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団塊の世代一代記 >> 井伏鱒二

井伏鱒二

作家(現・広島県福山市加茂町出身)
代表作、「ジョン万次郎漂流記」、「本日休診」、「黒い雨」など

最終更新日:2017-06-02 (金) 23:42:51
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略歴

1898年(明治31)、広島県深安郡加茂村(現・福山市加茂町)生まれ、小説家
1917年(大正6)、早稲田大学入学(後に中退)
1938年(昭和13)、『ジョン万次郎漂流記』(第6回直木賞)
1950年(昭和25)、『本日休診』など(第1回読売文学賞)
1966年(昭和41)、『黒い雨』(第19回野間文芸賞)、文化勲章授章
1993年(平成5)、死去(享年96歳)

井伏鱒二著『黒い雨』は、「重松日記」(重松静馬・作)が基になっている

井伏鱒二の『黒い雨』について、「ひろしま通になろう」P.034は、「被爆した主人公とその姪が備後の山間に帰った後の物語で、黒い雨を浴びた姪に原爆後遺症が現われるまでの不安や苦悩を描いている。姪が原爆を受けていることで縁談を断られてしまうエピソードなどは、被爆者の精神的苦悩も切実に実感させる」と評価している。

この小説には元になった資料がいくつか存在している。その中で中心を占めているのは、重松静馬(しげまつ・しずま)が書き残した「重松日記」 である。重松の名前は、小説の中にも主人公、閑間重松(しずま・しげまつ)として登場している。

重松は、広島で被爆後に生家のある広島県神石郡三和町小畠(現・神石高原町、広島県東部すなわち備後の一部)に帰っている。そしてそこで、被爆当時の当用日記を基にして、原爆の惨状を大学ノート3冊に書き続けていた。

記録を残した理由について、現当主の文宏氏の記憶では、「昭和44年2月に、山陽新聞の川崎記者が来たとき、重松は「原爆を知らない孫たちに、惨状の一部を伝えたらと思って書いた。」と言っていた」(下記講演記録参照)という。なお、同講演会の演者であった重松文宏氏は、当時、広島県神石郡三和町の教育委員長だった。

重松が、この3冊(「重松日記」)の推敲を重ね、すべて完成させたのは1960年(昭和35)1月であり、すでに被爆(1945年8月6日)後15年が経過していた。それからさらに二年半経った1962年(昭和37)6月になって、重松は、この日記を旧知の井伏鱒二に目を通してもらいたいと願い出ている。

日記を受け取った井伏は、翌年3月末の重松宛封書で、「実はあの記録のなかからいろいろの挿話を拝借して私は小説を書こうと思ってゐましたが、無断で盗んではいけないし、それに実際のことを知らないのでそのままにしてをりました」(筑摩書房「重松日記」重松静馬宛井伏鱒二書簡P.255-6)と、日記の返却が遅れていることを詫びている。

「これに対して、重松から、返すにおよばないからお手許に置いて御随意に利用して構わないことと、そのことで調査することがあれば遠慮なく申しつけてほしい旨の返信があった」(筑摩書房「重松日記」解説P.283)。

1963年(昭和38)9月になって、井伏は「重松日記」を題材とした小説を書く決心をしている。そして、「重松日記」の買取を持ちかけ、了解を得て、連載予定の新潮社と井伏自身で費用を捻出している。「この時点で「重松日記」の使用権は新潮社を経て井伏の手に移ったことになる」(筑摩書房「重松日記」解説P.285)。

『黒い雨』の連載スタート(月刊文芸雑誌「新潮」)

『黒い雨』は、月刊文芸雑誌「新潮」で発表され、1965年(昭和40年)1月から1966年(昭和41)9月までの21回連載で完結した。そして、10月に単行本が発刊され、野間文芸賞が贈られた。さらに、同年11月には文化勲章を授章している。

記録文学としての小説『黒い雨』の成功は、「重松日記」および重松の活躍によるところが大きい。連載が始まってからも、重松は井伏の求めに応じて、被爆者との面談を設定したり、戦争中の暮らしぶりについて書き送るなどの骨を折っている。

連載原稿が完成した後の1966年(昭和41)8月に、井伏と重松は、福山で泊り込み二日連続で打ち合わせをしている。単行本化に向け、内容に正確を期するため、重松の意見を聞きたいと考えてのことであった。打ち合わせ完了後、引き続いて、重松の慰労を兼ねて向島(尾道の対岸の島)で一泊している。

重松が帰ってきて、現当主の文宏氏に語った言葉がある。「「二人の共著にしたらどうか」と井伏先生に言われて、「私のような素人が名前を並べては、いけません。私は資料提供者として充分です」と言った」(下記講演記録参照)。

同じ場面について、筑摩書房「重松日記」解説P.288は、次のように記している。「井伏は重松に対して「これを二人の共著にしたいと思うが、どうですか」と申し入れたが、重松は「そんなことをすれば、先生のお名前に瑕(きず)がつきます。私は資料提供者として充分報われていますから・・・」と言って固辞したという話を重松家の当主から伺った」。

「黒い雨」の最初のタイトルは、「姪の結婚」であった

「黒い雨」のスタート1月号から7月号までのタイトルは『姪の結婚』であった。そのタイトルを、翌8月号から「黒い雨」に変更した背景について言及した書簡が残っている。(井伏鱒二書簡類180通、中国新聞記事2009/03/26)

同記事によると、「手紙によると、当初は、ある女性の日記を基に執筆を進めようとしたが、焼けて入手できなくなったため、女性の叔父にあたる重松静馬さんの日記を基にし始めた。それに伴い、タイトルを変えたと説明している」

各教科書に採用
映画「黒い雨」、田中好子
世界各国で読まれている
黒い雨の正体は
広島被爆軍医予備員の記録(岩竹博)、岩竹夫人の看護日記
中浜東一郎著『中浜万次郎伝』

参考資料

中国新聞記事

  • 2009/08/07

「黒い雨」井伏の心情探る
関係者の書簡を分析
福山大生が原爆の日の8月6日に発表

井伏鱒二は、広島県東部の出身である。しかも、戦前からずっと東京で暮らしていた。したがって、自分自身は原爆(広島市:広島県西部)とは無関係であった。被爆者でない井伏はどのような心境で名作「黒い雨」を書き上げたのであろうか。

井伏が「黒い雨」を書くにあたっては、いくつかの資料を参考にしている。その中で最も重要な位置を占めるのが、重松静馬著「重松日記」であり、作中でも閑間重松(しずま・しげまつ)の名前で登場している。

その重松静馬さん(故人)の書簡などを分析した研究成果が、福山大学人間文化学部の学生さん二人によって発表された。(指導:青木美保教授(近現代文学))

同大の発表(中国新聞記事)によれば、「静馬さんが井伏に執筆を依頼したきっかけ」について、「原水禁世界大会に出席した際に「多くの他府県の代表とお会い致し、あまりにも事実の認識無きにがっかりした」と書簡を引用して説明」している。

つまり、「被爆者への理解のなさに焦っていたのでは」ないかという。なおここで、「静馬さんが井伏に執筆を依頼したきっかけ」というのはどういうことを意味しているのであろうか。

重松が井伏に「重松日記」を見せたのは、ただ単に井伏に自分が書いた資料(重松日記)を見てほしいと頼んだのではなくて、井伏の手によって(文学)作品に仕上げてほしいと、最初から依頼したという意味であろうか。

ちなみに、今回の発表の場は、神石高原町小畠の小畠交流会館であり、呼び掛け人は、重松家現当主の文宏さん(静馬さんの養子)である。