稲のきた道

稲はどこから来たのか

春、田植えによって水田に整然と植えられたイネの苗は、夏になって青々と育ち、やがて収穫を前にして黄金色の稲穂を垂れる。平地では見渡す限りの水田が広がり、山間部では天まで届きそうな棚田が折り重なる。これぞ現代日本人が稲作に対して持つイメージの典型であろう。

しかしながら、こうした見渡す限りの水田風景が日本中に広がるのは、おおざっぱに言えば江戸時代に入ってからということになるかもしれない、という。水田を維持管理するということは大事業であり、灌漑用の水路やため池そして肥料などの条件が整ってくるのは近世以降と考えられるからである。

ところで、日本列島には少なくとも今のイネに直接つながるような野生のイネは存在しなかったとされている。イネはやはり南方の植物である。ならばイネは、いつ、誰が、どこからどのようにして日本に運んできたのであろうか。“稲はどこから来たのか”、興味の尽きないテーマである。

世界の栽培イネ(サティバとグラベリマ)

世界で現在栽培されているイネには二つの種類がある。オリザ・サティバ(Oryza sativa)とオリザ・グラベリマ(Oryza glaberrima)である。ただし、グラベリマはアフリカ西海岸付近だけで栽培されているものであり、全世界で広く栽培されているイネはサティバ一種のみである。

サティバの品種(インディカとジャポニカ)

サティバはさらに、インディカとジャポニカという二つの品種のグループに大別される(加藤茂苞しげとも博士・九州大学、1928年)。

寺地徹(現・京都産業大学)の葉緑体DNAを使った研究(1988年、当時京都大学学生)によれば、栽培イネはもちろんのこと、野生イネにもインディカ型母系とジャポニカ型母系が存在するという。pSINE(動き回る遺伝子の一種)の研究(大坪栄一・久子夫妻など)によれば、インディカの系統とジャポニカの系統ははっきり分かれて分布している。

すなわち、インディカとジャポニカとは祖先を異にするグループであり、栽培イネには二つの祖先があったと考えることができる(二元説有利)。なお、インディカとジャポニカを区別する方法として、フェノール反応(Ph)、プラス(インディカ)、マイナス(ジャポニカ)なども用いられる。

ジャポニカを細分類する(熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカ)

ジャポニカはさらに、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカに細分化される(岡彦一博士、国立遺伝学研究所)。岡博士は多くのイネ品種を観察するうちに二つの区別を直感的に感じ取ったもののようである。

中村郁郎(1997年、千葉大学)によれば、葉緑体DNA(PS-ID部分)分析によって、インディカとジャポニカの判別はすぐにできる。また、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの区別も場合によっては完璧にできる。このようなPS-IDのタイプなどを組み合わせて葉緑体DNAからみたイネの系統樹を作ることができる。

さらに、核DNAを電気泳動にかけてできるバンドによって、熱帯・温帯の両ジャポニカの区別がかなりの確率(80~90%)でできるとされている(佐藤洋一郎)。ただし、二つのジャポニカの間には自然交配によってどちらともつかない品種もできており、この方法によってそれ以上精度を上げることは難しいようである。

稲作は縄文時代に始まった

風張(かざはり)遺跡(青森県八戸市)から米粒が7つ発見され(1989年?)、年代測定の結果は毎日新聞(1992年8月30日朝刊)などで報道された。「青森で日本最古のコメ、3000年前の遺跡から、伝播定説より500年早く」。こうして日本列島における縄文稲作の存在が現実のものとなった。

最近の研究によって、 日本でのイネの栽培は縄文時代から始まったことが確実視されている。その本格的な栽培開始時期については、西日本では6000年前 (縄文時代前期から中期頃)、東日本ではそれよりかなり遅れて3000年前(縄文時代後期頃)とされており、東西で大きな開きがある。

縄文稲作はどこから来たか(新・海上の道)

縄文のイネ(陸稲)は<熱帯ジャポニカ>である。 熱帯ジャポニカは、縄文時代のいつの日にか南西諸島を経由して、すなわち「海上の道」(柳田國男)を通って日本列島にやってきたと考えられる。

その根拠は、在来品種の研究によると、熱帯ジャポニカの形質や熱帯ジャポニカに固有と思われる幾つかの遺伝子が南西諸島のものに多いからである。ただし渡来元については、台湾・フィリピン、インドシナ半島、あるいは長江下流域など、今は特定するに至らない。

なお、ここで在来品種とは、国などの機関による品種改良が始まる前に各地にあった古い品種で、それぞれの土地の風土によく適応していると考えられている。日本でいえば 、江戸時代末から明治にかけての時代のものである。

南西諸島の稲作(オーストロネシア型農耕)

日本列島に至る南からの道を考えるとき、一番南に位置する南西諸島の役割は非常に重要となる。

南西諸島は、自然や歴史あるいは民俗文化的要素から、三つの地域に分けて考えると分かりやすい。すなわち、北部圏(種子島・屋久島及びトカラ列島など)、中部圏(奄美諸島・沖縄諸島など)、そして南部圏(宮古諸島・八重山諸島など) の三つである。そして、これら文化圏の諸特質の違いを詳細に研究することによって、文化の流れを復元する試みが続けられている。

ところで、沖縄の伝統的農耕では畑作農耕の方が水田稲作農耕よりも比重が高かったと考えられる。その畑作農耕の主作物はアワであり、ムギや豆類とともにサトイモ、ヤマノイモなどのイモ類も重要な役割を荷っていた。その起源は、南島系の根栽農耕文化に求めることができる。すなわち、根栽=雑穀型の文化である。

南西諸島で行われてきた水田稲作の特徴は、「踏耕」(蹄耕)と冬作にある。ブル型のイネ(熱帯ジャポニカ)を主作物とするこのような農耕は、オーストロネシア農耕と呼ばれ、これまた東南アジアの島嶼部を中心とする南方的な要素を持ったものである。

踏耕とは、大型家畜(水牛・牛または馬)を数頭から十数頭ほど苗代あるいは本田に追い込んで水を張った田面を踏み付けさせ、水田の耕耘、除草、床締め(漏水を防ぐ)などを行う作業のことをいう。

冬作とは、例えばイネを秋冬に播種して、春夏に刈り取る栽培形態をいい、冬でも一定以上の気温と降水量が見込まれる冬雨型地域で可能となる。ここで夏場の栽培を避けるのは、夏の降水量が台風など不安定な要素に左右されるなどの理由が考えられる。

踏耕(オーストロネシア型農耕)の分布範囲は、東南アジア島嶼部(スラウェシ、ボルネオそしてスマトラなどのインドネシアの島々からマレー半島沿岸)を中心として、西はスリランカ、マダガスカル、東は小スンダ列島、東北はフィリピン・台湾から南西諸島にかけて広がっており、冬雨型の気候地域とよく一致している。

なお、八重山諸島の在来イネの中には、ブルとよく似た特性を示すにもかかわらず、フェノール反応がプラスを示すものが存在している。そして、その分布範囲は、台湾山地、海南島、ハルマヘラ島、スラウェシ島、そして小スンダ列島の島々など、東南アジアの熱帯島嶼部から日本本土の陸稲の中にも認められるという(渡部忠世)。

これらはより古い時代の栽培種であり、特徴として、水田でも畑地でも栽培しうる「水陸未分化」型の「陸稲」としての性質を持っていることがあげられる。

縄文稲作は焼畑農耕?

縄文稲作は焼畑によっていた可能性が高く、農耕遺跡は発見されにくいだろうと考えられる。インドシナでの焼畑の研究結果によると、焼畑は3年くらい使用すると放置される。また、焼畑を営む人々は農具というものをほとんど使わないという。

農具が乏しく、永続的に耕地として利用していない土地を発掘しても、農耕の跡を発見することは難しい。まして、縄文“水田”といったような“稲作”の遺構が見つかる可能性はまずあり得ない。

焼畑では、森を伐採して火入れを行い畑を開く。木や草を焼いてできた灰は肥料となり雑草の種子も死滅している。こうして焼畑1年目の生産性は驚くほど高くなる。インドシナの焼畑では日本での平均の5割もの収穫(玄米に直して)があるという。逆に、肥料や農薬を含め投下されるエネルギーははるかに小さい。それだけ効率がよいということになる。

畑を開いて2年目、3年目になると、雑草が生い茂り栄養分も不足してくる。病原菌や害虫も戻ってきて収量は目にみえて減少していく。魅力の乏しくなった土地は休耕にして一旦山の神様に返す。輪廻の思想である。

イネの痕跡を調べる

プラントオパール分析とは

イネ科の植物は土中の珪酸を吸収して葉の葉脈に平行して存在する機動細胞に蓄積する。プラントオパールとは、そうした珪酸体(ガラス成分)が地中から掘り出されたものをいい、植物の種類ごとに特徴的な構造をしている。

したがって、イネ・プラントオパールが発見されれば、そこにはイネが存在した可能性が非常に高いということになる。ただし、プラントオパールは非常に小さい(50ミクロン以下)ため、なんらかの原因によって汚染される可能性が否定できないため注意が必要である。

縄文時代の遺跡におけるイネ・プラントオパールの検出例は30例に及び(外山秀一さん、皇學館大学)、主に西日本の各地に広く分布している。縄文時代の前期以降、西日本の各地で稲作が行われていたことを示す証拠である。

1999年4月19日、日本最古(6400年前)のイネ細胞化石が発見された。朝寝鼻貝塚(あさねばな、岡山市内)でイネ・プラントオパールが発見されたのである(岡山理科大学・小林博昭さん、ノートルダム清心女子大学・高橋護さん)。

南溝手遺跡(みなみみぞて、岡山県総社市)では、縄文土器(縄文時代後期)のかけらの中からプラントオパールを検出することに成功した(宮崎大学・藤原宏志さん)。汚染されてまぎれこんだプラントオパールではないということを証明するにはここまでしなければいけない。まさに執念そのものである。

吉備地方を中心に縄文稲作の痕跡が数多く見つかっている。この地方での研究が進んでいるということもあろうが、いずれにしても遺跡の立地は山間部というよりは平野部にあるようだ。こうした傾向は全国的にいえることでもある。

日本列島に隣接した地域(長江中流域の江南山地や台湾山地など)では、陸稲が焼畑の主作物から欠落している例が多い。 同様の傾向は、西日本各地の山地における焼畑(昭和35年頃まで存在)でも見られたという。

古いタイプの焼畑農耕には陸稲を含んでいなかった可能性がある。ならば陸稲が日本列島に入ってきた時期はいつか。そしてそれはどのような場所で栽培されたのか。例えば、河川敷や湖畔のような土地を火入れによって開墾していたのであろうか。プラントオパール分析を含めて今後の研究成果が楽しみである。

花粉分析とは

花粉はプラントオパールと違って多くの植物種に存在しており、スポロポレニンという非常に丈夫な成分を含む外膜に覆われている。このため、湿原や湖底堆積物中に数万年、時には数百万年以上にもわたって化石として残ることができる。

花粉分析とは、このような化石花粉の組成変化を経時的に調べることによって、過去から現在に至る植生の変遷と気候の変化、あるいは人類による植生の撹乱などの手掛かりを得ることをいう。

花粉分析の結果からみると、縄文時代に広範囲にわたって長期間イネだけに占拠され続けた場所は認められないという。

弥生稲作はどこから来たか

弥生のイネ(水稲)は<温帯ジャポニカ>である。そして最近、“稲作の長江起源説”が唱えられている。考古学や育種・遺伝学の成果を踏まえてのことである。ここで稲作の起源が長江にあるかどうかは別として、日本列島や朝鮮半島に伝わった水田稲作の原型が、長江流域において形成されたことはほぼ間違いない。

DNA上のSSR領域多型について、日本列島、朝鮮半島そして中国大陸の温帯ジャポニカ在来品種250種を検討した結果、例えば、RM1というSSR領域に存在する8つのタイプ(a~h)について、中国大陸にはa~hの全てが存在することが分かった。朝鮮半島には、7つのタイプ(bを除く)が存在している。そして日本列島の在来品種の多くはaとb( その他若干のcタイプ)であった。

日本列島に最初にもたらされた固体数があまり多くなかったため、7つ8つある多型のうち一つまたは二つの型しかもたらされなかったと考えてよいだろう。(びん首効果-ボトルネック効果)

朝鮮半島に存在しないbタイプは、朝鮮半島を経由せず中国大陸から直接日本列島にもたらされたと考えられる。もう一つのaタイプは、朝鮮半島では半数以上を占めているが、中国大陸ではその割合があまり高くないので、朝鮮半島経由でもたらされた可能性が高い。

従来からこの二つの経路をめぐって、考古学者や農学者が入り乱れて学説の対立が続いていたが、二つの経路とも可能性があるということになる。特に朝鮮半島南部においては、弥生文化の原型とされる要素(石器や青銅器あるいは貯蔵穴など)をすべて有する酷似した遺跡が発見されており、その直接的つながりは深いと考えられる。

弥生時代とは水田稲作だけの時代か

畦や水路を伴った水田稲作は縄文晩期後半に北九州で始まった。しかし、現代の日本人がイメージするような水田を維持することは、実は並大抵のことではない。

水稲の栽培には水の管理が必須である。十分な水を確保するために、灌漑用の水路やため池などを必要とする。これらは個々の耕作者が個別に対応できるような問題ではない。大掛かりな土木工事を含む管理体制が前提となる。

また、イネだけが生存する生態系を長期に持続させるためには、常に雑草を取り払い肥料をやり続けなければいけない。そうしないと収穫を上げ続けることはできないのだ。

縄文の要素はなかなか消えなかった

水田と共にやってきた弥生のイネ(水稲)が、熱帯ジャポニカという縄文以来のイネを完全に排除するまでには長い年月がかかっている。少なくとも弥生時代は、熱帯・温帯ジャポニカ並存の時代であった。

弥生時代の全期間を通して熱帯ジャポニカが全体の約4割も占め続けていた。その割合には、弥生時代の始まりと終りの時期で差はない。また、列島の各地域による差もないのである。(2001年春現在、調べた種子の数120個中、熱帯ジャポニカ50個)

花粉分析の結果から、河内平野全体が水田という環境(弥生時代全般)には無かったと考えられる(池島・福万寺遺跡、大阪府)。雑草種子の量を調べることによって、古墳時代の大規模水田で稲作に使用された部分と耕作が放棄された部分が交錯している可能性が示唆されている(曲金北遺跡・まがりかねきた、静岡市)

曲金北遺跡(古墳時代)の広さ約5ヘクタール。3~4畳半程の小区画が連続した形状をしている。そのうち100の小区画を調べたところ、水田はたった22区画で休耕田が多く含まれていたことが判明した。また栽培稲は、水稲2割、陸稲4割であった。せっかくの水田で焼畑と変わらない雑駁農耕を行っていたことになる。これは全国の弥生遺跡に共通する特徴である。

日本に見渡す限りの水田が登場する時期はいつ?

縄文・弥生の稲作は肥料や農薬を使わない自然農法である。焼畑稲作では種まき後ほとんど人手をかけることはないだろうが、水田稲作では草取りは必須の作業であり過酷な農作業となる。焼畑稲作でそこそこの収穫があるならば、あえて水田稲作で苦労する必要はないかもしれない。費用対効果の問題である。

水田を維持管理するということは大事業であり、灌漑用の水路やため池そして肥料などの条件が整ってくるのは近世以降と考えられる。見渡す限りの水田風景が日本中に広がるのは、おおざっぱに言えば江戸時代に入ってからということになるだろうか 。

(付録)弥生時代の始まりは500年さかのぼる可能性がある?

放射性炭素(C14)年代測定法を用いた最近の研究成果によって、弥生時代の始まりが500年もさかのぼる可能性がでてきた。2003年5月に国立民俗歴史博物館から発表されたもので、各方面で大反響を巻き起こしている。

参考資料

・海上の道、柳田國男著、筑摩書房1962年など
・栽培植物と農耕の起源、中尾佐助著、岩波新書1966年
・稲作以前、佐々木高明著、NHKブックス1971年
・稲の道、渡部 忠世著、NHKブックス1977年
・環境考古学事始、安田 喜憲著、NHKブックス1980年
・日本文化の基層を探る-ナラ林文化と照葉樹林文化-
佐々木高明著、NHKブックス1993年
・稲の日本史、佐藤洋一郎著、角川選書2002年
・イネの文明、佐藤洋一郎著、PHP新書2003年
・国立民俗歴史博物館HP
・南からの日本文化(上)-新・海上の道-
佐々木高明著、NHKブックス2003年

放射性炭素(C14)年代測定法

放射性炭素を使って年代を測定する
2003/07/27、初出

自然界の炭素原子には、3種類が存在する

自然界の炭素原子(元素記号C、原子番号6)には、同位体が存在する。すなわち、炭素12(陽子6個、中性子6個)、炭素13(陽子6、中性子7)、そして炭素14(陽子6、中性子8)の3種類である。

ここで同位体(Isotope、アイソトープ)とは、同じ原子番号を持つ元素の原子(つまり同じ数の陽子あるいは電子を持つ原子)でありながら、原子核の中性子数が異なるもの(すなわち質量数が異なるもの)をいう。

なお同位体同士は、互いの化学的性質は非常に似通っている。
(質量数=陽子+中性子)

炭素14(C14):元素記号C、原子番号6、陽子6個、中性子8個
窒素14(N14):元素記号N、原子番号7、陽子・中性子とも7個づつ

放射性炭素(C14)年代測定法とは

放射性炭素(C14)年代測定法とは、自然界に極微量含まれる放射性同位体の炭素14が、β(ベータ)線とよばれる放射線を出しながら、一定の割合で減少(半減期5730年)していく性質を利用して、生物が死滅してからの経過時間(すなわち死滅した年代)を測定しようとするものである。

自然界の炭素原子には、安定同位体の炭素12(構成比99%)と炭素13(構成比1%)、および放射性同位体の炭素14(極微量)の3種類の同位体が存在している。

炭素14は炭素12や炭素13と比べて非常に不安定であり、大気圏上層で宇宙線の作用によって窒素14(N14)から生成される一方で、放射性崩壊(壊変)によってベータ線とよばれる放射線を出しながら、再び窒素14に戻っていく。

このように、大気中での炭素14の生成量と減少量はほぼバランスが取れているので、自然界における炭素14の量(炭素12に対する炭素14の割合)は、二酸化炭素(CO2)の形で長期間にわたってほぼ一定とみなされている。そして、このCO2内の炭素14は、植物による光合成、あるいは食物連鎖によって動植物の体内にも取り込まれてゆく。

これら生物(厳密には細胞ごと)が死滅すると、生体内(細胞内)に含まれていた炭素14の量は約5730年ごとに半減してゆき、死滅後に補充されることはない。つまり、生物の死後は、時間の経過とともに一定量の炭素14が減少してゆく。放射性炭素(C14)年代測定法は、この減少割合を尺度として年代測定をしようという方法である。

近年、測定精度が飛躍的に向上している

放射性炭素年代測定法の測定精度は、近年飛躍的に向上しており、その理由として以下のような点があげられる。

1)分析器そのものの改良
2)年代によって異なる大気中C14濃度のバラツキ補正表の整備
3)世界に百近くある測定機関の精度評価試験実施、など

分析器そのものの改良

放射性炭素年代測定法は、最近ではAMS法(加速器質量分析法:Accelerator Mass Spectrometry)が主流となっている。AMS法は、炭素原子をイオン化して加速し、極微量(炭素原子1兆個に1個の割合)含まれる炭素14原子を、一つ一つ直接数えることによって濃度を測定する方法である。

AMS法では、必要とされる炭素試料は1ミリグラム以下でよく、精度(誤差)は0.3-0.5%と非常に高く、測定結果が出るまで30分から1時間ですむ。また、測定限界は6万年までと長くなっている。

AMS法と従来法(ベータ線計測法)を比べると、ここ10年ほどで誤差は約1/3になっている。例えば、一万年前のサンプルで誤差20~40年程度まで向上しているという。

これに対して、従来法(ベータ線計測法)は、炭素14が壊変するときに放射されるベータ線を検知する方法である。試料はグラム単位で必要とされ、しかも1グラムの試料があっても炭素14は4~5秒に1個位しか壊れないので、計測には時間がかかる。なお、測定限界は3~4万年である。

年代によって異なる大気中C14濃度のバラツキ補正表の整備

ところで、大気中の炭素14濃度は、過去から現在に至るまで一定で変化しなかったわけではない。地球磁場や太陽の黒点活動の影響、あるいは核実験の影響などによって、年代ごとに炭素14の濃度は微妙に変動していることが分かっている。

したがって、炭素14の残存量から割り出した「炭素14年代」を、そのまま実際の年代(「歴年代」)に当てはめるわけにはいかず、何らかの補正が必要となってくる。

補正のための基礎試料としてよく利用されるのが、年輪年代のわかった樹木年輪の炭素14年代を測定する方法である。ここで使用される樹木は、今までは、日本列島から遠く離れた北米や欧州産の樹木であったが、最近では、日本産の樹木の年輪年代も測定することによって、地球規模でデータベースの整合性が計られている。

弥生時代の始まりは500年さかのぼる可能性がある?

こうしたC14年代測定法を用いた研究成果によって、弥生時代の始まりが500年もさかのぼる可能性がでてきた。2003年5月に国立民俗歴史博物館から発表されたもので、各方面で大反響を巻き起こしている。

以下、国立民俗歴史博物館HPより(2003年7月27日現在)
九州北部の弥生時代早期から弥生時代前期にかけての土器(夜臼Ⅱ式土器・板付Ⅰ式土器)に付着していた炭化物(コゲ、スス)などの年代を、炭素14年代測定法(AMS法)によって計測したところ、紀元前約900~800年ごろに集中する年代となった。

考古学的に、同時期と考えられている遺跡の水田跡に付属する水路に打ち込まれていた木杭2点の年代もほぼ同じ年代を示した。

これらの年代の整合性を確かめるために、前後する時期の試料、同時期の韓国や東北地方の試料の年代を測定した結果、以下のことがわかった。

1)韓国の、この時代に併行するとされる突帯文土器期と松菊里期の年代について整合する年代が得られた。
2)考古学的に、この時期と前後する土器の型式をもつ土器の試料の年代値と考古学的編年の間にはよい相関が得られた。
3)遺跡における遺物の共伴から、同時代とされる東北地方の縄文晩期の土器の年代と強い一致が得られた。

以上のように、夜臼Ⅱ式土器・板付Ⅰ式土器を使用していた時代は紀元前9~8世紀ごろ、すなわち日本列島の住人が本格的に水田稲作を始めた年代(夜臼Ⅰ式)は、紀元前10世紀までさかのぼる可能性も含めて考えるべきであることが明らかとなった。

この研究結果は、科学研究費補助金・基盤研究(A)(1)「縄文時代・弥生時代の高精度年代体系の構築」(2001-2003年度、代表:今村峯雄、課題番号13308009)の成果の一部として、2003年5月に国立民俗歴史博物館から発表された。

以上、国立民俗歴史博物館HPによる

東アジア情勢のなかにおける弥生時代(および縄文時代)の位置づけ

弥生時代(および縄文時代)の時代区分は、従来からの膨大な研究成果によって土器型式で日本全土が地域別・年代別に細分化されている。これらにC14年代測定法によって精密な実年代が与えられることの影響ははかりしれない。

一番大きな問題は、東アジア情勢のなかにおける弥生時代(および縄文時代)の位置づけである。上記研究成果を当てはめるならば、弥生時代が始まる時期は今まで戦国時代(中国)のことと想定されてきたが、殷(商)の滅亡、西周の成立のころ、ということになる。また、弥生前期の始まりは、西周の滅亡、春秋の初めのころとなる。さらに中国・日本等における青銅器、鉄器の使用開始時期の整合性など検討課題も多い。

参考文献:
国立民俗歴史博物館HP

縄文丸木舟

縄文丸木舟とは

縄文時代の丸木舟が日本各地の遺跡で発見されている。それを縄文丸木舟といっている。日本人の祖先は、そのような舟で大陸と直接交流していたのであろうか。日本人はどこから来たのか、日本人のルーツはどこまでさかのぼれるのか。興味のつきないテーマである。

縄文丸木舟で帆柱跡があるものはまだ見つかっていない。したがって、今のところすべて櫂(かい)を使ったペーロン方式で移動したと考えられている。

しかし、黒曜石、ヒスイ、琥珀、天然アスファルトや貝殻など、産地を特定できる交易品の流通経路の詳細な研究によって、縄文人のおどろくべき移動能力が実証されつつある。縄文人は、黒潮や親潮、あるいは対馬海流、そしてそれらの反転流をたくみに利用して移動する海の民でもあった。

東京・武蔵野台地の旧石器遺跡(約3万2千年前頃)から、伊豆諸島・神津島産の黒曜石を使った石器類が発見されている。しかし、神津島と伊豆半島との間には、幅30km(海深200m)以上の海が横たわっている。

渡航具(筏、丸木舟)はまだ見つかっていないが、旧石器時代人がすでに舟を利用して行き来していたことは間違いない。最近では、後期・旧石器時代人が南方から黒潮に乗ってやってきて縄文人の祖先となった、とする説が出ている。

夏の日本海は波穏やかで快適な南風が吹いている

新入社員時代の4年余を私は新潟で過ごした。そこでヨット(ディンギー)を習って日本海でも少し乗ったことがある。夏の日本海は穏やかな南風が陸から吹いており、波はなくヨットには快適な環境にある。

日本海側には砂丘が多い。それが入り組んだ地形を作ればすぐれた港になる。それに、なんといっても大陸に近いのは日本海側である。こうした環境に舟さえあれば、それにもし帆を張ることができたなら、夏の日本海を行き来することは可能と判断して良い。縄文時代の表玄関は日本海側であった。

縄文時代の丸木舟のほとんどが日本海側から発見されている。その数は50艘の単位であるという。その中で、縄文前期のものとしては長崎・伊木力 (いきりき)遺跡や福井・鳥浜貝塚(三方湖)のものなど6例が報告されている。

その内最古の丸木舟については資料によって判断が分かれる。鳥浜貝塚 (約6300年前)としたものがあるかと思えば、伊木力遺跡(縄文前期)としたものもある。

日本各地の縄文丸木舟

三方町縄文博物館HP
三方町内では鳥浜貝塚から2艘、ユリ遺跡から4艘の合計6艘の丸木舟が出土しています。これらの丸木舟は6300年前の縄文時代前期から2800年前の晩期のもので製作年代に幅が見られます。

伊木力遺跡出土丸木舟
海辺に近い湿地で発見された(船底部だけ)
現存長6.5m(推定全長7m以上)、厚さ2.5~5.5㎝、最大幅76㎝
両舷側、舳先、艫(船尾)は失われていた
センダンの木を使用

京都府舞鶴市・浦入遺跡(うらにゅう)
1998年(平成10年)2月4日に、約5300年前の縄文時代前期地層から大型の丸木舟が出土した。全長推定約8mのうち、約4.6m部分が出土、巾約80cm、深さ約20cm、舟底の厚さ5cmであった。

直径二mの杉を割り、焼け石で焦がしながら石斧でくり抜いた様子がしっかりと残っており、分厚く巾の広い構造から外洋に使われたもの(最古級)と判断されている。なお遺跡周辺からは、桟橋の杭の跡、錨として使った大石なども発見されており、当時の船着場跡と考えられる。

島根大学構内遺跡第1次調査(1994年)
縄文前期(約7000~6000年前頃)の泥炭層から、長さ約6m(幅約60cm、厚さ約2~3cm)のスギ板材が出土した。大きさ、形などから、丸木舟(最古級)として使われた可能性がある。さらに第3次調査(1996年)では、カイ2本とヤス柄が、傷ひとつない、全く完全な状態で出土した。これも縄文前期頃のものと考えられている。

縄文時代の年代区分(日本考古学会)

1万3000年前から、草創期
1万年前から、早期
6000年前から、前期
5000年前から、中期
4000年前から、後期
3000年前から、晩期
2300年前から(北九州)、弥生時代
2200年前から(東日本)、弥生時代

三方町縄文博物館における時代区分

これらの年代区分は地域・学説等によって若干異なっている。例えば、三方町縄文博物館HPの説明は次のとおりである。

三方町縄文博物館における縄文時代各時期の年代表示は、三方湖のボーリング調査で検出された年縞年代や年輪年代で得られた最新のデーターをもとに補正した(下記)数値で表示しています。

草創期、14000~11800年前
早期、11800~7000年前
前期、7000~5700年前
中期、5700~4500年前
後期、4500~3200年前
晩期、3200~2300年前

弥生時代の始まりは500年さかのぼる可能性がある?

放射性炭素(C14)年代測定法を用いた最近の研究成果によって、弥生時代の始まりが500年もさかのぼる可能性がでてきた。2003年5月に国立民俗歴史博物館から発表されたもので、各方面で大反響を巻き起こしている。

参考資料

「海を渡った縄文人」-縄文時代の交流と交易-
橋口尚武編著、小学館(1999年)

旧石器発掘ねつ造(捏造)/20世紀最後の大スクープ

日本にも旧石器時代が存在することは、相沢忠洋さんによる岩宿遺跡の発見によって初めて証明された。後年、その歴史的な石器を震える手で直接確かめた「熱烈な考古学ファン」がいた。その彼の調査によって、日本の旧石器時代は、約4万年前から何と70万年前までもさかのぼっていった。しかし、そこにはとんでもない仕掛けがあった。

旧石器発掘捏造(ねつ造)事件とは

20世紀最後の大スクープ

「旧石器発掘ねつ造(捏造)」
2000年11月05日(日)毎日新聞の第一面スクープである。

宮城・上高森遺跡70万年前と発表
調査団の藤村氏自ら埋める「魔がさした」

という記事と共に、藤村新一氏(東北旧石器文化研究所副理事長、50歳)が石器を埋める現場をとらえたビデオカメラの映像を載せている。

藤村新一氏が、70万年前の地層の中に適当な石器を前もって埋め込んでおき、後でそれを自ら掘り出して「発見した」と発表していたと言うのである。

つまりは自作自演である。20世紀最後の大スクープと言ってよいであろう。

果たして関わったのは彼一人だけなのか?

旧石器時代の研究は、20世紀終盤になって東北地方で大きく発展した。日本人のルーツはどこまでさかのぼることができるのか。多くの人々の関心が東北地方に集まった。

まず、宮城県大崎市の座散乱木(ざざらぎ)遺跡で発見された旧石器が、1981年に約4万年前のものと報告されて以来、20年足らずの間に70万年前までさかのぼっていったのである。

そして、これらの発掘の現場には常に藤村氏の姿があった。今となっては、それらの多くが氏の自作自演(自分で石器を埋めて自分で掘り当てた)であった可能性が非常に高くなっている。

何故次々と教科書に採用され続けていたのか

直ちに教科書の書換えが始まった。

しかしよく考えてみれば、もともと藤村氏らの研究成果が、次々と教科書に採用され続けたこと自体が異常だった。

氏らの研究ではきちんとした研究報告書は作成されていない。石器の型式の比較研究はほとんどなされていない。ただ単にそれ相当と思われる地層から石器が出たというレベルの話にすぎない。

前期 (及び中期)旧石器時代を対象とした考古学のレベルは、その程度のものだったのだろうか。

藤村自身は単なるアマチュアに過ぎなかった。系統だった科学的な発掘調査を行う能力は持っていなかった。それに対して、彼が関わった一連の発掘調査を指揮した専門家(学者)は一体何をしていたのであろうか。

そのほか多くの専門家の意見として、発掘調査の常識からすれば、20年間もねつ造を見抜けなかったはずは無いとしている。

それでは意図的に見逃していたのか。もしそうだとすればその目的は何だったのか。真実が明かされる日が来ることを切に願う。

相沢忠洋さんによる「岩宿の発見」(1946年ごろ)

関東ローム層(赤土)の中に旧石器を発見

相沢忠洋(あいざわ・ただひろ)という在野の研究者がいた。相沢さんによる岩宿遺跡の発見(1946年ごろ)は、日本にも旧石器時代(後期)が存在することを証明した「戦後の考古学史上最大の発見」と評されている。(住所:現・群馬県みどり市)

相沢さんは、赤城山麓の切り通しの崖で、関東ローム層(赤土)の中に旧石器を発見した。これに対して、縄文土器が出るのは、関東ローム層(赤土)の上の地層である。

その当時の考古学界の常識として、日本に旧石器時代はなかったと考えられていた。したがって、遺跡調査で関東ローム層(赤土)まで掘り進めば、その下にはもう何も無いとして調査は終了していたのである。

考古学ファン・藤村さん、岩宿の旧石器を見て感動

1975年(昭和50)、その歴史的な石器を相沢さんから直接自分の手の上に置いて見せてもらった「熱烈な考古学ファン」、それが藤村新一氏(当時25歳前後)であった。「手を震わせ、石器を食い入るように見つめていた ― 相沢さんの妻千恵子さんの話」という。こうして藤村氏も在野の研究者の一人となっていった。

日本の考古学はこのような在野の研究者によって陰で支えられている面が大きい。

しかし、彼らが後世に名を残すチャンスはほとんどない。たとえ貴重な発見をしたとしても、学会で認められないことにはどうしようもない。学会で認められるためには、学会の権威によるお墨付きが必要となるが、その過程で業績の横取りということも起こり得る。相沢さんの岩宿遺跡でも同様のことが起こっている。

明治大学助教授・故杉原荘介氏は、相沢さんを岩宿遺跡の発見者として扱わなかった。これに反発して明大を去り東北大学に移ったのが、当時、明大大学院生だった芹沢長介・東北大学名誉教授である。藤村氏が師と仰いできた学者である。運命の皮肉を感ぜずにはいられない。

在野の顔に泥を塗られた、相沢忠洋氏(岩宿の発見)の妻千恵子さん談

それはさておき、相沢忠洋さんの妻千恵子さんは藤村氏について語っている。

在野の顔に泥を塗られた。「やはり在野はダメ」だという学者の声が聞こえてくる。
・・・悔しくてやりきれません。

藤村前副理事長は在野の考古学研究者を対象にした第1回相沢忠洋賞の受賞者だったが、11月7日に返上した。同様に第4回受賞者の東北旧石器文化研究所も賞を返上した。

事件の影響は教科書の書き換えにとどまらず、博物館やインターネットの世界にも及び、お膝元の考古学協会も対応に追われた。藤村氏が発掘に関与した遺跡を有する自治体でも混乱が続いている。

2004/02/28、新規追加

前・中期旧石器問題調査研究特別委員会編
「前・中期旧石器問題の検証」日本考古学協会(2003年5月24日)

藤村氏がかかわった遺跡は186箇所
本物は一つもなくすべて捏造
旧石器遺跡のリストから末梢

注:「前・中期旧石器問題調査研究特別委員会最終報告」が発表されている。
口頭発表全文(2004年5月22日)を載せたものである。(2018/09/04確認)
archaeology.jp/about/paleolithic_hoax/final-report/

「はじめて出会う日本考古学」安田喜憲編、有斐閣アルマ(1999年)

事件の影響で絶版になった本がある。確かに絶版にしたというお知らせが出版社のホームページ上にあり、書籍リストにも絶版となっていたはずだが,
今日現在その文章はどこにも見当たらない。書籍紹介をみればさりげなく在庫の有無として”無”となっているだけである。

出版社に問い合わせたところやはり絶版とのこと。絶版のお知らせについては、いつまでも表示しておくのもどうかと思い削除したということである。いずれにしても、国際的に通用すると思われる若手執筆者を国籍を問わず登用して〈21世紀、国際化時代の日本考古学発展の一助たらん〉とした本書が世間の目から遠ざけられるのはいかにも残念なことである。

絶版措置はもったいない(アマゾンレビュー)

絶版措置はもったいない(アマゾンレビュー、akimasa21、2005/09/23)
編者による”まえがき”によれば、本書の著者(編者1名以外の10名)として、国際的に活躍している若手研究者を起用したとしている。21世紀国際化時代の日本考古学を担う人材の登用である。本書は、そのようにして選ばれた著者が、それぞれ自分で項目を立てて最新の研究成果を披露した11人11章(編者分を含む)で構成されており、日本考古学の新展開を展望できる仕組みを提供している。

”まえがき”には、次のようなことも書いてある。「日本の考古学が、ともすれば日本人の考古学者にしか通用しない概念や方法論に沈溺し、日本のいやもっと小さな地方の考古学の世界に閉じ込もってはいないだろうかという危惧をいつも感じている・・・」。

毎日新聞社旧石器遺跡取材班による「発掘捏造」毎日新聞社(2001年刊)によって、その危惧は現実のものとなった。旧石器発掘ねつ造が発覚し、2000年11月4日に当事者はその事実を認めた。

本書第6章「旧石器考古学の新視点」の扉写真のキャプションは、“60万年前の原人が残した宮城県上高森遺跡の石器埋納遺構2(東北旧石器文化研究所提供)”となっている。本文でもそれら遺跡について言及している。

本書は現在さりげなく品切れとなっている。出版社としては、絶版処置としているはずだ。実にもったいない。私は本書P.80の中で、土器(浅鉢と深鉢)の色調および厚さの地理的勾配(等高線のように表示される)が、地域と時代によってダイナミックに変化している図をみて驚いたものだ。考古学はやはり科学なのだ。事件後も本書の価値に変わりはない。

旧石器時代の日本列島

日本と大陸との間の陸橋の存在(過去3回のみ)

第一回目
約63万年前(更新世中期初め)
中国南部動物群(トウヨウゾウ、マチカネワニなど)の渡来
原人もそれを追って渡ってきたか?

第二回目
約43万年前(更新世中期中頃)
中国北部動物群(北京・周口店動物群)の渡来
ナウマンゾウ、オオツノジカ、カトウキヨマサジカ(ニホンジカの祖先)、
ヒグマ、オオカミ、キツネ、タヌキ、ニホンザルなど
北京原人の時代である
それ以降、日本列島が西・南方面で大陸につながった時期はないとされる。

第三回目
約3万年前(更新世後期後半、後期旧石器時代)
北海道とシベリアがつながった時期がある
ホモ・サピエンス(現生人類である新人)の時代、具体的には
クロマニヨン人の時代である
なお、新人の起源はアフリカで、その出現は十数万年にさかのぼるとする説が有力である

旧石器群を出土した主な古い遺跡

沖縄県山下町第一洞穴
3万2千年より古く、人骨の化石といっしょに石器3点出土
礫器を主体とする石器文化の存在

立切遺跡(たちきり、鹿児島県種子島)
約3万年前の旧石器時代の生活跡
一定期間定着して生活した様子が4点セットで出土した
・石斧や食物の加工用に使われたと思われるすり石、たたき石、台石
・調理場跡とみられる礫(れき)群
・たき火や料理をした跡の焼土
・木の実などの貯蔵穴と思われる土坑

宮崎県後牟田遺跡
約3~4万年前
人類の生活の痕跡(礫群・敲石・台石などのセット)がまとまって検出された

熊本県血気ヶ峯遺跡
熊本県曲野遺跡
台形様石器と局部磨製石斧の組み合わせ完成

東京都西之台B遺跡や中山谷遺跡
約3万5千年前、関東地方で最も古いと考えられる
礫器と不定形剥片石器の組み合わせ

岩手県金取遺跡
Ⅳ層(約3万8千~8万年前)、Ⅲ層(約3万6千年前)
礫器と不定形剥片石器の組み合わせ

後期・旧石器時代人は黒潮に乗ってやってきた

立切遺跡(種子島)、東京都西之台B遺跡や中山谷遺跡(東京都)等で出土した石器群は、礫器、大型幅広剥片石器、錐状石器、クサビ形石器、磨石、敲石などの「重量石器」を特徴としている。そして同様な旧石器群が、ベトナム、香港、台湾島などにも分布することが知られている。黒潮圏の考古学(ホームページ)より

礫器は石蒸し料理に使うもので、たくさんの石をまとめて使った後は礫群として痕跡を残す。石蒸し料理という南方系の文化を携えた人々が黒潮に乗ってやってきたと考えられる。縄文人の祖先たちであろう。縄文人は基本的に南方系の形質が強いとされている。(縄文文化は北方系とする学説もあるようで、Web作者としては、きちんと理解はできていない)

東京・武蔵野台地の旧石器遺跡(約3万2千年前頃)から、伊豆諸島・神津島産の黒曜石を使用した石器類が発見されている。しかし、神津島と伊豆半島との間には、幅30km(海深200m)以上の海が横たわっている。渡航具(筏、丸木舟)はまだ見つかっていない。しかし、旧石器時代人がすでに舟を利用して行き来していたことは間違いない。

なお、神津島と神津島産黒曜石を出土した遺跡との距離は、最も離れたところで約180kmある。神津島産黒曜石の品質が良く人気が高かったことに加えて、遠隔地まで運ぶ流通ルートや組織が確立していたものと考えられる。

参考資料

発掘捏造
毎日新聞旧石器遺跡取材班、毎日新聞社(2001年)

「岩宿」の発見-幻の旧石器を求めて-
相沢忠洋著、講談社文庫(1973年)

明石原人の発見-聞き書き・直良信夫伝-
高橋徹著、朝日新聞社(1977年)

学問への情熱-「明石原人」発見から五十年-
直良信夫著、佼成出版社(1981年)

見果てぬ夢「明石原人」-考古学者直良信夫の生涯-
直良三樹子著、時事通信社(1995年)

森本六爾(「二粒の籾」改題)-弥生文化の発見史-
藤森栄一著、河出書房新社(1973年)

考古学の殉教者-森本六爾の人と学績-
浅田芳朗著、柏書房(1982年)

揺らぐ考古学の常識―前・中期旧石器捏造問題と弥生開始年代―
設楽博己編、吉川弘文館(2004年)

黒潮圏の考古学/小田静夫
Web及び書籍

2005/12/24、アマゾンレビュー転載
2004/02/29、追加(旧石器時代の日本列島)
2003/05/02、初出

朝ドラ「あすか」 ― 和菓子と考古学

和菓子と考古学

NHK朝の連続テレビ小説「あすか」が終了した(1999年10月4日~2000年4月1日放映)。

女性和菓子職人が主人公の物語である。
彼女は京都の老舗の和菓子屋の孫娘であるが、訳あって奈良県明日香村で生まれ育った。
物語は、和菓子という洗練された京文化と、古い都ながら自然豊かな明日香村との対比に加え、様々な要素を絡めて盛り上がりハッピーエンドを迎えた。

追記:2020.9.27
「あすか」でヒロインを演じた竹内結子さんがお亡くなりになった。
このWebページのアクセス数が急増したことで初めて知った。
まだ40歳という若さであった。
心よりご冥福をお祈りいたします。

さて、「あすか」は、私が久しぶりに見た朝ドラであった。
面白かった。

京都の伝統文化とは何か。
古いものをしっかり継承しつつ、新しいものを取り込む大胆な試みを常に続けること、そうした伝統そのものを言うのであろうか。
そこから外れようとしたとき”いけず”をされるのだろうか。

京都の老舗和菓子店を中心にした話は本当に面白かった。
(BS2の再放送、土曜日のお昼前にその週の月~土の6回分を連続放映)

なお、そのほかの俳優陣では、最近、俳句関連のテレビ番組などでも人気の梅沢富美男(ヒロインの伯父役)が特に印象に残っている。

発掘調査費を個人負担する場合があるのか?

主人公の夫は明日香村の幼なじみで「ハカセ」と呼ばれた考古学少年であった。
考古学もまたこの物語の大切な要素の一つである。

その考古学に関することで当番組の内容に不適切な部分があるとして、文化庁がクレームを付けNHKが釈明に出向くということがあったらしい。

発掘調査費用の「原因者負担」に関する問題である。

主人公「あすか」の両親が”のれん分け”して出店しようとした奈良市の建設予定地で遺跡が発見され、多額の発掘調査費用を負担しなければならなくなった。
このときの費用(3000万円?)を捻出するための借金で出店は断念、そして本体の経営にも無理がかかるようになっていった.....

文化庁の言い分は次のとおりである。

確かに、発掘調査費用の負担については、従来から「原因者負担」ということで、発掘調査の原因となったところに費用を負担してもらっている。
しかし一方で、個人並びに零細業者には発掘調査費用の負担を求めないという特例(国・地方自治体による経費補助制度)を設けている。

ドラマとはいえ実態とかけ離れた内容で多くの視聴者に誤解を与えかねない、ということのようであった。

ケースバイ・ケースで対応する、ということであろうが、きちんとした基準にのっとって恣意的にならないよう運用されているのであれば幸いである。

NHK朝の連続テレビ小説

NHK朝の連続テレビ小説は、毎朝8時15分~30分の15分間放映されている。

第一回は1961年4月(昭和36)に始まった。
それから14回(14年間)までは1作毎に1年を通して放映されたが、第15回からは半年毎、年2回となっている。(例外として、「おしん」、「君の名は」1年1作)

私が少しでも意識して見たシリーズといえば、1965年(昭和40)「おはなはん」(樫山文枝、高橋幸治)、1966年(昭和41)「たまゆら」(笠智衆、亀井光代)であろうか。
高校から大学にかけての頃である。

今、リストを見返して、題名、主役名からワンシーンを思い出すシリーズもあるけれども、何も分からないものも多い。
朝8時15分からの放映でターゲットが主婦層であってみればサラリーマンの私には無理からぬことである。

初出:2000.04.01(土)

忠臣蔵(NHK大河ドラマ)

NHK大河ドラマの中で、忠臣蔵は今までに幾度か取り上げられている。その中で、私が最も印象に残っているのは、「赤穂浪士」(昭和39年)である。この時の討ち入りシーンは視聴率53.0%で、全シリーズを通じて今までの最高を記録している。大河ドラマ第2作目、すなわち昭和39年、東京オリンピックの年(1964年)のことであった。

大石内蔵助役の長谷川一夫が実に良かった。彼が同志に呼び掛ける「各々方(おのおのがた)」という太く低い声が今でも耳の底に残っている。そして、蜘蛛の甚十郎という架空の人物を演じる宇野重吉も味があって良かった。

NHK大河ドラマは、1963年(昭和38)の「花の生涯」に始まる。それ以来、毎年1回毎のシリーズで欠かすことなく続いており、今年(平成11年)の「元禄繚乱」は迎えて第36回ということになる。赤穂浪士を直接描いたシリーズとしては4回目である。シリーズ全体の実に一割以上が「忠臣蔵」であり、それだけ人気の高い題材であるということなのであろう。

NHK大河ドラマは、一作毎に1月から12月の一年間に渡って放映(ほぼ毎週日曜日)されている。忠臣蔵が取り上げられる回数が多いのは、実際の討ち入りの時期(12月14日夜半)を最終回近くのクライマックスに重ねることができて、興行的にも都合が良いということもあるのかもしれない。

大石内蔵助良雄(よしたか)は、万治2年(1659年)播磨国赤穂で生まれた。19歳で大石を継ぎ2年ほど見習い家老、21歳で国家老上席(筆頭家老)となる。

元禄14年(1701年)3月14日、勅使饗応役の浅野内匠頭が殿中松之廊下で吉良上野介に刃傷に及ぶ。元禄15年12月14日(1702年)夜半、赤穂浪士47人が吉良邸に討ち入る。激闘1時間余り、見事敵を討つ。変事から1年9か月後のことである。

大石内蔵助は肥後熊本藩主細川越中守綱利(54万石)下屋敷にお預けとなり、元禄16年2月4日(1703年)、切腹。行年45歳。

広島と「忠臣蔵」は浅からぬ因縁がある。なぜならば、安芸国浅野家(広島)は、赤穂藩浅野家の本家筋にあたるからである。広島浅野藩初代藩主浅野長晟(ながあきら)、すなわち浅野長政(豊臣政権の五奉行の一人)の二男は、兄幸長(長政の長男)病没後に紀州和歌山藩主を継ぎ、その後安芸国広島に移封された。

赤穂浅野家は、長政の三男長重が下野真岡藩主となり、その後、歴代藩主が常陸真壁~常陸笠間~播州赤穂と継ぎ、長重から数えて4代の浅野内匠頭長矩(ながのり)のとき江戸城松の廊下についえた。

なお、浅野内匠頭の正室である阿久里姫(瑤泉院)は、安芸国三次(みよし)浅野家の出であり、三次浅野藩の藩祖長治(ながはる、広島浅野藩祖長晟の長男-庶子)の娘にあたる。

大石内蔵助の子孫は現代まで続いている。三男・大三郎(元禄15年7月5日生)がその源である。大三郎は、赤穂藩取り潰し後に、母が実家但馬国豊岡に戻ってから出産したため父の顔を知らぬままであった。

宝永6年(1709年)将軍綱吉崩御の大赦で、父内蔵助の罪(吉良邸討ち入り)を免れ、12歳の時、安芸国浅野家に召抱えられて1500石取りとなった(父内蔵助と同じ禄高である)。このとき、母理玖(りく)も広島に同行し23年後同地にて没した(68歳)。

理玖、大三郎ともに、浅野家菩提寺の国泰寺(広島市西区己斐上)に葬られている。なお、その当時の国泰寺は現在の中区にあり、そのすぐ側に国泰寺町の地名を残している。

初出:1999.12.30(木)