日航ジャンボ機墜落事故
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日航ジャンボ機(JAL123便)墜落事故
http://dankai.akimasa21.net/fwd3/JAL123
(本ページの短縮URLです)
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日航ジャンボ機(JAL123便)墜落事故
昭和60年(1985年)8月12日
日本航空JAL123便墜落事故(死者520人)
乗員15人、全員死亡(機長、副操縦士、航空機関士、計3名を含む)
乗客509人、その内生存者は女性4名のみ
18時12分(定刻の12分遅れ)、羽田離陸(大阪・伊丹行)
18時24分、相模湾上空で異常発生
18時56分、群馬県山中に墜落
犠牲者の方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます

2005/12/24、アマゾンレビュー転載
2005/08/13、カシミール展望図作成
2000/08/14、初出
サイト内関連ページ(航空機):
零戦(零式艦上戦闘機、ゼロ戦)
神風特攻隊(特別攻撃隊)
エノラ・ゲイ、広島に原爆(原子爆弾)投下
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日航機「よど号」ハイジャック事件
米国同時多発テロ事件
サイト内関連ページ(地図とコンパス):
地図とコンパスの使い方(ひろしま百山-私の踏み跡-)
愛知大学山岳部薬師岳遭難事件
乳頭山遭難43名
参考資料
米田憲司著「御巣鷹の謎を追う」宝島社(2005年)
事故原因は何か
現場確定が遅れた理由は何か
不可解な自衛隊の行動
米軍が救助を中止した理由は何か
事故調査委員会は何故結論を急いだのか
特別付録:JAL123便ボイスレコーダー+CG映像DVD
日航123便事故の「真相解明」をはばんだものは何か
(アマゾンレビュー、akimasa21、2006/01/29)
下記文章の要約(本ページ末尾参照)
河村一男著「日航機墜落」イースト・プレス(2004年)
123便、捜索の真相、2000名が見た地獄!
警察の最高指揮官が、20年目にしてすべてを明かしたノンフィクション!
墜落現場は御巣鷹山ではない!(帯より)
地図とコンパスがほしかった
(アマゾンレビュー、akimasa21、 2005/9/12)
下記文章の要約(本ページ末尾参照)
藤田日出男著「隠された証言」新潮社(2003年)
内部告発が明らかにする隠蔽の構図
元日航パイロット・事故調査のエキスパートが
執念で描く、18年目の真相!(帯より)
JST失敗知識データベース/科学技術振興機構(JST)
日航ジャンボ機墜落事故(概略)
航空機事故のおよそ9割は、<離陸後>3分間、<着陸前>8分間の合わせて11分間に起こっている。これが魔の11分間(クリティカル11min)と言われるものである。
逆にいえば、高度・速度共に安定して飛行している状態(巡航速度)での事故は非常に少ない。日航ジャンボ機墜落事故は、巡航速度中に起きた事故としては、未だに世界最大規模の航空機事故とされている。
事故原因は、事故調(運輸省航空事故調査委員会)によれば、後部圧力隔壁が破壊されたことによって、垂直尾翼およびその附近にある油圧システムが大きなダメージを受けたため、としている。しかし、この圧力隔壁破壊説に対しては現在に至るまで異論も多い。
墜落地点は、長野県境に近い<群馬県>内の奥深い山中であった。直ちに空からの捜索が開始され、米軍機、自衛隊機、および民間機がそれぞれ現場上空に達するものの、その夜のうちにはその地点が群馬県側と断定することさえできなかった。
この間、事故発生直後から、墜落現場は<長野県>側とする様々な<誤>情報(佐久説から始まり、碓氷峠説、ぶどう峠説、そして御座山北斜面説など)が飛び交った。 そして、<翌朝>05時37分、<長野県警>ヘリ「やまびこ」によって、やっと空から現場を特定することができた。
<群馬県警>地上捜索隊は、事故当夜から活動を開始した。非常に広い山域を隊を二分して捜索した結果、そのうちの一隊が<翌朝>07時34分、現場を<視認>することに成功した。 (群馬県警、当時ヘリコプター所有せず)
長野県警による空からの現場特定に遅れること約2時間であった。しかしそこは、現場からははるか遠く離れた地点であり、とても現場到着は無理であった。現場とは真反対の方向を目差していたのだ。
捜索が難航したのは、もともと確かな情報が少ないうえに、通信状態が非常に悪く、上野村の現地本部との連絡がうまくいかなかったことが原因の一つとされている。 また、中央から現地本部に届いた情報そのものが非常に少なかったことも事実だろう。
しかしながら最も大きな原因は、現地本部および捜索隊が、<地図とコンパス>で墜落推定地点と捜索隊の位置関係をしっかり把握しながら行動することができなかったことにある、と考えられる。
奇跡的に4名の生存者がいた。しかし、無事病院に収容された時、事故発生から実に20時間が経過していた。とはいうものの、警察・消防、自衛隊その他全ての人々が最大限の努力をした結果だ。 生存者の発見から遺体の収容まで、関係各位の超人的な努力には頭が下がる思いである。
ところで、事故処理のための統合本部は遂に設置されなかった。その代りを群馬県警本部長が穴埋めする形で調整役を努めた。しかし、このような巨大事故に対応するには、情報の一元化と指揮命令系統の統一化が絶対条件となる。救難体系の見直しは、その後も十分な検討をされることなく、放置されたままとなっている。
事故現場の特定はなぜ遅れたのか
今からちょうど20年前、1985年8月12日18時56分、日航ジャンボ機JAL123便は、長野・群馬県境の群馬県側山中に墜落した。しかし墜落現場の特定すらその日のうちには出来ず、4名の生存者(いずれも女性)が発見されたのは翌日の午前10時45分であった。
彼女たちの証言によれば、墜落直後しばらくの間は彼女たち以外にも生存者がいたことは確実である。自衛隊および警察による捜索・救難活動の遅れは致命的であった。なぜもっと多くの人たちの命を救うことができなかったのか。この事故で残された大きな課題の一つである。
現場に一般人を近づけたくない何か重大な理由があったのであろうか。河村一男群馬県警察本部長(当時)は、群馬県警捜索隊にどのような命令を下したのか。そして捜索隊はどのような行動をとったのか。 河村著書(末尾記載)が「責任者の代表として正しい事実を書き残せ」ているかといえば、肝心の捜索活動について曖昧な点が多すぎるため、大いに不満が残る内容となっている。
河村著書によれば、群馬県警が墜落位置情報を始めて入手したのが12日23時08分のことだという。受け取った情報は、航空自衛隊レーダー(千葉県安房郡丸山町・峯岡山)の分析結果のようだ。果たしてこれが事実なのだろうか。墜落直後、現場上空に真っ先に到着したのは、在日米軍C130ハーキュリーズ輸送機(アントヌッチ中尉搭乗)だった。そして12日19時19分には、墜落位置情報を発信している。この情報は航空自衛隊中央救難調整所(埼玉県入間市)を経て、直ちに防衛庁空幕まで伝わり、そして日本航空にも非常に早い段階で達している。
米軍機に続いて、自衛隊機、民間機も現場上空に到着した。その他、各地のレーダーによる計測値も多数ある。計測、作図から地図への落とし込みまで、時間のかかる作業ではないようだ。このようにして求められた緯度経度情報は、いずれも墜落地点の回りに正確にバラついている。これだけの証拠がありながら、なぜ最後まで墜落現場は<長野県側>だったのだろうか。群馬県警は本当に何も知らせてもらっていなかったのだろうか。
さて、群馬県警捜索隊は日付が変わる頃、地元猟友会の道案内で隊を二分して捜索活動に入る。受け持ち範囲は隊長隊が北側、副隊長隊は南側である。
ここで隊長隊は、実は墜落位置情報として唯一群馬県警にもたらされたという地点のそばを通っている。しかし、現場は近くにあるはずだという緊張感は全く伝わってこない。
副隊長隊は、13日午前7時34分、 周囲を見渡せる中腹の高みに立つ。振り返れば煙が上がっており飛行機の残骸らしきものを見る。しかしその地点は、カシミール3D(3D地図ナビゲーター)で私が作図した限りでは、群馬・<埼玉>県境の群馬県側でしかあり得ない。
副隊長隊が現場を視認したという位置は、三国峠よりも北北東側ということになってしまうのである。つまり、現場である「<長野>・群馬県境の群馬県側」からすると、真反対の方向に向けて現場から遠ざかるように登ったとしか考えられない。
群馬県警本部で使用した地図は、上野役場編集4万分1富士波版(緯度・経度標示なし)と日本分県地図地名総覧(群馬県分26万5千分1、長野県分36万分1)という<小>縮尺の地図である。
捜索隊も含めて、<大>縮尺の地図(国土地理院二万五千分1あるいは五万分1地形図)やコンパスは持っていなかったのだろう。これでは、緯度経度情報を得ても実際にはそれがどこであるか分かるはずがない。地図とコンパスを高崎や前橋で揃えて持って行くべきであった。
その他、墜落現場は御巣鷹山ではない、御巣鷹の尾根でもない、という河村著書の主張には私としても全面的に賛成である。ただし、藤田日出男著「隠された証言」新潮社(2003年)を実にいい加減な本であると決め付けているが、それはどうかな。相手は元日航のパイロットであり、航空事故調査を英国の大学で学んだという専門家だ。「圧力隔壁破壊による急減圧はなかった」という主張には説得力がある、と私は考えている。
JAL123便
ボーイング社製 DC747SR(運輸省機体登録番号:JA8119号)
全長70.5m 全幅59.6m 重量約250t
SRとはショート・レンジの略で、短中距離の日本の航空事情に会わせて数多い離着陸をこなせるように補強された機体のことを指す
18時12分、羽田空港離陸
18時24分35秒、相模湾上空で異常発生(ドーンというような爆発?音)
18時24分42秒、スコーク77(EMG:emergency call)発信
18時56分23秒、衝撃音
18時56分26秒、衝撃音
18時56分28秒、ボイスレコーダ、録音終了(異常事態発生から 約32分後)
事故発生と同時に垂直尾翼の約3分の2が吹っ飛んだ (下部方向舵の一部も破損)。尾翼部分には油圧システムが集中している。尾翼の損傷に加えて、油圧(4系統すべて)が効かなくなった機体は操縦不能となり、ダッチロール状態(機体が上下左右に揺れること)となった。
キャプテン達は、主にエンジン出力の調整によって機体をコントロール、羽田へ引き返そうと懸命の努力を行う。 その途中にある米軍横田基地からも、123便に何度も呼びかけが行われた。「滑走路をあけておくので、いつ緊急着陸してもよい」と伝えたかったのだ。
しかし、123便にはそれに応じる余裕はまったくなかった。機体を飛行させることだけで精一杯だった。その時の緊迫した状況は、フライトレコーダーとボイスレコーダーの中にしっかりと刻み込まれている。フライトレコーダーを見ながらボイスレコーダーを聞くことによって、キャプテンたちの必死の操縦内容がよりよく理解できるだろう。
ボーイング747ジャンボ機の航空性能はもちろんのこと、キャプテン達の技量はすばらしかった。事故発生から墜落までの30分間の操縦について、多くのパイロットをして「あの状況でよくあそこまでがんばれた」と非常に高い評価を受けている。しかし、最後は力尽きて群馬県内の山中に墜落した。
昭和60年(1985年)8月13日
この日の朝、甲府市内(山梨県)にあった私の勤め先では外勤社員の禁足令が出された。前日の夕方、日航機(羽田発大阪行)が山梨県内の山中に墜落、その飛行機に我社の社員が乗っているというのである。
結局しばらくして墜落場所は群馬県内とわかり拘束は解かれた。しかし、やはり社員2名の方が殉職された。その他、大阪(道修町-どしょうまち)に本社を構える製薬メーカの中から何人かの犠牲者が出ている。
出張帰りのビジネスマンの中には、新幹線よりほんの少しでも早く自宅に帰れるということで、飛行機を選んだ人もいたことであろう。ご冥福をお祈りするばかりである。
平成12年(2000年)8月13日(日)
事故からちょうど丸15年、たまたま朝のテレビ番組を見ていたら、ボイスレコーダーの肉声テープが公開されていた。それは、トラブル発生から墜落までの緊迫したコックピット内の様子を知らせるものであった。
最後まで懸命に操縦し続けたキャプテン達とそれをフォローする客室乗務員、そして30分間余りの恐怖に耐え続けた乗客の無念を思うと涙を禁じ得ない。
しかし、このテープは正式に公開されたものではないのだそうである。つい最近廃棄処分されてしまったらしい本事件関連の<1トン>余りの資料(事故後10年の保存義務)の中の一部で、それがたまたまマスコミの手に渡ったものだという 。
本事件の事故原因については、運輸省航空事故調査委員会の結論(後部圧力隔壁破壊説)に対して異論も多く、政府に対して再調査を求める声がある中で、こうした資料の散逸は非常に残念である。
事故原因について(運輸省航空事故調査委員会)
事故の主な原因は、”後部圧力隔壁が金属疲労で破壊されたため”、機体内の与圧された空気が一気に外に吹き出し、垂直尾翼を破壊したためである、としている。
ではなぜ圧力隔壁は破壊されたのか? 事故調は次のように説明している。
同機は本墜落事故の約7年前の1978年6月、大阪空港で「尻もち事故」(機体尾部が滑走路を"こする"事故)を起こしている。このとき圧力隔壁を修理したボーイング社の整備士がリベットを正確に打たなかったため、飛行を繰り返していくうちに金属疲労を起こし破壊された 。
つまり事故原因は、ボーイング社と日航の整備ミスということで、両社とも公式にこれを認めている。
圧力隔壁破壊説はほんとうに正しいのか?
ジャンボ機は高空(低圧状態の中)を飛ぶ。したがって人員の生命維持の為、機内を与圧(圧力を加えて)しており、その圧力に耐えるように機体を補強する装置が圧力隔壁である。
このような装置が破壊されれば、与圧された空気が急激に外に押し出されるのは当然のことである。しかし、それが尾翼を破壊するほどの強い圧力を持つものなのであろうか。
いずれにしても、 事故直後、人間や荷物が機外へ吸い出されるといったような急激な気体の流れは観測されていない。いわゆる急減圧はなかったものと考えられる。したがってキャプテン達は機体を急降下させる措置は取らず、また自分たち自身が酸素マスクを装着することもなかった。
圧力隔壁破壊 → 尾翼破壊という図式とは別の見方として、まず最初に尾翼が破壊されたという考え方も成り立つ。圧力隔壁が破壊されたのは、ただ単に墜落時の衝撃によるものではないのだろうか。
<垂直尾翼はなぜ破壊されたのか>、もう一度事故原因を徹底的に調査する必要があると考える。 もしくはきちんとした情報公開をすべきである。一般市民が理解納得できる説明はいまだなされていない。
急減圧はなかった?
2005年08月12日追加
日本乗員組合連絡会議(日乗連)は、圧力隔壁破壊による急減圧はなかったと主張している。そして事故の直接的原因として、上部方向舵のフラッター(振動)現象をあげている。この現象によって垂直尾翼が破壊されたというのだ。 有力な手懸りの一つだろう。
その垂直尾翼は、相模湾に沈んだままだ。事故調では、たった3日間の作業で垂直尾翼の回収をあきらめている。そして、急減圧はなかったとする側の人たちに対して、その疑問には答えようとしていない。当時の事故調の調査活動が不十分であったため、反論するだけの根拠を持っていないとしか考えられない。
なお、生存者による証言にもある通り、何らかの原因によって穏やかな減圧は生じたようだ。そうした中で乗員は、2万フィート以上を18分間も酸素マスク無で飛行している。乗員が低酸素症にかかっていたという事実については、立場の違いを超えてほぼ合意が得られている。コックピットクルーは酸素マスクを着用すべきであった 。(河村著書P258~263など)
墜落現場は御巣鷹山ではない
墜落現場は群馬県上野村。群馬県内の御巣鷹山(標高1639.4m)と群馬・長野・埼玉県境の三国山(標高1834m)を結ぶ線上の”無名”尾根(標高約1565m)である。ところが、無名では何かと不便だというので、一番近い御巣鷹山という名称を用いることにしたという。
墜落現場の位置は、<御巣鷹山がある尾根>の南に平行して走る”大蛇倉尾根”の、さらに少し南を県境から東へ流れる支尾根上である。 そして、墜落現場となった尾根の谷側を”スゲの沢”という。したがって、尾根の名称としては「スゲの尾根」あたりが妥当だったのであろう。河村P.290~291
以下にて詳しく検討してみたい。
主な参考資料は、河村一男著「日航機墜落-123便、捜索の真相-」イースト・プレス(2004年)による。 添付の地図は特に有用である。
現場付近鳥瞰図同書P5、現場広域地図同P6-7、現場地図同P8-9、先着グループ踏み込み推定場所(現場詳細図)P176など
ただし、地図の内容(三国山頂の位置や、ある一つのピークの標高)について多少の疑問があり、出版社(イースト・プレス)に読者問い合わせのメールを入れたが、今日2004年09月18日現在 "なしのつぶて" である。
添付の地図についてお尋ねします。(2004年08月12日イースト・プレス宛)
1)三国山1834mの表示が三国山山頂から少し南へずれてプロットされているのは、何か理由があるのでしょうか。
2)日航機墜落地点(第4現場)北を走る大蛇倉尾根のピークに1715m と表示がありますが、これは1704mの誤りではないでしょうか。
今日2004年09月18日、これら地図についてさらに重大な疑問点を発見した。埼玉・群馬県境上に、「空峠1796m」とあるのは、そのさらに北の1730mの位置である。この地点は、第一次捜索隊・疑問2(後述)で重要なポイントであり見逃すことは出来ない。
なお、緯度経度情報はすべて"Tokyo測地系"で表記した。
使用ソフト:カシミール3D(DAN杉本さん作)
http://www.kashmir3d.com/
使用地図:山旅倶楽部(山と自然の旅)
http://www.yamatabi.net/main/club/club.html
参考:「地図閲覧サービス(試験公開)ウォッちず」国土地理院
http://watchizu.gsi.go.jp/
「山旅倶楽部」提供の地図は、2万5千分1地形図をデジタル化した国土地理院発行の数値地図を元に作成している。最近、国土地理院HP内の「地図閲覧サービス(試験公開)ウォッちず」で、 カラーの2万5千分1地形図情報をみることができるようになった。
「ウォッちず」の方が精度が向上しており、「山旅倶楽部」と比較した場合、微妙に位置がずれてくる箇所がある。したがって、「ウォッちず」を使用したいのだが、当Web作者は、 「ウォッちず」と標高データをいっしょに重ねて使用する方法を知らない。
カシミール展望図を描く場合、緯度経度情報とともに標高データが必須であり、それらがセットになって提供される「山旅倶楽部」提供の地図を使用して、以下の検討を行った。
日航機の墜落現場は御巣鷹山ではない。河村一男氏は下記著書で、繰り返し誤りを指摘している。初期情報の混乱の中で生じたこととはいえ、事故現場の特定は基本中の基本である。情報の裏をとる努力なしに、21世紀に入った今も誤った情報を流し続けるマスコミの責任は大きい。
参考までに、事故翌日の群馬県警発表では、「(墜落位置は)御巣鷹山と群馬・長野・埼玉県境の交わる三国峠とを結ぶ線の中間点、御巣鷹山の東南東2.5kmの尾根」となっている。河村P.290
(Web作者注:方角および距離の表示が少し間違っている)
御巣鷹山と三国山を結ぶ線上の”無名”尾根では長すぎて不便だ、あるいは無名ではどうしようもない、というような安易な態度ですまされる問題ではない。なお、"御巣鷹の尾根"という呼び方があるようだが、かえって場所の特定を困難にするだけだ。墜落現場は、決して御巣鷹山から派生する尾根上にはない。
日航機墜落地点(第4現場)二万五千分1地形図"浜平"(および"居倉"参照)
群馬県多野郡上野村大字楢原字本谷3577番地、国有林76林班う小班
三国山の北北西約2.5kmにある尾根(標高約1565m)-事故調資料より
北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒-事故調資料より
群馬県内の御巣鷹山(1639.4m三角点)から、直線距離で南西に約850m行った地点を長野・群馬県境が走る。両県境は大きな尾根に沿って付けられており、いくつかのピークを越えて南東の三国山(群馬・長野・埼玉県境)に至る。
県境稜線上には、北から、1815m(船留)、1962m(大蛇坐山)、1922mピーク、高天原山(1978.6m三角点) 、三国山(標高1834m)などが並んでいる。そしてこの間には、群馬県側に向けて、いくつかの支尾根が東の方角へ流れる。 (厳密にいえば、長野・群馬・埼玉三県境は、三国山ピークのわずかに北側である)
長野・群馬県境:
ぶどう峠(1500m台)~1598.5m~1821.8m~1915.8m~1815m(船留)~1962m(大蛇坐山)~1922m~(日航機墜落尾根分岐)~1978.6m(高天原)~三国山(1834m)
群馬・埼玉県境:
三国山(1834m)~1730m~1618.2m~1658.1m
なお、厳密には、長野・群馬・埼玉三県境は、三国山ピークのわずかに北側である。
御巣鷹<山>の尾根:
県境ピーク(1815m-船留)~1747m~御巣鷹山(1639.4m)~1546m~1338m
大蛇倉尾根:
県境ピーク(1922m)~(1704m-図中に表示なし)~1576m~1392m~1183m
無名尾根(墜落現場):
県境ピークの1922m峰から、県境を南東へわずかに行った地点から東へ流れる支尾根
無名尾根(墜落現場の南側):
高天原の東(県境)~1781~1582
墜落現場の位置を再確認すると、<御巣鷹山がある尾根>の南に平行して走る”大蛇倉尾根”の、さらに少し南を県境から東へ流れる支尾根上である。 そして、墜落現場となった尾根の谷側を”スゲの沢”という。
<大蛇倉尾根>がこの附近では一番大きな支尾根だ。その<北側>には「神無川」の支流である”大蛇倉沢”が流れる。大蛇倉沢を登りつめたさらに<北側>に「御巣鷹山」がある。大蛇倉尾根の<南側>を、「神無川」の上流部にあたる”長戸沢”が<南西>の方角に流れている。長戸沢本流を<南>の方角にさらに登りつめると「三国山」に至る。長戸沢からは大蛇倉尾根の南側に沿って”スゲの沢”が分岐しており、それを<西>に登りつめた支尾根に事故現場がある。
支尾根の標高約1565mが、日航機墜落地点(第4現場)である。機体は、尾根に激突した後、上方に延びる尾根にずりあがるようにして、放射状に機体片を散乱させた。特に、尾根北側(スゲの沢第3支流)の「北西斜面」~「北斜面」に多く散乱し、 尾根南側の「南斜面」も含めて、その広さはスタンド部分も含めた甲子園球場一つ分位あったという。
当Web作者は、当該尾根上の標高約1565mを基点として、墜落場所について検討を加えた。その結果からすると、事故調の発表数値には、正しい位置から2~3秒 程度の誤差があるものと思われる。すなわち、北緯 -約2秒、東経+約3秒を勘案することによって、より正確な位置情報となるはずである。河村一男氏も、緯度・経度について(事故調の発表数値には)2~3秒の多寡がある、とみている。
事故調のいう三国山がどの山域を指すかははっきりとしない。仮に1834m峰とするならば、墜落現場は三国山から方位316.92度、距離2.413kmの地点(北北西ではなく北西)となる。
インターネット地図閲覧サービス(ウォッちず)国土地理院で二万五千分1地形図をみると、三国山の標高<1834m>と明記されている。河村一男氏によれば、平成14年版地形図で新しく1834mと書き加えられた、とのこと。
当Web作者の認識によれば、確かに以前は二万五千分1地形図に、三国山の標高は明示されていなかったはずである。ただし、分県地図等では<1828m>と表記されたものもあったようである。今回、国土地理院は三国山の標高を訂正のうえ、二万五千分1地形図に明記するようになった、ということになる。
- 日航機墜落地点(第4現場)-標高1565m
北緯35度59分51秒80、東経138度41分52秒30(Web管理人推定)
北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒(事故調資料)
北緯36度02分、東経138度41分(初期情報)
- 御巣鷹山(おすたかやま)-標高1639.4m
北緯36度00分45秒95、東経138度41分26秒69 - 御座山(おぐらさん)-標高2112.1m
北緯36度01分51秒00、東経138度36分36秒00 - 三国山(みくにやま)-標高1834m
北緯35度58分54秒80、東経138度42分57秒80
- ぶどう峠-標高1500m位
北緯36度03分39秒10、東経138度38分44秒10 - 三国峠-標高1740m位
北緯35度58分34秒70、東経138度42分54秒80
- ぶどう峠 → 事故現場(見通せない)
直線距離8.443km、方位146.07度(南東~南南東) - 三国峠 → 事故現場(見通せない)
直線距離2.846km、方位326.61度(北西~北北西)
- ぶどう峠 - 三国峠(見通せない)
直線距離11.289km
事故現場は、この二つの峠を結ぶ線上に非常に近い位置にある。 - ぶどう峠 → 御座山(北斜面がみえる)
直線距離4.625km、方位223.9度(南西)
墜落現場と御巣鷹山との位置関係
(初期情報では)
御巣鷹山の<北北西>(方位343.68度、直線距離2.378km)
カマガ沢右岸(東側)中段
(実際には)
御巣鷹山の<南南東>(方位158.98度、直線距離1.788km)
大蛇倉尾根の南向こうに、県境尾根から流れる支尾根上
両者間の距離、すなわち誤差は、4.162kmである。ただし、方位にはほとんど狂いがなく、御巣鷹山は、両者を結ぶほぼ直線上にある。
参考までに、墜落現場は、御座山の<東南東>(方位114.86度、直線距離8.730km)
生存者4名救出までの捜索状況について
(2004.09.23最新)
カシミールの可視データ
カシミールを使用して、墜落現場を視認できる範囲(可視データ)を検討したので、その結果を以下にしめす。
ブドウ峠、三国峠からは視認できない。
墜落現場周辺:大蛇倉尾根、長野・群馬県境、高天原(1978.6m三角点)の東(県境)から群馬県側に流れる支尾根(県境~1781~1582~)で囲まれた範囲の高所では大部分で視認可能。
なお、長野県内で視認できるのは、上記の長野・群馬県境尾根部分のみであり、その他の地点からは全く不可である。したがって、そこから長野・群馬県境尾根を通って三県境(三国山近く)に至るまでの間(長戸沢左岸最上部)に視認できる地点は存在しない。
そして、長戸沢<左岸>(西側)からは全面的に不可。理由は、高天原の東(県境)から群馬県側に流れる支尾根(県境~1781~1582~)に阻まれるため、である。
長戸沢<右岸>(東側)の尾根から視認可能。
すなわち、三県境(三国山近く)~1796m~1730m(ここまで埼玉・群馬県境)~1543m(群馬県内)と続く尾根である。この尾根上にある各ピークにおいて視認可能な標高は以下の通りである。
三県境(三国山近く):標高である1830mで可能
1796m:西側中腹標高約1730mより上側で可能
1730m:北西に流れる尾根の標高約1540mより上側で可能
1543m:西に流れる尾根の標高約1390mより上側で可能
その他:
群馬・埼玉県境から群馬県側に流れる尾根で可能
すなわち、ミミヅク沢、葡萄沢、西沢などの両岸尾根
さらに、群馬・埼玉県境から南天山(1483m、埼玉県)に至る尾根の一部で、飛び飛びに視認可能地点がある
捜索開始
パトカー出動
19時26分、テレビ第一報としてNHKニュースの最後に松平アナが速報。NHKは、その後臨時ニュースを繰り返す。そして、19時50分には放送中の『NHK特集』を中止して、翌朝8時15分までぶっ通しで事故関連の放送を続けた。
19時05分、長野県川上村梓山の農婦から110番(臼田署)
「18時55分頃、埼玉県方面から飛んできたセスナ機より大きな飛行機が、大きく旋回しながら、南相木村(長野県)と群馬県との県境付近に落ちたらしく、赤い閃光がして、その後、黒い煙が上がった」
その他、梓山地区の多くの住人による目撃情報として
「高天原山1978.6mの東を越えて(群馬県側に)飛んで行った」
ぶどう峠(北相木村)方面:パトカー出動19時07分、到着20時07分
三国峠(川上村)方面:捜査車出動19時10分、到着20時50分
南相木村方面:パトカー出動19時10分
東京から何の連絡も入っていない段階(もちろんテレビ速報もなし)で、長野県臼田署では、長野・群馬県境の三つの村すべてをカバーした、鮮やかな初期対応をとった。しかし、何の成果も得ることができず、この<真正> 目撃情報は、後に次々と出てくる<誤>情報の中に埋もれることになってしまった。
19時20分
警視庁司令室から群馬県警へ急報
「東京消防庁からの連絡で、ジャンボ機が熊谷上空でレーダーから消えたとの情報がある」
19時23分
警視庁から長野県警へ通報
「日航ジャンボ機が長野県上空でレーダーから消えた」
19時23分
警視庁、警察庁から埼玉県警へ通報
19時30分頃
警察庁から群馬県警に直接連絡あり、内容は上記に同じ
”日航ジャンボ機、レーダーから消える”との警視庁連絡を受けて、長野、群馬、埼玉の三県警では、即刻パトカーにて三県境の峠、及び高所に向けて捜索に入る。しかし、ぶどう峠(群馬県上野村~長野県北相木村)や三国峠(埼玉県大滝村~長野県川上村)からは現場を確認することができず、何一つ手がかりを得ることはできなかった。
ぶどう峠、三国峠に至る道は、結果的には、自動車通行可能で現場に最も近い南北の峠道であった。しかし、ぶどう峠の場合、群馬・長野両県境に連なる高い尾根から流れる支尾根にさえぎられて現場を見通すことはできない。三国峠の場合、県境尾根そのものにさえぎられてしまう位置関係にある。
カシミール展望図によって検討したところでは、ぶどう峠、あるいは三国峠から見通せる高度は、墜落現場の少なくとも400m以上真上(高度2000m近く)となる。それは、事故現場の西を走る県境尾根よりも、少し高い位置を意味する。
レーダーによる追跡→緊急発進
日航社内における初期の墜落推定地点(レーダーから機影が消えた場所)は、午後7時台の情報では、横田の305度(北西)34海里、となっていた。これをエアウエイ・マニュアル(航空路や空港の地図)で検討すると、北緯36度東経138度45分附近、となる。(藤田日出男著、P.18-19)
東京管制区管制所(通称東京コントロール)-所沢ACC
事故機の飛行を管制しており、事故直後からコンピュータの磁気テープ分析を行い、<事故機がレーダーから消えた場所>の特定を急いだ。しかし、このレーダー解析値は遂に公表されなかった。
東京進入管制所(通称東京アプローチ、羽田)
事故機から帰港の要求があり、18時54分19秒から交信を引き継ぐ
18時57分、羽田から磁方位308度59海里の地点でレーダーから消えた
航空自衛隊レーダー(千葉県安房郡丸山町・峯岡山)
航空自衛隊と米軍横田基地でも、事故機がアクシデント緊急信号を発した直後からレーダー追跡を行っている。そして、機影がレーダーから消えると同時に状況確認のため行動を開始した。
18時28分35秒
レーダーに緊急事態のサイン出る
18時56分02秒
レーダーサイト当直指令、「墜落」と判断、緊急発進提案
レーダーから消えた地点、北緯36度02分、東経138度41分
後の正確な計測によると、北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒
横田タカン302度36マイル
なお、TACAN=戦術航行方式の方位は、磁北から測定する
19時01分、スクランブル発進命令
19時05分、戦闘機(F4Eファントム)2機、茨城県百里基地発進
19時54分、百里基地救難隊ヘリコプター(V107型機)発進
19時58分、MU2S救難捜索機、百里基地発進
運輸省などからの出動要請前であり、異例の緊急発進であった
20時33分、運輸省、航空自衛隊に対してだけ災害派遣要請
米軍横田基地
緊急着陸の可能性があるとして受け入れ準備中
18時50分、横田から303度、33マイル附近で機影が消えた
上記の各レーダー消失地点情報は、実際の墜落現場よりもそれぞれ大きく北(および東)へぶれている。しかし、事故機は墜落直前に北から東へ時計回りに旋回しているので、その辺りで高度が下がり、レーダーから機影が消えたものと考えられる。したがって、誤差は意外と小さいともいえる。
空からの捜索
- 19時15分
在日米軍C130ハーキュリーズ輸送機(アントヌッチ中尉搭乗)、雲の下に煙を発見。同機は、事故当時沖縄から横田に移動中で、伊豆上空を飛行中であった 。横田司令部の指示により、事故機の追跡(墜落現場の特定)に向かい、現場到着第1号機となる。
19時19分、位置確認(ラージファイア、フロム横田305度、34マイル)
航空自衛隊中央救難調整所(埼玉県入間市)を経て防衛庁空幕に伝わる - 20時50分
米陸軍UH-1救難ヘリコプター1機、現場上空着(座間基地発進)
21時05分、ホイスト(吊り上げ救助装置)を使用して乗員の降下開始、しかし、同時刻、上記2機に帰還命令(21時20分まで現場に留まる)
- 19時21分
航空自衛隊F-4EJ(ファントム)戦闘機2機、現場上空着
横田TACAN300度32マイル、炎上中 - 20時30分(あるいは21時03分)
航空自衛隊MU2S救難捜索機、現場上空着 - 20時42分
航空自衛隊V-107(バートル)ヘリコプター1機、現場上空着
150から200m四方にわたって山腹炎上
横田TACAN299度35.5マイル - 01時00分頃(13日)
航空自衛隊V-107(バートル)ヘリコプター、現場上空着(入間発進)
入間TACAN291度36.3マイル(最も正確な位置測定)
- 21時06分
朝日新聞社ヘリコプター「ちよどり」、現場上空着(羽田発進)
前方に飛行機・ヘリの衝突防止灯確認(数機分あり)
羽田空港から304度、60マイル
自衛隊公式発表による墜落地点
2005年08月11日追記
第1回:21時56分(12日)
峯岡山レーダーから機影が消えた地点、北緯36度02分、東経138度41分 。この位置は、御巣鷹山の<北北西>(方位343.68度)2.378km、カマガ沢右岸(東側)中段の地点にあたる。なお、緯度は御座山(おぐらやま、長野県)とほとんど変わりない。 ところが、墜落発表地点は、<長野県>北相木村、御座山<北>斜面とされた。レーダーの示した位置からは、西へ約6.7kmずれている。
22時03分、NHK報道「御座山北斜面が炎上中」
その後、日航も墜落現場として上記位置を正式に公表
第2回:02時20分(13日)
ぶどう峠から210度、3マイル
<長野県>南相木村御座山<南>斜面、頂上から1km
V-107 (入間基地)によるタカン測定値(各測定値中もっとも正確)が得られた後に発表された墜落地点である。しかしその位置は、計測地点から北西へ約8.6kmもずれている。
第3回:04時39分(13日)
群馬・長野<県境>の三国山の西約3kmの扇平山の北約1km
第4回:時刻不明
<群馬県>側の鎌ヶ山(1362m)あたり
自衛隊はプロの戦闘集団である。敵味方の位置関係を正確につかむことは、戦闘における基本中の基本であることをよく知っている。その自衛隊で、レーダーやタカンによる計測位置を地図上に落としたとき、このような誤差がでることなど絶対にあり得ない。そこには、何か隠された意図があったと考えられる。
自衛隊としては、人々を現場に近づけたくない何らかの理由があったのだろう。そのため、墜落地点は長野県側とする誤った情報を、意図的に流し続けた可能性が非常に高い。つまり、測定値を地図上に落とす作業の過程で作為的な操作が行われた、と考えられる。
また、自衛隊では夜間飛行訓練(夜間降下を含む)は日常的に行われていた。したがって、当夜の墜落現場への降下作業について、全く不可能であったとはいえないようだ。
御巣鷹山の北方の林道では、群馬県警捜索隊が入るよりも前の時間帯(当日夜)に、青い信号弾、サーチライト状の光の動き、その後ですれ違った2000ccクラスの乗用車(背広姿の男性二人乗車)など、 不可解な光景が民間人によって目撃されている。
また、日が改まった深夜に出発した捜索隊は、ヘリコプターのサーチライトによる点滅合図を2回観察している。そして、2回目のときは、県警機動隊もサーチライトを点滅させて答えたという。これらの現象は、複数の組織が互いに連絡を取り合っていた可能性を示唆している。
今まで決して公表されることのなかった組織が、墜落現場周辺で活動していたのだろうか。米田憲司著「御巣鷹の謎を追う」宝島社(2005年)P.100-101には、自衛隊および警察の捜索・救難活動の遅れの真相について、次のように推定・分析するのが最も合理的で自然である、としている。
「自衛隊が何らかの不安を感じて関与の有無を確認するため、地上からの接近を遅らせるための時間稼ぎをしていたのではないか、(中略)捜索隊や報道関係者を遠ざけた( 一部略)その裏で空挺団を先乗りさせ、現場の状況を空中からではなく、地上から把握させたのであろう」
「この二十年間に取材や体験で知り得た材料を解明したものと未解明とのものに分け、ジグソーパズルの盤にピース一つひとつを当てはめていったら、このような結論になったということである」
なお、群馬県警本部長あるいは県警機動隊に、このような情報が伝えられていたかどうかは全くわからない。
米軍機、自衛隊機、マスコミ機、いずれも炎上する現場を視認しながら、正確な地点落しはできなかった。その理由としてあげられたのが、複雑な地形に加えて月のない闇夜の中を、土地勘の全くない場所で基準点を見つけ出すことは、想像以上にむつかしい 、というようなものだった。
しかし考えてみれば、レーダーやタカンの測定値を得るのに、闇夜も何も関係ない。そして、得られた測定値を地図上に落として現在位置を確認する作業も、それほど難しいことではないという。
上記著者米田憲司は、航空関係者が機上で使用する地図である五十万分1(区分航空図)とプロッター(航空用の分度器とマイルを刻んだ物差し)を調布飛行場で購入して 、レーダーやタカンの計測値を基に自分で作図している。
こうして求めた緯度・経度を、国土地理院地形図(二万五千分1または五万分1)に落とせば、実際の場所は簡単に特定できる。なお、例えばタカンそのものによる誤差(3~4km)は、当然のこととしてプロの間でも容認されている。
東京での当日のデータ:
月出00時22分、月没15時38分
正午の月齢、25.127
The Moon Age Calendar参照
http://www.moonsystem.to/
なお、地図の縮尺をみるとき、”大縮尺”の地図の方が”小縮尺”のものより詳細な地図だといえる。そして、大小縮尺の考え方は小数点に直してみると分かりやすい。
二万五千分1=0.00004(小数点以下5桁)、大縮尺
20万分1=0.000005(小数点以下6桁)、小縮尺
空と地上の連携プレイ
13日01時00分
墜落位置確認のため、空と地上で連携プレイが試みられた。大型ヘリが現場上空でサーチライトを照射する、ぶどう峠のパトカーが赤色灯で応ずる、という計画であった。しかし、結局はうまくいかなかった。理由として、次の二点があげられている。
通信系が異なり、ヘリとパトカーが直接連絡をとる手段がなかったこと
現場とぶどう峠の間は直線で約8km強あり、距離がありすぎたこと
しかし、22時00分頃ぶどう峠にいた長野県の消防職員は、自衛隊ヘリコプターの照明を眺めていたという(推定距離8.44km)。 また、群馬県側から入った地上捜査隊は、この連係プレイがあることを知っていた。彼らは、ヘリの赤い電灯を確認し、明るいライトが照らされたのを見ている。
地図とコンパスさえあれば、事故現場の上空400m以上にあるヘリコプターの灯りを頼りに、ぶどう峠からの<方位>を確認することができた可能性は高い。そのことによって、
・御座山説完全否定
・初期情報(北緯36度02分、東経138度41分)は北に偏り過ぎている
・ぎりぎり群馬県側の可能性大
といった判断ができる。
ところが、両地点間には県境尾根から流れる支尾根が幾重にも重なっており、方角だけで場所の特定(どの尾根、あるいは沢)はできない。そこで、三国峠でも同様の操作をすれば、クロスベアリングによって位置を特定することができたはずだ、と一旦は納得してもう一度考え直した。
ぶどう峠・三国峠間は直線距離にして11.289kmで、事故現場はこの二つの峠の間にある。したがって、両峠からは、現場上空400mより高い高度にあるヘリコプター等の灯りを、手前の山々にじゃまされず見通すことは可能である。
しかし、 両峠から測定した<方位>をクロスさせて事故現場を特定する(クロスベアリング法)ことは不可能といえる。なぜならば、事故現場はほとんどこの二つの峠を結ぶ直線上にあるため、両峠からは事故現場をお互いに真反対の位置からみることになるためである。
クロスベアリングはできないものの、二つの測定結果から、墜落現場は<ぶどう峠と三国峠を結ぶ線上>(群馬県側)ということは確定できる。
カシミールでどこまで検討可能か
ぶどう峠から三国峠方向を見た場合
<長野>・群馬県境尾根から群馬県側に流れる支尾根の左裾に、<埼玉>・群馬県境尾根(1730m~1790m)を見る。その南西にある三国山は、支尾根で見えるか見えないかギリギリのところとなる。そして、埼玉・群馬県境尾根の手前の少し低い位置に、1530m~御巣鷹山の尾根を見る。
ヘリコプターを上下させて機影がどこで消えるかを観察する。そして、御巣鷹の尾根のこちら側で、県境から流れる支尾根の位置まで機影が消えないならば、仲ノ沢の可能性大。尾根の向こう側に消えれば、大蛇倉沢、長戸沢(支流のスゲの沢を含む)となる。
なお、埼玉・群馬県境尾根の向こうに、山梨・埼玉県境の雁坂嶺から北東方向、埼玉県側に延びる尾根上の2018mピーク辺りが見通せるようだ。
三国峠からぶどう峠方向を見た場合
手前の県境尾根がじゃまになり、あまり面白くない。そこで県境尾根(三国山)まで押し登った場合、ソフト上は墜落現場そのものを視認できるとなっている。また、ぶどう峠と同じようにしてヘリコプターを追いかけた場合、墜落現場に近いだけに、長戸沢支流のスゲの沢と断定できる可能性は高い。ただし三国山山頂まで当日踏破可能な状態だったかどうか、当Web管理人には分からない。
もう一つの観察地点として、長野県川上村の三国登山口から、長野・群馬県境(高天原山と三国山の中間点)に登っても同じ作業ができるはずだ。この登山道は、実際に長野県警捜索隊によって翌日踏破されている。(ただし、この辺りからは現場を直接視認することはできない)
20時07分、臼田署パトカー、ぶどう峠着
20時42分、航空自衛隊ヘリ、現場上空着
20時50分、臼田署捜査車、三国峠着
事故当日の早い段階で、空と陸の連係プレイさえできれば、墜落地点をある程度絞り込むことは可能であった、と考えられる。少なくとも長野県側という誤情報の訂正は簡単にできたはずだ。
現場は群馬県側の可能性あり
事故発生の直後から、墜落現場は<長野県>側とする様々な<誤>情報(佐久説から始まり、碓氷峠説、ぶどう峠説、そして御座山北斜面説など)が飛び交っていた。しかし、長野県内をいくら探しても現場らしきものは見つからない。長野県の地形はなだらかで人家も道路も奥深く入っている。もし現場が長野県側ならば分からないはずはない。ひょっとすると群馬県側かもしれない。
そこにくわしい緯度経度の情報がもたらされ、現場は(長野県側ではなく)群馬県側の可能性も高まってきた。以下、河村一男著書を参考にして、群馬県警本部の立場で動きを追ってみた。
12日22時05分
運輸省羽田RCCから警察庁に連絡が入る
「現場は、北緯36度02分、東経138度41分、長野県南佐久郡北相木村、御座山(おぐらやま)の北斜面」
12日23時00分
運輸省航空局配布資料(政府日航機事故対策本部第一回会合用)
「航空自衛隊の確認の結果、北緯36度02分、東経138度41分、御座山の北斜面」
さらに、事故当事者の日航では、22時00分過ぎから上記情報を使ってしきりに広報している(自前の情報なし)。
この緯度経度の情報は、峯岡山航空自衛隊基地において、”レーダーから機影の消えた地点”の数値を解析して地図に落としたものだという。実際の現場からは少しずれているが、この程度は誤差の範囲といえるようだ(レーダーやTACANの誤差は+-5kmとされる)。
さて、「御座山」という地名自体には何の根拠もなく、完全な誤報であった。それにもかかわらず、テレビで大きく報道されたため、あらゆる情報が御座山(長野県側)を中心に廻り始め、大きな混乱を引き起こす基となっていた。そうした誤った地名情報が、正しい緯度経度情報と安易に結び付けられて流され続けた。
これに対して長野県警は、22時過ぎには「御座山に該当なし」と発表している。また、事故現場として示されたこの緯度経度では御座山はありえない。距離が離れすぎている (6.614km、緯度はほぼ同じ)のだ。地図でちょっと確認すれば済むようなことだが、皆が手間暇を惜しんでしまっていた。
12日23時08分
警察庁から群馬県警本部に情報が入る(確認のためという趣旨だった)
「航空機の炎上を目撃した位置は、北緯36度02分、東経138度41分」
この時、警察庁の発信者によって御座山(長野県)という地名情報は意図的にカットされていた。錯綜する情報を自分なりに検証した結果、 「御座山」はあり得ないとして、シンプルに緯度・経度の数値のみ伝達したのだ。
確認のためという趣旨で群馬県警本部に<初めて>もたらされたこの緯度経度情報の持つ意味は大きかった。地図に落としてみると、県境すれすれ、ひょっとすればこちら(群馬県)側という地点になる。
いずれにしても、県境の山深い地点であることは間違いない。となれば、どちらの県側であっても、両県が一致協力して事に当たる必要がでてくるだろう。群馬県警の総力体制を敷いたうえで、県警本部長自ら最前線(上野村)に進出する決断を下す。
しかしながら、よくよく考えてみれば、この時点まで群馬県警にはその他の位置情報は全くもたらされていなかった、ということ自体驚くべきことといわざるを得ない。これに限らず、その後の情報も必ずしもスムーズには伝達されなかったようである。
第一次地上捜索隊
2005年08月12日追記:
自衛隊によって、墜落場所は長野県側とする誤った情報が、意図的に流され続けた。そして、正規の捜索隊が墜落現場に到着する前に、特殊部隊がそこへ踏み込んだ可能性がある。この墜落事故に対して自衛隊自身が関与しているかどうか、どうしても確かめたかったのだろう。
このような情報は、群馬県警本部長まで届いていたのだろうか。あるいは、現場の捜索隊長は知っていたのだろうか。
捜索に加わった地元の人たちの幾人かは、出発前の当日23時頃にはすでに、墜落現場は「仲ノ沢ではなくスゲノ沢」と確信していた。そこで隊長に意見具申したが聞き入れられなかった。上からの命令だ、として仲ノ沢の捜索にこだわり続けた。
その間に、捜索隊そのものが他のグループ(特殊部隊?)と連係プレーを行ったと見られる行為もあった。特殊部隊の活動をサポートしたり、他の人間を墜落現場に近づけさせないようにしていたのであろうか。
生存者(中学少女、客室乗務員-乗客として搭乗)の証言によれば、墜落現場には、最終的に救助された4人以外にも、生存者がいた可能性が非常に高い。自衛隊および警察による捜索・救難活動の遅れは致命的であった。
以下では、捜索状況について、河村一男(群馬県警本部長)著書を参考にして、2005年08月12日以前にまとめたものをそのまま掲載しておくことにする。同署の内容については、上記観点を含んだ上で読み直すべきと考える。
捜索状況について
2005年08月12日以前に、河村著を参考にまとめたもの
群馬県警機動隊32名、関東管区警察機動隊前橋小隊20名、同高崎小隊22名、上野村到着。猟友会会長以下8名と合流。直ちに村役場から三岐まで進出、 猟友会会長の進言により、隊を二分して捜索開始。
三岐を出発したのは、00時00分をだいぶ過ぎた頃であった。 なお、三岐を出発する頃には、現場の位置情報「北緯36度02分、東経138度41分」を受け取っていた。
- <隊長隊>仲ノ沢方面-事故現場のかなり北側を捜索
県機隊長以下12名、管機前橋小隊20名、猟友会会長以下4名
中之沢を経て仲ノ沢林道に入り(峠を越えて)栃倉沢(本谷の支流)の林道終点(全長22km)まで車使用。そこから車を降りて可能な限りの捜索を続ける。
04時00分頃、辺りがやや明るくなり始めた頃、隊長以下5名で徒歩による決死の山越えに挑む。ザイルを持って登山開始、山の斜面は50度位もあった。御巣鷹山北斜面そのものか、あるいは、御巣鷹山の北側にある1606mの尾根かのどちらかであろう。登山中、現地本部に戻るよう連絡が入る。
夜が明けて、ヘリが5~6機、南東の現場上空に飛来。その位置を御巣鷹山の尾根越しに推定すれば、スゲの沢、大蛇倉沢あるいは長戸沢のどこかだろう。いずれにしても、もうこちら側に用はない。
06時00分ちょっと過ぎ、三岐まで戻る
07時30分、現地対策本部着
昨夜から一睡もしていない。まだ朝食もとっていない。それにもかかわらず、7名のレンジャー隊員がヘリコプターで現場に降下することとなり、ただちに待機中のヘリに搭乗して現場に向かった。(第1陣の降下は10時25分(後述)、と記録にあるので搭乗まではしばらく時間があったのかもしれない)
そして、残りの隊員もレンジャー部隊を送り出した後、そのまま山へ引き返していった。なお、警察の道案内人としての猟友会の役目はここで終わっていた。しかし、中には再び山に入った人達もいる。
- <副隊長隊>本谷方面-事故現場入口を通り過ぎ、さらに南側に至る
県機副隊長以下12名、管機高崎小隊22名、猟友会副会長以下4名、数名の取材陣(新聞記者)を伴って、神流川本流沿いの林道を行く
03時50分、自動車行き止まり地点、徒歩でさらに奥をめざし長戸沢に入る
06時20分、造林小屋跡分岐点に達する(休息、捜索方面検討)
その時、「墜落現場は、御巣鷹山<南南東>」という無線連絡傍受
猟友会の進言は、"御巣鷹山南南東ならば、三国山に登り、そこから尾根伝いに向かうのが一番早い"、というものであった。副隊長隊は、三国山をめざして<左側>の長門沢"本流"に入る。ちなみに、<右側>支流が事故現場の”スゲの沢”である
07時34分、 周囲を見渡せる中腹の高みに立つ。振り返れば煙が上がっており飛行機の残骸らしきものも見える。地上からの現場視認第1号であった。しかし、隊の目的は現場到着である。
ところが、現場との間には谷と尾根があり、直接行くことはできない。そこで、一旦県境尾根に登った。そして、そこから尾根伝いに現場を目差すがルートを見つけることはできなかった。そのうち、現場には、ヘリから降下した自衛隊員、スゲの沢から登った消防団員が次々と到着した。
役目は終わった。下山する他ない。造林小屋跡に戻ったのは18時00分で、この間、結果的に食糧補給は一切なかった。三国山中で、熊笹の茂みをかき分け、しゃにむに登り下りした彼らは疲労困憊していた。
第二次捜索隊、第二機動隊第一大隊(案内人?)、第一次に引き続き入山
第三次捜索隊、13日5:00前、警視庁応援部隊到着、6:00前には上野村消防団員を道案内人として、ぶどう峠方面と本谷方面の二手に分かれて入山
(無線状態が悪く長野県警ヘリ現場確認の報届かず)
なんだかおかしい。第一次捜索隊の隊長班によって、墜落現場は御巣鷹山より南側と確定したはずだ。それなのに何故、ぶどう峠方面に改めて捜索隊を出さなければいけないのか。さらに、第一次地上捜索隊にもいくつかの疑問点がある。
第一次地上捜索隊、疑問1
事故現場の位置情報としてもたらされた、「北緯36度02分、東経138度41分」は、御巣鷹山の<北北西>(方位343.68度)2.378km、カマガ沢右岸(東側)中段の地点にあたる。なお、緯度は御座山(長野県)とほとんど変わりない。
この情報を、群馬県警本部長自ら唯一の正しい位置情報と考えていたはずだ。それにもかかわらず、下記参考資料P121には次のような意味の記述がある。
「現場は御座山という情報の元では、どうしても緯度を高め(北)に受け止めざるをえない。もし南部県境稜線近くであると比定されていれば、全員を本谷に投入していただろう。捜索班を二班に分けたのは至当な判断であったが、結果的に(北側の仲ノ沢方面に向かった隊長隊が)無駄弾となったのは、悔やまれてならない。」
これでは、せっかくつかんだ位置情報を<ほんとうはきちんと把握していなかった>ことになる。この情報を素直に読み取れば、<隊長隊>の捜索範囲であった御巣鷹山北側の仲ノ沢方面こそ"大本命"であったはずだ。<北>にずれ込んだ情報となってしまったのは結果論でしかない。
<隊長隊>は、カマガ沢左岸(西側)の仲ノ沢林道を<南>に向けて遡上し、カマガ沢上部を南から<北東>の方角に回り込んでいる。まさに、上記の"事故現場推定地点"を包み込むようにして走ったことになる。
それにもかかわらず、現場発見に向けて突き進んだという気配はまるで感じられない。大切な位置情報は、通信によって数値のみ教えられ、具体的にどこの地点をさすのか指示はなかったようだ。
指示する立場の県警本部で使用した地図は以下の2つだという。
上野役場編集4万分1富士波版(緯度・経度標示なし)
日本分県地図地名総覧(群馬県分26万5千分1、長野県分36万分1)
国土地理院地形図(2万5千分1または5万分1)は使用した形跡がない。
捜索隊も地図とコンパスは携行していなかったのだろう。猟友会会長以下、山に精通した人たちの案内があったとはいえ、こうした山の必須小道具を携行していなかったことは惜しまれる。<副隊長隊>においては、地図とコンパスの役割はもっと大きかったと考えられる。
第一次地上捜索隊、疑問2
<副隊長隊>が現場を視認した場所はどこであろうか。当Web作者は、河村著書の記述を参考にして以下の場所であると推定する。すなわち、長野・群馬・埼玉の三県境(三国山近く)から北北東に向けて、<埼玉>・群馬県境尾根(1796m~1730m~)が続いている。そして、1730mから北西(群馬県側)に支尾根が流れる。この支尾根の中腹こそ、飛行機の残骸とそこから立ちのぼる煙を目撃した場所である。
なお、墜落現場には民間人のグループ2つが早い時期に踏み込んでいる。立命館大学深井教授グループ4名もその内の一つである(10時25分頃到着)。取り付き口は南相木村三川林道であり、8時40分頃、県境尾根辺りから、副隊長隊のあげた第二回目の狼煙を撮影している。この写真を分析すれば、副隊長隊のその時刻の現在位置がはっきりするであろう。
河村著書の記述には、取り扱う資料の内容によって多少の齟齬が見られるようだ。また副隊長隊が実際にどこまで前進したかははっきりと書かれていない。(以下参考までに 、断片的な情報を列記しておく)
周囲を見渡せる中腹の高みに立つ。
振り返れば煙が上がっており飛行機の残骸らしきものも見える。
(視認地点から)頂上(県境尾根)までは、2時間くらいかかると思われた。
(視認地点から)反転して現場に至るには、4時間を要すると考えられた。
(墜落地点視認の)約1時間後に"ひとつの尾根"にとりついた。
この方角は、二万五千分1地形図を見る限り、<南>から流れ落ちる長戸沢本流から、さらに<東>に偏っている。副隊長隊は、あくまでも県境尾根伝いに現場をめざそうとした。ところが、そこから現場に至るには、まず<埼玉>・群馬県境稜線に登って 、それから三国山手前(埼玉・群馬・長野県境)まで<南下>し、さらに<長野>・群馬県境尾根を<北上>しなければならない。非常な大回りという感は否めない。
三国山をめざすならば、長戸沢本流を素直にあくまでも<南>に遡上すればよいのではないのだろうか。古三国峠や旧三国峠が三国山近くを通っていたというから、踏み跡は残っていなくても歩ける地形にはなっていると思われる。 それよりなにより、"反転"して一旦長戸沢本流まで下山した方が時間的には早かったと考えられる。
今日2004年09月18日、河村著書添付の地図について重大な疑問点を発見した。同地図で、埼玉・群馬県境上「空峠1796m」とあるのは、そのさらに北の1730mの位置のことである。つまり、副隊長隊が現場を視認したと、当Web作者が考えている地点に一番近いピーク(1730m)が、同地図では、「空峠1796m」と誤って表記されていることになる。
同書添付の地図の一つである"現場付近の鳥瞰図"P5によれば、この誤って表示されている「空峠1796m」(ほんとうは1730mのこと)を通って、真っ直ぐに三国山に至るかのような表現となっている。これは地図表現 (鳥瞰図)の誤魔化しだ。二万五千分1地形図を広げればすぐに分かる。1730mは、明らかに<東>へ偏っているため、現場からはどんどん遠ざかる位置にある。
なお、三国山より西側から墜落現場に至る途中の状態、及び所要時間等については、長野県捜索隊の動きが大変参考になる。(翌13日の捜索活動-後続部隊、参照)
ところで、「墜落現場は、御巣鷹山<南南東>」という無線連絡を傍受した時、なぜ、御巣鷹山により近い"スゲの沢"(長戸沢支流)に入るという発想がなかったのだろうか。
墜落現場の位置情報が、御巣鷹山<北北西>直線距離約2.4kmから、御巣鷹山<南南東> (距離情報欠落)に変わった。ということは、御巣鷹山の真反対の位置に変わったということだ。御巣鷹山からそれ程遠くない地点と考えるのが妥当なところだろう。
御巣鷹山の<南東>ならば、長戸沢本流(御巣鷹山から少し遠ざかる)でよいかもしれないが、きめ細かく<南南東>となっている。この情報に素直に従えば、"スゲの沢"(御巣鷹山の近く)の方が本命となる。
副隊長隊は、地図とコンパスを携行していなかったため、自分たちの現在位置と墜落現場との位置関係をしっかりと把握できていなかった。そのため、猟友会の進言のみに頼ってしまい、三国山のさらに東側から県境を大回りして現場をめざすという行動を招いたものと思われる。
実は、この位置情報(長野県警へり群馬県と断定、05時37分)には、もっと多くの情報(次項参照)が含まれており、それらは明らかに"スゲの沢"を示していた。そしてこの時、副隊長隊は"スゲの沢"のほんの入口に立っていたのだ。群馬県警全般に通信状態が悪く、直接きちんとした情報を受け取ることができなかったことが悔やまれる。
翌13日の捜索活動
空からの現場確認作業を再開→確定
墜落事故翌日、13日の上野村での日の出は、05時00分(前日の日没18時33分)とされている。この前後の時間帯には、すでに自衛隊や報道機関のヘリによって、現場確認作業が再開された。
04時55分、陸上自衛隊HU1機、機体視認(立川基地発進)
三国山北西約2km
など
報告された位置情報の基準点は、三国山、御座山、そして御巣鷹山とまちまちであるが、それらを総合的に判断すれば、御巣鷹山よりも南側で、"スゲの沢"の確率が高いものとなっていた。
しかし、これらの情報はいずれも群馬県警現地警備本部に届いていない。通信状態が非常に悪かったというのがその理由とされている。
05時37分、長野県警ヘリ「やまびこ」の無線傍受
「墜落現場は、群馬県の御巣鷹山と三国峠を結ぶ線上の中間点。御巣鷹山から南南東約2000m、県境より約700m群馬県に入る。機体の残骸はすべて群馬県側に散乱、主翼の一部は山腹にある。」(05時30分現場上空到着)
なお、河村著書は、(墜落現場は県境から)実際は500m、と訂正を入れている。しかし、ここは報告通り約700mが正しい。
07時30分、埼玉県警ヘリ「むさし」群馬県警本部捜査第一課長等を乗せて、上野村総合グランドを飛び立つ。(群馬県警、当時ヘリコプター所有せず)
07時45分、むさしから報告、(上空から)墜落現場確認、ポラロイド写真撮影
08時10分、ポラロイド写真が対策本部に届く
墜落現場は間違いなく上野村地内、20年余り前、山火事跡にカラ松を植林したスゲの沢上部国有林である
長野県警レンジャー降下(現場のかなり下流)
07時55分、レスキュー隊員2名、ホイスト(吊り上げ救助装置)により降下
10時40分、日航機墜落地点(第4現場の北斜面)中腹に至る
直接現場に降下すると、ホバリングによって再び火災を起こす危険性がある。そこで降下場所に使ったのは、墜落現場のかなり下流(スゲの沢)にある砂防堰堤でできた中州であった。長戸沢本流とスゲの沢との分岐より少し上流である。河村著書では、その場所を「現場から約2km下流」としているが、現場-分岐間で直線距離約1.4kmしかない。
両隊員は機上から見た地形を思い出しながら、沢沿いの道なき道を現場めざして登っていった。途中(推定10時25分)、水平尾翼の落ちていた地点では、そこまで登って周辺を探索した。人の気配はまるでなかった。再び沢に戻る。
そこで、数名に追いつかれて、現場をたずねられた。
「(現場は)この沢の上部右側の尾根である」、と答える。
それぞれが、消防のハッピを着たり、営林のヘルメットをかぶったりしていた。
再び山に入った猟友会の人たちも含めた一団で、後には、消防、警察部隊が続いているらしい。相前後して、朝日新聞記者と名乗る3名とも会った。
尾根の先端部にぶつかり、さらに北へ分岐した沢(スゲの沢第3支流)に入る。
10時40分、日航機墜落地点(第4現場の北斜面)中腹に出る。そこで、自衛隊員3~4名と出会う。彼らはすでに上部で4遺体を確認していた。
自衛隊、現場尾根に降下
08時49分~、空挺部隊(習志野)73名、現場降下開始
陸上自衛隊第一空挺団普通科群が降下
航空自衛隊木更津第一ヘリコプター団V-107(バートル)、6機使用
事故機が最初に激突したと思われる地点 から、リペリング(ヘリからロープを伝って地上に下りること)を行った。降下できるポイントがせまく、1機づつ順番に降下せざるを得なかった。また斜面は40度近くの傾斜があり、降下に要した時間は、1機10名で10分、3機で30分かかった。(残り3機は相馬原で待機中)
ところで、深夜の山岳地帯でのロープ降下について、米軍はできるといい、自衛隊は難しいとした。日ごろの訓練内容の差が出たということだろう。地元自治体との共同訓練等の問題も含めて課題は残されたままとなっている。
群馬県警、現場降下
群馬県警はこの当時ヘリコプターを所有していなかった。したがって、レンジャー隊といえども、ヘリからの降下訓練はただの一度も行ったことはない。ぶっつけ本番の大勝負となった。さらに、最初の予定とは異なり、第二陣としてレンジャー隊以外の人達も降下したようである。
10時25分、レンジャー部隊3名、尾根上に降下(警視庁ヘリ「おおとり」)
10時40分、レンジャー部隊以外?の10数名降下(自衛隊バートル使用)
第三グループ(レンジャー部隊4名)待機中
猟友・消防団員
10時35分(推定)、グループA(猟友会3名、消防団4名以上)
スゲの沢第3支流先端部(索道土場)の少し上の斜面に至る。途中で長野県警レンジャー2名を追い抜く。到着時、深井グループ(民間人)と会う。
同時刻、グループB(猟友会4名、消防団数名)、スゲの沢第4支流(尾根南側)に踏み込む。
後続部隊
10時50分、消防、警察、自衛隊、取材記者
スゲの沢第3支流先端部(索道土場)に至り、生存者の救出に合流する。
12時35分、第一次地上捜索隊(隊長隊)、現場尾根到着
隊長はこの日から32泊35日(二夜だけ打ち合わせで下山)山中に留まる
長野県警管区機動隊・長野小隊と同第二機動隊49名、地元消防団7名
09時45分、川上村ヘリ基地出発
10時15分、三国山西斜面到着
高天原山から墜落現場を視認後、さらに尾根伝いに進む
記録には、「沢や谷は深く、尾根は急峻で、熊笹、木の根等に掴まりながら、地を這うような状態で行進した」とあるそうだ。
長野県警管区機動隊・松本小隊と同第二機動隊52名、地元消防団3名
10時30分、川上村ヘリ基地出発
13時40分、長野小隊に追いつくような形で現場到着
自衛隊松本第13普通科連隊
三国山方面から入山開始
11時30分頃到着
(民間人グループ)
09時00分(推定)、長野県中野市スポーツマン2名
南相木村側から踏み込み、南斜面上に至る。稜線で捜索中の自衛官と会う。
10時25分(推定)、立命館大学深井教授グループ4名
南相木村三川林道側から踏み込み、現場北西斜面方向に至る。そこで、猟友・消防団員Aグループと会っている。スゲの沢第3支流先端部(索道土場)最初の到達者と思われるが、生存者を発見しないまま下山。なお、8時40分頃、県境尾根辺りから、第一次地上捜索隊(副隊長隊)があげた第二回目の狼煙を撮影している。
<生存者発見>13日午前
10時45分、第一報、生存者がいる模様
生存者の発見場所は、スゲの沢第3支流先端部(索道土場)
第一発見者は、<長野>県警レンジャー隊員とされている。そして第一報は、長野県警管区機動隊と携帯無線機でコンタクトし中継された。この時、長野機動隊は川上村消防団員の案内で、三国山西方から長野・群馬県境尾根を現場に向けて進行中であった。
発見の順番は、<非番女性乗務員>、主婦、その娘(小学少女)、中学少女
救出(引き出し)の順番は、<主婦>、小学少女、中学少女、女性乗務員
12時前後、急造担架で北斜面を尾根まで担ぎ上げられた
(垂直差110m、水平差220m、平均斜度30度)
その後、群馬日赤の医師・看護婦各2名ヘリで現場に降下(応急手当)
参考:13時15分、上空から現場を視察した運輸大臣(消防庁長官同行)搭乗ヘリコプターが、上野村総合グランドに着陸。ただちに村役場にて状況説明を受けた後、大臣会見が開かれた。この間、生存者は現場で1時間半もヘリの到着を待たされた。数少ないヘリコプターを政府高官のために優先使用したものと考えられる。
13時20分~27分、ヘリコプターに収容
吊り上げの順番は、小学少女、<中学少女>、主婦、女性乗務員
未成年は、それぞれ自衛隊員が一人づつ抱きかかえて吊り上げた
大人の場合は担架を使用した
13時50分、いったん上野村の遭難対策本部ヘリポート(総合グランド)着
14時20分、藤岡の総合病院収容(上野・藤岡間の移送で多少混乱あり)
事故発生以来20時間が経過していた。その後、入院先変更例あり。
14時50分、実況見分開始
遺体の収容が始まる
14日07時00分、尾根上に応急ヘリポート設置
HU-1H一機着陸できるほどの広さ(東西-尾根筋15m、南北8m)
09時40分過ぎ、収容遺体の搬送作業開始、ヘリコプターで藤岡市へ
10時10分、検視開始(藤岡市民体育館)
参考資料
御巣鷹の謎を追う
-日航123便事故20年-、米田憲司著、宝島社(2005年)
日航機墜落
-123便、捜索の真相-、河村一男著、イースト・プレス(2004年)
隠された証言
-日航123便墜落事故-、藤田日出男著、新潮社(2003年)
墜落遺体
-御巣鷹山の日航機123便- 、飯塚訓著、講談社(1998年)
米田憲司(よねだ・けんじ)氏略歴(上記書籍著者紹介より)
1944年大阪市生まれ、ジャーナリスト(しんぶん赤旗社会部)
航空、鉄道、軍事、環境、司法問題の分野で活躍。
河村一男(かわむら・かずお)氏略歴(上記書籍著者紹介より)
1931年山口県生まれ、熊本陸軍幼年学校在学中終戦。1985年に発生した日航ジャンボ機墜落事故では、群馬県警察本部長として、事故対策本部長を務める。
藤田日出男(ふじた・ひでお)氏略歴(上記書籍著者紹介より)
1934年京城(現在韓国ソウル)生まれ、運輸省航空大学校卒、日本航空パイロットとして乗務するかたわら、航空安全活動に尽くす。
アマゾンレビュー
「御巣鷹の謎を追う」米田憲司著、宝島社(2005年)
日航123便事故の「真相解明」をはばんだものは何か
(アマゾンレビュー、akimasa21、2006/01/29)
今から20年前、1985年8月12日18時56分、日航ジャンボ機JAL123便は、長野・群馬県境の群馬県側山中に墜落した。しかし墜落現場の特定すらその日のうちには出来ず、4名の生存者(いずれも女性)が発見されたのは翌日の午前10時45分であった。
彼女たちの証言によれば、墜落直後しばらくの間は彼女たち以外にも生存者がいたことは確実である。自衛隊および警察による捜索・救難活動の遅れは致命的であった。なぜもっと多くの人たちの命を救うことができなかったのか。この事故で残された大きな課題の一つである。
現場に一般人を近づけたくない何か重大な理由があったのであろうか。墜落直後、現場上空に真っ先に到着したのは、在日米軍C130ハーキュリーズ輸送機(アントヌッチ中尉搭乗)だった。そして12日19時19分には、墜落位置情報を発信している。この情報は航空自衛隊中央救難調整所(埼玉県入間市)を経て、直ちに防衛庁空幕まで伝わり、そして日本航空にも非常に早い段階で達している。
米軍機に続いて、自衛隊機、民間機も現場上空に到着した。その他、各地のレーダーによる計測値も多数ある。計測、作図から地図への落とし込みまで、時間のかかる作業ではないようだ。このようにして求められた緯度経度情報は、いずれも墜落地点の回りに正確にバラついている。これだけの証拠がありながら、なぜ最後まで墜落現場は<長野県側>だったのだろうか。そこにはミス・リードを狙う自衛隊の強い意志表示が見え隠れしている。
「日航機墜落」河村一男著、イースト・プレス(2004年)
地図とコンパスがほしかった
(アマゾンレビュー、akimasa21、2005/9/12)
JAL123便の捜索・救難活動が遅れた原因は何だったのか。著者の河村一男群馬県警察本部長(当時)は、「責任者の代表として正しい事実を書き残せ」ているのか。答えはNOである。本書を読み込むと、捜索活動には根本的な欠陥があったことが分かる。しかしながら、そのことをはっきりと書いた箇所は一つもない。
群馬県警では<大>縮尺の地図(国土地理院二万五千分1あるいは五万分1地形図)およびコンパスを用意していなかった。著者はこの大失敗に早い段階から気づいていたと思われる
「墜落現場は決して"御巣鷹の尾根"ではない」と繰り返し主張しているあたり、問わず語りに地図を強烈に意識したものとなっている。私は著者のこの主張には大賛成である。だからこそ、もっと率直に反省の弁を述べてほしかったと思う。
この本を書いたのは、日航機墜落事故対策本部長である。本書を他書と読み比べてみると、その他にも興味あるポイントが幾つか浮かび上がってきて、おもわず引き込まれてしまう。そういう意味で本書の存在意義は決して小さくはない。