江戸のお殿様(織田家)

織田信長、本能寺の変にて死去

信長の弟から2家の大名家存続

1)信長の弟・信包(のぶかね)
丹波柏原(かいばら)藩(無嗣断絶)

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2)信長の弟・長益(ながます、有楽斎=うらくさい)
摂津味舌(ました)藩(有楽斎死去に伴い、味舌藩は除封)

3)有楽斎(信長の弟)の庶長子・長孝(ながたか)
美濃野村(のむら)藩(無嗣断絶)

4)有楽斎(信長の弟)の四男・長政(ながまさ)
大和戒重(かいじゅう)藩(後の大和芝村(しばむら)藩)、明治維新まで存続

5)有楽斎(信長の弟)の五男・尚長(なおなが)
大和柳本(やなぎもと)藩、明治維新まで存続

信長の二男から2家の大名家存続

6)信長の二男・信雄(のぶかつ)
大和宇陀松山(うだまつやま)藩

7)信雄(信長の二男)の四男・信良(のぶよし)
上野小幡(おばた)藩-出羽高畠(たかはた)藩-出羽天童(てんどう)藩、明治維新まで存続

8)信雄(信長の二男)の五男・高長(たかなが)
大和宇陀松山(うだまつやま)藩-丹後柏原(かいばら)藩、明治維新まで存続

信長の弟の系統とは

信長の弟・信包(のぶかね)

1598年6(慶長3)、丹波柏原藩立藩(3万6千石)
3代で無嗣断絶、その後一時幕府領となった後、信雄の五男・高長系が入封。

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◎信長の弟・長益(ながます、有楽斎=うらくさい)

関ヶ原の戦い→摂津味舌藩立藩(ただし、合計3万石のほとんどは大和国)
有楽斎と庶長子・長孝は共に、関ヶ原の戦いでは東軍に属する。

有楽斎隠居(1615年8月・元和1)、隠居料1万石を自分の手元に残す。
四男・長政→大和戒重藩(後の芝村藩)立藩、有楽斎から1万石を分与
五男・尚長→大和柳本藩立藩、有楽斎から1万石を分与

有楽斎死去に伴い、味舌藩は除封。

有楽斎の庶長子・長孝(ながたか)

関ヶ原の戦い→美濃野村藩立藩(1万石)
父の有楽斎とは別の所領で、いわば分家として認められた形となる。

しかしながら、長孝の子・長則に嗣子なく、美濃野村藩は無嗣断絶(1631年、寛永8)。

有楽斎の四男・長政(ながまさ)

有楽斎隠居に伴い、一万石分与→大和戒重藩(後の大和芝村藩)立藩。
大和芝村藩(戒重藩含む)で11代続き、明治維新を迎える。

有楽斎の五男・尚長(なおなが)

有楽斎隠居に伴い、一万石分与→大和柳本藩立藩。
大和柳本藩で13代続き、明治維新を迎える。

信長の二男の系統とは

信長の長男・信忠(のぶただ)、本能寺の変にて死去

信長の三男・信孝(のぶたか)、子無し

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信長の二男・信雄(のぶかつ)

大阪夏の陣(1615年、慶長20)→大和宇陀松山藩(5万石)入封。
福島高晴(福島正則の弟)改易後のことである。
ただし、その領地は、大和宇陀3万石と上野小幡2万石に分かれていた。

信雄隠居に伴い、自身の隠居料として大和2万8千石。
四男・信良→上野小幡藩立藩、信雄の旧領(2万石)を継ぐ。

信雄死去に伴い、
五男・高長→大和宇陀松山藩(2万8千石)を継ぐ。

信雄の四男・信良(のぶよし)

信雄隠居に伴い、旧領の一部を継ぐ(1616年、元和2)→上野小幡藩立藩(2万石)
7代藩主・信邦(のぶくに)は、明和事件に連座して蟄居処分。
後を継いだ弟・信浮(のぶちか)は、出羽高畠藩へ転封(立藩)2万石。

信浮の子・信美(のぶかず)の時、藩庁(陣屋)を高畠から天童に移したため、出羽天童藩立藩とする。(出和高畠藩は消滅)
出羽天童藩で5代(信雄から数えて13代)続き、明治維新を迎える。

信雄の五男・高長(たかなが)

信雄死去に伴い、大和宇陀松山藩(2万8千石)を継ぐ。
信雄から数えて4代目の信武(のぶたけ)、お家騒動(宇陀崩れ)で自害。

後を継いだ信休(のぶやす)、丹波柏原藩(2万石)へ転封(減封)、1695年4月(元禄8年)。
丹波柏原藩で11代(信雄から数えて15代)続いて、明治維新を迎える。
(なお、信休を最後に大和宇陀松山藩は除封)

信成(のぶなり)フィギュアスケート選手、自称(信雄の17代目の男系子孫)

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関係のある各藩

美濃野村藩(のむら):
美濃国(現在の岐阜県揖斐郡大野町

大和宇陀松山藩(うだまつやま):
現在の奈良県宇陀市大宇陀

大和戒重藩(かいじゅう):
大和芝村藩(しばむら):

大和国式上 (しきのかみ) 郡芝村地方(現在の奈良県桜井市)
当初、中世郭戒重城を陣屋に定めたが、後に芝村に陣屋を移す。

大和柳本藩(やなぎもと):
現在の奈良県天理市柳本町

摂津味舌藩(ました):
摂津国島下郡味舌村(現在の大阪府摂津市三島)

上野小幡藩(おばた):
現在の群馬県甘楽郡甘楽町小幡

出羽高畠藩(たかはた):
出羽国置賜郡(現在の山形県東置賜郡高畠町

丹波柏原藩(かいばら):
丹波国氷上郡柏原(現在の兵庫県丹波市柏原)

出和天童藩(てんどう):
現在の山形県天童市

直良信夫・苦学の考古学者

以下、用字用語には再考の余地が有ります。

信夫と音

直良信夫(なおら・のぶお)
明治35年(1902年)1月1日生まれ(戸籍上は10日)
大分県海部郡臼杵町(現臼杵市)、旧姓村本
明石人骨(明石原人)の発見者

直良音(なおら・おと)
明治24年(1891年)11月14日生まれ
島根県簸川郡今市町(現出雲市)、信夫より10歳の年上であった
大正14年6月、両者の婚姻届提出

数奇な運命によって両者は結ばれる。信夫は苦労の末、敗戦直前43歳で早稲田大学講師、55歳で学位取得、58歳で教授に就任した。そうした信夫の特に戦前時代を経済的に支え続けたのは教師の音である。音は、常に信夫の都合を最優先させ、そのために必要ならば、自分の勤務先を変えてまでして信夫に尽くした。

最初の上京

明治41年4月、信夫、小学校入学(6歳)
大正3年3月、臼杵男子尋常高等小学校卒業(12歳)
大正4年3月、臼杵男子尋常高等小学校高等科1年終了(13歳)
伯母(父方)と養子縁組をして東京に出る、高等科2年に編入学
大正5年3月、高等科2年終了と同時に伯母の家を去る(14歳)

臼杵市の活版所に丁稚奉公、早稲田中学講義録(通信講座)購読開始
半年ばかりで活版所を辞め、家の手伝いで畑仕事をしながら勉学に励む
そこに、若い女教師から声を掛けられる
「いつも関心ですね。しっかり勉強して、偉い人になりなさい」
後の夫人、直良音であった
臼杵町立実科高等女学校教師(大正5年4月~大正6年12月20日)
しばらくして、大分市内の本屋に住み込みで勤めるが、直ぐに辞める
その後、臼杵の商業学校の用務員となるも長くは続かなかった
さらに、鉄道の火夫の試験には合格しなかった

二度目の上京

大正6年、真夏の暑い日、東京の高等小学校時代の担任を頼って上京
先生の家に居候をしながら、鉄道院上野保線事務所給仕の仕事に就く
続いて、早稲田工手学校夜間部(早稲田大学付属)入学を決める(15歳)
しかし、過労にて体調を崩し、学校は辞めざるを得なくなる
先生夫婦の介護のおかげでまもなく健康を取り戻す

大正7年4月、岩倉鉄道学校(昼夜二部制)の工業化学科(新設)入学(16歳)
同時に、間借り生活を始めて独立し、二年間ひたすら勉強に励む
大正9年4月、農商務省臨時窒素研究所就職(18歳)

考古学に目覚める

研究所近くの貝塚で、土器、石器、貝殻などを採集するようになる。その中で特に、薄手式土器と厚手式土器を比較して、組成や焼き上げ温度の違い等を化学的手法で分析してデータを蓄積していった。そして、厚手土器は薄手土器よりも古い時代のものと結論付ける。

しかしながら、仕事、発掘そして研究と、無理がたたって結核に侵されてしまう
大正12年2月3日、そうした中で、文字通り命をかけた処女論文(四百字詰原稿用紙50枚ほど)を完成させ、発表する機会に恵まれる(21歳)

論文掲載の労をとってくれたのは、喜田貞吉・京都帝国大学教授-文献史学であった。喜田はしばしば上京して学会講演などを行っていた。信夫はそうした会に顔を出すうちに、自分の研究テーマについて喜田に語り、データを見た喜田から貴重な研究だと励まされ、論文完成に向けて病をおして努力したのである。

「目黒の上高地に於ける先史人類遺跡及び文化の化学的考察」上・下
掲載誌は、「社会史研究」(喜田貞吉主宰)の大正12年7月号、8月号であった。考古学という人文科学の分野に、化学的分析という自然科学の手法を取り入れた革新的な研究は少なからずの学者の注目を集めた。しかし、病は待ってはくれない。

直良音との再会

1923年(大正12年)8月31日夜、東京駅から郷里の臼杵へ向かう(21歳)
再上京してから丸6年、病のため全てをなげうっての帰省であった
9月1日朝、信夫は姫路駅で下車した。直良音先生が兵庫県立姫路高等女学校で教えているのを思い出したのである。音先生からしばらく滞在するよう要請され留まることになり、手厚い看護を受ける。

さて、音と再会したちょうどその日の正午前、9月1日午前11時58分、関東大震災が東京・横浜など関東地方南部を襲った。震源は相模湾でマグニチュード7.9。死者行方不明者14万2000余人、家屋の全半壊25万4000戸余、焼失戸数44万7000戸余とされている。実は信夫は結婚を約束した女性を東京に残してきていた。しかし、大震災の混乱の中で結局その消息をつかむことはできなかった。

音は、翌年大正13年3月31日付けで姫路高等女学校を退職、その年の9月29日付けで市立明石高等女学校に赴任している。その間、事情があって信夫といっしょに一時別府にいたことがあるようだ。

明石に居を構えたのは信夫の健康と遺跡発掘の便を考えてのことだろう。近くには大歳山遺跡という縄文時代の魅力的な遺跡があった。信夫が自宅の玄関先に「直良石器時代文化研究所」という看板を掲げたのは、大正14年初夏の頃であった。

明石人骨の発見

信夫はそのうち、明石の西海岸に洪積世の地層が露出していることを発見する。その地層は、高さ10m~15mほどの断崖となって、海岸線の長さ約10kmにわたって播磨灘に落ち込んでいた。ここならば、旧石器時代の遺物を発見できるかもしれない。信夫はこの場所に日参するようになる。昭和2年11月26日、旧象の臼歯の破片とメノウの石器と思われるものを発見する。

1931年(昭和6年)4月18日、化石人骨を発見する(29歳)
人骨は、昨夜の暴風で崩れたと思われる崩壊土(タルス)に八分どおり埋もれていた。その地層を確認すると、礫や小砂をまじえた砂質粘土層(ネズミ色)で、崖の最下部に露出している1mほどの厚さの青粘土層の上に不整合にのっていた。

人骨は確かに化石化しており、洪積世人類の化石の可能性は高かった。ただし、崩れていない崖のなかに完全に埋まった状態で掘り当てたものでなかったことが惜しまれる。

専門家の鑑定を得るために、東京・京都の何人かの学者に手紙を発送する
4月23日付、松村瞭博士(東京帝国大学人類学教室主任)人骨を拝借したい
5月3日、大阪朝日新聞、三、四十万年前の人体の骨盤現る
5月2日付(5日到着)、松村瞭博士手紙。骨は人骨であり、化石化の程度や色からみて太古のものである。

5月10日、京都帝国大学人類学教室の学者や学生、10名ほど直良家訪問。ただし当然ながら人骨は直良の手元になく、だれも実際に手に取ってみることはできなかった。ところで、信夫はまず最初に東京帝大に連絡したのかもしれない。東京帝大人類学教室に事務所をおく「人類学雑誌」に、それまで6編の論文を掲載してもらったという関係にあった。

6月6日、松村瞭博士、西八木海岸の現場に立つ。ただし何の意見もなし。その後、博士から人骨が送り返されてきた。添えられていた手紙には、化石人骨かどうか断定はできない、という主旨のことが書いてあった。それは、以前の手紙からは考えられないほど、実に曖昧な態度に変化していた。師の小金井良精博士からの圧力があったとされている。

人骨が発見されてまもなく、信夫が以前に投稿していた論文(日本最初の旧石器に関する論文)が「人類学雑誌」の5月号、6月号と前後に分けて掲載された。これに対して、鳥居龍蔵(国学院大学教授)から、これは自然石であり、旧石器時代の石器とは認められない、と完全否定されてしまう。

鳥居はこの石器を実際に自分で手にとって観察したわけではない。当時まだ学生だった樋口清之(のち国学院大学教授)が見てきた意見と写真だけで判断したものだという。人類学雑誌は 上記のように東京帝大系の雑誌で、当時の編集委員の一人であった松村瞭と鳥居龍蔵との間にはある事件をめぐって確執があったという。

さらに、京都帝國大学の関係者からは「詐欺師」呼ばわりされた。東京帝大に先を越されたことに対する主意返しであろう。信夫は完全に落ち込んでしまう。 教室という後ろ盾がなければ何もできないのだろうか。学閥間、学者間の功名心争いに翻弄される無学歴な自分が悲しかった。

三度目の上京

昭和7年10月、音は二人の子供を連れて上京、私立跡見高等女学校就職
11月初め信夫上京(30歳)
昭和8年春から江古田に落ち着く(新築2階建て借家)

徳永重康博士(早稲田大学)の研究助手(無給)となる
瀬戸内海で発見されたナウマンゾウやシカなど大量の獣骨化石の整理
「獣類化石研究室」の看板を掲げる
満蒙学術調査団(第1次、第2次)に徳永博士について参加
昭和12年春、江古田植物化石層の発見
日本の洪積世と沖積世を区切る指標となる地層である
昭和13年、早稲田大学付属高等工学校の夜学会計事務(有給)
約1年後、早稲田大学理工学部採鉱冶金学教室の図書係(大学職員)
昭和15年2月、徳永博士急逝、信夫はそのまま大学に残ることになる
昭和19年4月、はじめて教壇に立つ(講師待遇、辞令なし)
昭和20年4月、早稲田大学講師(正式辞令)、信夫43歳

信夫は姫路にいるころから徳永博士に文通でしばしば教えを受けていた。また、明石人骨出土の折には、現地調査にみえた博士を西八木海岸に案内したこともあったのである。

明石人骨炎上

1945年(昭和20年)5月25日、午後10時過ぎからのB29編隊による大空襲で、江古田の家も早稲田大学の「獣類化石研究室」も全てが焼き払われた。信夫は、学問研究に必要な標本や文献・資料そして書きためていた原稿などのほとんど全てを失った。

庭に埋めてあった大切な人骨もいくら探しても見つからなかった。焼夷弾の熱で溶けてしまったのだろうか。

敗戦前後、音は30年にわたる教員生活に終止符を打つ(53~54歳)。しかもその後は病気がちとなったため(約20年間)、戦後の混乱の中で、信夫は病弱な妻を抱えて生活を支えるために必死で働いた。

「明石原人」の誕生

昭和22年1月、東大理学部人類学教室の当時大学院生、渡部仁(後に東京大学教授)が信夫を訪ねてくる。長谷部言人(はせべ・ことんど)名誉教授の使いであった。

「明石人骨」と表書きのある写真袋(写真4枚在中)が見つかった
この写真に写っている腰骨の石膏模型も見つかった
この骨(洪積世のものと推定)を研究して論文を発表したい
ついてはご了解を得たい

信夫の手元には一枚の写真すら残っていない
計測資料もメモも何もないのである
自分の手で研究して発表する手立ては何もない
承諾する以外に道はなかった

昭和23年7月、ニッポナントロプス・アカシエンシス(明石原人)誕生
「明石市附近西八木最新世前期堆積出土人類腰骨(石膏型)の原始性に就いて」、人類学雑誌第60巻第1号、長谷部言人
直良自身は人骨を旧人(20万年前ころ)と見ていたが、長谷部博士は原人級(50万年以上前)と推定した。そして、学名の後につける発見者の姓を「ハセベ」とした。

昭和23年10月20日、明石市西八木海岸発掘調査(信夫46歳)
長谷部言人博士を長とし、東京大学人類学教室を中心とした大々的なもの
信夫には事前に何の連絡もなく、後にオブザーバーとして参加を許される
かつての発見場所の崖は、波の浸食で崩壊して数メートルも沖合いになっていた。しかも調査団の掘っているのは、腰骨発見場所から80mも西よりである。

信夫はこれまで人骨出土地点を明記したことはなかった
発見直後に明石を訪れた学者はメンバーの中にはいなかった
発見者の信夫に質問はなかった
したがって、正確な出土地点すら特定せずに発掘をしたことになる

結局たいした収穫はなく、明石人骨は再び「幻の骨」となってしまった。

昭和25年7月25日、葛生原人発見(栃木県安蘇郡葛生町)、信夫48歳

博士号取得

1956年(昭和31年)6月、「日本農業発達史」さ・え・ら書房刊、同書によって
昭和32年7月、早稲田大学文学博士号(信夫55歳)
昭和35年春、理工学部採鉱冶金学科教授(講師の身分から一挙に就任)
昭和40年5月5日、音逝く。享年73歳、結婚生活42年。
昭和41年12月、信夫、音のいとこの春江と再婚
昭和47年1月21日、最終講義
昭和47年3月31日付、定年退職(信夫70歳)
昭和48年10月31日、出雲市転居(41年間の東京暮らしに別れを告げる)
昭和60年11月1日、明石市文化功労賞、生涯唯一の褒章
1985年(昭和60年)11月2日、信夫逝く、享年83歳。

「明石原人」は旧人

1982年(昭和57年)11月2日、朝日新聞夕刊1面
明石「原人」はいなかった。研究の詳細は、「科学朝日」12月号に発表
遠藤萬理(ばんり)東大理学部助教授(人類学)
馬場悠男(ひさお)独協医科大学講師(解剖学)
明石人骨の石膏模型を使って純粋に統計学的な処理を行った
もっとも古い人類である猿人を始め、原人や旧人、あるいは現代人と比較検討した結果、「明石原人」はせいぜい一万年前の人類であるとの結論に達した。
これを聞いて、信夫はその後いっさいの研究活動を放棄する

これに対して、明石人骨は「化石化」していたという観点からいくつかの反論が試みられた。しかし、現物はすでになく、化石化しているはずがないとする学者たちのなかで、人骨を直接手にとって観察できたものはいない。こうなれば、もう一度掘ってみる以外にない。国立歴史民俗博物館(団長・春成秀爾)による発掘調査が行われた。

1985年(昭和60年)3月1日~20日、再度の西八木海岸発掘調査
翌年3月29日、発掘調査に関する研究発表会
1987年(昭和62年)調査報告書発行
「明石市西八木海岸の発掘調査」(国立歴史民俗博物館研究報告第13集)
春成秀爾編(執筆者34名)、B5判304ページ(写真図版39)

明石人骨が出たとされる地層-河成砂礫層(Ⅴ層)から、人間によって加工されたとおもわれる板状の木材片(樹種ハリグワ)が出土 した。その他、石器が一つ見つかっている(一般人が発掘前に崖から抜き取ったもの)。この三角形の小さな剥片(碧玉製)は、今のところ日本最古の石器の一つである可能性が高い。

西八木層Ⅴ層は春成によれば、約6万~7万年前、最終氷期前葉の寒冷期から温暖期にかけての堆積物とされている。ただし、十数万年~7,8万年前とする意見もあり結論は出ていない。

長谷部言人の考え(更新世前期、約100万年前)
直良信夫の考え(更新世中期、数十万年前)

ところで、またしても信夫はこの発掘に参加することはできなかった。高齢であった。熱発していた。代わりに孫娘が3日間ほど発掘に加わる。そして8か月後、明石市文化功労賞 (生涯唯一の褒章)を受賞(長女代理)した翌日逝去。

「明石人骨」は新人(現代人)のものか

白崎昭一郎は、次のようないくつかの疑問点をあげて、「明石人」問題はまだ解決していない、と主張している。すなわち、

明石人骨は明らかに化石化していた。しかし、石膏模型ではそのことは永遠にわからない。遠藤・馬場が研究に使用したレプリカは、欠損部を相当補って復元したものである。そのことが解析結果に影響を与えていないだろうか。さらに、明石人骨は女性の可能性がある。それにもかかわらず、男性として他の標本と比較検討されている。その他、
多変量解析そのものの手法に問題はないのか
猿人、原人、旧人、新人の変異の幅に連続性はあるのか
標本の数は十分なのか、等々である。

ところで、最近の学説として、
新人は旧人を経ずにアフリカで原人から直接進化(十数万年前)して世界各地にひろがった 、という説が有力である。すなわち、旧人は原人から枝分かれして絶滅した人類であり新人の祖先ではない、というのである。そして、

ホモ・サピエンス(新人)の出現は、西アジアでは10万年前までさかのぼる
ネアンデルタール人(旧人)が、ヨーロッパでは2万数千年前まで生きていた
とされる。

この説に従えば、明石人が新人であった可能性を否定することは出来ない。もしそうであるならば、明石人骨が新人のような新しい特徴を持っていたとしても何ら不思議ではない。

現代人に近い特徴を持つというだけで、例えば一万年前以降の新しい骨と決め付ける訳にはいかなくなってきたのである。明石人骨=現代人のもの、と最初に主張した馬場は最近(1998年)になって、明石人骨は5万年前だってありうる、としている。

ただし、日本と大陸との間に陸橋が存在したのは、過去3回のみであり、しかもそれぞれの期間は非常に短かったとされている。

第1回目: 約63万年前(更新世中期初め)原人の時代
第2回目: 約43万年前(更新世中期中頃)北京原人の時代
これ以降、日本列島が西・南方面で大陸につながった時期はないとされる

第3回目: 約3万年前(更新世後期後半、後期旧石器時代)
北海道とシベリアがつながった時期がある。ホモ・サピエンス(現生人類である新人)の時代、具体的にはクロマニヨン人の時代である 。なお、3~4万年前、南方から黒潮に乗って(舟で)やってきた人々がいたことも間違いない。

最後にまとめるならば、明石人骨をめぐる謎は未だ尽きない、というよりも、永遠の謎として残った、というべきであろうか。末期の病床で、信夫は熱にうなされながらしきりに繰り返したという。「私は百万年前の落ち武者で、道に迷って困っております。私の行先を教えて下さい」。信夫と共に当Web管理人も「見果てぬ夢」を追い続けてみたい。

江戸のお殿様(岩城家)

岩城家

2万石、外様、柳間、城主格(当初は陣屋)

佐竹義重

佐竹義重の長男、佐竹義宣、出羽久保田(秋田)20万石
佐竹義重の二男、蘆名義広、常陸江戸埼・・・出羽角館
佐竹義重の三男、岩城貞隆、信濃川中島1万石

01岩城吉隆(貞隆の長男)、信濃川中島−出羽亀田(立藩)2万石
さらにその後、伯父佐竹義宣(佐竹義重の長男)の後を継ぎ、久保田藩2代藩主(佐竹義隆)となる
佐竹義重の四男、岩城宣隆(のぶたか、多賀谷宣家を改める)
02岩城重隆(宣隆の長男)−03秀隆(02重隆の長男・景隆の子)−04隆韶(たかつぐ、仙台藩主・伊達吉村の弟の伊達村興(宮床伊達氏)の子)−05隆恭(たかよし、仙台伊達一門岩谷堂伊達家当主)−以下幕末まで存続
注:宣隆は藩主ではなく番代(代つなぎ)とされている

陸奥磐城平藩、〜1600年(100岩城)

戦国時代、岩城、佐竹、伊達などの諸氏は、それぞれに姻戚関係を結び合従連衡を繰り返していた。たとえば、岩城家の当主岩城常隆が小田原征伐直後に病死した時には、佐竹義重の三男・貞隆が岩城家を継いでいる(養嗣子)。そして、岩城常隆の実子・政隆は、伊達氏に戻り、のちに伊達一門の岩谷堂伊達氏の初代当主となった。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、佐竹義宣(佐竹義重の長男)と岩城貞隆(佐竹義重の三男)の兄弟は、東軍にくみしたもののその態度があいまいであったため、徳川家康の怒りを買う。その結果、佐竹義宣は常陸国54万石から久保田(秋田)20万石へ減転封、岩城貞隆は磐城平12万石を没収された。

岩城貞隆は、その後江戸・浅草で浪人生活を送りながら機会をうかがい、慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で本多正信にしたがい戦功をあげる。

信濃川中島藩、1616年〜1623年(100岩城)

岩城貞隆は、元和2年(1616年)に信濃川中島(中村)に1万石を与えられ大名として復帰する。元和6年(1620年)10月病死。

貞隆の遺領は吉隆(貞隆の長男)が継ぐ。そして、元和8年(1622年)10月には、出羽国由利郡に1万石を加封され都合2万石となる。

出羽亀田藩、1623年〜幕末(100岩城)

岩城吉隆(川中島岩城藩2代藩主)は、元和9年(1623年)11月、信濃の所領を由利郡に替地され、亀田(2万石)に国替えとなる。さらにその後、伯父佐竹義宣(佐竹義重の長男)の後を継ぎ、久保田藩2代藩主(佐竹義隆)となる。

01岩城吉隆の後は、多賀谷宣家(のぶいえ、佐竹義重の四男、多賀谷重経の養嗣子)が継いで岩城宣隆(のぶたか)となる。この場合、叔父(佐竹義重の四男)が甥(佐竹義重の三男の子)の跡を継ぐ形となる。当時一般的には、下の世代から上の世代への継承はあまり歓迎されておらず、史書においては宣隆は藩主ではなく番代(代つなぎ)とされている。

02重隆(宣隆の長男)、03秀隆と継いで佐竹の血筋は薄れてゆき、その後は、04隆韶、05隆恭と仙台伊達家から養子を受け入れ、その血筋が当地(秋田県由利本荘市岩城)にて幕末まで続いている。

江戸のお殿様(池田家)

池田輝政(恒興二男、播磨姫路藩)

播磨姫路藩初代藩主

  • 関ヶ原の役(1600年)の戦功により、池田輝政(てるまさ、池田勝入斎信輝(恒興)の二男)が、播磨一国52万石で姫路城に入る。また、恒興三男の長吉(ながよし、輝政の弟)が、因幡国岩井・邑美・八上郡6万石で鳥取藩を立藩する。
  • 輝政の正室は、嫡男の利隆(としたか)を出産後、体調が優れず実家に帰ったとされる。
  • 輝政は継室として、徳川家康の二女督姫(とくひめ)を迎え入れ(1594年)、二男忠継(ただつぐ)、三男忠雄(ただお)、四男輝澄(てるずみ)、五男政綱(まさつな)、そして六男輝興(てるおき)が生まれた。つまり、輝政嫡男の利隆にとっては異母弟ということになる。なお、督姫が次々と男児を出産する間に、側室(複数)からも複数の男児が生まれた。そして、彼らは公式には七男以下として処遇された。

利隆(輝政長男、播磨姫路藩)

播磨姫路⇒因幡鳥取(光政の時)⇒備前岡山(光政の時)

利隆長男光政(輝政の孫)
光政の弟(利隆二男)、恒元(備前児島藩)、備前児島⇒播磨山崎(3代で断絶)
光政二男(岡山新田藩・鴨方、かもがた)
光政三男(岡山新田藩・生坂、おうさか)

  • 輝政死去(1613年)に伴い、姫路藩は嫡男利隆(池田宗家)が継ぐ。
  • 利隆急死(1616年)に伴い、姫路藩は嫡男光政(みつまさ)が継ぐ。しかしながら、幼少(8歳)を理由に、翌1617年に播磨姫路藩から因幡鳥取藩へ転封となる。(因幡鳥取藩主は備中松山藩主へ)
  • 池田家には別途備前岡山藩があり、忠継(輝政二男)から忠雄(輝政三男)へと継がれた。忠雄(輝政三男)嫡男の池田光仲(みつなか、光政の従兄、共に輝政の孫)は、1632年、わずか3歳で家督を継ぐことになった。この時、再び藩主の幼少を理由に国替えが行われた。
    幼い光仲が因幡鳥取藩主となり、入れ替わりに池田宗家の光政が備前岡山藩主となったのである。
  • こうして、池田宗家(光政系)が岡山藩、家康の血を引く池田家(光仲系)が鳥取藩に落ち着くこととなり、その支配は幕末まで続いた。なお鳥取藩(池田氏)の石高は宗家の岡山藩(池田氏)よりも高く破格の扱いを受けている。
  • 岡山池田藩3代藩主の光政は、1648年に弟の恒元(つねもと、輝政の孫)を藩祖とする児島藩を支藩として立藩している。しかし、わずか1年で廃藩(領地は岡山藩に還付)となる。その理由は、藩祖・恒元が播磨山崎藩へ転封となったためである。そしてその後、恒元から数えて3代目が夭折したため断絶している。

忠継(輝政二男、備前岡山藩)

備前岡山藩初代藩主

  • 家康の外孫にあたる忠継は、小早川秀秋(無嗣断絶)の後を受けて、岡山藩にわずか5歳で封じられた(1603年)。ただし、実際の統治は異母兄の利隆が岡山城に入って行った(忠継自身は姫路城の両親のもとで暮らしていた)。
  • 輝政(姫路藩主)死去(1613年)に伴い、利隆(輝政嫡男)が播磨姫路藩を継ぐ。
    そしてこの時、異母弟である忠継(輝政二男、備前岡山藩主)に、播磨国西部の佐用・宍粟・赤穂三郡内のうち13万石が分与された。
  • 忠継(輝政二男)が早世(1615年)した後、次弟忠雄(輝政三男)が洲本藩から移り岡山藩を継ぐ。
    またこの時、利隆から忠継に分与されていた播磨領が、忠継や忠雄の弟三人に分け与えられて立藩した。すなわち、播磨山崎宍栗藩(輝政四男・輝澄)、播磨赤穂藩(輝政五男・政綱)そして播磨作用藩(輝政六男・輝興)である。

忠雄(輝政三男、淡路洲本藩)

淡路洲本⇒備前岡山(忠雄の時)⇒因幡鳥取(光仲の時)

忠雄長男光仲(輝政の孫)
光仲二男(鳥取東館新田藩・鹿奴、しかの)
光仲三男(鳥取西館新田藩・若桜、わかさ)

  • 輝政死去(1613年)に伴い、利隆(輝政嫡男)の異母弟である忠雄(輝政三男)は、播磨姫路藩の属領となっていた淡路洲本藩を再度立藩する。
  • 次兄忠継(輝政二男)が早世(1615年)したため、忠雄(輝政三男)が洲本藩から移り岡山藩を継ぐ。
  • 忠雄(輝政三男)嫡男の池田光仲(みつなか、光政の従兄、共に輝政の孫)は、1632年、わずか3歳で備前岡山藩の家督を継ぐことになった。この時、幼少を理由に国替えが行われた。幼い光仲が因幡鳥取藩主となり、入れ替わりに池田宗家の光政(光仲の従兄、共に輝政の孫)が備前岡山藩主となった。

注)忠雄(輝政三男)の岡山藩移封に伴い洲本藩は廃藩、一時収公された。そして同年、阿波徳島藩主に与えられ、その後、徳島藩家老稲田氏が淡路城代兼仕置職として居住した。

輝澄(輝政四男、播磨山崎宍栗藩)

輝政四男の輝澄は、忠継(岡山藩主)や忠雄(洲本藩主)と同じく徳川家康の外孫(母は二女督姫)である。つまり、輝政嫡男の利隆(池田宗家)の異母弟にあたる。

忠継(輝政二男)急逝後、五男政綱(播磨赤穂藩)や六男輝興(播磨佐用藩)と共に、利隆(輝政嫡男)から忠継に分与されていた播磨領の一部を与えられて立藩。

池田輝澄(山崎藩主)は、同時に立藩した輝興(佐用藩主)の赤穂藩転封に伴い廃藩となった佐用藩を吸収した。そして、池田騒動(新旧家臣団の対立)に巻き込まれて改易(1640年)された。

その間に、岡山池田家は次兄忠雄が継いだ後、その子光仲のとき因幡鳥取藩に転封となっている。輝澄は改易後、甥である鳥取藩主・池田光仲預かりとなり、鳥取藩内の鹿野において堪忍料1万石を与えられた。

輝澄の後は子の政直が継ぎ、輝澄の死後に播磨福本藩(1万石)を立藩する(鳥取藩の支藩的立場)。しかし、政直は嗣子なく没したため、弟二人に所領を分割、それぞれ交代寄合及び旗本(ともに1万石以下)となる。そして、幕末に再び福本藩立藩(1万石余)。

なお、輝澄改易後の山崎藩は、松平(松井)氏が領有した後に一時天領となる。その後すぐ、池田恒元(光政の弟)が備前児島藩(岡山藩の支藩)から入る。しかし、恒元から数えて3代目で嗣子なく除封、以降本多氏が領有。

政綱(輝政五男、播磨赤穂藩)

輝政五男の政綱は、忠継(岡山藩主)や忠雄(洲本藩主)と同じく徳川家康の外孫(母は二女督姫)である。つまり、輝政嫡男の利隆(池田宗家)の異母弟にあたる。

忠継(輝政二男)急逝後、四男輝澄(播磨山崎宍栗藩)や六男輝興(播磨佐用藩)と共に、利隆(輝政嫡男)から忠継に分与されていた播磨領の一部を与えられて立藩。

池田政綱(赤穂藩主)には嗣子なく一時除封となる。その後、同時に立藩した輝興(佐用藩主)が遺領を継承して赤穂藩主となる。ところが、輝興突然の乱心にて所領没収、宗家(甥の岡山藩主・池田光政)お預けとなる。

赤穂には、その後浅野氏が代わって入り、後の「忠臣蔵」へとつながることとなる。

輝興(輝政六男、播磨佐用藩)

輝政六男の輝興は、輝政二男の忠継(岡山藩主)や三男の忠雄(洲本藩主)と同じく徳川家康の外孫(母は二女督姫)である。つまり、輝政嫡男の利隆(池田宗家)の異母弟にあたる。

忠継(輝政二男)急逝後、四男輝澄(播磨山崎宍栗藩)や五男政綱(播磨赤穂藩)と共に、利隆(輝政嫡男)から忠継に分与されていた播磨領の一部を与えられて立藩。

同時に立藩した池田政綱(赤穂藩主)には嗣子なく一時除封となる。その後、輝興(佐用藩主)が遺領を継承して赤穂藩主となる。ここで佐用藩は廃藩となり、輝政四男の輝澄(山崎藩主)が作用藩を吸収した。⇒ 赤穂藩主、山崎藩主の項へ

池田長吉(恒興三男、因幡鳥取藩)

因幡鳥取⇒備中松山(長幸の時)

  • 関ヶ原の役(1600年)の戦功により、池田長吉(ながよし、池田勝入斎信輝(恒興)の三男)が、因幡国岩井・邑美・八上郡6万石で鳥取藩を立藩する。(池田輝政の弟)
  • 池田宗家の播磨姫路藩から因幡鳥取藩への転封(1617年)に伴い、因幡鳥取藩の池田長幸(長吉の長男、2代藩主)が備中松山藩を立藩して移るが、長吉から数えて3代で廃絶。備中松山藩そのものは他家の支配にて幕末まで存続。

江戸三百藩(各藩ごとの歴史)

江戸のお殿様(各藩ごとの歴史)

下野真岡藩、1601年〜1611年(300浅野)
(リンク付きモデルケース、以下順次作業予定)

常陸真壁藩、1611年〜1622年(300浅野)
常陸笠間藩、1622年〜1645年(300浅野)

近畿地方

和歌山県

紀伊和歌山藩、1600年〜1613年(100浅野)
紀伊和歌山藩、1613年〜1619年(200浅野)

兵庫県

淡路洲本藩、1613年〜1615年(130池田)
播磨赤穂藩、1615年〜1631年(150池田)
播磨赤穂藩、1631年〜1645年(160池田)
播磨赤穂藩、1645年〜1701年(300浅野)
播磨佐用藩、1615年〜1631年(160池田)
播磨姫路藩、1600年〜1617年(110池田)
播磨福本藩、1662年〜1665年(140池田)
播磨福本藩、1868年〜幕末(140池田)
播磨山崎藩、1615年〜1640年(140池田)
播磨山崎藩、1649年〜1678年(111池田)

中国地方

鳥取県

因幡鳥取藩、1600年〜1617年(200池田)
因幡鳥取藩、1617年〜1632年(110池田)
因幡鳥取藩、1632年〜幕末(130池田)
鳥取東館新田藩・鹿野(鹿奴)、1685年〜幕末(131池田)
鳥取西館新田藩・若桜、1700年〜幕末(132池田)

岡山県

備前岡山藩、1603年〜1615年(120池田)
備前岡山藩、1615年〜1632年(130池田)
備前岡山藩、1632年〜幕末(110池田)
備前児島藩、1648年〜1649年(111池田)
備中松山藩、1617年〜1641年(200池田)
岡山新田藩・鴨方、1672年〜幕末(112池田)
岡山新田藩・生坂、1672年〜幕末(113池田)

広島県

安芸広島藩、1619年〜幕末(200浅野)
備後三次藩、1632年〜1720年(210浅野)
広島新田藩、1730年〜幕末(220浅野)

旅する巨人・宮本常一

このページでは、下記書籍を参考にしています。


『宮本常一著作集25「村里を行く」』(1977年)未来社

はじめに

宮本常一は、明治40年(1907年)8月1日、山口県東和町長崎(周防大島)生まれ。昭和10年、10年余りの教壇生活(大阪)に別れをつげ、渋沢敬三(東京)開設のアチック・ミューゼアム研究所員となる。「土と共に」は、その第一回目の旅である。旅行当時32歳。

  • 周防大島文化交流センター
  • 宮本常一情報サイト 周防大島郷土大学
  • 「大正昭和くらしの博物誌 ─ 民族学の父・渋沢敬三とアチック・ミューゼアム」/国立民族学博物館(みんぱく)

宮本常一「村里を行く」

宮本常一著作集25「村里を行く」(1977年)未来社の中の「土と共に」(pp.141-231)の旅では、松江から下って西中国山地に入り、細見谷(広島県)から広島・島根県境尾根を越えて、広見谷(島根県)に抜けている。

「土と共に」は昭和14年11月14日から、12月中旬までのおよそ一ヵ月ほどの旅の前半の記事であるが、私にはじつに印象の深い旅であった。(未来社版追記p.244より)

本書(Web作者注「村里を行く」)が最初に発行されたのは昭和18年12月20日であった。発行所は三国書房で、女性叢書の一冊としてであった。(未来社版追記p.232より)

なお、再刊にあたって、旧仮名を新仮名に改められている。

以下、カッコ内以外はすべて未来社版からの引用、ただし漢数字を算用数字に置き換えた箇所あり。

「土と共に」の旅行日程

  • 昭和14年10月4日夜、私は原稿を持って東京をたった。
    (Web作者注:確かに10月となっている。ただし、未来社版追記p.244によれば、「土と共に」の旅は11月14日から12月中旬である(上記参照)。なおここで原稿とは、田中梅治翁の「粒々辛苦」(下記参照)のことであり、田中梅治翁に会うことがこの旅の最大の目的であった)
  • 石見に入る前に島根半島を歩いてみたいと思って、17日朝、松江で汽車を下りた。(大芦村にて泊まる)
  • 翌18日はよい天気である。(恵曇村片句に泊まる)
  • 片句での二日間、私は山本先生から数々の話を聞いた。
  • 11月20日の朝、未だ夜のあけきらぬ頃に、私は宿の人に別れをつげて片句をたった。
    江角へ出てそこから七時に松江へ行くバスに乗る。
    松江で大社行きの汽車に乗って、今市で乗り換え江津へ向う。
    江津で三江線に乗り換え川平で下車した。
    (長谷村清見の分教場に森脇氏を訪ねる)
    森脇氏は病気で長らく休んでおられるという。私はそこで跡市村のお宅まで歩くことにした。
    その夜は一時が来、二時が来るまで森脇氏にさわりはいないかと思うほど話し続けた。
  • (11月21日)午後1時のバスで跡市をたち都濃津へ出る。
    都濃津から江津まで歩く。
    江津へ出てまた三江線に乗る。
    出羽(いずは)の町で下車した。
    田中梅治翁の家までは近い。
  • 22日は煙るような雨である。
    前夜は夜の三時まで興じあうたのであるがその夜もまた一時まで話がつづいた。
  • (11月23日)広島県大朝町のしるべをたずねて歩きだした。
  • 大朝について四日目、すなわち11月26日の夕方、こわれた時計をなおしに町まで出た。
  • 11月28日朝、八幡行きのバスに乗る。(終点からさらに樽床まで行き、後藤吾妻氏宅に泊まる)
  • 翌11月29日は昼すぎまで後藤氏から話をきいた。(三段峡から横川に至る)・・・その夜半から吹雪になって、夜があけるとまた一面の真白である。
  • (11月30日、「雪の峠」を越えて「三葛の宿」(石見国)へ至る。
    横川から奥、古屋敷、二軒小屋などをすぎて行く。
    匹見上村の紙祖へ出たのは三時を少しまわっていた。
    (三蔓にて宿をとる)
    詳細については、下記、私の山行記(2009年06月20日)からリンクあり
  • 12月1日、いよいよ今日は周防国へ入るのである。
    (山口県山代地方の高根村向峠にある斎藤家に泊まる)
  • (12月2日、同地の美島家に泊まる)
  • (12月3日)、三日の朝、向峠を辞した。
  • 12月4日、私は故郷の土を踏んだ。

松村久著「六時閉店-地方出版の眼-」マツノ書店

松村久著「六時閉店-地方出版の眼-」マツノ書店(1989年)という本がある。その中に、”宮本常一先生の思い出(1981年記)”p.105-108という項があり、そこには、民俗学者宮本常一のすさましい仕事ぶりが描かれている。

山口県・豊北町の古老の記憶画200枚以上について、たった2日間、本人をみっちり取材した上で、数週間後にはそれぞれの画毎にきっちり200語の解説文を編集して送ってきたという。「明治大正長州北浦風俗絵巻」1975年である。

これが地元の研究家であれば、たった1枚の絵の解説を書くために、本人の元に何回も通わなければならなかったのだそうである。

ところで、マツノ書店とは、山口県周南市(旧・徳山市)にある古本屋兼業の出版社で、山口県の歴史・民俗学関係の本だけを、DM(ダイレクト・メール)で直販している書店である。1974年(昭和49)から出版活動を開始、1988年(昭和63)には、出版100点記念として「毛利十一代史」(全10巻)を復刻している。

私の山行記(宮本常一関連)

-[[2009年11月15日]]
十方山林道からマゴクロウ谷を登り、横川越(ボーギのキビレ)に達する
-[[2009年10月03日]]
十方山林道を車で行く
田中幾太郎さんと匹見往還(マゴクロウ谷)
-[[2009年06月20日]]
十方山林道~マゴクロウ谷~横川越(ボーギのキビレ)敗退
宮本常一、横川(安芸国)から「雪の峠」を越えて「三葛の宿」(石見国)へ至る
宮本常一著作集25『村里を行く』「土と共に」”雪の峠”p.210-2から引用
-[[2005年01月22日]]
文殊山~嘉納山~嵩山
宮本常一展(周防大島文化交流センター)見学

2009/10/07初出

江戸のお殿様(浅野家)

浅野長政(長勝養嫡子、秀吉の義兄弟)

浅野長勝(ながかつ)、尾張住人、妻の姉の娘二人を養う

姉の方を、木下籐吉郎に嫁がせる(後の北政所、”おね”あるいは”ねね”)
妹の方を、浅野長政(自分の養子)に嫁がせる
すなわち、長政は秀吉と義兄弟の間柄にあり、秀吉配下で活躍する

浅野長政(ながまさ)、(常陸真壁藩)

  • 1583年、大津城主、ついで小浜城主、後に長男の浅野幸長(よしなが)ともども甲斐国配領(甲府城)。関が原では東軍に属する。紀伊の国守となり、和歌山城を現在の姿にする
  • 1605年(慶長10年)江戸にて隠居
  • 1606年、隠居領として常陸真壁5万石を与えられた(常陸真壁藩成立)
    藩史大事典は、長政が常陸真壁に隠居料5万石を与えられた時点で、真壁藩立藩としている
  • 1613年、長男の幸長(よしなが、和歌山浅野藩初代藩主)没、二条城会見(徳川家康と豊臣秀頼)の翌々年のことであった。後を弟の長晟(ながあきら)が継いで2代藩主となる。長晟は、後に福島正則改易後の広島へ移封、和歌山藩のその後には、徳川家康の十男頼宣(よりのぶ)入府

長政長男・幸長(よしなが)、(紀伊和歌山藩)

  • 関ヶ原の役(1600年)の戦功により、浅野幸長(長政長男)が山梨(甲府)から37万6500石で入封して和歌山藩を立藩
  • 幸長病没後、弟の浅野長晟(長政二男)が相続する

長政二男・長晟(ながあきら)、(備中足守藩)

備中足守藩⇒紀州和歌山藩⇒安芸広島藩

  • 豊臣秀吉の小姓、関が原の戦い後、徳川家康に仕える
  • 1610年(慶長15年)、備中足守藩2万4千石
  • 1613年(慶長18年)、紀州和歌山藩37万石(兄死去の為、宗家を継ぐ)
  • 1616年、蒲生秀行(ひでゆき)未亡人振姫(ふりひめ、徳川家康の娘)が嫁す。嫡子光晟(みつあきら、後の2代藩主)誕生、つまり、家康の孫にあたる
  • 1619年(元和5年)、福島正則改易後に広島浅野藩初代藩主となる、42万6千石

長晟の長男−庶子・長治(ながはる)、(備後三次藩)

  • 1632年(寛永9)、広島浅野藩2代藩主となった嫡子光晟(みつあきら)が、異母兄のため分与独立させる(5万石)
    長治は長晟の長男であったが、異母弟の光晟(母は徳川家康の娘)が安芸広島藩を相続する
    長治の息女阿久里は、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩の正室(後の瑶泉院)
  • 1720年(享保5)、代々後継者に恵まれず5代で断絶、広島本藩に還付

浅野吉長(よしなが)の弟・長賢(ながかた)、(広島新田藩)

  • 1730年(享保15)、兄の浅野吉長(よしなが、広島藩6代藩主)から、当初蔵米3万石にて分知
    江戸時代の大藩において行われた新田分知の一つであり、三次藩断絶の後を受けて行われた(本藩の無嗣断絶を防ぐため)
    江戸定府(封地は特に定めず)
  • 1864年、安芸吉田に陣屋を置く

長政三男・長重(ながしげ)、(下野真岡藩)

下野真岡⇒常陸真壁⇒常陸笠間⇒播磨赤穂(江戸城松の廊下)、長重から数えて4代で断絶

下野真岡藩(長重)、1601年〜1611年
常陸真壁藩(長重)、1611年〜1622年
常陸笠間藩(長重-長直)、1622年〜1645年
播磨赤穂藩(長直-長友-長矩)、1645年〜1701年

  • 1600年、徳川秀忠の小姓となる
  • 1601年、関ヶ原(浅野家は東軍側につく)後、下野真岡藩2万石(陣屋)立藩
  • 1611年、父長政の死去に伴い、父の隠居料5万石をそのまま相続して常陸真壁に転封、真壁藩を興し陣屋を構える
    ただし、真壁藩立藩の時期について、藩史大事典は父長政が常陸真壁に隠居料5万石を与えられた時点としている
    なお、真岡藩には堀家が入って継いだ
  • 1622年(元和8年)、常陸笠間(笠間城)に5万3500石で転封して、城持ち大名となる。
    この措置は、長重の種々の活躍に対して加増転封の内示があったにもかかわらず、長重が亡き父長政の菩提寺がある真壁の領有を望んだ結果である。すなわち、笠間藩の石高のうち2万石は、旧地真壁の一部 (父長政の菩提所である伝正寺を含む)を飛び地として残したものである。そして、真壁陣屋は笠間藩の真壁出張所となり、ここに真壁藩は消滅する

長重長男・長直(ながなお)

  • 浅野長直(ながなお、長重の長男)笠間浅野藩2代藩主、赤穂浅野藩初代藩主
    1645年(正保2年)、笠間から赤穂へ移封、5万3500石
    1652年、山鹿素行(兵学者、儒学者)を禄高一千石で召抱える
    赤穂城の縄張りは山鹿素行による
  • 浅野長友(ながとも、長直の長男、2代藩主)赤穂藩5万石
    1671年、就任と同時に、長直養子長賢に3500石、同二男長恒に新田3000石分知する
  • 浅野長矩(ながのり、長友の長男、3代藩主)赤穂藩5万石
    1701年、内匠頭長矩、吉良上野介に対して殿中で刃傷に及び改易

間違い発見:2009/08/27
池波正太郎「真田太平記(十一)大阪夏の陣」新潮文庫(全12冊)P.428、12行目

ことに、但馬守(たじまのかみ)長晟の亡父・浅野幸長(よしなが)が、加藤清正と共に、ひたすら豊臣家の安泰を願って、家康と豊臣秀頼の二条城の対面を実現したことは、くわしくのべておいた。
Web作者注:長晟(ながあきら、浅野長政の二男)と幸長(長政の長男)は兄弟である。長晟は、幸長病没後、和歌山浅野藩を継いで2代藩主となる。(その後、安芸広島移封)

吉野ヶ里遺跡

吉野ヶ里遺跡とは

吉野ヶ里遺跡は、北部九州・佐賀県の丘陵上(神埼郡神埼町、三田川町及び東脊振村)にあり、全国でも最大規模の環壕集落遺跡として知られている。遺跡は弥生時代をとおして存在しており、「ムラ」から「クニ」への変遷の跡をたどることができる非常に貴重な遺跡である。

吉野ヶ里遺跡は、1991年(平成3年)5月28日に国の特別史跡に指定された。そして、国営公園(吉野ヶ里歴史公園)として、周辺の佐賀県営公園とともに、一体的な都市公園として計画・整備されている(総面積約117ヘクタール)。

吉野ケ里歴史公園では、「弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)」の吉野ヶ里を想定して復元整備を行っている。魏志倭人伝のいう「クニ」を想定しているといってよいだろう。V字型環壕はもちろんのこと、弥生時代では最大規模とされる大型建物跡の復元(木造三層二階建ての”主祭殿”)などを見ることができる。

プロジェクトX~挑戦者たち~(NHK)

プロジェクトX~挑戦者たち~
アンコール「王が眠る、神秘の遺跡」
~父と息子・執念の吉野ヶ里~
12月07日(火)21:15~22:00放送(2004年)

2週連続して「プロジェクトX~挑戦者たち~」を見た。番組終了後インターネットで調べたところ、第76回(2002年01月15日)放送分に新撮影を加えて再構成したものだという。

1986年(昭和61年)、吉野ヶ里で巨大工業団地建設計画に伴う「開発調査」が開始された。開発調査とは、建設区域に遺跡があるかどうか調査することを、文化財保護法によって義務付けたものであり、調査は工事をする側の責任において行う必要がある。という訳で、佐賀県庁文化課では吉野ヶ里発掘プロジェクトを立ち上げ、リーダーを含めて6名のメンバーで調査を開始した。

吉野ヶ里は、昔から畑を耕せば土器がでてくるというような土地であった。しかし、そこが古代の王国跡だとは誰も思ってはいなかった。そうした中でただ一人、七田忠志(地元神崎高校の社会科教師)だけは違っていた。生涯をかけて(1981年、昭和56年没)独力で発掘調査を続けたのだ。その息子が吉野ヶ里発掘プロジェクトのリーダーとなった七田忠昭である。

発掘は順調に進んだ。忠昭は父の夢みた王国が具体的な姿を現してくるのを素直に喜んだ。ただし、この調査は「開発調査」だ。発掘が終わり次第遺跡は壊されてしまい、二度と再び人々の目に触れることはない。現に、発掘現場周辺ではブルドーザーが準備活動を始めていた。調査を終了した地点から、順次工業団地建設に向けて整地するためである。

発掘を進めるうちに忠昭は確信するようになっていた。この遺跡は絶対に壊してはならない。そこで、あらゆる手立てを尽くして遺跡を破壊から守ろうとした。そして、最終的に吉野ヶ里遺跡が永久保存されるきっかけとなったのは、佐賀県知事・香月熊雄の判断であった。

吉野ヶ里遺跡は、北部九州・佐賀県の脊振山系から舌状に延びた丘陵上(神埼郡神埼町、三田川町及び東脊振村)にあり、全国でも最大規模の環壕集落遺跡として知られている。遺跡は弥生時代を通して存在しており、「ムラ」から「クニ」への変遷の跡をたどることができる非常に貴重な遺跡である。

吉野ヶ里遺跡は、1991年(平成3)5月28日に国の特別史跡に指定された。さらに、平成4年10月27日の閣議決定により、国営公園(吉野ヶ里歴史公園、面積54ヘクタール)として国土交通省によって整備されることになった。

また、本公園の周囲は、国営公園と一体となった遺跡の環境保全、及び歴史公園としての機能の充実をはかるため、県営公園(約63ヘクタール)として佐賀県によって整備が進められている。すなわち吉野ヶ里遺跡は、その周囲も含めて総面積約117ヘクタールの区域が、一体的な都市公園として計画・整備(継続中)されているのである。

さて、吉野ヶ里遺跡では、弥生時代前期においてすでに環壕を持った集落が出現しており、「ムラ」から「クニ」へ発展する兆しをみせている。中期には、丘陵を一周する大規模な外環壕が形成され、後期に至って、環壕がさらに2か所の内郭(北と南)をもつようになった。

北内郭と名づけられたゾーンは、二重の壕と城柵(土塁と柵)で囲まれており、複数の大型建物跡が発見された。このうち弥生時代では最大規模とされる大型建物跡は、祭祀場であったと考えられており、木造三層二階建ての”主祭殿”として復元されている。

吉野ヶ里遺跡は、弥生時代後期に環壕集落の形態を最も整え最盛期を迎えたものと考えられている。そこで、吉野ケ里歴史公園では「弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)」の吉野ヶ里を想定して復元整備を行っている。魏志倭人伝のいう「クニ」を想定しているといってよいだろう。

明石原人の謎

以下、用字用語には再考の余地が有ります。

2004/04/11、最終稿完成
2004/02/25、春成著作(7冊目)追加、本文追加訂正
2004/02/24、設楽編著(6冊目)追加、本文追加訂正
2004/02/16、白崎著作(5冊目)追加、本文追加訂正
2004/01/12、初出(参考文献4冊に基づく)

学術用語の変遷:

更新世(最新世)Pleistocene ← 洪積世Diluvium
約180万年前~1万年前
ヨーロッパがしばしば氷河に覆われた時期

完新世Holocene ← 冲積世(のちに沖積世)Alluvium
約1万年前以降
現在と同じ動植物・景観になる

下記文章中では表記が混乱しています。

明石原人とは

明石原人とは、直良信夫(なおら・のぶお)が昭和6年(1931年)4月18日に明石市西八木海岸で採集した化石人骨(腰骨の一部、左側の寛骨)に付けられた名前である。

命名者は東京大学理学部人類学教室の長谷部言人(はせべ・ことんど)名誉教授で、長谷部は<戦後>になって人骨の石膏模型(現物は空襲で焼失)を研究して、原人級の古い化石と判断したのである。

直良信夫著「学問への情熱」 佼成出版社(1981年)

岩波書店、同時代ライブラリー(247)1995年刊再録

ある考古学者のすばらしき人生(アマゾンレビュー)

ある考古学者のすばらしき人生(アマゾンレビュー、akiamsa21、2005/09/23)
考古学者・直良信夫(なおら・のぶお)は苦学の人であった。音(おと)夫人との運命的な出会いをバネに、最後は早稲田大学教授にまでなったその真摯な生き方は、人々に大きな感動を与えてくれる。その信夫の「学問への情熱」を支え続けたのが、後に明石原人と呼ばれるようになる一片の化石人骨発見であったことは間違いない。

信夫は当時(1931年、昭和6年)明石で病気療養中のアマチュア考古学者にすぎなかった。彼の発見した人骨(腰骨の一部、左側の寛骨)に明石原人と命名したのは、東京大学理学部人類学教室の長谷部言人(はせべ・ことんど)名誉教授だ。長谷部は<戦後>になって人骨の石膏模型(現物は空襲で焼失)を研究して、原人級の古い化石と判断したのだ。

この人骨は確かに化石化していた。実物を手にとって研究することのできた信夫自身は、少なくとも<旧人>クラスのものと考えていた。しかし最近の研究では、旧人はおろか縄文時代以降の<新人>に属するとする説まででてきている。そこで、この人骨は最近では「明石人骨」と表記されている。中学歴史教科書でも採用されることはないようである。

信夫の主張が学会の主流となることはなかった。そして、明石人骨という永遠の謎を残したまま、彼は黄泉の国へ旅立ってしまった。

直良信夫、明石人骨を発見する

明石人骨の発見者・直良信夫(当時29歳)は、明石で病気療養をしていたアマチュア考古学者であり 、21歳の時すでに一流雑誌に考古学の処女論文を発表した経歴を持っていた。そして、人骨発見当時までに表した論文・報告の類は80編以上におよんでいた。

信夫は当時、自宅の玄関先に「直良石器時代文化研究所」(大正14年4月開設-23歳の時)という看板を掲げて、近隣の遺跡等の発掘を行っていた。そして私家製の研究報告書まで発行していた。

信夫が特に力を入れていたのは大歳山遺跡で、彼はこの遺跡を研究したくて明石に居を構えたようだ。つまり、一家の生活を支える立場にあった夫人 (女学校教師)の方が、信夫の意向に合わせて勤め先に市立明石高等女学校を選んだと考えられる。

1926年(大正15年)1月、24歳
播磨国明石郡垂水村山田大歳山遺跡の研究
(直良石器時代文化研究所所報第一輯)
B4版、本文58ページ、図版19ページ
コンニャク版印刷(私家本、限定30部)

人骨は明らかに化石化していた

さて、信夫が明石人骨を発見したとき、崩壊土(タルス)に埋もれた状態になっていた。つまり、崩れていない崖のなかに完全に埋まった状態で掘り当てたものではなかったのだ。信夫のメモには人骨発見時の状況について、「骨には青土がついていた。人骨の出土層は、下部の青粘土層に接している砂礫層だった」と書かれている。

信夫は、この推定出土層に加えて、人骨が明らかに化石化していたことから、この人骨を<旧人>(数十万年前)のものと考えた。つまり、信夫自身が<原人>級 (百万年前)というような古いものと考えていた訳ではない。いずれにしても、発見当時に詳細な報告がなされなかったことは悔やまれる。

詐欺師呼ばわりされる

さて、当時の学会では旧人とする考えすら全く受け入れられなかった。現地の発掘調査を試みようとする学者は誰もいない。逆に信夫のことを「詐欺師」呼ばわりする者さえでてくる始末であった。

東京大空襲で化石を消失する

信夫には学歴がなく自分の立場を強く主張する後ろ盾は何もなかった。人骨について発表する場はどこにもない。傷ついた信夫は、思い切って東京へ出て考古学者への道をめざす。しかし大切に保管していた人骨は、東京大空襲(昭和20年)で焼失してしまう。信夫は計測資料もメモもその他一切の研究資料も同時に全て失ってしまった。

明石原人誕生(東大・長谷部言人が命名する)

ところが実はこの人骨の石膏模型が東大理学部人類学教室に残されていたのである。信夫は人骨発見直後、同教室の松村瞭博士に鑑定のため人骨を一時預けたことがある。その際に博士は人骨の写真を撮り、そして石膏模型を密かに作成したらしい。明石原人とは、戦後この石膏模型を見つけ出して研究した同教室の長谷部言人が命名した名前である。すでに人骨発見から17年が経過していた。

現地再発掘調査の成果なし

長谷部言人らはさっそく現地発掘調査も行ったが成果はでなかった。その後、この石膏模型を用いて研究した学者のなかには、人骨はせいぜい1万年前までのものという結論を出すグループも現れてきた。その研究手法は、人骨が化石化していたかどうかには全くとらわれることなく、石膏模型の各部を計測したデータを純粋に統計学的手法を用いて解析したものである。

信夫は人骨の発見とほぼ同時期に「旧石器」も発見しているが、残念ながらそれらは現在の学問水準からすればただの自然石でしかない。しかし、「明石人骨」については、実際にそれを手にとってみたことのある人々は、確かに<化石化していた>と証言しており、依然として疑問が残る。

再々発掘調査(国立歴史民俗博物館、団長・春成秀爾)でも成果なし

明石原人はいたのかいなかったのか、再々発掘調査が国立歴史民俗博物館(団長・春成秀爾)によって行われた。その結果、人骨が出たとされる層を確認することができた。しかし、新たな人骨や石器は発見されず最終的な結論を出すまでには至らなかった。

この地層の年代については、参加した多くの研究者(地質学、植物学、年代学等)の見解が、約6~7万年前という立場と、十数万年~7,8万年前という立場の二つに分かれており結論はでていない。

なお、この地層から人間によって加工されたと思われる板状の木材片が発見された。また、発掘直前に一般の人が、同じ地層(崖)から石器を一つ抜き取っていた。太古の昔、この附近で「明石人」が暮らしていたことは間違いない。

明石人骨は縄文時代以降のもの?

さて、信夫の発見した「明石人骨」そのものについては、人類学会の大勢はいくら古くても縄文時代以降としているのに対して、今でも反対説が唱えられている。人骨が明らかに化石化していたという事実は重い。「明石人」問題は未だ解決してはいない。

永遠の謎に包まれたままである

しかしながら、学問研究で使用する資料は、きちんとした発掘調査によって得られたものだけに限るべきである、とする春成の意見は傾聴に値する。偶然採取した資料の、しかも複製品が残っているだけでは、いつまでたっても議論は空回りするだけで前には進まない。こうして明石人骨は永遠の謎に包まれることとなった。

参考資料

明石原人の発見-聞き書き・直良信夫伝-
高橋徹著、朝日新聞社(1977年)
学問への情熱-「明石原人」発見から五十年-
直良信夫著、佼成出版社(1981年)
「明石原人」とは何であったか
春成秀爾著、NHKブックス(1994年)
見果てぬ夢「明石原人」-考古学者直良信夫の生涯-
直良三樹子著、時事通信社(1995年)
「明石人」と直良信夫-「明石人」問題はまだ解決していない-
白崎昭一郎著、雄山閣(2004年)
揺らぐ考古学の常識-前・中期旧石器捏造問題と弥生開始年代-
設楽博己編、吉川弘文館(2004年)
考古学者はどう生きたか-考古学と社会-
春成秀爾著、学生社(2003年)
明石原人の発見
高橋が直良から聞き取りして書いたものである。
学問への情熱
本書の著者は直良信夫となっている。しかし、ほんとうはフリーライターの渡部誠が直良からまず聞き取りを行い、さらに高橋徹(「明石原人の発見」朝日新聞社1977年刊の著者)が直良から聞き取りをしたときの録音や、春成秀爾(「「明石原人」とは何であったか」NHKブックス1994年刊の著者)が提供した資料に基づいて下書きしたものに、春成が手を入れ最終的に直良が修正したものである。

「明石原人」とは何であったか
上記2冊の本に対して、升水美恵子(直良長女)、直良博人(直良長男)の証言を元に修正を加えた箇所がある。

「明石原人」問題は、明石人骨発見から50年以上の年月を経過して、ようやく一応の結論をみたようである、としている。

見果てぬ夢「明石原人」
直良長女による作品である。直良自身の思い違いなど細かい点で上記書籍の内容に修正を加えた箇所がある。

「明石人」と直良信夫
考古学・人類学・古生物学の分野に大きな業績を残した「最後の博物学者」直良信夫83年の苦闘の生涯を綴る(帯より)。

著者は医師である。明石人骨そのものや統計処理の仕方について、医師として科学者としての眼からするどい批判を加えている。また、直良信夫履歴についても精査しなおして矛盾点を解決している。

直良信夫略年譜、「明石原人の発見」巻末
直良信夫著作論文目録、「学問への情熱」巻末

照葉樹林文化

照葉樹林帯とは

東アジアの植生分布は、長江(揚子江)流域を基点として、三つに大別できる。すなわち、常緑広葉樹林帯(南側)、落葉広葉樹林帯(北側)、および乾燥地帯(西側)の三つである。

そのうち、常緑広葉樹林帯(暖温帯)のことを特に<照葉樹林帯>と称している。この地域が、アラカシで代表されるような照葉樹林(常緑のカシ類のほか、シイ、タブ、クス、ツバキなどのように葉の表面に光沢のある常緑樹)でおおわれているからであり、モンスーンの影響を受けて豊かな森林を形成している。

照葉樹林文化「論」によれば、この照葉樹林帯の核心部分で成立した独自の農耕文化およびそれに付随する種々の文化要素が、中心部からはるか離れた極東の島である日本列島(南西部)にまで伝播しており、その結果、照葉樹林帯全域にわたって数多くの共通する文化要素が分布する、としている。一種の壮大な作業仮説である。

照葉樹林帯を通って、古くから日本列島にはいくつかの農耕文化がもたらされた。イモ類の半栽培や水さらしの技術(縄文前期)、雑穀・根栽型の焼畑および陸稲、そして水田稲作(縄文晩期後半)である。またこれらと共に一連の文化要素がセットでもたらされた。

照葉樹林帯とナラ林帯

日本には、照葉樹林帯という<南>からの道に加えて、環日本海に広がるナラ林を基盤とするナラ林文化という<北>からの道がある。縄文時代は一貫して東日本のナラ林帯の方が、西日本の照葉樹林帯よりも優位に立っていたことは間違いない。縄文時代の成立と発展におけるナラ林文化の影響を無視することはできないだろう。

日本の民族文化(基層文化)の形成を考えるときには、

縄文時代の始まり(ナラ林文化の関与)
照葉樹林文化の進出と展開(雑穀・根栽型焼畑農耕)
水田稲作の受け入れ(縄文時代晩期後半)
国家体制の確立(古墳時代)とそれらに伴う文化要素の影響度、について検討する必要がある。
水田稲作をもって初めて日本の基層文化とみなす考え方では片手落ちであろう。

照葉樹林帯(常緑広葉樹林帯)の範囲は、ネパール・ヒマラヤの中腹(高度1500~2500m)から、ブータンやアッサムの山地、ミャンマー(ビルマ)北部を中心とする東南アジア北部の山地、さらに中国の雲南・貴州の高地をへて江南の山地に至る。そして長江流域を含んでその南側から台湾高地、南西諸島さらに朝鮮半島南端部から西日本一帯(および本州中部から関東地方の太平洋岸)まで延びている。

落葉広葉樹林帯のことは特に<ナラ林帯>とよんでいる。それら森林帯が主としてコナラ亜属で構成されているからである。ここでブナ林帯とよばないのは、東アジアの大陸側にブナがほとんど分布していないからであるという。

ナラ林帯はさらに<暖温帯>落葉広葉樹林帯と<温帯>落葉広葉樹林帯の二つに分けて考えた方がよい。

暖温帯落葉広葉樹林帯は、淮河から遼東半島に至るいわゆる華北一帯(北側に北京がある)で、中心には黄河が流れており、”リョウトウナラ”の分布域である。リョウトウナラは乾燥にやや強く温暖な地域に適する樹木である。

温帯落葉広葉樹林帯は、東北日本およびユーラシア大陸の日本海側(ハルピン、瀋陽、朝鮮半島のピョンヤン、ソウルより東側)に広がっている。

大陸側での構成種は、モンゴリナラ(日本のミズナラによく似る)をはじめ、シナノキ、カバノキ、ニレ、カエデなどで、温帯落葉樹林の指標となるブナは優先種とはなっていない。その理由は、乾燥度が高い、正確にいえば大陸度が高いためとされる。これに対して東北日本では、ブナ、ミズナラ、コナラ、クリなどが主体となる。

なお、それらナラ林帯の東側(沿海州)から北側(アムール川の下流域)までを含めて、自然景観からすると広い意味でのナラ林帯と考えることができる という。

結局、ナラ林帯の範囲は、環日本海地域(朝鮮半島中・北部、中国東北部、ロシア沿海州、アムール川下流域、サハリン、北海道、東北日本)に加えて華北一帯ということになる。

日本文化の東と西

日本列島の植生は、中部地方を境として西日本(照葉樹林帯、暖温帯)と東日本(ナラ林帯、温帯)で異なり、両者はそれぞれユーラシア大陸の南と北に連なっている 。

このような南北のルートを通して、それぞれの文化要素が時代を超えて何回も日本列島に流れ込んできた結果、日本列島内の西と東では特性の異なる文化要素が分布することになったのである。

例えば、方言や味覚の違いなどはわかりやすいものの一つであろう。こうした違いは細石刃文化(旧石器時代、縄文時代直前)の時代にはやくも現れており、縄文、弥生、そして古墳時代から現代まで続いている。

なお東西を二分するような違いがより鮮明になるのは縄文時代晩期であり、その当時の日本列島は、突帯文文化圏(西日本)と亀ヶ岡文化圏(東日本)に大別することができる。そして、その境界線は中部地方であり植生の違いと一致している。

縄文文化(東日本)はナラ林文化

日本の民族文化(基層文化)の形成を考えるとき、まず第一の画期となるのは縄文文化の成立である。縄文文化には、北方系の特色(深鉢式に縄目文を持つ土器など)が色濃くみられることから、東北アジアのナラ林帯に成立したナラ林文化の影響が東日本にも及んだ可能性が考えられる。

縄文時代は東日本の時代である。人口密度でみると圧倒的に東日本の方が高いのである。例えば縄文中期における100平方キロメートル当たりの人口は、関東地方300人、中部地方260人に対して、近畿地方8人、中国地方4人だという(小山修三教授、国立民族学博物館)。また縄文遺跡の8割は東に分布するともいう(山内清男氏)。

その理由として、ナラ林帯の方が照葉樹林帯よりも食糧資源が豊富であることがあげられる。狩猟採集社会では自然の恵み豊かな方が有利となる。

縄文時代の主要食糧であるクルミ、トチ、ナラ、クリの実などは、圧倒的にナラ林帯に多い。ここで、脂質に富むクルミが多いことは重要な要素である。サケ・マスなどの動物性たんぱく質とともにバランスのよい食事をとることができる。東日本の縄文人は、「成熟せる食糧採集民」であった。

照葉樹林文化の進出(プレ農耕段階)

気候の温暖化に伴い、日本列島の西部に照葉樹林文化(採集段階)が進出してきた。第二の画期である。時期は縄文時代前期ころとされている。

そこでは、すでにウルシ(鳥浜貝塚)が利用されており、縄文時代晩期には本州最北端(亀ヶ岡遺跡など)に達した。また、クズ、ワラビ、サトイモ、 ヤマノイモ、ヒガンバナ、ウバユリなどイモ類の半栽培が行われた。これら半栽培植物の多くはアジア大陸の照葉樹林帯が起源と考えられている。その他、ヒョウタン、エゴマ、リョクトウ、シソなどの小規模な栽培(インド、アフリカのサバンナ地帯起源)が行われた。

西日本では非常に多くの打製石器が出土している。ドングリ、トチなど堅果類の実や野生のイモ類を水でさらし、澱粉を濃縮して利用していたものと思われる。いずれにしても、西日本では狩猟や漁撈も行ったであろうが、植物への依存度が大きい生活様式をとっていた可能性が高い。

縄文焼畑農耕(雑穀・根栽型)

照葉樹林文化のクライマックスを支えた最も重要な生業は焼畑農耕である。そしてそれは山と森を生活の舞台とした文化であった。

日本各地の山村では、かつてアワ、ヒエ、ソバなどの雑穀や豆類、サトイモなどのイモ類を主作物とする「雑穀・根栽型」の焼畑がひろく営まれていた。その時期は昭和35年(1960年)ころまでで、範囲は九州、四国あるいは中部の山地に及んでいた。

日本における焼畑の技術、構成作物の特色、あるいは畑作儀礼の特徴などをくわしく調べると、アジア大陸の照葉樹林帯のそれと一致する点が少なくないことが分かってきた。

焼畑とともに関連する文化が一つのセットになって大陸から伝わってきたことが分かる。時期は水田稲作農耕が展開するかなり前のことで、こうして縄文農耕が始まった。

飲み茶の慣行
ウルシを用いる漆器製作
マユから絹を作る技法
麹を用いるツブ酒の醸造
味噌、納豆など大豆の発酵食品
コンニャクの食用慣行
モチ種の穀物の開発と利用、およびその儀礼的使用
共通の神話、説話(オオゲツヒメ型神話、洪水神話、羽衣伝説その他)
歌垣、山上他界、サトイモの儀礼的使用、八月十五夜
儀礼的狩猟、粟の新嘗その他の習俗、など

ここで特に注目に値するのは、日本列島に隣接した地域(長江中流域の江南山地や台湾山地など)では、陸稲が焼畑の主作物から欠落している例が多いことである。 同様の傾向は、西日本各地の山地における焼畑(昭和35年頃まで存在)でもみられたという。

陸稲を含まない古いタイプの照葉樹林焼畑農耕が存在した可能性がある。ならば陸稲が日本列島に入ってきた時期はいつか。そしてそれはどの様な場所で栽培されたのか。たとえば、川の河川敷や湖の湖畔のような土地を火入れによって開墾していたのであろうか。 今後の研究成果に期待したい。

なお、農耕が始まったからといって人口支持力がそれほど向上したわけではない。縄文時代を通して人口密度は圧倒的に東日本の方が高い状態が最後まで続いたのである。

水田稲作の始まり

イネは他のイネ科作物に比べて、味よく穀粒が大きく調理しやすいなど多くの利点をもっている。このようなイネが照葉樹林帯の中で選択され、水田稲作に生業の基盤をおく「稲作文化」として分離・独立していった。

日本に水田稲作が伝わるのは縄文時代晩期後半であり、そのルートとしては、大陸から直接の場合に加えて朝鮮半島南部経由の2つが考えられている。このとき、当然ながら水田稲作に伴う新しい文化要素が大陸からもたらされた。第三の画期である。

しかしながら、日本の水田稲作文化(弥生文化)は、日常的生活文化の多くを縄文文化の伝統から引き継いだとみることができる。ただし、この場合の縄文文化とは、照葉樹林焼畑農耕の影響を受けていた西日本の縄文文化のことをいう。共に照葉樹林文化の中から発生した文化であり違和感がなかったのであろう

焼畑農耕の諸特色に加えて
ナレズシづくりの慣行
鵜飼の習俗
正月の来訪神
焼米の製作と利用
高床家屋
その他の文化的特色が加わる

このとき照葉樹林帯の外から受け入れた文化要素としては、どちらかといえば非日常的で象徴性の高いものが多いといえよう。例えば、鏡や武器類(銅剣・銅矛・銅戈など)、ガラス製品(玉や管玉)、支石墓(ドルメンの一種)や卜骨(鹿の骨などを焼く骨占い)などである。

このようにして成立した弥生文化は、「稲作文化」のセットとして全国に拡大してゆくことになる。ただしその浸透速度は従来考えられていたほどではなく、見渡す限りの水田が日本全国に展開するのは近世以降という説もでている。

弥生時代の始まりは500年さかのぼる可能性がある?

放射性炭素(C14 )年代測定法を用いた最近の研究成果によって、弥生時代の始まりが500年もさかのぼる可能性がでてきた。2003年5月に国立民俗歴史博物館から発表されたもので、各方面で大反響を巻き起こしている。

参考資料

日本文化の基層を探る-ナラ林文化と照葉樹林文化-
佐々木高明著、NHKブックス1993年
照葉樹林文化の成立と現在、田畑久夫著、古今書院2003年
国立民俗歴史博物館HP
図2-1、東アジアの植生とナラ林文化・照葉樹林文化の領域、P.053
図6-11、東アジアにおけるナラ林の分布、P.216

2004/02/20、追加訂正
2003/08/13、初出