々しいものであったため、神風特別攻撃隊(組織的な特攻作戦)第一号の栄誉は敷島隊が荷うこととなった。これには、神風特別攻撃隊指揮官自らが率いる隊という配慮もなされたものと思われる。

日本側発表、米航空母艦1隻撃沈、同1隻炎上爆破、巡洋艦1隻轟沈
米軍側記録、航空母艦1隻沈没、同2隻小破
空母「セントロー」沈没、ホワイトプレーンズ、キトカンベイ小破

その後の特攻作戦

「この作戦限り」(大西中将)のはずであった特攻作戦はその後も継続されていくことになる。

敷島隊等の成果を受けて、10月27日、29日には、第二次神風特別攻撃隊(彗星6機、九九艦爆5機の合計11機で8隊構成)が編成され、10月27 日~11月1日の間に出撃していった。そしてその後も、年明けまでフィリピン方面での特攻作戦が実行された。なお、陸軍特攻は11月7日から始まっている。

昭和19年10月17日、米軍、スルアン島(フィリピン)に上陸
昭和20年1月9日、連合国軍、ルソン島リンガエン湾上陸開始
日本軍司令部(陸海軍とも)は台湾に転進(撤退)した。

フィリピン特攻作戦:
海軍、昭和19年10月21日~昭和20年1月9日まで
突入機202機(搭乗員256人)、未帰還機131機
奥宮正武著「海軍特別攻撃隊」より
陸軍、昭和19年11月7日~昭和20年1月13日まで
突入機148機、未帰還機170機、自爆24機
生田淳著「陸軍航空攻撃隊史」より

注:特攻隊員の数は、資料等によって異同があり、全容をつかむに至っていない。これはほんの一例として記載しておく。

昭和20年2月19日、米軍、硫黄島上陸開始
昭和20年4月1日、米軍、沖縄本島中部嘉手納海岸に上陸
昭和20年6月23日、沖縄における組織的戦闘終結
昭和20年8月15日、終戦の詔勅(玉音放送)
昭和20年9月2日、降伏文書調印式
 戦艦ミズーリ号(重光葵全権、マッカーサー連合軍総司令官)

連合国軍の攻勢に対して、日本軍は、台湾、九州(鹿屋、知覧など)から特攻機を繰り出したが、戦局を変えるまでには至らなかった。それにもかかわらず、特攻作戦は、日本が敗戦を迎える日まで中止されることはなかった。最後は、本土決戦の前触れとして、関東(木更津など)でも実行されている。

特攻作戦は、昭和20年4月沖縄決戦を迎えた段階で、正式な作戦手段となったかのような様相を呈する。「全軍特攻」である。「白菊」という機上作業練習機(時速230km)や水上機など、およそ特攻とは無縁と思われる低速機まで使用された。

最後の特攻(宇垣特攻)

昭和20年8月15日午後4時過ぎ、戦争はすでに終結(正午の詔書放送)していたにもかかわらず、701空<大分>派遣隊の彗星(すいせい)艦上爆撃機11機が沖縄方面に向けて特攻出撃した 。なお、彗星は複座で、操縦員、偵察員が2名セットで乗り組んでいた。また、出撃の日付は翌16日との説もある。

これより先、第五航空艦隊-司令長官・宇垣纒(うがき・まとめ)海軍中将(海兵40期)-は、「陣地変更」と称し鹿屋基地を見捨てて大分に移っていた(7月30日)。そこに所属攻撃部隊として、彗星一個中隊が美保基地(鳥取県)から大分に派遣された。この時、派遣隊長は19機の信頼する部下たちを選んで連れて行っていた。

宇垣長官が出した最後の特攻命令(5機編成)は、この派遣隊長を指揮官として指名したもので、長官自らが率いる(直率)というものであった。これを受けて隊長は人選を行ったが、選に漏れた者の中からも志願者が出て結局11機まとめての出撃になったという。

宇垣特攻隊の人数は操縦員、偵察員がそれぞれ11名づつ、そして隊長機の後部座席にもぐり込んだ宇垣長官自身の合わせて23名となる。なお、大分派遣当初の19機がこの時点まで健在であったとすれば、最後の特攻には全機が参加したのではないということになる。

ところで、五航艦司令部の通信室では、サンフランシスコ放送を傍受し続けていた。それらは必要に応じて直ちに日本語に翻訳され、宇垣長官に届けられていた。そのために二世も含めて英語に堪能な士官が配置されていたという。

宇垣長官はかなり正確に戦況を知りうる立場にあった。敗戦前日の14日には「対ソ及び対沖縄積極攻撃中止」命令も受け取っていた。宇垣特攻が戦争終結後の特攻出撃であるという認識は当然あったはずである。海軍でも苦慮した模様で、宇垣特攻に関しては特攻隊員に与えられる栄誉である二階級特進は行っていない(普通の戦死による一階級特進?)。

宇垣特攻隊編成表

彗星艦上爆撃機11機(乗員23名、800kg爆弾搭載)

操縦員、偵察員、備考

海軍大尉(海兵70期)、海軍飛曹長(乙飛9期)、宇垣長官同乗
海軍中尉(海兵73期)、海軍上飛曹(乙飛17期)
海軍上飛曹(丙飛)、海軍中尉(海兵73期)
海軍中尉(学生13期)、海軍上飛曹(甲飛11期)
海軍上飛曹(甲飛11期)、海軍中尉(学生13期)
海軍上飛曹(丙飛)、海軍少尉(生徒1期)
海軍二飛曹(特乙1期)、海軍一飛曹(乙飛18期)
海軍一飛曹(丙飛)、海軍一飛曹(乙飛18期)
海軍一飛曹(丙飛)、海軍中尉(学生13期)、不時着
海軍一飛曹(乙飛18期)、海軍一飛曹(乙飛18期)、不時着
海軍一飛曹(甲飛12期)、海軍二飛曹(甲飛13期)、 不時着

海兵:海軍兵学校、学生:大学高専卒の将校、生徒:大学高専卒より
甲飛、乙飛、丙飛:飛行予科練習生、甲は中卒、乙は小卒、丙は一般兵科

参考図書

指揮官たちの特攻-幸福は花びらのごとく-
城山三郎著、新潮社2001年
神風特攻の記録-甲飛10期生を中心として-
金子敏夫著、光人社2001年
特に第一神風特別攻撃隊の動向について詳しい
他書籍の正確度をはかる”リトマス試験紙”として非常に有用

ホタル帰る-蛍になって帰ってきた隊員がいた-
赤羽礼子・石井宏著、草思社2001年
月光の夏-最期にピアノ・フッペルで「月光」を弾いた隊員がいた-
毛利恒之著、サンマーク出版2003年
真相・カミカゼ特攻-必死必中の300日-
原勝洋著、KKベストセラーズ2004年
写真と攻撃記録と隊員名簿による画期的ドキュメント
ただし、特攻隊員名簿は、”押尾”著書の方が有用

「特攻」と日本人-昭和史最大の「悲劇」を問う!-
保阪正康著、講談社現代新書2005年
特攻隊員は自らの死をもって何を訴えたかったのか
新しい特攻論の必要性を提唱した力作

特別攻撃隊の記録-海軍編-
押尾一彦著、光人社2005年
大変な労作である。ただし、その内容には細かい異同や氏名の誤記などがあり、必ずしも100%完璧とはいえない。参考とする場合は、その都度改めて精査する必要があるだろう。

海軍特攻のすべてが分かる(ただし大きなミスあり要注意)
(アマゾンレビュー、akimasa21、2005/09/21)

神風特別攻撃隊(しんぷうと読む)とは、旧日本帝國<海軍>航空機による特攻隊のことをいう。最初の神風特攻隊は、太平洋戦争末期(昭和19年10月20日)のフィリピンにおいて編成された。「この作戦限り」であったはずの特攻作戦はその後も継続され、米軍の進攻に伴って、特攻機の発進基地は太平洋から台湾、そして本土へと後退していった。

本書はそのすべてを克明に追った記録である。各攻撃隊の動向のすべてがコンパクトにまとめられている。飛行機の写真、人物のスナップ写真、集合写真など貴重な写真が数多く集められている。巻末には「海軍神風特別攻撃隊出撃一覧表」があり、この一冊で神風特攻隊の全容がわかるはずである。大変な労作である。しかし、残念ながら本書には非常に大きな欠陥があり、その内容に全幅の信頼をおくことはできない。

例えば、最初に編成された第一神風特攻隊(爆装隊員37名)では、爆装隊員の特攻死32名(敗戦時の生存者1名のみ)に加えて、直掩要員(護衛および戦果偵察)の特攻死が7名ある。その中で、爆装・直掩の取り違え(氏名の入れ替わり)1件2名、さらに氏名そのものの誤り2件2名がある。いずれも連合艦隊布告をそのまま正しいと信じた結果であることは間違いない。正確な資料作成のため、金子敏夫著「神風特攻の記録-甲飛10期生を中心として-」光人社 2001年刊など、先達の努力をしっかりと受け止めて欲しい。

特別攻撃隊の記録-陸軍編-
押尾一彦著、光人社2005年
上記の陸軍編である。こちらも力作。

「真相・カミカゼ特攻」原勝洋著、KKベストセラーズ2004年
この空しさをどうすればいいのか
(アマゾンレビュー、akimasa21、2005/09/24)

本書の目玉は、著者が米国国立公文書館2(メリーランド州カレッジパーク)で発掘(2004年前後)した資料である。写真はいずれも米側カメラマンが艦船上で撮ったものであり、体当たり攻撃直前の特攻機、あるいは、被害を受けた米艦船の状況などが鮮明に映し出されている。また、米艦船で記録された特攻機のくわしい攻撃状況も紹介されている。

日本側資料としては、フィリピン、台湾、そして本土と後退しながら実行された特攻作戦の概要とそれによる戦死者名を、陸軍・海軍を合わせて時系列ですべて紹介している。これらと上記米国側の資料とを突き合わせれば、特攻機を特定した上で、突入状況および戦果を確認することができるケースも出てくるであろう。

本書中で、「敷島隊」零戦6機(特攻死)と表記された箇所がある。これでは、爆装・直掩の役割を区別した正確な情報は伝わらない。ここは正確に、爆装5機突入(爆装6機中1機エンジン不調で引き返す)および直掩4機中1機上空戦闘で撃墜、とすべきである(金子敏夫著「神風特攻の記録」光人社2001年刊)。なお、特攻戦死者の全容については、押尾一彦著「特別攻撃隊の記録」(海軍編、陸軍編)光人社2005年刊にもくわしい。

また、特攻隊は一般的に”KAMIKAZE”特攻隊と呼ばれる場合が多いことは事実だ。しかし、神風特別攻撃隊の”神風”は、正しくは”しんぷう”と読む。そしてこれは厳密にいうと、旧帝国<海軍>の<航空機>による特攻隊のことを指しており、陸軍ではいかなる場合にも使用していない。

本多勝一:愛知大学山岳部薬師岳遭難事件から南京大虐殺まで

本多勝一(元朝日新聞編集委員)について

本多勝一(元朝日新聞編集委員、現『週刊金曜日』編集委員)と言えば、元“朝日”の看板記者であり、1968年(昭和43年)には、ベトナムに関する報道が認められて “ボーン国際記者賞” を受賞している。
彼に触発されてジャーナリストになった後輩も多いと聞く。
(なお、肩書などは本ページ初出時のまま)

学生時代の私は、徳島市内の下宿先で“朝日新聞”をとっていた。
その朝日で、1967年(昭和42)の半年間にわたってベトナム・ルポ「戦争と民衆」(6部構成)が連載された。
反響は非常に大きく、後に『戦場の村:ベトナム―戦争と民衆』朝日新聞社(1969年)として単行本になっている。

その当時から、彼は私にとって気になる存在であり続けている。

本多勝一(ほんだ・かついち)

本多勝一の経歴を以下の資料からまとめてみた。

  • 「本多勝一年譜」(下記、晩聲社版末尾資料)
  • 「本多勝一が朝日新聞に発表した主な新聞記事一覧」
    (下記、山と渓谷社版末尾資料)
  • 「体験的本多勝一論」(下記、日新報道版全文)
  • 1931年11月(昭和6)、長野県下伊那郡(信州伊那谷)生まれ
  • 1954年3月(昭和29、22歳)、千葉大学薬学部卒業(薬剤師)
    同年4月、京都大学教養部入学、山岳部に入部
  • 1956年4月(昭和31)、京都大学農林生物学科応用植物学教室(専門課程)
  • 1958年10月(昭和33年、26歳)、朝日新聞社入社
  • 1963年1月(昭和38、31歳)、「愛知大学山岳部薬師岳遭難事件」(13人全員死亡)
    同年5月~6月、カナダ・イニュイ取材(カナダ・エスキモー、51回連載)
  • 1967年(昭和42、35歳)、南ベトナム取材(戦争と民衆、98回連載)
  • 1968年(昭和43年、36歳)、北ベトナム取材(北爆の下、19回連載は翌1969年1月)
  • 1969年3月(昭和44、37歳)、ボーン国際記者賞受賞
  • 1991年(平成3、60歳)、朝日新聞社を定年退職(朝日新聞社社友となる)

注)本多のボーン国際記者賞受賞は、社団法人日本新聞協会Web(Pressnet) “過去の受賞者リスト” によれば、昭和43年(1968年)となっている。
なお、 彼の生年月日(上記)は戸籍上のものだという。
本多自身の語った生年月日が幾つもあり、また、著書奥付の生年月日も複数存在している。

本多勝一、藤木高嶺と海外取材でコンビを組む

本多勝一(東京本社社会部)と藤木高嶺(大阪本社写真部)は、愛知大学山岳部薬師岳遭難事件(1963年1月)の時初めて顔を合わせた。
そして、その時の活躍が認められ、二人してカナダ・イニュイ(カナダ・エスキモー)取材に旅立っていった(1963年5月~6月)。

その後も二人は1年ごとに、ニューギニア高地人(1964年1月~2月)、アラビア遊牧民(1965年5月~7月)の取材を行った。
そして、それらの新聞連載記事を基に単行本も発行された。

なお、二人のコンビは、この次に行われた南ベトナムの取材まで続いた。
この間の関連書籍は、以下のとおりである。

  • 本多勝一・文、藤木高嶺・写真『カナダ・エスキモー』朝日新聞社(1963年)
  • 本多勝一・文、藤木高嶺・写真『ニューギニア高地人』朝日新聞社(1964年)
  • 本多勝一・文、藤木高嶺・写真『アラビア遊牧民』朝日新聞社(1966年)
  • 本多勝一『極限の民族 : カナダ・エスキモー,ニューギニア高地人,アラビア遊牧民』朝日新聞社(1967年)
  • 藤木高嶺『極限の民族―写真集 ニューギニア高地人,カナダ・エスキモー,アラビア遊牧民』朝日新聞社(1968年)
  • 藤木高嶺『藤木高嶺カメラマンの解放戦線潜入記』朝日新聞社(1968年)
  • 本多勝一『戦場の村:ベトナム―戦争と民衆』朝日新聞社(1969年)

上記のように、「極限の民族3部作」(カナダ・エスキモー、ニューギニア高地人、そしてアラビア遊牧民)の初版は、それぞれ単行本として、いずれも朝日新聞社から発行されている。
著者は全て、本多勝一・文、藤木高嶺・写真(共著)である。

ところで、その後、これらが「極限の民族3部作」として一冊にまとめて出版された時には、著者・本多勝一となっている。
そこに藤木高嶺の名前はなく、写真も全て本多のものが使用されている。
それに対して、藤木の写真は、別途「極限の民族―写真集」として、同じく朝日新聞社から出版されている。

そして、その次の南ベトナムの取材では、最初から藤木、本多がそれぞれ別々の書籍を出版している。
なお、出版社はこれまでどおり朝日新聞社である。

さらにその後、「極限の民族3部作」は、それぞれ単行本として講談社文庫、さらには朝日文庫と次々に収載されていった。
その過程で、著者はいずれも本多勝一だけとなり藤木高嶺の名前は消え去っている。

写真も本多のものに差し替えられたものと思われるが、私はそれらを意識して手に取ったことがないので分からない。

いずれにしても、初版発行から60年近くが経過した現在、「極限の民族3部作」のそれぞれの単行本初版が本多・藤木の共著であったことを知る人はほとんどいないかもしれない。

本多勝一「冒険と日本人-冒険的な現象に対する日本人の社会的反応について-」の記載場所変遷などについて

本多の著作の中に、『冒険と日本人』(実業之日本社)がある。
冒頭には、同名の論文「冒険と日本人」(副題:冒険的な現象に対する日本人の社会的反応について)という一文が掲載されている。

その論文で彼は、「堀江謙一」の「太平洋ひとりぼっち」成功に対する日本の新聞の反響分析から書き始めている(1965年3月記)。

初出は、『今西錦司博士還暦記念論文集』第三巻「人間」(中央公論社、1966年)であり、副題の“冒険的な ~”は、同論文集では“Adventurousな~”となっており、論文名そのものとして使用されていたものである。

ところで、私の手元にある『冒険と日本人』(実業之日本社)は、1978年3月20日発行(第二版第一刷)のものである。
その”あとがき”によると、本書は最初、二見書房から1968年に刊行された。
その時の構成は、第二版冒頭にも収載されている冒険に関する数編の論文やインタビューなどに加えて、冒険とはあまり関係のない文章が多く含まれていた。

初版本(二見書房版)はその後絶版となり、1972年に実業之日本社から改めて初版本として刊行された。
その時、冒険に関するものを5編加えた上に、そのほかの対談なども収録したため大部のものになった。
そこで第二版では、ほかの書籍(雑文集)も含めて取捨・選択をした結果、純粋に冒険に関係のあるものだけを集めた単行本とした、ということである。

本多勝一の文章は、頻繁に書換えられている

本多勝一は今までに多くの文章やインタビューをものにしてきている。
著作も多い。
その彼の著作では、取捨・選択、分解・吸収が頻繁に繰り返されているようである。
彼自身、そうした機会に発表当時のものに多少手を加える場合もある、としている。

したがって、版ごとの異同については注意が必要であろう。

本多勝一と「南京大虐殺」

『中国の日本軍』の写真説明はすべて中国側の調査・証言に基づくものです。・・・『中国の日本軍』の写真が、『アサヒグラフ』に別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では初めてです。確かに「誤用」のようです。
(「週刊新潮」2014年9月25日号より)

本多の著作(上記の『中国の日本軍』など)をめぐっては、様々な方面から賛否両論繰り広げられている。
少なくとも、中国側の通訳を通じた証言の取材のみで、果たしてどこまで真相に迫ることができたのかは疑問である。

しかしながら、南京において日本軍による行過ぎた暴力行為が多発していたことは間違いない。
そしてその情報は、昭和天皇の元にも届いていた。

例えば、NHK WEB特集「昭和天皇「拝謁記」の衝撃」(2019年9月17日18時04分)によれば、「拝謁記」の中に次のような記述があるという。

「支那事変で南京でひどい事が行ハれてるといふ事をひくい其筋でないものからウス/\(うす)聞いてはゐた」。

なお、「拝謁記」とは、初代宮内庁長官・田島道治が昭和天皇との対話を詳細に書き残したメモ書きである。

NHK WEB特集では、「拝謁記」について「昭和天皇が戦争への後悔を繰り返し語り、深い悔恨と反省の気持ちを表明したいと強く希望していたことが分かった。昭和天皇の生々しい肉声が記された超一級の資料」としている。

南京事件をめぐる最近話題の書に、清水潔著『「南京事件」を調査せよ』文春文庫(2016年)がある。

清水潔はチーフディレクターとして、NNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」(日本テレビ・2015年10月4日放送)を作成した。その時活用した資料が、『陣中日記』という格好の一次資料(旧日本軍兵士の日記帳)である。彼はその後、さらに『陣中日記』の裏取り調査を中国本土で重ねて同書にまとめた。

いずれにしても、「その時、南京で何があったのか、あるいはなかったのか」、日本は国際社会に向けてきちんと説明すべきである。

千葉大学薬学部から京都大学農林生物学科へ

本多勝一は千葉大学薬学部卒である。

私の記憶では、本多の実家が雑貨店をやっており、そこに薬局を併設するため薬学部に行けと父親に命令されたためという。(現在出典確認できず)
本多は薬剤師免許取得後、自分の希望に沿って京都大学に再入学する。
遺伝学に興味を持っており、遺伝学教室のある(京大)農林生物学科に行くためだった。

本多の著作を見れば、確かに今西錦司をはじめ、いわゆる京都学派の学者から多くを学んだようである。

ところで、本多の経歴を、私の手元にある本多勝一著『リーダーは何をしていたのか』朝日文庫(1997年7月初版)の第3刷(2000年3月25日)の奥付で確認すると、「1931年信州・伊那谷生まれ。京都大学農林生物学科から朝日新聞社入社」(以下略)となっている。

そこに、京都大学卒業と書かれていないことは確かである。
だから、彼が京大卒かどうかは私には分からない。
しかしながら、本多勝一は千葉大学薬学部を卒業した後、京都大学に再入学している。
つまり、彼が4年生大学をきちんと卒業した薬剤師であることは疑いようがない。

注)資格確認検索(厚生労働省)によれば、「薬剤師・本多勝一(昭和29年)」が登録されている。
注)「家が薬局をしていたので、親父の命令で「店を継げ」と言われていた」ため薬剤師になったという。
ITmediaビジネスONLINE「元朝日新聞の本多勝一が語る、2つの戦争と記者の覚悟(前編) (1/3)」
https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/0912/22/news013.html(2020/06/21確認)
上記、私の曖昧な記憶とは少し食い違っている。

堀江謙一と石原慎太郎、本物のヨットマンはどっち

最後に、堀江謙一は私が最も尊敬する海洋冒険家の一人である。
「冒険と日本人」には、何度もマスコミでたたかれてきた堀江を擁護する本多のインタビュー記事が幾つか載っている。

石原慎太郎(東京都知事)は、堀江謙一の単独無寄港世界一周(1974年)という偉業を完全否定した。
小型ヨットであの日数では不可能だと言い切ったのである。
どこかの島影に隠れていて頃合をみて姿を現した、というような表現をしていたはずである。
本多はこのことを捉えて石原批判をしている。
この点に関して言えば、私は本多勝一派である。

参考資料

  • 本多勝一著『冒険と日本人』実業之日本社、1978年(第二版第一刷)
  • 岡崎洋三著『本多勝一の研究』晩聲社、1990年(初版第一刷)
  • 岡崎洋三著『本多勝一の探検と冒険』山と渓谷社、2000年(初版第一刷)
  • 殿岡昭郎著『体験的本多勝一論』日新報道、2003年(初版第一刷)
  • 週刊プレイボーイ、1975年11月25日号、堀江の世界一周記録はインチキ?
  • 北村稔著『「南京事件」の探究』文春新書、2001年
  • 清水潔著『「南京事件」を調査せよ』文春文庫、2017年(アマゾンKindle版)

2003/03/09(日)初出

シベリア抑留(シベリア捕虜収容所)

シベリア抑留とは

(2009/07/24改訂)

シベリア抑留とは、第二次世界大戦直後の旧ソ連(スターリン大統領時代)において、関東軍兵士を主とする多数の日本人を、敗戦後の日本に復員させることなくシベリアなど各地に抑留して、強制労働を強いた事実をいう。

厚生労働省の推定では、抑留者数約56万人に対して死亡者約5万3千人とされている。極寒の地シベリアなどで、飢えに苦しみながら森林伐採や鉄道建設などの重労働で酷使されたため、死亡率は約1割にもなっている。

なお、抑留者の大半は旧日本軍の軍人(主として関東軍、その他北朝鮮、樺太、千島にあった陸海軍部隊)であるが、一部民間人も含まれるとされている。

ゴルバチョフ・ソ連大統領(当時)初めて「哀悼」の意を表明
エリツィン・ロシア大統領(当時)訪日時に明確に「謝罪」
プーチン・ロシア前大統領、発言を避けている

シベリア抑留、最大76万人

(中国新聞記事、2009/07/24付け)

ロシア国立軍事公文書館(モスクワ)で、シベリア抑留に関する新資料(最大で76万人分)が発見された。「全抑留者を網羅する規模の資料発見は初めてで、抑留者や死者の総数確定など戦後最大の悲劇ともされる抑留の全体像究明に大きく寄与するとみられる」。

日本政府がいう抑留死者数約5万3千人とは、帰還者や家族の聞き取りをもとに推定したものである。しかしながら、日ソ間の政府間協定(1991年)にもとづいてロシア側から提供された計4万1千人の死者名簿のうち、「収容所や死亡地が確定したのは約3万2千人にすぎない」。

白井久也・日露歴史研究センター代表の話「怠慢目立つ政府」
白井氏の話として、「シベリア抑留でこれだけ大量の人数の資料が同時に、しかも一カ所で確認されたのは初めて」であり、「抑留者総数を日本政府は約56万人と推定しているが、これはロシアの各種資料に照らしても少なすぎる。十分な調査をしてきたとはいえない。戦後処理では、ドイツなどに比べ日本政府の怠慢が目立つ」というコメントを載せている。

注:以上、「」内はすべて引用部分

「未払い賃金」問題

最近、こうしたシベリア抑留者の「未払い賃金」問題がクローズアップされてきている。当時のソ連政府はシベリア抑留者に対して労働証明書を発行せず、したがって、日本政府も賃金を支払わないまま推移し今日に至っている。(2003年5月現在の文章)

ラジオ番組 “尋ね人”

昔、ラジオで “尋ね人” という番組があった。NHKの番組で、1946年(昭和21年)7月1日に始まり、1962年(昭和37年)3月31日まで続いたという。

「尋ね人の時間です。昭和何年ごろ、満洲のハルピンにお住まいになっていた〇〇さん、何市の何某さんがお尋ねです」といったような内容だった。

主に外地(特に満州)で生き別れになった肉親、友人・知人を探すメッセージが多かったように思う。確かに”満州”という言葉を使っていたはずである。

私の頭の中には、淡々と原稿を読みあげるアナウンサーの一種独特の言いまわしが、今でも鮮明に残っている。番組の始めに流れていた音楽も合わせて覚えているという人も多い。

若槻泰雄著「シベリア捕虜収容所」明石書店(1999年)

以下、数値なども含めて主に本書による
(文章は、ほぼ当Web初出時2003年のまま)

ソ連対日参戦

1945年(昭和20年)8月9日ソ連対日参戦、ザバイカル方面軍が国境を突破して内蒙古になだれ込んできた。戦争終結のわずか6日前のことである。満州(以下、歴史的地名として使用する)は大混乱に陥った。

満州でソ連軍と対峙していたのは関東軍である。ソ連軍侵攻当時の兵力は約66万4千とされるが、かつての精鋭(昭和16、7年ごろの総兵力80万)はほとんど全部太平洋戦のため南方に投じられていた。

その穴埋めとして、支那派遣軍、あるいは現地応召兵(在満35万の日本人男子のうち15万人を”根こそぎ動員”)を当てていたが、編成も装備もきわめて貧弱で、きちんとした訓練はほとんどできていなかった。

敗戦後ソ連軍の管理下に入ったのは、これらの部隊に加えて、北朝鮮、樺太、千島にあった陸海軍部隊である。ただし、現地応召兵に対する独断での召集解除が行われたり逃亡するものも少なくなかった。ソ連軍は、それらの員数合わせに、「軍人狩り」「男狩り」を行って手当たり次第に日本人を無理やり連行した。

シベリア抑留

こうして集められた日本人男子のほとんどがソ連領に連れて行かれた。その主な目的は、ドイツとの戦いで荒廃した戦後経済再建のために格安な労働力として使うことにあったことはまちがいない。なお、このソ連抑留については、ソ連の北海道侵攻をマッカーサーに阻止されたことに対するスターリンの思い付きによる腹いせとの説もある。

さて、ソ連に抑留された日本人の数は約60万人と推定されており、その大部分の人が何年にもわたる強制労働を強いられたのである。

ソ連軍は日本兵を約1千人を単位とする”作業大隊”(569個)に編成し直した。その際に従来の部隊に関係なく、各種の部隊を混在(数個~十数個)させた。適当に団結力のない管理しやすい集団を作ろうとしたのであろうか。

作業大隊の指揮には、下級将校(大佐、中佐クラス)それも最小限の人数のみを残し、他の大部分の将校は、下士官、兵(作業大隊)と分離して”将校大隊”に編入された。こうして旧日本軍の組織は完全に破壊された。

日本兵は、シベリア(47万2千人)を始め外蒙古、中央アジア、ヨーロッパ・ロシアなどの捕虜収容所等に分散収容された。そして、大部分の日本兵(将校大隊を除く)は、それぞれの地域にある一般強制労働収容所(ラーゲリ)で強制労働をさせられることになったのである。

飢えと寒さと重労働

“音さえ凍る”といわれる極寒の地シベリアの自然環境は厳しい。その中で、捕虜たちはおもに屋外での重労働に従事した。過酷な”ノルマ”(達成目標)に対して与えられる食料はとぼしかった。

飢餓との戦い、ほとんど「働く動物」となりながら、望郷の念”ダモイ”(帰国)を夢見て、今年こそは今年こそはとがんばった。いつ帰れるのか果たしてほんとうに帰ることができるのか、期間の定めのない捕虜生活の中で、死の足音が近づいてくるのを聞きながら戦ったのである。

日本政府は当初、行方不明になった関東軍の消息についてまったく把握していなかった。幾人かの脱出者がもたらす断片的な情報によって、ソ連連行の事実をおぼろげにつかんでいたにすぎない。

敗戦翌年の昭和21年2月28日奉天発外電など、あるいは5月31日在モスクワ佐藤大使一行が帰国することによって、ようやくその状況がはっきりしてきた。そして6月11日、日本政府は連合軍総司令部宛、正式にその救援を訴えた。この時すでに敗戦から約十か月も経過していた。

引揚げ始まる(舞鶴港)

様々な交渉の結果、やっと引揚げが始まった。(ナホトカ港から舞鶴港へ)
第一陣、昭和21年12月8日2隻、合わせて5000人ちょうど。
(同年の引揚者はこれだけ)
昭和22年、引揚者数17万5千人(累計18万人)
昭和23年、引揚者数16万6千人(累計34万6千人)
昭和25年4月、短期抑留者の引揚終了、引揚者総数52万7940人

なお、ソ連当局は日本人捕虜に関する情報(氏名、生死の別など)を日本側にまったく提供していなかった。したがって、”未帰還者の消息”については引揚者からの聴き取り調査だけが頼りとなった。ところが、ソ連当局はナホトカで引揚者が持っていた”字を書いたものすべて”を没収してしまった。これらの行為は、捕虜の待遇について定めた「陸戦の法規慣例に関する条約(ハーグ条約)1907年」に明らかに違反している。

参考までに、満州からの一般人の引揚げは、1948年(昭和23)8月一応終了したとされている。しかし、現地日本人妻、中国残留孤児の発生などその犠牲の大きさは計り知れないものがある。加えて、永久に生きて帰ることのできなかった多数の人々がいる。

民主運動とは

さて、昭和22年になると収容所内で「民主運動」というものが台頭してきた。民主運動は当初、旧軍隊組織に対する反発から始まり、次第に反動闘争(共産主義ソ連一辺倒)という大きなうねりとなっていった。

民主運動を主導したのはソ連政治部将校で、その手段として「日本新聞」が大きな役割を果たした。日本新聞とは、ハバロフスクで発行されていた日本語新聞で、”ソ連軍が日本人捕虜に与える新聞”(第一面に記載)という性格をもっていた。

日本新聞は敗戦翌月にはすでに創刊され、昭和20年9月15日付け創刊号から24年11月7日付け640号まで続いた。発行部数は10万部程度で週平均約3回位のペースで発行され、捕虜4~5人に一部くらいの割合で配布された。編集長以下日本人の従業員も70名(ソ連人63名)おり、そのトップはシベリア民主運動における日本人の最高指導者層そのものであった。

収容所内で日本人指導者の地位に就いたのは、いくつかの権力闘争の末(昭和23年春頃)、最終的には多くの場合、日本での教育年数の少ない25歳以下の下級兵士であった。彼らは作業大隊の指揮権を下級将校から奪い取ることによって思いもかけない”権力の座”についた。そして”アクチーブ”(積極分子)としての特権をほしいままにしたのである。

特権の第一は、なんといっても過酷な労働から解放されることである。さらに炊事場を監督下におくことによって食物の心配をする必要がなくなる。こうなればシベリアの極寒もあまり気にはならないだろう。

しかしその彼らを任命するのはソ連当局である。意に沿わない行為をすればたちまちにしてその立場を追われることになる。アクチーブになるために、そしてなってからも積極的な”学習”と”活動”が求められた。

民主運動の目的

ソ連当局にとって民主運動のねらいは

1)日本人捕虜に共産主義の考え方を叩き込むこと
2)前職者の告発
3)捕虜を労働にかりたてること、にあったと思われる。

ここで前職者とは、参謀、特に情報参謀、特務機関、憲兵隊、警察などの職を一度でも経験した者のことをいうそうである。”反動”すなわち軍国主義、ファシズム思想をもつ者という意味であろうか。

さて、アクチーブの活動はこれらソ連当局の意向にそったものとなるのは当然である。収容所内での民主運動学集会を開催して講師を務める。その成果によって、より上位の学校で学ぶ機会を得る、などといった実践が続いた。

アクチーブが中心になって反動を批判攻撃するために、しばしば激しい”吊し上げ”が全員参加で行われた。ここで反動とは、前職者、軍国主義者に限らず、共産主義ソ連の反対者全般と言うことになるが、反動がほとんどいなくなった後では、アクチーブ自身の地位安泰のために、ささいな言いがかりをつけて反動を無理やり作り出すといった状況が見られた。

反動は永久に帰国させない、というおどしをかけられ、事実帰国を遅らされる者が相次いだ。こうして多くの者は、次々と自己批判をして”ダモイ(帰国)用民主主義者”となっていった。

反動から民主主義者へ転向した証しを示すには積極的な活動をする必要があった。まだ残る反動を吊し上げて罵詈雑言を浴びせること、あるいは前職者の密告、そしてでっち上げまで行われた。

長期抑留者

多くの抑留者(短期抑留者)が帰国した後には、こうした”前職者”が”受刑者”として取り残された。彼らはソ連国内法で裁かれ、20年、30年という異常に長い刑期を言い渡された。そして、日本人同士の受刑者は互いに切り離されて、ソ連人やその他外国人受刑者の中に、多くの場合たった一人で放り出された。しかも捕虜という身分を失ない、ただ単なる外国人犯罪者として日本国内での関心の対象からもはずされていったのだった。

しかし、彼らは決して戦犯ではない。戦前の日本国でそれぞれの職務を全うしていたにすぎない。戦争終結直前の数日間、敵の圧倒的武力におしまくられた彼らに、敵国に対して戦犯行為を働く余裕などまったくなかった。そのことはソ連当局も認めていることである。

様々な交渉の末、なんとかシベリア長期抑留者の引揚げが一応完了したのは1956年(昭和31)12月26日である。その総数2689人、帰国船が入港するたびに、そこには今日も待ちつづける”岸壁の母”がいた。

シベリアの悲劇

シベリア抑留の本当の意義は、極限におかれた日本人のモデルを示したことにある、といえるだろう。大多数の日本兵(将校も含めて)は、ソ連当局の過酷な要求を前に団結して戦うことは決してなかった。逆に洗脳されて民主化運動という熱病に侵されてしまった。ヨーロッパ諸国(ドイツ、イタリアなど)の捕虜にはみられない行動パターンである。

将校の中で彼らの部下である兵士の待遇改善に尽くしたものはほとんどいない。それは、作業大隊から切り離された上級将校および作業大隊を直接指揮する立場にあった下級将校ともに同じである。

将校たちは、民主化運動の高まりの中でなすすべもなく権力の座を下級兵士に明渡してしまった。そして一部兵士の中では、自分の欲得のみを考え、帰国のためには友を売り渡すような裏切り、背信行為が行われた。

ソ連抑留者総数60万人から短長期抑留帰国者数を差し引くと、死亡・行方不明者約6万9千人(全体の1割強)となる。対ソ戦の戦死者は2万7千名と推定されており、戦闘が終了した後に、戦時に倍する以上の人がむなしく死んでいった計算になる。また、無事帰国できた人々も肉体的・精神的に大なり小なりのダメージを受けていた。

なお、短期抑留者の帰国直後の時期に、民間人約3000人が樺太に抑留(主として経済犯として)されていたという。関東軍を中心とする将兵だけでなく抑留の対象となった一般民間人がいたのである。

補足
数値については下記「シベリア捕虜収容所」を参考とした。死亡者・行方不明者の数については資料(新旧や立場の違い等)によって大きな異同があるようだが、それらをすべて付き合わせて検討するだけの余裕は残念ながら持ち合わせていない。

参考文献

若槻泰雄著「シベリア捕虜収容所」明石書店(1999年)
(本書は、1979年サイマル出版会から刊行されたものの再版である)
保阪正康著「昭和陸軍の研究、上・下」朝日新聞社(1999年)

岸壁の母:
作詞 藤田まさと、作曲 平川浪竜(ひらかわ・なみりゅう)
1954年(昭和29年)テイチクレコード
歌 菊池章子(きくち・あきこ<本名・郁子=いくこ>)
1972年(昭和47年)キングレコード
歌 二葉百合子(リバイバル曲・せりふ入り)

キーワード:
シベリア抑留
シベリア捕虜収容所
舞鶴引揚記念館

2009/07/24補筆修正
2003/05/06完了
2003/01/11民主運動、追加
2003/01/04初出

灯ろう流し(原爆慰霊行事)

灯ろう流し(とうろう流し)とは

広島市内の川で、毎年8月6日から3日間行われる「灯ろう流し(とうろう流し)」は、原爆慰霊行事としてすっかり定着している。灯ろう(とうろう)には、亡くなった方の名前 (法名または俗名)と、流した人の名前(施主名)を書き込むのが通例である。

最近の灯ろう (とうろう)は、国内外の旅行者や慰霊に来られた方々が、具体的な慰霊者名ではなく、一般的な「平和への思い」を書いて流すケースも目立つようである。遺族・関係者による「慰霊」に対して、「ピース・メッセージ」といった方がよいのかもしれない。

実際に身内を原爆で亡くした人々と、平和を祈念して外部から行事に参加する人々とでは、埋め難い意識の差があるのは事実かもしれない。しかし、共に手を携えて恒久平和を願い続けたいものである。

2002年8月6日(平成14)夜7時半ごろ、いつもより少し早く帰宅の途についた。いつものように相生橋に差し掛かるとかなりの人出である。屋台まで出ているようである。今日は57回目の原爆の日、川では灯ろう流し (とうろう流し、午後6時~午後9時)の真っ最中だろう。

灯ろう(とうろう)の作り方

灯ろう(とうろう)の作り方そのものは非常に簡単である。まず、浮き台となる20cm前後の木片を用意して十字型に組む。次に、木片の四隅の先端に竹を立て、それを色紙で囲う。そして、底板(十字型)の中央に立てたロウソクに火を灯す。そうすると、色紙に書いたそれぞれの “思い” が浮かび上がる仕組みである。

1945年8月6日午前8時15分

世界初の原子爆弾が広島に投下されたのは、1945年8月6日(昭和20)午前8時15分である。爆心地は相生橋(爆撃の目標となったT字型の橋)付近であった。辺り一面は灼熱の地獄と化し一瞬にして多くの人々が死んでいった。かろうじて生き残った被災者の多くが水を求めて川へ身を投げ出し、そして、そこで命を落とした。数多くの遺体が川に浮かび伝馬船が通るのも困難であったという。

広島の灯ろう流しは戦後始まった

70年間草木も生えないと言われた広島市内中心部に、昭和23~24年ごろにはバラック建ての商店街が建ち始めている。そしてその頃、遺族をはじめ関係者が、原爆で亡くなった人たちの供養のため手作りの灯ろう (とうろう)を川に流し始めた。

広島の「灯ろう流し(とうろう流し)」はこうして戦後始まったものである。すなわち、全国各地でお盆の終わりの日(送り盆)に行われる精霊流しとは起源を異にするものらしい。ただし、基本的な土壌としては、広島地方の「安芸門徒」特有の「盆灯ろう」(ちょっと派手ですね)があると思われる。

なお、最近では、元安川で行なわれている「とうろう流し」は、主催:とうろう流し実行委員会(広島祭委員会、広島市中央部商店街振興組合連合会)によってボランティアで運営されており、申込み「代金」は、とうろう購入費、設営費、流灯船代、警備費、清掃費として使われているという。流した灯ろうの回収など環境問題を考えると組織だったものにしないと統制が取れないということのようである。

ちなみに、灯ろうの数は最盛期(昭和35~36年ごろ)には市内6つの川で8月6日から3日間で約2~3万個、現在でも、約1万個の灯ろうが6つの川の十数ヶ所から流されているそうである。

参考資料

8月6日とうろう流し(とうろう流し実行委員会)
インターネット灯ろう流し(NPO法人・シニアネットひろしまなど)
8月6日の夜「灯ろう流し」(圓龍寺・広島市中区寺町)
キーワード:灯ろう流し(とうろう流し)、広島

なお、圓龍寺さんからは、プライベートメッセージをいただいています。

2002/08/09最新
細部にわたって加筆修正
2002/08/06
ファイル紛失のため書き直し
2000/07/22初出